マナライゼン連合王国とその歴史
マナライゼン連合王国
マナライゼン連合王国の起源はロンギーヌ・ウルス法王暦2年に結成されたマナライゼン教を信仰とする小国家を初代エカテリーナ女王が束ねることで始まったとされる。
当時、万次卿育を首席で15歳にして合格していたジャカレ・バスティン氏は成人後、若くして宣教師の名をあげ、数百年ぶりに再発見された最後の大地、北オクベアヌス大陸への布教を大艦隊と共に試みた。
当初は、ミノレアの海に飲み込まれ多くの大被害を受けたため、二度も出航は失敗した。しかし、ジャカレ氏の持つ特殊な能力により、怪奇現象の霊力を用いて捻じ曲げた空間を飛んだことで大陸に到着できたとされる。
ちなみに、その間の時間はわずか1ヶ月とされるが、彼らの航海写本によると、そこで別の異界を見たと書き記されていたそうだ。
その後、最も早く侵略した土地にパラグラフ教の基礎を敷いて土地開発、国家建設を行った。だが、自分たちの領土を奪われたガイア先住民はわずかに消えかけていた古代マナライゼン教の信者を過去の時間軸から、ガイア人の武装反乱軍と共に率いてジャカレ側を幾度となく苦しめた。
結果として、敗退したジャカレ側は土地の返還を余儀無くし、東へと移っていくこととなった。この戦いを機にマナライゼン教の大国家が誕生した。この小国家の群体を治めるべく、ジャカレ氏の反体制派であった彼の元義姉である初代エカテリーナがその地を支配したのだった。この一族は他の国々ごとに、また法王暦ごとに身元を縛られたところではなく、独自の文明理念と軍隊を持った前例無き家系だった。この一族は後の世代にも様々な活躍と名をあげてゆくことになり、それはマナライゼン連合王国の民衆にとっても、希望が具現化されたような存在だった。
だが、文明の発展として大陸上最大の強国となっていたマナライゼン連合王国にも終焉が間近に迫っていた。
時はラミスタルシア法王暦401年、大クロスシーア共和国誕生の年であるこの暦に、マナライゼン連合王国はふたつの旗に分裂することとなった。要因は、統治していた信仰宗教マナライゼン教からの独裁的な支配体制が、徐々に劣化していたためかと思われる。その結果、反乱を招いた代表首都ベテラントスとミネルヴァの制圧により、ベテラントスを代表都市とするガイア先住民の多くを持つ西ガイア・オロヌスサンリオ連邦開拓国、通称、西連邦。ミネルヴァを代表区画とする東マナライゼン帝国へと分かれたのだった。
66代目エカテリーナ族長は統治していた元マナライゼン連合王国の統治権を西連邦を代表するヤタナエル最高議長と東マナライゼン帝国を代表するザイオン皇帝に剥奪される芝居をしていたため、その地を離れ、法王国家の名誉存続の象徴として格大陸に設けられた法王を主権とする国であったイェードラス法王主権国に居座らせてもらうこととなった。後もマナライゼンの始祖扱いとなるエカテリーナ家はその先も世界中の暴君から畏怖の念を抱かれていた。もともとこの家系は女系一族であったため、後代に渡って教皇、女帝、女王などといった女性としての立場が多かった。結果としてマナライゼン連合王国は分裂した後も誇り高き国として、いつの世代までもその名を残した。
分裂した西側の国、西連邦はミノレア海に面していたため、商業や漁業、海軍、新大陸探検隊などの古典的分野を再度、復興させていった。評議会を主権として国家群の基盤を築いたことから、他の国々との交渉が多かった。その一方、大陸内に位置する東側の東マナライゼン帝国は完璧な皇帝主権国ではなく、帝国評議会を皇帝の代理議会とすることで民衆の声を得ていた。そして有数の完全軍事国家であり、他の諸国家は爆弾扱いとされていた。この国はその後、何度も戦争を勃発させた要因となったことから、東マナライゼン帝国の関与した戦いは30年戦争と呼ばれるまでになった。
ラミスタルシア法王暦539年。3回目の30年戦争が531年に起きた皇帝暗殺事件を機に急速に弱体化したために終結した。そのため、539年の終わりに直接占拠に乗り込んできた西連邦との戦いになす術もなくなった帝国は民衆をさらに東に位置する当時、平和永続の国と謳われていたフィガンローナ王国に難民として送り、灰となった国全体を隠滅させるために燃やし尽くした。
542年に起きたこの時の歴史を人は炎のミネルヴァと呼ぶ。
勝利を手にした西連邦は次世代のパナサリーデ晩年まで、その安定した繁栄を築いた。文字通りの西連邦としての機能を失ったため国名を改め、ガイアパレゴン連合王国と名乗った。国土を拡大化させたガイアパレゴン連合王国はその後、未知なる時代へと、次元を越えて消失したとされている。かつての存在記憶を消し、新たな世界にかの国は存在するのかもしれない。
マナライゼン連合王国とその歴史