三味線小町浮世手事

  

ゆきづりの縁かと思い諦めて 

行けども未練の積もり雪

葦をとられし鯉の身は

色を隠して浮世川 

流れに任せ渡り橋

落とす涙の柳雨

晴れにし明けの鐘の音に 

思い切りたや艫の綱

思い切りたや艫の綱   


  
           師匠番付


 「やい、平吉!さっきから何度言やあわかるんでえ!朝っぱなからベンベンやりゃあがって。おめえの調子外れな三味を聞いてると、飯もゆっくり食えやしねえ。静かにしろい!」 鼠が開けた壁の穴から定八が叫んだ。「うるせえなあ!てめえのほうこそ下手なくそな義太夫一晩中うなりゃあがって、寝られたもんじゃあねえんだよ!」 仙蔵長屋の住民の中でも、平吉や定八のような大工職人は、このところの火事続きで、燃えた家屋敷の立て直しの為に引く手数多となり、給金は上がる一方で、余った金で大店の旦那衆よろしく、習い事に通う者も出始めた。髪結い床や風呂屋の二階に三味線を持ち込む手合いまで現れ、声色を間に入れて弾き語る上手な者には、役者顔負けの贔屓客がつく事もあり、湯屋団十郎、床山菊五郎と呼ばれる者もでる始末。習う者達の目的は芸の上達以外に、下心を持った者も多く、どうせ習うならとばかりに、器量よしの若い女師匠の家には、そんな俄か弟子達がわんさと押しかけていた。

 「お師匠さん、じゃあこれで。」「ああ、お茂ちゃん、気を付けてお帰り・・。」最後の弟子を送り出した真寿美はからからと格子戸を閉めた。「明日は節分かあ。寒いはずだ。」そう言いながら稽古場に戻ると、三味線の糸を緩め、和紙袋で胴を包むと布袋に納めた。そして、畳の上に弟子が置いていった管弦師匠番付を手に取り、火鉢を囲いながら自分の名を探すと、三味線の部・大関・寿み吉(端唄、小唄、地唄  人形町)とあった。


  
         老木の梅花
 

「お師匠さん、寿み吉姉さんがみえました。」「あっ、お師匠さん、そのままで・・。」真寿美は、床から起き上がろうとする年老いた三味線の師に声をかけた。「ええのんや。寝てばっかりいると、かえって身体がなまるよって。」、今年七十を越えたこの女性の名は、土原ハナ。夫は上方で名を馳せた筝の名手であった。先人の招きで江戸に出てきていたが、長年連れ添い、これも京で右に出る者はないと言われた三弦の弾き手の妻、ハナを残して三年前に他界していた。「あんた、番付で大関になったんやてなあ。」「恥ずかしいことです。」「うちの芸を継いでくれる者が出たよって、もうこれで安心して、あの人のところへゆける。」「そんな気の弱いこと、おっしゃらずに、早う元気になって、これからもずっと傍にいて教えてください。」「あんたに教えることはもうすべて教え尽した。ただ芸というものは終わりがないもんや。これからはうちが教えたことをもとにして、あんたが、あんたにしかできん芸を拵えていかないかん。それが出けて初めて先人の芸を継いだといえる、一人前の三味線弾きといえるんやで。よう覚えときなはれ。これがうちがあんたに一番最後に教えることやった。ああこれでほっとした。もう思い残すことはない。今のあんたみて、江戸にでてきて五十年務めたかいがあった。ようここまで就いてきてくれました。おおきに、この通りお礼をいいます。」そう言って頭を下げた稀代の三弦の名手土原ハナは、形見の三味線一棹を残して、今年の桜を見ること無く、好きだった梅の花が散り始める頃に、夫のもとへと旅立った。   



        小春日和

                                      
 「あら、大変!」絹は縫物の手を止め、慌てて外の洗濯者を取り入れた。朝は晴れていたのに、何時の間にか雪がちらつき始めていたのである。再び針を手にした絹は二刺し三刺しした後、縫物を置くと、そっと懐に手を入れ、八百屋の文七が持ってきた管弦師匠番付を開いて、我が娘の芸名を探した。「あった。寿み吉、大関・・。」一人娘の真寿美は、幼少の頃から気が強く、一度言い出したらきかない性分で、七つの時に連れて行った市村座で聞いた三味線が弾きたいと言いだし、そなたは武家の家柄、琴ならともかくも下々のものや、芸妓が弾く三味線などもっての外と、何度言い聞かせても聴く耳持たず、親に無断で密かに花街近くの三味線の師匠のもとに通って居る処を、たまたま通り合わせた父、兼近に見つかり咎められたが聞かず、お前のような娘は桐生家の恥だ、止めなければ親子の縁を切る、と言われたのを良いことに、家を出て師匠の家に泊まり込み、身周りの世話をするようになってから早や十二年の歳月が流れていた。人伝に人形町に、寿み吉という名で稽古場を開き、商家の娘や、芸妓らに三味線を教えているとは聞いていたが、我が娘が、まさか巷で持て囃され、番付に載るとは想像もしなかったことである。雪が止んだ小春日和を選んで、夫には、「寒い日が続き、実家の年老いた母が風邪をひいておらぬかと気がかりで様子を見て参ります。」と言い残し、使用人の次三郎を伴い、朝から拵えたおはぎを手土産に娘のもとへと出掛けて行った。    



         母と娘


 「お師匠さん、次のお方も初めてらしいです。」「御通しして。」、弟子が下がった後、入って来た足音に振り向いた真寿美は、三味線を倒し、思わず立ち上がってその顔を見た。「お母さま!」「お久しぶり・・。元気そうなので安心しました。」母のその一声に積年の想いが込み上げてきたのか、真寿美は声を詰まれせ、溢れる涙を堪え切れずに、絹を押し倒さんばかりの勢いで胸に飛び込み、そして泣き崩れた。「お母さま、会いたかった・・・。」「ほら、涙を拭いて・・・あなたらしくありませんよ。」そう言う絹の眼からも、一筋の涙がこぼれ落ちていた。「今日は朝から、大勢のひとが押しかけてきて、お昼食べられなかったの。」そう言って真寿美は、母の手作りのおはぎを美味そうに食べた。「番付の大関に載ったせいでしょう。でもそんなに多くのお弟子さん、こんな小さなお稽古場じゃあ入りきれないわね。」そう言って笑う絹に、真寿美が訊ねた。「お父さま、わたしのことまだ怒ってる?」「おととい、あの人の部屋の屑箱を掃除してたら、何が出てきたと思う?あの番付が丸めて捨ててあったわよ。」「ほんと!?」絹は微笑みながら頷いた。「だから、お父さまも、あなたのこと気に掛けてたんじゃあないの。あの人ねえ、ああ見えても、とっても気が小さいのよ。だって昔、私を花火見物に誘っときなんか、その夜は一言もしゃべらずに、手さえ握らないで、ただじっと黙って花火を眺めているだけだったの。」 絹は真寿美と話しながら、若いころの女友達と話しているような錯覚に陥り、あんなに幼かった我が娘の成長ぶりに改めて驚き、そして嬉しかった。いつかこうして成長した娘と、大人の女どうしの話きることを夢見ていたかもしれない、絹は、眼を輝かせて自分の話に聞き入る真寿美を見て、そう思った。   


 庭の鯉


  二、三尺もあろうかと思われる数十匹の、白字に鮮やかな緋色の鯉たちが、小春日の陽光に煌めく水面に大きな口をぱくぱくさせながら、餌を求めて右往左往していた。「して、橋の工事は順調にすすんでおるのか?」 最後の餌を投げ終えたその人物は、手をぱんぱんと叩きながら、傍にに竹箒を持って控える者に訊ねた。「はっ。今のところは支障なく。」「うむ。十数万の民衆が犠牲になったのだ。神君も納得してくれよう。それに橋の周囲には広々とした火除け場も設けなくてはならぬ。」「御意。」「上奏する者の言うことには、要らぬ気遣いや、思惑が見て取れる、こうしてその方が備に見た巷の様子も聴いておかねばならぬのよ。頼むぞ新兵衛。」「心得ております。」「堅苦しい話はこのぐらいにして、なにか面白い噂はないのかい?兵さん。むさ苦しい老中なんぞの話にゃあ、ほとほとうんざりして居る処さ。」「これを。」「なんだいこいつあ・・。おっ!管弦師匠番付か。で兵さん、一番いい女ってえなあこの横綱の富千代って玉かい?」「富千代は齢ことし六十とか。その次にあります、大関の寿み吉というのが三味線小町と言われるほどの美人で、俄か弟子が稽古
の順番待ちで列をなしているとか。」「へえ?そんなにいい女ならいちど顔をおがみてえもんだなあ。蔦屋の軒先に似顔絵がでたら、一枚え買ってきてくんな。それに一人もんなら男が居るかどうかも知りてえな。」「畏まって候!」「おおっと、兵さん、言っとくがその声色は成田屋のまねかも知れねえが、ちっとも似ちゃあいねえよ。もっと腹からしぼりだすように言わなきゃあな。」   



         俄か芝居


 「確か、この長屋だったと思うんだけど・・。」 真寿美は、半月も稽古に顔を出さない百合という娘の事が気になって、訊ね聞いて来た長屋の木戸を潜った。すると奥の井戸の近くの部屋の破れ障子ががらりと開き、「いや!放して!お父っつあん!助けて!」という悲痛な叫び声と供に、中から三人の博徒らしい男たちに両腕を掴まれた娘が出てきた。「うるせえ!静かにしねえと、痛い目にあうぜ!」「お百合ちゃん!」「あっ!お師匠さん。」「一体どうしたっていうの?この人達は何なの?」前に立ち塞がった真寿美に、「なんでえ、このあまあ、邪魔だどきやがれ!」そう言って肩に手を掛け、押しのけようとした男が、大きく足を空に向けて一回転しかと思うと、足元の下水板に叩き落とされ、「あっ痛!」と腰を抑えて起ちあがれなくなった。「この、あまあ!なめやがって!」そう言いながら同時に掴みかかってきた二人の手を、真寿美の白い華奢な指が簡単に振りほどき、軽く捻り上げると、男達は顔を真っ白にして「痛てえててて!頼む放してくれ・・。」と半泣き顔で懇願した。声に驚き集まって来た長屋の連中の眼には、俄か芝居としか映らなかったようで、「覚えてやがれ・・・。」といって、起ちあがれなくなった一人を肩に、去ってゆく三人の男たちに向けて、「ざまあみやがれ!おとといきな!」などと罵声を浴びせた。そして振り返るや否や真寿美に拍手喝采を送り、「いよ!巴御前!女座長!日本一!」などと声を掛け、「今の
良かったねえ!でこの役は誰がやって何処の小屋にかかるんだい?市村座かい?」などと口々に言いながら、それぞれの部屋に引っ込んだ。「お師匠さん!?」「私は大丈夫よ。どうしたの?ちゃんと話して。長い間お稽古休んでたから心配になって様子見に来たの。」     


  「そんなことなら、心配いりやせんよ。このあっしに任しておくんなさい。ちゃんと話はつけて参えり やすから。ただ十両たあ大金だ。」「それなら、辰吉親分。あなたのお月謝、当分の間、ただにするっていうのはどう?」「よろしゅうごぜえやす。義を見てせざるは勇無きなり、とか、おいらも江戸っ子でえ。それで手を打ちましょう!」「ありがとう!親分。でも、家でもちゃんと、おさらいをして来てくださいよ。」「すいやせんでした。きょうは帰えったらちゃんと。」

                                                          

        見回り同心

「おおっ寒む!昨日と打って変わって、なんでえこの冷え込みやあ・・。」「こりゃあ松井の旦那。ほんとですねえ、昨日はあんなに温かくて、いい日和だったのに。」「こんな日にゃあ 見廻り同心なんてなるんじゃあなかったって、つくづくそう思うよ。内勤めの連中はぬくぬくと火鉢を囲んでるのによう・・。」古道具屋の文吉はいつものように、湯気があがる湯呑みを差し出した。「すまねえ、気い使わしちまって。ふ~!・・・ああ、やっとひと心地ついたよ。ところで、最近変わったことはなかったかい?」「変わったこと・・そうさなあ。ああ、そうだ。あれはおとといの夕方頃でしたかねえ、遊び人風の男が一人、分にあわねえ見事な造りの脇差を持ち込み、お袋が病気なもんで薬代が要る、家に代々伝わるこんな物持って来たんだが、買ってくれねえかと。」「で、買ってやったのかい?」「初めて見る顔出し、盗品くさかったんで、家は町人相手の商売なので、この手の物は売れないからと断りました。すると半時ほどあとに、今度は、一輪挿しと香炉をもって現れ、それならと、買ってやりましたけど。」「その男の人相風体は。」「歳は三十前後、縞の着物に月代を伸ばし、苦み走ったいい男でしたよ。ありゃあ女にもてる顔だなあ。」「そうかい。ありがとうよ。商売の邪魔しちゃあいけねえ。そろそろ退散すらあ。またなんかあったら知らせてくんな。」「へえ、ご苦労さんで・・・。」

「脇差に、一輪挿し、それに香炉か、どれも侍屋敷にあってもおかしくはねえ代物だなあ・・。」硅次郎は、吹き荒ぶ寒風に腕を組み肩をすくめながらそう呟いた。   

「新佐さん。今日はここまでに、しときましょう。でもあなた、いい三味線お持ちですこと。何処で手に入れられたんです?」「こりゃあ、死んだお袋の形見で。お袋は、そのある大店の、何と言うか・・その世話になっていたもんですから。」「お母様の、そう。いいものですから、大事になさってくださいね。」「へい、ありがとうございます。じゃあきょうはこれで。」「お気をつけて・・・。つぎの方、どうぞお入りになって。」    


                                    
        版元


 「困ります。どうぞお引き取りください。三味線のお稽古なら喜んでお引き受けしますが、浮世絵のお相手などとんでもない。誰かほかの方をお探しになってください。」「私は、蔦屋さんから、是非ともあなたの絵を書いてきてほしいと頼まれて来た以上、もし何もせずに帰ったら、これから先、蔦屋さんから仕事を貰えなくなっちまうんですよ。家にゃあ女房子供もいる、家族を食わせていかなきゃあならないんです。お願いですから、師匠の絵を描かせてください。この通り、この通りです。」 そう言って絵師は頭を下げた。

 「あなたが、お版元の蔦屋さん?」帳簿を閉じ算盤を横に置いて、番台の男は前に立つ若い娘を見つめた。「はい手前が、蔦屋の主でございますがあなた様は?」「私は、人形町で三味線を教えるのを生業としております、寿み吉と申します。」「おお、あなたが寿み吉さん。なるほど・・聞きしにまさる小町振りだ。」「そんな事より、九衛門さんお入りになって。」呼ばれた絵師は肩をすぼめながら敷居を跨いで、真寿美の横に並んだ。「お版元、あなたはこの九衛門さんに、私の絵を書いて来なければ、次から仕事はやらぬといったとか。それは本当ですか?」「お師匠さん、私どもの商売はお客様に喜んで頂ける刷り物や絵草子を作って差し上げるのが仕事、そのためには暇を惜しみませんが、そのために人様を踏み台にしょうと思ったことは、一度たりともございません。もしあなた様が、絵の題材のなるのは真っ平と、きっぱりお断りになるなら、あなた様のお許しが無い限り、この蔦屋重三郎、神仏に誓って一枚たりとも決して刷りはいたしません。どうぞご安心なすってくださいませ。それにこの九衛門はうちの大事な絵師の一人、将来は歌麿や北斎を凌ぐ立派な絵師になって貰いたい一心で、ついきついことを申しましたが、それで、あなた様にご迷惑をお掛けしたとすれば、このわたくしの不徳ゆえのこと、どうかこの通り謝りますから、どうかご勘弁なすってくださいませ。」そう言って、頭を下げた。「さすが、江戸一と言われるお版元。それを聞いて安心しました。ほら、九衛門さん、わたしの言ったとおりの方だったでしょう?」 九衛門はきまり悪そうに、にやりと笑い頷いた。「それでは、お版元、お仕事中お邪魔してごめんなさい。では私はこれで・・。」帰ろうとする真寿美に、蔦屋が声を掛けた。「あの、師匠。」「はい。」「実は、寄合のあとの宴会の席で、なんの芸も出来ないもんで、ひとつ三味線でも習ってみようかと思うんですが、私にも弾けるようになるもんでしょうか?」「ええ!大丈夫。ちゃんと弾けるようにお教えしますから、手取り足取り。」「手取り足り・・。そいつはありがてえ。でいつから?」「明日からでもどうぞ!」そう言って真寿美はにっこりと笑った。

                                                            

                                          
        枕元 の金子

真夜中の、とある侍屋敷の塀をましらのように跳び越えた人影は、庭の草露の間を音もなく走り抜けると奥屋敷の縁側に駆け上り、雨戸と障子を音もなく開け、背中を向け寝ている女の肩をとんとんと叩いた。「あなた・・・どうかしたんですか・・・。あっ!曲も・・!」」振り向いた女の口を手で塞ぎ、匕首を首筋に当てると、「おとなしくしていりゃあ、危害を加えねえ。」そう言って、懐の手拭で猿ぐつわを噛ませ、寝間着の帯を解き両手を後ろで縛り上げると「金は何処でえ、。金さえ貰えりゃあ、あんたにゃあ何にもしねえから、安心しな・・。」


 「朝、眼が覚めるとこの金が枕元に?」「そうなの、私きみが悪くて・・。寝ている間に知らない人が入って来て寝顔を見られたっていうのも、気持ち悪いし十両もの大金、置いていったって言うのも訳が分からないの。」真寿美はそう言って小判を見せた。「師匠の寝間に入るなど、とんでもねえ野郎だ。ところで、師匠は最近金が要るようなことがあるとかないとか、誰かに漏らしやしませんでしたか?」硅次郎が聞くと、「いいえ。だって私誰からもお金を借りているわけでもないし、ただ。」「ただ、どうしたんです?」「実は、私の弟子で、お百合ちゃんって娘が、お父さまの借金に困っている話をしたことはあるんだけど・・。」「そりゃあいつのことで、何処で話したんです?」「おとといの夕方、この稽古場で、借金の相手は博ち打ちの人なので、丁度稽古にいらした辰吉親分にあいだに入って話をつけてもらおうと、お願いしたんです。」「で、辰吉はそれを引き受けたんで?」「ええ、十両とは大金だが。とおっしゃるのでじゃあ、しばらくの間お稽古代をただにしますから、という条件で。」「なるほど、それを誰か他のもんが聞いておりやしたかい?」「あの日はお天気も良かったので大勢の方たちが、入口まで並んで待っておられましたから。」「その連中の名を、覚えておられやすか?男だけでいいんですが。」

                                                          

         弟子の顔ぶれ   
                                     

「へえ。いろんな連中がおりやすねえ。お旗本や大店の旦那衆、太鼓持ちから、役者、噺家、大工、魚屋、床屋、大家、遊び人、それに歳も七十の爺さんから、十七の若い衆まで、占めて二 十七人か。本当にこの中に稲葉小僧がいるんですかねえ?」そう言って三次は硅次郎の顔を見た。「確かなことは言えねえが、師匠の話を聞いて奴が動いたとすりゃあ、隣の部屋で話を聞いていたと考えても不思議はねえ。他の連中、例えば大店の旦那なら眼の前で金を渡して、いいとこ見せ気を引こうとするだろうよ。真夜中に音もなく師匠の枕元に忍び入り、そっと金を置いていくなんぞは、奴のやりそうなことだぜ。しかし、八丁堀の同心のおいらが弟子の一人であるのを知らねえはずはねえ。盗っ人ならまず初めに眼を留めるだろうからなあ。もし知らねえとすればごく最近になって弟子入りした野郎か、或は知りながら、稲葉小僧ここにありって見せ付け、おいらの鼻をあかすつもりだったかのどちらかでえ。いずれにしても三次お前の出番でえ。奴のやりてえ放題の行状を放っとくわけにゃあいかねえ。なんとかお縄にして、八丁堀の意地ってえもんを見せてやろうじゃあねえか。」「分かりやした。じゃあ早速当たってめいりやす。」「頼んだぜ。」「へい!」  


 「お静さん、調子はどうだい。風邪はなおったかい?」「ああ新佐さん、あんたのくれた薬をのんで、随分とよくなりました。いつも気に掛けてくれて、ありがとう御座います。この婆は・・この婆は・・。」そう言って涙を拭った。「そりゃあ、ようござんした。大事にしてくだせい。また様子を見にめえりやすから。」新佐は帰り際に、水瓶の蓋の上に饅頭の包をそっと置くと、静かに入口の障子を閉め出て行った。  
                                                                 


     虚無僧


「結構でした。由之助様は前回に御手合わせ頂いたときよりも、数段お上手になられましたね。」「恐れいります。いやいやまだまだ、思うようには吹けませぬ。先生のお三味線にはとても敵いませんよ。」そう言って虚無僧姿の男は尺八を錦の袋に納めた。そして懐から寸志を取り出し「少のうございますがお納めください。」そう言って真寿美に手渡した。「ありがとうございます。ご苦労の末得られた浄財なのに。また托鉢の旅へ?」「はい、私めの様な世捨て人には、それしか生業にするものがございませぬ故。」「何をおっしゃいます。あなた様のようなお上手な方なら、沢山のお弟子さんをお持ちになれますのに。」「いやあ、お恥ずかしい。我が師、寂禅は一生浮世を流離いながら暮らしました。私も、その道を歩みたいのです。今回も、何とか先生にお会いするとが出来ましたが、また縁が有ればお会いしたいものです。」「私も、又会える日を楽しみに、お待ち申し上げております。」「では、これにて失礼いたします。」「お気をつけて。」 虚無僧は、玄関先で見送る真寿美に軽く会釈をすると、編笠を深々と被り、再び漂泊の旅へと出掛けて行った。

                                                                         

          振り手拭


「で、真寿美は元気にしておったか。」「御存じだったんですか。」「お前と連れ添って二十五年、それぐらいの事が解らんでどうする。」「恐れ入りました。ええ、とても元気で安心いたしました。」「そうか。」そう言って兼近は、打ち粉を拭きとると刀を鞘に納めた。一本気で妥協を許さぬ性格を嫌った藩主の怒りに触れ、剣術指南役を下ろされて曽祖父以来続いた桐生家の碌を棒に振ったにも関わらず、本人は飄々として、唯一の取り柄である武芸を拠りどころに町場に小さな道場を開き、細々と生計を繋いでいた。「絹。」「はい。」「でその、まだ独り身であったのか?」「はあ?」「我が娘に亭主は居なかったのかと訊いておる。」「さあ、わたくしには何にも。」「言わなかったと申すのか。」「はい。」「そんな大事なことを聞きもせずに、何をしに行ったのだ。」「申し訳ございませんでした。」「なにもそなたが、誤る必要はない。あいつのことだ、言い寄ってくる男を投げ飛ばすやもしれぬ。やはり武芸を教え込んだのは間違いであった。今更悔やんでみてもあとの祭りだがな。」「そんなにご心配ならば、一度顔を見に行かれては?」「何も心配しているわけではない。あんな強情な娘のことなど、誰が気にするもんか!」「ほんに、あの強情な、いちど言い出したら聞かない性格は、一体誰に似たんでしょうねえ?」そう言って絹は兼近と視線を合わせた。兼近はきまり悪そうに視線をそらすと、「たまには、あいつの好きなおはぎでも持っていってやれ。」「もう食べさせてきました。」「じゃあ、粕汁はまだであろう。」「それは昨日。」「勝手にしろ!今度あいつに逢ったら、その・・女らしくしないと、行かず後家になるからと、そう言っとけ!風呂に行ってくる。」そう言って、含み笑いを堪える絹を後目に、兼近は手拭を振りながら出て行った。 
                                                                   


     櫓の人影 
                                  


 「そいつの名も新佐ってえのかい?」硅次郎は、茶漬けをかっ込みながら三次に訊ねた。「ええ、あっしとおんなじ長屋に住む、お静っていう一人暮らしの婆さんが居るんですがね、その婆さんの家に時々訪ねてくるのが、その新佐てえ野郎で。歳は三十前後で鳶職らしいってことしかわからねえんで、あんまり自分の子たあ、しゃべらないっていっておりやした。」「おめえ、そいつの顔見たのかい?」「いえ、まだ。」「お静婆さんたあ、どんないきさつで知り合ったんだい?」「へえ、風呂に行った帰り道、大八車にはねられそうになって倒れ、歩けなくなったところに行き合わせた新佐に、家まで負ぶって連れてかえって貰ったそうなんですよ。」「ふ~ん。それにしちゃあ、一年以上もあかの他人の七十を超す婆さんにご執心たあ、変わった野郎だなあ。お宮さん、漬物もう一皿くんな!」「は~い!」

  深夜の、眼下に侍屋敷を見下ろす火の見櫓の上に動く人影があった。「今夜は、新月、もうそろそろ出そうな時刻なのだが・・おお、やっぱり出やがった。西のあの辺りは、水戸様の屋敷かな?御三家の一つを狙うたあ、大胆な野郎だ。さあお手並み拝見といくか・・。」そう言うと、その黒い影はあっと言う間に櫓を降りて、闇の中に消えた。


 「地唄は、< 黒髪 >に始まって、< 黒髪 >に終わるっていうぐらい、奥の深いものなのよ。これでこの曲の稽古は終わりだけど、時々弾かないと忘れるから、家でお稽古は続けてね。」「はい、そうします。ありがとうございました。じゃあ、お師匠さん、きょうはこれで失礼いたします。」「次の方どうぞ!」「師匠、お久しぶりです。」「これは、文之助師匠!今日は舞台はお休みなのですか?」三座の舞台で地方を務める文之助は、押しも押されぬ長唄の名人として名を馳せていた。「今日は一番弟子の菊次郎に代わりに舞台を任せてきたんですよ。私もそろそろこの仕事に幕を引き、来春あたりに、菊次郎に後を継がせようと。」「さようで御座いましたか。師匠は良いお弟子さんを、沢山お持ちでいらっしゃいますもの。」「いやあ恐れ入ります。」文之助は、長唄三味線の元の流れである九州流の達人、ハナの弾き方に興味を持ち、よく手合せに通って来ていた。ハナ亡き後、その直弟子の真寿美を相手に九州流の神髄に触れようと、今日も忙しい合間を縫ってやって来たのである。「今日は、八千代獅子をお願いしたいのですが。」「わかりました。それではお琴を用意致しますので、しばらくお待ちを。」調弦を終えると、真寿美は居住まいを但し、すでに見事な造りの三味線を、一分の隙も無く構えて待つ名手、文之助に向かって軽く一礼し、最初の一撥を待った。

                                              

         吉原の月


 「曲者だ!出会え!出会え!」 けたたましく音をたてて廊下を走り抜ける数人の侍たちの叫び声が邸内にこだまし、庭を走り抜ける影を追い続けた。そのうちの一人が、弓を番えて引き絞り、塀を跳び越えようとする族に狙いを定めた瞬間。「あそこにも居るぞ!」と誰かが叫び、隣棟の屋根を指さした。弓手は振り返り、矢をそれに向け射たその隙に、植え込みを出たもう一つの人影は楽々と塀を跳び越え、邸外に逃げ去った。「どうやら、無事だったようだな。」新兵衛はそう呟くと、身を翻して屋根の裏に消えた。

 
 「こんな半蔵門に続く別の抜け穴があるたあ、知らなかったなあ。ああ、今夜も冷えやがるぜ。」月が照る城外の道に影を落としながら、その人物が言った。「兵さん久しぶりの娑婆でえ。吉原に繰り出す前えに腹ごしらえといくか。近くに旨い蕎麦食わしてくれるとこは、ねえかい?」「この先の堀端近くに二八の屋台が出てる頃かと。」「じゃあ、そこへ行こう。おお寒!もう一枚え上っ張り着てくりゃあ、よかったなあ。」


 「いやあ、雪様久しぶりでありんすなあ。わちきはもう待ちくたびれて、涙も枯れ果て身体もこんなに痩せ衰えて、ほら、わちきの懐に手を入れて、みやんせ。早う雪様、早う・・。」「どれどれ、こりゃあいけねえ、長い間放っておくと、此処もこうなるんだな。で下のほうは、どれどれ・・。」「だめでありんす。兵様が見ている前で・・。」「おい兵さん。ちったあ、気いきかせねえかい。野暮な野郎だぜ。三月ぶりの逢瀬を楽しもうとしているのに、なあ太夫。」「これは失礼。では手前は外で。」「ああ、天井裏には、入るなんぞはやめときな。気が散ってしょうがねえや。」「解っております。」ため息をつきながら新兵衛は廊下に出た。「こんな、公方ってありけえ。」そう呟きながら。
                                                              


        花見の頃


「えい!」正座する自分に真剣で切り掛かる相方を、返し手に取って投げ飛ばし、畳にねじ伏せた。「今日はここまでにしておこう。」起き上がった師、加藤隆清は真寿美に言った。「有難うございました。」「投げる腕は、剣を振り下ろす如くにな。」「はい。肝に命じます。」「うむ。きのう兼近殿が見えられて、そなたの様子を話しておいたが、年ごろの娘を持つ親の心は皆同じ、とお互いに笑って別れ申した。」「父は元気でしたか?」「ああ、いつものように、あいつが男ならなあ、と言っていたよ。」

 道場の帰りには、いつも馴染みの蕎麦屋に立ち寄った。「はい、おまちどうさま。いつも娘さんで大盛りを食べるのは、あんたくらいのもんだよ。よっぽどお腹が空いているんだね。そこの道場に通ってるんだろう?女だてらにたいしたもんだね。あたしも、もう十年若けりゃあ、柔らでも習って、あのろくでなしの亭主を投げ飛ばしてやるんだがねえ・・・。」そう言いながら、蕎麦屋の女房は奥に引っ込んだ。亭主の趣味なのか店の隅には梅の盆栽が置かれてあり、遅咲きの紅い花をほころばせていた。「もうじき、桜が咲くなあ。小さい頃は親子三人で花見にいって、おはぎを食べたっけ。あの頃うちは貧乏で、みんなが美味しそうに食べてる長命寺の桜餅、買ってもらえなくて、すねて泣いてたんだよね。食べたかったなあ、あの桜餅。」店の入り口で、遊んでいた三つくらいの女の子が、真寿美の顔を見て微笑んだ。「可愛い・・・わたしもこんな頃があったんだあ。」小春日よりのなか、無心にあそぶ子供たちを見る真寿美の心の中には、幼いころの思い出が次々と過っていった。       



         月夜の刺客
                                   

 「いっそ、呉服屋かなんかの倅にでも生まれりゃあよかったものを、好きな太夫と夜も明かせねえなんざあ、男に生れた甲斐もなにもありゃあしねえやまったく・・。男との道行なんざあ願い下げでえ!やい兵の字、何とか言いやがれ!」食って掛かるぐてんぐてんの主を背中に、新兵衛はうんざり顔で侍屋敷の夜更けの道を半蔵門へと急いでいた。ある屋敷の白塀を曲がろうとした時である。後の人の気配に足を止めた新兵衛は、気付かぬ振りをして角を曲がるや否や、脱兎の如く駆け出した。走りながら耳を凝らすと追ってくる者は三人とみた。一人なら軽くかわせる新兵衛だが、なにせ背に一人負っている。しかも前の角塀から待ち伏せていた二人が白刃を手に道を塞いだ。新兵衛は塀を背に、五人の黒頭巾の敵と向き合った。「何者だ!背のお方の素性を知っての狼藉か!」そう言いながら新兵衛は眠りこけている主を、そっと横に降ろすと腰の刀に手を掛けた。「公方にあらず。今はただの酔っ払いだ。構わぬ、斬れ!」頭目らしき男の言葉を合図に、刺客たちは一斉に、じりっじりっと間合いを詰め始めた。新兵衛も抜刀し敵の一撃をかわさんと身構えたその瞬間、ガン!という音とともに、刺客の一人がうめき声をあげながらその場に倒れた。そして新兵衛の足元にも頭上から何かが降ってきて、音を立てて粉々に砕け散った。それは次々と降り注ぎ、そのうちのいくつかは鈍い音ともに刺客に命中し、なおも止めどなく降ってくる。「引け!引け!」刺客
たちは怪我を負った者達を肩に、蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。新兵衛が後ろの屋根を見上げると、凍るような月を背景に、白い息を吐く人影が見えた。その人影は屋根瓦で汚れた両手をぱんぱんと叩きながら、こう言い残し、屋根の向うに消えた。「これで、この前の借りは返えしたぜ。あばよ!」

                                                                
 「そんな、やべえ野郎にかい?それじゃあ俺の面目は丸潰れじゃあねえか。兵さんにゃあ、五分五分かも知れねえが、俺にゃあ命を救われたってえ、とんでもねえ借りをつくっちまったことになる。この借りはいずれ返さなくちゃあならねえが、相手がそんな野郎じゃあなあ・・・。だが何でその時にひっぱたいてでも俺を、起してくれなかったんでえ。久しぶりにひと暴れできたって言うのによう。」新兵衛は厠の天井裏で呟いた。「酔いつぶれていやがったのによく言えたもんでえ、まったくもう・・・。」

                                                                                                  
         鳶職人
 

「ねえ、お父っちゃん。なんでみんなにゃあ、おっ母あが居るのに、なんでおいらだけ居ないの?」新吉は、今日も朝から仕事にもいかずに酒を飲んでいる父親に訊ねた。「うるせえなあ。この餓鬼あ、何度ど言やあわかるんでえ!てめえの母かあはなあ、てめえを捨ててほかの男と逃げちまったんだよう!ふん!おめえも連れて逃げて行ってくれりゃあよかったのに、とんだ迷惑でえ、女なら女郎にでも叩き売りゃあ金にでもなったのに、野郎ときてやがる。何ぼうっとしてやがるんでえ。とっとと失せやがれ!てめえの面みてると、逃げやがったあいつにみられているようで、酒がまずくならあ、早くでていけ!馬鹿やろう・・。」 

 「よう、新佐。おめえまた、吉原に入り浸りで、夜を明かしたのけえ。朝っ鼻から何でえ、その蒼い面あ。」「これやあ、親方おはようごぜえやす。」「おめえの挨拶は、遅ようごぜえやすだろう?鳶の腕はいいのに、もったいねえ野郎だ。そんなこっちゃあ俺の後釜にゃあなれっこねえぞ。しっかりしろい!」「へえ、すいやせん・・・。」「今日は、深川の火の見櫓の修繕に行くぜ。早く支度しな。」「へい。わかりやした。」「新佐さん、おはよう!はいお弁当。」娘は嬉しそうに笑いながら、竹の皮に包んだ握り飯と竹筒に入れた茶を差し出した。「こりゃあ、お嬢さん、いつもすいやせん。じゃあ行って参りやす。」「気を付けてね。いってらっしゃい!」お小夜は、父のあとに仲間と連れだって朝靄の中を仕事に出かける新佐の後姿を、いつまでも見送っていた。

                                                                  

       初鰹

 
「うああ!立派な鰹!政吉さんどうしたのこれ。」「いやあ、師匠に食べてもらおうと思ってね。これやあ、ただの鰹じゃあ、ありませんぜ。普通は沖の親船から猪牙に降ろして築地に運び、問屋の店先に並んだ鰹を魚屋が売り周りやすが、こいつあ親船に猪牙で漕ぎ寄せ、活きのいい奴を漁師から買付け急いで陸揚げして持ち込んだ代物でさあ、公方様でもこんな鰹わあ、滅多に当らねえ。後で捌きやすから腹いっぺえ食べておくんなさい。」「そんな高価なもの、頂いていいんですか?」「あっしは見ての通りの魚屋稼業、身体にゃあ魚の匂いが染みついているにも関わらず、師匠は嫌な顔一つせず付き合って下さる。こりゃあ、それに対するあっしのほんの気持ちでごぜいやす。どうか受け取ってくだせえやし。」「ありがとうございます。それではご苦労され手に入れて頂いたせっかくのお魚、お言葉に甘えて遠慮なくいただきます。」「へい、どうぞ召し上がっておくんなせえ。」

 
 「こんな贅沢な物、鯵や鰯でよいものを・・・。」「これはあの娘が、お弟子さんの魚屋さんから貰ったらしいんです。大きすぎて一人では食べきれないから魚が好きなお父様に、食べさせてあげてと言って。」「わしに食べさせたいと、本当にそう言ったのか。」「はい、確かにそう申しました。」「ならば食わないわけにもいくまい。では・・。」そう言って兼近は、大皿に盛った刺身をまたたく間に平らげてしまった。「これは、お世辞ではないぞ。こんな旨い魚はついぞ食ったことはない。こんど会ったらそう言っとけ。」「はい、そう伝えます。」「うん、あいつめ、いい弟子をもったものよ。幸せ者めが・・。」楊枝を口に、兼近は満足そうに微笑んだ。「それに、あの娘は忙しくて、男の人の相手をする暇がないので安心して、と伝えてくれと。」「そうか。やれやれ、どうやらまだ虫は付いていなかったようだな。まあ、あの気性だ、並みの男では近寄れまいがな。」           
                                                        


                                     
      野暮天
                                                                                   
「新三さん、この前のお饅頭とっても美味しかった。御馳走様でした。有難う。」「いえいえ、大福と思ったんですが、お静さんが咽喉に詰めたら大変だと思い、饅頭にしたんですよ。お口に会って何より、そんなに喜んで頂いてあっしも嬉しゅうごぜえやす。ところで風邪はもう治りやしたかい?」「ええ、御蔭様で、すっかり・・。身寄りのないこの婆には、話し相手に時々寄ってくださる新佐さんの顔を見るだけで、元気がでますのじゃあ。あなたのような息子をお持ちの母御が羨ましい。おお、そうじゃあ今思い出しましたが、この間、ほらこの斜め向かいの部屋に住む三次さんがいらして、あなたの事を根ほり葉ほり聴くもんですから、近頃歳のせいか物忘れがひどくなって、そんな人が来たかどうかも覚えていないし、ましてやその人の居所など分かるわけがない、と言っておきました。隣りのミチさんに聞いたところによると、三次さんはお上の御用を務める岡っ引きだとか。新佐さんにかぎって間違いなど無いとは思いますが、年寄にはなんでもないことが気になりましてな。」「そんな事なら、御心配には及びません。きっと一人住まいのお静さんを気遣ってくだすったんでしょう。どうかご安心なすっておくんなさい。じゃあ、あっしはこれで。また、近いうちに伺いやす。」


 「あの野郎、何処へ行きゃあがった。」見失った三次の背中を、とんと叩く者があった。「おい、兄さん。俺の後を追い廻してるようだが、何か用かい?」「お、おめえは・・。」「名前は新佐、本所の松蔵長屋に住み、十六の時から鳶富親方の下で働いてる者でえ、逃げも隠れもしねえ。やましい処もねえ真っ当な暮らしをしてる。時々やあ、吉原仲之町の弥生ってえ馴染みの女に会いに行く以外は何の道楽もねえ、何処にでもいる野暮天の一人さ。てめえみてえな下っ引きに、付け回される覚えはねえんだよ~分かったか!」「ああ・・分かったよ。」「それに、あのお静婆さんにも、除けえなことをするんじゃあねえぞ。もしあの婆さんに指一本でも触れてみろ。ただじゃあおかねえからな、とっとと消えやがれ!この犬野郎!」背中を突き飛ばされて、つんのめりそうになりながら、三次は逃げるようにその場を去って行った。



       言い訳


 「ちょっと待ちな。新佐ってえなあ、おめえさんかい?」三味線片手に帰ろうとする男に硅次郎が声を掛けた。「こりゃあ、松井の旦那、さようでごぜえやす。あっしに何か御用で。」「この前は、俺の手下が気まずい思いをさせちまったようだな。すまなかった。おれの顔に免じて許してやってくんな。」「いえとんでもねえ。あっしの方こそ、ついむしゃくしゃしてたもんですから、すいやせんでした。」「ところで、おめえ古道具屋の文七の店に脇差や香炉を持ち込んだらしいが、何処で手に入れたのか、よかったら聞かせちゃあくれめえか?」「旦那よくご存じで、あれやあ博打場で負けが込んでて金を貸してやったお武家さまに借金のかたに受け取ったもんで、知り合いが風邪で寝込んでいたんで、薬代と食べ物を持ってい為に金に換えようとあの古道具に」「持ち込んだってえのかい?」「へえ、その通りで。」「で、その侍ってえのは何処のご家中でえ。」「いつも、頭巾で顔を隠して居なさるもんで見当が・・。」「つかねえってえのかい?」「へえ。」「ところで、あんた、金衛門長屋に一人で暮らしてるお静とか言う婆さんの家によく行くそうだが、なんか訳でもあるのけえ?」「ふとしたことから、知り合いまして、あっしの行方知れずの母親と同じ位の年ごろなもんですから、なんだか他人とは思えなくて、つい足が向いてしまうもんで。」「ふうん、そうかい邪魔したな、もういってくれていいぜ。」「へえ、じゃあ、御免なて・・・。」「次の方どうぞ!」「ああ、すぐに行きやすよ師匠! 野郎、なかなか頭もきれそうだな・・・。」硅次郎は去りゆく新佐の後姿を見ながら、稽古部屋に戻った。    


 
       象牙撥


「お疲れ様でした。今日はここまでにしておきましょう。ところで松井さん、この前のお金を置いて行った人の事、何かわかりました?」「いえまだこれといったことは分かっちゃあいません。」「ただ私のお弟子さんの中に、そんな方がいるとも思いませんが。」「そうだと、いいんですがね。」「ところで、今出て行った新佐てえ人は、なかなかいい音を出していやしたんですが、三味線も象牙巻のいいのを持ってましたねえ。」「ええ、お母様の形見だとか。」「へえおいらの物たあ段違いだ。ところであの男は弟子入りしたなあ、いつ頃でしたかねえ。」「確か、寒い時期でしたから、去年の暮じゃあなかったかしら。あの方が何か?」「いえいえ、一応あの日にいた男連中を一人一人当たっているもんで、ちょっと聞いたまでですよ。」「新佐さんは、いい方ですよ。この前のお稽古の時に、撥をお忘れになった方がいて、その方に新佐さんが貸してあげた撥を、その方が落として撥先を壊したんですが、新佐さんは顔色一つ変えず、誰にもよくあることだからと、笑っていらっしゃいました。高価な象牙の丸撥なのに。」「へえ、象牙の撥をねえ・・。まあ鳶職人らしいから、この前の火事の後、景気が良くて金回りがいいんでしょう。じゃあ、師匠、また何か分かりやしたら、お知らせします。」「はい、お気を付けて・・・。」


 「新佐さん。無理しなくてもいいのよ。」「なあに、もう少ししたら此処から出してやるよ。こんなところに居ちゃあ、何時か身体も心もぼろぼろになって病に倒れ、投げ込み寺に放り込まれるのは眼に見えてる。おいらと所帯を持って、子供を設けて普通の人間らしい暮らしをするんだ。いいな、弥生なんて名はここに置き去りにして、元のお咲きさんにもどるんでえ。」「嬉しい・・。新佐さん、ありがとう。」         
                                                              

 「ああ、三次今日もご苦労だったなあ。ささ、遠慮なしにやってくれ。お~い、お宮さんあと二、三本頼むよ。」「は~い!」「旦那いつも御馳になってすいやせん。」「なに、いいってことよ。おめえ達が動いてくれるお陰で、おいらも町のみんなも安心して暮らせるってえもんさ。ところで、あの新佐てえ野郎はどうも、唯の鳶職人じゃあねえような気がする。」「へえ、あっしもそう思うんで、この前は、気付かれてドジを踏んでしめえましたが、こんどはきっと奴の居場所を付き止めて、めえりやすよ。」「ああ、頼んだぜ。」 隣の席で飲んでいた一人の男が、傍らに置いた荷物 を肩に背負うと、「おねえさん、勘定ここに置いとくよ。」そう言って、店を出て行った。
「どうやら、町方にも骨のあるやつが一人はいたようだな。」新兵衛はそう言いながら人混みの中に消えた。


                                                                             

      米屋強盗


 「こんなちいさな子供まで、手に掛けるたあ、なんてえむごいことしやがるんでえ・・・。それで生き残ったものは居ねえのかい?」布団の上で冷たくなっている親子三人を見下ろしながら、硅次郎が口を開いた。「先ほど虫の息だった女中の一人は、たった今亡くなったそうです。」京橋の米問屋、伊勢屋の店の中は血の海であった。「この血の付いた足跡からして、族はひとりじゃあねえなあ三次。」「土蔵の中で殺られたなあ、向かいの小間物やの店主の話じゃあ手代の鶴吉だそうで、金のありかに案内した後、胸を一突きであの世行きでさあ、可哀想にさっき死んだ女中のお仲と、三日後に祝言を上げることになっていたそうです。」「で、この店で寝起きしてたのは、殺された六人だけかい?」「それがもう一人二月ほど前えに、お清てえ、この辺りじゃあ見かけねえ垢抜けた、二十歳前後の女中見習いが居たそうですが、その女の姿が見当たりません。」「どうやら、そのお清てえ女が族の手先で、昨夜家の中から戸を開けて奴らを引き込んだに違いねえ。近頃の米不足で、江戸でも名うての米問屋にゃあ、金がたんまりあると睨んだんだろうよ。ほうら、事件を聞きつけて火盗改め方のお出ましだ。三次そろそろ引き上げるぜ。」


 あくる朝、奉行所の門の前で待っていた三次が、硅次郎に書付を見せた。「おめえの枕元にこれが?」開けてみると、文面にこうあった。― 昨夜の鼠捕らえたければ深川の船宿、柳家を当たるべし。― 「旦那、いってえこれやあ・・。」三次の問いには答えず、硅次郎はにんまり微笑みながら、こう呟いた。「野郎、味なことをしやがる・・・。」
                             

                                          
         身請け                                      
                                  


 「新佐さんとやら、この弥生にぞっこんらしいが、少しお酒が過ぎたんじゃあないのかい?あんたみたいな一介の職人風情にそんなことが出来ようなんて夢みたいな話にやもううんざりだ。よしてくださいな。帰って顔でも洗って、出直しなよ。迷惑だねえ・・。」女主人はそう言って、煙草の煙を新佐の顔に吹きかけると、パンパンと音をたてて煙管を煙草盆に打ち付けた。開け放たれた小部屋の入り口には、店中の遊女たちが顔を揃え、一言も逃すものかとと聞き耳をたてて、三人の様子を息を殺しじいっと見守っている。「女将さん。それで、この弥生を身請けするにゃ、いってえ、いくら払やあすむんです?」「ふん!世迷言いうんじゃあないよ。さっさと尻尾を巻いて帰えんなといってるんだよ!」新佐はいきなり懐から匕首を引き抜き、女将の膝すれすれにブスッと畳に突き刺した。「な、何するんだい!?」怯む相手に向かって膝を立て、片袖をまくり龍の刺青を見せながら新佐はすかさずこうまくしたてた。「おう!女だと思ってさっきから黙って聞いてりゃあ、つけあがりゃあがって、いいか、耳の穴かっぽじってようく聞きやあがれ!鳶職人てなあな、一歩踏み誤まりゃあ地獄に落ちる高え足場の上で、日々命懸けの仕事をしてるんでえ、惚れた女がたとえどんな身の上だろうと命を懸けて添い遂げる、それがおいらの信条よ。ごたごた御託を並べねえで、さっさと眼の前えに証文を出しゃあがれ!分かったか!分かったかと聞いてるんでえ。返事をしろい!」「ああ・・分かったよ。」 新三のけんまくに恐れをなした女将はそう言いながら、遊女たちの後からそうっと中の様子を眺めていた亭主に向かって言った。「ちょっとおまえさん、何ぼうっと突っ立ってんだよう。お客様のお気が変わらないうちに、早くこの娘の証文持ってこなきゃあだめじゃあないか!あいすみませんただいま、直ぐにお持ちいたしますんで・・・。」新三は持ってきた証文に眼をとおし、「確かに五十両ここに置いたぜ。これで文句はねえな。」そう言って、にんまり笑いながら頷く女将の眼の前で、それを破り引き千切ると、赤々とした火鉢の炭火に放り込み、傍らに身体を震わせて居る弥生の手を取りながら言った。「さあ、これで弥生、いやお咲きさん、あんたは晴れて自由の身だ。こんなとこたあ、今を限りにおさらばして、もと居た世界にもどろうぜ。」表に出た二人は、噂を聞きつけて集まって来た大勢の見物人達をかき分け、吉原の大門を振り向きもせずに、堂々と出て行った。    
                                                                 

                                                                               
                                          
     ハゼ釣り


「本当に?それはおめでとうございます。この婆にとってもこれほど嬉しいことはない。長生きしてるとこんないいことにも出会えるんですねえ。お咲きさんでしたか、あなたは新佐さんのようないい人に巡り合えてよかったですねえ。」「有難うございます。うちのひとが是非とも、自分の母親みたいなお静さんに会って欲しいと言い張るもんですから、私もそんなお方なら一度お顔を拝見したいと前から思っていました。私もあなたにお会いできてとてもうれしいです。」「ありがとう・・。なんだか息子と娘が急にできたようでまるで夢のよう・・。」そう言って、老婆は袖で目頭を押さえた。



「ここしばらくは、稲葉小僧の野郎動きを止めておりますねえ。」川岸に腰を下ろして、浮を見つめる硅次郎に三次が口を開いた。「ああ、奴も日頃はまともな暮らしをしているかもしれねえ、何か事情があるんだろうよ。しかし盗みや奴の病気のようなもんでえ。またそのうちにおっぱじめるさ。おっとっと・・・来やがった。ほら見ろ、なかなか肥えたいいハゼじゃあねえか。」「ほんとだ、天麩羅にして、いっぺえやりたくなりますね。」「ああ、今夜の酒が楽しみだ。ところであの新佐てえ野郎の何かつかめたかい?」「ええ、お静さんの話じゃあ、お咲きってえ女と所帯をもったらしいんで。」「へえ、所帯をねえ・・。まああの男っぷりから見て、世間の女がほっとくめえが。そのお咲きてえのはどういう女でえ。」「それが、あっしの勘じゃあ、奴が言っていた吉原の弥生ってえ女郎じゃねえかと思うんですがね。」「身請けしたってえ言うのかい?それにゃあまとまった金がいったろうよ、かなりの額のなあ。それに所帯を持ちゃあ何かと費用が嵩むだろうし、準備に暇もかかる。博打好きの鳶職人にゃあ、過ぎた額だ。野郎それをどこで工面しやがったのか、気になるところだなあ三次。」硅次郎の竿先の向うに、初夏の爽やかな風を帆いっぱいに受けた船が、ゆっくりと通り過ぎて行った。



     雲隠れ 

「おい、お小夜。何を泣いてるんでえ、おめえらしくもねえ、朝からめそめそしやがって。」「だって、お父っつあん、これ・・。」そう言ってお小夜は富蔵に手紙を渡すと泣きながら外に出て行った。― 親方長え間お世話になりやした。この度事情があって、お暇を頂きたくことにあいなりました。あっしみてえな半端もんを今日まで面倒をみてくれた親方にやあ、有り難くてお礼の言いようもありやせん。どうかいつまでもお元気で。  新佐 ―

「あの馬鹿野郎、何がお暇を頂くでえ・・・。」そう言い捨てる富蔵の眼にも、何時しか涙が光っていた。


「そう言えば、この頃新佐さん、お稽古に来ないわねえ、一体どうしたのかしら。」「で、師匠、新佐が稽古に顔を出さなくなってどのぐれえ経つんです?」「この前来たのは桜が咲いたばかりの頃だったからもう半月ほど経つんじゃあないかしら。」「何か奴に変わった様子はありませんでしたかい?」「別にいつもと変わらなかったけど、あっ!そう言えば帰り際の挨拶に、いつもなら、じゃあまた今度、と言ってお帰りになるんですけど。あの時は、じゃあ師匠いつまでもお元気で、っておっしゃんたんで。あれ?と思ったのを覚えています。」 しばらく考え込んでいた硅次郎が言った。「師匠、こりゃあおいらの勘だが、もう新佐の奴あ、もう二度とここには現れねえでしょうねえ。」「どうして、そう思うんです?」「実あ、おいらの手下の調べじゃあ、新佐は半月ほど前に、吉原の弥生ってえ馴染みの女を身請けし、同時に鳶職の富蔵てえ頭の下で働いていやしたが、それも止めて雲隠れしたらしいんですよ。」「まあ、本当に?とても、そんなことをする人には見えなかったのですが。」「人は見かけによらねえって言いますから。何か我々にゃあ解らねえ事情があったのかも知れやせんねえ。」「それにしても、あんないいお三味線を持ちながら、もったいないこと。お母さんの形見だとおっしゃってたのに・・・・。」硅次郎は、それも作り話で、どこかの家から盗み出したものに違いないと思ったが、黙っていた。自分の師匠のこれ以上落胆する顔を見たくなかったのである。  

                                                                          


       舞い戻り                                         


 「やい!黙ってねえで何とかしねえかい!おめえや医者だろう!?」「御主人、気の毒やが、あんたの奥さんは、乳房に大きなできものが出来てるんや。それが腹やほかの場所にも飛び火して、もう手の施しようがあらへんのや。」「そんな馬鹿なことがあってたまるか!こいつあな、やっとまともな暮らしを手に入れて、まだ三月しかたってねえんだ、それが何でこんなことに・・・。お咲き!しっかりしろい!やっとこの上方で店を持ち、人並みの幸せをつかんだってえのに、おいらを置いてけぼりにして逝っちまうてえのかい?頼むよお咲き、眼を開いていつものように笑ってくれよ、なあ、頼むからよ・・・・。」


 いつものように硅次郎は務めを終え、お宮の店で三次を待っていた。「旦那、遅くなってすいやせん。」「おお三次、夜分呼び出してわるかったなあ。まあ一杯えやってくれ。お~いお宮さん!お銚子もう一本!」「は~い!」「こりゃあ、いつもすいやせん。」「何、いいってことよ。実はなあ三次、きょう与力の勘左衛門爺さんに、お奉行から、さる御大名の屋敷に盗賊が入った。そのやり口から見て、どうも稲葉小僧の仕業ではないかと思われるふしがある、直ちに調べ逐一報告せよとの御沙汰があったんだとよ。」「それじゃあ、ここんとこしばらく鳴りを潜めていた稲葉小僧が、また動きだしったてえ言うんですかい?」「まだ何とも言えねえが、新佐の野郎が雲隠れしてから三月半、奴の仕業なら江戸に舞い戻っているに違えねえ。そうだとすると奴の立ち回りそうな先や、何処だと思う?」「そうさねえ、鳶の頭の処にゃあ、二度と顔向けやできねえでしょう。でもお静婆さんとこにゃあ、ひょっとして顔をだすんじゃあありませんか。」「おいらもそう思う、悪いが三次、婆さんの家を四六時中見張って貰えねえか。」「分かりやした。じゃあ明日から早速。」「頼んだぜ。」

                                                                  
「せっかく吉原から馴染みの遊女を見受けし、女房にしたあげくが死なれちまうたあ、さぞ気落ちしたことだろうよ。で、兵さん、その粋な野郎はこの江戸に舞い戻って、いま何処にいるんだい?」「湯島天神の近くの、無人の荒れ寺の門の上にある狭い祠に寝泊まりしております。以前いた長屋の大家や鳶職の親方には、ろくな挨拶も無しに上方に行ったらしく、顔向けできないのかと。」「なるほど、まともな稼業では飯が食えず、仕方なしに裏の盗っ人稼業に逆戻りか。しかしなあ兵さん、やっている事はともかく、俺やあいつが羨ましいよ。あんなに自由気ままに生きてえもんだとよ。」


                                    
        無礼者
                                                                                   

「えい!」「うああっ!」「雪太郎殿とやら、何処のお旗本のご子息か存じませぬが、女と侮り無礼をすると許しませぬぞ!」「痛てえ!いててててて!分かったよ。もうしねえから、もう二度としねえから、その手を離してくれよ。」「誠でございまするか!?」「ああ、約束する。悪かった。謝るだからもう勘弁してくれよ。」それを聞いた真寿美は、ようやく投げ飛ばし畳にねじ伏せたその侍の腕を緩めた。「兵さんとやら、あなたはこのどら息子の監査役の方では?」「いや、拙者は、実はこの者とは赤の他人でござる。あなたの様な立派な娘子を、吉原の遊女と間違えるほど朝っぱなから飲み呆けている、たまたま居酒屋で知り合っただけのこのような輩と同類にみられては、大いに迷惑、どうかご存分になされませ。」「兵さん!おめえ・・・。」「雪太郎殿とやら。」「は、はい。」「あなたは一体ここに何をしに参られたのです?」「いや、その三味線小町・・いや三味線を習いたいと、そう思って・・。」「誠に?」「いかにも。」「それでは、もう一度素面の時においでなされませ。その時にお弟子にするか考えましょう。それでよろしいか?」「はい、け、結構でござる。」「では、次の方どうぞ!」


 「やい、兵の字!なんでえ、さっきの言いぐさは、あんまりじゃあねいか、ええ!?もとはと言えば、おめえが、あの小娘の似顔絵を持って来ねえからこんなことになったんじゃねいか!それやあ、俺もちょいと飲み過ぎて、はめを外したかも知れねえが・・それを、あかの他人だから、ご存分になされてくださいませだあ?よく言えたもんでえ、全くよう・・おめえって奴は、なんて冷てえ野郎なんでえ、人がひでえ目にあってるのに助けもしねえでよう・・・。」 侍は、まだしびれが残っている腕をさすり、しこたま打った腰を屈め乍らそう呟いた。「いや、申し訳御座りませぬ。あの場はあのように言い繕わないと、お上の素性が知られでもしたらと、咄嗟に、どうかお許しくだされませ。」新兵衛はそう言って深々と頭を下げた。

 

          修繕屋
                                                                     

「雨漏れ~緩み瓦~の修繕~ん、雨漏れ~緩み瓦~の修繕~ん、雨漏れ~緩み瓦~なおしま~する~!御用はございませんか~!」「おい!瓦屋。」「へい!何か御用で?」 大きな門構えの侍屋敷の前を通り過ぎようとした男に、門番が声を掛けた。「お前さん、当家みたいな大屋根の雨漏りも治せるのかい?」「へい!ありがとさんで、治させて頂きますが。」「そうかい、ちょっと待っておくれ。奥方様に聞いてみるから。」「へい、宜しくお願い致しやす。」


 「おい!平太郎!いつまで洗ってるんだ。そんなに長く洗濯板に擦り付けたら、いくら丈夫な着物も破れてしまう。お前、そんなことも分からないでよくお勤めが務まるなあ、この役立たずめが!」吐き捨てるように言って側用人が彼の方を掴み立たせると、大屋根の上を指差して、「ほら、あそこに上っている瓦の修繕屋に終わったら、この饅頭と茶を沸かせて振る舞ってやれ、分かったか!」そう言って立ち去った。平太郎と呼ばれたそのまだ二十歳前後に見える若い侍は、饅頭の菓子盆を渡り廊下の上に置くと再び洗濯桶の前に屈み込み、夏の強い日差しの中、額の汗を拭って大きくため息をついた。


 「お侍さま、さっきは随分と油をしぼられていなさいましたねえ。」「ああ、見ておったのか。わしは自分で言うのもおかしいが、文武両道にも疎くいつまでたっても雑用係だ。情けないところ見られて穴があったら入りたい気分だよ。」庭の木陰に肩を並べて座る二人の頭上に蝉の声が騒がしい。「若けえ時やあそんなもんでごぜえやすよ。このおいらも偉そうなことは言えませんが、鳶の修行時代は、随分と親方に絞られたもんでした。それでも何とか職を身に着け食っていけたんでさあ。何事も辛抱、諦めぬが肝心だとか、そのうちに何とかなるんじゃあ、ございませんか。あっ!こりゃあご勘弁を、あっしゃあ困ってる人を見るとついおせっかいをやく悪い癖があるもんですから、どうかお許しなすって下さいやし。」新佐はそう言って、残っていた茶を飲み干した。

                                                                   

       年貢の納め時
 

蒸せかえる夏の暑さも、真夜中を過ぎると、何処からともなく吹いてくる涼しい風が肌に心地よい。遠くの稲光を横目に、まだ冷めきらぬ大屋根の瓦を踏みしめ乍ら、動く人影があった。「確かこの辺りのはずだが・・おお此処だ。」 新佐は昼間挟んでおいた目印の晒しの布を見つけると、その周りの瓦を何枚か手際よく外し、肩に背負った綱をおろして鍵手の付いた一方を、天辺の針金を巻き付けた瓦に引っ掛けた。手で綱を引いて強度を確かめた後、開けておいた穴から天井裏に入ると裏板を外し、部屋の中に垂らした綱の結び目を伝って畳の上に降り立った。渡り廊下に出て、主の娘の部屋の障子に耳を近付けて寝息を確めると、障子を音もなく開け枕元に忍びった。背中を向けて寝ている娘の肩をそっと叩き、起きようとした瞬間口を押えいつものように耳元で脅し文句を囁いて、金のありかを聞き出そうとしたその時、信じられぬことが起こった。口を抑えようとする腕が痺れるような痛みとともに外され「えい!」という鋭い気合とともに自分の身体が一回転しながら渡り廊下に叩きつけられたのである。それとともに「方々、お出逢いめされい!曲者でござるぞ!お屋敷内に曲者が侵入いたしましたぞ!」という凛とした女の声が、屋敷内に響き渡った。慌てた新佐は起き上がって、綱のある部屋に戻ろうとしたが既に屋敷内は蜂の巣を突っついたような騒ぎになっていて、四方八方から駆け寄ってくる足音に、闇雲に屋敷内を逃回る羽目に陥ってしまっていた。「どうやら、おいらも年貢の納め時がきたようだな。」新佐は覚悟を決めて、ある部屋めざした。その部屋の中は案の定、騒ぎにもかかわらず、高いびきをかいて一人の若い侍が寝ていた。「もし、平太郎さん、平太郎さん、起きておくんなせえ。平太郎さん。」
                                                                               

                        
         同心の憂鬱
 

「おい!聞いたかい。あの稲葉小僧がついにお縄になったってよう!」「ああ、聞いたとも。ほらこの瓦版をみてみな、捕まえたのは盗みに入えった御屋敷に仕えている、まだ二十歳前後の若けえ平太郎ってえ名の侍だってよう!」「へえ~そんな若いのに、てえしたもんじゃあねえか、ええ!?」翌日、稲葉小僧が御用になった噂は、またたく間に江戸中の人々間に広がっていった。

「硅次郎さん、稲葉小僧がついに捕らえられたんですってねえ。何処に行ってもその噂でもちきりですよ。」「ええ、何時かはこうなるんだたあ思っておりやしたが、大捕り物の末にならともかく、あまりにもあっけなく捕まっちまいましたんで、少々拍子抜けしてたとこなんですよ。師匠、こりゃあおいらの勘ですが野郎ひょっすると、自分からすすんでお縄になったんじゃあないかと、理由はまだ解りませんがねえ。」「お弟子さんが持ち込んだこの瓦版によると、稲葉小僧の正体は、元鳶職人の新佐と書かれていますが、まさか家にお稽古に来ていた、あの新佐さんじゃあ・・。」「師匠、この江戸じゃあ、鳶職で新佐てえ名前の人間は、おいらが知っている顔だけでも五、六人
はおりやす。きっと同姓同名の他人でしょう。」「それを聞いて安心しました。そうですよねえ。新佐さんみたいないい人が、あんな大それたことをするわけがありませんものねえ。でも新佐さん、あれから顔を見せないけど元気でいるのでしょうか?」そう心配する真寿美の横顔を見ながら、硅次郎は憂鬱な気分に陥っていた。― あれだけ世間を騒がし、しかも侍屋敷を荒らしたんじゃ市内引き回しの上、打ち首獄門、そんな無様な姿をみたくねえ人間はこの師匠ばかりじゃあねえ。沢山居るんだろうよ。新佐、おめえは何故江戸に舞い戻って来たんでえ、上方でおとなしくしていりゃあいいものを・・。―



          馬上の罪人

  「そんなへぼな若侍に捕まえられたってえのかい?」「はい。」「大捕り物の末にどこかの大屋根の上に追い詰められ、大勢の捕り方に囲まれて、もはやこれまでと覚悟を決め、よく見ておきゃあがれと、てめえの腹かき斬って真っ逆さまに地面に転げ落ちて死に花を咲かす、それぐれえのことをして欲しかったなあ。じゃあ兵さん、あとは任せたぜ。」「はあ?」「何をとぼけてやがるんでえ。こちとらが受けた借りを、返えす時が来たっていってるんだよう。」

「市中引き回しの際は髭を剃り髪を整え、こぎれいな着物に薄化粧をさせ、何故か目隠しをさせよと、お奉行に上からお達しがあったそうだ。」「武家屋敷を荒らした盗っ人があまりに、みすぼらしかったら世間体が悪いからでしょうが、目隠しをするたあ、上の連中にしたら珍しく粋な計らいをしたもんですねえ。」腕組をしながら勘左衛門の話を聞き入っていた硅次郎がそう呟いた。 これで新佐の奴も安心して三途の川を渡れるに違いない、そう思うと胸のわだかまりが少しは楽になった気がした。


 稲葉小僧の顔を一目見ようと集まった、溢れんばかりの道を塞ぐ見物人を押し開け乍ら、馬上の、芝居役者のように薄化粧に身支度を整えた罪人が、前後左右を厳重に警備する物たちに囲まれて粛々と刑場に向かいつつあった。赤紫色の布で眼を被った顔からは、罪人の表情は伺い知れなかったが後ろ手に縛られながらも、口を真一文字に閉じた姿は歌舞伎役者の錦絵のように美しく、それをうっとりとした目で見つめる町娘や、なかには何をどう間違えたのか「出雲屋!」などと声を掛ける者たちもいた。騒いでいた群衆も、罪人が前を通る時はその言葉も失せ、神妙な面持ちで馬上の姿をじっと見つめ、過ぎゆく背中を見えなくなるまで眼で追い続けていた。やがて引き回しの
列は寛永寺の鐘が鳴り響く上野に入り、不忍の池に差し掛かりつつあった。

                                                                            

        暴れ馬


 と、その時、誰かが大声で「暴れ馬だああ!!暴れ馬がこっちにくるぞお!!みんな逃げろ!危ないからみんな逃げるんだああ!!」と叫んだかと思うと、ドドドドド!!!!ガタガタガタ!!!という大音響とともに、一頭の大八車を引いた馬が、何に驚いたのか狂ったように全速力で、引き回しの列の丁度罪人を乗せた馬の横っ腹目掛けて突っ込んで来た。罪人の馬の手綱を握っていた役人がそれに気付き、慌てて手綱を話して暴走馬を止めようと両手を広げて立ち塞がろうとしたが時すでに遅く、馬同士がぶつかり合い、それと同時に後の八つの肥え桶を満載していた大八車が横倒しとなり、辺り一面に 糞尿をまき散らし、それは地面を川のように流れたからたまらない。鼻を劈く臭いが一帯に立ち込め、見物をしていた群衆は鼻を摘まながら蜘蛛の子を散らすように逃げ惑い、身体に糞尿を浴びた人々は次々に先を争って池に飛び込み、夢中で頭や顔、腕などを洗い流し始め、大混乱となった。ふと我に返った役人の一人が、馬上の罪人の姿が無いのに気付き、「罪人が居ない!罪人が逃げた!罪人が逃げたぞおおお!」と叫んだが逃げ惑う者たちの悲鳴や池の水音などの騒音にかき消され、その声は誰の耳にも入りはしなかった。


 「随分と、派手にやらかしちまったもんだなあ、兵さん。天海大僧正が知ったら、おお事になるところだったぜ。ここしばらくは
寛永寺の参拝客も減るだろうなあ。だがあの名実ともに天下に名高い高僧のことだ、きっと法力で大雨でも降らして辺り一帯を
清めることだろうよ。ところで野郎はこのままじゃあまた何をしでかすかわからねえ。どうだい兵さん、おいらが食い扶持を何とか
するから、あんたの下で使ってみちゃあ。」「はい、ではそう計らいます。」「うん、これで借りは返したぜ。ただその粋な野郎に
言っとくんだなあ、この次はねえよって、それから吉原に行ってもおれの女にゃあ決して手をだすんじゃあねえよって、そういっと
きな。奴あかなりの二枚目らしいから、おれの女が靡かねえともかぎらねえからな。」「はい。必ず申し伝えまする。」


 「次の方どうぞ。あら松井様、あれから稲葉小僧の行方について何か分かりましたか?」「いや、依然として行方知れずのままでさあ。あのままじゃあ刑場の露と消えるところを逃げおおせたんですから、今度こそはこれに懲りて二度と盗みはやらねえで欲しいもんですねえ。あっそうだ、以前から師匠に聞こうと思っておりやしたが、奴が捕まったお屋敷のお嬢様はひょっとして、師匠のお知り合いで?」「ああ、美智さんのこと、ええあの方は私の従妹で一緒に武道を習っているの。お琴の名手で時々お手合わせもするのよ。とってもきれいな方ですよ。」「そんな美人なら一度お会いしたいもんですねえ。」「それにはもう少し、お三味線の腕を上げなくちゃあね。そうしたら美智さんのお琴と御手合わせする機会をあげましょう。」稽古を終えて帰ろうとする硅次郎に、声を掛ける者がいた。「こりゃあ、松井の旦那。随分とご無沙汰をしておりやす。」「お、おめえは・・・。」



                                          〔  完  〕



*この物語は完全なるフィクションであり、実際に存在する人名、地名そのほかの一切の事物とは、全く関係がありません。(筆者敬白)

三味線小町浮世手事

三味線小町浮世手事

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-02-01

Copyrighted
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