征四郎疾風剣  〔Ⅰ〕

        
    
   - 寒月の章 -     孤 狼 の 叫 び


    
    虚空の狭間に風が生じ

    風の中に雲が生ず

    風雲相舞って白龍と化し

    時には竜巻となって天に上り

    時には雷光となって地を恫喝す

    横に漂えば大海となり

    四方に散れば山河を見ん

    これぞ自然の理なり

    これぞ剣の極意なり

    これを得んとするものは

    己の前を過ぎゆく疾風を見よ



                 武家娘


 「あのう・・ちとものを尋ねたいのですが、こちらに嵯峨征四郎というご浪人がお住まいだと聞いてまいりましたが、ご存じでしょうか?」 井戸端で世間話に興じていた長屋の女たちの声がぴたりと止み、振り向きざまに、その武家娘をじろじろと見つめた。そのうちの恰幅のよい一人が洗っていた大根を片手に立ち上がると、「征さんならこの長屋に住んでいるけど、今は仕事に行ってて、留守だよ。あんた誰だい。征さんに何か用かい?」


                老 師


 時々吹いてくる風に紅葉の枝が揺れ、落ち葉がさらさらと音をたてて足元を転がって行った。先ほどから、二間余りを隔てて向かい合う白刃の切っ先は、ぴくりともしなかったが、夕刻を告げる鐘の音に驚いたのか 一匹のひよどりが鋭い声を残して飛び去ったのを機に、じりっ、じりっとその間を詰め、まさに互いの切っ先が触れんとした瞬間。「待たれい!双方とも刀を引かれよ!そなたたちは御仏が居られる場所を血で汚されるおつもりか。刀を収め早々にこの場を立ち去りなされい!」 踵を返して、悠々と去っていく深編笠の侍の後姿を見ながら、征四郎は刀を鞘に収めた。「老師、おかげさまで事無きを得ました。」「なんの、あのままではどちらかが命を落とすところであったわい。」「誠に。」 「それにしても、あの男の凄まじい剣気はただものではない。お気を付けなされや・・。」先ほどとは打って変わった静かな口調でそう言い残し、錫杖の音を辺りに響かせながら、その老雲水は何処ともなく去って行った。


                    草 餅   
      

 「どうだったい?征四郎さん、自照寺の椿は。」「はい、枝が二、三本折れた木もありましたが、庭全体の風による被害は大したことはないようです。」「そうかい。それはようござんした。まあ一服してお茶でも飲んでおくんなさい。おい、お峰、征四郎さんにお茶を・・。」「はい、どうぞ。」「おめえ、いつの間に・・・それに征四郎さんには草餅が付いてて、どうして俺にはねえんだ?」「だって、おっかさんが、お医者に止められているからおとっつあんには甘いものを食べさせるなって、言ってたもん。」「お兼ねのやろう、余計なことを・・。あっ、そうだ、でえじなことを忘れるとこだった。」そう言って、伊助親方は後ろの茶箪笥の引き出しから紙包みを二つ取り出した、「こりゃあこの月の働き分、それとは別にこっちは昨日の大風であちこちから仕事が舞い込みうちの職人たちにゃあ忙しい思いをさせちまったんで、座長が役者に渡す大入り袋みたいなもんでさあ、遠慮なしに受け取っておくんなさい。」「かたじけない。有り難く頂戴いたします。お峰さんにもお礼を申す。」征四郎はそう言って、目の前の草餅を敷き紙にくるんで手早く懐にしまい込んだ。「きょうは、ちと急ぎの用があるので、これにて御免!」「あっ、ちょっと、征四郎さんったら・・・。もう!せっかく一緒に食べようと思ったのに!」 

     
                  刀 匠 


 トン、カシーン、カシーン、トン、カシーン、カシーン・・・。絶え間なく打ち下ろされる槌音に混じって 、ぼおぼおと鳴る鞴が、煤で黒ずんだ土壁に赤い火花をまき散らせていた。やがてその音が止むと、小槌を片手にした師匠らしき人物が、鍛えていた刀身を、黄色く燃盛る炭火の中にしばらく入れていたが、機を見てぱっと引き抜くと、間髪を入れず脇の水溜めに漬けこんだ。 じゅうううう・・・、という音とともに白い蒸気がたち昇り、あたり一面に鉄の匂いが立ち込めた。「さて、しばらく休むとしようか・・。」後を弟子に任せて奥に入ろうとするその人物に、先ほどから中の様子を窺っていた一人の侍が「御免、橘平伍元兼殿は御在宅でしょうか。」と尋ねた。こちらの元兼殿は隠れた名工だと聞き、ぜひお願いしたきことがあり参上いたしました。」「我が師は只今病に臥せっており。誰にも会いませぬ。お引き取りください。」「そうですか・・・。それではいたしかたござらぬ。では・・・。」片を落として帰ろうとした征四郎の背後から、「お待ちなされい。」と声がした。振り向くとそこには一人の老人が、杖に縋るようにして立っていた。「おお!あの時の老師ではございませんか。」「兼末、この方はわしの知り合いなのじゃあよ。」「そんなこととは知らず、とんだご無礼を・・。」そういって頭を下げ、一番弟子は奥に消えた。「あなたが元兼殿であったとは、いやあ、びっくりいたしました。」「気まずい思いをさせてしまったようじゃのう。あやつは腕はまあまあだが、心の修行が足りぬ。まあかけなされや。雲水姿はわしの道楽、無名の頃は飯を食うのがやっとで難渋したが、名が知れたら知れたで息つく暇もない。時々仮病を使って鍛冶場を離れ、うさばらしをせぬと身がもたぬわ。世の中とは思いどうりにはいかぬものらしい。」「誠に。」「おお、そうじゃあ、しばらくここで待たれよ。」そう言って立ち上がった後、手に大小二振りの刀をもって現れた。「お主、この品をどう思う。」拵えは、大小とも、瑠璃色の天目模様が浮き出る黒塗りの鞘、白い鮫皮に鮮やかな濃紺の柄、黒地の大刀の鍔には白銀で昇り龍と下り龍が、脇差の鍔には二柱の稲妻が彫金されており、下げ緒には黒の組紐が使われている。「拝見仕る。」そう言言って征四郎は懐紙を口に挟み、鯉口を切ってすらりと刀身を抜き放った。刃もとから切っ先まで二尺三寸五分くらいはあろうか、身幅は広く厚みのある、まさに腕にずしりとくる豪剣である。しかし地金は細やかで 乱れの少ない刃紋とともに冴えざえとしており、明るい映えと気品に満ちた輝きが備わっている。「如何じゃあな?」征四郎が鞘に納めるのを待って元兼は尋ねた。「脇差のほうは磨りあげられており、大小供銘が刻まれておりませんが、どちらも同じ手にて打たれたもの、造りからして相州伝のものとおもわれます。地金、刃紋とも明るく冴えわたっており、しかも気品にあふれ、作り手の高潔なる人柄が伝わってくるばかりか、神々しい輝きをも放っております。このような刀が打てる神業を持った人物と言えば、古今東西たった一人しかおりません。この二ふりはおそらく天下に名高き名工、正宗の作に間違いないとおもわれます。」「うむ、やはりお主もそう思うか。」「もし由来をあかすものや銘があれば、まさに一国とも換えようかというこの様な品を、老師は 一体何処で手に入れられた。」元兼の話によると、諸国放浪の際、京の道端の骨董市で見つけ持ち帰ったのだという。「諸国を巡り、古刀を探し当てるのが何よりの楽しみ、他の者も見せように、こちらにおいでなされや。」薄暗い廊下の奥にある納屋には、床から天井に至るまで、刀剣で埋め尽くされていた。「わしが四十五年に亘って集めたものじゃあ。」二人はその部屋にこもり時の過ぎるのも忘れて、刀談議に花を咲かせていた。「老師、ついお言葉に甘えて長居をしてしまいました。日も傾いた様子、そろそろ失礼いたします。」「さようか、わしも、久しぶりに楽しい時を過ごさせてもろうた。おお、そうじゃあ、そなたの差し料はおいて行き、かわりに・・これを、お持ちなされい。」「こ、これはさきほどの正宗ではございませんか。私のような一介の浪人者には高嶺の花どころか、月よりも遠い品、とても・・・。」「この刀は、なぜ、道端の露店で埃を被っていたとお思いか。たとえ手放すにしても、値打ちのわかる者以外には、ただのがらくたにすぎぬのじゃあ。それに以前は、わしの刀の見本にと思うたこともあったが、所詮わしにはわしの刀しか打てぬと悟った。手元に置く必要もなくなったによって、そなたに譲るのじゃあ。この刀にとっても蔵の中に眠るよりは外にでたかろう。お主のような侍の差し料になってこそ、この刀も生きようというもの。ささ遠慮なくお持ち帰りなされい。なにせ露店の我楽多市にて手に入れた物故、さして元手も掛かってはおらぬ。」「が、しかし・・。」「もし拵えが気に入らずば、いつでも変えてしんぜように。」「いえいえ、拵えも、この刀に相応しく見事なもので申し分ござらぬ。実を申しますと、先ほど拝見した際、この刀を握った時に何やら不思議な縁のようなものを感じたのです。自然に手に 馴染んだというか、ずうっと以前から持ち歩いていたゆなな・・・。」それを聞いた元兼は、微笑みながら、ただ黙って何度も何度もうなずいていた。

 征四郎が吉蔵長屋に帰り着いたときには、もう日はとっぷりと暮れていた。部屋に入り行燈に灯を入れたのに気付いたのか入口の戸が、がらっと開き、向かいの大工の女房のお久が入ってきた。「征さん、お帰り。夕飯のおかずにと思って大根煮を持ってきたから、ここに置いとくよ。」「お久殿、いつもかたじけない。」「いいえ。あっ、そうそう、今朝方あんたが仕事に出た後、お武家の娘さんがあんたを尋ねてきてね、あたしが何か用かいって聞いたら、又来ますって名前も言わずに帰っていったよ。じゃあね。お休み。」征四郎は飯を炊くかまどに火を付けながら、煙が目に沁みたのか、いつしか潤んだ目で「紗枝・・と」呟いていた。



     

                    婚約者の失踪



 百合はこの高橋の家に嫁いですでに二十二年が過ぎていた。何事もなく一人娘の紗枝も無事成長し、この秋に藩の勘定方を務める嵯峨家との縁談が整い、すでに輿入れの日取りも決まって安堵した矢先のことであった。藩の江戸中屋敷増築普請に絡んだ公金横領事件が発覚、それに関与したとして嵯峨政左衛門は蟄居閉門を申付けられ、妻を離縁した後自害して果て、紗枝の夫になるはずだった嫡男の征四郎は、その後行方知れずとなってしまったのである。それから半年程経ったある日のこと、屋敷を訪れていた庭師との茶飲み話に、親方の伊助が最近、侍を一人雇い入れ、その侍の名を確か征四郎と呼んでいた、と聞いた百合は出入りの小間物屋に頼んで調べさせたところ、その侍が神田明神に近い吉蔵長屋に去年の暮ごろから住んでいるらしい、との報告を得ていた。

 「そなた、それで征四郎殿に会うたのか?」「いいえ、母上様、長屋の住人の話ではお仕事に出て留守らしいので、すぐに帰ってまいりました。」「そうか、会えなんだか・・・。そなたの気持ちも解らぬではないが、若い娘が見知らぬ場所を一人で彷徨って、もし間違いでもあればなんとする!これからは忠助を伴い、決して母に無断で行ってはなりませぬぞ。」「紗枝が浅はかでございました。お許しくださいませ。これからは母上様の言う通りにいたしますゆえ。」 


      

                       濡れ衣


 「親方、おはようございます。」「ああ、征四郎さん、おはようごぜいやす。」顔を出したばかりのすがすがしい朝日に照らされた伊助の屋敷前の広場には、きょうも様々な形をした石灯籠や岩、あらゆる種類の木々が点在し、注文主に運ばれるのを待っていた。すでに二十人ばかりの職人たちが、きょうの仕事に使う道具や綱などの準備に追われており、いずれかの豪邸に向かうのであろう何台かの大八車に根を荒縄で巻いた松や敷石、玉砂利を積み込む姿も見られた。「親方、私はきょう何をすればよろしいのかな?」「そうさなあ、おおむね剪定の仕方も覚えなすったから、敷石の並べ方でも覚えてみますけえ?」「お願いいたす。」「お~い弥八、征四郎さんに石の並べ方を教えてやってくんな。」「へい、よろしゅうございます。」「征四郎さん、この弥八は、おいらが唯一、石の並びを任せられる職人で腕は確かでごぜいやす。じゃあ頼んだぜ。」「へい!」

 「こんないい天気の日に、こんなに広えお庭で、あの千代田のお城を眺めているってえと、おいらみたいな長屋暮らしの貧乏人にやあ、お侍の世界ってえなあ、まるで極楽のように思えますねえ・・。」握り飯をほうばりながら 弥八が言った。「弥八殿は、いつからこの仕事を?」「七つか八つの時でさあ。もっともその時ゃあ、お手玉の代わりに玉砂利を一つ持って運ぶだけでしたけどね。」「親父殿もこの仕事を?」「うちは代々植木職人でさあ。」二千坪はあろうかという大名屋敷の回遊式庭園の池には、色鮮やかな錦鯉が群れをなして泳ぎ、手入れの行き届いた何本もの見事な松の間に、紅葉や銀杏が秋の色を添えていた。敷石を運んで汗ばんだ征四郎の体に秋風が心地よかった。ー かつては剣術の稽古に汗を流したものだが・・。源芯斎先生は今も健吾でおられるのだろうか ー


 「そこにおるのは誰じゃあ。」真夜中に人の気配を察知した源芯斎は刀を引き寄せ、障子に映る人影に見入った。「嵯峨征四郎です。」「おお、征四郎か、こんな夜更けになんといたした。」「はい、お暇乞いにまいりました。」「何、暇乞いとな。何故じゃあ、とにかく中に入りなさい。」「いえ、このままで。今先生のお顔を見ると決心が揺らぐやもしれませぬ故。」「大体の察しはついておる。そなた亡き父の無念を晴らすため一命を投げ打つ覚悟であろうが。」「恐れ入りました。」「今じゃから明かすが、わしは嫡男の鬼十郎よりも、そなたに我が流派を継がせるつもりであった。今もその考えに変わりはない。この二十年来そなたをもう一人の息子と思い、鬼十郎に同じく我が流儀のすべてを伝授してきたが、鬼十郎はその器にあらず、そなたこそが継承者に相応しい。今から流派の継承者だけに伝える奥義と秘伝書をそなたに与えよう。道場に参れ。」


 「いってらっしゃいませ。」「うむ。」いつものように門に出て、主の政佐衛門を見送った浪江が家に入ろうとした時ぷつりと草履の鼻緒が切れた。「不吉な・・。」その日の夕方、いつもならとっくに帰宅している時刻なのに主は帰ってこない。妻に帰宅が遅くなる理由を告げずに出かけたことは、今まで一度もなかった政佐衛門である。朝の鼻緒のこともあって、浪江は胸騒ぎがしてしかたがなかった。「母上、ご心配はいりませぬ。今はお屋敷の増築の最中故、父上もきっとお忙しいのでしょう。」そういう征四郎も、必ず三人そろって食べる夕餉に遅れた父のことが気にかかっていた。その夜浪江は夜明けまで待ち続けたが、とうとう夫は帰ってこなかった。そしてあくる朝、浪江の予感は的中した。「ご新造さま!ご新造様!」血相を変えて又平が庭に駆け込んできた。「又平、如何いたした!」「大変でございます!表に!表に旦那様が!」「何!征四郎!征四郎は何処じゃあ!」二人が慌てて門を出て見ると、そこには一丁の黒塗りの駕籠が置かれており、開け放たれたその中には、変わり果てた政佐衛門の姿が横たわっていた。

 
 「恐れながら、金村様に申しあげます。我が父が藩の公金に手を付けるなど、確たる証拠もなしに信じよといわれても、それは無理でございます。それに父がしたためたとされるこの遺書の筆跡は、明らかに他人の手によるもの、また父の遺骸には、切腹の傷とは別に背後から腹部に達する数か所の刺し傷もあり、何卒、何卒、再吟味の程願わしゅう存じまする。」「そちはこの金村重蔵の調べに誤りがあったと申すのか?」「いえ決してそのような、ただもう一度お調べいただきたいと。」「ええい、だまれ!すでに江戸家老、大久保主膳さまの裁定も下されており、覆すことはできぬわ。下級武士の分際で出過ぎた振舞だと思わぬのか。下がれ!」「ではどうあっても再吟味はせぬと。」「くどい!」「それではご家老にこうお伝え頂きたい。嵯峨征四郎も武士の端くれ、一命にかけて必ずや、父の濡れ衣を晴らしてご覧に入れると。御免。」そう言い終わると、罵倒する声をしり目に征四郎は帰っていった。
 
 
「母上、私の考えでは、おそらく父上は何者かに殺害されたに相違ありませぬ。」「何と・・。」「父上は藩の金子などに手をつけてはおらず、むしろ公金横領の事実に気付きそれを暴こうとしたため、横領した一味によって口封じのために命を奪われたのです。背後から刺殺されたのちに腹を切られ、他人が書いた罪を認める内容の遺書を懐に入れられ、昨夜のうちに何者かによって門の外に放置された。そう考えると辻褄があいます。」浪江はそれを聞くとその場に泣き崩れた。「横領した一味たちは、父が何か動かぬ証拠を握り、それを書状にしたためたり、家族に漏らしたりしてはおらぬかと恐れているはず、母上の身にどんな危険が及ばぬともかぎりませぬ。ここはひとまず、又平を伴って、明日にでも親戚筋を頼り、しばらくこの屋敷を離れるのがよろしいかと。」「そなたはどうするのです?」「私のことは心配いりませぬ。江戸は広い。百万もの人々に紛れて、ゆるりと暮らしながら機を窺いとうございます。」線香の煙がたなびく仏間には、浪江のすすり泣く声がいつまでも響いていた。



                       障子の影


 月明かりの障子に、ふうっと黒い影が浮かび、この屋敷の主は筆をおいて独り言のように呟いた。「わしの手に負えぬことが起きた。この度即位された帝は無類の刀好き、いつの間にか御蔵の刀剣目録を手に入れられそのうちより、ある脇差を所望された。来月の勅使ご登城の折に献上される手はずになっていたが、今日になってその一振りが紛失している旨報告があった。先月の改め時の記録によれば身を砥直し、拵えのうち下げ緒の組紐に傷みあり、色を赤より紫に換えたとある。この手配をした鑑定士の神坂甚右衛門は一昨日の夕方以来、帰宅せず行方不明になっており、いまだ本人の所在脇差の在り処ともに判明してはおらぬ。甚右衛門は周りの者に町場の職人に砥ぎと紐換えを依頼すると話したそうじゃが、その者の名も住居も明かさなかったそうな、旧幕臣の中にはわしのやり方に不満を抱くものも多く、また新帝を支える公家衆の中には、あからさまに御公儀を批判して憚らぬ輩もいるやに聞く。そこでお主の力を借りたい。この腹切ることは容易いことなれど、朝廷と幕府の間にしこりを残せば、このご時勢じゃあ。世の乱れにさらに拍車を掛けることになろう・・。」

障子の明かりが消えると同時に、巨大な敷地の庭をましらのごとく走り抜けた黒い影は、月明かりに照らされた高い白壁を軽々と飛び越え、あっという間に大江戸の闇に溶け込み見えなくなった。 



                      首なし死体


 冷え込んだ朝もやの中、両国橋のたもとは黒山の人だかりであった。「おい!邪魔だ!邪魔だ!どいた!どいた!旦那、これですよ・・・。」白い息を弾ませながら、岡っ引きの三次と同心の硅次郎は、思わず顔を見合わせた。その視線の下には、素っ裸の男の無残な水死体が横たわっていた。しかも二人を驚かせたのは、その首が根元から斯き切られ無くなっていたことである。「この身体つきからいって、六十は超えてますねえ。この近くの次三郎ってえ漁師が見つけたんでさあ。二、三匹の野良犬が喧嘩してたんでよく見ると、これを食いあさってたらしいんで。追い散らすのに難儀したんだそうです。身体のあちこちに見られる傷跡は、その時についたんでしょうねえ。」黙って死体を改めていた硅次郎が重い口を開いた。「三次、この両足首の紐で締めたような跡をみて見な。それに背中や腹、胸にかけての傷は何だと思う?」「あっ、旦那この傷は!」「そうよこの傷は、手や足先の咬まれ傷とは、明らかに違う。この仏は逆さに吊り上げられ、割れた青竹でしこたま叩かれ、拷問されたに違げえねえ。」「だがいってえ、この仏は何処の誰なんでしょうねえ。首から上がなけりゃあ、調べようがねえや。ねえ、旦那。」「そうとも言い切れねえぜ。ようくみて見な。右の乳首にかすかに付いているこりゃあ何でえ。」「血の跡じゃあないんですかい。」「そうじゃあねえ、この仏は死後二、三日は経ってる。血だったらこんなに薄赤い色は残らねえ。それにこの形をみて見な。野暮だねえ。まだ解らねえのかい。おめえ女と寝たことがねえとはいわせねえぜ。」「ああっ、・・・。」「そうよ、こいつあ、口紅の跡だ。こんな爺さんでも相手にしてくれる女の居る処といやあ・・。」「岡場所!」「この仏の下腹にゃあ、大小二つ並んだ黒子が付いてる。三次近くの岡場所、いやあ吉原にも足を延ばしたかも知れねえ。あくる日に地獄が待っているなど夢にも思わねえこの爺さんに一夜の極楽を与えた女を探し出すんだ。」「合点でえ!」三次はやじ馬たちを押しのけながら、朝日が差し込む大川端の柳の向うに走り去った。  


 

                        預かり物


 大きく開かれた大門の向う、両側に並ぶ郭の軒の華やかな提灯の明かりの中、今宵も足繁く通う男たちで吉原の通りはごったがやしていた。「桃代ねえさん、お客さんです。」呼ばれた女は、煙草盆にかちんと煙管をあてがうと、格子の間を足早に出て、二階の襖を開けた。そこには三十前後の男が盃を傾けながら座っていた。女は走り寄るとその侍の背中に抱き着いた。「どうしたんだ。お前震えているな。」「あんた・・あたしゃ怖いんだよ。」「何を恐れているのだ。」女は振り向くと、後ろの押入れを開け「これ・・。」と言いながら取り出したものを見せた。それは紫の房紐に巻かれ錦の袋に入れられた一振りの脇差であった。「あるお客から大事なものだからしばらく預かってくれって・・。」侍は紐を解きその袋の裏地を見て我が目を疑った。そこには葵の紋所が散らされていたのである。そして刀身を抜いて
食い入るように見入っていたが、鞘に戻すと呟いた。「村正・・・。これを預けた奴はどんな野郎だった?」「歳は六十ぐらいの爺さんで、月に一、二度通って来て、医者だって言ってたけど言葉使いからありゃあお侍だよ。それがさあ、の小雪姉さんの言うには、きのう岡っ引きで三次ってえ人が訪ねて来て、腹に大きさの違う二つの黒子がある爺さんが二、三日前に遊びに来なかったかって吉原中の店に聞いて回ってたって言うじゃないか。しかもその爺さん首ちょん切られて大川に浮かんでたんだって!この刀を預けてった爺さんの腹にも二つ黒子があったのを、あたしゃ目ではっきり見たんだよ。その話を聞いてから、もう怖くて怖くて・・・。」「これは俺がしばらく預かっておく。このは誰にも言うな。言えばお前も大川に浮かぶことになるやもしれぬ。その爺さんのようにくびをちょん切られてなあ。」


                         娘の恩人


 「さあ、征四郎さん、まあ一杯やっておくんなさい。ここは以前うちで働いていた清吉ってえ職人が魚屋のお宮ってえ名の女と世帯を持ってやっている店でさあ。親の家が魚屋だけに活きのいい物をだすんですよ。おい、お宮さん、適当に見繕って持ってきてくんな。」「は~い!」そう言って若い女将は、あちこちの客に笑顔を振りまきながら板場に入っていった。それと入れ替わりに亭主が頭を下げながら顔を出した。「親方、お久しぶりで。」「おう、おめえも元気そうで何よりだ。ああ、こいつが清吉で。この方は事情があって俺んとこで働いていなさるお侍で、征四郎さんとおっしゃるんでえ。よろしくたのむぜ。」「へえ、こちらこそ。まあどうぞごゆっくり・・・。」そう言って亭主は忙しそうに奥に引っ込んだ。「親方、私のような見ず知らずの浪人者を・・・すまぬ。」「何をおっしゃいます。礼を言いたいのはこっちのほうで。お峰が髭ぼうぼうのおめえさんを連れてきたときにゃあびっくりしましたが、話を聞いてさらに驚いた。五、六
人のごろつきに囲まれひでえめに合わされそうになったところを 、このお侍に助けてもらったってえいうじゃあありませんか。もしあの折に征四郎さんが通り会わなかったら、今頃お峰はどうなっていたことか、おめえさんは命よりも大事な、たった一人の娘を助けてくれた大恩人!あっしゃあ征四郎さんのためなら何だってやりますぜ。」「伊助殿、、かたじけない・・。」征四郎は、忘れかけていた差し向かいで飲む酒の味ともに、人の情けの温かさを身に沁みて感じていた。     


                  襲われた同心


 
 伊助と別れ家路を急ぐ頭上には、澄みきった秋の夜空に煌々と月が輝いていた。心地よい川風を頬に受けながら、ほろ酔い気分で歩いていた征四郎の足がふと止まった。四、五間さきの木場の暗闇に白刃のきらめきと同時に、蠢く数人の黒い人影を目にしたからである。「やい!てめえら!俺が八丁堀同心、松井硅次郎と知ってのことかい。ほう、どうやらそうらしいなあ。俺一人につらあ合わせて六人たあ、念の入ったことだぜ。誰の差し金かあ知らねえが、俺はそう簡単にゃ殺られねえよ・・・。」その言葉とは裏腹に、たちまち硅次郎は材木を背に追い詰められた。一人が切り掛かろうした瞬間、「ぎゃあ!」という声とともに大きな水音がして、誰かが後ろの川に放り込まれた。振り向きざまに一人は顎が砕けるほどの鉄拳を受けて振り飛ばされ、もう一人は両足を跳ね上げられて、地面に叩きつけられた。「け!」ということばを合図に、刺客達は四方八方に走り去った。硅次郎の前に、袖や袴の埃を手でぱんぱんと払いながら、一人の侍が近づいて来た。「大事ありませんか。」「あんた・・俺を油断させといて、後で殺ろうてんじゃあねえだろうなあ。」「あの連中と同じ境遇にはあっても、幸いなことにあそこまで落ちてはいない。安心してください。ただの通りすがりの者ですよ。」征四郎には、今逃げ去った浪人たちの心情が痛いほど解っていた。ひとつ間違っていれば、自分もああなったに違いない。そう思わずにはいられなかった。「こうなったのも何かの縁でえ。おいら急に腹がへっちまった。この近くに顔見知りの蕎麦屋が出る頃でえ。どうでえ、一杯付き合っちゃくれめいか。」
並んで蕎麦をすすっていた硅次郎が言った。「植木屋の伊助といやあ、おもだった大名や大店の商人の屋敷の庭仕事を一手に引き受け、江戸中の庭を隅から隅まで知り尽くしてるお人だ。時にゃあ呼ばれて千代田のお城にも出向くそうだぜ。こりゃあ俺の勘だが、あんたみてえな骨のある侍れえが何の理由もなしに植木屋の見習いになるたあ思えねえ。なんか魂胆でもあるのけえ?」「いや・・。」「おおっと、すまねえ勘弁してくんな。仕事とがら、つい人の詮索をしちまうのが、おいらの悪い癖でえ。あのまんまあんたが来てくれなきゃあ、おいら無様な恰好で大川に浮かんでいたかもしれねえや。そんな命の恩人のあんたに、きちんと礼も言わねえでとんだ口きいちまって・・おいらそんな自分に嫌気がさすときがあらあ。」そう言いながら硅次郎はごくんごくんと喉を鳴らして汁を飲み干すと、ふうううっ、と大きなため息をついた。「親爺、この人の分も取っといてくんな。征四郎さんとかいったな。この借りやいつかきっと返すぜ。じゃあな。」言葉を返す暇もなく蕎麦をくわえたままの征四郎を残して、硅次郎は、はやりの小唄を口ずさみながら月夜の川筋を帰って行った。  



                       父の遺品

 あくる朝、たくあんをほう張りながら、茶をかけた冷や飯をかきこんでいる征四郎の耳に、外の井戸端から水洗いの音に混じって女たちの話し声が聞こえてきた。「近頃、一晩中の捕り物騒ぎで、ちっとも眠れやしないよ。」「夕べなんか、裏の路地を大勢の捕り方が何度も駆け抜けてさ、足音に目を覚ました子が泣き出して、寝かしつけるのに往生したよ~。」「ほら、うちの向かいの刷り師の平吉さん、近頃瓦版の仕事に追われて大変なんだそうだよう。なんでも砥石小僧とかいう盗人が毎晩のように現れて、お大名や侍屋敷に忍び込んじゃ
あ刀を盗んで逃げるんだって。」「刀を?まあずいぶん変わった盗人だねえ、小判を盗みやあいいものを。」「でもさ、大きな声じゃあ言えないけど、名の知れたお大名の家でも蔵の中には、借金の証文しか残ってないってえ噂だよ。金目の物といやあ家宝の刀ぐらいしかないんじゃあないのかい。」「じゃあちっとも、こちとらと変わんないじゃあないか。もっともあたしんとこは刀といっても、この錆びた包丁一本だけどさ。」「ははははは、ほんとだね。」「ああ、征さん、今から仕事かい?今日は寒いねえ。風邪ひかないように気をつけて。いってらっしゃい・・・。」女たちに軽く会釈して征四郎は通りに出た。明け方から吹き始めた木枯らしめいた強風は一向に収まる気配はなく江戸の町は砂塵の中にあった。行き交う人々も疎らで、それぞれが髪や口元を布で覆いながら足早に通り過ぎて行く。物売りの声も風の音にかき消され担いだ天秤棒も風邪に煽られ危なげである。― こんな日に気を良くしているのは。桶家か眼医者、看板屋ぐらいのものだな ― そう思いながら堪らず征四郎も懐から出した手拭で頭を覆った。伊助の屋敷に着くと、やはり今日は仕事を見合わせたのか職人の姿はなかった。「今日は風が強ええんで、職人を家に帰らせたんですよ。こんなに吹いちゃあ仕事になりませんからねえ。まあ、上がんなせえ。お金もお峰も出ておりやして、丁度退屈してたとこなんでさあ。こんな日だってえのに、二人とも暗えうちから起きゃがって化粧なんぞしていやがるんで、どうしたんだって聞いたところ何でも今日が日本橋の呉服屋の、年に一度の安売りの日で、早くから並らばねえと目当ての品が買えねえんだって言うじゃありませんか。いってえ、いくら着物を買やあ気が済むんでえ。まったく女ってえなあしょうがありませんねえ。」中庭に面した伊助の部屋は意外とこじんまりしており、家具や調度品は少なく代わりに好きで集めたという根付の数が、特別誂えの木箱の中に整然と並べられていた。中には二十両も払ってやっと手に入れたという獅子に乗った菩薩を模ったものもあった。「仲間うちにゃあ吉原の花魁に貢ぐ者もおりやすが。あっしゃ、これ一筋、手に取り一杯やりながら眺めてるてえと、仕事の疲れもいつのまにか忘れっちまいまさあ。どうです?この色艶と使い込んだ感じが何ともいえないでしょう?」伊助の自慢話に頷いていた征四郎の眼が、ある一品に釘付けになり、思わず手に取り食い入るようにそれを見つめた。「ああ、そいつああ、この前・・。どうかなさいましたか?もし、征四郎さん。」振り向いた征四郎がいきなり伊助の襟を掴んで、「親方、これを、これを何処で手に入れられた!」と詰め寄った。その達磨の手触り、左右の眼の大きさの違い背中に書かれた、七転び八起きの文字の磨り減りぐわい、ことごとく見覚えがあった。それは紛れもなく、子供の頃にもてあそんでよく叱られた、今は亡き父、政左衛門の印籠についていた根付に間違いなかったからである。  



                     中間の男



 儀助は、夜道を千鳥足で奉公先の屋敷へと向かっていた。「へん、何でえ、馬鹿にしやがって、俺だって人間でえ、たまに間違うことも・・あらあな。それを、ごたごたぬかしゃあがって・・。ひとこと言い返しやあ、中間のくせに言葉が過ぎるだってえ、何をぬかしゃあがる。じゃあてめえは何だっていうんでえ。何の出世も出来ねえ、ただの平侍じゃあねえか・・・。おめえが出世出来ねえから、俺はこの歳になっても嫁を貰えねえ貧乏たれなんだよ~!馬鹿野郎!」白壁の塀を曲がると屋敷の門がぼんやりと見え、一歩踏み出そうとした時、目の前にぼうっと黒い人影が立ちはだかったような気がしたと同時に、腹に岩がぶつかったような衝撃を受け、意識を失った。
冷たい水を浴びせられ目を覚ました儀助が、辺りを見回すと、そこは薄暗い小屋の中で、後ろ手に柱に縛りつけられている自分に気がついた。「儀助だな。」暗闇から声がして、正面の格子窓から差し込む月明かりに人影が浮かんだ。「てめえは誰でえ。なんで俺をこんなめにあわしゃあがるんでえ。俺は何にも悪い事たあ、しちゃいねえぜ。」相手の顔をよく見ようとしたが、陰になってよく見えない。男は黙って懐から何かを取り出し見せた。「この根付に見覚えがあるだろう。」「知るもんか!」「今に思い出すさ。」そう言って男は、水で濡れた床の上から何かを拾い上げた。それは一本の金槌だった。「な、何をしやがるんでえ・・。」男は無言で儀助の足元に片膝を着くと、振り上げた金槌で儀助の左足の小指を打ち付けた。「ぎゃああ・・・。」という悲鳴と同時に小指は忽ち紫色に腫れ上がった。「この次は
骨を砕くぞ。」そういって男は再び金槌を振り上げた、「待ってくれ!言う、言うからやめてくれ、頼む、後生だから、頼むよ、もうやめてくれよ・・・。」そういって儀助は、泣きじゃくりながら続けた。「その根付や、中間仲間から借金のかたにもらったんでえ、そいつあ大久保なんとかっていう、どっかの藩の家老の屋敷にいる世之助ってえ名の中間で、博打場でたまに会うだけの男なんでえ。俺はそれしか知らねえよ。本当だって。もう勘弁してくれよ。頼むよこの事たあ誰にもしゃべらねえからよ。命だけは助けてくれよ。俺はまだ死にたくねえんだよ。殺さねえでくれ、頼むよ・・・。

 今夜も 真夜中に帰り着いた世之助は、博打に負けた腹いせに飲んだ酒が醒めたのか、寒さに震えながら 風の吹き抜ける廊下を厠へと向かった。「今夜も冷えやがるぜ・・。」そう言って用を足そうとした世之助の眼が、大きく見開いたまま凍り付いたように動かなくなり、又の褌の中に溢れた温かいものが、足を伝って床板に広がった。しかし世之助は声を出すことも、息をすることも出来なかった。首の両側を後ろから、出刃包丁の様な厚くて冷たい刃物で挟まれていることに、気付いたからである。



                          もう一人の死体


 あくる朝、いつもどうり奉行所に入ろうとする硅次郎に、後ろから追っかけてきた三次が、息を切らしながら叫んだ。「松井の旦那!てえへんだ。、大川にまた・・・首なしの土座衛門があがりやした!」「何だって!」「旦那、いつもすいやせん。」「いいってことよ。きょうも一日ご苦労だったなあ。」三次の差し出した盃に熱燗を注ぎながら硅次郎は続けた。「俺みてえな身勝手な、はみ出し者の下で、文句ひとつ言わねえで駆け回ってくれるおめえに、たまには罪滅ぼしをしねえとなあ。」「いえ、とんでもねえ。あっしみてえな、役立たずに。いつもかかあに、お前さんみたいなぐずでも、お上の役にたつのかねえって、言われておりやすんで。しかし今度の一件にゃあ、妙なことが多すぎますねえ、この間の爺さんといい、今朝の若い男といい・・・。」「ああ、二人とも家族や知り合いがいねえのか、お上に届け出がねえのも妙だし、二人とも身ぐるみ剥がれ、首まで斬られているんだから、こりゃあ尋常な殺しじゃあねえなあ。江戸中に女郎は五万といる、それにもし爺さんの相手をした女がいたとしても、関わりになるのを嫌って名乗り出る者はいねえかもしれねえ。それに三日も経たずに今度は若い男だ。」二人が話し込む縄暖簾の外には、いつの間にか空から白いものが舞い降りていた。  



                          屋根の人影


 「それじゃあ、こんな前代未聞の一件を見て見ぬふりして葬り去れっていうんですけえ?俺らあ納得出来ねえ!」そう言って硅次郎は与力の勘右衛門に食い下がった。「松井、これは上からのお達しだ。わしにはどうすることもできぬのだ、解ってくれい。」込み上がってくる怒りに顔を赤らめながら詰めよる硅次郎の視線を避けるように、老練の与力は畳の縁を見据えた。その皺の寄った眼尻には苦悩の色が
滲みでていた。「お奉行に、直談判してくる!」そう意気込む硅次郎の袖を引き留めながら、「まあ待て!お奉行とて辛いのだ。評定の席で老中の面々より、市内を騒がせている砥石小僧とやらの捕縛を最優先せよ。出来ぬのなら、お役御免を申し渡す、とのきついお達しがあったらしい。将軍家のお膝元の江戸市中で、しかも大名、侍屋敷を狙っての所業、これ以上許せば幕府の威信に関わる。御公儀のお歴々は焦っているのよ・・・。」それを聞いて硅次郎は、肩を落としてその場に座り込まざるをえなかった。確かに砥石小僧の探索は、一向に捗っていなかった。まるで神出鬼没の早業で、火付け盗賊改め方や、南北両町奉行所の昼夜を問わぬ必死の捜索の網を掻い潜り、連夜のように犯行を重ねるそのやり口に、取り締まる側にも感心する者も出る始末、しかもいまだに顔はおろか姿かたちを見た物も少なく、ありゃあ天狗だとか、いや芝居に出てくる五条大橋の弁慶みたいに刀を集めて、幕府転覆を謀る豊臣の残党の仕業に違いない、といった噂が、あちこちで実しやかに語られていたのである。  


 「とっつあん、そりゃあ、いつのことでえ。」硅次郎は、耳が遠いのか手のひらを耳にあてがう、腰の曲がっ老人に尋ねた。「へい、昨日の晩、さあ・・何時だったか忘れちまいましたが、この歳になりゃあ忘れっぽくなりやしてねえ、あっしが夜回りを終えて家に入ろうとしたんですがね、いつも入口に座って待ってくれている猫のタマがいねえもんですから、近くの屋根の上を見渡すと、ほら、通りの向うの、あの屋根の天辺に、じっと黒い影がうずくまっているのがぼおっと見えたんで、てっきりタマだと思って、おおい、タマこっちにおいでって、呼んだんですよ。するってえと、その影がすううっと伸びて人の形になったかと思うと、まるで猿みてえに、あっという間に、
二、三軒の屋根を飛び越えて見えなくなったんでさあ。あっしやあ驚きのあまりに腰抜かしちまって、婆さんが出てくるまで動けなかったんでさあ。」「それで、その人影やあ、どっちの方向に消えたんでえ。」「あっちの方で・・・。」その指先の向う遥か彼方には、寒空の中、江戸城が屹ていた。「とっつあん、世話あかけた。これで・・婆さんとなにか温けえものでも食べてくんな。」小銭を握らせて帰ろうとする硅次郎の後ろで、その老人が呟いた。「お役人の旦那、ありゃあ、お侍だねえ・・。」「とっつあん、今なんて言ったんでえ。」「ゆんべ見たあの人影や、お侍じゃあないかと言ったんですよ。」「ど、どうして解るんでえ。」「腰に小さな刀差していやしたからねえ。」「とっつあん、そりゃあ確かかい?」硅次郎は眼を輝かしてそう聞き返した。


                            妖魔の微笑

  
   深編笠のままで立ち尽くす侍の前で、砥ぎ屋は目釘を止め刀身を鞘に納めると。「地金の色、刃紋からして、おそらく本物に間違いありますまい。」「村正に・・・。」「さよう。」「手間を取らせた。これは見料、お納めくだされい。」そう
言って、紙包みを置き、立ち去った。

父、源芯斎が寝静まったのを確かめると、鬼十郎は障子を閉め、雨戸を閉ざすと、懐紙を口に挟み、大小の刀を抜き放った。濡れたような漆黒の地金が現れ、それに絡みつくように、白いのたれ波紋が、蝋燭の炎の揺らめきに切っ先からすうっと鱗紋の鍔に滑り降りるかのように光った。二ふりの刀身から、じんじん放射される妖気を全身に受け、鬼十郎はその快感に身体を震わせながら、ますますその輝きに魅入った。口元から懐紙が落ち、かわって黄色い歯がこぼれ、陶酔しきった瞳の奥に異様な光が現れ、鬼十郎の顔にはいつのまにか妖魔の微笑が浮かんでいた。「やっと・・会えたな・・・長い間待っていたぞ・・もう離すものか・・はははは・・・はははははは・・・。」その言葉は本人の意識を超えて、重ねられた大小の刀身同士が発した言葉のように辺りの闇に響き渡った。


       
                           部屋の灯り


 
 秋の日は短い。仕事を終えた征四郎が吉蔵長屋にたどり着いた頃には、日はとっぷりと暮れていた。あちこちの部屋から夕餉の匂いが流れて、笑い声あり、夫婦喧嘩ありのいつもどうりの両隣を過ぎて、井戸端の奥まった自分の部屋に入ろうとした征四郎はふと歩みを止めた。誰もいないはずの障子に灯りが差しているのに気付いたからである。がらりと開けて入ると、中にいた若い女が振り向いた。「紗枝殿・・ここで、ここで何をしておられる!」「お帰りなさいませ。」紗枝は両手を着いて頭を下げた。「ご親切な長屋の皆様のお力添えにより、あなた様の夕餉を整えておりました。」そう言って紗枝は襷を外し膳を前に差し出すと、唖然として土間に立ちくす征四郎に向かって、「どうなされました。早う上がられてお召し上がりくださいませ。」「あ、しかし、まだその・・私の妻でもないそなたが・・このようなことをなされては、それにご両親が、さぞご心配なされておりましょう。さ、お屋敷までお送りいたします故お帰りくだされい。」「あなた様は、この紗枝がお嫌いでございますか。」毅然とした表情で紗枝は征四郎を見据えた。「いや、そういうわけでは・・・。」「あなた様は、おととしの大川開きの折、花火の見物衆のざわめきの中、木場の陰に私くしを誘い込んで、息が苦しくなるほどぎゅうっと抱きしめられてこうおっしゃいました。死ぬまでそなたを離しはせぬと。そしてそのあと、強引に私の唇を・・。」「いや、
もうそれ以上はご勘弁くだされい。わかった。わかり申した。では、せっかくのお計らい、夕餉だけはいただきましょう。それが済んだら、お帰りくださいますな。」その言葉に紗枝はにっこり微笑んで、「はい!」、と答えた。          



                            三叉路の惨劇


 提灯を片手の征四郎に遅れまいと、紗枝は足早に並んで歩いた。困り果てた征四郎の顔とは裏腹に、紗枝は上機嫌であった。そして人ごみを避け裏通りを巧みに抜けていく征四郎に、紗枝が話しかけた。「随分と江戸市中にお詳しくなられましたね。」「そんなことより、お母上に何と言い訳をなさるおつもりか。」紗枝は、澄ました顔で「ご心配は御無用、お友達の由紀殿のお家にお邪魔し、二人で縫い上げた御着物の仕上げにかかるため、帰りは少々遅くなると、母上には伝えておきました故。」と答えた。そして紗枝は人通りの少ない脇道に入ると、征四郎の肩に寄り掛かりながら歩いた。征四郎も悪い気分はしなかった。紗枝の髪油や口紅の匂いが、心のわだかまりを少しづつ溶かしているのを感じていた。やがて二人の行くてに見慣れた侍屋敷の家々の白塀が見え始め、今しばらくの幸せを楽しもうと紗枝はそっと眼を閉じた。と、その時、急に歩みが止まったので眼を開くと、征四郎が自分の手をしっかりと握り、そうっと身体を離し、「しばらくの間その松の影に、隠れていなされい。良いというまで、出てきてはなりませぬぞ。よろしいか。」そう言って提灯の灯りを吹き消した。「はい。」ただならぬ気配を感じた紗枝が言う通りにすると、征四郎はそのまま動かずに、前をじっと見据えていた。紗枝には何が起こったのか見当もつかなかった。息を殺して見つめていると、征四郎の大きな背中の向うには前を遮るように白塀が横たわり、三叉路になっている右の角から人影が現れ、二人の道を横切って左の角に消えた。まもなく「ぎゃああ・・。」「ひ、人殺し・・・うああああ。」という断末魔の叫び声が二度ほど響いたかと思うと、征四郎が矢のごとく駆け出した。紗枝も恐怖を感じ、征四郎の後を追って左手の角を曲がろうとすると「紗枝殿、来てはなりませぬ。来てはなりませぬぞ。」そう言う征四郎の声を振り切って傍に駆け寄ると、紗枝はその場の光景に思わず眼を閉じ、征四郎の肩にしがみ付いた。そこには、燃え上がる提灯の炎に照らされ、血にまみれた二人の町人らしき男が倒れていた。一人はわき腹から胸にかけて斜めに切り裂かれて仰向けに倒れ、もう一人は逃げようとしたのか背中から腰のあたりまで深く斬り下げられてうつむせに倒れていた、。「きゃああ!」紗枝が叫んだ。仰向けに倒れていた一人が頭を持ち上げて、震える手を伸ばしたのだ。「もし!しっかりなされい!」その男は、何かを言おうとしきりに口を開けようともがいている。征四郎は耳を近づけたがよく聞き取れない。「なんだ。なにが言いたいのだ。」男は征四郎の腕を渾身の力で掴むと「う・・うろこ・・かた・・な・・つば・・。」そう言い残すと同時に、首をうなだれ息絶えた。その傍らには焼け焦げた提灯が、いつまでもくすぶり続けていた。   


                    下手人の刀



  「辻番の話じゃあ切られたのは、近くの侍屋敷に出入りしていた小間物屋の主人と番頭で、あの夜、注文を貰ってた簪を届けに行った帰えりらしい。それにしても、首なしの土座衛門に砥石小僧、今度は辻斬りけえ、いってえ、この頃の江戸の町やあどうなってるんでえ!」返し盃を受けながら硅次郎がそう呟いた。

「お宮さん。お銚子もう二、三本、それに肴は何か見繕って・・。」「あいよ。」征四郎の手慣れた注文に、愛嬌者の女将は嬉しそうに答えて、板場の亭主に取り次いだ。「あんたが通りかかった時、本当に何も見なかったのけえ?」「ああ、叫び声がして駆けつけた時には、もう下手人は逃げた後だった。」「そうけえ・・それで殺られた二人や何も言い残さなかったのけえ。」「すでにこと切れていました。二人ともたった一太刀、提灯を持っていた番頭を正面から抜きざまにに逆袈裟に切り上げ、驚いて逃げようとする主人の背中を返す刀で腰のあたりまで切り下げた。いずれも骨に達する傷で、おそらこ即死だったに違いない。下手人は相当腕の立つ侍で、しかも・・・。」「しかも何でえ。」「その侍の使った刀もその切り口から見て、ただ物ではない。私は罪人の死体を使った試し切りを何度か見ましたが、昨夜のような切れ味を示す刀には出会ったことがない。よほどの名刀に違いない。」「そんな名刀を手にする者あ、限られた連中だなあ。お大名か公家方、あるいは盗人か、はたまた金を腐るほど貯めこんでいやあがる札差みてえな豪商か・・。」「如何なる名刀といえども使えば、刃こぼれの一つや二つ出来ぬとも限らぬ。江戸市中の砥ぎ職人に当たってみられてはどうでしょう。」「ああ、おいらも、それを考えてたところさ・・・。」稼ぎ時なのか、店は仕事帰りの職人や馴染み客で賑わい始め、二人の話し声も次第にそのざわめきの中に紛れて聞こえなくなっていった。



                             鉢合わせ



  今夜は新月だった。高台にある寺院の本堂の屋根に現れた人影は、薄鼠色の装束に身を包み、同じ色の頭巾で頭と顔を覆っていた。強い風が袖の弛みを震わせ、耳元を音を立てて吹き抜けていった。見渡せば星ひとつ見えぬ寒空の下、江戸の町々が深い眠りに就いている。人影はしばらくの間その景色を見ていたが、やがて意を決したのか身を翻すと、瞬時に屋根を駆け下り、漆黒の闇の向うに消えた。

 
その夜遅く、材木商の宴席より帰宅した主膳は、出迎える者もなく、すでに屋敷内が寝静まっているのに気付いた。梨絵めが、わしへの当てつけか・・・。」行儀見習いに来ていた商家の娘に手を付けたのがばれて、妻の梨絵は昨日から一言も口をきいてはくれなかった。「おおそうじゃ、そうじゃ、こんな時は、この手があったわい。」そう言って立ち上がると、床の間の掛け軸の裏に手を突っ込んで房紐を引いた。壁がくるりと回り小部屋が現れ、主膳は中から取り出した木箱をひっくり返すと、ザラザラザラッという音とともに黄金の輝きが畳の上に広がった。「お前だけは、わしを裏切らぬのう・・。」満足げな笑いを浮かべながら主膳は、その小判の一枚一枚を手に取り、行燈に翳したり、打ち合わせたりしながら数え、小部屋に戻すと、上機嫌で隣の寝所に入り、酒のせいもあって、すぐに高いびきで寝入ってしまった。時々木々を揺らすごおおおっ、というかぜの音とに雨戸ががたがたっと揺れその度に外の冷気が部屋に流れ込んでくる。小半時が過ぎたであろうか、顔を上に大きく口を開き高いびきをかく主膳の頭上の天井から、一匹の蜘蛛が尻の糸を伸ばしてすうっと降りてきたかとおもうと、口の上一寸辺りでぴたりと静止し、その糸を伝って天井から水のようなものが二、三、滴流れ落ちて来て主膳の口にはいった。すると主膳はいびきをかくのを止め横を向くと、静かな寝息をたて始めた。それを確かめたかのように天井から、ふあっと、黒い人影が音もなく枕元に舞い降り、襖を開けて隣の部屋に入ると、見ていたかのように床の間の掛け軸の後ろに手を入れて、隠し扉を開け、中に消えた。しばらくして現れた手には、一振りの脇差が握られていた。扉を出た瞬間、その人影は素早く行燈の灯りを吹き消し、その場に凍り付いたかのように身構え動かなくなった。障子を隔てた廊下に、何者かの気配を感じたからである。障子が音もなくすうっと開き、闇の中に息遣いが感じられたが、相手もこちらの気配に気づいたのか、その呼吸を止めた。お互いに一間余りを隔てた暗黒の闇の中、身動き一つしなかった。懐に入れられていた手から何かが眼にも止まらぬ速さで闇を貫いて、障子の相手に向かって飛んだ。カシッ!とそれが跳ね飛ばされる音と同時に、ビユッ!という強烈な刃音が襲ってきた。それを軽々とかわした人影はふわっと天井に舞い上がり、板を外してその中に消えた。残された相手は廊下の雨戸を蹴破り、表に飛び出して屋根を見上げたが、そこには、ただけ風に吹かれた木の葉が転がっているだけで、敵の姿はどこにも見当たらなかった。


 「平さん、平さん、いるかい?」「ああ、誰でえ。」「あたしだよう。」「ああ・・お久さんか、今開けるよ・・。」あちこちの障子の破れ目に、美人画や役者絵が貼られた戸が開き、眠気ぎみの若い男があくびをしながら出てきた。こんなに早く起しちまって、すまなかったねえ。このお侍があんたに聞きたいことがあるんだって。じゃあ、あたしはこれで・・。」
「お久殿、手間を取らせた・・。刷り職人の平吉殿か、私は、お久殿と同じ長屋に住む嵯峨征四郎ともうす者あなたに聞きたいことがありまして伺いました。」「何でしょうか?あっ、ここじゃなんですから、散らかしておりやすが、どうぞ中
へお入りくだせえ。」



                                蜆売り


 
 「征さん、するってえと何かい、その平吉ってえ刷り師の話によると、砥石小僧は、ただ行き当たりばったりに盗みを重ねちゃあい
ねえってえのかい?」そう言って硅次郎は茶漬けをかきこんだ。「ええ、平吉さんは几帳面な性格で、しかも大の砥石小僧贔屓だそう
です。砥石小僧に関する瓦版は一枚残さず取っていて、私もそれを読ませてもらいましたが、平吉さんの言うには、まず、砥石小僧の
現れる夜は、大抵月の出ていない闇夜で風の強い日が多く、月夜や、雨の降る日にはめったに現れないようです。」「なるほど、明るい
月夜は人目に付きやすく、風が強けりゃあ物音に気付かれ難い。それに屋根伝いに逃げるにゃあ、雨の日は滑って都合が悪いって
わけか。」「それに入られた屋敷内の人々は、主人とその家族、従者に至るまで悉く昼近くまで寝入っており、出入りの者に起こされる
まで、全く気が付かなかったということです。」「お宮さん、漬物をもう一皿くんな。」「あいよ。」にっこり笑って女将が応えた。「そりゃあ、眠り薬を飲まされたってことかい、夕餉の汁ものか茶の中に仕込まれた・・。」「おそらく。」「しかし砥石小僧に関わる人間がすべての屋敷内に居たたあ、考えにくい。つまり誰にも怪しまれることなく、そんなことができる出入りの誰かあって、ことになるなあ。」話の滞った二人の隣の席に大工仲間らしい二人が座るなり、板場に向かってこう言い放った。「お宮さん、こいつにやあ銚子二本と小芋の煮つけ、おいらにゃ握り飯三つと蜆汁頼むぜ!ここの蜆やあ、大きくて旨えんだよ。ほろっと苦味が効いててねえ・・。」それを聞いて二人は思わず顔を見合わせ、同時に呟いた。「蜆売り・・・。」

  あくる朝早くから、三次を筆頭に、硅次郎の息のかかった岡っ引きや、下っ引きが呼び集められた。「いいか、みんな、ようく聴いてくんな!盗むに入られた日に屋敷に出入りしていた食い物売り、特に蜆売りが立ち回っていたかどうか調べるんでえ。相手は武家屋敷だ、それに行き交う物売りの中に下手人が居ねえとも限らねえ、あいてにこっちの動きを悟られねえよう、気いつけて動くんだぜ。」「へい!」硅次郎の指示に威勢の良い返事を残してかれらは白い息を吐きながら、朝もやに翳む江戸の町へと散って行った。

 その日の夕方近くになって、土埃にまみれ疲れた様子の三次郎が帰ってきた。「おお、ご苦労だったなあ、で、そっちの様子はどうだった?」「へえ、屋敷に出入りしている、何人かの女中たちに当たったものの話じゃあ、口止めされているのか、聞き出すのにずいぶん苦労したそうですが、そのうちの一人から、そういやあの晩に汁の中身に迷っていたところ、丁度そこへ蜆売りが通りかかり、粒ぞろいのいい品だったんで、それにしたと。」「そう言ったのかい?」「へい。それに、あっしが、当たった侍屋敷を得意先にしている魚河岸の世吉ってえ魚屋がいうにゃあ、あの界隈で時々見慣れねえ藍染の頬かむりをした、蜆売りを見かけたらしいんで、どうも天秤の担ぎ方や身体つきからして、ありゃあ素人じゃあねえか、そう言っておりやした。」「そうかい・・・いやあ、ご苦労だった!みんなもさぞ疲れていることだろう。少ねえが・・これで一杯やってくんな。」そう言って、小粒を握らせた。「こりゃあ、ありがてえ!じゃあ早速みんなに。」三次は少しは元気を取り戻したのか、にこにこ笑いながら足早に帰っていった。


     
                             手拭の中身



  「そうですか、やはり蜆売りが来てましたか。」征四郎が続けた、「薬を中に仕込んだ蜆を売りつけ、その汁を飲んで皆が寝静まった頃を見計らって盗みに入る。これじゃあ、いくら警護の厳しい侍屋敷でも、いや城さえも楽々と入り込めるに違いない。」時々、柳の影や、木場の暗闇から呼び止める夜鷹の手を振り払いながら歩き、二人は触りなれた縄暖簾をくぐった。「あら、お帰りなさい!お仕事ご苦労様でした。きょうは何になさいます?」お宮のこの声を聞き、その笑顔を見ると客相手の愛想とはいえ仕事の憂さを忘れて、いい気分になるから不思議なものである。「きょうは何か、いいもんでもあるのかい?」硅次郎が聞いた。「ようく肥えた蜆汁!お酒の飲みすぎにいいですよ。」「きょうは蜆を食いたい気分じゃあねえんだよ・・。」そう言って二人は顔を見合わせ苦笑いをした。「じゃあ、鰈とごぼうの煮つけに、白菜のお浸し!「いいねえ、それにしよう。「私も同じものにそれと・・。」言いかけた征四郎に、お銚子二本に、草餅一皿でしょう?わかってますよ。」にっこり笑ってお宮は奥に引っ込んだ。まわりの客の眼を気にしながら硅次郎に視線を戻すと「しかし、どうしても草餅やあんたに似合わねえなあ、そんなに好きなのかい?」そういって笑いを堪えていた。「江戸中の捕り方あ向うに回し、たった一人で侍屋敷に忍び込み、金目の者にゃあ一切手を付けず、刀それも脇差のみを盗み出す。手口といやあ物売りに化けて台所を預かる女中に近づき、眠り薬を仕込んだ蜆を売りつけ、屋敷の連中がそれを飲んで寝静まったころを見計らって盗みに入る。猿のように身が軽く屋根伝いにあっと言う間に姿を消し、いまだに顔はおろか姿を見たものも少ねえ。こんなことのできる奴あ、いってえ何処の誰でえ・・・。」そう言って、顎を抱える硅次郎に征四郎が言った。「今の話を聞いてふと、思ったんですが、この店に入る前にわたしが言ったこと、覚えていますか?」「いや、忘れちまったけど、それがどうかしたのけえ。」「こう言ったんですよ。屋敷の者が、眠り薬を仕込まれた汁をのんで寝静まったのを見計らって盗みにはいる。これじゃあいかに警護が厳しい侍屋敷でも、いや城でさえも楽々と入り込めるちがいないってね。」「城でさえも・・。」「いでまこそ、徳川将軍家のもと泰平の世となり、この日本国での戦いは止んでいますが、かつては国同士が争う戦国の世でした。相手国の城を攻める際、密かに敵城内に忍び込み、様々な謀略を用いて城の内部を混乱させ、それに乗じて見方を城内に引き入れ落城させる。そんな仕事を請け負う者達がいたのです。忍びの衆、国によっては、らっぱ、すっぱ、とも呼ばれていました。そんな彼らのやり方が、今度の事件と何か似ているとは、思いませんか?」「じゃあ、なにかい、砥石小僧の正体は、その忍びの衆の一人だって、いうのかい?しかしそんな大昔の連中が、今の世の中に居るとは思えねえなあ・・・まてよ・・確か、江戸城警備の御役目についてる伊賀組屋敷の者達や、その連中の末裔だてえ話を聞いたことがあるぜ。征さん、あんたまさか!伊賀組の中に下手人がいるって、言い出すんじゃあねえだろうなあ。」それには答えず、征四郎は、じいっと硅次郎を見つめた。そして懐に手を入れると手拭に包んだものを取り出し、台の下から硅次郎に手渡した。ずしりと重いそれを膝の上で広げると、中から十字の形をした黒ずんだ刃物が現れた。「征さん、こりゃあ・・。」「気を付けて、その刃先には、おそらく毒が塗ってある。」「なんだってえ!・・・あんた、こんな物騒な者を、いってえ何処で、どうやって手に入れたんでえ?!」


       

                               船宿


  
  「お宮さん、勘定を頼む。」「おや、もうお帰りですか?」「お気をつけて。」込み合う客の間を縫って、二人は外に出た。日本橋界隈は、全国からやってくる商人や侍、江戸見物の旅人を目当てに、旅籠や土産物屋、料理屋、茶屋、湯屋、見世物小屋など、ありとあらゆる店が軒を並べ今夜も活気に満ちていた。表通りの喧騒を抜けしばらく歩き、二人は川筋にある小さな船宿の暖簾をくぐった。「邪魔あするぜ。」「まあ、松井の旦那、随分お久しぶりじゃあありませんか。何処で浮気をなすってたんです?」「お仙さん。この人たあ、おいらの知り合いで、征四郎さん。よろしく頼むぜ。」「ようこそいらっしゃいました。私は祖母の代より続く柳屋の女将で、仙と申します。これを機会にご贔屓のほど、よろしくお願いいたします。」「嵯峨征四郎です。」「離れや、空いてるかい。」「はい、どうぞおあがりください。」案内された部屋に入ると、「女将、この人とちょいと込み入った話があるんでえ。悪いが呼ぶまで二人だけにしてくんな。」硅次郎は渡り廊下を行く足音が遠のくのを確かめると、懐から手拭に包まれたもの出して畳の上に広げた。「征四郎さん、ここならだれにも聞かれねえし、おいらもお上から十手を預かってる身とはいえ、命の恩人を売るほど野暮な人間じゃあねえつもりだ。さあ、これを手に入れたいきさつを、とっくりと聞かせちゃあくれめいか。」



                          もう一つの形見



  「それじゃあ、なにかい。あんたは儀助に根付を手渡した世之助てえ中間を締め上げようと屋敷に忍び込んだ。そこにこいつを投げつけた野郎が現れたってえのかい。」「あの日の父は、懐に挿しこまれた書状以外、何も身に着けてはいませんでした。世之助の口から、父が、出入りの材木商が用意した宴席を断わっての帰り道、数名の浪人たちに襲われ落命したこと、その遺体を浪人たちが運び去った後に落ちていた印籠を拾ったこと、首領格の浪人の一人が、殺害した証拠に父の差していた脇差しを主膳に手渡し、金子を受け取っていたこと、その脇差しは今でも屋敷内の隠し部屋にあることを聞きだし、それを手に入れようと主膳の寝室に忍びいったのです。」「ところがその猿野郎が現れて、その大事な証拠の脇差しを盗んでどこかに逃げちまったってえわけかい。で、そいつあ、どんな奴だった?」「暗くてよく見えませんでしたが、百姓の野良着のような物を身に着け、頭と顔を薄墨色の頭巾で覆っていて背丈は低く、動きはまるで猿のように敏捷で、鍛え抜かれた鋼のような身体をしていた。」「で、そいつああ、侍だったかい。」「それはわかりませんが、小振りの刀を差していました。」「そういやあ、夜回りの父っつあんが見た奴も、刀差してたって、いってたなあ。・・・そして、口を割らせた世之助はどうしたんでえ。」「植木の刈ばさみで脅かして聞き出したあと、後で生き証人にしようと当身をくらわせ、厠の隅にねかせておきましたが、引き揚げる時にその場に戻ると、気がついて逃げたのか、辺りを探し回りましたが、見つからなかった。」「征さん、その世之助てえ中間は、歳やあ三十前後の小太りの男じゃあ、なかったかい?」「そういえば、私とそんなに歳が変わらなかったと思います。」「征さん今の話が本当なら、気の毒だが、あんたの父上の濡れ衣を晴らすためのたった一人の生き証人、世之助は、もうすでに殺されて、この世にゃあ、いねえかもしれねえ。」「どうしてあなたに、それが、わかるのですか?」「この間、六十過ぎの爺さんに続き、大川に浮かんでたもう一人の首を斯き斬られた、三十前後の男の死体は、十中八九、その世之助じゃあねいかと。」「何と!何と言われる!」「そして奴を殺して、身ぐるみを剥ぎ、首をはねて、このまえの爺さんを殺った下手人の仕業に見せかけて、大川に流した奴あ、その猿野郎に違いねえ。」「硅次郎殿、私にもよく解るように話してください!」「屋敷中の連中が、あんたと猿野郎の争いにも眼を覚まさなかったことを見ても解るように、薬で眠らされており、猿野郎が最初から主膳の屋敷に狙いを付けていたこたあ疑いねえ。ところが、奴は誰かが自分と同じように、刀を盗みにくるたあ、夢にも思っていなかった。あんたが屋敷内に潜んでることにも全く気が付いておらず、あんたと鉢合わせになったときにあ、眼ん球が飛び出るほどびっくりしたに違いねえ。ところが奴のその晩の驚きやその時が二度めで、あんたに出くわす前に一度驚いたことがあったんでえ。いつものように、猿野郎は、仕込んだ眠り薬が効いた頃合いを見計らって屋敷に入ったが、その夜も風が強く
寒かった、そんな時にゃあ誰でも小便が近くなる、奴は仕事の前に用を足したくなり、厠へと向かった。用を足し振り向いた丁度その
時万悪く、奴の真後ろの片隅に、あんたに当身をくらって倒れてた世之助がふと気がついて、ふらふらっと立ち上がり、ぼんやりと眼
を開くと、何と!振り向いた猿野郎の目と、目がばっちり合っちまった!驚いた世之助は恐ろしさのあまり大声を上げようとした。慌てた
猿野郎は騒がれてはと、咄嗟に口を抑え首の骨へし折ったか、或は首を締めて世之助の息の根を止めちまったが、遺体の処分に困り、
巷で噂の、首切り爺さんの下手人の仕業に見せかけるために、身包み剥いだ上に首を斯き切って、裏の大川に流した。多分そんな
筋書きだろうよ。」   


                            砥ぎ職人の話


  硅次郎のもう一人の配下である義三は手下を使い、刀を扱う砥ぎ職人を虱潰しに当たっていたが、神田小柳町の仕上げ砥ぎ師、伊平治から聞いた話を伝えに来た。「伊平治や、刀の仕上げ砥ぎにかけちゃあ右に出る者はいねえって言われるほどの名人で、普通の侍はおろか、大名家や、時にゃあ公方様の御蔵の、名のある刀の砥ぎを任されることもあるらしいんですが、当たりやすと妙におどおどしやがるんで、隠し事をしやがると、おめえもお白洲に引っ張られることになるかも知れねえと脅しをかけたところ、商売に差し障るからここだけの話にしてくれ、と言って、二、三日前に三十前後の深編笠の浪人が、砥いでくれと大小二振りの刀を持ち込んだことを吐いたんで。それが芝居にも出てくるあの有名な妖刀、村正で、しかも大小とも本物だったってえ言うんですよ。脇差は無傷だったんですが、長い方にゃあ二か所ほどに小さな刃こぼれがあり、然も中ほどから切っ先にかけて、人を斬った時に着く脂の膜が付いていたそうで、怪しんだ伊平治や後難を恐れ、村正は代々将軍家に災いをもたらした刀ゆえ、お上から砥ぐことを固く禁じられている、と言って断ると、浪人は何も言わずに帰って行ったそうです。」「そいつああ、惜しかったなあ!仕事を受けてりゃあ、取りに来た浪人の後をつけて辻斬りの現場を押さえることも出来たろうに・・・。」そういって硅次郎は悔しがった。「その後も、伊平治の」態度がどうも落ち着かねえんで、おめえまだ何か隠しているんじゃあねいか、と詰め寄ったところ、その浪人の刀のうち、脇差に見覚えがあるって言い出したんで、それが、大きな声じゃあ言えねえが将軍家の御蔵の刀あ取り仕切っている、鑑定士の神坂甚右衛門様から預かった村正の脇差に間違いないって言うんですよ。」「なんだって!そりゃあ本当かい?」「ええ、なんでも砥ぎ直した後、拵え職人に廻して、下げ紐を赤から紫に換えさせたんで、ようく覚えていると。」「ひょっとして、その神坂ってえ鑑定士は、年寄じゃあなかったかい?」「ええ、六十過ぎぐれえの爺さんだったそうで・・え!旦那どうして、それをご存じなんです?」「あの爺さんだよう・・・ほら、この間、大川に浮かんでいたあの首なしの、あの爺さんだよう。」「ええ!なんですって!」     



                     娘の面影



  甚右衛門は、今夜も逸る心を抑えながら大門を潜った。こんなときめきは、ここ何十年もの間、一度も感じたことはなかった。いや、正確には若き日のあの時より、強引に胸の奥に閉じ込め続け、寄る年もあり、忘れかけていたというのが本当かもしれなかった。「桃代だ。名も同じで歳もそんなに離れてはおらぬ。しかもよく似ている、あの桃代に、あの時の桃代にそっくりだ・・・。」妻の絹はもう五十を過ぎており、女を感じることはできないばかりか、近頃物忘れがひどくなった自分に辛く当たるようになり、来る日も来る日も限りなく続く、ただ武具を磨き整理するだけの仕事にも嫌気が差していた矢先にその娘に、いや遊女に出会ったのである。初めは孫ほど歳の違う相手に戸惑うこともあったが、次第に若い女の色香に溺れ、その手練手管に振り回されて、今では、もはや自分が六十過ぎの老人であるのを忘れてしまっていた。いつものように格子の向うの銜え煙草の桃代を見つけ、店の入り口から入ろうとする甚右衛門の前後左右を宗十郎頭巾で顔を覆った侍たちが取り囲んだ。驚いた甚右衛門にそのうちの一人が耳元で囁いた。「神坂甚右衛門殿とお見受けいたす。我らは名は言えぬが、さる藩の家臣の者、折り入ってお手前に話したき儀がござる。見ればお楽しみのところ、お手間は取らさぬ故、我らとご同行願えまいか。」見れば身なりはきちんとしており、甚右衛門は軽く頷いて、彼らと供に、門の外にある茶屋の二階に上がった。人を遠ざけた後、さきほどの侍が懐から、紫の袱紗で覆った金子らしきものを取り出し、甚右衛門の前に差し出した。「そつじながら、ここに五十両ござる。これで我等の願いを聞き届けてはくれまいか。これは前金、もしお聞き届け下された節は、さらにもう五十両差し上げるが、如何でござる。」甚右衛門にとって眼の前の金子は、触ることはおろか、一生かかっても目にすることができぬ代物である。これだけあれば一生遊んで暮らせるばかりか、桃代に好きなものを買ってやれるし、これからは、毎日逢うことも出来よう。いや残りの五十両を手に入れれば、身請けだってできるやもしれぬ。桃代と世帯を持って、あの意地悪婆ばあに三下り半を投げつけてもやれるかもしれぬわ。咄嗟にそう思ったが、まだ甚右衛門にも、武士の誇りらしきものの一部が残っていた。「して、わしに何をせよと。」「最近幕府の重臣より、ある刀の砥ぎ直しを命ぜられたはず。その刀を我々にお引き渡し願いたい。」「何に!御蔵の刀を盗みだせと!と、とんでもござらぬ。そんなことをすれば、どんなお咎めを受けるか・・。」「ご心配はごもっとも、我等とてそれは百も承知、そこもとの身の振り方は、すでに考えてござる。我が藩の国元にて、何不自由のない悠々自適の老後のお暮らしをご用意いたしまするが、如何でござる。この申し出を受けては下さりませぬか。将軍家武具の鑑定、管理をすべて任せられた、天下一の名鑑定士、神坂甚右衛門大先生殿!」そう言って、その侍一同は深々と頭を下げた。


                      手練手管

 
  今夜は、ついている。いや長い人生で今宵が最良の夜に違いない。前金の五十両を懐に、甚右衛門は上機嫌で郭の入り口をくぐった。そして饒舌の上に酒が入って、つい口を滑らせ、桃代に、自分には近じか大金が入る、そうすればお前を身請けしてやろう、と言ってしまったのである。相手は、数限りない男を手玉に取って来た遊女である。桃代はこの機を見逃すはずはなかった。客は野暮な世間知らずの老人でしかも自分にぞっこんであり、毎夜、身体を通り過ぎて行く男の一人に過ぎなかったが、どうもこの話は本当らしい。桃代はいきなり冷たい態度を示した。予想通り甚右衛門は機嫌んを取り戻そうと必死になりだした。頃合いを見て桃代は言った。「ふん!あんたには無理だね。身請けなんぞできるもんか。いいかい、あたしにゃあ大枚五百両ってえ大金がなけりゃ、この色地獄から一歩も外に出られりゃあしないんだ!ここであんた以外の、好きでもない、酒臭い、いやな男どもに毎晩この身体を汚され、そしていつか病気になって死んじまい、投げ込み寺に葬られる運命にあるんだ。その時きやあ・・・その時きゃあ・・・線香の一本でも供えておくれえな・・・。」そう言ってわあわあ大声で泣きながら、甚右衛門の膝にしがみついたのである。「心配するな、何とかしてやる。今度こそ、お前に二度と悲しい思いをさせるつもりはない、もう二度と・・・。」そう言って涙を堪える甚右衛門をそっと見上げて、桃代はにんまりと微笑んだ。


                      南国の夢

 
 ここ、浅草寺の境内には、久しぶりの小春日和に参詣人たちの笑顔が溢れていた。「神坂殿、約束の品、ご用意頂けたかな。」茶店に腰を掛けた侍が、行き交う参道の人の列に眼をやったままで、隣の白髪交じりの男に話しかけた。「いささか事情が変わり申した。実は、そこもとらの申し出の翌日、他藩からも引き合いがござってな。その・・そちらの言い値で、買い取りたいと。」「・・・・・。」「それでその・・。」「解り申した。いま拙者の袂にはそちらのご要望に敵うだけの金子がござらぬ故、今から当藩の江戸屋敷まで同行願えまいか。如何でござる。」「ならば伺いましょう。」「では。」そう言って立ち上がると、甚右衛門は、茶代を赤い毛氈の上に残し、その侍の後に続いた。


 「では、神坂殿、上司に伺いを立てますゆえ、これにてしばらくお待ちください。」通された部屋の開け放たれた障子の間からは、広大な庭園が見渡された。色鮮やかな錦鯉が悠々と泳ぐ大池を中心に、見事な枝振りの松をはじめ、様々な木々が姿形よく配置され、
遥か向うの対岸には、茶室であろうか、二棟ほどの屋根が静寂な佇まいを見せている。「さすが、西国の大藩、一幅の水墨画を見るようじゃ・・・・。」ここ、二、三日の出来事に、甚右衛門は、自分の生涯に起こりつつある、身震いするような変化の兆しを肌で感じていた。


  「桃代殿、いったい何があったのだ、なぜそんなに泣いてばかりいるのだ。」結い上げたばかりの髪が初々しい娘の後ろに近寄り、遠慮がちに肩の着物に触れながら喜一郎は尋ねた。振り向いた桃代の瞳に涙が溢れ、頬を伝わり流れ落ちた。「喜一郎様、わたくしは、あなた様にお会いして以来、わたくしの夫は、この方と心に決めておりましたが、それが・・それが叶わぬ事と相成りました・・・。」「何を馬鹿なことを、わたしとそなたが夫婦になることは、両家の親同士も認めた事、それを覆すことなど誰も出来ぬではないか。それともこの私が嫌いになったとでも言うのか。」「いや、決してそのような、今でも心の底から、お慕い申し上げております。」「では、何故、夫婦になるのが叶わぬというのだ。」「きょう・・きょう、お城から使いの方が見えられ、城主相模守様直々のお達しにより、わたくしを側室に迎えたい。明日の朝までに支度を整わせて、お城に召し出せとの御沙汰がございました。・・。」「何!そなたを側室に、そんな・・何かの間違いであろう。そんなことがあろうはずがないではないか。もしそんな申し出があれば、そなたの御父上が即座に御断りになるに違いない。そうであろう?」そう言い迫る喜一郎の言葉に、桃代は泣き顔のままで顔をゆっくりと横に振り「父上様は、我が竹井家にとって・・これほど名誉なことはございませぬ。喜んで・・喜んでお受けいたしますと・・・・。」そう言って桃代は喜一郎の胸に身を預けて大声を出して泣き崩れた。その翌日、朝もやの中、桃代を乗せた駕籠は、茫然と立ち尽くす喜一郎の前を通り過ぎて、城への坂道をゆっくり登っていった。

あの時以来、すべてを忘れようと、一心不乱に好きな刀の鑑定に打ち込み、今の地位を得るに至ったが、思えばこれまでの人生は、身は生きながも魂は死人同然であった。「長い、苦しい日々であった・・だがそれも、もうすぐ終わる・・・。」甚右衛門の頭の中には、すでに明るい南国の陽射しの中、喜びにあふれた桃代との暮らしの夢が、駆け巡っていた。こうしている間も、自分の身にひしひしと危険が迫っていることなど知る由もなかったのである。
                     
                                                         

                      夏の夜の出来事



  征四郎は迷っていた。「源芯斎先生がこの事を知れば、さぞお嘆きになるに違いない。」しかし、このままにしておけば、鬼十郎の傍若無人の振る舞いが続き、さらに犠牲者がでる恐れがあった。征四郎は意を決して道場へ向かった。

 「おお、征四郎か・・・あれ以来お主の事を気にかけておったが、健吾で何より。して何か手ががりは掴めたのか。」すでに七十を過ぎた源芯斎の身体の衰えは隠しようもなかった。「まだ、これっといったものは未だに。」「さようか・・焦るでない。いつかその機が来よう。まあ、あがれ、積もる話もあうろに。」昔話に嬉しそうに相槌を打つ老師の笑顔を前にして、征四郎は言い出しかねていた。「実は、きょう伺ったのは先生の耳に入れたき儀がございまして。」そう言うなり、源芯斎の顔から笑顔が消え、畳に眼を移したままで、「わかっておる。鬼十郎の事であろう・・。」そう言って湯呑みを置いた。征四郎は言葉を慎重に選びながら、辻斬りに出会った晩の出来事の一部始終を話始めた。「・・・私の間違いだとよいのですが、おそらくその辻斬りは・・・。」「鬼十郎だったと申すのか・・。」そう言って源芯斎は腕を組み、天井を見上げ、そしてじっと眼を閉じた。「抜きざまに逆袈裟から斜めに斬り下ろす太刀筋は我が流派のもの、それに斬られた者が、いまわのきわに、鱗紋の鍔の侍に斬られたと・・。」「そう言い残したか。」「はい。」「何たる所業・・。」そう言って膝の袴を握りしめた両手を震わせながら、深く白髪頭を垂れ嘆き悲しむ師の姿を目の前ににして、征四郎は心の底から気の毒に思った。よろけそうになる師に身体を支えようとした征四郎の手を払って「大事ない。」そう言って、気を取り直した源芯斎は「このことは、今までわしの胸の奥に封じ込め誰にも話すまいと心に決めていたが、お主だけには話しておかねばなるまい。我が長谷部家は代々、家禄も
少なく父源左衛門も若くして病に倒れ残された私と母は、食うにも事欠く始末。幼い頃より幸いにして剣の師に恵まれ、母に楽な
暮らしをしてもらいたい一心で剣の修行に打ち込み、やっと道場を構えた頃には四十を過ぎていた。弟子の数もそろい妻子を養える
目途もたったので、さるお方の仲立ちにより、梅と申す二十歳になる娘を嫁に貰い、嫡男鬼十郎も生まれて、充実した日々が過ぎて
いったが、鬼十郎が確か十二歳の時であった。ある夏の夜の事、厠に起つ梅の障子を閉める音で眼が覚めたが、暑さで寝付かれ
なかった。ところが半時過ぎても梅の布団が空いたまま故、不審に思い厠に行ったが梅の姿がない。そのとき離れの客間の辺りから
呻き声か聞こえたので、腹痛にでも苦しんでいるのではないかと近付いた時、わしは一瞬にして部屋の中で何が起こっているのかを
悟った。時々洩れてくるその声は、男に抱かれて喜ぶ梅の喘ぎ声に他ならなかったからだ。わしは寝床に取って返すと刀を引き
掴んで離れに向かった。そして障子を一気に開け放つと、中にいる二人の影が飛び起きた。逆上したわしは、「おのれ!よくも、
よくもこのわしを裏切ったな!この売女め!」そう叫びながら刀を振りかざし、悲鳴を上げて逃げ惑う二人を怒りに任せて、何度も、
何度も斬りまくった。我に返った時には、畳一杯に広がった血の海の中に、切り刻まれた梅と師範代の無残な裸体が転がっていた。
その時わしは開け放たれた障子の後ろに人の気配を感じた。振り向くと、そこには寝間着姿の鬼十郎が大きく眼を開き、身体を
がたがた震わせて立っていた。「鬼十郎・・・。」わしが近づくと恐怖におののいた顔で、「わああああ・・・。」と大声を出して、裏口の扉にぶつかりながら、外に跳び出して行った。無理もない、髪を振り乱し、血染めの寝間着を着て、血刀を手にしている父を見たのだ。
いや、思いたくはないが、母がわしの手によって切り刻まれるのをその目で見ていたかも知れぬ。その時以来、鬼十郎はわしを避けるようになった。評判の良くない連中と付き合い始め、元服式にも現れず、二十歳の頃から酒や女に溺れ、博打場にも顔を出すようになり、金のむしんに来るとき以外は家に寄り付かなくなった。いかがわしい女と寝起きをともにしているという噂を耳にしたこともある。そんなある日、心を入れ替えて剣の修行に打ち込むので、ある刀が欲しいと言ってきた。そこで知人に頼んで手に入れたのが村正であった。言うがままに鍔を好みの鱗紋に、鞘を朱色に拵え直して与えたのだ。この子の母を手にかけてしまったという負い目もあり、息子可愛さも相まって、言うことは、なんでも聞いてやったし、欲しいものはなんでも与えた。今になってそのことが悔やまれたならぬ。わしも今年七十を超えた。あの夜の出来事さえなければ、鬼十郎よ!おまえもこの征四郎のように真っ当な人間に育ち、今頃わしも、可愛い孫たちに囲まれて平和な日々を送れたものを・・・。もはや、これまでじゃあ。お前が!お前が辻斬りにまで落ちようとは!長谷部の家もこれで終わりぞ・・・。」


      

                        狂気の剣

 
 征四郎は帰り道、源芯斎に打ち明けたことを後悔し始めていた。― 先生の苦しみを増しただけではなかったのか、やはり言うべきではなかったのかも知れぬ ― 玄関で迎えてくれた源芯斎の笑顔を思い浮かべた瞬間。征四郎は、はっと、気がつき、踵を返してきた道を、道場に向かって全速力で走り出した。訪れた時玄関には、自分以外の履物はなかったが、通された部屋には師が飲めぬはずの酒の匂いがかすかに漂っていた。裏口から入った者が居たに違いない。そして源芯斎が言ったあの言葉 ―  「鬼十郎よ!お前もこの征四郎のように真っ当な人間に育ち・・。お前が!辻斬りにまで落ちようとは!・・・。」 ―あの言葉を、なぜあんなに声を荒げて言った のか?その場近くにいたもう一人の人物に聞かせようとしていたに違いない!征四郎は玄関を駆け上がり、廊下を走って先ほどいた部屋に飛び込んだ。そこには血にまみれた源芯斎が横たわっていた。「しまった!遅かったか!先生!先生!お気を確かに!今医者を呼びます故。」お・・・征四郎か。騒ぐでない。」「しかし、このままでは、御命が。」「この深手では・・・どうせ助かるまい。それより、お主に頼みたいことがある・・。」「何なりと。」「これ以上、長谷部家と、我が流派の名を汚さぬよう・・・お主の手で、鬼十郎を倒してもらいたい。」「鬼十郎殿を、斬れと・・。」「さよう。」「あれはもはや・・人としての心は持ち合わせてはおらぬ。恐ろしい血に飢えた狂気の剣ぞ・・心して・・心してかれ・・よいな。」「はい。」「わしもお主のような・・お主のような息子を、持ちたかった・・征四郎よ・・さらばじゃあ・・・。」そう言い残し、老剣士、長谷部源芯斎は愛弟子の腕の中で波乱の生涯を閉じた。享年七十一歳であった。         


   

                           鰈釣り


 「女将。用意は出来てるかい。」「はい、ただいま、松吉頼んだよ。」「へい!」 風もないぽかぽか陽気の中、二人を乗せた仕立て船は、柳家の桟橋を離れると艪の音を速めた。大川口を海に出て、浅場の砂地に船を掛けると、船頭は、「じゃあ旦那、昼に弁当を届けに参りやす。」そう言って迎えの小舟で帰っていった。釣り好きで、月に三度は船を出すという硅次郎は手慣れたものである。「鱚はもう深場に落ちちまっていねえが、そろそろ鰈が寄っている頃でえ。」そう言いながら、手早く仕掛けを作ると、二本の棹を投げ込んだ。見よう見まねで、征四郎も虫餌を投げ込み、教えられた通りに、糸を張りぎみにして当たりを待った。「おっと!来やがった・・。」見る間に一匹釣り上げ、一尺余りの丸々と肥えた子持ち鰈が底板の上でばたんばたんと跳ねた。にこにこ笑いながら釣り針を外すと、「今夜は板前にこいつを捌かせて、一杯えやろうぜ。」頷いた征四郎の棹が一寸ばかりそっと抑え込まれた後に、ふわっと弛んだ。「来たかい?」「ああ・・。」大きく合わせると、棹が大きく弧を描いて、これも一尺余りの鰈が、べたなぎの海面に姿をみせた。「やるじゃあねいか、はは
ははは・・・。」

夕方、迎えの船を降りた桟橋には、お仙の笑顔が待っていた。「お疲れ様でした。で、どうでした?」硅次郎の持ち上げたすかりには、七、八枚の良型鰈が、ばたばた跳ねていた。「まあ、こんなに!・・いつもながら、お上手ですこと。」「まあまあだな、女将いつものように刺身と煮つけにしてくんな。おっ、そうだ、天麩羅もいいな。」「はい。畏まりました。では早速板場に届けて参ります。」お仙は重そうに受け取ると奥に消えた。
 離れの畳に腰を下ろして間もなく、見事な鰈の姿造りの膳が熱燗と供に運ばれてきた。「おまちどうさま、おひとつどうぞ。」お仙の注いだ盃を一気に飲み干すと、「あああっ、旨ええ・・・五臓六腑に沁み渡らあ!釣り上げた活きのいい魚あ、ほおばりながら、一杯えやる。この醍醐味やあ、釣りをやった者にしかわかるめえ。なあ征さん。」「全くその通り。いやあ、それにしても旨い!こりこりしてて甘みがあって、こんな旨い刺身を食べたのは生まれて初めてですよ。それにこの見事な包丁捌き、お仙殿は、いい板前をお持ちですね。」「ありがとうございます。お口に会ってなにより、後の料理も出来次第お持ちいたします。では、ごゆっくりどうぞ・・・。」そう言って、女将は引き下がった。
 「なあ、征さん。あんたの父親は非業の死を遂げ、もう一人の父親同然の剣術の先生も、あんたの腕の中で亡くなった。落ち込むあんたの気持ちや解らねえでもねえが、おいらみてえに生まれてこのかた親爺の顔も知らねえ者からみりゃあ、まだまだ恵まれていると、言えねえこともねえ。それにお袋さんは元気なんだろう?」「ええ、母は気丈夫な人ですから、私よりも強い。あの人を見ていると、本当の強さ逞しさは男より、女の方が勝っている気がします。」「おいらの父親も同心だったが、ある捕り物で下手人を屋根に追い詰め、取っ組み合いになって屋根から転げ落ち、死んじまったそうだ。その時おいらはまだお袋の腹の中にいた。町人あがりのお袋はその後、侍屋敷の暮らしに馴染めず、実家の染物ん屋に引き下がったが兄嫁と馬が合わず、安長屋の一間を借りて、近在の百姓から野菜を仕入、女だてらに天秤棒担いで売り歩き、女手一つでおいらを育てようとしたんでえ。いくら気を張っても所詮は染物ん屋の箱入り娘。無理が祟ったのか、おいらが八つの時に労咳に罹り死んじまった。叔父に引き取られたおいらは、ててなし子と虐められながらも、なんとか真っ当に育ち叔父の計らいも有って、何の因果か、死んだ親父と同じ稼業で飯を食うことになったが、母親の血がそうさせるのか、どうも、侍え仲間たあ馴染めねえ。いまだに使う言葉もこのありさまでえ。それに貧乏人あがりのせいか、金に物を言わせたり、上役だ何ぞと言いやがってそっくり返っている連中を見ると、無性に腹が立ってしょうがねえんでえ。そこへいくってと、征さん、おいら、あんたみてえな侍に会ったなあ初めてだ。家柄も良く、学問も修め剣の腕も達つ、なのにそれをおくびにも出せねえで、飄々として町人と同じ長屋に住み、同じ仕事をし同じ酒をのみ同じ飯を食う。あんたも相当変わり者だなあ。」「しかしその御蔭で硅次郎殿と知り合うこともでき、こうしてうまい酒も酌み交わすことができるというもの。」「違えねえ!はははははは・・・。」征四郎は、しばしの間、こころの重荷を忘れさせてくれた硅次郎の計らいを、有り難く思ったと同時に、真の友を得た喜びが、酌み交わす酒と供に、身体中に沁み渡ってゆくのを感じていた。



 猿回し



  影は、影そのものだった。人としての日々の暮らしもなく、家族もなく、話す相手もなく、名すらなかった。自分は何処で、どんな両親のもとに生まれたのかさえ知らされていなかった。頭上に輝くあの月の如く、天外孤独であった。物心つかぬ一つか二つ位の時にさらわれ、見知らぬ男に人里離れた深山幽谷の地で、猪の乳を飲み、猿の子と供に育てられた。教わるがままに山野を駆け巡り、刃物を玩具がわりに弄び、獣と同じ物を食い、どんな困難な状況に置かれても生き抜く強靭な体力と知恵を、叩き込まれたのである。山刀で杉の幹に穿たれた刻印が、二十になってからは、養父と一緒に猿を連れて里に降り、縁日の寺や神社を巡り曲芸を演じながら、世の中の有り様を見てまわった。夜になると眼を付けた屋敷に忍び込み。金品を奪う術のすべてを教え込まれた。二十三になった春、二人は江戸に出た。端午の節句の夜、二人はさる大名屋敷の庭先に潜んで、主の帰宅を待った。部屋の障子に灯りが差すと、梟が二度ほど鳴いた。障子が開き、主が何も見えぬ暗闇に向かって話始めた。「老いた梟には、後継ぎができたかのう。」「これに・・・・。」「うむ、それはよかった。わしの家に仕えて、そなたで何代目になる。」「七代目でござる。」「して、八代目の出来は。」「名人と謳われた宗家の再来かと。」「何と・・さようか、それはそなたも育てがいがあったというもの。ご苦労であった。」そう言って主は、何事もなかったように障子を閉めた。
 
 今宵の寝蔵である無人の荒れ寺に戻ると、養父はその場に座って頭巾を解き、腰の脇差しを引き抜いて手渡すと、「わしをこの場で斬れい!」そう言って眼を閉じた。ためらう弟子に向かって、「何をしておるのだ。わしは物心つかぬお前を両親からさらい、人としてのお前の幸せもすべてを奪った憎い相手ぞ!一気に刺殺せ!」弟子はそういう声に肩を掴み、白刃をのどに突き付けたが、手が震えて、どうしても刺せなかった。「この愚か者めが!」言うなりおのれの手で喉深く突き立てた。「父上・・・。」そう言って抱きかかえる弟子に「おお、・・わしを父と・・父と呼んでくれたのか。嘆くな。これがわしの運命なのだ。・・わしの先代もこうして果てた。よいか、忘れるな、お前はこれから影となって生きるのだ。一度使命を受ければ、人に姿、顔を決して知られてはならぬ。知られた時が、お前の最後だと思え。ただ・・ただ、その身の上をお前限りにしたいのなら、遠慮はいらぬ。もともと我等は山野の動物のごとく、自由に生きる者。今仕えておる者達はただの雇い主にすぎぬのだ。真っ当な人の暮らしに生きたければ、それもよかろう。何事もお前の心次第。・・・息子よ、よくもここまで・・ここまで育ってくれた。わしはお前を、誇りに・・・誇りに・・思う・・ぞ・・・。」そう言って、息絶えた。


      
       神隠し

 
  
   浪江は、向島、小梅村にある又平の家に身を寄せていた。「ご新造様、征四郎様はお元気なのですか。」洗濯の手を止め、縁側に腰掛けて文に見入る浪江に又平が訊ねた。「ええ、何とかやっているようですが、旦那様の件に関しては進展が見られぬ様子、あの子のことだから心配はいらないでしょう。ただ男世帯、なにかと不自由であろう。あの事さえ無ければ、今頃は紗枝殿と二人で暮らせたものを・・・。」「・・大根を引いてまいります。」そう言い残して又平は畑に出かけていった。ここに越してきて、はや二年、いつまでこんな暮らしが続くのだろうか。さすが気丈夫な浪江も弱気になりかけていた。
 前の畦道を五、六人の子供が喚声を上げて走りすぎて行く。それに眼をやりながら浪江は思った。源一郎は今頃何処で、どうしているのであろう。生きて居れば、今年で三十二歳になっておるはず。それとも乳離れしていなかった故幼くしてこの世を去ったのかも知れぬ。汁の吹き上がる音を聞きつけて台所に入り、眼を離した片時の間に、門前に居た、僅か一歳半の前夫の嫡男源一郎は忽然と姿を消し、三日、三晩に亘る必死の捜索にもかかわらず神隠しにあったように、その行方は妖として知れなかったのである。神仏に無事を祈る日々に耐えかね、悔やんでも悔やみきれぬ自責の念に苛まれて自害して果てようかと、何度思ったことか。しかし、もし源一郎が戻った時に母が他界しているのを知ると、どんなに悲しむだろう、そう思って死ねなかったのである。結局はそのことで精神を病み、夫に離縁され、実家に戻って傷心の日々を送っていたが、琴の名手であった浪江が、主命で花見の宴に招かれた際、その席にいた政左衛門に見初められ、一度は断ったものの、再三にわたる申し出を断り切れずに嵯峨家に嫁ぐこととなったのであった。あくる年に授かった征四郎の成長を見るにつけても、源一郎のことを片時も忘れたことはなかった。母を求めて走り寄る笑顔が、今もはっきりと脳裏に焼き付いていた。すでに三十余年も過ぎているのに、いまだに小さな子供達を見るたびに、源一郎の顔を追い求めてしまう浪江であった。

  又平の母、伊根はすでに七十を超えているが元気で毎日畑に出ていた。浪江の母、茂枝はすでに他界していたが、伊根と同じく漬物上手で、人に対する労りの心を持ち合わせており、笑顔もよく似ていたせいか浪江には伊根が他人とは思えなかった。「そんな事が、おありで・・わしみたいな年寄によう打ち明けて下された。あなたのような、ご立派なお家の奥様にも、やはり母としての苦労があるのですねえ・・。じゃが、あなた様の場合はその源一郎様とやらが、生きてこの世の何処かにいる、と思えることがまだ望みではありませんか。この婆は、流行り病いで、又平の弟と妹二人ともこの腕の中で死なせたのです。熱で燃えるような小さな身体が、やがて冷たくなってゆき、いくら名を呼んでも答えずうなだれる頭を、そっと布団の上に戻しなんにちも泣き明かして、土に返すときの口惜しさ、しかも二人とも親より先に逝ってしまった悲しさ、哀れさは、今おもいだしても子の胸が張り裂けるように痛むのです・・・・。」そう言って、伊根は頭の手拭を目頭にあて、畳に沈まんばかりに泣き崩れた。「婆殿、お許しください。つい甘えてしまって、婆殿にもそんなに悲しいことがあったとは気づきませなんだ。どうぞ私の身勝手を、お許しください・・。」手でさすりながら、そっと抱きしめた稲の背中の布地に
は、浪江の落とした涙の跡が、幾つも滲んでいた。
   


      
  運命の出逢い



  
 猿回しは、どうしょうかと考えあぐねていた。先ほどまで、どこまでも付いてくる三才位の男の子を田圃の畦道に置き去りにしてきたが、辺りも薄暗くなり、野良犬のうろついているのも眼にしていたからである。以前は人の事など眼中になく気にも止めなかっが・・・。

「おっかあ、おっかあ・・・ただいま!」がらっと入口の障子が開いて若い女が飛び出して来て、「小吉!お前いったい何処に行ってたんだい。母さん死ぬほど心配したんだよう!」そう言って、その子を抱きしめた。「はら、このおじちゃんが、おいらを連れてきてくれたの。」猿回しは、何故自分が姿を消さずに、そこに立っていたのかよく解らなかった。心とは裏腹に、何故か足が地に着いて動かなかったのである。この子の母親の顔を見てみたかったのかそれとも自分ではどうしょうもない運命の力がそうさせたのか・・。その時肩の猿がするするっと降りると、その子の手を取って猿回しの方に振り向き、眼で何かを訴えた。彼は眼を丸くして驚いた様子を見せた。「あのう・・どなたかは存じませんが、なんとお礼を申してよいやら、御蔭でこの子が無事に戻りました。本当に有難うございました。それで、何もお礼をすることが出来ませんが、もしよかったら、夕餉を一緒に食べてはいただけないでしょうか?何にもございませんが・・・。」猿回しが答えるよりも先に、猿が子の手を曳いて中に入ってしまった。「おじちゃ~ん!早くおいでよ~!」男の子が中で叫ぶ。「さあ、どうぞ!あの子も喜びますので・・。」やさしく微笑む母親の誘いに、猿回しは遂に敷居を跨いでしまった。

 雪絵は、静かに粥をすする猿回しの様子をそれとなく見ていた。三十過ぎに見えるこの男は、無口で、物音や人の動きには傍に擦り寄る猿のように敏感で、鷹のような鋭い眼をしていた。しかし雪絵は恐怖を感じなかった。小吉を見る目が、まるで父親のように優しかったからである。そして猿を交えて我が子と無我夢中に遊ぶ姿に、可愛ささえ感じられた。そして何気なしに彼の髪の毛に付いた藁屑を取ろうとてを伸ばしたとき、ふと彼と目があった、とその瞬間、二人はまるで凍り付いたかのように動かなくなった。いや動けなかったといったほうが正確なのかもしれない。その一瞬二人の五感がすべて停止し、周りの風景が消えて永遠の時の流れの中に二人だけ取り残されたような感覚に陥り、見つめあう瞳を通じて、二人の心が一体化したかのように思えた。何も言わず何もしていないのに、言葉では言い表せぬ強い絆をお互いに確かめ合っている・・・。「おっかあ、おじちゃん、どうしたの?なぜじっとしてんの?」 小吉の言葉に我に返った二人は、お互いに目を逸らせた。「何でもないの。ただおじさんの髪の毛に、藁屑が付いてたから取ってあげようとしてただけよ。」そう言っ
てごまかすと、小吉はすかさずこう 言った。「三ちゃんのおっかあも、三ちゃんのおとうに、そんなことしてた。ねえ、おじちゃん。おじちゃんはおいらのおとうになるの?」「小吉!なんてこと言うの。おじさんが気を悪くなさるでしょう?」そう言いながら雪絵は、彼の横顔を見ると耳の辺りが赤くなっているのに気がついた。そしてそれを見た自分自身も、頬がほてって胸が高鳴り、嬉しさが込み上げてくるのを抑えることが出来なかった。

  別れ際に、「あのう、また、いつか遊びにいらしてください。この子も喜びますので・・。」雪絵は精一杯、自分の想いを隠したつもりでそう言った。猿回はそっと微笑んで軽く頭を下げ、別れを惜しんで泣きじゃくる小吉の涙を手で拭い、頭を撫で終わると、何度も振り返る猿を肩に、夜の畦道を帰って行った。雪絵は、その後姿を見送りながら、名を聞かなかったことを後悔していた。しかし寂しさは感じなかった。それよりも彼がいつか戻ってくるに違いないという、自分でも信じ難い強い思いが、熱く燃える心の中に広がっているのを感じていたからである。― 今夜初めて逢い、名も知らぬ相手なのに、遠い昔から私とあの人は、眼に見えない強い絆で繋がっているのよ。― 雪絵は、溢れそうになる涙をこらえながら、心の中でそう思った。


  山寺の本堂の屋根裏で、熊の毛皮に包まりながら、猿回しは今は亡き養父の言葉を想い浮かべていた。― ただ、その身の上を、お前限りにしたいのなら、遠慮はいらぬ。もともと我らは山野の動物の如く自由に生きる者、今仕えている者達は、ただの雇い主にすぎぬのだ。真っ当な人の暮らしに生きたければ、それもよかろう。何事もお前の心次第・・・。―  彼は、その時胸の中に、或る人の面影がはっきり息づいているのを、そしてそれが次第に大きくなっていくのを感じていた。  



      流し目



 「ええい!もう、じれってえなあ!松井の旦那は何をしていなさるんでえ・・。」三次は奉行所の前で硅次郎が来るのを、今か今かと待ちあぐねていた。既に、陽は高くなり、役人の多くは出仕しているのに、まだ硅次郎はやってこない。いつもの事ながらうんざりして座り込んだ頃に、「やあ三次、やけに早いじゃねえか。何かあったのけえ?」、と、昨夜も夜更かししたのか髭も剃らず、寝ぼけ眼であくびをしながらやって来た。「旦那!ずいぶんな言いぐさですねえ・・。いってえ、今、何時きだとおもってるんです?もし旦那が遅刻がもとで、お役御免なんて事になった日にゃあ、こちとらあ、おまんまの食い上げでえ!」、そう言ってむくれる三次をよそに、「まあまあ、そんなに朝っぱなから腹あ立てちゃあ、身体に悪いぜ。おめえにも解るだろう?色っぽい小唄の師匠に、今夜はなんだか寂しいの、一杯付き合ってくださいな、ねえ旦那~お願い・・。なんて言われた折にゃあ、つい飲みすぎるってえのが男てもんさ。野暮は言いっこなしだぜ。」「いい気なもんでえ、旦那が小唄の師匠に鼻の下あ伸ばしている間も、こちとらあ寝ずの番してたんですぜ!まったく人の気も知らねえで・・・。」

「おい!今の見たかい三次。さすが深川、あの流し目にゃあぞくっと!するぜ。」、すれ違う年増芸者の化粧の匂いと、色っぽい流し目に気を取られている硅次郎の袖を引っ張りながら、三次は路地を抜け、町外れにある一軒家を指さした。「旦那、ありゃ誰の家だと思いやす。?」「そうさなあ、ちょっと見にゃどこかの大店の妾あたりが住んで居そうだが・・・。」「どん!当たり~。ただその持ち主がこの前辻斬りに会い殺された、小間物屋の伊勢屋弥平ってえのは、どうです?」「それで主人を亡くして寂しがってる妾に取入って、情夫になろってえのかい?おめえも隅におけねえなあ。」「馬鹿いってるんじゃあありませんよ!こっちは真剣なんだから。すでに間男がいたんですよ。弥平が殺られる前から、その男てえのは薄気味わるい浪人で、奉公人の話だと歳は三十過ぎくらいで伊勢屋の用心棒をしていたらしいんですが、いつの間にか妾のお稲に取入り、弥平の眼を盗んじゃあ出逢い茶屋で逢ってたらしいんで。弥平が殺された晩も供をして、番頭の米造と一緒に出掛けたんですが、あの時以来、姿をくらましたそうです。」「おめえが言いたいなあ、辻斬りに見せかけて、その用心棒が妾とくんで主人の弥平を殺ったんじゃあねえか、てえことかい?」「さすが旦那、その通りで、弥平の女房のお信は病弱で子も無く、去年の十月に流行り病いに罹り死んだそうです。二人で伊勢屋の身代を乗っ取ろうと、仕組んだんじゃあねえかと睨んでるんですが。」「うん、で野郎は今、家に居るのけえ?」「それが、おとといの晩からずっと交代で見張っているんですが、女は居るものの野郎は姿を見せねえんですよ。」「おめえの見込み通りだとすると弥平が死んでから二月半、そろそろ動き出してもおかしくはねえ。おそらくは日取りを決めてどっかで待ち合わす腹に違えねえ。女が動き出したら後をつけ、野郎の居所を掴み次第え知らせてくんな。」「へい!」   



          
         交渉相手



  「ねえ、あんた、それでこれからどうすんのさあ・・。」乱れた髪に手をやりながら、お稲は鏡越しに鬼十郎を見た。向島、長命寺の門前に近い茶屋の二階の畳には、隙間風が持ち込んだのか色付いた桜の葉が転がっている。「お前が、伊勢屋に身請けされる前の吉原の客のなかに、小間物屋は居たか。」「そりゃあ、何人かいたけど、それがどうかしたのかい?」「お前には、伊勢屋を切り回す器量はあるまい。誰かに身代ごとそっくり買い取ってもらうのだ。」「そんなに、うまくいくのかねえ。」「お前は自分が書いた起請文の数も渡した相手も、覚えてはいないだろうが。貰った男の中には、後生大事に持っている奴もいるかも知れぬ。まるで宝物のようになあ。吉原に戻りたくなけりゃ、そんな誰かを連れてくるんだなあ。」そう言って身体を起こすと、ぴしゃりと障子を閉め鬼十郎は外に出た。

 「先ほど来、門前が騒がしいようじゃが、何かあったのか?」備前守は書物を閉じて、縁側に控える従者に訊ねた。「いえ、大した事では。ただ素性の解らぬ浪人者が一人、主人に会わせろ、探し物を届けに来た、などと騒いで居りますが、ゆすりたかりの類でございましょう。すぐに退散させまする。では。」「いや、待て!逢って見よう、離れに通せ。」「はっ。」怪訝な面持ちで立ち去る従者の背中に眼をやりながら、備前守は自らの心に焦りが生じておることを、はっきりと感じていた。勅使の到着は数日後に迫っていた。もはや一刻の猶予もならなかったのである。

「わしに会いたい浪人とは、そのほうか。」ご老中様の面前で頭を下げぬとは無礼であろう、と詰め寄る傍用人を戒め乍ら、備前守は眼の前に座る浪人を見た。眼光鋭く、右頬に刀傷らしきものがある不敵な面構え、歳は三十前後に見える。がっしりとした身体付きで無精髭を生やしており、長く伸びた髪を首の後ろで結んでいる。こちらの備えを察知したのか、古びた着物の袖口から延びた頑強そうな左手が、引き寄せられた鱗紋の鍔に赤鞘の大刀をがっちり掴んでいる。その姿に、政務に明け暮れる周りの者達にない武骨さを感じながら、備前守は返答を待った。「あんたと二人だけで話がしたい。心配御無用、あんたは大事な取引相手、危害は加えぬ故、隣の部屋の殺気だった連中も退散させていただきたい。そのほうが、あんたにとっても都合のいいはず。如何かな。?」「よかろう。松衛門、下がっておれ。」忌々しい表情をした側用人と供に、隣の部屋の気配が消えたのを確かめると、鬼十郎は刀の柄を離した。「で、話とは何だ。」「そちらに引き取ってもらいたい品ある故、参上いたした。」「引き取ってもらいたい品?」「さよう、将軍家の蔵から密かに持ち出されし物。」「はて?見当もつかぬが。」「・・どうやら、手渡す相手を間違えたようだ。では、御免。」立ち上がって帰ろうとする鬼十郎に「まあ待て!ゆすりたかりの類ではないらしい。詳しい話を聞こうではないか。まあ、座れ。」そう言って備前守は席を起つと、自らの手で開け放
たれた障子を閉じた。

  数刻の後、老中屋敷の門を後にした鬼十郎は、にやりと薄笑いを浮かべながら、もう一方の交渉相手の屋敷へと向かっていた。「さて次の客にはいくら吹っかけてやろうかな。・・。」その足取りは自然と軽やかに早くなっていった。その後を、人ごみに紛れ、一匹の猿を肩に、付かず離れず追う者がいることなどには、全く気付かなかったのである。          

「これを届けに来た浪人とやらは、まだ表に居るのか。」書状を丸め、懐に入れ乍ら左衛門之守は従者に訊ねた。「いえ、門番の話だと、ただご家老にお渡し願いたい、とのみ言い残し、姓名も明かさずすぐに立ち去ったとか。」「さようか。その方は下がってよい、田辺真六を呼べ。」「ははっ。」

「して、その品は何処にある。」真六は入口の襖を部下に閉じさせ、宗十郎頭巾を取ると立ったままで鬼十郎に話しかけた。「、今此処には無い。さる場所に隠してある。」「素浪人の分際で身の程を知らぬ奴め、我等を相手に取引をしょうなど笑止千万。さっさと白状した方が身のためだぞ。お前も首を斬られて大川に浮かびたいか!」「やはり、あの老人の首を斬ったのは、お主たちか・・・だがこの俺にはそんな脅しは効かぬ。ここは吉原、まあそんなに固くならずに座れ、腹を割って話そうではないか。」「おのれ、言わせておけば!」真六は思わず刀の柄に手を掛けた。「ほほう、ここで俺を斬ろうというのか、面白い、やってみろ!身の程知らずとはお主達の事だ。よいか、ここは三千もの遊女を相手に、上は公方様から下々は乞食に至るまで、おおよそ男なら通わぬ者はないという、天下一の色里だ。ここで騒げば、お前たちの噂は半日も経たずしてたちまちこの町中に広がり、あくる日にゃあ待ってましたとばかりに瓦版屋が、吉原で腰の者を抜き間違えた野暮な侍がいると、連日名指しでお前達の事を書き立てて江戸中にばら撒き、二日後にゃあ長屋の便所紙となって用足しに使われ
、七日も経てば芝居になって市村座に掛かり、草子本になって蔦谷の店先に積み上げられ、やがては江戸にやってくる幾 十万もの旅人の土産話となって、この国の津々浦々まで知れ渡ることになるのだ。鵜目鷹の眼でネタを探しそれで飯を食ってる連中は、お前たちにとっちや命よりも大事な家名に傷をつけることなんぞは、屁とも思っちゃあいねえ!そんなことになりゃあ、お前たちは残らず詰め腹を切らされ、家族は忽ち碌を奪われて路頭に迷うことになるのは必定。それでもよいというのか!」、鬼十郎の勢いに押されたのか真六は、雑用女が恐る恐る出した座布団を押しのけながら、その場に座らざるを得なかった。         

「三次の知らせによると、あの茶屋の二階に寝泊まりしているらしい。」硅次郎が指さした先には、葉を落とした桜の老木を背景に、寒風に吹き飛ばされそうな古い一軒家が建っていた。入口の暖簾には屋号はなく、いかにも無宿人が屯して居うな場所である。「この辺りまで見回りに来る町方は、滅多にいるもんじゃねえ。それに長命寺の花見客も、此処まで足を延ばす者はまあ居ねえだろう。隠れ家にゃあ持ってこいの場所だなあ、征さん・・。」そう言っているうちに、様子を見に行った三次が帰ってきた。「旦那、奴も女も居ませんねえ。ただ台所で、年老いた飯炊きらしい婆さんが一人、繕いものをしておりやした。」「どうする?征さん。」「鬼十郎殿は、この様な場所を転々と変えながら暮らして居るのかも知れぬ。きょうのところは、戻りましょう。日も落ち寒くなってきたし腹も空いて来た、腹が減っては戦が出来ぬ、と言うではありませんか。」「いやあ、実を言うと、おいらもそう思っていたところさ。三次、寒い中ご苦労だった!帰って熱燗で一杯えやるか!」「そいつあ、有り難てえ!は、はっくしょん!ちきしょう、冷えやがるぜ、今夜あたりまた雪ですかねえ・・。」椚木林を抜ける三人の頭上に、鳥の鳴き返しが、寂しそうに響いていた。


           第二の惨劇


  凍りそうな月が、時々黒く重たそうな冬雲の間から顔を出し、木々の間に降り積もった枯葉を照らしていた。それを踏みしめて寒さに耐える覆面の一団が、走り寄って来た見張りの合図で、一斉に木々や茂みの間に姿を隠した。遠くに見える石の鳥居の間から人影が現れ、こちらに近づいて来る。境内の隅の手洗い場の近くで歩みを止めたその人物は、両手を懐に入れたままで周りを取り巻く闇に向かって、話始めた。「約束が違うぞ、真六とやら、お主が一人で来るのでは、なかったのか。」と声を発するや否や、ばらばらっと抜刀した者達が彼を取り囲んだ。「長谷部鬼十郎!ここがお前の死に場所だ!痩せ浪人の分際で我等と張り合おうとは愚かな奴。斬り捨てい!」「きえええい!」八双に構えた一人が斬り掛かった。くるりと身を翻した鬼十郎の周りに白刃が煌めいた瞬間。斬り掛かった者の身体が一瞬止まったかと思うと、肩から腰にかけて斜めに真っ二つに別れ、血しぶきを噴出しながら地面に崩れ落ちた。余りの凄まじさに度肝を抜かれ、円陣を乱した者達に向かって、頭上の天を突き刺すが如くに、真っ直ぐに立てられた鬼十郎の一刀が、容赦なく襲う。その動きは矢のように速く、わずか一呼吸のうちに、ぴゆっ!ぴゆっ!という刃音だけを残し、断末魔の声をあげる暇もなく或る者は、顔を斜めに削がれ、或る者は首を刺し抜かれ、また或る者は腹わたを飛ばしながらその場に倒れ込んだ。振り向いた鬼十郎の表情に真六は、全身が凍り付いた様な衝撃を覚えた。真六は見たのだ、血刀を頭上に振り翳し髪を振り乱して、屍が転がる血の海の中を大きく眼を見開き、泣き声とも笑い声とも区別がつかぬ奇妙な叫び声をあげながらこちらに向かってくるその男の顔を、この世のものとは思えぬ、殺戮の快感に打ち震えるおどろおどろしい悪鬼の形相を・・・。真六は我に返って刀の柄に手を掛けた直後、その手が身体から離れ足元に落ちるのを見た。そして自分の身体が地面にぶつかり、枯葉にまみれるのを感じた。 やがてなま温かいものが頬の周りを満たし始め、やがてその感覚も消えた。「・・・母上・・・・志乃・・。」

 あくる朝、莚を掛けられた見るも無残な五体の惨殺死体を見回って後、見物人の輪を離れ、同僚たちの眼を気にしながら硅次郎が小声で囁いた。「征さん、奴の仕業かい?」「五人とも一太刀にて絶命しており、おそらく声を上げる間もなかったでしょう。九分九厘間違いなく・・・。」このままにしておいては、犠牲者が増えるばかりだ、もはや一刻の猶予もならぬ。そう思う征四郎の胸の中に、ふと母の面影がよぎった。  



      
        決意



 小春日和の庭に莚を広げ、目白が囀る山茶花の小枝の下、とんとんと男が一人小槌で藁を打っていた。その向こうの農家の古びた縁側には白く粉の噴いた干し柿が下がり、障子に影を落としている。「又平!久しいのう。」聞き覚えのある声に又平は打つ手を止め、「せ、征四郎様!」と、眼を輝かせて走り寄る、と訪問客の両手を握りしめ飛び上がって喜んだ。そして手を離さずに顔を反転させ、「ご新造様!ご新造様!若様が、征四郎様が来られましたぞ~!」その声に障子が左右に開き、白い頭の手拭を外してこちらに見入る浪江の顔に、一瞬の間をおいて安堵の微笑が広がっていった。「母上、お久しぶりです。お元気そうで何より。」「そなたのほうこそ・・。 さ、そんなところに 立っていないで、遠路さぞ疲れたであろう、中へお入り。」

 母上 、苦労をかけます・・・。」「なんの、そなたの苦労を思えば、母のはしれたもの、気遣いはいらぬ。それに田舎暮らしはなかなか良いものですよ。又平の母御ともうまが合い、他界した私の母のように思えて、自分の歳も顧みずついつい甘えるしまつ、この間も母上と呼んでしまい、なんだか娘時分に戻ったような気分になってしまいました。」そう言って湯呑みを片手に思い出し笑いをする母を見て、征四郎は思った。― これが、今生の別れになるかも知れぬ。母上、いつまでもその笑顔を絶やさずに、お元気で長生きしてください。― 征四郎は、胸に込み上げて来る熱い思いを、眼の前の母に覚られまいと必死にこらえていた。

 男坂を登りながら、征四郎は幼いころに引かれた父の手の大きさと、その温もりを思い出していた。軽々と抱き上げられ、見せられた仁王門の金剛力士の顔貌に恐れ慄いた記憶も懐かしかった。ここ、目黒不動尊の線香の煙が漂う境内には、今日もそれぞれの願いを胸に、参詣者の列が絶え間なく続いている。何人かの人々と供に本堂内に座し、加持祈祷を受け真言を唱え、 ― 南無不動明王、我に邪剣 を打ち破る知恵と勇気を与え給え。―と心に念じて、守り袋を胸に寺を後にした。心の迷いを捨て、差し迫った生死を賭けた戦いへの恐怖心を拭い去るためである。遠い昔、父政左衛門は小さな手を合わせ眼を閉じている自分の耳元で、こう囁いた。―「よいか、征四郎。お前も侍で腰に大小の刀を帯びている以上、いつか命のやりとりをすることが起きるかも知れぬ。その時、死を恐れていては決して生き残れぬと思え。相手を倒す前にお前の心の中の恐怖に打ち勝たねばならぬ。真の敵はお前の心の中に居るのだ。心頭滅却すれば、火もまた涼し。剣を片手に火炎を背負う明王のお姿を、おのれの心深くに強く念ずれば、必ずやその恐怖に打ち勝つ助けとなるであろう。ただ忘れるな。戦うのはおのれ自身であり、頼れるのは、おのれただ一人であることを・・。」―

                                                     

        二通の果たし状


  小雪が舞う中、長屋に帰り着くと、雪を払う征四郎の傍にお久が近寄って来た。「征さん、お帰り。これ、あんたにだって・・。」そう言って、手紙らしきものを差し出した。「私に?」「それがね・・、末娘の千代が木戸の前で遊んでると、肩に猿を乗せた知らない男の人が近づいてきて、これを征四郎さんに渡してほしいと言って駄賃をくれ、直ぐに行っちまったん
だって。あっ、そうそう、これをあたしに見せた時にあの子、妙な事言ったんだよ。」「妙なこと?」「これを持ってきた男の人、征四郎おじちゃんによく似てたって、ただ右のほっぺに黒子があったけど、あの人おじちゃんの弟なの?って・・・・。もっともまだ三つになったばっかりの子供の言うことだから、あてにならないけどね。」「おっかあ!ご飯おかわり。」「はいはい。じゃあね。確かに渡したよ・・・。」「お手数を、おかけしました。」包み紙の裏表は白紙であった。家に入り中身を見た征四郎の顔に緊張が走った。その書状にはこう記されいた。

  ― 明晩、戌の刻、小塚原にて待つ、長谷部鬼十郎 ―



  「お婆、そなたの好物の鹿の子餅を買ってきたぞ。慌てて咽喉に詰めるなよ。腹が減った。何か食わせてくれ・・・。」居眠りをしていた老婆は、何時になく素早く起ちあがったかと思うと、台所の隅から書状を取り出して鬼十郎に手渡し裏表に差出人の名はない。開けてみると文面にこうあった。

  ― 明晩、戌の刻、小塚原にて待つ 嵯峨征四郎 ― 

「お婆!これを届けに来たのは、どんな奴だった?何か言っていなかったか?」そう何度訊いても、耳が遠く、眼の不自由な老婆はただ首を横に振るだけだった。     

 その日の夕刻、征四郎は腹ごしらえを済ませ、身支度を整えると、先ほど送り届けた紗枝宛てに書置きをしたためた。もし、あすの朝になって自分が戻らねば、八丁堀同心、松井硅次郎を訪ね、小塚原へ遺体の引き取りに来てもらうよう依頼する事、その後は決して自分の後を追って自害してはならぬ事、新しい伴侶を見いだし、その相手と供に幸せに暮らしてくれることを、真に願っている旨、書き残すと、住人に気付かれないよう、そっと長屋を出た。もはや思い残すことは無い。雪が止み、晴れ渡った冬の夜空に月が煌々と輝き、大江戸の家々の屋根を照らしていた。その影を踏みしめながら、征四郎は、一路、小塚原を目指して歩み始めた。  


  小塚原の決闘


 夥しい数の人々が露と消えた刑場の土の上に、凍り付くような白い月の光が射し、向かい合う二つの人影が、墓穴のように黒く並んでいた。周りの草葉の陰には、浮かばぬ罪人の亡霊のみか、やがて始まるであろう屍の奪い合いに遅れまいと、血に飢えた野良犬や狼たちがひっそりと息を潜め、じっと獲物の動きを見つめているに違いなかった。「遂にこの時が来たな征四郎。いつかは老いぼれ坊主の邪魔がはいったが、今度は逃しはせぬ。ここに己の無残な屍を晒し、狼どもの餌食となれ!」「何の罪もない多くの人々ばかりか、実の父まで手に掛けるとは、犬畜生にも劣る奴。これ以上罪を重ね、恥を晒したく無くば、この場で潔く腹を切れ!それが亡き源芯斎先生に対するせめてもの供養ぞ!」「ほざくな征四郎!お前に何が判ると言うのだ。お前に一体、俺の何が判るというのだ!貴様のような善人ぶった、驕り高ぶった奴を見ると、反吐が出らあ。何が武士だ!何が忠義だ!世の中の裏を、人の心の裏を、おのれの心の裏をようくみて見ろ!そこは色と欲の、どろどろした醜い浅ましさに満ちているではないか。人間も一皮剥けば、みんな獣と変わらぬ。違うか!」「哀れな奴・・・。」「何!」「きっとお主は、人の醜さを見すぎたのだ。人にはお主の言った醜い面もあるがそれだけではない。人は同じ人間同士供に助け合い、信じあい、相手の心を思いやり、愛しい人の幸せを心から願い、他の人々のために惜しげもなく自分を捨てることも出来る尊い面も併せ持っているのだ。剣の技は人を斬るためにあらず。己の心にある醜い煩悩を絶つためにあるのだ。人として真っ当な生きる道を開くためにあるのだ。目を覚ませ鬼十郎!お主の生き方は間違っている。お主の剣も自らを滅ぼす、誤ったものだ!」「言うな征四郎!ならばここではっきりさせようではないか。お前の剣が正しいか、それとも俺の剣が正しいか。決着をつけようではないか。どうだ!」「兄弟同様のお主と、剣を交えることだけは避けたかったが、これも運命か・・・。」「抜け!征四郎。ゆくぞ!」言うなり鬼十郎はぎらり村正を抜き放ち、月を背に大上段に振り被った。それを受けるかのように征四郎は腰を落とすと、正宗の柄に手を掛けすうっと抜き放つと、ぴたり正眼に構えた。互いに満円の月を背中にしようと構えをそのままに、つつつうっと足早に動き、「きえええい!と打ち下ろした鬼十郎の一撃をカシーンという音とともに跳ね徐けた征四郎は、即座に横に飛び退き、二人はお互いに月光を左右に受けながら、二間余りを隔てて向かい合った。すると八双に構えた征四郎の口が開いた。「恋しいか?」「何?」「母が恋しいか?鬼十郎。母の乳房が、その温もりが恋しいか・・。もう一度母の胸に顔を埋めて、甘えたいか、長谷部鬼十郎。ならば来い!私がそれをかなえてやろう。」その言葉に鬼十郎の身体が次第に震え始めた。そして眼を大きく見開き、顔をゆがめ引き攣らせながら、「おのれ!おのれ!いうな!いうな!殺してやるううう・・・!いやあああああ・・・・・!」と獣のような叫び声をあげ、狂ったように切り掛かってくる。それを、カシッ!カシーン!カシーン!と火花を散らしながら前後左右に身体を開き、受け流していた征四郎は、相手の胸元に飛び込み鍔を交え押し合った瞬間。ふあっと飛び退くと同時に持っていた正宗を逆手に持ち変え、眼にも留まらぬ速さで、鬼十郎の眉間に向かって投げつけた。眼前に迫り来る二尾の銀色の龍を反射的に首を振って避けた鬼十郎の視界から一瞬相手が消えたように見えた。そして・・・・・。鬼十郎は遠のく意識の中で、久しぶりに父の胸の鼓動と、汗の臭いと、温かみを感じていた。それとともに次第に身体が冷たくなってゆくのを・・手から刀が滑り落ちて、自分の心が次第に子供のころに返ってゆくのを・・焼けつくような腹の痛みを・・・。「父上・・母上・・・。お腹が・・お腹が、痛い・・よう。」そう言いながら、鬼十郎の身体は征四郎の胸から離れ、その足元にゆっくりと崩れ落ちていった。その場に棒立ちになったままの征四郎の右手には、血塗られた村正の脇差が握られていた。一回転し土まみれになった征四郎は、じっとうなだれたままで、その大きく震える背中には、初めて人を、しかも兄弟同然の者を手に掛けてしまった後悔と、懺悔の思いと深い悲しみが重く冷たく圧し掛かり、とめどなく溢れる涙に、仰ぎ見る月が形を成さなかった。「あああああああ・・・・ああああああああ・・・・。」征四郎の絶叫が、凛とした寒夜の静寂を引き裂くと、それに呼応するかのように、あちこちの茂みから狼たちの遠吠えが起こり、あたかも小塚原に蠢くすべての怨霊たちが一斉に苦悩の叫びをあげたかのように、辺り一面、何度も何度もこだました。

 半時後、群がる獣たちを追い払い、屍の傍に転がる血の付いた脇差しを拾う者がいた。獣に引き裂かれた死者の袖で血を拭い、俯せの遺体を返して帯の間から鞘を引き抜き、刃を収めると、それを手に何処ともなく去って行った。

「ご苦労であった。この度の事、そちの働きにより、この老い腹斬らずに済んだわ。望みの物を与えよう。何なりと申せ。」闇からの返答は無く、一羽の梟が、音もなく月の夜空に飛んで行くのが見えた。その行方をしばらく眼で追っていた備前守は、「うむ、それが望みであったか・・・。」そう言って頷くと何事も無かったかのように、ゆっくりと障子を閉めた。

      
                  [ 完 ]



        



                                         〔 完 〕            

  
     *この物語は完全なるフィクションであり、実際に存在する人名や地名、その他の一切の事物とは、全く関係がありません。(筆者敬白)

征四郎疾風剣  〔Ⅰ〕

征四郎疾風剣  〔Ⅰ〕

  • 小説
  • 中編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-12-25

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