続・家族(ダイジェスト)

続・家族(ダイジェスト)

私が高1の夏休みの宿題で書いた作文と、
32歳のとき、61歳で亡くなった親父の葬儀での挨拶文です。

どちらも家族について赤裸々に語った”ダサい”内容で、
また高1の作文には、誤字・脱字、誤用が散見され、
恥ずかしさもあるのですが、そのまま載せます。

「家族」(1996)

 僕の父は、性格的にはあのアニマルズの「朝日の当たる家」に出てくる親父に似たろくでなしで、酒ばかり飲んでろくに仕事にも行かない。週三日休むのはいつものことで、時には週四日休むこともある。これでよく給料もらえるものだと、家族や親類みんなが呆れている。金もないのに賭事が好きで、麻雀ばかりやって、借金を山ほど生んで、貧しい家をますます悪化させた張本人である。頭はいいようだが、さすが僕の父親で、僕より気違いじみた事をする。慣習を全く気にしないという点が表に出る時はいいが、裏に出ると見れるものではない。いつも全てがうまくいっていないようなので機嫌が悪く、いつもけんか腰である。

 一方、母は、気まじめや勤勉ではなく、いつも寝てばかり、時間にルーズで、議論をしてもいつも問題とは関係のないことを言う。いつも人の陰口を言う。本人は陰口のつもりでも相手に聞こえてたりする。またこの陰口が長いのだ。
 一つ母の時間にルーズな面の例をあげよう。昼食はだいたい二時半。小学校に入るまで、「おやつ」という言葉は昼食のことだと勘違いしていたぐらいだ。小学校に入って、時間通り食べられる給食をどんなに不思議に、また感激に思ったことか。

 僕の家族には、あと妹が二人いる。二人とも中学生になったせいか、自己主張するようになったが、度が過ぎてわがままである。年から年中、つばめのひなみたいに騒いでいる。

 こんな連中が狭い家にいっしょに住んでいるから、これまたひどい家になってしまう。どのようにひどいかと言えば、毎日毎日家のどこでも内戦が起こる。ただ僕の六畳一間を除いては。たまに祖母が来た時に自衛戦争がある。どうせ祖母だって金を借りにか、家族の誰かに悪口を言いにしか来ないんだから。家に僕を除いて二人いれば必ず小戦闘はある。


 パターンは十五年間見てきて、だいたい決まっているように思われる。

 例として、父と母の場合をあげてみよう。原因の多くは、食事の事か金の事である。食事の場合は、母が食事をかなり遅い時間に作ったり、作らなかったりするときである。一方、金の場合は、ろくに稼ぎもしない父が要求するときである。

 出出しはいつも父である。「金!」か「飯くれ!」と大同小異なことを怒鳴る。母は「仕方がないでしょ。」みたいなことといっしょにいいわけと何か皮肉を言って小反撃に出る。そこで父は「つべこべ言うな。オレにゃこうこうの理由があるんだ。」と大義名分もどきを言う。「だけど、前はああだったじゃない。」と母は父の罪を根掘り葉掘り言う。時には関係のないことまで。そこで父は「うるさい!」と一喝して、自分の部屋に立籠もるか、外に出るかする。その後母は、独り言か子供達に話しているか知らないが、決まって台所で父の文句を延々と言い続ける。こういうことが毎日、我が家では繰り広げられているのである。

 一方、僕は何をしているかと言えば六畳の自分の部屋でどのけんかにも関わらず、安全地帯を築いている。どんなに激しい争いになっても安全地帯を保って、止むのをただひたすら待つ。何事も手がつけられないのなら、待つのが一番。

 しかし、待つのだって楽じゃない。ふすま一枚で仕切った部屋ぐらいでは、小さな紛争でもときの声は聞こえる。うるさくてたまらない。たまに僕は、ビートルズの「All You Need Is Love」やジョン・レノンの「Imagine」をかけて平和をアピールする。

 勉強している時にもめごとが起こったら、音楽を流したり、問題に集中したりして、ひたすら自分の世界に入る。さわがしいところで集中して勉強できることは、僕の悲しい自慢である。これが裏目に出て、何か音が聞こえないと耳鳴りがして頭がおかしくなる。高校の推薦入試の控え室、どんなに辛かったことか。そして、静寂を破るために、どんなに努力したことか。

 家族の話に戻るが、全く、血のつながった同士で年中無休、けんかができるものだ。この人達は愛し合っているのだろうか。こう思えるくらい愛のない家だから、僕は親も妹もみんな嫌いだ。いなくなってしまって、良き人に思えるものなら、みんなあの世に行けばいいのに。いや四人行くのは手間がかかる。僕一人が行けばいい。待てよ、死んだら家族が良いものに感じれるのかわからない。ちょいと八兵衛、そこまで行って見てきておくれ。

 家族ですら愛せないのだから、外の人も愛せまいと僕を非難する人がいるだろう。実は僕もそう思う。だから僕は誰も愛せないし、誰からも愛されないだろう。親族同士なのに憎み合い、啀み合う人々を見て、この人達と血がつながっていると思うと、自分はきっと誰をも憎み、誰からも憎まれるのだろう。


 先日、ある男の友人とビーチに行った。初め、ルネッサンス沖縄のビーチに入る予定であったが、行ってみると施設利用券が高い高い。払わないで入る気にもなれなかったので、万座ビーチに行くことにした。ところが次のバスまでまだまだ時間があった。だから歩いたら、二本逃した。やっとムーンビーチ前に着いて乗ったのが、一二〇番。観光客相手のこのバスは、地元の僕達からも容赦なく高運賃を取った。どうにか万座ビーチに着いて泳ぎ始めたのが午後三時半。五時頃から曇り始めて、三十分震えながら耐えたが、雨が降り始めたので浜に上がって、着替えて帰ることにした。バス停に行ったら、バスが来るまでまだ少し時間があったので、相棒はジュースを買いに少し離れた自販機へ。僕は独り、バス停で、今日一日のことを思い起こし、なんだかとても悲しい気持ちに包まれていた。

 そこへ若い女性観光客二人組がバス停に来て、バスの時刻表、いやバスの番号の意味がわからなくて困っていた。そこで僕はなぜか急に「どうしましたか。」と尋ねた。彼女達は国際通りに行きたいようだった。この後すぐに那覇行き牧志経由のバスが来たので、あのバスだ、と教えた。彼女達はバスに乗る折りに、そろえたのかそろったのか知らないが、ありがとうと言った。近視なので四メートルほど離れた彼女達の顔はぼやけてよく見えなかったが、難聴ではないおかげで声だけは、はっきり聞こえた。この言葉は僕の心をさわやかにした。笑顔を返したつもりだが、あまりにすがすがしくなって自然と笑ったのかもしれない。こんなに自分が素直な人間だったのかと自分でも驚いていた。別に若い女性だったからではない、と思う。変な疑いはよしてくれ。あの言葉を受けた時、真っ直ぐ、飛び込んで打った面が決まった時の響くような音が聞こえた。

 彼女達が乗ったバスが行ってすぐ、相棒がジュースを買って戻ってきた。どうしてもう少し早く戻ってこなかったんだ、同じ那覇行きの人達だったから、一日中、男といっしょという悲しい事実から抜け出せる所だったのに、と冗談で軽くなじった。確かにそうだった。これもこの日の愁いの一つだった。

 帰りのバスはかなりオンボロで、エンジンの音が、ブンブンともゴーゴーとも聞こえる騒音の中で那覇までの約二時間を過ごした。

 しかしそんな中でも僕は機嫌が良かった。全く知らない人に自分から声をかけて手助けした自分を自分で誉め、また感謝される喜びを味わっていた。そして自分もそんなに悪い人間でもないように思えた。 バスを降りて、相棒と別れてから、僕は独り、暗い細い道を通っていた。その道は幼いころ、バス停へ行くのにもバス停から帰るのにも母といつも通った道で、その頃はまだ舗装されてなく、でこぼこで側に草が生えていた。その側の草の中に紫色の小さなかわいい花が咲いていて、僕はしゃがみこんで見つめていた。母はそれがすみれの花であることを教えてくれた。その時の母の顔は優しそうだった。そのすみれが咲いていた道は、今やコンクリートで舗装されて、なだらかな坂は階段となり、すみれどころか雑草すら生えていない。

 ひょっとすると母はそんなに悪い人間でもないかもしれない。父も同じような顔を見せたことがあるし、妹達もかわいい顔を見せたことがある。父も妹達もそう悪い人間ではないかもしれない。ということは、そう悪くもない人間が、そう悪くもない人間を相手に、大した理由もなしに対立している。とすると、もともと人間は対立が好きなんだろう。対立を好むことは人間の性なのだろう。僕はこの辛い現実を十五年間見てきたし、今からも見続けるのだろう。

 しかし、父と母は少なくとも結婚する時は、助け合い、協調し合っていたのだろう。また、あの観光客の人達も、もし近所に住んでいたら、いい友達になって互いに助け合っていたかもしれないし、僕が知らない土地で困っている時に、僕と同じように僕を助けてくれる人はいるだろう。それから、相棒だって知り合ってからもう十年も経って、互いに助け合ってきたし、助け合っていくのだろう。

 こう考えてみると、人間は血で血を洗うこともあれば、全く知らない人と助け合うこともある。だから、人間はどんな人とでも対立するし、またどんな人とでも協調するのだろう。

 だからきっと僕も人を憎み、人に憎まれ、人を愛し、人に愛されるのだろう。


   (開邦高校文集「雄飛」第10号 pp.29-32)

「亡父 葬儀 遺族代表挨拶」(2012)

本日はお忙しいところ、ご会葬頂き、誠にありがとうございます。


故人は生前、本当に好き勝手に、
ハチャメチャやっておりましたが、
家族から見ると、いつもどこか不満で、
常に怒りを抱いているように見えました。

父は愚痴や悪口は決して口にしませんでしたが、
悲しさや淋しさといったネガティブな感情までも
ぐっと力を込めてこらえてしまい、
家ではいつも緊張していました。

私が物心ついて30年余り、
父が家にいるとピリピリした雰囲気になり、
いつもケンカが絶えないものでした。

末期ガンとわかって治療を放棄するのも、
昨年11月に「あと2,3日」と医者に言われて、
別居先のアパートで孤独死を決意したのも、
この怒りの表れの極みだと思います。


しかし、最期に奇跡のようなことが起こりました。

たまたま、孤独死を決意した父に電話をかけた、
高校のご友人が容態の異変に気付き、
医者のご友人を連れて半ば強制連行の形で父を入院させました。

翌日、緊急手術で、一時一命を取り留めました。

このとき私はたまたま高校の友人の結婚式に招待され、
沖縄に帰省する機会があったのですが、
そこで初めて父の病気のことを知りました。

帰省中の一週間、毎日父の病院に面会に通って
父と時間を過ごすことができました。
ただこのときですら、
まだ父は父の周りで起きている小さな偶然の連続の意味、
自分が生かされているということは、
まだ理解できていないようでした。


そのあと、私は東京に戻り、
父は11月末に一時退院するのですが、
偶然の糸が続いて、
10年余り戻ることのなかった家に戻って、
最期の日を過ごすことになります。

以前でしたら口論が絶えなかったのが、
ケンカ腰で正論を押し付けていたのが、
このときにはただニコニコと受け流して、
とてもリラックスして過ごしていたようです。
それはとても満ち足りた幸せな一か月余りだったようです。
幼い時から、
いつもケンカ腰で、不満を溜め込んで、
こらえて、怒っている父を見てきた私にとっては、
生まれ変わったとしか言いようがありません。

神も仏も天国も地獄も輪廻も信じない、
根っからのマルクス唯物論者の父にとって、
死後の世界が実際どうなのかは興味がなかったと思いますが、
この生で幸せになったことは、
この生で生まれながらにして救われたこと、
人がなぜ生きているのか、
その意味を悟ることができたと息子として確信しております。

父の最期の幸せな一か月余りは、
またこれまで30年余りバラバラだった家族が
やっと一つになった時間でもありました。

兄の私は東京にいて、幸せな父を妹伝いで聞いて、
実際自分の目で見ることができなかったのは多少心残りですが、
兄妹ともども、父が死ぬ前に幸せになれた、
間に合ったぁ、本当に良かったぁ、と思っています。


幸せな最期の1か月余り、
父はきっとこんなことを感じて日々を過ごしていたと思います。

  この会場にいらっしゃる方、
  いらっしゃれない方、
  これまでの人生で出会った全ての人、

  いろいろ苦労や迷惑をかけて悪かったサァ、

  いろんなことがあったけどもういいサァ、

  これまで大切にしてくれて、本当にありがとう、

  あなたと会えて幸せだったサァ

  死後の世界はよくわからんけど、
  毎日毎日、僕らは生まれ変わっているからサァ、
  みんな、苦しみや悩みから自由になって、
  これからの人生、幸せになってね。


きっとこんなことを言っていたと思います。


あまりこなれておりませんでしたが、これで挨拶と致します。
本日は誠にありがとうございました。

2012年1月18日 長男 哲郎

最後に~感謝と祈り~

ここまで長文を読んで頂いてありがとうございます。

哲郎は16歳のとき、
絶望の淵で見た一縷の光を信じて、
  人は、憎み、憎まれ、愛し、愛される
と希望を抱いて生きていくのですが、

自分の家族に対しては諦め、
コンプレックスにフタをしたまま
家族を遠ざけていました。

しかし、16年後、
ここではあまり詳しく語っていませんが、
哲郎は自分と向き合い、
そして、父の最期に奇跡を見ました。

哲郎はその経験を通して、
  人はただ、愛し、愛される存在、
  そのために生きている
と確信を持つようになります。


だけど、ここで語った哲郎や家族の話は、
別に哲郎だけに限った特別なことではないと思っています。


誰もがこれまでの人間関係に、
苦しみの種、ワダカマリを持っている。
そして、たいていの人は、
それにフタをしてごまかしている。

だけど、人がそれに向き合った時、
他人のせいにすることをやめた時、
その人はきっと何かを見る。


もし遠い昔に向き合うのを止めてしまった大切な人のことが頭に浮かんだのなら、
ほんの一瞬でもいいから、その人のために祈ってみてください。

もし今の自分ができることが思い浮かんだのなら、
どんな些細なことでもいいから、ためらわずやってみてください。

そのとき、きっと、自分の中に、そして周りに何かを見ると思います。


心からの祈りを込めて。
みんなが幸せでありますように。


2012/12/15 哲郎

続・家族(ダイジェスト)

この話の本篇は以下のページでお読みいただけます。

  星空文庫 「続・家族(草)」
   http://slib.net/26461


【作品画像】
毎日一緒に面会に通った次男(当時ほぼ4歳)
親父の入院先からの帰りのバス停にて。

【改訂履歴】
2014/01/06 : タイトルを「続・家族(ダイジェスト)」に変更
2013/11/08 : 『「家族」(1996)、「亡父 葬儀 遺族代表挨拶」(2012)』として星空文庫に投稿

続・家族(ダイジェスト)

【旧題:「家族」(1996)、「亡父 葬儀 遺族代表挨拶」(2012)】 私が高1の夏休みの宿題で書いた作文と、 32歳のとき、61歳で亡くなった親父の葬儀での挨拶文です。 どちらも家族について赤裸々に語った”ダサい”内容で、 また高1の作文には、誤字・脱字、誤用が散見され、 恥ずかしさもあるのですが、そのまま載せます。

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-11-08

CC BY-NC-ND
原著作者の表示・非営利・改変禁止の条件で、作品の利用を許可します。

CC BY-NC-ND
  1. 「家族」(1996)
  2. 「亡父 葬儀 遺族代表挨拶」(2012)
  3. 最後に~感謝と祈り~