続・家族(草)

続・家族(草)

これは私の体験をもとにした物語です。

登場する人物の名称にはカタカナの仮名を使用しています。

プロローグ:父からの電話

 10月末、秋晴れのさわやかな朝のことでした。
 その日、私は、東京郊外の自宅で、二人の息子と妻が出かけた後、独り静かに過ごしていました。
 そこへ、家の電話が鳴りました。地元沖縄の父からでした。
「ハーイ、テツオくん、誕生日おめでとう!」
「あ、父さん。ありがとう。」
「テツオくん、君はもう32歳になったか。」
「うん、そうだね・・・。ところで、前に話したけど、来週末から帰省するから、そのとき家族みんなで食事するお店の手配、よろしくね。」
「あ、うん、モミジかツグミかに頼んどくサー。楽しみにしているサーネ。」
「うん、それじゃ、またね。」
「うん、またね。」
 会話はこれだけ、ほんの二、三分でした。
 秋の温かい陽が窓から差し込む、とても穏やかな朝でした。

1.実家と私

 誕生日から二週間後、沖縄で行われる高校時代の友人の披露宴に出席する予定で、久しぶりに帰省することになっていました。

◆ 過去の帰省
 高校卒業後、沖縄を出てから、すでに10年余り経っていました。その間、私が帰省したのは、成人式のとき、大学卒業のとき、結婚式とその準備のとき、そして次男ユウゾーが生まれてしばらく経ったときの、五回でした。
 高校卒業後、仙台の大学に進学した私が、初めて帰省したのは、大学二年の冬休みで、地元での成人式と、いくつかの同窓会に参加するためでした。そのとき、私は年末年始の二週間を地元で過ごしました。その間、私は実家に滞在していました。
 ある晩、同窓会から帰ってくると、父と母がものすごい剣幕で言い争っていました。実家で暮らしていたころなら「我、関せず」の態度を保ったまま、自分の部屋に入って寝たであろうものの、久しぶりの帰省のためか、あるいは酒に酔っていたのもあってか、このとき私はわざわざ仲裁に入っていました。
 そして、父と母の不毛な口論の中に飛び込んで、巻き添えを食らった私は、しまいにウンザリして、その夜、家を飛び出しました。家を出たところまでは覚えていました。翌朝、気づいたときには、私は大雨の中、父のオンボロ軽自動車の運転席で寝ていました。キーは運転席のドアに外側から挿したままで、車は駐車場から動いた形跡はありませんでした。もし運転していたら、ひょっとしたら雲の上にいたかもしれません。
 「やっぱりこんな家に帰ってくるんじゃなかった」と本当に後悔しました。
 その日から、連日連夜、飲み会や集まりで、外で友人達と過ごしていたため、家で家族とほとんど過ごさずに済みましたが、それでも家に戻ってくると、不機嫌な父だけか、愚痴っている母だけか、あるいは言い争っている二人を見ることになりました。この光景は私が幼いときから何も変わっていませんでした。
 この帰省以降、私は、自分に家族はないものという風に、存在を無視して、家族と関わらないようになりました。
 その後、大学在学中に帰省したのは、それから二年後、大学四年のときで、下の妹ツグミが18歳で生んだ姪に会いに行った一度だけでした。ツグミは子を産んだ後、すぐに離婚して、実家に出戻っていました。私は、就職前にこの姪に会って、せめて祝福だけはしたいと思い、帰省しました。ただ、家族とは極力関わり合いたくないという思いから、滞在はごく短いものでした。
 大学卒業後、東京の会社に就職し、入社一年目に、学生時代から交際していた妻と結婚しました。入籍するとなっても、妻を沖縄の両親に紹介する気などありませんでした。妻にも関わってほしくないと思い、実家の両親を遠ざけていました。しかし、「是非会いたい、そのために結婚式は沖縄でしたい」とせがむ妻に結局折れて、結婚式の準備のために、妻を連れて沖縄に帰りました。実家近くのホテルで滞在し、実家には妻を一度連れていっただけでした。そして、沖縄での結婚式のときは、妻の希望で二親等以内ということで、双方の両親と兄弟姉妹、祖父母だけで、こぢんまりと結婚式と食事会だけ行いました。
 長男ゲンタが生まれると、私の両親にも子供を見せるために帰省したいと妻から度々頼まれましたが、ハイシーズンは航空券が高く、オフシーズンは仕事が忙しいと言って、私はなかなか帰ろうとはしませんでした。しびれを切らした妻は長男を連れて毎年、二人だけでオフシーズンに沖縄に行っていました。
 次男ユウゾーが生まれたころ、仕事に少し余裕が出たのもあって、オフシーズンに長期休暇を取って、私は家族を連れてやっと沖縄に帰省しました。ただ、このときは実家に帰省するというよりも、東京から観光に来たという感じでした。実家には新しい家族を連れて少し立ち寄っただけで、あとは本島の観光地を巡ったり、実家近くの港から船が出ている渡嘉敷島に滞在したりと、内地からの観光客とほとんど変わらない滞在でした。
 その頃の私にとって、実家は本当に疎遠なものでした。
 この帰省後、仕事がどんどん忙しくなり、それから帰省することはありませんでした。

◆ 心との直面
 その後、私は仕事に、キャリアに、そして人生に行き詰まりを感じるようになりました。そして、とうとう私は、自分の心と真正面から向き合わざるをえない状況に至りました。
 このとき私が自分の心と向き合うためにとった方法は、呼吸と体の感覚に気づきつつ平静でいる、という言葉にすると至ってシンプルな方法です。
 心と体は密接に関係しています。深呼吸するとたかぶった気持ちが落ち着いたり、口を大きく開けて笑い声を上げているうちに本当におかしくなったりと、体への働きかけが心に与える影響を実感したことは誰にもあるかと思います。また逆に、心の変化は必ず体の変化となって表れます。思考や感情が心に浮かぶと、必ず体にもなんらかの変化、呼吸の変化や感覚が伴います。その体の変化に気づきつつ、体の感覚や思考や感情に囚われることなく、執着も反発もすることなく、ただあるがままに受け入れて、平静であり続けると、その体の変化は遅かれ早かれ収まります。そのときには、思考や感情によって乱れた心は穏やかに、ガチガチに強張った体は緩み、リラックスした状態になるのです。
 そうやって自分の心と向き合い始めると、ときどき、それまで思い出すことのなかった昔の記憶が突然、心の奥底から蘇ってきます。そんなとき、これまでの人間関係について思い起こすことが多くあります。そして、自分がこれまで人との関係にフタをしてきたことに気づき始めるようになるのです。
 そういうわけで、私は、これまで避けてきた家族との関係に向き合わなければならないと思うようになっていました。

◆ 帰省の準備
 友人の披露宴式に参列するために帰省することになったとき、この際、久しぶりに父や母ともゆっくり話がしたいと思いました。そこで、結婚式前の一週間、帰省することにしました。
 実はこの年、それまで熊本に住んでいた上の妹のモミジが旦那さんの転勤で沖縄に引っ越してきていました。実家で二人の姪と暮らしていた下の妹のツグミも含めて、私達家族五人が揃うのは、熊本でモミジの結婚式で集まって以来5年振り、沖縄では15年振りのことでした。ですので、せっかくなので家族揃って話でもしたいと思いました。
 また、まだ学校に行っていない、ユウゾーも連れていくことにしました。最後に帰省したとき、まだ一歳にも満たないユウゾーも連れていったのですが、そのとき、父はまだ単身赴任中で、まだユウゾーは父に会ったことがなかったからです。

 ところで、このとき、実家のアパートには、母と下の妹ツグミと二人の姪の四人が暮らし、一方、父はそのアパートから歩いて10分ほど離れたウィークリーマンションに暮らしていました。
 父は在職中、離島への単身赴任が多く、この前の年に石垣島で定年退職を迎えました。離島での単身生活が長かったせいもあり、荷物が多くなっていました。退職して那覇に戻ることになったとき、実家には荷物が入らないということで、とりあえず父は実家から近い部屋を借りて、そこで暮らし始めました。
 が、父が那覇に戻ってから一年半経っても、変わらず別居状態でした。
 ですので、私は帰省を知らせるのに、父と母の両方に知らせる必要がありました。

 10月中旬、私は父の携帯電話にかけて、帰省の予定を伝えました。そして、帰省のついでに、家族みんなで食事でもしようと提案しました。そのとき、電話越しで父は快く返事をしました。
 一方、母にも電話をかけて、同じように帰省の予定と家族での食事について話をしました。合わせて、実家の、もともと父が使っていた部屋に、とりあえず初日は一泊させてもらうよう頼みました。妹達からは、その部屋は荷物で一杯だと聞いていたのですが、小さいユウゾーと私の二人くらいなら一晩は泊まれるだろうと思っていました。歓迎と戸惑いで葛藤している母を電話越しで感じながら、実家に一泊することにして、電話を切りました。

◆ 作文の思い出
 両親に帰省の予定を伝えた私は、帰ったら両親とどんな話をしようか、考えていました。
 誕生日の翌日、高校時代の旧友達と東京で再会する機会があったのは、ちょうどそんなときでした。
 再会の場で、私が高校のときに書いたある作文のことが話題になりました。
 私は高校一年の夏休みの作文の宿題で「家族」という題の作文を提出しました。
 その作文は、家族同士いさかいの絶えない、仲の悪い家庭で育って、自分もきっと誰をも憎み誰からも憎まれるだろうと人嫌いに陥っていた自分が、そんな自分でも誰かを愛し誰かに愛されるだろう、という希望を書いた話でした。
 そんなあらまし以外、具体的に書いた内容はすっかり忘れていましたが、作文提出後のことが次々に思い出されました。
 宿題の提出後、その作文は、私の知らないうちに、その年の県の高校生作文コンクールで最優秀賞に選ばれ、そして、またまた私の知らないうちに、全校生徒向けに校内放送されることになりました。放送部の生徒が読みあげるのを全校生徒が教室で席に着いて聴いていました。ただ居たたまれなくなった私だけは、教室のベランダに出ていました。ベランダまで聞こえる放送を耳にして、教室のみんなに背を向けて壁に突っ伏して忍び泣いていた自分の姿が蘇ってきました。
 一方で、家族に読まれることを恐れて、家族にはその作文のことを決して口にしませんでした。
 そんなことを思い出しているうちに、ふと、いつか父にはあの作文を一度読んでもらいたいと、心のどこかでずっと引っかかっていたことを思い出しました。今となっては、作文の内容もすっかり忘れてしまっていたので、どうして父に読んでほしかったのかも思い出せなかったのですが、家族に作文を読まれることを恐れていた気持ちはいつしか消えていました。
 母校では、各学年の中から選ばれた作文が、毎年『雄飛』という校内文集に収められて、年度末に全校生徒に配布されていました。私の作文が収められたのは高校一年に書いた「家族」の一度きりでしたが、私は毎年『雄飛』を取ってありましたので、実家に帰ったら見つかるだろうと思っていました。

2.父の危篤

◆ 「風に吹かれて」
 11月に入り、沖縄に帰省する予定の四日前、私はなんとなくボブ・ディランを聴きたくなって、CDをかけました。
 ボブ・ディランは1960年代にデビューしたアメリカの歌手です。彼は人々に世情を問いかけるプロテスト・ソングをよく歌い、ベトナム戦争に反対する当時の若者達に特に人気の歌手でした。父も彼の歌を好んで聴いていたそんな若者の一人でした。
 私は、中学に入学して英語を勉強し始めたとき、父からビートルズやサイモン&ガーファンクルといった洋楽のオールディーズを勧められて、それらを聴いていました。
 まだ「Hello, I am Nancy.」程度しか習っていなかった私は、歌詞を見ても何もわかりませんでした。だから、四本罫線入りの英語ノートに歌詞を写しては、日本語の意味を父に聞いて書きこんでいました。ボブ・ディランの代表作「風に吹かれて」もそのように父に訳してもらった一曲でした。
 「風に吹かれて」の原題は「Blowin' in the Wind」です。これは歌のサビの「The answer is blowin' in the wind」(直訳すれば、「その答えは風の中に吹かれている」)に因んでいます。この歌は、世界中にある貧困や差別、戦争といった数々の苦しみが一体いつになったら無くなるんだという趣旨の問いかけを何度も、象徴的に言い変えながら繰り返し、「その答えは風の中に吹かれている」と何となくさわやかな、だけど謎めいた文句で締める、そんな歌で、当時の若者にとても人気のあった歌でした。
 中学生のころ、私はこの歌に心惹かれて、たどたどしい発音で何度も歌っていました。当時、私には肝心のサビの部分は全く意味がわかりませんでしたが、何か体制側の人々を批判する草の根活動家達の反骨精神が表われているようでカッコイイと思っていました。
 高校生になって、邦楽ポップスを聴くようになると、だんだんと洋楽オールディーズから遠ざかり、この歌もあまり聴かなくなりました。
 本当に久しぶりに、このCDをかけて、「風に吹かれて」を聴いていました。「それ」が起こったのはそのときでした。

 夜明け前の薄い暗い空の下、見渡す限り草原の丘の上に立って、
 涼しい風に当たっている、そんな感じ。
 体にまとわりついた汚れをサラサラにして吹き流していくような、そんな感じ。
 そんな風の中で、暗くぼんやりと色もなく虚ろな、人の形をして立っている自分の後ろ姿を眺めていました。その人の形をした自分の輪郭はジリジリと細かく放電しているような白くかすかな光に縁どられて、奥深い洞穴の入り口のようで、その空洞の中は暗くて何にも見えません。
 あぁ、「風」とはこれのことだったのか、そして、「風」の中に吹かれている「答え」とはこれのことだったのか、とこのとき初めて感じました。今まで、世界がうまくいっていないことを、自分が苦しんでいることを、全部周りのせいにしてきて、答えがどこかにある、誰かが持っているとばかり思っていたけど、実は答えはいつも自分の中にあるということだったのかと、理解しました。私はこれまで「なんとなくいいな」と思いながらも、素通りしてきた真実に気づき、自分の目は節穴だったのかと愕然としつつ、なぜか嬉しくて目から涙がこぼれました。本当に「答えは風の中」だった、と感じ入っていました。

◆ 妹からの電話
 その晩、外出先から家に戻った私は、留守中に上の妹のモミジからあった電話の伝言を聞きました。
 伝言によれば、実は父は肺ガン末期で、すでに心臓にも転移して、胸には水が溜まっている、余命はあと三、四日、長くても一ヶ月らしい、ということでした。
 4月に、末期ガンということはわかっていたようです。が、余計な心配をかけまいと父は今までモミジと私には黙っていたそうです。
 また「入院すると自由にできないから」と病院を飛び出し、別居先のアパートで暮らしていたそうです。
 病院を飛び出すのも、今まで黙っているのも、いかにも私の父らしい行動でした。

 父は酒も飲み、たばこも吸っていました。お酒は体質的に弱い方で、少しの酒ですぐに酔いつぶれていましたので、量はそれほど飲めなかったと思います。タバコは、筋金入りのヘビースモーカーでした。
 子供のころ、父の部屋はいつもタバコの煙でもやがかっていて、タバコ臭かったのを覚えています。家族からも、とりわけ祖母からは健康に良くないからと禁煙を口酸っぱく勧められていたのですが、長い間タバコはやめませんでした。
 父は若いときから自分でも「俺は肺ガンになるだろう」と宣言していました。しかし、定年退職まで毎年の健康診断では肺の異常は全く見られず、代わりに肥満傾向があるという注意があるだけでした。運動や食事の量は気をつけたものの、変な自信のようなものを持っていたせいか、タバコはなかなかやめませんでした。
 しかし、度重なるタバコ増税のおかげで、定年退職のタイミングで、経済的理由からついにタバコをやめました。
 退職から一年後、息苦しさを覚えて、病院で検査を受けたら、お腹に胸水が溜まっていて、末期の肺ガンであることがわかりました。
 肺ガン発覚当初、一旦、胸水を抜く手術をして、しばらく入院していましたが、延命治療は望まず、最後は自由に過ごしたいと、モルヒネ鎮痛剤だけをもらって病院から飛び出してしまいました。母やツグミの話によれば、このとき、病院食は味が薄くてまずいだの、看護師の気が利かないだの、とにかく不満ばかり言っていたそうです。
 退院後の父は、別居先のアパートで変わらず独りで暮らしていました。友人達と飲みに行ったり、何も知らされていないモミジ夫婦とスキューバ・ダイビングに行ったり、10月には高校の同級生達とタイ旅行に行ったりと、楽しんでいたようです。私が帰省の連絡をするために電話をかけたのは、ちょうどタイ旅行から帰ってきたころで、父の声には旅先での興奮が残っていました。
 私が帰省する直前の診察で、医者から「すぐにでも入院しないと危ない」と言われても、
「息子が帰ってくるのに入院なんかできるか!」
 と言って、父は変わらず頑固に入院を拒否したそうです。

 一方で、母とツグミは父のガン発覚を当初から知っていました。しかし、母はモミジや私にそれを黙っていましたし、ツグミにも黙らせていました。
 母は、自分の年離れた従弟が父親の訃報のあとアメリカで交通事故に遭って亡くなったことがあってから、遠く離れた人にその人の肉親の病気や死について連絡すると、その人が動揺して悪いことが起きるというジンクスを固く信じていました。
 ですから、父が亡くなったとしても、母はおそらく私に連絡しなかったでしょう。

◆ 私の焦り
 モミジからの知らせを聞いて、いろいろなことが頭をめぐりました。
 一番初めに思い浮かんだのは、「父もとうとう死ぬのか」という当たり前の実感でした。
 父方の祖母もまだ生きていて、父もまだ61歳でした。70代、80代の年配の方でも現役でバリバリ活動されていることが多い昨今、60代なりたての父が死ぬのはまだまだ先だと、どこか当然のように期待していました。その期待は突然ひっくり返ってしまいましたが、実際に起こってみると当然のことのように思えました。
 一方で、母の例のジンクスへのこだわりの強さを知っていた私は、まだ父が生きている間に、このことを聞くことができたことに感謝しました。私は、自分がとてもラッキーだ、ツイている、と感じました。

 それから、帰省予定を早めることを考えました。
 予約したチケットをキャンセルして、正規料金を支払って、翌朝便を予約しなおそうか、悩みました。
 そのとき、自分がとても動揺していると気づきました。脈がとても太く、体全身でドクドク鳴るのを感じていました。胸のあたりも締めつけられるようで、苦しく感じました。
 それに気づいたとき、「そんなに取り乱した状態では、何をやってもうまくいかない」と、思いました。「早く沖縄に着ければいいわけでもない、父さんが生きているうちに会えればいいわけでもない。自分の心が穏やかであること、これこそが何よりも大切なことだ」と。
 私は、独りその場に座って、目を閉じ、息を感じることから始めました。
 胸の高鳴り、動悸。それは、「急がなければ死に際に間に合わないかもしれない」という、私の不安と焦りの表れでした。
「苦しい、一刻も早くこのような状態を抜け出したい」という反応にも感じました。
 そういう状態に駆られている自分に気づき、駆り立てるような感覚を我慢強く観察し、感じ続けました。今にもその感覚に圧倒され、大波に飲みこまれそうな、そんな時間が続きました。
 それはやがて次第に弱まって、薄くなり、ついに消えました。
 その頃には、もう「間に合わないかもしれないから急がなければ」という焦りは消えていました。
 もちろん、絶対に間に合うとも思っていませんでした。ただ、これに関しては結果がどうなってもいいと、不確定な状態を受けとめられるようになっていました。
 そのとき、胸の中でもやもやしていた霧が晴れました。
 そして、その霧の向こうで輝いている「何か」が放つ光のようなものを見た気がしました。
 その瞬間、こんな考えが浮かびました。
「何が起きても、大丈夫。」
 そして、私はつぶやきました。
「とりあえず、明日の朝、母さんに電話をかけて事情を聞いてみよう。」

◆ 翌日の出来事
 翌朝、母に電話をかけると、態度は意外なものでした。
 母は、まず、遠くの人には身内の不幸を伝えないという彼女の信じるジンクスを話し、それから父の病気の経緯について話してくれました。しかし、父の病気に対する見解は、「お父さんが余命何カ月というのを気にし過ぎているだけでしょ。モミジがまともに受け取っただけで、まだそんなに弱っていないよ。」と、モミジと異なる見解を示しました。母方の祖父は八年前にガンで余命一年と宣告されてから、尚生きていたこともあって、母は医師の余命宣告をあまり深刻に捉えていませんでした。
 情報が錯綜していることに気づいたとき、これに振り回されずに、予定通りに帰ろうと決めました。

 朝、母との電話の後、私はボブ・ディランをまた聴いていました。
 そして、父に歌詞の意味を教えてもらい、何回も歌を練習していたころを思い出しました。
 思わず、涙が出てきて、胸に溢れるようなこらえられない感覚を覚えました。「とうとう父も死ぬのか」という事実を噛みしめていました。
 そして、父のために祈りました。
 このとき、自分の書いた作文「家族」の続きが見えてきた気がしました。
 私は、父のために息子の私ができることを穏やかな心でやろうと思いました。

 一方、その日、地元沖縄では、こんなことが起きていました。
 その夜、父の模合(もあい)仲間の友人が父にたまたま電話をかけました。
 模合というのは、沖縄で古くからある飲み会文化です。定期的に飲み会を開いて、会費を集め、そのお金をひとりずつ順番にメンバーが受け取って行く、そういう集まりです。一応、お金を積み立てていることになるのですが、そういう名目で仲間と楽しくお酒を飲みたいという、飲みの場が好きな沖縄の人向けの仕組みですね。私の世代でも続いていて、私の同級生達もやっていると話を聞きます。
 父は高校の同級生達と長年模合を続けていたのですが、この年、父はその模合幹事の一人でした。もう一人の幹事の方が、たまたま次の模合について父に電話したのです。
 その幹事の方は、電話越しに父の異変に気づいて、同じ模合のメンバーで友人の医師二人を連れて、父の別居先のアパートに駆けつけてくれました。父は、胸水がお腹にどんどん溜まり、全身がブクブクとむくんで、何も口にできず、それまでの一週間、水しか飲んでいなかったそうです。医師の友人達は余命幾日だった父を一目見て、重篤さを察しました。
 入院を頑なに拒んで、このまま孤独死するんだと言い張っていた父に、医師の友人がこう言って説得したそうです。
「ヨシヒト、お前はわざわざ苦しい下手な死に方しようとしている。人間、そう簡単には死ねない。どうせ死ぬのなら俺達が楽な死に方をさせてやる。」
 それから、その場で呼吸器疾患の専門病院に入院と緊急手術を手配して、父を半ば強制連行の形でタクシーに乗せて連れていき、入院させてくれました。
 翌朝、緊急手術が行われ、父は重篤状態から脱しました。父は、実は、いつ死んでもおかしくない状態だったのです。

3.帰省初日

◆ 最初の面会
 父の緊急手術が行われた日、私は上の妹モミジから、父が「一週間、水しか飲んでいなかったから、栄養失調で緊急入院した」とだけ聞きました。突然の入院に驚きましたが、ひとまず安心しました。
 そして、父の緊急手術から二日後、当初の予定通り、私は次男ユウゾーと一緒に那覇空港に着きました。空港で待っていたモミジの車に乗って、一旦、ユウゾーを実家に預けて、モミジと一緒に入院先の病院に急ぎました。
 病院の前の道の壁や電信柱は、葬儀業者の広告で埋め尽くされていました。
 父の病室へ向かう途中、病棟の同じフロアのいくつかの病室を通り過ぎましたが、そこにいるのは顔や体にたくさんの管をつけた寝たきり患者さんばかりで、血色はなくやせ細っていました。
 父の病室に入ってみると、入院までの一週間、水しか飲んでいなかった父は、確かに血色は薄く痩せてはいましたが、「手術が終わってからは食欲が戻ってきた」と言って、「余命数日」の状態からはすっかり持ち直したようでした。
 そこで初めて、私とモミジは緊急入院の経緯を父から聞きました。
 話を聞いて、私は、モミジからの危篤の知らせに慌てて帰らなくて良かったと思いました。もし私が帰ってきていたら、おそらく模合の方達も遠慮したでしょうし、だからと言って私達家族ではそんなに手際よく父を入院させることはできず、こんなに事はスムーズに運ぶことはなかったでしょう。
 父は運がいい、こんなに運がいいのだから、父はまだ当分死なない、と私は感じました。
 父が「あいつらが来てくれて本当に良かったよ。」と弱々しい息でハっと笑いながら言いました。父は友人には恵まれたんだなぁと私はつくづく思いました。
 一方で、弱々しくハッと吹き出すような笑いに、どうして自分が今生きているのかわからない、という父の自分自身への皮肉と当惑を私は感じました。
 酸素マスクを外して話していた父が少し息苦しそうでしたので、その日は早めに切り上げることにしました。私は父の手を握って、モミジと病室を出ました。
 その日から、友人の披露宴までの一週間、私はユウゾーを連れて父の面会に通いました。父の体力が落ちていたので、一時間くらい会話をして帰る日々が続きます。

◆ 荷物に溢れた実家
 父の入院先から私は実家に帰りました。
 私の実家のアパートには、キッチン・ダイニングの他に三部屋ありました。このアパートには、この話の20年前、私が中学に入学するころ、家族五人で引っ越してきました。最初、六畳和室が父、もう一つの六畳和室が私、八畳洋室が母と二人の妹に割り当てられました。
 それから、この家の住人は出たり入ったりを繰り返して、この帰省時点では、もとの私の部屋だった六畳間がツグミと二人の姪達の部屋に、もとの女三人の部屋だった八畳間ともとの父の部屋だった六畳間は荷物が一杯でほとんど物置状態でした。母は八畳間の二段ベッドの下で眠るだけでした。ちなみに二段ベッドの上も荷物が置かれていました。山積みの荷物は部屋だけに限りません。キッチン・ダイニングも流し台に人が一人立つスペースと、人が一人通れるほどの通り道しか残されていませんでした。
 物置と化した二つの部屋の間は、ふすまで仕切られているのですが、どちらの部屋にも荷物が厚く高く積まれて、まるで二つの部屋の行き来を阻むためにバリケードを築いたかのようでした。私は、実家のありさまをモミジから聞いていましたが、これほどまでにひどいのかと驚きました。
 父が使っていた部屋には、大きな液晶テレビが置かれていました。食事はその部屋のちゃぶ台で食べるのですが、高く積まれた荷物の山に囲まれて、ツグミや二人の姪も合わせてみんなで座って食べると、余計に圧迫感が増すように感じられました。

 夕食を終えて、私はまず自分の作文「家族」が載っている文集『雄飛』を探し始めました。自分の荷物の場所を母に聞くと、それはテレビの部屋の押し入れの奥に入っているというのですが、押し入れにたどりつくまで荷物をどけるのにひと苦労でした。
 やっとの思いで、押し入れにたどりつき、段ボール箱を取り出しました。
 箱を開けると、『雄飛』を数冊見つけましたが、どういうわけか、高校一年のときに発行されたものが見当たりません。なんでもとっておく当時の私の几帳面な性格からすると不可解なことでした。自分の作文が載っていない他の年度のものだけ取っておいて、肝心の載っているものがない。どうしてなのか、全くわかりませんでした。
 私はとても焦り始めました。父に読んでもらおうと思っていたのに、文集が見当たらない・・・。
 こめかみに強張りを覚え、視界が狭まっていくような焦りを感じていることに私は気づきました。そこで、静かに自分の息を感じてみました。
 やがて、視界がもとの広がりを取り戻し、同時に落ち着いた私は、先日の東京での集まりで旧友がこう言ったことを思い出しました。「高校の図書室に文集のバックナンバーがあって、閲覧することができる」と。
 私は、次の日、父の病院へ面会に行った帰りに高校で作文をコピーすることにしました。

◆ 夜中の口論
 私とユウゾーはテレビの部屋に寝泊まりすることになっていたのですが、大人一人横になるスペースもありませんでした。私とユウゾーは、いくつか荷物を移動して、その上さらにちゃぶ台を立て懸けたりしながら、なんとか押し入れから布団を取り出し、それを敷くことができました。
 とにかく、要らないもので部屋は溢れかえっていました。
 夜になり、ユウゾーを寝かしつけて、私はテレビの部屋からダイニング・キッチンに戻りました。ここもまた荷物でいっぱいのダイニングでは、母とツグミが荷物に囲まれてテーブルで話し込んでいました。ツグミは安い紙パック焼酎を飲んでいました。
 私はまず言いました。
「父さんの部屋の荷物、さっさと片付けたら、父さんがわざわざ別にアパートを借りなくてもいいじゃないの?」
 母はイライラして、不機嫌そうに答えました。
「アンタのお父さんの気持ちを考えてごらん。きっとアノ人、最後は独りで過ごしたいハズヨ。自分がアノ人の立場だったら同じようにするね。誰にも迷惑かけたくないからね!」
 私は、母の答えに疑問を持ちながらも、これまでの状況ならそれもあり得ると思いました。
 それから話題は病気が発覚してからの父の話に変わりました。最初の入院の間、医師や看護師にいつもケンカ腰で不満で一杯だった父の様子、そして病院を飛び出して、ダイビングや模合仲間との旅行など自由に過ごしていたことを聞きました。
 そのうち話の内容は、ツグミ達の引っ越しのことに移りました。ツグミと二人の姪達の親子にとって、六畳の和室では狭いので、別のところに引っ越したいということでした。
 ツグミはそれまで臨時採用で仕事を続けていて、給料も安く不安定な立場でしたので、二人の姪とともに実家に留まっていました。が、その年、ついに本採用となり、独立して家賃を賄えるようになりました。
 とはいえ、私には、家賃を払ってまで、母子家庭でわざわざ独立するのは不自然に感じました。そこで、私はこう言いました。
「ツグミ家族が出てって、この3LDKの部屋を母が独りで住んでいるのも不経済だ、もともとこの部屋に五人で暮らしていたのだから、今の四人で狭いというのは理屈に合わない気がする。そもそも父さんの部屋も母さんの部屋もダイニング・キッチンも荷物が多過ぎなんだから、荷物を整理すればいいだけじゃないか。少なくとも、父さんの部屋を整理するだけで、随分広く使えるようになるんじゃない?まぁ、ツグミ達が出ていこうが、出ていくまいが、あの部屋は無駄にしているから、とにかく片づけよう。」
 それを聞いて、母はものすごい剣幕で叫びました。
「イーィ!あの部屋を片付けると、アンタのお父さんが戻ってくるかもしれないじゃない!」
 酔っ払ったツグミも同調して、興奮した声を上げました。
「アイツが家にいたら、どんなになるか、わかったもんじゃない!」
 そして、続けざまに畳みかけるように、母はまた叫びました。
「アノ人が戻ってこなかったとしても、今度はアンタのばあちゃんが『ワタシの面倒見てー』ってこの部屋にやって来ることになるかもしれないじゃない!」
 これが私の家族でした。他人は呆れてしまうかもしれませんが。
 もうじき死ぬかもしれない人を、この期に及んでも尚、受け入れたくない。受け入れられないことを既成事実とするために、わざわざ部屋を全く不便な状態にしておく。そして、自分達を困った状況に陥れる。便利な状態にすることを提案すると、嫌な人が来ることを恐れて怒って反対する。自分達で自分達の首を絞める、まさに狂気でした。
 母とツグミがこんな半狂乱な反応をしたとき、私は自分の胸に何本も矢がブスブスと刺さったかのように、胸がギュッと強張るのを感じました。そして、胸の痛さをかばうように背中を丸めて、両肩をいからせていく自分の体に気づきました。
 両肩が上がるにつれて、拳を握り両腕が固くなり、思わず怒り出したくなる、そんな心の変化に気づきました。
 そのとき、私の心の中に、同じような仕草で怒っている父の姿が見えました。

 私は、自分が荒い息をしているのに気づきました。
 私は両拳を意識して解き、荒い息に意識を置き続けました。
「アンナ人達と暮らすなんて絶対イヤよ!」
 私が荒い息に意識を置いている間も、母は延々とヒステリックに叫び続けていました。
 私は、まるで仁王立ちのまま矢面に立ち続けた弁慶のように、立ち続けました。
 私は荒い息のまま、何度も拳を握り、その度に拳を解く、それを繰り返していました。
 怒り爆発寸前の私でしたが、自分の荒い息に気づきながら、母やツグミが父に戻ってきてほしくないと思うのももっともだとも思っていました。いつも機嫌の悪い人が家にいて、家全体がピリピリした雰囲気になるのは、誰だって嫌でしょうから。
 だからといって、山積みの荷物で部屋を一杯にしておいて、家が狭いと言うのはあまりにも馬鹿げているし、父が今後退院できるかもわからないのだから、とにかく要らないものは捨てて気持ち良く広々と使えるように部屋を片付けよう、と説得を続けました。
 しかし、説得は母の耳には届かず、その後もヒステリックな母の一方的な叫びが夜更けまで続き、どちらかというと明け方に近い真夜中、話は平行線のまま終わりました。
 私はユウゾーの寝ている部屋に戻り、横になりました。が、胸に強張りを感じて全く寝付けません。そこで静かに座って目を閉じました。
 胸の真ん中のギュッと強張った感覚に意識を置いて、息苦しさを感じ続けました。
 しばらくすると、胸の強張りは、ドクドクと脈を打つようになり、それからジンジンし始め、だんだんと細かい感覚に変わっていきました。
 やがて、細かな感覚が次第にかすかになっていき、感じられないくらいになったとき、一瞬、熱を感じたと思った瞬間、突然、焼きごてを胸に押し付けられたような熱さを感じました。
 ジューっと胸が焼けるように感じて、思わず息をのんで、ギュッと胸が強張りました。
 胸が焼けるような感覚を感じたとき、私は思いました。
 ああ、これが、私達家族が昔からずっとお互いに投げつけあってきたものだ、と。
 傷つけられた怒り、傷ついた悲しみ、傷つけられる恐れ。父の憤り、母の愚痴、妹達の叫び、私の無関心。いろいろなことが頭をよぎりました。
 そして、また胸の強張りに意識を置いて、胸の力を抜く。ジューっと焼ける感覚が起きて、また胸が反射的に強張る。また、胸の力を抜く・・・これを何度も何度も繰り返す。
 終わりがないようにも感じられました。
 ですが、そうやって繰り返すうち、焼きごては次第に小さく、ぬるくなっていき、やがて熱さの感覚は消えました。
 眠気と疲れを感じた私はそのまま横になりました。

4.実家の片づけ

◆ 朝の散歩
 翌朝、私とユウゾーは、小学校に行く姪達と一緒に朝食をとってから、近所に散歩に出かけました。
 実家は港の近くにあり、その港からは離島行きのフェリーが行き来していました。私達のすまいは海からだいぶ離れているので、普段、船を見ないユウゾーに船を見せようと、港の方に歩いて行きました。
 朝の涼しい潮風が吹く、気持ちのいい晴れた朝でした。
 欄干の親柱が大きな竜であることから通称「竜橋」と呼ばれる橋を渡り、大きなフェリー達を眺めながら、グルッと船着き場を一回りしました。また橋のところへ戻ってきたとき、ふと昔のことを思い出しました。私はまだ父に会ったことのないユウゾーにこんな話をしました。

 あれは、私が高校三年の年末のことでした。
 その12月、私は第一志望の大学の推薦入試を受けて、結果を待っていた時期でした。
 夜九時ごろ、私が机に向かって勉強をしていたら、玄関のドアが開いて、父が
「ホッホーイ!落ちたー!」
 と叫びました。受験生の子を持つ親として、縁起の悪い、あるまじき行為だと思います。
 玄関の方を振り返ると、笑いで溢れた、酔っ払った父がずぶぬれで立っていました。私は窓から外を見ましたが、星空でした。その日は一日とてもいい天気でした。
「海に落ちたー!海に落ちたー!」
 父はそう叫びながら、風呂場に入って行きました。
 シャワーから上がった父はずぶぬれの経緯を語り始めました。

 飲み屋からの帰り、父は近所の港を通って、船着き場の岸壁沿いに歩いていました。
 岸壁には何人かの釣り人がいて、もともと釣り好きだった父は、その人達が何を釣っているのかなとよそ見をしながら歩いていました。
 左側を海に臨みながら、その岸壁を直進すると、その端には少し右側に寄ったところに橋がかかっていました。岸壁と橋の間には大人くらいの高さがあります。今は、橋から道なりに下る坂があるのですが、当時、まだその坂は完成しておらず、橋を渡るためには岸壁の端まで行って後、右に向かって橋の側まで行って、そこから階段を上らなければなりませんでした。
 父は、海側にあたる左の方を向きながら、釣り人達を見て歩いていましたが、釣り人達が次第に自分の方を向いていることに気がつきました。「釣れてるかーい?楽しんでねー!」なんて言っているうちに、空を踏んで真っ逆さまに落ちました。
 次の瞬間、ジャッボーン!と水の中にいました。
 父は橋の灯りに照らされて明るい水面を認めると、その方へ、つまり上の方へ泳いでいきました。右足の靴が脱げかかっていたので、靴が脱げないように右脚を横に伸ばして、両手で水を掻きわけて上がりました。
 水面に顔を出すと、たまたま近くに小型ボートがあったので、その上によじ登りました。靴が脱げないように右脚は横に伸ばしたままにするのを忘れずに。
 一方で、岸壁の上では大騒ぎでした。よそ見しながらそばを歩いていく酔っ払いに気づいた釣り人達は、その酔っ払いが心配で様子を見ていたら、案の定、酔っ払いは岸壁の突きあたりまで前を見ずに、そのまま岸壁の向こうに落ちてしまいました。
 釣り人達は、慌てて駆け寄って、岸壁から3メートルほど下のボートの上にいる父に「大丈夫かー」と声をかけるもの、公衆電話まで119番に電話をかけに行くもの、とにかく釣り人達の静かな夜は大騒ぎになりました。
 やがてサイレンの音が近づいてきて、消防隊員がボートにはしごをかけて、父は岸壁の上に戻りました。
 その後、父は救急隊員から怪我がないかチェックを受けて、消防隊員の差し出した出動記録票に署名をして、パトランプが赤くきらめく中、悠々と家に帰ってきたそうです。
 いくら南国沖縄とはいえ、年末の海は冷たいので、パニックになって心臓マヒにならなくて良かったと思いましたし、何よりも、父を救ったボートが落ちたところになかったのは本当に運が良い人だなと思いました。
 ちなみに、その二、三日後に志望大学から速達で届いた私の合否通知の結果は、晴れて合格でした。今思うと、私が大学に合格したのは、ひょっとしたら、父が代わりに落ちてくれたおかげかもしれませんね。

「おじいちゃん、このあたりから落ちたんだよ。おかしいよね。」
 私が橋の欄干から岸壁の方を指さして話し終えると、ユウゾーは橋の欄干から下の方を見ながら、こう言いました。
「おじいちゃん、こんなところから落ちたんだー。おかしいね。」

◆ 片付け強行
 散歩から帰ってきた私は、なんだかとてもすがすがしい気持ちでした。
 そしてそのまま、テレビの部屋にあるちゃぶ台を捨てにかかりました。
 ちゃぶ台と言っても、前の日の夕食やその日の朝食で使ったものではありません。それとは別に、同じ部屋に同じ大きさの、しかも天板に穴のあいたちゃぶ台が、押し入れのふすまに立てかけてありました。布団の出し入れでさえも、この壊れたちゃぶ台を一度どけて、またたてかける必要がありました。
 私がそのちゃぶ台を運び出そうとすると、母が慌ててやってきました。私は言いました。
「このちゃぶ台、捨てるね。」
「イーィッ、使うってば!」
「いつ使うの?」
「ツグミ達の部屋に、お客さんを通すときに。」
「今までそんなことあった?」
「・・・」
 母は言葉を詰まらせました。私が家を出る前、そのような状況は一度もありませんでしたし、荷物で一杯になった今、そのようなことは起こり得ないことでした。そして、このちゃぶ台も人に譲るほど高価なものでも、私達にとって思い入れのあるものでも何でもないものでした。母はただ物を手放せないだけだったのです。
 私は言いました。
「ちゃぶ台は今使っているのだけで十分だ。これを置いているのは無駄だから、捨てるね。」
「あー・・・、うーん・・・」
 私はちゃぶ台をアパートのゴミ捨て場に置きました。
 次に、ツグミ親子の部屋に置いてある古い14インチのブラウン管テレビに手をつけました。もう大きい液晶テレビが隣の部屋にあり、またアナログ放送が終了してからすでに三カ月が経っていました。もちろん、この古いテレビでは新しいデジタル放送を見ることはできません。
「台所に立っている時に、ちょうど見やすい位置にあっていいから、置いておいて。」
 母はそう言っていましたが、それもただの言い訳でした。そのまま、古いテレビと壊れたテレビ台を運び出しました。
 捨てると言っても、ゴミになるわけではありませんでした。このアパートのゴミ捨て場に、使えそうなものを出しておけば、リサイクル業者が回収して行ってくれるのでした。あるいは、その辺をうろついている浮浪者達がお金になりそうなものはみんな持って行ってくれるのでした。
 浮浪者じゃなくたって、持っていきます。私も子どものころ、母に言いつけられて、転勤族が住む近くの社宅のゴミ捨て場に置物や家具をよく拾いに行きました。
 当時、拾ってきた母の「戦利品」、つまり古いキズものの置物などが、なおタンスの上に埃をかぶって、あるいは押し入れの奥にひっそりと置かれていました。テレビの部屋、ツグミ達の部屋に置いてあった、使われていない、大きめの家具や置物を、ちゃぶ台と同じような対話の末、次々とゴミ捨て場へ運んでいきました。
 押し入れの奥や天袋には食器や小物が入った段ボールがいくつもありました。それらを一旦、部屋に出しました。一つを開けて、一点一点、母に使うかどうか確認して、特に思い入れのないものは用意しておいた不要品用の段ボールに入れていきました。
 この辺から、母も調子が出てきたので、後は母に任せることにしました。
 いつのまにか昼過ぎになっていて、二人の姪達も小学校から帰ってきました。私は彼女達に、彼女達の部屋にあった古いガラクタを整理したので、テレビの部屋に置いてある彼女達のものは、自分達の部屋に持っていくように言いました。
 これまで母に不要品を捨てるように訴えてきて、それでも捨てようとしない母を見て諦めていた彼女達は、自分の部屋にあった要らないものがなくなったことと部屋が広く使えるようになることを喜んで、とても協力的に整理にかかり始めました。
「俺がここにいる一週間の間に、このテレビ部屋のこのふすまから隣の母さんの部屋へ通れるようにするんだ。」
 そう言い置いて、私とユウゾーは父の病院へ面会に家を出ました。
 家を出るとき、アパートのゴミ捨て場の側を通りかかったら、不要品の山はもうすでにきれいに持っていかれた後でした。

5.父の若いころ

 その日、作文「家族」が手元にないので、父との面会では、父の話を聞こうと思っていました。
 もともと父は自分のことをあまり語りませんでしたので、私が父について知っていたのは、母や大叔父から聞いた父の経歴や失敗談ばかりでした。父が何を考えて生きてきたのか、というようなことは一度も聞いたことがありませんでした。
 そこで、その日は、父の若いころ、特に全く自由な時間であった学生時代、何を考えていていたのか、聞いてみようと思いました。

◆ 父の生い立ちと経歴
 父は、戦後の混乱がようやく落ち着きつつあった1950年に与那国で生まれました。父が生まれてすぐに祖父が亡くなり、祖母の弟である大叔父の一家とともに那覇に渡りました。そして、那覇の進学高校に進学し、当時の国費留学制度で愛媛大学に進学しました。
 当時、沖縄は日本復帰前で、米軍統治下の琉球政府でしたので、日本の外国でした。沖縄には医学部がなかったので、医師不足の解消のために、琉球政府は学生を選抜して日本の大学に派遣していました。それが国費留学制度の始まりなのですが、父のころには、医学部以外にも選抜枠があり、父は英語枠で選抜されました。
 留学生に採用されたときの話を昔、父から聞いたことがあります。採用されて進学希望の大学を聞かれたとき、父は自信満々で「もちろん東大だ!」と言ったら、担当官の方から、「君の数学の成績じゃ到底無理。このあたりにしておきなさい」とほとんど選択の自由なく言われたということでした。留学生として採用されたのも、本当に運が良かったのでしょうね。
「『坊っちゃん』の街というのもいいか」と愛媛の大学に行った父は、勉学をほっぽりだして当時盛んだった学生運動に身を投じ、結局卒業できずに中退しました。
 大学を卒業できずに沖縄に戻った父は、高校閥のおかげで仕事を得ることができたと、母から聞きました。
 沖縄に戻ってからは、仕事は二の次で、雀荘にこもって麻雀ばかりやっていたそうです。あまりに度が過ぎて何カ月も無断欠勤が続いたので、とうとう人事から免職処分を食らいそうだったのを、同じ高校閥の先輩や同期の配慮で、コザ市(今の沖縄市)の出向先に一時流されることで沙汰が下りました。このとき高校同期の同僚数名が、父の始末書の保証人として連名でサインしてくれたそうです。
 高校の友人まで巻き添えにしたこともあるのでしょうが、米軍基地の街、コザでは父の英語が重宝されたこともあって、父も少し真面目に働くようになり、そのころ、母とも結婚しました。
 数年後、父は那覇の本部に戻りますが、キャリアコースを完全に外れたこともあって、ほどほどに仕事を続け、中年以降は離島を渡り続けながら過ごし、定年退職を迎えていました。

◆ 父と次男の初対面
 その日、ユウゾーを連れて、私は父の病室を訪れました。
 私には二人の息子がいます。父は長男ゲンタとは、一、二度会ったことはありましたが、それまで次男ユウゾーを見たことはありませんでした。
 ユウゾーは大きなアヒル口を除いて、私とそっくりでした。そして、私以上に、父の幼いころの写真によく似ていました。私は、父の顔に似た次男を、いつか父に会わせたいと思っていました。
 父はユウゾーを見て、
「ハーイ、初めまして。君がユウゾー君か?」
 ユウゾーは静かにうなずきました。
「もう何歳になったァ?」
「まだ三歳だけど、もうすぐ四歳。」
 ユウゾーは指を立てて示しました。
「おじいちゃんのお友達が持ってきてくれたお菓子があるけど、食べるネェ?」
 父が出したチョコレートを、ユウゾーは臆せずつまみ始めました。

 父が話しました。
「模合の友達がお見舞いに来てくれてサ、お菓子をもらったんだけど、ちょっと味が濃くてサァ。けど、これは食べる気しないけど、病院の食事がおいしいサァ。ここに入院する前の一週間、胸だけでなくてお腹にも水が溜まって、全然食欲なくてサ。その間、水しか飲まなかったんだけど、この前の手術で体に溜まった水を全部抜いてもらったら、急に食欲が出てきたサ。それにしても、何もしないでも食事が出てくるのは本当にありがたいサァ。」
 これを聞いて、最初の入院では病院食がまずいと言って飛び出した父が、薄味の病院食をおいしいと喜んで食べているのは、一週間の「水断食」で味覚が繊細になったおかげのように思われました。本人が意図しないでも、体が自然とそうさせたように感じました。
「父さんの体は生きようとしているんだねぇ。」
 私は思わず言いました。
 父はよくわからないような顔をしていました。

◆ 父、泣く
 私はユウゾーの方を見ながら、父にこう切り出しました。
「僕も子供ができて、自分の親の話をしようとしたときに、父さんの子供のときの話と、結婚してからの話はこれまでも聞いたことあったのだけど、父さんが大学に行ってから結婚するまでの若いころの話を聞いたことがないなと思ってね。そのときのことで話したいことない?」
「別に人に話すほどたいしたことなんてないよ。」
「じゃあ、愛媛の大学に行ったのは知っているけど、大学中退してから沖縄に戻る前に一時期、東京にもいたこともあるんだってね?そのとき、どんなことを考えていたの?」
 父は語り始めました。
「あぁ、東京の知り合いのところに住み込んで、そいつらといっしょに学生運動していただけだよ。」
 しばらく、学生運動の経緯とその後の評価について、父と話をしていましたが、途中で父は沖縄の復帰運動について話を始めました。
「そういえば、学生運動をしていたころ、沖縄の復帰運動も盛んだったんだけど、そのころ、コザンチュ(コザ市、現在の沖縄市の人たち)はこう言っていたサ、『俺達はヤマトゥーンチュ(日本人)でもアメリカー(アメリカ人)でもない、俺達はウチナーンチュだ』って。わからんかったなぁ。あの頃は。」
 当時、コザ市は米軍基地に経済を依存していました。駐留していた米兵達の飲み屋街で栄えていましたが、米兵がらみの事件も多発していて、コザの人達はとても複雑な思いでした。一方、コザンチュに対して、那覇の人達はナーファンチュと呼ばれていました。
「あのころ、沖縄のインテリ層だったナーファンチュは、沖縄は米軍統治から離れて日本に復帰しようって言っていたけど、コザンチュは違っていた。あいつらは、『俺達はヤマトゥーンチュでもアメリカーでもない、俺達はウチナーンチュだ』って言っていたサ。」
 しばらく沈黙してからこう言いました。
「最後まで、あいつらとはわかり合えなかったなぁ。」
 そう言う父の目には涙が溢れていました。自分の涙に気づいた父はパジャマの袖で涙を拭きながら、しばらく泣いていました。
 父が泣くのを私が見たのは、そのときが初めてでした。私はベッド際でただ静かに座っていました。

 父の死後、蔵書を整理しているとき、沖縄文化に関わる古い本をいくつか見つけました。学生時代、内地でどこかの琉球文化研究会に所属して、沖縄方言や沖縄の民話、倭民族と琉球民族の比較など民族の研究書を読みあさっていたようです。
 私も大学進学で沖縄を出てから、自分が沖縄出身であると強烈に意識した時期がありました。まして沖縄が外国だったころに内地で過ごしていた父にとっては、その意識はとても強いものだったのでしょう。
 父は青春時代を沖縄の復帰運動に捧げたのでしょう。そしてその燃えるような激しい想いのために、きっといろいろな人と強烈な思い出を刻んできたのでしょう。そこには友情も喜びもあったと同時に、傷ついたこともあったことでしょう。
 沖縄返還ではいろいろな確執があり、それが今も沖縄の抱える矛盾として続いています。沖縄返還後、父は基地の街、コザで現場を目の当たりにして、衝撃的だったことでしょう。その後30年以上経ってもなお基地や経済の問題が続いている沖縄。それに加え、次第に明かされていった返還前に秘密裏に為された様々な交渉の内容。沖縄返還の推進運動に加わっていた一人として、そのような復帰後の沖縄を見てきた父には複雑な思いもあったでしょう。
 このとき、父が口にした「わかり合えなかった」ことが具体的に何なのか、私は結局わかりませんでした。ただ、同じ沖縄人同士でわかり合えなかった悔しさを、そして若いころ抱いた理想と半生を通して見てきた現実に対する悔しさを、今振り返り、素直に味わって、涙を流している父を見て、父の心が開き始めた、と感じていました。
 涙を流している父を前にして、父が語ったことも語らなかったことも、もう私にはどうでもいいことになっていました。ただ、全てをセピア色に変えていく優しい時間を、静かに感じていました。

◆ 寝たきりの養生法
 父が落ち着きを取り戻し、酸素マスクを口に当て始めたのを見て、その日はそろそろ引き上げようと思いました。締めくくりに私はこんな話をしました。
「父さん、人間、寝たきりになって、脚を使わなくなると、血の巡りが悪くなってどんどん弱ってくるんだ。」
 フム、と父は弱く頷きました。
「僕さ、一度、禅のお寺に行ったときに、そこのお坊さんから教えてもらった話なんだけど。江戸時代の偉いお坊さんに白隠っていうお坊さんがいて、そのお弟子さんに病で床に伏していたお殿様がいたんだって。そのお殿様はとても有望なお弟子さんでもあったから、民のためにもそんな人が殿様で在り続けてほしいと思っていた白隠さんは、座禅というのは何も座れなくもできるし、寝たきりでもできる養生法がある、といって手紙に丁寧に書いて送ったんだって。その養生法というのはね、まず脚から始めるんだ。」
 フム、と今度は父は興味深げに頷きました。
「仰向けで横になった状態で、まず脚を真っ直ぐ伸ばして揃えて、足のつまさきを頭の方に向けるようにして、踵を自分の下の方に突き出すようにして、踵を突きだしたまましばらくその場で足踏みするように脚を交互に曲げたり伸ばしたりするんだ。寝たきりで普段は脚を動かさない人にとって、いい脚の運動になるよね。そうそう、そんな感じ。」
 私の話を聞きながら、フムと言って、父はベッドの上で足踏み運動をしていました。
「そして、足踏みを終えたら、脚を伸ばして、仰向けでリラックスした状態になって、今度は、目を閉じて、へその下あたりに、意識を置いて、ゆったりとお腹で息をするんだ。」
 父はお腹で息をしようとしましたが、その呼吸は浅いものでした。私は構わず続けました。
「そのうち、息が落ち着いてきたら、へその下あたりに意識を置いたまま、『ここに自分の体のエネルギーの源がある、ここに自分の故郷がある、ここから自分は宇宙と繋がっている』ってイメージするんだ。好きなだけ、そうやって目を閉じて、静かに息をし続けると、いいんだって。」
 父は仰向けのまま、静かに息をしていました。ベッド際で、私とユウゾーは静かに座っていました。
 しばらく経って、父が目を開けて、体を起こすと、私は父と握手をして、こう言いました。
「今日はそろそろ帰るね。そういえば、今度、父さんに、読んでほしいものがあるんだよ。僕が高校のときに書いた作文なんだけどね、これから高校に行って、コピー取ってくるから、明日には持ってこれるかな。」
 そして、それまでおとなしくしていたユウゾーの手を握り、病室を後にしました。

6.「家族」の入手

 その日、ユウゾーを連れて、病院からタクシーで高校に向かいました。学校側のご厚意で、図書室のバックナンバーを閲覧させてもらい、高校一年のときに書いた作文「家族」のコピーを入手することができました。
 ここに、そうやって入手した作文を載せます。誤字・脱字、誤用が散見され、恥ずかしさもあるのですが、そのまま載せます。

◆ 作文「家族」(1996)
 僕の父は、性格的にはあのアニマルズの「朝日の当たる家」に出てくる親父に似たろくでなしで、酒ばかり飲んでろくに仕事にも行かない。週三日休むのはいつものことで、時には週四日休むこともある。これでよく給料もらえるものだと、家族や親類みんなが呆れている。金もないのに賭事が好きで、麻雀ばかりやって、借金を山ほど生んで、貧しい家をますます悪化させた張本人である。頭はいいようだが、さすが僕の父親で、僕より気違いじみた事をする。慣習を全く気にしないという点が表に出る時はいいが、裏に出ると見れるものではない。いつも全てがうまくいっていないようなので機嫌が悪く、いつもけんか腰である。
 一方、母は、気まじめや勤勉ではなく、いつも寝てばかり、時間にルーズで、議論をしてもいつも問題とは関係のないことを言う。いつも人の陰口を言う。本人は陰口のつもりでも相手に聞こえてたりする。またこの陰口が長いのだ。
 一つ母の時間にルーズな面の例をあげよう。昼食はだいたい二時半。小学校に入るまで、「おやつ」という言葉は昼食のことだと勘違いしていたぐらいだ。小学校に入って、時間通り食べられる給食をどんなに不思議に、また感激に思ったことか。
 僕の家族には、あと妹が二人いる。二人とも中学生になったせいか、自己主張するようになったが、度が過ぎてわがままである。年から年中、つばめのひなみたいに騒いでいる。
 こんな連中が狭い家にいっしょに住んでいるから、これまたひどい家になってしまう。どのようにひどいかと言えば、毎日毎日家のどこでも内戦が起こる。ただ僕の六畳一間を除いては。たまに祖母が来た時に自衛戦争がある。どうせ祖母だって金を借りにか、家族の誰かに悪口を言いにしか来ないんだから。家に僕を除いて二人いれば必ず小戦闘はある。

 パターンは十五年間見てきて、だいたい決まっているように思われる。
 例として、父と母の場合をあげてみよう。原因の多くは、食事の事か金の事である。食事の場合は、母が食事をかなり遅い時間に作ったり、作らなかったりするときである。一方、金の場合は、ろくに稼ぎもしない父が要求するときである。
 出出しはいつも父である。「金!」か「飯くれ!」と大同小異なことを怒鳴る。母は「仕方がないでしょ。」みたいなことといっしょにいいわけと何か皮肉を言って小反撃に出る。そこで父は「つべこべ言うな。オレにゃこうこうの理由があるんだ。」と大義名分もどきを言う。「だけど、前はああだったじゃない。」と母は父の罪を根掘り葉掘り言う。時には関係のないことまで。そこで父は「うるさい!」と一喝して、自分の部屋に立籠もるか、外に出るかする。その後母は、独り言か子供達に話しているか知らないが、決まって台所で父の文句を延々と言い続ける。こういうことが毎日、我が家では繰り広げられているのである。
 一方、僕は何をしているかと言えば六畳の自分の部屋でどのけんかにも関わらず、安全地帯を築いている。どんなに激しい争いになっても安全地帯を保って、止むのをただひたすら待つ。何事も手がつけられないのなら、待つのが一番。
 しかし、待つのだって楽じゃない。ふすま一枚で仕切った部屋ぐらいでは、小さな紛争でもときの声は聞こえる。うるさくてたまらない。たまに僕は、ビートルズの「All You Need Is Love」やジョン・レノンの「Imagine」をかけて平和をアピールする。
 勉強している時にもめごとが起こったら、音楽を流したり、問題に集中したりして、ひたすら自分の世界に入る。さわがしいところで集中して勉強できることは、僕の悲しい自慢である。これが裏目に出て、何か音が聞こえないと耳鳴りがして頭がおかしくなる。高校の推薦入試の控え室、どんなに辛かったことか。そして、静寂を破るために、どんなに努力したことか。
 家族の話に戻るが、全く、血のつながった同士で年中無休、けんかができるものだ。この人達は愛し合っているのだろうか。こう思えるくらい愛のない家だから、僕は親も妹もみんな嫌いだ。いなくなってしまって、良き人に思えるものなら、みんなあの世に行けばいいのに。いや四人行くのは手間がかかる。僕一人が行けばいい。待てよ、死んだら家族が良いものに感じれるのかわからない。ちょいと八兵衛、そこまで行って見てきておくれ。
 家族ですら愛せないのだから、外の人も愛せまいと僕を非難する人がいるだろう。実は僕もそう思う。だから僕は誰も愛せないし、誰からも愛されないだろう。親族同士なのに憎み合い、啀み合う人々を見て、この人達と血がつながっていると思うと、自分はきっと誰をも憎み、誰からも憎まれるのだろう。

 先日、ある男の友人とビーチに行った。初め、ルネッサンス沖縄のビーチに入る予定であったが、行ってみると施設利用券が高い高い。払わないで入る気にもなれなかったので、万座ビーチに行くことにした。ところが次のバスまでまだまだ時間があった。だから歩いたら、二本逃した。やっとムーンビーチ前に着いて乗ったのが、一二〇番。観光客相手のこのバスは、地元の僕達からも容赦なく高運賃を取った。どうにか万座ビーチに着いて泳ぎ始めたのが午後三時半。五時頃から曇り始めて、三十分震えながら耐えたが、雨が降り始めたので浜に上がって、着替えて帰ることにした。バス停に行ったら、バスが来るまでまだ少し時間があったので、相棒はジュースを買いに少し離れた自販機へ。僕は独り、バス停で、今日一日のことを思い起こし、なんだかとても悲しい気持ちに包まれていた。
 そこへ若い女性観光客二人組がバス停に来て、バスの時刻表、いやバスの番号の意味がわからなくて困っていた。そこで僕はなぜか急に「どうしましたか。」と尋ねた。彼女達は国際通りに行きたいようだった。この後すぐに那覇行き牧志経由のバスが来たので、あのバスだ、と教えた。彼女達はバスに乗る折りに、そろえたのかそろったのか知らないが、ありがとうと言った。近視なので四メートルほど離れた彼女達の顔はぼやけてよく見えなかったが、難聴ではないおかげで声だけは、はっきり聞こえた。この言葉は僕の心をさわやかにした。笑顔を返したつもりだが、あまりにすがすがしくなって自然と笑ったのかもしれない。こんなに自分が素直な人間だったのかと自分でも驚いていた。別に若い女性だったからではない、と思う。変な疑いはよしてくれ。あの言葉を受けた時、真っ直ぐ、飛び込んで打った面が決まった時の響くような音が聞こえた。
 彼女達が乗ったバスが行ってすぐ、相棒がジュースを買って戻ってきた。どうしてもう少し早く戻ってこなかったんだ、同じ那覇行きの人達だったから、一日中、男といっしょという悲しい事実から抜け出せる所だったのに、と冗談で軽くなじった。確かにそうだった。これもこの日の愁いの一つだった。
 帰りのバスはかなりオンボロで、エンジンの音が、ブンブンともゴーゴーとも聞こえる騒音の中で那覇までの約二時間を過ごした。
 しかしそんな中でも僕は機嫌が良かった。全く知らない人に自分から声をかけて手助けした自分を自分で誉め、また感謝される喜びを味わっていた。そして自分もそんなに悪い人間でもないように思えた。 バスを降りて、相棒と別れてから、僕は独り、暗い細い道を通っていた。その道は幼いころ、バス停へ行くのにもバス停から帰るのにも母といつも通った道で、その頃はまだ舗装されてなく、でこぼこで側に草が生えていた。その側の草の中に紫色の小さなかわいい花が咲いていて、僕はしゃがみこんで見つめていた。母はそれがすみれの花であることを教えてくれた。その時の母の顔は優しそうだった。そのすみれが咲いていた道は、今やコンクリートで舗装されて、なだらかな坂は階段となり、すみれどころか雑草すら生えていない。
 ひょっとすると母はそんなに悪い人間でもないかもしれない。父も同じような顔を見せたことがあるし、妹達もかわいい顔を見せたことがある。父も妹達もそう悪い人間ではないかもしれない。ということは、そう悪くもない人間が、そう悪くもない人間を相手に、大した理由もなしに対立している。とすると、もともと人間は対立が好きなんだろう。対立を好むことは人間の性なのだろう。僕はこの辛い現実を十五年間見てきたし、今からも見続けるのだろう。
 しかし、父と母は少なくとも結婚する時は、助け合い、協調し合っていたのだろう。また、あの観光客の人達も、もし近所に住んでいたら、いい友達になって互いに助け合っていたかもしれないし、僕が知らない土地で困っている時に、僕と同じように僕を助けてくれる人はいるだろう。それから、相棒だって知り合ってからもう十年も経って、互いに助け合ってきたし、助け合っていくのだろう。
 こう考えてみると、人間は血で血を洗うこともあれば、全く知らない人と助け合うこともある。だから、人間はどんな人とでも対立するし、またどんな人とでも協調するのだろう。
 だからきっと僕も人を憎み、人に憎まれ、人を愛し、人に愛されるのだろう。
(開邦高校文集『雄飛』第10号 pp.29-32)


◆ 自分で読み返して
 その晩、実家に戻った私は、コピーした自分の作文を読み返しました。
 読み直すまで、すっかり内容を忘れていましたが、確かに、私は、自分の家族関係に絶望しながらも、誰か他の人と幸せな人間関係を築ける可能性に希望を見出し、それを作文に書いていました。
 しかし、その希望を感じたときの心境についてはやっぱり思い出せませんでした。
 一方で、私は希望とは違う何かネガティブなものが額に何本も縦線が入るようにむずがゆく蘇ってくるのを感じました。
 この作文は当時の私の体験に基づいているが、全てが本当の話ではない、誇張や脚色があることにも気づきました。
 例えば、作文後半に出てくるバス系統120番のバス運賃について、本当のところは運賃が他のバス系統と比べて高かったかどうかは疑わしいところです。おそらく運賃は同じだったのでしょうが、那覇近郊と比べてバス停の間隔の大きい県北部の田舎では、バス停の度に運賃が格段に上がっていくことに、当時の私がいかに不満に思っていたかが表われています。
 また、前半の家族の描写についても多分に脚色がありました。「小学校に入るまで、『おやつ』という言葉は昼食のことだと勘違いしていた」なんていくらなんでも大袈裟ですよね。
 またお金に関する両親のいさかいについては、実際の状況と異なっていました。事実は、給料袋を握っていたのは父で、父が生活費分を母に渡していたので、父から母に向かって金を要求することはありえませんでした。ただ、父は自分の小遣い、飲み屋のツケや別の借金の返済に充てて、母が必要とする生活費分を十分にあるいは全く渡さないことがありました。それで、母は叔母達にお金を借りに行くことも度々ありました。月々の家賃、公共料金、新聞代等、払えないことが何カ月も続くことがありました。そういうわけで、父と母はいつもお金のことでケンカが絶えなかったことは本当のことでした。作文では、そのあたりのややこしい状況を端折る代わりに、ドラマに出てきそうな「ろくでなしの親父」像を担いでいました。
 そんな誇張や脚色に表われている私の批判的な態度の中に、当時の苦悩を感じました。そして、当時、私が泣いたのは、誰か他の人と幸せな人間関係を築けるかもしれないという希望の光のためではないことを思い出しました。
 当時、私は、いさかいの絶えない家族を見て、心のどこかで私もこの惨めな人達と同じなのだろうとはうすうす感じていながらも、「自分はこの人達とは違う」という自意識でなんとか自分を保っていました。その自意識をもって、大して悪くもない人が悪くもない相手に、大した理由もなしに傷つけ合う自分の家族の実情を、まるでお茶の間からテレビでも見るようにバカにした目で眺めていました。
 そんな自分の過激で批判的な家族描写に、自分の悪意を感じました。その悪意の中に、当時の私の悲痛な叫びが聞こえました。大して悪くもない人達に自分が悪意を持っていることの苦悩。自分の家族に悪意を持っていることに、私は罪の意識を感じていたことを思い出しました。そして、この罪の意識のために、作文のことを家族には伏せていたのでした。
 そして、お互い大して悪い人でもないのに、どうして傷つけ合い続けるのか、どうして幸せになれないのか、その心の嘆きのために涙を流したのを思い出しました。
 それから、当時、どうして私が父に読んでほしいと思っていたかも思い出しました。当時、父は一体何を考えて誰の得にもならないことをやっていたのだろうか、それを聞いてみたかったのです。
 私は作文のコピーをリュックサックの中にしまいました。

7.父と「家族」

◆ 父、「家族」を読む
 次の日、ユウゾーと一緒に父の病室を訪れました。
 私は、作文「家族」のコピーを渡して言いました。
「この作文、僕が高校一年のときに書いて、そのとき県ですごい賞をもらったものなんだ。今まで家族には見せてなかったんだ。だけど、父さんには一度読んでほしいと思っていたんだよね。」
 父は、どれどれと言ってコピーを受け取ると読み始めました。
 読み始めて、すぐに顔を真っ赤にして「ホッホッホォー!」と高笑いを上げました。
 私はニコニコしながら、父の反応を観ていました。
 高笑いの他に、苦笑いを含む笑み、身動ぎしないしかめっ面の一方、右手のガッツポーズを伴うしかめっ面・・・、いろいろな反応が父に見られました。
 自覚していた自分の欠点に笑い、自分と認識がずれている批判にしかめっ面、自分の不満を代弁したような母への批判にガッツポーズしていたのでしょうか。
 作文を読み終わると、父は笑いながらこうコメントしました。
「いいドラマになりそうサ。ドラマになったら、『この主人公はオレなんだゼー!』って自慢するサ。」
 これを聞いて、私は、冥土の土産にちょうど良かったと思いました。

 それから、私はこう聞きました。
「僕も息子ができて、親っていうものの大変さがわかるようになってきたんだけど。家庭を持ってからも酒だったり、賭け事だったり、女だったり、どうしてあんな無茶苦茶やっていたわけ?」
 親父は苦笑いしながら、こう答えました。
「それがかっこいいと思っていたサ。本当に馬鹿だったサァ。」
 私は拍子抜けして、思わず素直に聞き返してしまいました。
「それだけ?」
「あぁ、たとえば雀荘で麻雀しながら、タバコ1ダースを人差し指と中指の間に挟んで、口を大きく横に広げて一度に吸う、当時はそんなことがカッコイイと思っていたサ。」
「それって流されていただけってこと?」
「あぁ、何も考えずに、流されていただけってことになるかな。」
 この答えを聞いて、私ははっきりとこう気づきました。そう、ただ父も知らなかっただけだったんだ、と。
 コンピュータ・プログラムは入力情報を与えられると何らかの処理をします。その処理が外見上どんなに複雑で難解に見えても、ただ決められた手順に従って自動的に処理しているだけで、プログラムに意思などありません。
 そんなプログラムと同じように、自分の内側に起こっていることを見ることのない人は、自分の周りの出来事に、それまでの人生でプログラムされたパターンに従って自動的に反応しているだけで、そこにその人の意思と呼べるようなものはほとんど何もないのです。
 父も母も、妹達も、私も、私達家族はみんな、それぞれただ決まったパターンで反応していただけだったのです。衝突されたのをきっかけにドミノ倒しのように、自分や周りに連鎖的に衝突を引き継いで、互いに乱雑に衝突を繰り返す、そうやって不協和音を奏でていただけだったのです。
 作文を書いた当時、私は、大して悪くもない人が大して悪くもない相手に、大した理由もなしに傷つけ合うことは、当然のこと、定められた法則として、それ以上考察することはありませんでした。その後も、私は自分自身と向き合うことはなく、無意識のうちにそれをどうすることもできない人間の性(サガ)と見なしていました。
 父との対話のおかげで、ようやく、当時の私達、父も母も妹達も私もただ知らなかっただけなんだ、無知だったんだと気づいたのでした。

 そして、もう一つ、私は気づきました。
 もともと父はとても理屈屋でした。感情を爆発させることもありましたが、そんなときでさえ表向きは正論をぶつけてきました。そんな理屈屋の父なのだから、自分の人生について自分の信条に則って少しは理性的な考察をしてくれるものと、どこか期待していた自分自身に気づきました。
 親が自分よりも優れている、物を知っていると、子は期待しがちです。親が自分の上にいるような感じです。反抗期に入って、親の権威を表面的には認めなくなっても、それは、心ひそかに感じ続けている親の権威への反動です。親の権威を克服したつもりになって、自分の中に依然として潜んでいる権威への依存心にそのまま気づかずに、大人になる子がいます。私もそのような子だったのです。
 また、自分が父と母の板挟みで苦しんでいたこと、いつも母からお金がないと聞かされて不安だったことなど、そのころの自分の苦悩の原因を、責めるべき何かを、自分の外側に求めていたのかもしれません。
 私は、父の振る舞いが理性的でないことを知っていましたが、にもかかわらず父に何か理性的な背景を求めていたのです。
 自分と同じように、父もただ無知だった、このことを受け入れたとき、もはやこの無知は自分のものでも他の誰かのものでもない、そこには責めるべき相手は誰もいない、ということを初めて体験を通して理解しました。そこには自分と他人を区別するような壁はなくなっていました。

◆ 両親の結婚の理由
 次に、私はこんな質問をしました。
「ところでさ、どうして母さんと結婚したの?」
「それは君が生まれると聞いたからさ。」
 父と母がデキチャッタ婚であるのは、以前から知っていましたので、もう少し掘り下げて、母との出会いから経緯を聞いてみました。
 父としては母との交際は不真面目ではないにしても、結婚する気はなかったようで、母の妊娠報告は、父にとってまさに寝耳に水でした。責任を取るということで、大叔父とともに、母の実家のあるヤンバル(沖縄本島北部の農村地域)の祖父、オジイのところに挨拶に行くことになったそうです。
「あのとき『娘さんを幸せにします』なんて言ったけど、約束、果たせなかったサ。ヤンバルのオジイには顔向けできないサ。」
 父はまた苦笑いしました。
 父が酸素マスクを取り出したので、父と握手をしてから、おとなしくしていたユウゾーと一緒に病室を出ました。

 その夜、家に帰ってから、母にも同じように、どうして父と結婚したのか聞いてみました。
 母の答えはこうでした。
 母の母、つまり私の母方の祖母は、母が二十歳すぎのころから、病気にかかって衰弱していました。母は文学が好きで、勉強を続けてそのまま独身でいるつもりでしたが、自分の母が生きているうちに結婚して安心させたいという思いが強くなり出して、24歳くらいから結婚することを考えるようになったそうです。そして27歳で出会った父は、国費留学生としての学歴や職業など社会的ステータスも良く、安定した家庭を築けそうに見えたので、決めたということでした。
 母からこの話を聞くのは初めてでした。父の話よりもこちらの方が意外でした。
 ふと、大学進学で仙台に発つ前に、父が真顔で言った「いいか、絶対、避妊だけは忘れるな!」という警告を思い出しました。それには、こういう背景があったのかと、このとき初めて繋がりました。それまで母の方が犠牲者と思っていましたが、結婚の経緯だけ見ると父の方がある意味、「犠牲者」だと思いました。そして、その後のことはどっちもどっちだと、私には笑えてきました。

 それから、続けて母は語りました。
「意外だったのは、あんたのお父さんが子供の面倒をよく見ることだったサ。子供は好きそうじゃなかったのにね。あんたが赤ちゃんのころからよく世話をしてくれた。うんちのおむつもよく変えてくれたよ・・・」
 母からこの話を聞いて、私にも心当たりがあることを思い出しました。それは、父が私にしてくれたことではなく、私と息子達との関係についてでした。
 私は、子供のときから父からデキチャッタ婚であることを聞いていました。そして、仲の悪い両親を見る度に、自分が生まれたからこの人達は結婚しなければならなくなったんだよなと、冷静に見ていました。そこに自分の存在を責める気持ちはありませんでしたが、自分の存在は両親にとって悲劇の種でしかないのだろうと、否定的な思いがどこかにありました。そして、自分は結婚なんてしないでおこう、ましてや子供を作るなんてしないでおこう、と思っていました。
 家族を持つことは煩わしいだけだと思っていた私が、どうしても子供が欲しいという妻に折れたとき、私は「観葉植物に水を遣る程度にしか子育てには関与しないよ」と言ったことがありました。そのころの私は、たまの水遣りだけでいい、手入れの簡単な観葉植物でさえ枯らしていたのです。それほど子供に無関心でした。ところが、長男の誕生に立ち会ったときの衝撃で、何かが変わりました。私も父と同じように変わったんだとわかりました。
 そして、私の誕生が父にとってどれだけ重要だったかということを初めて知り、こう思いました。私が生まれてきたことは両親にとってそんなに悪いことでもなかったかもしれない、と。
「あんたが小さいときにミドリガメを触った手で何かを食べてお腹を壊したときも、母さんはモミジとツグミの二人を看なきゃならないから、お父さんが仕事休んで入院先で看病していたし、モミジが車にひかれて脚を骨折して入院したときも病院で看病していたのはお父さんだった・・・」
 母は、その後も懐かしそうに父の話を続けていました。

8.父の別居先

◆ 別居先の掃除
 翌日は、父が軽い手術をすることになっていたので、その日の面会は控えることにして、代わりにツグミと一緒に、父の別居先のアパートの掃除をすることにしていました。
 父の入院前からアパートに通っていたツグミによれば、体が動かず十分に掃除もできなかった父の部屋の散らかりよう、汚れようはひどいもので、むくんだ父が放つ死臭のような臭さが充満していたそうです。特にユニットバスの汚れ・臭いは入院後数日経ってもひどく、ツグミは自分一人であの部屋を掃除するのは絶対嫌だから、私にも手伝ってほしいということで、掃除に行くことになったのです。
 私とユウゾーと掃除に行く前に、ツグミはユニットバスに洗剤を撒き散らしてきてくれていました。
 ツグミについていって、アパートの戸口まで来ると、ツグミは
「一旦、お風呂場の洗剤を流して、換気してくるからちょっと待っていて。」
 と言って、ドアを開けると、まるで強襲をかけるように勢いよく部屋の中へ入り、ドタドタと奥へ駆けて行きました。
「アァー!、アァー!、臭い、臭いー!」
 ベランダの窓が開けられて後、勢いよく噴き出すシャワーの水の音が聞こえました。
 しばらく経って、水の音が止み、ツグミが戸口に出てきて、OKのサインが出たので、私とユウゾーは中に入りました。
 父の別居先の部屋に私が入ったのは、このときが初めてでした。
 玄関から、ユニットバスの側を通って、台所付きワンルーム。そこには、ウィークリーマンション備え付けの、冷蔵庫、食器棚、テーブルセット、タンス、ベッドと中型の液晶テレビ。
 テーブルセットの向こうのベランダ側には、収納ケースが高く積まれていて、収納ケースの上や周り、テーブルの上にはごちゃごちゃと物が散らかっている。
 台所は、汚く使っているようではないけれども、レンジや流しの周りは溜まった油汚れや水アカがべっとりとしぶとそうに付いている。
 長年、単身赴任で一人暮らしをしてきた父のことですから、家事が全くできないというわけではありませんが、あまりにもひどい部屋の有り様でした。まだこれでもツグミがあまりにも目につくものは事前に片付けたというのだから、よっぽどひどかったのでしょう。
 この部屋は、孤独死を待っていた父の心境が表われているようでした。
 ツグミはユニットバスを洗い、私は部屋の奥のベランダの方から散らかったものをまとめながら、掃除機をかけていきました。ユウゾーも実家から持ってきた雑巾で私の後について床を拭きました。
 テレビ台の下にはDVDがいくつも散乱していました。レンタルではなく購入したもののようで、収納ケースにまとめられたものもありました。散らかったDVDを片付けるついでに、それらのタイトルを見てみると、父が若い頃に見た洋画の青春ものの他は、古い西部劇やアクションもの、中にはかなりハードボイルドなものも含まれていました。父が正義のヒーローと悪者がはっきりしている、勧善懲悪な話が好きなことは知っていましたが、残酷・非情なものまでわざわざ買って見るとは、父の心のすさみ様がうかがえました。

◆ 父の死亡広告案
 テレビ台の下を片付けて後、冷蔵庫の方に移動すると、冷蔵庫に扉にメモが張ってあることに気づきました。
 そのメモには、孤独死したところを発見されたときのために緊急連絡先として実家やモミジの電話番号と、父自身が考えた自分の死亡広告案が書いてありました。
 沖縄では、一般の人でも、告別式当日、地元紙朝刊に死亡広告を掲載するのが一般的です。沖縄では社会人になると誰もが地元紙を取り、毎朝、死亡広告欄で知人の名前がないか確認するのが、日課でもあります。
 父が作成した死亡広告案には、故人の死亡時刻や享年に続いて、葬儀の情報はなく、以下のような文章で締めくくられていました。
「故人の遺志により葬儀はいたしません。みなさま、お世話になりました。」
 いかにも父が言いそうなことだと私は思いました。父は無宗教でした。ただ無宗教葬が行われるようになった今日で、葬儀自体を行いたくないというのは、孤独死を迎えようとしていた父の怒りの表れに見えました。

 三人で掃除を続けているうちに、こんな部屋もだんだんとすっきりしていきました。最後に、ツグミが父の着替えを衣類が乱雑に積まれたタンスからいくつか抜きとって、その日は帰りました。
 その日も、ユウゾーは静かでした。

9.「本物」の何か

 次の日、父の病室に入ってみると、ベッドに父の姿はありませんでした。廊下に顔を出すと、父が点滴台を押しながら病室に戻ってくるところでした。酸素マスクがなくても動けるようになっていました。

◆ フォース??
 その日、私は、父の話を聞く代わりに、私が父に伝えたいことを話すことにしていました。
 父は、根っからのマルクス唯物論主義者で、目に見える物質しか信じていない、科学万能主義の人間でした。だから、神も仏も、あの世も輪廻も、そんなもの信じていなくて、ある意味刹那主義でした。とはいえ、心のどこかで何か大きなものがあると感じていたようで、私が小さいときから、何かと宇宙にロマンを求めていました。宇宙論に何かすがっているようでした。父の宇宙論へのイメージは、父の身近な日常とはかけ離れたもので、現実味に欠けたものでした。それは、ただ自分の知的好奇心を満たすものだけでしかありませんでした。つまり父の人生観、人間観、社会観、自然観、世界観、宇宙観、そう言ったものを統一するようなものではなかったのです。
 さて、そのような父に、科学的に説明できない、目に見えるものの向こうにある「本物」の何かについてどう切り出せばいいのか、私は悩みました。とりあえず、父との共通項を探ろうと、こんなことから話し出しました。
「僕さ、自分の心と向き合うことを始めたんだけどさ、そうすると今まで素通りしてきたものの中に、真実があることによく気づかされるんだよね。そんなとき、『俺の目は節穴だった!』って愕然とすると同時に、目が開いて世界が鮮やかに見える瞬間があるんだよね。」
 私はここで短い沈黙を置きました。そして続けました。
「たとえば、これまで『スターウォーズ』って、どこか遠い銀河の果てのおとぎ話かと思っていたけど、あれは、そうじゃない。まさに僕達のこの世界のことを表しているんだ。あの映画の中に出てくる『フォース』って本当にあるって思えるようになってきたんだ。」
 これを聞いて、父は、おいおい、自然科学を学びに大学まで行かせたっていうのに、ちょっと待ってくれよ、というような困った顔をしていました。
 私は思い出しました。そういえば、私が高校生のころ、当時CGでリマスタリングされた「スターウォーズ」を映画館で見て、無邪気に「あの映画はすごい、面白い!」と興奮して父に語ったとき、父が「ありきたりなSFファンタジーだ」という否定的な評価だったことでした。
 私は、持ち出した話題が悪かったと気づき、切り口を変えてみることにしました。

◆ 「風」
「他に、ボブ・ディランの『風に吹かれて』の『風』が何を表しているか、わかるようになった。何か『本物』に触れられると、『風』に吹かれている感じがするのがわかるようになってきたんだ。そして、あぁ、『風に吹かれて』の『風』って、これのことだったのかって、わかったんだよ。
 今までさ、音楽の演奏って、難しいのを正確に演奏するのがすごいことだと思っていたし、なんか高いお金を払って有名な人のそういう演奏を聴きにいくのがいいのかと思っていたけど、そうじゃないってようやくわかった。というのはさ、この前、近所のお祭りのステージで、地元のアマチュアのジャズバンドの演奏があったんだ。そのバンドのメンバーは平均年齢65歳の、かなりシニアなバンドで、その中で最高齢の90歳のおじいさんがサックスのソロする演目があったんだ。聴いていたら、そのおじいさん、うまく弾いてやろうっていう力みとか、みんなが見ているっていう固さとか、そんなてらいも迷いもなかったんだ。そのおじいさんは、まるでその場に聴衆なんて誰もいなくて、自分独りだけでいるかのように、ただただ気持ち良さそうにサックスを吹いていた。それを聴いていたら、高原で涼しい風を受けているそんな気持ちのいい感覚に包まれたんだ。あぁ、これが音楽の本当の楽しみ方なんだって、初めて気づいた。それに気づいてから、近所の小さな祭りのステージだけど、子供たちの和太鼓や無名バンドの演奏で、彼らが心から楽しそうにパフォーマンスをしているとき、そんな感覚を感じて、あぁ、『本物』ってこれかぁ、気づいた。今まで、下手だとか無名だからといって素通りしてきたものの中に、『本物』があることがやっと分かってきたんだよね。父さんもそんな経験ない?」
 父は語りました。
「あぁ、去年、那覇の大きな祭りで、その日のステージに出る有名バンドを目当てに、会場でビール飲みながら待っていた。待っている間に、前座のローカルバンドの演奏があった。初めはそんなバンド知らないのもあって、あまり期待せずに飲んでいたんだけど、聴いているうちに、だんだんと、血が騒ぐというか、胸が躍り出すっていう感じになってきて、そのうち体の底から楽しいー!っていう感じになってきて、いつのまにかそのバンドの演奏をノリノリで聴いていたサ。そのときは楽しかったなぁ・・・。それに比べて、その後のお目当てのバンド演奏は、何かただギャラの分だけこなしている、そんな感じがして興醒めしてしまったよ。」
 父は、軽く拳を握って体で緩やかにリズムをとりながら話していました。
「そうそう、それが『本物』が出す何かなんだよ。」
 私はそんな相槌を入れたのですが、父はもう私にかまわずに、生き生きと続けました。
「それから、父さんサ、そのバンドの追っかけみたいになってサ、そのバンドのWebサイトでライブ情報をチェックしては、(那覇のお祭りの)ハーリー会場やショッピングモールを回っていた。孫娘二人も連れていったりしてね。だけど、そのバンド、単体だと、いまいち乗りが悪いんだよね。コラボレーションする他のグループがいると、感じがいいんだけどね・・・」
 父はそのバンドについてとても楽しそうに話し続けました。そして、息切れしてくると、ちょっと休むと言って、横になりました。けれども、顔はとても穏やかで満足そうでした。
「そうそう、それが『本物』の出す何かなんだよ。」
 私はそう言いました。

 落ち着いてから、父は静かにつぶやきました。
「武道家の言う『気』ってやつもこんなことなのかなぁ。」
 父に武道経験はないはずでした。科学で証明されていない、けれども昔から人々が感じてきた、目に見えない何かのことを父が考えるようになっただけで、そのときは十分だと私は思いました。
「うん、うん。とにかくリラックスしてね。」
 私はそう言って、父と握手をしてから、おとなしくしていたユウゾーと一緒に病室を出ました。

10.痛みと上手に付き合う方法

◆ タイ・マッサージ
 次の日、病室に入ると、父と同じ年頃のご夫婦が病室に来ていました。お二人は父の模合の友人で、その前月の10月、模合仲間で行ったタイ旅行のアルバムを持ってきてくれたのでした。父や仲間の写った写真を見せてもらいながら、しばらく話していました。
 その方がこう言っていました。
「・・・タイに行ったのは、つい二、三週間前で、あのときはピンピンしていたからサ、入院なんて聞いてびっくりしたサァ。・・・だけど、そういえば、終盤にタイ・マッサージを受けたあたりから、少し調子悪そうに見えたかなぁ。・・・」
 ご夫婦はしばらく父と談笑すると、そのアルバムをお土産に置いて、帰っていきました。
 ご夫婦が帰った後、私は父に言いました。
「父さん、タイ・マッサージを受けたんだね。」
 父は、片手を口に添えて恥ずかしそうに笑いながら
「実は、そんな真面目なものじゃなくて、ただ若い女の子にこの辺をマッサージしてもらっていただけなんだ・・・」
 そう言って、太ももの付け根のあたりをさすりました。
 太ももの付け根、ソケイ部にはリンパ節が集中していて、マッサージでも大切なポイントなのですが、父はただ自分のスケベな動機にしか意識が行っていないようでした。
 ガン患者がマッサージを受けることの是非については、いろいろな説や噂があるようですが、私はこのとき、このマッサージのおかげで、父の体の中で自然治癒プロセスがトップギアに入ったと感じました。もちろん、本人にとっては苦しいものだったのでしょうが、リンパが刺激されてお腹に水が溜まりだし、自然と断食するようになり、その後、死にかけたものの、結果的に父の体に必要なものをおいしく食べられるように体調を整えるきっかけになったと見取りました。
 そして、まだ照れている父を見て、この人はなんて幸運な人なんだとつくづく思いました。このときも改めて、父の体はまだ生きようとしていると感じました。

◆ 鎮痛剤が効かない
 その日あたりから、父はときどき左手で右肩と首のあたりを押さえて、右肩をそびやかして「シッ!」としかめっ面をするようになりました。そしてこんなことを言いました。
「首のリンパ腺が腫れてヨー。痛いんだよね。鎮痛剤を飲んでも痛みが治まらないから、看護師さんに『この鎮痛剤効かないよ、もっとちゃんとしたのをくれよ』って頼んだら、『あれー、ユーアサさん、もう痛みなんて感じないんじゃないですか?』だって。嫌になっちゃうよ。」
 ガン発覚から延命治療を放棄していた父は、鎮痛剤としてモルヒネを服薬していました。
 私は父にこう語りました。
「僕ね、痛みの原因には大きく分けて二種類あるように思うんだ。
 一つは、痛みの原因が自分にない場合。例えば、針が刺さったり、火の中に手を突っ込んだ場合。こんなときは、痛みの原因を取り除けば、例えば、針を抜いたり、火から手を離したりすれば、そのうち痛みがなくなる。
 もう一つは、自分で痛みを作り出している場合があると思うんだ。」
 父は解せないような顔でした。私はこう続けました。
「僕もね、子供のときからの頭痛持ちだけど、最近、この頭痛は自分で作り出していることに気づいたんだ。
 今まで、頭痛のときは、薬を飲んだり、薬を飲んでも効かなくなってきたら、気を逸らすことに躍起になって、とにかく痛みから逃れようとしていた。
 だけど、逆に痛みを感じてみようと、意識の照準を頭痛の感じる個所に当ててみるんだ。最初は、ただ頭がイタイ、イタイと漠然と痛みを感じているのが、そのうち、頭全体ではなく、孫悟空の頭の輪が締めつけられるような、ギュッとした痛みがあると感じる。やがてこめかみのところに特に強い痛みがあるように感じてくる。そして今度はこめかみにと、意識の範囲をだんだんと狭めてみる。もうここまでくると、痛みも鈍痛になっていて、最初の逃げ出したくなるような激痛はなくなっているのに気づく。
 こめかみの痛みに意識を置き続けていると、だんだんと痛みではなく、筋肉が強く収縮した感じに気づく。そして、さらに意識を置き続けると、それまでギュッと緊張しっぱなしだったこめかみが、ドクドクゆっくりと大きく脈打つような感じがする。そのまま意識を置き続けると、次第にその波が細かく早くなっていく。この波が細かくなっていくごとに、より不快なものに感じて、思わず意識を逸らしたくなるのだけど、それでも意識を置き続ける。やがてその波が消えると、そのときこれまでの波に感じた不快さとは比べ物にならないほどとても不快な感覚を感じる。ここに来て、初めて気づくんだよね。あぁ、僕はこの不快な感覚を感じたくないために、こめかみの筋肉をギュッと緊張させ続けて、緊張させ続けて、どんどん頭を締めつけて、頭痛を作り出していたんだって。
 だけど、これがわかったからって、これっきり頭痛が消えるわけじゃない。頭では頭痛なんて自分が作り出していると知っていても、これまでの癖だから体に染みついた条件反射で頭痛は起こる。ただもう、その正体は知っているから落ち着いて何度も何度も落ち着いて意識を置き続ける。そのうち、体に染みついていた痛みを作り出す癖がなくなってきて、激痛が起こることがとても少なくなったし、たとえ起こってもすぐに収まるようになった。まだ、鈍痛が起こることは多いけど、いつかなくなると思っている。
 ひょっとしたら、父さんの肩の痛みもそれで収まるかもしれないよ。最初は意識を置き続けるのは難しいかもしれないけど、そういうときは今やっているみたいに痛いところに手を当てるんだ。そして、最初はゆっくりお腹で息をする。そのときに、自分の手から息が出たり入ったりしているような感覚を感じてみて。」
「だけど、俺には腹式呼吸が難しいんだよな。お腹に水が溜まっていたからな。」
「別に難しいこと考えなくていいよ、リラックスして大きく呼吸すれば。他のことに気が散らなくなれば、大きな息じゃなくて自然な息でいいんだ。重要なのは落ち着いて意識を置き続けることだから。」
「意識を置き続ける、ねぇ・・・」
 そう言いながら、父は背中をベッドの背もたれに預けて、左手を右肩に当てたまま、目をつぶり、大きく息をし始めました。

11.最後の面会

◆ 最後の面会
 その翌日は友人の披露宴でした。もうこのときには、実家のテレビの部屋はだいぶ片付いていて、ちゃぶ台を移動したりしなくても、大人一人分の布団は敷けるほどになっていました。母の部屋の方はまだ荷物で山積みでしたが、テレビの部屋からは隣の部屋との仕切りとなっているふすままで通れるようになっていました。その日、私は安心して母にユウゾーを預けて、披露宴に参列しました。

 披露宴の翌日、私は父の病院へ最後の面会に行きました。最後の面会は、ユウゾーの他に、この日休みだったツグミと二人の姪と一緒に、ツグミの車で行きました。途中モミジ一家とも待ち合わせして、兄妹とその子達で大挙して向かいました。
 大勢の子や孫に囲まれて父は、かつてのように威勢よくなっていました。もう病室には入りきらないので、ロビーで談笑しました。
 みんなで集合写真も撮りました。真偽のほどはよくわかりませんが、このとき父が「アメリカ人の女の子の間では口をタコみたいに尖らせるポーズが流行っているんだゼ」と言い、みんなでそのポーズもしたりしました。

 私は、このとき一冊の本を父に手渡しました。
 それは、東洋医学の「気」の流れと西洋医学の「リンパ」の流れの観点で書かれた、誰でも簡単に自分でできるマッサージについての本でした。父がタイ・マッサージを受けたと聞いたのをきっかけに、私は以前読んだこの本のことを思い出して、急いでインターネットで注文して取り寄せたものでした。
 父がこれから少しでも自分の体を労わることができるようにと願い、父に渡しました。
 しかし、父は本のタイトルを見て、気乗りしないようにこう返事をしました。
「リンパが腫れているから、『リンパ』ってのは好きじゃないんだ。」
 私はこう答えました。
「『リンパ』が気に入らないのなら、他のところだけでも読んでやればいいよ。」
「・・・うん、まぁ、ありがとう。」
 依然、気乗りのしない感じで父はそう言いました。

 別れ際、私はこう言いました。
「明日、僕は東京に帰るけど、東京に戻ったら、今度父さんが危篤と聞いても、父さんの死に目には間に合わないかもしれない。だけどさ、もともと余命二、三日でとっくに死んでいたのが、延びているのだから、僕が間に合わなくても、もうけもんだと思って。」
「あぁ、そうだね。」
 そう言って、私と父は笑って別れました。

◆ 東京への帰路
 翌日、東京への帰りの便の中で、私は今回の帰省を振り返っていました。

 帰省初日を除いて、父の病院に面会に行くときは、ユウゾーを一緒に連れていきました。
 父の病室ではベッド際のベンチにちょこんと座って、父からもらったお菓子や同室のおじさんからもらったフルーツジュースを飲んで、父と私が語っている一時間ほどの時間をおとなしくしていました。
 動物園やテーマパークの帰りにも、バスに乗って病院に向かったのですが、最寄りのバス停から病院までの一キロメートルほどの道を行きも帰りも一緒に歩きました。さすがにちょっと疲れて、途中立ち止まることもありましたが、嫌がったり駄々をこねるようなことはありませんでした。
 ユウゾーには、父の病気のことはちゃんとは説明していませんでしたし、説明しても理解は難しかったと思いますが、ユウゾーはきっと何か大事なことを感じていたのだと思います。

 それからこんなことが頭に浮かびました。
 友人の結婚式がなければ、私がこのタイミングで沖縄に帰省することはなかっただろう。
 沖縄帰省の予定がなければ、父の重篤を私が知ることはなかっただろう。
 帰省の前週、東京で再会した旧友達にあの作文のことを思い出させてもらわなければ、あの作文を読ませて父を笑わせることはできなかったろう。
 帰省の前週、「風に吹かれて」を聴き直すことがなかったら、「本物」について父にうまく話を切り出すことはできなかっただろう。
 自分の心と向き合うことに取り組まなければ、「本物」のことなんて知らずに素通りし続けていたのだろうし、そもそも父や母と正面から向き合って話すこともなかっただろう。
 それから、自分の仕事に、キャリアに、人生に行き詰ることがなかったら、自分の心と向き合うなんてしなかっただろう。
 ・・・・・・
 たくさんの縁で、それもまだまだ見えていないたくさんの縁で、今があることに気づかされました。

12.父との電話

◆ 昔の日記
 東京に戻った私は、帰省前に東京で再会した旧友に「どうしてテツオはあんな作文を書こうと思ったのか?」と質問されたことをふと思い出しました。
 先の帰省中、コピーした自分の作文を読み返して、書いた内容を思い出したものの、一体、当時の私が何を考えていたのか、どうしてこんな作文を書こうと思ったのかについては、やはり思い出せませんでした。
 そこで、帰省中に整理して東京の家に送っていた段ボール箱の中から、学生時代につけていた日記を取り出しました。
 この日記は、私が中学校三年生から二十歳のころまで付けていたものでした。大学に入ってからは気の向いたときにしか書かないようになって、次第に止めていましたが、中学・高校の間は割と毎日書いていました。実家でこの日記を見つけたとき、ページをペラペラ繰ってみると、かなりの量を書いてあるのがわかったので、その場では読み返さず、とりあえず東京に送る段ボール箱の中に入れてあったのでした。
 最初のページ、中学三年の冬の日記から、私は読み返しました。
 そこには、当時のテツオの心境が赤裸々に綴られていました。
 あの作文を書いた高校一年のころのテツオは、人と親しくなりたいと思っていても、人とどう接すればいいのかわからず、人と距離をいつも取っていました。
 当時は気づいていませんでしたが、裏切られて傷つくことが怖くて、心に鎧を着せていていました。それも近くなれば近くなるほど、分厚い鎧を。
 日記を読んでいるうちに、父が肩をいからせ、歯を食いしばって不満を溜め込んでいる姿が頭にふと浮かび、当時の自分と重なりました。臆病な自分の恐れを隠そう、強くなりたい、とこらえてきたが、こらえようとするのは、父から引き継いだ癖なんだと、そのときはっきりと悟りました。
 当時のテツオは、そんな臆病な自分を見るのが嫌で、強く孤高でありたいと思っていました。しかしそう思いながらも、孤独に耐えられず苦悶していました。そのたびに、弱い自分の心の周りに壁を築き続ける、そんな怖がり屋でした。
 そんなテツオにとって、あの作文の後半にある、あのバス停でのイベントはとても印象的だったようです。その日の日記には、作文の該当箇所と同じ内容が、ほとんどそのまま書いてありました。
 日記には、作文を書いたことについては、何も書かれていなかったので、結局、何を思って書いたのかはわらないのですが、あのバス停での出来事に見た、人との心の触れ合いに感じた、キラキラ輝く希望に導かれるように、あとは書きたいようにあの作文を書いたんだと思いました。
 けれども、人との触れ合いに希望を感じてあの作文を書いた後も、臆病なテツオは傷つくのが怖くて、人と親密になることを無意識のうちに避け続けていました。
 一方で、あの作文が校内放送で流れてから、なんだかテツオの周りがテツオに優しくなっていることが、日記の記述から読み取れました。それでも、当時の臆病なテツオは、依然として期待が裏切られるのを恐れて、無意識のうちに周りの優しさは移ろいやすいもので当てにならないものだと言い聞かせて、壁を築き続けました。
 テツオが心を開いたのは、あの作文を書いた一瞬だけでしたが、あの作文を通して、心を開いて気持ちを出したら、その気持ちが周りに伝播して、めぐりめぐって自分に廻ってきていました。そのおかげで、その後もテツオは壁を築き続けたにも関わらず、テツオの周囲の人々は、高校時代も卒業後も、ずっと温かく、優しく接し続けてくれていました。
 臆病で人付き合いの下手なテツオがどうして高校生活を潰れてしまわずに過ごせたのか、それはあの作文を書いた一瞬にかかっていたことが、よくわかりました。
 ただ、臆病なテツオが強くなりたい一心に心に壁を作る癖は、それからもどんどん強固になっていき、日記を止めていった二十歳のころには自分の心がわからなくなって苦悶していました。そして10年後、ついには人生そのものに行き詰まることになったのだとわかりました。
 そう、このとき日記を読み返して、臆病な私が抱いていた、人に裏切られるかもしれない、傷つけられるかもしれないという恐れは私の創りだした幻で、私以外は誰も私を傷つけられない、と私はようやく気づいたのでした。

 それに気づいたとき、何が起こったと思いますか?

 今まで自分を傷つけてきた人の全てを赦したくなる感じ。
 今まで自分が傷つけてきた人に全てを謝りたくなる感じ。
 今まで自分を大切にしてくれた人に感謝したくなる感じ。
 今まで自分が大切にしていた人に素直な気持ちを伝えたくなる感じ。

 愛憎入り乱れた複雑な気持ちを抱いて、
 ガンジガラメになっていた心が
 空に解き放たれた感じ。

 今まで体全体にまとわりついていたのが、
 さわやかな風に全部吹き流されて、
 体がフッと軽くなる、そんなさわやかな感じ。

 優しい気持ちに包まれる感じ。

 そう、自由な感じ。

 それは、ほんの一瞬のことでした。


◆ 電話のきっかけ
 私は、帰省前に再会した旧友の一人に、帰省中の父との出来事をメールで伝えました。彼女が自分のお父さんが亡くなったときの話を返信してくれたのは、まさに私が昔の日記を読み返した後のことでした。
 メールには、彼女のお父さんの最期に、彼女とそのご家族に起きた奇跡のような話が書かれていました。
 そのメールをもらうまで、私は先の帰省で、父にできることは精一杯やったつもりでいました。
 特に、父に話しておきたかったのが、「本物」の何かについてでした。根っからのマルクス主義者の父に、それを伝えることは一苦労で、入院先の病院に通っては、「スターウォーズ」の「フォース」やら、ボブ・ディランの「風に吹かれて」の「風」なんてことまで、引っ張り出して、話をしたのを思い出していました。そして、「伝えたいことを全て伝えられたわけではないけれど、まぁ、やれることはやったからいいかなぁ、後は本人次第だから」とも思っていました。
 しかし、彼女のお父さんの最期の話を読んだとき、何かお腹に重いものが残っているような気がしました。彼女からのメールには何か意味があると直感を覚えました。そして、やはり核心は言葉にしておかなければならないと思い直し、父に電話をかけることにしました。

◆ 安らかに死ぬために
 もう年の瀬、12月に入って、父が入院してからちょうど一ヶ月が過ぎていました。医師から宣告された余命を過ぎ、いわば余命マイナス一ヶ月目を迎えていました。
 電話をかけると、父は調子が良さそうな声で出ました。まず、状況を聞くと、「もう退院したサ」と父は答えました。何も知らされていなかった私は回復状況に安堵してから、「じゃー、今はあのウィークリーマンションで暮らしているの?」と聞くと、「いや、実家のアパートで、お母さんやツグミ達と暮らしているよ。」と父は答えました。
 私は予想外の答えに大変驚きました。先の帰省で、私がテレビの部屋を片付け始めようとしたときの母や妹の猛反発、あれは夢だったのだろうか?私は一瞬、唖然としました。
 気を取り直した私は、再び話し始めました。
「実は、この前、父さんに話しきれなかったことを伝えておこうと思ってさ。」
 フム、と父はうなずきました。
「父さん、悲しみとか淋しさとかネガティブな感情を感じると、グッとこらえてしまう癖があるでしょ。僕も父さんと似ていて、同じようにこらえてしまう癖があるんだ。」
 フム、と父は電話越しにまたうなずきました。私は続けました。
「ネガティブな感情を感じるとき、同時に体のどこかで強張りを感じるはず。例えば、肩に力が入っているとかね。その強張りに意識を置いて、ゆったりとした呼吸から始めて自然とリラックスすると、今度は不快な感覚を感じるはず。それが、グッとこらえてきた感情に対応する感覚で、今まで力を込めて隠してきたものなんだ。だけど、その不快な感覚を味わうようにリラックスして感じ続けていけば、いつかは消える。このことは、このまま生き長らえるためにも、安らかな死を迎えるためにも、重要なことだから、覚えていて。」
 フム、フムとさも納得しているかのように父がリラックスしてうなずくのが聞こえました。これには私は少し拍子抜けしてしまいました。今までの経緯から、なんだか解せないような反応が父から返ってくると予想していた私は、父にそんなにすんなり聞き入れられるとは思ってもいなかったのです。
 また気を取り直して、今度はこう聞きました。
「父さん、僕が前に渡したマッサージの本、読んだ?」
「あぁ、あの本ね。父さん、『リンパ』ってのは嫌いなんだ。」
「父さん、今、父さんが生き長らえているのは、10月のタイ旅行で、タイ・マッサージを受けたのも大きいんだよ。」
「アッシ、テツオ君!だからアレはそんな真面目なもんじゃなくて・・・」
 父が照れ笑いしながら答えます。私はさえぎりました。
「真面目だろうが不真面目だろうが、自分の体をマッサージすることは、長生きするのに大事なことだから、ちゃんと読んで自分の体を大事にしてね。」
「うーん・・・、わかったサ」
 それから父はこう言いました。
「テツオくん、これからカラオケに行くところサ。なんか大きな声を出すのが、体にいいみたいだしサ。それじゃーネ。」
 電話を切ったとき、安らかに死ぬために大切なことを父に伝えられて、自分としてはやれることはやりきったと思いました。
「父がいつ死んでも悔いはない。」
 私はそうつぶやきました。

 年が明けて、東京の家にモミジから年賀状が届きました。そこにはこう書いてありました。
「父さんと母さんが『気味が悪い』くらいに仲がいい」
 仲がいい父と母なんて物心ついてから私は見たことがありませんでした。もしそんな光景を目にしたら確かに「気味が悪い」、私は思わずフッと吹き出しました。

13.父の訃報

◆ 訃報の電話
 年が明けて、二週間ほどたった日曜日、その日は長男ゲンタの誕生日でした。私達家族は、ゲンタの希望で朝から家族だけで誕生日パーティをしました。
 父は毎年、息子達の誕生日の朝には一言お祝いの電話をかけてきました。しかし、その日は電話がありませんでした。私は、父もそろそろ弱ってきたなと薄々感じていました。
 ゲンタがプレゼントを開けて、みんなでケーキも食べて、一段落ついた後、妻と息子達は近くの公園へ遊びに出掛けました。
 前の晩、少し食べ過ぎて調子を崩していた私は独り家に残って、日課の「ストレッチ」をしました。
 それから、独りで昼食を食べている最中、ツグミから父の危篤の電話がありました。
 電話を切った後、とうとう来たか、と思いました。それから、とりあえずシャワーでも浴びようと、浴室に入りました。
 シャワーを浴びながら、父のことを想って祈りました。シャワーから上がって、電話の着信を確認すると、ツグミから留守電が入っていました。私がシャワーを浴びている間に、父が息を引き取ったとのことでした。
 電話を掛け直すと、ツグミが涙声で出ました。
「今、さっき息を引き取ったよ。」
 私は言いました。
「実はな、息を引き取って心臓が止まったからと言って、人間すぐ死ぬわけじゃないんだ。心臓が止まっても、まだ音を聞いたり、触られたりしたら感じることがあるんだ。俺もお別れを言いたいから、電話を父さんの耳に当ててくれないかな。」
「うん、わかった。」
 ツグミはそう言って、父の体をゆすぶってこう言っているのが聞こえました。
「お父さん、テツオから電話だよ。」
 私は電話越しに息を引き取った父にこう言葉をかけました。
「テツオです。父さん、ありがとう、そして、おつかれさま。」
 それからツグミはこう教えてくれました。
「11月末に退院してからしばらく家で過ごしていたのだけど、昨日、容態が悪化して入院して、今朝、さらに容態が悪化して、病院で今さっき亡くなったよ。職場から駆けつけた私は臨終に間に合って最後に少しだけ話せたよ。母さんもそろそろ着くって。」
 電話を切って後、私は一息ついて自分の体を感じ取りました。
 私の体は、朝の霧のように白く涼しい、とても静かな振動に包まれていました。
 私としては、旧友からのメールで触発されてかけた、今となってみれば最後の電話で伝えるべきことは伝えた、やれることはやったという思いがありました。ですから、このとき、父の死をとても冷静に受け止めていると感じていました。

◆ 斎場の安置部屋
 しばらくして公園から妻と息子達が帰ってきたので、家族で荷造りして、すぐに沖縄へ向けて発ちました。年始休みも終わってシーズンオフだったおかげで、その日の最終便の飛行機もホテルも難なく取れて、また日曜の夕方だったので、空港までの子連れの移動もラッシュに悩まされることなく、スムーズに進み、その日の真夜中には父の遺体が安置された斎場へ着くことができました。

 斎場は実家の近くにありました。私達家族が着いたとき、斎場の安置部屋には、母とツグミと二人の姪、モミジ一家がいました。
 父はまだ棺には入れられず、ドライアイス入りの布団の中で横になっていました。
 父の顔は、本当に安らかで、口には少し笑みさえ浮かべてようで、まるで眠っているようでした。顔も体もとてもリラックスしているようでした。
 私は、布団から出ている父の頭と顔を撫でました。ドライアイスで冷やされて、とても冷たい顔でした。私の真似をして、ユウゾーも小さな手で父の頭と顔を撫でました。
 一段落ついてから、私は妻と息子達を寝かせるために妻子を連れて一旦近くのホテルにチェックインし、また斎場に戻ってきました。私が戻ったときには、母には休んでもらうために、モミジが母を家に送った後でした。
 葬儀の手配はモミジが取り仕切ってくれていました。沖縄では通常亡くなった日の翌々日に葬儀をするのですが、火葬場が混んでいて、さらに一日延びることになったと教えてくれました。
 その晩から葬儀までの三夜、私と二人の妹で父の前で線香を継ぎ足しながら夜を明かす、添い寝が始まりました。
 そこで、私は、先の帰省で私が東京に戻って後のことを、妹達から聞きました。

14.父の最後の生活

 私が東京に戻ってから、父は腹水を抜いた後の処置のため二度ほど手術を受けました。そして、11月末には退院しました。危篤だといって入院してから一ヶ月も経っていませんでした。
 退院したとき、父はそのまま別居先のアパートに戻るつもりでした。
 一方で、退院するまでの間、父は一、二度、外出と外泊の機会もあって、そのときは実家に来て家族と過ごしていました。
 先の帰省中、テレビの部屋を片付けると私が言いだしたとき、「お父さんが退院したら戻ってくるかもしれないから」と言ってあんなに頑なに拒んでいた母や妹のツグミでしたが、このときの父の変わり様を見て、心変わりをしたようです。
 母は、父が退院したらみんなで片づけたテレビの部屋に戻ってきてもいいと、思うようになっていました。しかし、自分から口に出すことはなかなかできませんでした。
 結局、退院の日まで母は父に言い出すことはできませんでした。
 そして、退院の日、父は最初に別居先のアパートに戻りました。それから、実家に寄りました。そのとき、たまたま実家に居合わせたモミジがぽろっと母が戻ってきてもいいと思っていることを口にしました。
 そうして、父は最後の入院までの、一ヶ月半を実家で過ごすことになりました。偶然が偶然を紡いでいく、そんな感じで、父は実家に戻ることになり、人生最後の日々を過ごすことになったのです。

◆ 父の実家生活
 実家での最後の一ヶ月半の父の様子は、家族の誰も夢にも見なかったことでした。
 父は一度も誰とも口論をしませんでした。
 いつも何か不満げで、怒っていてすぐカッとなる父は、以前なら誰か父の考えに異論を唱えようものなら、怒って厳しい口調で正論を主張していました。
 しかし、実家での最後の日々は、誰に対しても、たとえツグミや母が相変わらず整然としない話し方で何を言っても、「そういう考えもあるね」とか言って、ただニコニコして聞いていたそうです。

 先の入院で、病院食をおいしいと感じるようになっていた父にとって、普通の味付けの料理は濃過ぎて食べられないようになっていました。そこで母は、父だけのためにとても薄口の食事を、父の薬の時間に合わせて、毎日、毎食欠かさず用意しました。時間にルーズで、しかも料理が苦手で嫌いな母しか見たことがなかった私はこれにも驚きました。妹達によれば実は数年前から、母は料理が好きで得意になっていたそうです。
 一方、父は機械音痴の母のためにオーディオ機器を買いに、自分で歩ける最後の日まで家電店に通っていました。そして、いつもキッチンにいてゆっくりテレビを見られない母のために、ポータブルラジオやポータブルテレビを買ってあげていました。父が母に何かを買ってあげたというのは、これ以外に私には記憶がありません。
 そして、何よりも私が驚いたのは、母が父を膝枕して、頭を撫でていたこともあったということです。
 物心ついてから、母はいつも父に背を向けていて、母が自分から父に触れているところなんて見たことがなかった私には、にわかには信じられない話でした。
 昔から、母はいつも父とは逆の斜め前に顎をツンと突き出していました。
 父が死にかけたというのに、先の帰省の間、母は一度も父の入院先に見舞いには行こうとはしませんでした。
 先の帰省で、父を受け入れないのかという私の問いに、母は「アンタのお父さんは誰にも迷惑かけずに独りで死を迎えたいって思っているから、家には戻りたくないはずよ。」と言って、父を受け入れない言い訳をしていました。
 また、昔から、母は「自分にはヤンバルの実家にオジイがお墓の土地を用意してくれているから、自分が死んだらそこに入るつもり。アンタのお父さんはお墓を残すつもりはないだろうから、お父さんの生まれた与那国の海にでも遺骨を撒いたら。だけど、絶対一緒のお墓は嫌だからね。」というようなことを言っていました。
 そうして、そのときが来てみると、母は「全部撒くと淋しいから撒くのは少しにして。自分が死んだら一緒のお墓に入れてほしい。」と言い出していました。
 そして、私はこう思いました。
 これまで生きた人生の半分、あんなに確執のあった二人がこういうことになるなんて、父の最後はとても幸せだったろうな、と。
 私が成人式で帰省したとき、「離婚したいけど、慰謝料を払うお金がないから離婚できない」と父が無力感から諦めたように言っていたことを思い出しました。私達家族が貧乏だったことにはこういう意味があったのかと感じました。

 通夜初日、葬儀の手配を取り仕切っていた妹達に、「そういえば父さんは葬儀をやりたくないっていうことじゃなかったっけ?」と、私が聞くと、妹達の返事はこうでした。
「父さんは最後の方は『お母さんのやりたいようにやってくれればいいよ。』だって。」
 マルクス唯物論者の父は、もともと宗教というものにものすごい反感を持っていました。お坊さんや神主さんなど何も生産しない宗教関係者をあたかも搾取者、労働者の敵として激しく敵視しているかのようでした。宗教的なものには意味がないと強く否定していました。しかし、その否定する力でその存在を認めてしまっている矛盾に気づかずにいたようでした。
 ですが、最後の父のこの答えから、私は父が宗教にこだわらない、本当の無宗教者になったとわかりました。どんな宗教が在っても無くても構わない、この無執着に、本当の無宗教者としての父の幸せな心境をうかがい知ることができました。

◆ 父の闘病生活
 一方、父の闘病生活は大変苦しいものでもありました。
 鎮痛剤が効かず、一晩中起きているときもあったそうです。
 しかし、父は最後まで自分ができることは自分でやろうとしていました。
 歩ける間は、散歩は毎日欠かさなかったそうです。母から頼まれた日々のお遣いにも重い足取りながらも歩いて行きました。
 とうとう外を歩けなくなって、家で過ごすようになっても身の回りのことは自分でやっていました。
 どんどんできないことが増えていく中でも、父はまだ生きることを諦めませんでした。
 そういう気持ちから、父はある新薬を試してみることにしました。
 新薬を服用し始めたある晩、亡くなる前々日のことですが、食事中に吐いてしまいました。
「ツグミさーん、ツグミさーん、お父さん、吐いてしまった。」
 父の呼ぶ声を聞いて隣の部屋から駆けつけたツグミは、
「お父さん、大丈夫、大丈夫・・・」
 そう言って父を慰めながら、父の服についた嘔吐物を拭いて、着替えさせました。
 自分で食事が摂れなくなったことを知った父は、これ以上、自宅で過ごせないことを悟り、翌朝、つまり亡くなる前の日、自分で入院の支度を整えて、タクシーの手配をしました。しかし、いざ、家を出ようとすると歩けませんでした。父はツグミに抱えられながら、タクシーに乗り込み、ツグミと一緒に病院へ向かいました。
 病院では、看護師が車いすを用意して待ってくれていました。車いすの父は、病院の受付に向かい、自分で入院手続を済ませて、最初の診察を受けました。このとき、父はまた退院するつもりでいたそうです。
 そして病室に入ると、ツグミに息切れしながらも爽快さを感じさせるような声でこう言って別れたそうです。
「ツグミさん、不快な感覚はあるけど、体全身どこにも痛みは全くないよ!」
 これを聞いたとき、私は冷たい父の安らかな顔を見ました。
 もちろん鎮痛剤もあってのことだと思います。が、それでも先の帰省で、鎮痛剤が効かないと言ってしかめっ面をしていた父が、このときには不快な感覚を感じても強張らずにその感覚を受けとめられるようになっていたことを知り、父が痛みで苦しむことがなく死を迎えられて、本当に良かったと思いました。
 そして、先の帰省の直前に、余命幾ばくもないと言われて孤独死を決意した父が、今度はきっとそのとき以上に不快な感覚を感じながらも、まだ生きることを諦めていなかったことに、こう思いました。父は自分が生かされているという事実、生きる意味について死ぬ前には知っていたのではないか、と。

 実家での父の最後の一ヶ月半の話を聞かされて、私はこう思いました。
 いつもケンカ腰で、不満を溜め込んで、こらえて、怒っていた父は、最後の日々をとてもリラックスして、満ち足りて、幸せに過ごしていた、と。
「人は毎日毎日生まれ変わっている」と言われることがあります。人は昨日までの自分に引きずられてなかなか抜け出せないけど、その気になれば、ちゃんと気づけば、その瞬間に、その束縛から、苦悩の人生から抜け出せる、そんな生き様を私は初めて身近な例として知ることになりました。私はそれまで、父のことを反面教師としか捉えていませんでしたが、父のように死を迎えたい、と初めて父の生き様に共感しました。
 それから、父の最後の幸せの日々は、これまで30年余りずっとバラバラだった家族がやっとひとつになった日々でもあったことにも気づかされました。
 私も妹達も、父は死ぬ前に幸せになれた、間に合った、本当に良かったと、毎晩語り明かしました。

15.父の通夜

 私は葬儀の遺族代表挨拶をモミジから頼まれました。葬儀の準備は何から何まで妹達に頼りっきりでしたので、これくらいは長男としての務めを果たそうと引き受けました。
 葬儀業者から渡された挨拶の例文を目にして、「形式的な挨拶なんて意味がない」と思ったとき、私の心の中に、慣習的なことに意味を認めなかった父がいるように感じました。ただ、その父は、慣習は無意味だと言って厳しい顔をして否定していた以前の様子とは違って、ニッコリ微笑んでいました。「形式的な挨拶文をただ読み上げても、誰のためにもならないサーネ」、と言っているかのようでした。
「今の父さんなら何を言ってほしいだろうか?」私は父を前にして、そう考え始めました。
 それから葬儀の日まで添い寝で線香の番をしながら、父が私の体を通して最後に話したいとしたら、何を話したいだろうか、そればかり考えていました。
 そうして、思い浮かぶのは、父がこれまで出会った人々への感謝と祈りばかりでした。そうやって溢れてくるものを、私は拙い文章ながら紡いでいきました。

◆ 最後に見ていた映画
 ところで、葬儀までの間、私達は、通夜の合間を縫って、出棺前に棺桶に一緒に入れる形見の品を探すついでに、父の別居先のアパートと実家にある遺品の整理を始めていました。

 あるとき、実家に置いてあった父の荷物を整理しているとき、私はDVDケースを見つけました。
 父は、実家に戻ってからだんだんと動けなくなると、部屋でDVDを観ながら過ごしていました。実家の部屋にはそのときに観ていた映画のDVDが2ケースほどありました。それは別居先にあったものとは別に、新しく買い足したものでしたが、実家の部屋にあったものは、別居先のものとは全く趣向が異なっていました。
 父はもともと、幼いときから慣れ親しんだ西部劇、あるいは洋画のアクションもので、話の筋としては典型的に勧善懲悪の映画が好きで、別居先に置いてあったDVDはこういうものばかりでした。
 一方で、実家に置いてあった、父が最後に観ていた映画には、古い邦画が多く含まれていました。ほとんどが白黒でしたが、とても静かで穏やかな美しい映像とストーリーが流れていく、そのような映画ばかりでした。それらはかつての父の趣向とはあまりにもかけ離れていました。
 母の話によれば、以前の父なら地味な日本映画をバカにしていて絶対に観なかったが、最後のころはよく観ていたそうです。
 そんな父の映画の趣向の変化にも、父の穏やかで満たされた最後の時間をうかがい知ることができました。
 それから、もうひとつ、美しい邦画以外に、意外な映画がありました。
「スターウォーズ エピソードⅤ:帝国の逆襲」でした。
「観てくれたんだぁ」と、私は思わずつぶやきました。
 あんなにこの映画をバカにしていた父が最後に残された、限られた時間にこの映画を観てくれたことに、救われたような気がしました。

◆ 古い目覚まし時計
 またあるとき、別居先のアパートをツグミと片付けているとき、ふと枕元にあった古い目覚まし時計に気づきました。
 その目覚まし時計は、四角い紺色のボディの、黒の文字盤に夜光塗料でアラビア数字が記された、シンプルなアナログ時計で、日本製のとても古い時計でした。私も妹も幼いときから見覚えのある時計で、父がどこへ赴任するにもずっと使ってきた時計でした。
 父が学生時代から持ち続けていた洋書や老年、追っ駆けするほど好きになった音楽グループのCDなど、すでにいくつか形見として選んでいましたが、妹も私も、この時計も相応しいと思って、斎場に持って帰りました。
 母は私達が持って帰ってきた形見を眺めて、突然叫びました。
「この時計、結婚する前に私がお父さんに初めてプレゼントしたものよ。」
 私も妹達もとても古いものだとは知っていましたが、まさか自分達よりも古いものだとは知りませんでした。ましてや、それが母から父へのプレゼントだったとは全く知りませんでした。
 母は私達に聞きました。
「これ、まだ動いているの?」
「うん、まだ動いていて、使えるよ。」
 と私が答えると、母は、
「随分長い間使っていてくれていたんだねぇ。」
 まるで今まで誰も目を止めることのなかった道端の小さなお地蔵さんをいとおしむかのように、畳の上に置かれた時計を両の掌で囲って、しみじみつぶやきました。

 この様子を眺めて、私はこう思いました。
 父と母が長年募らせていた憎しみは、
 父の最後の一ヶ月半に消えてなくなり、
 代わりに優しさや思いやりが表われてきたように見えるけど、
 実はその憎しみはお互いの心が作った幻で、
 本当は出会ってからずっと二人の間には愛しかなかったんだ、
 この時計が二人の間で変わらず時を刻み続けていたように。

 名残惜しそうな母を見て、私達はこの時計を形見として棺桶に入れないことにしました。
 その目覚まし時計は、この後、実家の父の遺影が飾られた簡易なお供え用の台の側に置かれることになります。

16.父の葬儀

 父の葬儀の日、この日は、この時期の沖縄にしては珍しく良く晴れた、風のない温かな日でした。
 私達遺族も、とても晴々とリラックスした気持で、その日を迎えていました。
 ただ少しリラックスの度が過ぎたのかもしれませんが、私がようやく挨拶の原稿を書き上げたのは、父の火葬の最中でした。
 そして、葬儀で私は遺族代表として挨拶文を読み上げました。


◆ 「亡父 葬儀 遺族代表挨拶」(2012)
 本日はお忙しいところ、ご会葬頂き、誠にありがとうございます。

 故人は生前、本当に好き勝手に、
 ハチャメチャやっておりましたが、
 家族から見ると、いつもどこか不満で、
 常に怒りを抱いているように見えました。

 父は愚痴や悪口は決して口にしませんでしたが、
 悲しさや淋しさといったネガティブな感情までも
 ぐっと力を込めてこらえてしまい、
 家ではいつも緊張していました。

 私が物心ついて30年余り、
 父が家にいるとピリピリした雰囲気になり、
 いつもケンカが絶えないものでした。

 末期ガンとわかって治療を放棄するのも、
 昨年11月に「あと二、三日」と医者に言われて、
 別居先のアパートで孤独死を決意したのも、
 この怒りの表れの極みだと思います。

 しかし、最後に奇跡のようなことが起こりました。

 たまたま、孤独死を決意した父に電話をかけた、
 高校のご友人が容態の異変に気づき、
 医者のご友人を連れて半ば強制連行の形で父を入院させました。

 翌日、緊急手術で、一時一命を取り留めました。

 このとき私はたまたま高校の友人の結婚式に招待され、
 沖縄に帰省する機会があったのですが、
 そこで初めて父の病気のことを知りました。

 帰省中の一週間、毎日父の病院に面会に通って
 父と時間を過ごすことができました。
 ただこのときですら、
 まだ父は父の周りで起きている小さな偶然の連続の意味、
 自分が生かされているということは、
 まだ理解できていないようでした。

 そのあと、私は東京に戻り、
 父は11月末に一時退院するのですが、
 偶然の糸が続いて、
 10年余り戻ることのなかった家に戻って、
 最後の日を過ごすことになります。

 以前でしたら口論が絶えなかったのが、
 ケンカ腰で正論を押し付けていたのが、
 このときにはただニコニコと受け流して、
 とてもリラックスして過ごしていたようです。
 それはとても満ち足りた幸せな一ヶ月余りだったようです。
 幼い時から、
 いつもケンカ腰で、不満を溜め込んで、
 こらえて、怒っている父を見てきた私にとっては、
 生まれ変わったとしか言いようがありません。

 神も仏も天国も地獄も輪廻も信じない、
 根っからのマルクス唯物論者の父にとって、
 死後の世界が実際どうなのかは興味がなかったと思いますが、
 この生で幸せになったことは、
 この生で生まれながらにして救われたこと、
 人がなぜ生きているのか、
 その意味を悟ることができたと息子として確信しております。

 父の最後の幸せな一ヶ月余りは、
 またこれまで30年余りバラバラだった家族が
 やっと一つになった時間でもありました。

 兄の私は東京にいて、幸せな父を妹伝いで聞いて、
 実際自分の目で見ることができなかったのは多少心残りですが、
 兄妹ともども、父が死ぬ前に幸せになれた、
 間に合ったぁ、本当に良かったぁ、と思っています。

 幸せな最後の一ヶ月余り、
 父はきっとこんなことを感じて日々を過ごしていたと思います。

 この会場にいらっしゃる方、
 いらっしゃれない方、
 これまでの人生で出会った全ての人、

 いろいろ苦労や迷惑をかけて悪かったサァ、
 いろんなことがあったけどもういいサァ、
 これまで大切にしてくれて、本当にありがとう、
 あなたと会えて幸せだったサァ

 死後の世界はよくわからんけど、
 毎日毎日、僕らは生まれ変わっているからサァ、
 みんな、苦しみや悩みから自由になって、
 これからの人生、幸せになってね。

 きっとこんなことを言っていたと思います。

 あまりこなれておりませんでしたが、これで挨拶と致します。
 本日は誠にありがとうございました。


◆ 場を抱きしめて
 挨拶の常套句を読み上げて、いよいよ本文を読み始めようとしたとき、私は背筋に沿って下から何かが立ち上り、胸の後ろ側の背骨に、むせび泣いているように激しく振動するような感覚を覚えました。そして溢れる想いに涙がこみ上げ、私の声は一瞬、上擦りました。圧倒するような想いを冷静に感じ続けていると、そのうち強い振動の感覚は静まり、その後、私の体全身が静かな光を放っているような細かな感覚を覚えました。声の調子も元に戻り、私は挨拶文を読み続けました。
 そのとき、私はその場全体を抱きしめるように立っていました。

 葬儀が終わって、ゲンタが私にこう聞いてきました。
「お父さん、お葬式のとき、悲しくて泣いたんじゃないんだよね?嬉しくて涙が出たんでしょう?僕も感じたよ。」

エピローグ:初七日

 葬儀も終え、父の遺品も整理して、別居先も片付けが済んで、初七日を迎えました。
 その日は、母と妹達の家族で、父の遺骨を納骨したお寺にお参りしました。
 その晩は、打ち上げということで、ツグミ一家、モミジ一家、私の一家で居酒屋に行って食事会をしました。母だけは喪に服しているからと言って、家に残りました。
 その居酒屋は、父の高校の同級生のお店でした。父が参加していた模合の開かれる店でもあり、父も常連で妹達をよく連れていった店でもありました。
 子連れのため早くから店に入っていた私達は、最初は気づかなかったのですが、実はその日が、父が亡くなって初めての模合の日でもありました。しばらく経って模合の方達がだんだんと来店し、店主が私達のことを紹介し始めました。
 高校の同窓で同じ職場で勤めていた父の友人の方とも何人か話す機会がありました。その中の一人にあの方がいました。前年、父と一緒に模合の幹事役だった方で、先の帰省の直前に、父が緊急入院することになったとき、父の別居先のアパートまで医者の友人達を連れて行ったくれた父の命の恩人でした。
 そして、実はこの方は、父が若かりし頃、長期無断欠勤であやうく懲戒免職というところを免れたとき、父の始末書の保証人として連名で署名してくれた方々の一人でもありました。
 一度ならず二度まで父の“命”を助けてくれて、しかも二度あることは三度あるということで、きっと父の生涯の間、何度も父を危機から救ってくれたのであろうこの方に、私も妹達もこのときまでお会いすることがなかったので、ここで初めてお礼を言うことができました。
 そのとき、私はふとこんなことを聞きました。
「そういえば、よくわからないことがあるんです。大学も卒業しなかった父がどうしてキャリアで採用されたんですか?母からは高校閥のおかげで採ってもらえたんだと聞いたのですが、本当ですか?」
 その方は笑いながら答えてくれました。
「とんでもない。君のお父さんは試験をパスしたから採用されたんだ。当時は大学出ていようがいまいが、採用試験さえ通れば採用されたんだ。特に君のお父さんは英語がずば抜けていたからね、アメリカ人相手の仕事が多いところでは重宝されたよ。ただ君のお父さんはあのとおりイデオロギー的には頑固だったから、思想的に相いれない歴代のトップ達とはいつも距離を置いてきたし、本人の意志というか特性というか、そういうのも相まって出世はしなかったけどね。」
 あっ、そうだったんだ、と私は思いました。今でこそ、キャリア採用試験の受験資格は大卒と決まっているものの、当時はまだそうではなかったんだ、と。それまで私は大学中退の父がお情けで採用されたと思い込んでいて、情けなく思っていたのですが、その点が晴れたことにすっきりしました。
「だけど、お金もらっていながら、卒業できなかったのは、やっぱり不甲斐ないサァ。」
 そう言って、お茶目に舌をぺロリと出し、頭をかきかき、ハハハと照れ笑いする父がいるような気がしました。


*** *** *** *** ***

 これが、私が父の最後に見た、幸せな話です。

 ささやかな出来事達が、
 とりとめもなげに起こる話。

 たいてい誰の目も引かないし、
 ましてや誰の口にも上らない話。

 別に私に限った特別なことでもなくて、
 誰にでも起こりうる、ありふれた話。



 心からの祈りを込めて。
 みんなが幸せでありますように。

 2014/07/07 哲郎

続・家族(草)

【作品画像説明】
毎日一緒に面会に通った次男(当時ほぼ4歳)
父の入院先からの帰りのバス停にて。

【改訂履歴】
2014/07/07 : 更新(草稿v0.5)
2014/01/04 : 星空文庫に投稿(草稿v0.4.2)

続・家族(草)

私が32歳のとき、61歳でガンで亡くなった父の幸せな最後の話です。 ※この話の概要は以下のページでお読みいただけます。 星空文庫 『続・家族(ダイジェスト)』 (http://slib.net/24455)

  • 随筆・エッセイ
  • 中編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-01-04

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. プロローグ:父からの電話
  2. 1.実家と私
  3. 2.父の危篤
  4. 3.帰省初日
  5. 4.実家の片づけ
  6. 5.父の若いころ
  7. 6.「家族」の入手
  8. 7.父と「家族」
  9. 8.父の別居先
  10. 9.「本物」の何か
  11. 10.痛みと上手に付き合う方法
  12. 11.最後の面会
  13. 12.父との電話
  14. 13.父の訃報
  15. 14.父の最後の生活
  16. 15.父の通夜
  17. 16.父の葬儀
  18. エピローグ:初七日