ブロッコリーのはなし

ブロッコリーのはなし

1.ブロッコリーの日常

 男が森の中をてくてくと歩いていた。
 月を仰ぐでもなく湿った地面へうつむくでもなく、ただそこにある前方へとがった鼻先を向けている。歩幅は定まり、踏み出すリズムに乱れはない。ちょうど六十秒で八十メートル進む。歩くごとに頭がゆれる。おそろしく強情な癖毛が前後にゆれる。父親ゆずりのその癖毛の形はまるでブロッコリーのひとふさのようだ。親しい友だちは彼を遠慮なくブロッコリーと呼ぶ。雲と木々の間をくぐり抜けた月光に照らされた男の影は、手足の生えたブロッコリーだ。黒いブロッコリーが複雑に入り組んだ木立の影絵を横切ってゆく。
 ナアナ、ミアオ、グロロロロ。
 ブロッコリーの後ろを、四つ足しっぽつきの影が追い始める。どこからともなく、幹をすべり落ちて、草むらの間から頭を突き出し、森から生まれるように。しっぽをゆらめかせて影は増える。
 ナオオ、二アア、ミイア、メエ。
 一定の速さで歩くブロッコリーの上着のポケットから、ビスケットのかけらがこぼれてゆく。

  *

 ブロッコリーの仕事は絵を描くことだ。蝶に鳥に馬に羊。ブロッコリーはまずじっくりとそれを見つめる。毛のつややかな流れや、その内側にひそむ皮膚のやわらかさ、筋肉のもりあがり。小さな動きのひとつずつ、まなざし、あざやかな飛びかた。そっくり真似できるくらいに観察する。獲物を狙う猫と同じ満月の目で描くものを見つめるとき、ブロッコリーはまばたきを忘れている。
 実際に観察できないものは、図鑑を調べて、骨格や筋肉がどう動くのかを想像してゆく。初めはぎこちない動きの絶滅した青ヤギも、次第になめらかに躍動し、ついには青い灰色の毛並みが月光にきらめいて、ブロッコリーの脳内を駆け回るようになる。
 ブロッコリーは描いたものの名前はほとんど覚えていない。あえて記憶しないのか、はたまたできないのか。尋ねられればブロッコリーは両方だと答える。ブロッコリーは執着しない。所有したいとも思わない。そういう男だ。名前を覚えることで、それについて知った気分になるということをしない。
 けれども、一度描いたものはいつでもまたあざやかに描ける。難があるのは、名前を覚えていないので、たとえばブローボックといわれてもなかなか呼び出されない。ブロッコリーの手から青ヤギことブローボックが駆け出すには、依頼人の細かな説明と根気が必要だ。
 ブロッコリーの脳内では原生林がしげり、大洪水が起こり、人類を乗せた船は火星へ飛び、二重の虹が海に橋を架け、鳥が群れをなし、雲をつらぬく巨大なビルがそびえ、夜空には満ちかけるすべての月が並び、同時に東の空に太陽が光を伸ばし、ライオンは優雅にあくびをし、トカゲが岩肌を這い、あらゆる種類の人間が歩いて食べてしゃがんで空を飛ぶ。ブロッコリーはその混沌を歩く。六十秒で八十メートルの変わらぬ歩みで、どこかに潜む目的の動物または虫または植物または人物を探す。
 だからブロッコリーに仕事を頼む時には最初から資料をつけてやるのがいい。そうすると、勝手にブロッコリーの脳内にそれが躍り出る。たとえばヒッポトラーグス レウコパエウスなんて名前に青ヤギことブローボックが呼ばれていたとしても。

  *

 ブロッコリーの部屋では午前七時に目覚まし時計が鳴る。
 ブロッコリーはそれから数十分かけてベッドを出る。二度寝が常だ。
 ベッドを出るとコップに二杯の水道水を飲み干す。浮き出た首筋に喉仏が何度か上下する。髭を剃って必ずどこかに切り傷を残す。いつまで経ってもブロッコリーは剃刀が苦手だ。かといって電動式はいやだ。工事現場か歯医者の音が響いて骨の削られる気持ちがする。母親にプレゼントされた電動式剃刀はクローゼットのどこかにある。ブロッコリーのクローゼットはその脳内図と似ている。
 ブロッコリーの仕事場は、桜並木の坂道をのぼり、めがね橋を渡り、駅前通の商店街を過ぎ、シロツメクサ茂る線路を越え、徐々に細る道の先に広がる森の中にある。
 ブロッコリーは線路を越えたところにあるパン屋で毎朝ドーナツを五つ買う。ふたつは森を歩きながら朝食にする。残りの三つは仕事場へ持ってゆく。休憩時間に仕事仲間たちとわけあうために鞄へしまっておく。ブロッコリーはいつもシャツにドーナツの屑をつけたまま仕事場のドアを開ける。
 仕事はたいてい日が暮れた頃に終わる。ブロッコリーはまたてくてくと歩いて、おみやげに持たされたビスケットをポケットからこぼしてゆく。森から町へ帰る一本道、その脇道にある小さな食堂で、一杯の醸造酒と小さな皿を注文し、ちびちび飲んで夕食にする。
 部屋へ帰ればシャワーを浴びてラジオをつけ、目覚まし時計を「入」にして照明を消し、ベッドへ仰向けになって腹の上に両手を重ねる。ラジオの周波数は782.9MHz。ほの暗い部屋に、たとえばジャズが聴こえてくる。ブロッコリーはだれの音楽も記憶しない。ここに今ある。それだけで充分だと考えている。


  *

 午前九時の開店と同時にブロッコリーはパン屋へ入る。トングとトレイを行儀よくたずさえ、小さな店内をぐるりとひと回りする。小さいながらも、道沿いの窓辺には木製のテーブルと丸椅子が二脚。コーヒーをサービスで飲める。ブロッコリーはコーヒーを好きだ。中毒だ。血液にコーヒーがまざっていると思うほど。けれどもパン屋でコーヒーを飲んだ試しはない。愛想よく並ぶパンをひと回り眺めて、結局ドーナツをトレイへ載せるだけだ。シナモンの香り。ざらりとした砂糖。固く肉厚な歯ごたえ。それを五個。床へ落としてしまわないよう注意深くトレイへ載せる。ブロッコリーの動作が慎重なのは、自分の不器用さつまり性能を理解している男だからだ。トレイを音も立てずにカウンターへすべらせる。
 おはようございます。まだ朝は冷えますね。店員はにこやかに挨拶する。
 そうですね。ブロッコリーはくちの中で返事を響かせて、意味のなさそうな乾いた咳払いをする。
店員がレジスターを打ってドーナツを紙袋へ入れる間、ブロッコリーはカウンター奥の小窓を眺めてラジオに耳を傾ける。小窓の中では若主人がパンを焼いている。ラジオの周波数は782.9MHz。
 ありがとうございました。今日もお仕事、がんばってくださいね。いってらっしゃい。店員の曇りのない笑顔。空から伸びる白と黄色の光に似た笑顔だ。
 ああとか、ええとか。もさりとした頭をわずかに下げてブロッコリーは店を出る。ドーナツの紙袋を抱えて歩く無愛想な後ろ姿。その実、ちょっとだけくち元はゆるんでいる。袋にはベーカリー▲という印刷。パン屋の屋根は鋭利な直角三角形だ。その▲の上を、桜の花びらがちらりと舞った。

  *

 ブロッコリーの仕事は木製のテーブルで行われる。そのテーブルの大きさは六人家族が囲む食卓ほど。ゆげ立つ大皿小皿は並ばない。木槌や目打ちに紙の束、縫い針麻糸蜜ろう物差し、ペン先カッターインク壺。積み重なったり広がったりしているのはそんなものたちだ。ここもまた時に混沌。混沌からひとつの結晶をすくいあげて形にする。それがブロッコリーともうひとりの男の仕事だ。
 もうひとりの男。彼はブロッコリーの向かい側に腰かけている。年代もののだるま顔に老眼鏡をかけた男は、物差しと鉛筆で白い紙に印をつけてゆく。猫もつるりと足を滑らせそうな禿頭の持ち主で、毎朝洗顔ついでに頭もタオルできちんと磨いている。この男をブロッコリーはセンセイと呼ぶ。
 センセイには妻子がいなければ孫もいない。ただ家政婦がいる。センセイの仕事場兼自宅である森小屋のいっさいを取り仕切る一流の家政婦だ。彼女は自分でそう名乗る。一流の家政婦ですと胸を張る。なんでもござれ。どんな料理もお菓子も飲み物も食卓に並べましょう。毎日清潔なシーツにアイロンをかけてぴんと伸ばしましょう。床も窓もトイレもつやつやにして、覗きこんだ顔がかがやくくらいに磨きあげましょう。そう胸を張り、豪快に仕事をしてゆく。センセイは畏敬の念をこめつつ彼女をウスイサンと呼ぶ。ウスイサン、コレよろしくね。と、遠慮がちに頼みごとをする。
 ブロッコリーの仕事は絵を描くことだが今日は描かない。筆の代わりに彫刻刀を持つ。センセイのほうへ屑が飛ばないように注意しながら木を彫ってゆく。時々、板を遠くへ離して全体を確認する。途中でセンセイの意見は求めない。完全に仕上がったと納得するまで自分の手から離すつもりはない。ひたすらに彫る。剃刀では顔に傷をつけるが、彫刻刀で木面に思惑以外の線は残さない。
 ブロッコリーとセンセイの間に窓がある。太陽が左から右へと光の方向を変えてゆく。ふたりはなにも語らずにただ手を動かす。
 太陽が真ん中に来るとウスイサンがドアを開ける。ふたりを席から立たせ手を洗わせてから食堂へ連れてゆく。ウスイサンの盛る料理を間にして、食卓でもふたりは黙って向かい合う。ウスイサンがスープをよそったりサラダを取り分けたりしながら話の水を向ける。ぽつりぽつりと天気の話をしながら、お互いに途中になっている作業のつづきを頭の真ん中で考えている。
 短い昼食を終えるとすぐにふたりは仕事場のテーブルへ戻り、考えつづけていた作業のつづきを始める。ブロッコリーは背をまるめて木を彫る。センセイは印をつけた白い紙と緑の紙を何枚も次々に合わせ、エトーで紙を押さえて慎重に糊づけをしてゆく。午后三時になるとコーヒーの香りが食堂から流れてくる。ウスイサンの休憩時間だ。ふたりは無言のままテーブルを立ち、コーヒーのおこぼれを求めてゆらゆらと食堂へゆく。ブロッコリーの朝に買ったドーナツが提供される。それからまた、ふたりは太陽が右側へ流れてゆくまで同じテーブルでそれぞれのことをつづける。
 窓辺にはラジオ。周波数は782.9MHz。毎朝ブロッコリーは仕事場へ入ると同時にラジオをつける。それは▲で聴いたラジオのつづきだ。日が暮れて作業が終わると、ウスイサンがブロッコリーへドーナツのお礼にとビスケットを渡す。ブロッコリーはラジオの電源を落として、ビスケットをポケットにしまい、センセイの森小屋を出る。

 ブロッコリーのポケットからこぼれたビスケットを猫が食べている。
 そのことをウスイサンは知っている。ブロッコリーの忘れた給与袋を届けるために、雪道を走ったことがある。
 ブロッコリーの大きな靴跡に、いくつもの小さな肉球の跡がはしゃぎながらまつわりついていた。その踊った足跡たちの周りには黄色いビスケットのかけらが散らばっていた。
 以来、ウスイサンがブロッコリーへ渡す紙袋の中身はビスケットではなくキャットフードだ。ブロッコリーは気づいていない。
 今夜もブロッコリーは偽ビスケットをこぼす。時々猫が足元にからみつく。ブロッコリーは転びかける。猫の小さな足を踏まないように、森の帰り道、ブロッコリーの歩調は最近六十秒八十メートルよりも遅くなりつつある。
 森を抜けると暗い田畑に道が一本伸びている。白い光の灯る電信柱が細々とつながっている。道の遠い先に小さな灯りが散らばっている。そこに町の存在を確認できる。ブロッコリーは町の明かりを遠くから見るときが一番安心できる。町の明かりの最中を歩いているときには、どうにも落ち着かない。ここでいいのか、と思うことがある。ここを歩くのでよかったのだろうかと。夜空の星と町のまばらな明かりとどちらが多いか、ブロッコリーは一本道で考える。すると、町と夜空の間へ歩いてゆけそうな気持ちになる。雲のひとつもない空に細い月がひとつ。猫が爪でひとすじ掻いた傷跡のようだ。町の灯りと星の間を歩いて、やがてたどり着くのは猫の爪にやぶかれた夜の内側だろうか。
 水分をふくんだ風が吹いて、足元を小さな気配が撫でた。短い鉤しっぽの猫がメエと鳴いた。気づけばあと少しで食堂<魔女の台所>の脇道というところまで猫が一匹ついてきていた。いつもブロッコリーは偽ビスケットを森の中ですべて落としきるので猫たちは電信柱の一本道までついてくることはなかった。今の今まで気にも留めなかったので、ブロッコリーは驚いた。
 立ち止まったブロッコリーの前を鉤しっぽの猫は優雅に歩いた。そして顔だけ振り向いてメエと鳴く。この猫はこのままどこまでも後を追ってくるのだろうか。ブロッコリーは硬い癖毛に片手をつっこんで考えた。まっすぐ進めば線路に達する。まだ電車の通る時刻だ。猫を連れて行きたくはない。
 ブロッコリーは六十秒で八十メートルを放棄した。突然走り出して、猫を飛び越え、右手に現れた小道へ折れてその先にある食堂<魔女の台所>へ飛びこんだ。ドアの内側にはオムレツ色の光が広がっていた。全力で走るのは数年ぶりだったので、肺はもはや焼け焦げる寸前だ。ブロッコリーは肩を上下させて指を一本立て、案内を請うた。
 店番は縦に長い年配の女だ。目も頬も鼻もくちもすべてが地面へ向かって落下するような顔をしている。ブロッコリーの姿を認め、その顔を少しだけ重力に逆らわせる。わずかにゆがんだこの表情が笑顔だとブロッコリーが理解するまでいくらかの月日がかかった。
 まあいらっしゃい。今夜は二名様ね。
 いや、とブロッコリーは咳払いして指を一本強調する。
 店番の女はとがった指をブロッコリーの足元に向ける。
 メエ。
 ブロッコリーの足元に鉤しっぽの猫がすり寄って鳴いた。
 めずらしい二名様ね。おすすめは鶏肉の香草焼きとたまねぎのスープよ。
 店の奥から卵が服を着たような女が包丁片手に出てきて陽気に笑った。


*** *** ***

「台所の魔女より下働きの小娘へ」
 【依頼内容】本の形は蛇腹型。伝言を冒頭に、つづいて写真を配してゆく。簡素だがかわいらしい仕上がりを望む。
 
  *

 これは森はずれの魔女より小娘へ伝達するものである。

 小娘は一日三度の飯を食すべきである。
 その際、野菜を充分にとるべきである。小娘はやわらかい肉や甘い菓子を好むが、偏れば便は硬くなり腸へ留まる。とくに小娘の体質ではその危険は高い。無駄に痩せようなどという愚かな考えこそ第一に便所へ破棄すべし。とにかく三食。強いからだをつくるよう心がけること。

 ついで、小娘はきちんと夜に休むべきである。
 都会にはいろいろの遊びごとはあるだろうが、己の道を見極めて、成そうとすることのために時間を遣うこと。もちろんそのためには、満ち足りたからだが必要である。よって夜は充分に休息すべし。さもなければ吹き出物が生じ、両目の下は青黒く染まり、肌は朽ち果てるであろう。天罰と心得よ。

 また、小娘は清潔を守るべきである。
 ものは整頓し、埃は掃き出し、いつでも清潔な空気と光とを部屋へ導くこと。澱み散らかった居室ではまともな考えは生まれず自らも滞り、健康を害するであろう。自らのからだにも汚れをためず、きちんと湯船へ入ること。健康を害すれば成さんとする夢も遂げることは叶わない。

 そして、小娘は帰郷した際には必ず<魔女の台所>へ顔を出すこと。
 耳を塞ぎたくなる呪詛のごとき小言と、森のきのこのハンバーグ定食と、熱々のアップルパイと、極秘経由で仕入れたアールグレイが小娘を待つ。あなたは元気な顔をひとつ必ず持ってくること。


 (以下、貼付すべき写真一覧)

 【小娘が使用していた琺瑯のマグカップ。くちもとに半月型の紅茶染み】
  
 【小娘のために縦長の魔女が仕立てたエプロンの一枚目。小娘がストーブへ近寄りすぎたがために焼け焦げたもの】
  
 【また、その因縁のストーブ。現在も寒い夜には客を温めサツマイモをおいしく焼くすぐれもの】
  
 【卵型の魔女と縦長の魔女と小娘の使用する台所奥のテーブル。いつでも中央の篭には飴を用意してある】
  
 【卵型の魔女の鍋達。鉄製。魔女の年齢のおよそ半分を生きたもの達。魂宿り、夜な夜な喋りだしそうな品々】
  
 【掃除のための箒とモップとバケツ。魔女の台所の一角に設置。迷惑な客へふるわれた過去を持つ。用心棒】
  
 【まるいテーブルの客席。すべてのテーブルはまるくなくてはならない。まるいテーブルでまるい皿の食事を平らげて、ひとはまるくなる】
  
 【ひとつドの音の欠けたオルガン。抜けたドは奏者が自ら歌う決まり。小娘の愛した個性的なオルガン】
  
 【西の小窓から見える森の夕陽。オレンジに染まる夕暮れ時は魔女達のお茶の時間】
  
 【その時間に卵型の魔女が焼いた菓子と、縦長の魔女が淹れた紅茶】
  
 【緑色の玄関のドア。開けた時に小さな鐘が来客を知らせる。小娘はその音が魔女に聴こえにくくなっていることを気にして、更に鈴をつけようとした】
  
 【緑色のドアを開けた先に見える一本の道。秋には金色の稲穂の海】
 
 【一本道を突き当たりまで進んで振り返ると見える小さな<魔女の台所>】
 
 【卵型の魔女と縦長の魔女が黒いスカートと頭巾を風になびかせて立っている】
 
*** *** *** *** *** *** *** ***

 骨ばった手とふくよかな手が、かわるがわる蛇腹のページを開いて閉じた。どちらの手もそれぞれにそれぞれの過ごした時間を、しわとして、またしみとして、はたまたほくろとして刻んでいた。何度もページはめくられた。行っては戻り、戻ってはまた進み。そしてやがて骨ばった手がその本を閉じた。表紙と裏表紙はドアそのものの木製だ。小窓とドアノブも彫りこんである。薄いくちびると厚いくちびるがそれぞれに感想を述べた。
 ドアがいいわね。猫の爪跡まで刻まれているところがいい。ページの表し方がいいわ。フォークとスプーンの数で描きこんでいるところがいい。好みね。好みだわ。あの子は好きよ、こういうの。好きね。わたしたちの選んだ写真もなかなかね。なかなかだわ。こうして綴じられてみると、すばらしさが際立っている。いい出来ね。いい出来だわ。さっそく送りましょう。そうね、誕生日に間に合うわ。ありがとう。ありがとう。
 骨ばった手とふくよかな手が伸び、テーブルの向かい側に座っていた男ふたりの手を握って力強く上下へ振った。男たちの手は両方骨ばっていたが、しわが多く短い指の手と、まだ張りのある細長い指の手に分かれた。
 ふくよかな手が世界でたった一冊のその本を丁寧に布で包んだ。
 黒いスカートの下に生えるのは、枯れ枝の足と丸太の足。四本の足はソファから立ちあがると、にぎやかに木の床をステップして出口へと向かった。張りのある細長い指がテーブルを押した。立ちあがりながら魔女たちへ呼びかけた。
 あの猫はあのあとどうしましたか。
 四本の足はぴたりと立ち止まった。
 ああ、鉤の猫。どうしたっけ。どうしたっけね。気づいたらいなかったけれど。そういやそうね。あなたそんなに気になるなら連れて帰ればよかったのに。またいらっしゃい。あの美人な鉤の子と一緒ならコーヒーをおまけしてあげるわ。またおいでなさい。毒いりコーヒーよ。必ずよ。骨まで溶ける毒いりのパイを焼いてあげるわ。
 最後は火花が散るような声で笑って、魔女たちは森へ出ていった。
 宙に半分浮いた腰がソファに落ちた。骨ばった手が左肩をもみ、ブロッコリーじみた頭が左右にゆれた。仕事が一段落したので、彼は休暇をもらうことになっている。ブロッコリーの頭はぼんやりと考える。休暇の間も森の猫は夜道にこぼれるビスケットを待つのだろうか。その中に、あの鉤しっぽの猫もいるのだろうか。
 <魔女の台所>で鶏肉を小さな皿に分け与えられると、鉤しっぽの猫はそれをぺちゃぺちゃと飲みこんでいた。時々、まるい葡萄色の目で周りの人間たちを見あげた。腹が満ちて店の片隅にまるくなった猫を置いて、彼は家路についた。踏み切りの音にメエと鳴く声が混じった気がして一本道を振り返ったのを、今になってブロッコリーは思い出した。

2.ブロッコリーの休日

 目覚まし時計は鳴らない。カーテン越しの太陽が部屋にやんわり満ちると、布団がめくれあがってブロッコリー頭が生まれる。本人にだけ認識できる寝癖を両手で掻き混ぜて、綿埃の転がる床へ足を下ろす。からだをねじり伸ばして歩く途中にラジオをつける。いつもの782.9MHz。ドアを開けて小さな台所の流しで顔を洗うついでにコップへ二杯の水を飲む。水がずいぶんぬるくなった、春だなあ。ブロッコリーがまず考えるのはそんなことだ。

  *

 ブロッコリーは鞄を提げて電車に乗った。開閉ドアのすぐそばに立つ。空を流れる雲を眺める。ふわりとした雲の上に立つ自分を想像する。雲の上で真白い太陽を浴びていると、突然の風に飛ばされて、海にただよう浮き輪へ着地する。そこに座って浮かんでいるうちに、尾ひれに傷のある鯨と友だちになって世界の回遊を始める。いつしか指の間には水掻きが生まれ脚は尾になる。そんな想像の巡るブロッコリー頭が線路のカーブに合わせて大きくゆれる。同じ車両に乗る様々なひとの頭の中ですべて違う思考が繰り広げられている。ブロッコリーはふとそれを思い出して、癖毛を片手で掻き回す。ひとの頭の中身を想像すると、ブロッコリーは隙間のない雑音に囲まれている気持ちになる。
 ブロッコリーは街を歩く。六十秒で八十メートル進む。波打つ雲が明るい。すれ違うひとの顔を見る。ひそかなあくび。鎖骨に光る小さな金色の花。あからさまな憂い。鼻半分まで落ちた黒縁眼鏡。ほころぶ喜び。やわらかな風になびく緑色のスカーフ。ブロッコリーはそれらの輪郭を視線でなぞり、まばたきのたびにまぶたの裏へ絵を描く。まるでそれは音のない花火だ。描かれては溶けて消える。
 アーケードに入る。金物屋、書店、雑貨屋、カフェ、うどん屋、文房具、あらゆる店舗がひしひしと肩を寄せている。角の花屋、その目印でブロッコリーは右折する。レコードショップ、手芸店、靴屋、帽子屋、眼鏡店、コーヒーショップ。アーケードの終点でアーチを見あげれば、そこには空中の舞台がある。舞台にはパイプオルガンがしつらえられている。ブロッコリーはパイプオルガンを眺められる壁際に背を預ける。舞台の下方に据えつけられた兵隊の飾り時計で時刻を知る。
 午后一時半。舞台の通路右手から、奏者が静かに現れた。奏者は猫に似ていた。足音を隠して。しっぽをゆらめかせるように。なにげなく注意を払って。パイプオルガンの前まで歩き、下方の世界に向かってお辞儀をした。奏者が舞台に現れたことに気づく通行人はいない。ひょっとすると奏者をわざわざ待っているのはブロッコリーだけかもしれない。アーケードにはひしひしと肩を寄せ合うそれぞれの店が客を呼ぶ声やにぎにぎとした鳴り物があふれている。奏者はアーケードを通るほとんど誰にも気にかけられていないことなどどうでもよい様子で、軽やかに身をひるがえして椅子に座った。
 こんにちは。土曜日の午后になりました。パイプオルガンの演奏時刻になりました。弾かせていただきます。お忙しい方にも、お暇な方にも、アーケードを通る間だけ、どうぞおつきあいください。
 いつもと同じ台詞のアナウンスが流れる。おそらく奏者の録音ではない。奏者には似つかわしくない愛想のよすぎる声だ。ブロッコリーは壁にもたれる背中の位置を少し直す。足のちからを抜いて立つ。毛穴を広げて音を待つ。奏者は両手を組んで軽く回し、友人へ喋りかける仕草で鍵盤に触れた。
 奏者に選ばれた風がパイプを通り抜けた。パイプを通過する風は色づけられて音に変わった。色づいた風はアーケードの内部にとどこおっている濁った空気を振動させた。空気の濁りが音でふるい落とされていった。重ねて空気は振動された。音の終わりと始まりが交わった。鼓膜をふるわせた空気が静まらないうちに次のふるえが届いた。波は絶えなかった。空気の波紋はいくつも広がった。ブロッコリーがまぶたに描いた架空の絵のように。音の風は皮膚をふるわせ、肉をふるわせ、骨をふるわせ、血をふるわせ、心臓をふるわせた。細胞のひとつずつからふるわせた。ブロッコリーはからだの中心にふるうものを意識する。ブロッコリーのもじゃりとした髪もふるえている。
 ブロッコリーは周囲を見渡す。数人が通行人ではなく観客に変わっていた。空中のパイプオルガンに気づいた通行人は足をゆるめていく。ブロッコリーは端まで見渡し、落胆して目を閉じる。それは予期通りの落胆だった。落胆を予期しつつ探した人物の姿をまぶたの裏へ描く。一度も紙に写したことはないけれど、ブロッコリーは正確にその人物の姿を描ける。
 音がやんで遠慮がちな拍手がまばらに起こり、ブロッコリーは目を開ける。ちょうどアーケードの出口を鉤しっぽの猫が横切ったのが見えた。ブロッコリーは脳内の猫と照合して、三日月夜の猫ではないことを確認する。メエと鳴く声を錯覚する。ブロッコリーはポケットを探る。ウスイサンの偽ビスケットの屑が指先にざらりと触れた。

  *

 駅のアーチをくぐり出ると、町は夕暮れの茜に染まっていた。ブロッコリーは小さな商店街を歩き、いまだかつて入ったことのない動物を売る店の前で止まる。電車の中で吊り革を支点にしてゆれるブロッコリーの脳内では、鉤しっぽの猫がずっとメエメエ鳴いて、ひらべったく伸びたり小さな手で顔をなでたりしていた。それを思い返して、ブロッコリーは店に入る。出た時には紙袋をひとつ大切そうに抱えていた。ブロッコリーはいそいそと森への道を歩き始める。六十秒で八十メートルをゆうに超えて進む。
 線路を越えて左側の道に、緑色の屋根がとんがっているのが見える。ベーカリー▲は今日も営業している。ブロッコリーは左折したくなる。しかし左折したところでまたドーナツを買うのか。ドーナツを食べたいのか。食べ飽きてはいないのか。それとも▲でコーヒーを飲みたいのか。コーヒーを飲んで窓際の椅子に座りたいのか。ブロッコリーはもじゃもじゃ頭の中でもじもじと思考し、結局のところは森への道をゆくことにする。
 森を歩くうちに茜空は急速な勢いで紺碧へと変化する。木々の青い影が夕闇に隠されてゆく。ほうほうと鳥が遠くで鳴いている。土の匂いが濃くなる。森の緑がしっとりと重い気配をまといはじめる。
 ナアオ、ニャウ、メエ。
 草むらから、木の幹から、岩陰から、猫が寄ってくる。三毛のぶち。耳の片方落ちたもの。きじとら。むちのしっぽ。ただれた目のもの。肋骨の浮いたもの。白と黒の牛模様。毛の長いもの。鉤しっぽ。
 ブロッコリーは紙袋を開けて、猫のために製造されたあられ状のビスケットを掴みとって円形にまく。
 いつものビスケットでなくてごめんよ。静かに話しかける。しかし、それはいつもウスイサンが持たせる偽ビスケットと同じものだ。猫達はブロッコリーの周りを囲んでいつもの偽ビスケットをなめとってほおばる。
 メエ。
 ブロッコリーの靴のつまさきに、白い手がひとつ乗った。手首にまるいぶちがある。首元から腹にかけては真っ白で、背中から半分に絵の具をかぶってしまったような具合の、黒とこげ茶のきじ模様。ぼんぼりの鉤しっぽ。ブロッコリーはかがみこむ。骨ばった大きな手をかざすと、猫は首をすくめて身を引く。ひとさし指だけを伸ばしてやれば、猫は鼻をふんふんと近づける。湿った冷たさがブロッコリーの指先に触れる。ブロッコリーの目元にほんのりとしわが生まれる。
 
  *

 かたりと音がして郵便受けになにかが入れられた。
 ブロッコリーはフライパンに卵を落として、玄関ドアの郵便受けを開けた。茶封筒が出てくる。フライパンに蓋をして封筒を破った。
 送り主は遠い南の町で雑貨屋をいとなむ古い友人だ。ブロッコリーは一度だけその雑貨屋を訪ねたことがある。
 あみだくじのように伸びる道の、細い線の先にあるいやに縦長な店。両側の壁にはずらりと棚、棚にはさまざまな絵葉書、絵葉書のほかは封筒と便箋とペンとインク壺、棚に並びきらなかったインク壺が置かれる窮屈なカウンター、カウンターにはクロスワードの本に真剣に取り組む友人である店主。
 雑貨屋じゃないじゃないか。雑貨屋だよ。手紙の道具しかないじゃないか、手紙屋だよこれは。雑貨の一種だろう、こまかきことはちりとりにて棄ててしまえ。客をだましている。ちょっと看板を広げているだけのことさ、入りやすいだろう。
 店でのやりとりを思い出して、ブロッコリーは友人に少し会いたくなる。
 友人は数年前から店独自の絵葉書も売り始めている。主にブロッコリーの作品だ。今回の郵便もその依頼だ。注文はペンギンとスープとヤカンでなにか。冬のための準備らしい。すでにブロッコリーは、扇風機を回して入道雲を製造する少女の絵を、夏のぶんとして描き終えて送った。
 ところで、と手紙には追伸がある。
 ところで前回の作品にちょいちょいと登場した鉤しっぽの猫についてです。雑誌をつくっている知り合いが興味を持っています。話をしたいとのことです。きみに任せると流れること間違いなし。ですから日時を設定しました。指定した日時場所には必ず顔を出すように。そろそろ戻ってきたらどうか。では、いつもどおりのよい仕事を。
 ブロッコリーは様々なものが混沌として納まる脳内に手紙を何度も映した。
 茶封筒のすみには鉤しっぽの小さな猫が背伸びをしている絵が印刷されている。すでに絵葉書以外にもブロッコリーの絵が展開されていることに本人は気づいていない。
 ブロッコリーの背後でフライパンの卵は静かに黒へと変化してゆく。


 *

 シャワーを浴びるとブロッコリーの頭はひと回り縮む。シャンプーの泡がくわわると、数倍にふくらんで巨大なホワイトブロッコリーができあがる。ブロッコリーは消極的に頭とからだをこすってすぐに流す。足の指の間のことは忘れがちだ。からだのついでに、その日着たシャツとパンツも洗う。洗濯機は去年の秋に壊れてそれきり修理も新調もしていない。その理由を母親と妹に質問された際には、ただ首をひねるだけだった。母親と妹はさらに首をひねった。三人寄って首をひねる喫茶店、給仕がコーヒーを運んで更になにごとだろうと首をひねった。首をひねって戻った給仕を見て厨房のコックが更に首をひねった。
 ブロッコリーはベランダにシャツを干す。夜はひやりと冷たく、湿って重く、その空気にはどこかで散る桜の匂いがほのかに混じる。ブロッコリーは鼻穴をふくらませて呼吸する。呼吸するうちに、肺に桜の花がふうわり満ちる。吐く息に白い花びらのまぼろしを見る。ブロッコリーはまぼろしを逃がさないために、足元に落ちている広告を拾い、裏に鉛筆で桜を描いてゆく。肺に満ちた桜が赤血球に乗って全身を巡り、ブロッコリーの手で紙の上の花に変化する。
 花を舞わせて広がる枝は女性のやわらかな腕に似ている。その細い指先へ、匂いに誘われた小鳥が近づき、くちばしで触れようとしている。くちばしが花びらのひとつに触れようとした瞬間、風が北から吹き、桜をすべて散らして、小鳥もどこかへ連れ去ってしまう。小鳥は新月の夜に羽を散らして、涙をひと粒落とす。涙は風にはじかれてすぐに消える。
 鉛筆を握りしめてブロッコリーはベランダの先の闇を見つめる。そこに桜はない。小鳥もいない。風もない。耳に届くラジオはいつもの782.9MHz。ブロッコリーは広告を両手でまるめ、桜と小鳥と風を潰し、ラジオを消し、部屋の明かりも落とした。開け放したベランダから闇が侵入し、ひと息に部屋ごとブロッコリーを飲みこんだ。


*** *** ***  

「耳のない壺へ語りかけたひとびとの声を収集した本(一部抜粋)」
【依頼内容】壺の形をした本。適切なうつくしい挿絵を所望。

  *
  
「ハワイオーオーの涙」

 トゥーク、トゥーク。
 あなたのために鳴いたハワイオーオー。
 うつくしい声を捧げました。
 でもあなたの耳は聴こえなかったのです。
 あなたはハワイオーオーの声さえ知らない。

 トゥーク、トゥーク。
 あなたのために羽をもいだハワイオーオー。
 うつくしいケープをこしらえました。
 でもあなたの目は見えなかったのです。
 あなたはハワイオーオーの姿を知らない。

 トゥーク、トゥーク。
 みんなが傾ける声、ほしがる羽も。
 あなたには少しも必要ではないのです。
 すべてあなたのためなのに。
 あなたはハワイオーオーの涙を知らない。

  *

  「スリッパの祈り」

 わたしの相棒もチェック柄。
 すてきな黄緑黄色に赤い糸。
 左はわたし、あの子は右。
 違ってしまったのは、へんてこな足に押されつづけたその形。
 それでもわたしとあの子はいつでもいっしょに歩いていた。
 ああ、なのに。
 なのにあの子は遠くへ行ってしまった。
 ゴミ捨て場の犬のいたずら。
 犬があの子をくわえて、あっちのどぶへ。
 ああ、わたしとあの子はさようなら。
 いっしょに燃やされたかったの。
 犬よ、わたしもくわえなさい。
 犬よ、わたしもどぶへ投げなさい。
 ああ、あの子といっしょにどぶを流れて。
 川に流れて。底に沈んで。形をなくして。
 ああ、どこまでもいっしょにいたいの。
 ああ、犬よ。

  *

  「神様の鳩の叶わぬ恋」

 神様の鳩が猫の染色師に恋をしたというのは有名な話だ。
 ある晴れた朝、神様の鳩は胸をピンクに染めて読みあげる。
「三毛を三十匹、黒を三十匹、きじとらを三十匹、残りは白のまま十匹、以上を納めるように」
 最近、助手が休みのために染色師は大忙し。前の日に注文された分だってまだ終わっていないありさまだ。
 繭からはぽこりぽこりと白猫が生まれて、作業部屋をナアナアドタバタ。
 染色師は白猫を捕まえては、染める色別の檻にわけてゆくのだけれども、元気のいい猫ばかりで大変だ。
 神様の鳩は染色師を助けたくて、猫を追い立て飛び回る。けれども遊び好きの猫からしたら、いくら神様の鳩といってもただの動くおもちゃだ。猫に追いかけられて、染色師に助けてもらう始末。
「こんなつもりじゃなかったのに。ああ、どうか別のことでお手伝いさてください」
 神様の鳩は恥じいって小さく縮む。天井の梁から部屋を見渡して、いつも助手のしていたことを思い出す。確か、そう、猫をしわけて、ペンキを運んで、染色師が猫を染めることに集中できるように働いていたっけ。
 黒のペンキがなくなりそうなのを見つけて、神様の鳩は倉庫から黒のペンキを足に引っかけて飛んだ。助手は軽々運んでいたけれど、ペンキの缶は鳩には重い。神様の鳩は伝言一枚分しか運んだことがないのだ。
神様の鳩がよたよたと床すれすれに飛行した時、じっと様子を見ていた猫が一匹、勢いよくそのやわらかそうな胸めがけて飛びかかった。驚いた鳩はペンキの缶を落として飛びすさる。黒ペンキはひっくり返って、猫はまだらの黒と白。おもしろがった猫は黒い水たまりで愉快なダンスのナアオナアオだ。
「ああ、私ったらなんてことを」
 自分も黒の斑点を受けながら、神様の鳩はすっかり気落ちしてしまう。
 染色師は首にかけていた手拭いで斑点をぬぐってやりながらいう。
「あなたの帰りを神様が待っています。私のことはお気になさらず。親切なそのお気持ちだけで、ありがたいのですからね」
 染色師は窓から神様の鳩を空へ放つ。神様の鳩は泣いて空を飛んだ。
 退屈なさって雲をちぎっていた神様は、黒い斑点を残して飛んできた鳩を見てお笑いになる。鳩は神様の肩にとまって、ほろほろと豆のような涙をこぼした。
「私はなんの役にも立てませんでした」
「おまえがつらいというのなら、もう伝言は頼まなくてもいいのだよ」
 神様は鳩の黒い斑点を指でぬぐわれる。
 染色師の助手が休んでいるのは、今日が子供を授かる日だからだ。助手とその授かる子供があるがために、染色師は毎日ペンキにまみれて猫を染めているのだ。
 鳩は小さな首を左右に振った。
 その時、雲の下でおぎゃあとかわいい声があがった。
 鳩はすっと耳を澄ましてから、もう一度首を左右に振った。
「いいえ神様、行かせてください。あのひとのためにできることを、どうか取りあげないでください」
 神様は鳩の両目からこぼれる涙の行方を見ていた。鳩が首を振るたび落ちる涙は、太陽に透かされて、空に七色の虹を生んでいた。

*** *** *** *** *** *** *** *** 


 翌朝起きるとブロッコリーはさっそく友人に返事を書いた。窓から吹く風に、潰れた黄色い広告紙が転がってきた。ブロッコリーはその紙を拾いあげて、少し考えたあとに、クローゼットへ入れた。

3.ブロッコリーの妹

 雨の降り始めたある朝のことだ。
 ブロッコリーが玄関を出るとそこに小さなブロッコリーが立っていた。
 小さなブロッコリーにも目と口と耳がひとそろえずつあるが、これらはすべてブロッコリーと相似していた。父親ゆずりのもじゃりとした癖毛にいたっては鬘をあしらえたかのごとくだ。ふたりの違いは背丈と性別。小さなブロッコリーは彼よりも頭ひとつ分小さい。つまりはミニブロッコリー。そしてミニブロッコリーはミスブロッコリーだ。ミニブロッコリーはブロッコリーからおよそ十年遅れて誕生した妹である。
 ミニブロッコリーは小さな背中に大きなリュックサックをしょって、りんご色の傘から雨粒を足元にしたたらせ、ドアの前に立っていた。ブロッコリーの出かける時間に合わせてやって来た。森の仕事場へいっしょに行くためだ。時々、電話もなく突然にミニブロッコリーは登場する。去年の春にパイプオルガンの街にある学校へ進んだので、たびたび兄の部屋を訪ねることができるようになったが、彼女の目的は今やほとんど森の仕事場への同行だ。
 ブロッコリーは妹の突然の訪問に驚くことなく、スニーカーの踵を二本の指で直し、一本骨の折れた傘を直しながら広げ、もごもごと口の中で挨拶して、アパートの階段を下り始める。ミニブロッコリーも黙ってりんご色の傘を開き、兄のあとを追いかける。妹は兄のスニーカーが少なくとも十年ほどは同一のものだと知っている。

  *

 ミニブロッコリーは森の仕事場が好きだ。壁際の棚に整頓された様々な色と手触りと厚みの紙、布、革。部屋にしみついたインクの匂い。糸たちの眠る道具箱。手の形がしみこんだ木槌、大小の刷毛、目打ち。麻糸を滑らせた跡の残る蜜蝋。菓子の缶に詰められた絵の具。それらが好きだ。ほとんどの道具はミニブロッコリーよりも年上だ。道具のひとつひとつを手のひらに包んで、それらが生み出してきた読んだこともない本たちを想像する。おそらく、とてもうつくしい本たちのことを想像する。それが好きだ。同時に、そういう本をつくってきたセンセイのしわだらけの器用な手が好きだ。そしてウスイサンの淹れてくれるコーヒーが好きだ。同じ手順を踏んでいるつもりが、なぜだかウスイサンのコーヒーはちょっとだけミニブロッコリーの淹れるものよりおいしい。わたしはいわばこの道の職人なのよとウスイサンは豪快に笑う。ミニブロッコリーは職人が好きだ。

  *

 ミニブロッコリーが兄といっしょに暮らしたのは十一歳までだった。高校を卒業してすぐに家を出た兄が時々帰省するのを、ミニブロッコリーはとても楽しみにしていた。
 ウスイサンに子供の頃の思い出を尋ねられた時、ミニブロッコリーはパズルのひとかけらを探す顔つきになった。こしのありすぎる巻き毛を一束片手でさわり、それが兄と同じ癖だと自覚して少し笑った。そしてもっとも適切なピースを探し出した。
 算数の宿題を邪魔されたこと。
 ウスイサンにはその答えが意外だった。
 へえ、そういうちょっかいも出すんだね。
 いいえ、違うのです。兄は絵を描いていました。わたしには兄の背中と大きなキャンバスしか見えなかった。兄は無口ですが、兄の絵はよく喋ります。わたしは兄のうしろに座って算数の宿題を広げて、でも宿題なんてできずに、兄の絵を、緑の小鳥や、あたたかそうな羊や、南の海が映ったような青空を眺めてしまいました。壁にたくさんの絵が立てかけられていました。それはひとつひとつが閉じられた世界なのに、すべてわたしに向かって開放されたひとつながりのお喋りのようでした。
 ミニブロッコリーはよどみなく喋り、あとは黙ってコーヒーを飲んだ。
 のちに、ウスイサンはブロッコリーにも尋ねてみた。
 妹さんとの一番の思い出はどんなこと。
 ブロッコリーは午后三時のドーナツをかじって、あまり考えずに答えた。
 こないだコーヒー豆をもらったこと。
 
  *

 雨音はふくらんだりしぼんだりを繰り返す。
 傘は雨に叩かれ、靴が水たまりを踏み、リュックにぶらさげたキイホルダーがぶつかり合う。ふたりの間にあるのはそんな音。また、風が葉をさざめかせ、車輪がしぶきをあげて、どこかの学校の鐘が鳴る。ふたりの外に重なる音。ミニブロッコリーは数歩遅れて歩き、兄の寝癖が今日も右側についていることを確認する。ふたりは言葉なく、なみなみと増水した川にかかる眼鏡橋を渡り、青々と草のしげりつつある踏み切りを越え、ベーカリー▲へ到着した。
 ブロッコリーはドーナツをトレイに並べる。数は妹のためにふたつ多い。兄がドーナツを落とさないようにきわめて慎重にトングを使う中、ミニブロッコリーは窓際の小さなテーブルが空いているのに気づく。兄のシャツを引っぱる。
 雨だから食べていこうよ。本日初めての声だ。兄が返事する間もなく、ミニブロッコリーは窓際の木の椅子に腰かけた。爪先が浮く。
 コーヒーを淹れますね。カウンターにいる店員はにこりと笑って湯を沸かし始める。
 困惑のブロッコリーだがどうにか平静を装って会計を済ませた。紙袋を抱えたままで窓際の席に浅く腰かける。座ることはないと思っていた窓際のテーブル、飲むことはないと思っていたベーカリー▲のコーヒー。ブロッコリーは前後左右に頭部をゆっくりとゆらす。
 ミニブロッコリーには兄をまねる癖がある。鏡のように兄の動作をまねて頭部を無意識にゆらす。ミニブロッコリーは兄の視線を追いかける。テーブルのうず巻く木目をなぞっている。やがて兄が窓に顔を向けて静止したので、ミニブロッコリーも左側の窓を見て静止した。うすくくもったガラスに、雨粒の水玉がにじみ、線路や緑はゆるく溶け、そして店内の灯りが反射して、コーヒーの粉を計る店員の姿が映りこんでいる。
 ミニブロッコリーは兄の横顔を見た。兄はくちを一文字にしっかり結んでいる。
 ブロッコリーは妹の視線に気づかない。いつだって気づかないで過ごしてきたのだからしようがない。背中にそそがれる妹の視線のことも、妹が芸術的に相似した動作をしていることも知らない。南の町に住む友人にブロッコリーは言われたことがある。しゃぼん玉の中で生きているみたいな人間だ。ブロッコリーにはその言葉がよくわからなかった。あるいはわかっていても、それすらしゃぼん玉の中に閉じこめているのかもしれない。
 窓ガラスに映る店員の姿が大きくなってきた。白いシャツに緑のエプロン、雲の隙間に見える太陽のような笑顔。それがはっきりとわかるところまで近づいた。
 ごめんなさい、お待たせしましたね。
 コーヒーの匂いといっしょに店員がふたりのテーブルの前へ立った。兄がゆっくりテーブルへうつむいたので、ミニブロッコリーはそれをまねた。けれど兄の目がテーブルの模様をなぞっていないことを感じた。 
 どうぞ。
 もっともきれいな木目のうずをはさむ位置に店員はカップをふたつ置いた。やわらかそうな手だと、ミニブロッコリーは思った。きっとあたたかい手だろうと考えた。同時に、店員の左手の薬指に光る銀色の指輪を知った。
 よかったらコーヒーおかわりしてくださいね。
 店員はトレイを胸に抱えて背を向けた。ブロッコリーは顔をあげてその背中を見つめた。ミニブロッコリーも店員の後ろ姿を見つめた。束ねた長い髪がさらりとゆれていた。


*** *** *** 
「本棚詩集」
【依頼内容】本の形は豆本。見開きの右頁にタイトル・左頁に挿絵で一組とする。点描画による図鑑のような仕上がりを希望。

  *

  序文
 「影の縫製機」ミヒャエル・エンデ著。
 この本で私は発見した。
 タイトルと著者名。これだけでつまり世界は完結しているのだ。夜な夜な影を縫製するミシンの車輪と針の規則的な音。足の裏に縫いつけられた影はどんどんふくらんで、いつしか私は飲みこまれてしまうのだ。そんな想像に陥る瞬間、私は上質な影にふくまれる。恍惚とする一瞬の幻影。それは詩なのである。本の内側は知らなくても。
 以降、私はタイトルと著者名を並べて贅沢に内側の世界を想像することを趣味とした。そして今、収集したすべてをあの世へ持っていきたくなった。しかし私の本棚をすべてというのはあんまりに膨大だ。よって小さくまとめて詩集を創作したい。私の棺桶には必ずこの本と「影の縫製機」を添えるべし。

  以下本文。
  
「黒猫の白い足跡」 磯崎杏
  
「屋根裏にほめく灯り」 路地裏黒子
  
「少女は横顔で嘘をつく」 萩谷月
  
「銀鼠の月」 西山東子
  
「月の舟で猫を盗んだ日」 堀内蛙
  
「しっぽとかげの恋」 江嶋雲之丞
  
「涙の壺」 鳥目蛍
  
「花珈琲」 千野秋生
  
「回転する紅」 燐蝶太郎
  
「森に埋もれるパイプオルガン」 沼田青児
  
「猫足ダンス」 瑠璃群青
  
「くちばしは花に触れたとか」 大橋鳥男

*** *** *** *** *** *** *** ***


 雨の降りつづいたその日、ブロッコリーは小さな正方形の紙にペン先を打ちつづけ、センセイは発熱してベッドに臥せ、ウスイサンは廊下にロープを引いて洗濯物を吊るし、ミニブロッコリーはセンセイのためにりんごをすりおろした。
 喉がいがいがしていても、りんごなら食べられるんだ。りんご一個分をぺろりとたいらげて、センセイはぷうと息を吐いた。ありがとう、おいしかったよ。ほら、あんこ玉をあげる。センセイはベッドサイドのテーブルに置いた四角の缶を開けて、ミニブロッコリーに菓子を取らせた。ミニブロッコリーが椅子を立たないようにたくさん話しかけた。センセイはミニブロッコリーを気に入っている。熱も手伝って、ついつい言葉が軽くなる。
 今、あなたのお兄さんが描いてるのはね、じつは二巻目なの。最初は一冊だけのつもりだったそうなんだけれどね、依頼者さんが、すっかり彼の絵を気に入っちゃってね。本棚詩集なんていうより画集だなんてね。どんな絵を添えるのか楽しみだってね。そう彼にいったんだよ。あのときの彼はとにかくぼんやりした顔だった。でもね、私知ってるんだ。ひとりになってから彼ね、ぐるぐる部屋の中を歩き回ってね、半回転ジャンプして転んでたの。話し疲れると、センセイは眠り始めた。
 センセイの胸元までふとんを掛けて部屋を出て、ミニブロッコリーは台所でウスイサンの手伝いを始めた。
 雨は足音を変えながら降りつづけている。
 じゃがいもの皮をナイフでむきながら、センセイに聞いたことをウスイサンに話した。ウスイサンはナイフをするすると動かしながらうなずいた。
 わたしもあなたのお兄さんの絵を好きだよ。いいからこっちにおいでっていってあげたくなるようよね。雨宿りしている子供みたい。傘におはいんなさいって。そういえば、仕事の話がきてるらしいじゃないの。なんとかいう詩人さんとどこだかの外国を旅して絵本をつくるって。あの子、どんな絵本をつくるんだろうかねえ。ここでの仕事ができなくなるのはさみしいけれど。あれ、どうしたの。
 ミニブロッコリーの手の中で、じゃがいもはいつのまにかきれいな▲に削られていた。
 初耳です。
 ミニブロッコリーはつぶやいたが、屋根へ落ちる雨が急に増えて、その声は隠された。作業部屋ではブロッコリーの絶え間なく点を描く音が雨音を貫くように響いていた。

4.ブロッコリーのとある一週間

*白濁した目をさまよわせた年の春

<月曜日>
 午前六時起床。カーテンのない窓から朝の光がつき刺さる目覚め。
壁際に並んだ五つの段ボール箱のうち四つを開封してクローゼットへ収めた。午后七時就寝。
朝食・・・・・・ビスケット三枚、水一杯。
昼食・・・・・・ビスケット四枚、水二杯。
夕食・・・・・・ビスケット一枚、水三杯。

<火曜日>
 午前五時、夜明け前に空腹を感じて起床。ビスケットの袋には粉だけが残っていた。アパート前の自動販売機で缶コーヒーを買う。朝日に伸びる黒い影を追うように散歩。桜並木の坂道で満開の花を眺めるうちに小学生の登校時刻になる。サンダル履きのまま駅まで歩き、プラットホームの立ち食い蕎麦屋でかけ蕎麦を注文し、引越し蕎麦だろうかとひとり思った。ついでに電車へ乗り、街へ出てカーテンを買った。駅前のビルを見あげる。とがった角が青空へつき刺さっていた。めまいを覚えてうつむく。絵を嫌いになった街では、青空へたくさんの建物がいつもつき刺さっていた。灰色のものはみんな彼にもつき刺さる。午后八時就寝。
 朝食・・・・・・缶コーヒー(砂糖いり)、かけ蕎麦。
 昼食・・・・・・なし。
 夕食・・・・・・おむすび(昆布)一個、水一杯。

<水曜日>
 午前十時起床。壁際にひとつ残っていた段ボール箱を開けた。中にはスケッチブックが詰まっている。一冊を取り出してめくってみた。彼は鼻水も出ないくせに鼻をすすった。気取っていると思った。段ボール箱ごとゴミ捨て場へ置いた。自動販売機で缶コーヒーを買って帰った。午后八時就寝。
 朝食・・・・・・おむすび(梅)一個、缶コーヒー。
 昼食・・・・・・なし。
 夕食・・・・・・食パン二枚、水一杯。

<木曜日>
 午前七時、学生時代から使っている目覚まし時計で起床。友人に紹介されていた新しい職場に挨拶へ出かける。仕事場は森の奥だった。静かに靴が土へ沈みこんだ。その感触に骨盤が違和感を持った。足元の土を指でなぞる。崩れた葉のかけらが土に還っている。歩くと光がちらちらと点滅した。頭上へ重なる木々の葉の隙間から洩れる太陽だった。まるで水面を天井にしたようだと彼は思った。構図を切り取ろうとして嫌気がさした。どこからともなく、近く遠く、鳥は鳴いていた。しかし彼はその姿を見つけられないままに仕事場へ到着した。禿頭の老紳士にオーダーメイドで本をつくる仕事だと説明された。製本も手伝ってもらうだろうが、依頼人の注文通りの挿絵を描くのが担当で、我を出そうとしてもらっては困る。そういわれて彼は気が楽になった。指示された通りに描くだけならきっとできると安心した。なにもないところから生み出して、自分らしいなにかを表現しようと試みるのに、結局模倣なのだと外から内から否定されることもない。昼食を馳走になって帰った。途中で三角屋根のパン屋を見つけてドーナツを買った。しんとした店内は照明があるくせに暗く、それはすべて陰気を醸す不機嫌な店員のためだろうと彼に思わせた。午后八時就寝。
 朝食・・・・・・食パン二枚、水二杯。
 昼食・・・・・・春キャベツとウインナーのスープ、アボガドとエビのサンドウィッチ、苺のタルト。
 夕食・・・・・・ドーナツ二個、水一杯。

<金曜日>
 午前十時起床。部屋を一度も出ずに過ごした。午后八時就寝。
 朝食・・・・・・食パン二枚、水二杯。
 昼食・・・・・・なし。
 夕食・・・・・・食パン一枚、水一杯。

<土曜日>
 午前八時起床。昨日から自分の声すら聞いていないことに気づき、クローゼットからラジオを探そうとするものの、ラジオは引越し準備の段階で捨ててしまったのだと思い出した。彼は持ち物のうちの半分以上を捨てた。着替えの服もなかった。スニーカーだけは他界した父親が最後に与えてくれたものだったので、なんとなく捨てなかった。来週から仕事へ行くのに臭い服では悪かろうと、電車へ乗って街へ出かけた。洋服とラジオを買った。アーケード街を歩いていると、突然大きな音楽が響き始めて彼は驚いた。アーケードの天井や店のガラスや柱や壁へ、音がはね返って、宙で重なりあった。パイプオルガンが空中の舞台にあるのだと、彼は遅れて気づいた。パイプオルガンを見たのも聴いたのも初めてだった。通行人が過ぎる中、彼は道の真ん中に突っ立っていた。演奏が終わると左側の壁際から小気味よい拍手が鳴った。髪の長い若い女性だった。彼と視線が合うと、彼女はいっしょに演奏を聴いた者同士の親しみをこめて笑んだ。太陽が雲を割るような笑顔だと彼は思った。午后九時就寝。
 朝食・・・・・・水二杯。
 昼食・・・・・・柚子風味魚介タレつけ麺、餃子一皿。
 夕食・・・・・・食パン二枚、牛乳一杯。

<日曜日>
 午前八時起床。妹が突然訪ねてきた。コーヒードリップの道具一式とアップルパイを引越し祝いとして寄こした。妹は殺風景な部屋を一瞥して、絵はないのかと尋ねた。ないと彼は答えた。妹は静かに不機嫌となり早々に帰った。午后八時就寝。
 朝食・・・・・・食パン二枚、水一杯、牛乳一杯。
 昼食・・・・・・アップルパイ一切れ、コーヒー一杯。
 夕食・・・・・・食パン二枚、牛乳一杯。


*緑の芽の空へ向かいつつある年の夏

<月曜日>
 午前七時半起床。昨晩描いた絵を鞄に詰めて出勤。待ち構えていた依頼人になにかが違うと却下された。本の題は「私の遭遇した宇宙人」であり、依頼人の記憶をもとに絵を起こした。きみは世間でいわれるところの宇宙人の姿を描いているにすぎない、私が遭遇した宇宙人は我々の想像をはるかに超えているのだ。全体像すら曖昧な依頼人の記憶を形にするにはどうしたらよいのか。彼は課題を再び部屋へ持ち帰った。午前零時就寝。
 朝食・・・・・・水一杯、コーヒー一杯。
 昼食・・・・・・色とりどり野菜とそぼろ鶏肉の素麺。
 夕食・・・・・・パン二枚、コーヒー二杯。

<火曜日>
 午前五時半、熱帯夜に苦しんだあげくの起床。昨晩描いた絵を鞄に詰めて出勤、眼鏡橋の真ん中で待ち構えていた依頼人に遭遇。駅前の喫茶店で下絵を見せるが激しく却下。宇宙人に遭遇した場面の興奮について二時間熱く説明される。彼は最後に一言頼んだ。その宇宙人像をおぼろげでいいので図に描いて見せてくれないか。すると、きみはそれでも本職の絵描きなのかと責められた。午后十一時就寝。
 朝食・・・・・・コーヒー一杯。
 昼食・・・・・・ホットケーキセット。
 夕食・・・・・・パン一枚、コーヒー二杯。

<水曜日>
 午前八時起床。出勤しようとすると玄関の前に依頼人が待ち構えていた。絵を見せると重ったらしく首を横に振った。彼は尋ねた。宇宙人とはなんなのですか。依頼人は答えた。きみにとっての宇宙人とはなんなのか。蝉がじんじんと鳴いていた。「私の遭遇した宇宙人」ではなかったのかと、彼は叫びたかった。依頼人の文章には「知的な相貌でありながらペンギンのようにふくよかな愛くるしさがあり、しかしその中には獰猛な本能とすさまじい探究心が存在する」宇宙人と記されていた。午后八時就寝。しかし蚊の羽音に起き、また吸血されたかゆみに不眠となった。彼は広告紙の裏へ宇宙人の絵を殴り描いて夜を過ごした。
 朝食・・・・・・水二杯。
 昼食・・・・・・パン三枚、水二杯。
 夕食・・・・・・パン二枚。

<木曜日>
 午前八時半、玄関を依頼人にノックされて起床。蚊に食われた脛を一方の足先で掻きながら、鞄の中でしわになった広告紙を渡した。依頼人は十数枚の広告紙を次々と見た。ふっと鼻息を吹いて、彼をななめに見あげた。彼は八つ当たりの絵だから却下されてもしかたないと最初からあきらめていた。しかし、依頼人は数枚の絵を選んで彼に返し、本描きするようにと命じた。なんだかよくわからない生き物の絵だったが、それでよいようだった。午后十時就寝。
 朝食・・・・・・コーヒー一杯。
 昼食・・・・・・パン二枚、コーヒー一杯。
 夕食・・・・・・パン二枚、コーヒー一杯。

<金曜日>
 午前七時半起床。製本されたものへ挿絵を慎重に糊づけしていった。蝉の声が重なり、じわりと汗が浮いた。開け放った窓から森の風が時々通った。午后に依頼人が森へ訪れ、さっそく本の出来栄えを確認した。満足に頬を崩した。じゃあ次は、と依頼人はいった。次は「私の遭遇した怪獣図鑑」をつくりたい。彼と製本家は曖昧に視線を合わせた。
 朝食・・・・・・コーヒー一杯。
 昼食・・・・・・夏野菜のカレーライス。コンソメスープ。アイスクリーム。
 夕食・・・・・・焼き鳥盛り合わせ、芋焼酎ロック二杯。

<土曜日>
 午前十時起床。アーケード街へパイプオルガンの定期演奏を聴きに行った。いつも左の壁際に立って演奏を聴く女性がその日はいなかった。そうか、そうか。と、喉の奥で無意味につぶやき帰宅。午后八時就寝。
 朝食・・・・・・コーヒー二杯。
 昼食・・・・・・アイスクリーム、コーヒー一杯。
 夕食・・・・・・パン一枚。

<日曜日>
 午前八時起床。森にスケッチへ行く途中でパン屋に寄った。すると陰気な店員の隣に見覚えのある小さな顔の女性がいた。長い髪をひとつに束ねて熱心に仕事を教わっている。彼が見ていることに気づいた陰気な店員は、にやりと笑い、請われる前に説明した。いやね、この子今度息子の嫁にくるんですよ。カウンターの奥の小窓からその息子がパンを焼いている姿が見えた。どうぞよろしくお願いします。新しい店員は太陽が雲を割るような笑顔で頭を下げた。彼はそのあと夕方まで森にいたが、ドングリの木の隣の切りカブへ座っていただけで、石ころひとつスケッチすることはなかった。蝶が彼の癖毛のてっぺんで休憩したことにも気づかなかった。午后八時就寝。
 朝食・・・・・・コーヒー一杯。
 昼食・・・・・・ドーナツ二個、牛乳パック一個。
 夕食・・・・・・なし。


*十二色の絵の具が混沌と渦巻く年の秋

<月曜日>
 午前七時半起床。久しぶりにパン屋へ寄ってドーナツを買った。窓にこわばった枯葉があたって落ちた。彼女は風の音に耳を澄ませて、今日は冷えますねといった。ストーブの火が燃えて、ヤカンは白いゆげを吐いていた。ラジオからは教会の祈りの音色。それに耳を傾けた彼に気づいた彼女は、パイプオルガンの聴ける場所があるんですよ、といった。彼の胸にちらりと火がゆれた。彼は彼女の目を見て答えた。ええ、知っています。胸の火は彼の声をわずかにふるわせた。彼女の左手の薬指には銀の指輪が光っていた。午后九時就寝。
 朝食・・・・・・水一杯、ドーナツ二個。
 昼食・・・・・・鮭といくらのご飯。きのこ汁。おやつにドーナツ一個、コーヒー一杯。
 夕食・・・・・・秋刀魚の梅干煮、焼酎二杯。

<火曜日>
 午前七時半起床。森を歩くと落ち葉がしなり、割れる音がした。新月の帰り道、枝から黒い影がひとつぼたりと落ちた。猫だった。なぜだか彼はそれといっしょに心臓が地面に落ちたように感じた。胸にこぶしほどの大きさの穴が開いて、冷たい風が吹きぬけた。六十秒で八十メートルから外れて、彼は一気に森の道を駆けた。電信柱のぽつぽつと佇むところまで走った。暗い海から見る港町のように遠くへ駅と町の明かりが浮かんでいた。その中に彼女の家もあるはずだ。焦げた息をひとかたまり吐いて立ち止まった彼の足首に、猫が額をすり寄せた。午后十時就寝。
 朝食・・・・・・水一杯、ドーナツ二個。
 昼食・・・・・・豚汁、おむすび二個(おかか、梅)、アップルパイ。おやつにドーナツ一個。
 夕食・・・・・・なし。

<水曜日>
 午前七時起床。パン屋へは寄らずに出勤。枯葉の舞いあがる帰り道、またぼたりと枝から猫が落ちた。猫は彼に向かってひと声鳴いた。彼はポケットにはいっていたビスケットを猫へ与えた。午后十時就寝。
 朝食・・・・・・水一杯。
 昼食・・・・・・ミートソーススパゲッティ、玉葱のスープ、ビスケット。
 夕食・・・・・・水一杯。

<木曜日>
 午前七時半起床。パン屋へは寄らずに出勤。帰り道、猫が足元にからむようにして歩いた。細い月が夜気に磨かれて光った。彼は足元の猫のあごをなぜながら壊れた指輪のような月を見あげた。彼は考えていた。彼女がだれかのものだとして、彼女と自分の間になにか変化があるのだろうか。自分はたんにパン屋の客なのだ。午后十一時就寝。
 朝食・・・・・・水一杯。
 昼食・・・・・・ミートパイ、南瓜のポタージュ。
 夕食・・・・・・水一杯、パン一枚。

<金曜日>
 午前七時半起床。氷のまじったような雨の中、直角に勢いをつけて道を左折しパン屋へ寄るものの定休日。彼女の顔を見られなかったことに、彼はおそろしく落胆した。傘にざんざんと雨があたってはじけた。開いたままの胸の穴にも雨がぼたぼたと落ちていった。午后九時就寝。
 朝食・・・・・・水一杯。
 昼食・・・・・・鶏の唐揚げ、ポテトサラダ。
 夕食・・・・・・水一杯。

<土曜日>
 午前十時起床。パイプオルガンを聴きに行くが、パン屋は営業中なので彼女の姿はもちろんない。午后八時就寝。
 朝食・・・・・水一杯。
 昼食・・・・・・水餃子。
 夕食・・・・・・水二杯、パン二枚。

<日曜日>
 午前七時半起床。仕事はないが森へスケッチに出かけた。パン屋へ寄った。お久しぶりですね、お元気でしたか。彼女が尋ねた。風邪を引いていました。と、彼は嘘をついた。その横顔は少し痩せてとがっていた。寒くなってきましたものね、お大事にどうぞ。彼女はやわらかい笑顔を見せた。それだけで、彼の胸に開いた穴はすっかり埋まった。風邪は治ったのでまた明日からドーナツを買いにきます、毎日。彼は埋まった胸を片手で押さえて早口にいった。お待ちしていますと彼女は笑った。午后八時就寝。
 朝食・・・・・・水一杯。
 昼食・・・・・・ドーナツ二個、牛乳パック一個。
 夕食・・・・・・鮭のムニエル定食。


*生まれたばかりの空のごとき年の冬

<月曜日>
 午前七時半起床。青い夕暮れ、雪道を踏んで妹が職場へやってきた。家政婦と妹で料理を用意した。製本家と彼との仕事が終わるのを待って大宴会が始まった。別口の仕事で旅立つ彼のための壮行会だった。午后十時就寝。
 朝食・・・・・・コーヒー一杯。
 昼食・・・・・・クリームシチュー、ドイツパン。おやつにドーナツ一個、コーヒー一杯。
 夕食・・・・・・ご馳走にぎにぎとあれやこれ。

<火曜日>
 午前九時起床。トランクへ必要なものを詰めて、当分使わないものは段ボール箱へまとめた。四つの段ボール箱が壁際に並んだ。彼の不在の間、妹が週末部屋を使うことになっていた。森に通って製本を勉強したいらしい。午后九時就寝。
 朝食・・・・・・コーヒー一杯。
 昼食・・・・・・なし。
 夕食・・・・・・魔女の食堂であれやこれやのご馳走。

<水曜日>
 午前五時起床。南の町に住む友人を訪ねた。あみだくじの路地の先の縦長の店で、友人はあいかわらず封筒や葉書を売っていた。彼の描いた鉤しっぽの猫が店のいたるところに遊んでいた。午后十一時就寝。
 朝食・・・・・・コーヒー一杯。
 昼食・・・・・・駅弁、お茶。
 夕食・・・・・・友人いきつけの居酒屋であれやこれやの肴と酒。

<木曜日>
 午前六時起床。電車の時間までプラットホームで缶コーヒーを飲みながらなんのこともない話をした。ホームの四角い屋根と屋根の間に見える空がまるで川だった。彼は空想した。川に小さな船を泳がせる。船の中ではパイプオルガンを演奏する男がいて、鉤しっぽの猫がまるくなって眠り、観客はたったひとり、髪の長い女がいる。絵に描けそうだと彼は思う。そしてくち元に嘲りと諦めのまじった笑みを浮かべた。結局描くことに執着してしまったとつぶやいた。コーヒーにあたたまった白い息が宙に浮かんで消えた。午后十一時就寝。
 朝食・・・・・・野菜ジュース、玄米ご飯、目玉焼き、鯵の開き。
 昼食・・・・・・駅弁、お茶。
 夕食・・・・・・パン一枚、ハム一枚。

<金曜日>
 午前十時起床。猫用ビスケットを持って森へ行った。鉤しっぽの猫が近寄ってきて、彼の足首へ額を何度もこすりつけた。彼は猫の両脇に手を差しいれて、初めて抱きあげた。冬毛の下のやわらかい皮のさらに内側から、じわりと熱い体温が伝わってきた。彼は額を猫の背へ押し当ててその匂いを嗅いだ。午后九時就寝。
 朝食・・・・・・コーヒー一杯。
 昼食・・・・・・パン二枚、ハム一枚、ゆで卵一個、コーヒー一杯。
 夕食・・・・・・コロッケ定食。

<土曜日>
 午前七時起床。駅へ行く前にパン屋へ寄ってドーナツを買った。旅行ですか。彼のトランクを見た彼女が尋ねた。ええまあ。彼は曖昧に頷いた。お気をつけて。彼女はいつも通りに笑った。駅で待っていた妹に鍵を預けた。ついでに猫用ビスケットが台所の戸棚にあることを伝えた。ついでといいながら、それが一番重要だった。妹は彼の片手にある▲の紙袋をじっと見つめた。食べるか。彼は尋ねた。妹は首を横に振った。見つめたのは食べたいからではなかった。妹はホームで彼を見送った。彼が電車を乗り継いで到着したのは昔に絵を嫌いになった街だった。あいかわらず空の小さな街だ。古いスニーカーで灰色の道を踏む。冷たく硬い刺激が骨盤へ伝わった。やわらかく沈みこむ森の土の感触を、彼は足の裏に再現してみた。それがとてもうまく成功したので、彼はからだをめぐる空気があの森のものだと思うことができた。そしてトランクを持ち直して歩き始めた。それは六十秒で八十メートル進む、いつもの速度だった。空港で詩人と落ち合った。飛行機は青空にやわらかく包まれて飛んだ。下に連なるとがった建物は、空を貫いてはいなかった。彼はそれを確認して、眠りに落ちた。
 朝食・・・・・・コーヒー一杯。
 昼食・・・・・・駅弁、お茶。
 夕食・・・・・・なし。

<日曜日>
 午前八時、妹は彼の部屋で目覚めた。白い雪が吹きつけて、窓枠はさみしい音を立てていた。妹は毛布にくるまったまま部屋の中を点検した。壁際には段ボール箱が四つ並んでいる。寒い洋服、暑い洋服、本、仕事。黒いペンで小さく記されていた。妹は仕事と書かれた段ボール箱のガムテープをはがした。中にはスケッチブックやメモ紙や広告紙が大量に詰まっていた。彼が四年間この町で溜めたスケッチや下絵だった。さまざまな猫、樹木の皮、葉脈、小川の水流、蜘蛛の巣、空を求めるような枝、リス、小鳥、眼鏡橋の全反射、線路のシロツメクサ、パイプオルガン、アーケードのステンドグラス、客引きのこわばった笑顔、蝶、すれ違ったひとの一瞬の姿、あわ立つ雲、アオヤギ、電車の車輪、コーヒー豆、アップルパイ、豪快な家政婦、寡黙な製本家、足になじんだスニーカー、使いこまれた食器に鍋、魔よけの箒、さまざまな角度から見たスリッパ、緑の屋根、手紙をくわえた鳩、古いランプ、遠い雲の果てを見るような少女の横顔、帆船、ふっくらとした壺、左右対称の回転、獲物を見つめる梟、やわらかな肉球、不思議な模様の茸。段ボール箱の底にまるめられた広告紙があった。しわを伸ばすと、散りゆく桜とその枝にくちばしを寄せる小鳥が現れた。絵はないの。そういつだかの彼に問うた時、妹が見たかったもの。真っ白い吹雪の中、妹は段ボール箱を抱えて森へ走った。森小屋の軒下に猫たちが集まっていた。鉤しっぽの猫がメエと鳴いた。妹はすっかり片づいている仕事部屋のテーブルへ段ボール箱を置いた。雪がはらはらと落ちた。家政婦は妹へタオルとコーヒーを渡して、製本家を呼びに行った。妹はタオルで段ボール箱の雪を払った。▲の紙袋を持つ兄の姿が脳裏に浮かんで、妹の目には熱い液体の膜が生まれた。ぶ厚い毛糸のカーディガンをはおった製本家が咳をしながらやってきた。妹はりんご色の頬に雪の滴をつけたまま、段ボール箱を両手で前へ押し出し、ブロッコリー頭を下げた。お願いします、この中にあるものを使っていっしょに本をつくってくれませんか。

*** *** *** 
「森のパイプオルガン」
【依頼内容】木の板を表紙にしたコプティック製本。文章は妹。挿絵は彼の残した段ボール箱の中身から使う。

  *

 とある国に絵描きがいた。
 その絵描きが描くと、紙の上でひとも動物も生きているのと同じに動いて、花なんかは風に気持ちよくゆれて太陽に顔を向けるって、とにかく評判だった。
 とある国の王様が命令した。
「この国に住むぜんぶの人間と動物を描いてきなさい」
 王様は机の引き出しに自分のものを全部しまいたくなったんだ。
 絵描きは王様の国の中を旅した。ある時、一番はじっこの村へ行った。そこは大きな森を持つ小さな村だった。
 絵描きは王様の命令書を胸に貼りつけて、さっそくみんなの家のドアをノックした。村長さん、村長さんの奥さん、奥さんの息子、息子のおばあさん、おばあさんのだんなさん、だんなさんの娘、娘の弟の娘、娘の母の妹。だんだんにぎやかになるスケッチブックをせおって、家から家へ渡り歩いた。
 絵描きは絵を描く時だけ、猫みたいに目をまるく開いた。それ以外は眠っているのか起きているのかわからない顔つきをして、めったにしゃべりもしなかった。だけど、村のひとはみんな絵描きを気に入った。だって絵描きに描かれると、だれもがみんな紙の上で機嫌よくとっておきの笑顔になるんだ。
 絵描きはよけいなおしゃべりはひとつもしないで、毎日ただただ絵を描いた。
 まりで遊ぶ子供、子供のいたずらに驚いた馬から落ちて途方に暮れる女、女の家の昼下がりのにわとり、にわとりの首を落とす肉屋、肉屋がくどいた花屋の娘、花屋の娘の姉の花降る結婚式、結婚式を眺める若い郵便配達夫、郵便配達を待つ老夫婦、老夫婦のベンチの下で昼寝する犬、犬を好きな卵売りの少年、少年の卵を待つパン屋の息子。

  *

 村の人間と動物をみんな描いてしまうと、絵描きはスケッチブックをせおって大きな森へ通い始めた。毎朝、村でたったひとつのパン屋でドーナツを買って、魔法瓶へあつあつのコーヒーをいれてもらった。
 とある朝、絵描きがパン屋へ寄ると、初めて会う店番に変わっていた。長い髪をしたきれいな娘だった。娘は絵描きが店に入るなり、日だまりと同じじんわりあったかい笑顔で挨拶した。
「おはようございます。今焼けたばっかりのおいしいパンがありますよ」
 胸のふたが開いて、心臓が飛び出るくらいに、絵描きはどきっとした。
 絵描きがこれまで描いてきたいろんな人間の笑顔の中で、とびきりすてきな笑顔だったんだ。
 絵描きがしどろもどろにドーナツとコーヒーを注文する間にも、お客さんがやってきた。娘はお客さんみんなに笑顔で声をかけた。娘が笑うとみんなもつられてにこにこした。パンといっしょに笑顔も持って帰ってるってことに、絵描きは気づいた。それってすごいことだと、絵描きは思った。じつは絵描きは、絵を描くこと以外で、ひととつながるってことができない男だったから。笑顔でつながるって、声をかけてつながるって、ああ、すごいなって、そう思ったんだ。
 娘はそれからも、ひとりひとりの客に声をかけて、てきぱきと手際よくパンを袋につめて、お釣りをあざやかに計算した。蜘蛛の巣の張っていた店なのに、すみずみまでぴかぴかに光り始めた。娘が魔法瓶にそそぐコーヒーには花の蜜の香りがちょっとまじっていた。
  
  *

 絵描きが泊まる宿屋のおやじさんと奥さんは、絵描きの様子がちょっと変わったことにはすぐに気づいた。絵描きはあんまりごはんものどを通らなくなって、ちょっとのお酒をのんで、ほうっとため息をついて、夜遅くまで起きるようになっていた。まだ半分以上も肉の残った皿を片づけながら、奥さんが絵描きにたずねた。
「なにか悩みがあるの」
 でも、絵描きはふるふると首を横にふるだけだった。

  *

 とある朝、とうとう絵描きは勇気をふりしぼって娘に声をかけた。胸に貼った王様の命令書をぴんとのばしてみたけれど、なんだか声がぶるぶるふるえた。
「僕は王様に命令されて国のみんなを描かなきゃならんのですが、あなたをまだ描いていないのです。あなたはこの村のひとですか」
「ええ、ついこないだ引っ越してきたんです」
「はあ、そうですか。あの、おうちはどの辺でしょうか。いえ、あなたのことも描かなきゃならんのです。なにしろ王様の命令なので」
「ええ、よろしいですよ。うちはここです。このパン屋さんへお嫁にきたのです」
 にこにこと笑って娘は答えた。
 絵描きは一瞬のどに石が詰まったみたいになった。
「お嫁へいらしたんですか」
「ええ」
「あの、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
 絵描きは魔法瓶を抱えて頭をたれてしまった。胸に貼った王様の命令書はしわくちゃになった。
 そのあと空気の抜けかけた風船みたいにして森に行ったんだけど、蜘蛛の一匹も描かないで、きのこの生えた切りカブにぼんやり座って過ごした。のどに詰まった石がごろりとお腹にたまっていた。
 群青の空に星がぽつりと灯る頃になって、絵描きはためこんだ空気を吐き出した。
 その時、ぼとりと音がして、絵描きはうしろへ振り向いた。枝から猫が落ちてたんだ。ぼんぼりしっぽの黒猫だ。
 猫は両手をうんとつっぱって伸びをして、絵描きの顔を見てメエって鳴いた。猫というよりヤギの声だったから絵描きはおかしくなった。鞄から取り出したドーナツを小さくちぎってやった。ぼんぼりしっぽの猫はぺろりとそれを食べてまたメエって鳴いた。がりがりにやせた背中を絵描きがなでようとしたら、ぼんぼりしっぽの猫はすぐに飛びすさって、しげみの中へ隠れてしまった。

  *

 王様の命令だから、パン屋の花嫁娘も描かなきゃならないのだけれど、絵描きはパン屋へ行かなくなった。
 あの娘のかわいい笑顔が自分のものにならないのに、王様の引き出しにしまわれる絵を描くなんて、ため息しか出てこない。
 絵描きはポケットへいれたビスケットをちびちびかじって森へ通った。
 でも、絵を描いたって真っ白な気持ちになんてなれなかった。前は猫みたいに目を開くと、世界は絵描きとじかにつながった。世界を自分の中に取りこめるような気がした。でも、今はそんな気が全然しない。
 リスを描いていても、あの娘のやわらかい声が耳にひびく。パンを運ぶ細い腕が頭のすみっこにちらちらうかぶ。スカートの下に伸びるきゅっとした足首がステップを踏みはじめる。
 なのに、どんなに考えたって、世界一考えたって、あの娘は絵描きのことは考えたりしない。
 絵描きのスケッチブックの中にはパン屋の息子ももちろんいる。たくましい腕でパン生地をこねる、正直そうな男だった。目を見開いて観察した絵描きだから、笑った時に目元にできる親しみやすいしわの深さだって思い出せる。なんだかその笑顔は、娘の笑顔とおんなじ種類のものに思えて、つまりは世界で一番似合いのふたりなんだっていう気がした。
 熱をもってやわらかくなった脳みそを、絵描きは森に埋めてしまいたくてしようがなかった。

  *

 とある夕暮れ、絵描きはさっさとスケッチブックをまとめて立ちあがった。だからといって森をすぐに出て行くわけじゃない。青黒く闇に包まれてゆく木々の間を歩き始めた。頭は一箇所から動けないのに、足だけが勝手に落ち葉や枝を踏んで苔にすべった。
 絵描きはなんとか頭を真っ白にしたくて歩いたんだ。
 けれど暗い闇にもあの娘はぼんやり浮かんできてしまう。
 緑の枯れて骨ばかりになった木々の間を右に左に迷路をさまようようにして歩いた。
 月は雲に隠されたり現れたりして絵描きの目の前をまだらにした。
 そのうち白銀の光がちょうどまっすぐ射しこむひらけたところに出た。
 そこには小人が腰かけるのにちょうどよさそうな切りカブがあった。絵描きは初めて見る不思議な場所だと思った。
 ぼとりと音がして、暗がりの中でよく見ると、ぼんぼりしっぽの猫が枝から落ちた様子だった。
 それは見覚えのあるくねった枝で、一度絵描きがリスといっしょに描いた枝だった。
 切りカブにはなじみのきのこが生えていた。
 結局元いた場所へ戻っただけだったんだ。
 絵描きはお腹の底の石が大きくなるのを感じた。
 ぼんぼりしっぽの猫がメエと鳴くので、ポケットの中のビスケットをあげた。

  *

 ビスケットを食べ終えた猫はぶるっと身ぶるいをひとつすると、絵描きにお尻を向けてぼんぼりしっぽをゆらして歩き始めた。何歩か進んだところで、振り返ってメエって高く鳴いた。
 こっちにおいでよって絵描きを誘うみたいだった。
 だから絵描きは猫のぼんぼりしっぽを追いかけることにしてみた。なんだか村に帰りたくなかったんだ。       
 ぼんぼりしっぽの猫は絵描きの踏みいったことのない枯れた森の奥へと進んだ。
 不思議な風が吹いて雲をあやつって、月の光はぼんぼりしっぽの猫ばかりを照らした。
 ぼんぼりしっぽの猫の足音はとてもひかえめで、絵描きの落ち葉を踏むばりばりとした靴音だけが響いた。
 いろんなところで聞こえていたはずの獣の音はみんな静かになっていた。
 ぼんぼりしっぽの猫を追いかけるうちに、絵描きは半月状の広場に出た。
 そこには、弓なりに立派なパイプが並んでいた。
 長さの違うパイプが何本もずっとずっと空高くまで伸びている。
 その真ん中には、千年も生きた大木みたいな演奏台があった。
 森にパイプオルガンが木といっしょに生えていたんだ。 
 苔におおわれてシダやきのこに飾られているけれど、じつに立派なパイプオルガンだ。
 月はまっすぐ光をおろしてそのパイプオルガンを王様みたいに照らしている。
 その王様の影は黒く地面にしみこんでいた。地面には枯葉は一枚もなくて、冬なのに青々とした緑の草が広がっている。踏むと、やわらかい絨毯の感触だった。
 絵描きはそっとパイプオルガンへ近づいた。でも、手鍵盤にも足鍵盤にもさわらないで、ぼんやりパイプオルガンをながめている。
 ぼんぼりしっぽの猫がメエと鳴いて、さわってごらんよと絵描きを促した。
 絵描きは手鍵盤をひとさし指でぐっと押した。
 トランペットの音が森に響いて、茂みから野鼠たちが飛び出した。
 絵描きは足鍵盤も踏んでみた。今度はどこかから鳥たちが一斉にはばたいた。
 ぼんぼりしっぽの猫がうれしそうに鳴いたので、絵描きはなんだか愉快になった。

 *

 絵描きは毎日森のパイプオルガンへ通った。
 パイプオルガンが鳴ると森全体がぶるぶるとふるえた。絵描きのやせたからだも骨までふるえた。大きな音でふるえるたびに、からだにこびりついたいろいろのものがはがれ落ちた。パイプオルガンを弾き終えると、絵描きから余分なものがひとつずつ消えた。
 王様にもらった命令書を胸に貼らなきゃみんなの家のドアのノックもできない、大きすぎる自分の中の他人の目とか。ちっとも上手におしゃべりもできなくて落ちこむ気持ちとか。パン屋の窯が突然燃えてしまって彼女がひとりきりになったらいいのにっていう想像とか。全部絵描きには余分なものだった。絵描きはひとつひとついらない気持ちを落としていった。
 とうとうある晩、お腹の中で大きくなりつづけていたあの重たい石が、ごろりと落ちた。
 そして、ひとつの気持ちだけが真冬の月のようにくっきりと浮かんだんだ。
 絵描きは鍵盤から指を離したとたんにつぶやいた。
「ああ、あの娘のしあわせのために、僕ができることってなんなのだろう」
 
  *

 それから毎朝、絵描きはパン屋へ寄って、ドーナツとコーヒーを買うようになった。
 小さな硬貨を娘のやわらかい手のひらへそっと渡して、娘のあったかい笑顔をもらった。そして絵描きもにっこりを返した。これがこの娘のためにできることだって思って、絵描きはまんまるい気持ちでコーヒーを飲むことができたんだ。
 宿屋の奥さんはおやじさんにいった。
「きっといいことがあったのね。もうだいじょうぶよ」
 絵描きは森へ行くと、もう絵は描かないで、ただパイプオルガンを弾いた。
 どんどんと絵描きからいろいろなものが落ちていった。
 絵描きはそのうちただの男になった。
 次はただの人間になった。
 弾きつづけると、服なんてもういらなかった。肌に直接響く音の心地よさを感じるのが最高だった。森をふるわせる音をからだ全部で感じたかったんだ。だってそれは娘のしあわせを祈る音だったから。
 そのうちに彼はからだごとパイプオルガンへ触れたくなった。
 すると腕も足もちぢんできた。彼は四本の足で手鍵盤に乗った。腹と胸で鍵盤を押した。足鍵盤へ飛びおりた。大きな音がいくつもいくつも重なった。森はごうごうと嵐みたいにふるえていた。
 彼はもう村へは帰らなかった。
 彼女のしあわせを祈りつづけたかった。
 朝も昼も夜もなくパイプオルガンを奏でた。
 夜になって寒さを感じていると、全身へ毛がみっしりと生えてきた。
 もう人間でもなくなった彼は、くっきりとまるい気持ちひとつで全身をおどらせた。
 音色を変えるスイッチを、お尻から生えてきた長いしっぽで切り替えた。とても上手に。

  *

 彼がパイプオルガンの上でダンスするのを、ぼんぼりしっぽの猫は後ろから見ていたが、やがてぐいっと伸びをすると、森の外へと歩きだした。
 村へつづく道の途中でぼんぼりしっぽの猫は立ち止まった。ひげをまっすぐぴんと伸ばして青空の匂いを嗅いだ。耳のあたりを蝶がかすめて飛んだ。あたたかな太陽と花と若い草の匂いが、ほこりっぽい道に甘く香っている。
 冬は終わって世の中はもう春だった。宿屋のおやじさんと奥さんは、村のみんなが気にしなくなっても、行方不明になった絵描きを心配していた。
 ぼんぼりしっぽの猫は目を細めた。
 パン屋の娘がハミングしながらやってきた。
 娘は森で野苺をつむために腕へかごをさげている。
 ぼんぼりしっぽの猫は娘の細い足首へすり寄って、メエってやさしく鳴いた。
 娘がその額をなでようとしたら、ぼんぼりしっぽの猫はすり抜けて走り、ちょっと離れたところでまたメエって鳴いた。 そしてそのまま娘が森を行くのをちょっと離れていっしょに歩いた。
 森を歩くうちに娘は、だんだんと、野苺を探すのではなく、ぼんぼりしっぽの猫の後を追いかけるようになっていた。
 不思議な風に雲が流れるせいで、太陽はぼんぼりしっぽの猫の姿ばかりを照らした。
 黒い雲の影が緑を暗くしていた。
 森の葉っぱの風にゆれる音はひとつもしなかった。いつもどこかしらで鳴いている鳥の声も聞こえなかった。娘はぼんぼりしっぽの猫を追いかけることに気を取られて呼吸が弾み、周りの音がないことに気づいてはいなかった。
 とうとう、娘は半月状の広場へたどりついた。
 そこには立派なパイプオルガンが太陽に照らされて生えていた。
 娘ははっとして立ち止まった。ぼんぼりしっぽの猫はどこかへいなくなってしまっていた。後ろを振り返るけれど、全部が木やつるや草に閉ざされて、歩いたはずの道はなくなっていた。
 突然、茂みから小さなかたまりがパイプオルガンの前へおどり出た。
 そのかたまりはしっぽの長い白猫だった。
 白猫は娘がいることにびっくりして目を見開いた。でも、すぐに気を取り直して、正式な奏者みたいな礼儀正しい会釈をした。そしてすいっと手鍵盤の上に飛び乗った。  
 とたんに風がパイプをかけのぼって、大きな音が森へ響きはじめた。
 白猫のステップが風を起こすと、たくさんのパイプからいろいろの音がかけあがって、あふれて、重なった。
 ブロッコリーのようにしげる木々の緑に、太陽は黄色の熱を降らせた。
 すきとおった空から雨の雫がばらばらと落ちてきて、白猫といっしょに鍵盤を叩いた。
 蜘蛛の巣は露にきらめいた。
 鳥たちは一斉に羽ばたいて▲を空に描いた。
 鹿が上品に角を振った。鼠たちは歯をそろえて木の皮をかじった。
 リスは枝から枝へ葉をゆらしながら移動した。
 蝙蝠はひとには届かない音で鳴いた。
 キツツキはリズムを合わせて硬い幹をつついた。
 ブローボックは青い毛を風になびかせて森をかけた。
 白猫は足鍵盤と手鍵盤をなめらかに上下した。
 色とりどりの蝶と蛾が相似形に回転した。
 空にかかった二重の虹の上を鈴が転がった。
 どこか遠くの街でとがった建物が空をつき刺した。
 それでも空は割れなかった。
 ただ青く、群青に、黒く。
 西と東と北と南から、満ちかけるすべての月が空を飾った。
 星は押し合って火花を散らせた。
 火花から雪が生まれた。
 白猫は祈るだけのダンスをした。
 風は地面からパイプを通って空にのぼり、森へ吹きぬけた。
 やがて白猫は演奏台から地面へぼとりと落ちた。
 森は静まり返った。
 白猫の心臓の今にも破れそうに波うつ音だけが、しんとした森に聞こえた。
 娘はそっと白猫に近寄った。咳をして呼吸を荒げる白猫の、青い目を見つめた。見開いた目に、娘が映っていた。
 森の植物がそろりとゆれた。
 ぼんぼりしっぽの猫は枝の上にからだを横たえて、彼と彼女をじっと見つめていた。
 彼女は細い指先を彼へと伸ばした。
 彼は青い目で彼女の指先をじっと見つめた。
 彼女のうつくしい指先が、彼の小さな鼻に触れた。
 メエ。
 ぼんぼりしっぽの猫が笑った。

*** *** *** *** *** *** *** ***

 森の仕事場の大きなテーブルに一冊の本が置かれていた。
 妹はその本を手に取った。
 ラジオの周波数はもう782.9MHzには合っていなかった。
 窓から射しこむ光には若葉の色がまじっていた。
 本の下にはすでに宛先を記した封筒があった。
 しかし結局本だけを鞄へしまった。
 その鞄を大切に抱えて妹は部屋を出た。
 そして、ブロッコリーのようにしげる森の中を歩いていった。

ブロッコリーのはなし

ブロッコリーのはなし

絵描きの男と猫とパイプオルガンのお話です。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-08-29

Copyrighted
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  1. 1.ブロッコリーの日常
  2. 2.ブロッコリーの休日
  3. 3.ブロッコリーの妹
  4. 4.ブロッコリーのとある一週間