*星空文庫

ムーン、ドロップ。

かくら 作

ムーン、ドロップ。

 さあさ、ご覧くださいね。
 こちらにあるのは、猫の毛皮。みごとな毛並み、風になでられた稲穂のような光沢でしょう。首に巻いて腰に巻いて、猫の鳴き声もいたします。
 そちらは夜霧の香水。深海のような森の冷えた香りが漂うことでしょう。ええ、だれかをあざむきたい時におすすめです。ええ、どうぞ、どうぞ。
 はいはい、そちらは目玉の卵です。卵を割っていただきますと、目玉がころりと生まれます。フライパンで焦げないように注意して焼いてお召しあがりください。正真正銘の目玉焼きですよ。
 おや、おやおや。
 お客様、あなたはお目が高い。実に高い。それは大変めずらしい。
 大変貴重なムーンドロップ。


ウサンクサイ。
 呪文みたいな言葉が鼻の奥とのどちんこの間でぶらさがった。
 片目に金色のレンズをはめたそのひとは、トナカイみたいな鼻に黒縁の魚眼レンズなおもちゃメガネを載せている。両方の目をぎりぎりまで開いて視線を向けてこられると、鳥に狙われているような気持ちになる。それでいて、くちだけが笑った形につくられているから、怖い。砂色のコートの下には黒シャツを着ていて、その胸元にはシルバーのネクタイがきらめいている。脂肪のたっぷり詰まったからだのせいで、シャツのボタンはちぎれて飛んでしまいそうだ。あんまり太りすぎていて、男なのか女なのか性別すらわからない。そんなウサンクサイ人物が、祭りのひとごみを避けた神社の裏手に大きなトランクを広げ、ランタンの灯りを頼りに、子供相手の商売をしていたのだ。
 そして、
「おや、お客様。あなたはお目が高い。実に高い。それは大変めずらしい。大変貴重なムーンドロップです」
 コルクで蓋をされたガラスの小瓶に、ひとつだけまるい玉が入っていた。その小瓶をつまんだわたしに、そのウサンクサイひとはかん高い声をあげた。突拍子もなく高い声だったから、わたしの隣にしゃがんでトランクを覗いていたキツネのお面の子供はびっくりして動きを止めてしまった。キツネの子供がびっくりしたのには、たぶん理由がある。どういうイタズラかは知らないけれど、先程こっそりトランクの中へその小瓶を入れたのはキツネの子供だったのだ。そのイタズラを目撃したからこそ、わたしはガラスの小瓶を手にしてみたのだ。
 男だか女だかわからない顔がもちをつぶしたみたいに笑った。
「月の石なら巷でも手に入りますが、ムーンドロップが手に入るのは、世界でこの場所だけでございます。今宵の祭りのために、わたくしが特別に用意いたしました」
「ただの飴でしょ」
わたしはガラスの小瓶をトランクへ戻した。すると水でふくれたような手がそれを拾いあげ、ずずいとわたしの両目の間へ近づけてきた。つい、顔の角度をななめに変えてしまう。しつこいことに、手は小瓶をわたしの顔の向きに合わせて動かしてきた。いやいやながら、ガラスの中に転がるクリーム色の小さな玉が視界に入る。ただの飴にしか見えない。しかも、消費期限ぎりぎりの。
「ただの飴ではありません。ムーン、」
 そこで小さな厚ぼったいくちびるはすぼまり、呼吸をためてから、ふっと息を吹きかけるように声を出した。
「ドロップ、でございます」
「ちょっと英語にしたって意味は変わらないでしょうに」
「ムーンの味に興味はありませんか」
「デリケートな舌なので、珍味は求めません」
「ムーンの効能に興味はありませんか」
「健康には自信があるし、今の自分に満足してます」
「今ならお安くできますよ」
 そう言って、上目遣いで小瓶を振る。
 まったく、なんて嘘つきなのだろう。
いい加減、不毛な冷やかしはやめて帰ろう。
 そもそも、ただの時間つぶしだ。来るべき時間、来るべき場所に、来るべきひとが来なかった。待つのも帰るのもいやだった。だからちょっとぶらついた。ただ、神社裏の暗がりにほのかな灯りを見つけて、虫が光を求めるように寄せられてしまったのだ。わたしはサミシイ虫だから、まぶしい祭りのお囃子よりも、陰にそっと灯る光に吸われてしまった。それだけのことだった。さみしさがさみしさに吸着されたのだ。そう、サミシイ虫はしつこさなんて求めていない。
 わたしは腰をあげた。キツネのお面の子供がわたしを見あげていた。まるいふたつの穴の中で、黒飴みたいな目がひとなつこく笑っていた。キツネの子供は、わたしに手を振った。わたしは振り返さずに、背を向けた。わたしの手は今、やさしくなれないのだ。
 
 もともと、
「来年は帰ってくるかわからないから、今年は一緒に行こう」
 そう誘ったのはあいつのほうだ。
 海を越えなきゃ行けない学校に進むなんて、いつのまにかひとりで決めてしまった。
 距離っていうのは、時間とお金で測れる。今のわたしにとって、海を越えるような距離は、月に行くのと一緒。いつまで行くの、いつ帰るの、いつ戻るの。同じ質問ばかり繰りかえして呆れさせた。
「連絡するよ」
 わたしを置いて行こうとするあいつは、やけにすっきりしていて、冷静で、涙なんか知らなくて、風の抜ける空みたいにあっけらかんとしていた。
 子宮の中で仲よく手をつないでいたのは、目がくらむくらいに遠い昔の話。ふたりきりの世界から順番に生まれ落ちた後、ふたり並んでいるようで実はお互いひとりだった。もっと窮屈な世界に、手をつないでいるしかない場所に、足をからめているしかない空間に、閉じこもってしまいたい。そう思うのはわたしだけ。あいつはいつだって飛び出したいのだ。生まれたのだって、あいつが先。あいつが先に出たから、きっとわたしは追いかけたに違いない。
 そういえば、朝にお出かけの挨拶をするあいつも、さわやかそのものだった。
「じゃあね、行ってくるわ。あのさ、模試の後に行くからさ、神社前で待っててよ。家まで戻るの足にキツイんだよねえ」
 眠たいわたしの憂鬱なんておかまいなし。サックに参考書をでたらめに詰めこんで、さっさとあいつはキッチンを出て行った。わたしは返事なんてしてやらずに、にわとりタマゴの目玉焼きを箸で八つ当たりに裂いていた。どうせバイクで行くくせに、それで疲れる足ってすばらしく軟弱だと思った。模試なんかへ行くというのに、浮き足立って見えるのはどうしてだろう。憎い。模試が憎いと目玉を切り裂いた。白と黄色を細切れにしていると、あいつが戻ってきた。つけあわせのプチトマトを横取りして、わたしとよく似た顔をきりっとさせた。
「ちゃんと神社に来てよ。家で待ってないでよ」
「さあねえ。どうしよう」
「むむ、躊躇されるとは。ではおまじないをしておこう」
 あいつはわたしのこめかみにこぶしを当てて、グリグリと回した。
「イタタタタッ」
「来たくなーる、来たくなーる」
「行くよう、行きます。必ず行きます」
「うん、よろしくう」
 買ったばかりの原付バイクのキイを指に回してニックリ笑い、あいつは出て行った。空を抜ける風のように。
 本当は、ひとごみでなんて待ちたくないのに。確実に家からふたりで出かけたかったのに。
 あいつは外で会うということに、わたしを慣れさせたいのだ。よそよそしくなることに。そんな必要、この世界のどこにあるっていうのだろう。わたしにはわからない。納得できない。
 まったく。そんなふうに約束させたのは向こうなのに、あいつは約束の時間に来なかった。行き違いにならないように、二十分も前から電柱の前に立っていて、それから一時間も待っていた。浴衣姿の陽気な群れが、風船やら綿飴やらを手にして神社を出入りするのを、猫みたいにじっと眺めていた。
 まるで恋人にすっぽかされたみたいだった。恋人なんかではないのに。通りすぎる群れからすれば、きっと振られたみたいに見えるだろう。かわいそうな子って同情されるだろう。そう想像するとみじめになったけれど、実際のところ、だれもわたしのことなんて見ていなかった。きっと電柱と同じくらいにしか思われてなかった。風景の一部。たったひとり。わたしを見つけてくれるはずのあいつが来ないのだから。2.0の視力を誇っても、優秀な探偵よりも勤勉に見張っても、いないひとは探せない。わたしはさみしさに負けて、それ以上あいつを待てなかった。そして結局、ふらついたお祭りの中でも、たださみしさが増えてゆくだけだった。
 
 神社の暗がりを後にしたわたしは、祭りの雑踏を歩いた。金魚が尾を水にゆらめかせるような灯りの中、サルやヒツジやタヌキの顔をしたひと達が影を重ねて音を溶かし合わせている。わたしはどの影にも混ざらずに音を消して歩く。  
そのうちに、金魚の提燈もお囃子も通り過ぎて、暗く広い道に出た。ぽつんぽつんとロウソクみたいな電燈がまっすぐつづいている。わたしのほかにはだれもいない。前にも後ろにも。風も吹かない。目をつぶされてしまった後のような黒い空が頭上をおおっている。    
ただ、月がひとつ浮かんでいる。
 ああ、月がまるい。
 まんまるい。
 おいしそうには見えない。
 ひんやりして、うすっぺらく尖っている。
 指を滑らせたら、するどく切れてしまいそうだ。
 月は電線の間にひっかかり、屋根の後ろへと恥ずかしそうに隠れ、またはゆったり雲間を泳ぐ。
 ムーンの味に興味はありませんか。
 わたしは舌の上で想像する。
 月面はきっとごつごつして、じゃりじゃりしている。甘くないし、なめらかじゃない。しょっぱいかもしれない、苦いかもしれない。あんなウサンクサイひとから、あんなウサンクサイ飴を買うひとなんているだろうか。わたしが背を向けた後あのひとは、再び子供達に出所のあやしい品物のお伽話のような由来を語りつづけたのだろうか。
ウサンクサイ。
 月は月だ。うさぎはいない。かにもいない。旗はなびかない。大きな石のかたまりだ。願いなんて叶えてくれない。神様なんていない。ちょっとずつ、地球から遠ざかる。宇宙に放り投げられてゆく。水のない暗い海に、さらわれてゆく。地球から遠くなる。わたしから遠くなる。いつ来るの。いつ戻るの。いつ帰るの。月は沁みる液体に満たされて、輪郭がぼやける。上を向いても、落ちるものは落ちる。限界を超えたら流れてしまう。涙が流れる。月がにじんで、溶ける。
 ああ、こんな日は泡風呂だ。


 わたしはアパートの玄関を開けると、一目散にお風呂場へ駆けこんだ。
 お母さんとあいつには大いに批難を浴びること必至だけれど、それは考えないことにする。泡の入浴剤を入れて、勢いよくお湯をそそぐ。ぶくぶくわぷわぷと泡が生まれてふくらんでゆく。白い匂いがお風呂場に充満する。涙で濁った鼻の通りがよくなる。お湯がたまったところで、次々と服を脱いだ。脇にしみのにじんだシャツを脱いで微妙にお腹を締めていたジーンズも放り投げる。汗で湿った下着ともさようならだ。浴槽の両側へ左右対称に手と足を置いて、湯船をまたいだ。体操選手のように手だけでからだを支え、けれど体操選手のような筋力はないからすぐに萎え、おしりから湯船に落っこちた。途端に、真っ白な泡が宙に舞う。お湯があふれる。あたたかな水はわたしの汚れた皮膚をぬくめて、とろとろに溶かして包んでくれる。湯船にかわいがられている気分になる。
 泡風呂のしあわせに浸ろうと目を閉じたその時、ドアが開いた。少しだけ冷えた空気が流れてきて、宙に舞った泡をゆらした。よく知った声が、お風呂場に低く響いた。
「待っててって言ったのに」
 わたしそっくりの頬を不満げにふくらませて、あいつは靴下を脱いで浴槽の側に腰を下ろした。わたしはあいつに背を向けて泡の中に首を埋める。怒っているし、怒っていいはずだ。あいつが怒るなんてことは不当だ。合計1時間20分も待ったのだ。怒る権利はわたしにある。
「ほら、おみやげ」
 背後から声がして、左耳のすぐ側を通って、あいつの手が伸びてきた。冷たい感触が頬に触る。目だけ動かして、確認する。それはガラスの小瓶だった。中には鈍いクリーム色の小さなまるい玉。思わずわたしが振り向くと、あいつはいつものニックリ笑顔で言った。
「ムーン、ドロップ」
「ばかじゃないの」
 思わずが重なって、発作的に笑ってしまった。
 まさかウサンクサイひとからウサンクサイ品物を買うひとがいて、それが同じ子宮で一緒に十ヶ月を過ごした人物だなんて、想像もしなかった。
「どうして笑うの」
「だって、わたし。わたし、冷やかしで見たもの。それ。あのウサンクサイひとも」
 笑いの間に、なんとか答える。湯船の泡が笑いに合わせてゆれる。ぷっくぷっくと泡がはじける。どうしよう、お腹の筋肉も脂肪も内臓もよじれそうだ。
 なのに、しごく大真面目に、やつはわたしを見つめる。
「あれ。ちゃんと聞いたの、これの効能」
「さあねえ。どうしよう、きみってば、ばかだあ」
「ばかじゃないさあ」
 やつは、小瓶を胸のポケットに入れると、ふっと浴槽のふちに両手をかけて、次にそれをまたいだ。どどぶん、と泡のお風呂に服を着たまま腰を落としてきた。大きな波がわたしの顔にぶつかる。やつははしゃいだ声をあげる。
「津波だあ」
「被害とてつもないんだけど。補償を求めるよ」
「うん、顔が泡だらけで、サンタさんみたいだね」
 真顔で言う。直訳すると白髭のおじいさんだね、だ。憎たらしい。
 湯船の表面を覆う泡を息で吹き分けて、まっさらなお湯でもってサンタな泡を流す。そのわたしの両手を、やつの大きな手がつかんだ。似たり寄ったりの遺伝子のはずなのに、どうしてこんなに違ってしまうのだろう。わたしとやつの手はあんまりにも違う。やつの手は骨と血管が浮いて日焼けしていて、肉が厚くてあたたかい。その手がわたしの手を握る。わたしも握り返す。わたしの手は白い脂肪がうすくついていて、骨も血管もその下へ隠れようとしている。手を握るのは小学校以来だ。認めるのはしゃくだけれど、やつの足はわたしよりずっと長い。その足を窮屈そうに湯船に広げている。その足の内側へわたしはぴったりと自分の足をくっつけた。やつはわたしの顔を見つめて、ゆるく笑んでいる。お風呂の湯気みたいな笑みだ。
「またいっぺん、こうしてみたかったんだよね」
「こうしてって、お風呂に?」
「お風呂でなくてもよかったんだけどさ。なんか、思い出さないかなあ」
 さらにゆるゆるとやつは笑む。そして、胸のポケットから小瓶を取り出して、コルクを抜いた。離れた手がちょっとさみしい。
「舐めるの、それ。なんか腐ってそうだよ。お腹壊すよ」
「あれれ。ムーンの味に興味はありませんか」
 ムーンドロップをひとさし指と親指でまるくつまんで、ウサンクサイことを言う。なのに、こいつが言うと妙に清潔感があるのは身内の欲目だろうか。
「どうして買っちゃったの」
「だって興味ないかな。ムーンの味と効能にさ」
「ないなあ」
「そこ、おれと違うよねえ」
「ウサンクサイって思わないの」
 わたしは膝を抱えた。
そう、こいつとわたしは違うのだ。同じひとに会って、同じことを言われても、違う化学反応が起こる。
「ひとってさあ、だまされたいものにだまされればいいと思うのねえ、おれ」
「わたしはいやだ。そもそも、だまされたくない」
「必死で目を凝らしてるのに、うまく生きられないタイプだよねえ、おまえさんはさ」
 しみじみとつぶやかれてしまった。けれどもわたしには、なんでもあっさり信じて受けいれてしまうこいつのほうが、生きてゆくには注意力が足りない気がする。心配になる。だから、遠くになんて行かないでほしい。わたしの短い足でも歩いて届く範囲にいてほしい。できれば、この浴槽の中くらいの近くにいてほしい。いつでも手を握っていてほしい。いつでも、ゆるゆるとした笑みを見せてほしい。ああ、そうか、これはきっと子宮の中の距離だ。ふたつの胎盤からホースみたいな臍帯が脈打って、羊水に浮かぶわたしとこいつをからませていた。あたたかい肉の赤い海に、赤い宇宙に、永遠に似た時間の進化を一緒に遂げたのだった。それは記憶にはない懐かしい記憶だ。
「ねえ」
「なに」
「行かないでよう」
 わたしは泡に沈みそうになりながら、お願いしてみた。
 ずっと言いたかった。ひきとめたかった。旅立つ準備を着々と整えるこいつには、みじめったらしくて言えなかったけれど。ずっとずっと一緒にいてほしい。
「それは無理だよう」
 あっさり、やつは答える。ずばりと、からりと、あっけらかんと。
 泣きそうだ、わたし。
「ひどい。いじめだ」
「ねえ、舐めてみる?」
 やつがムーンドロップをわたしの鼻先に近づけた。わたしは顔を横に振る。ムーンドロップの奥で、黒飴みたいなあいつの目がきらんと光る。わたしはその目が好きだ。つまんで舐めたくなる。
「じゃあ、いただきます」
 顔を天井に向けて、やつはムーンドロップを舌先で受けとめた。
 キツネみたいなあいつの細いほっぺたが、むぐむぐと動く。
 わたしはやつを見つめて尋ねる。
「どんな味なの」
「あれ、知らないの?」
「知るわけないよう」
「ふうん、秘密だよう」
 もったいぶって鼻を上へちょっとそらせて、
「もちろん、効能もね」
 いつものニックリ笑顔で言ったのだった。
 

「ほら、起きなさい。ほら」
 激しく肩をゆさぶられて、わたしは目を開けた。土色の顔をしたお母さんがわたしを覗きこんでいて、その向こうに水滴のついた天井が見えた。小窓が開けられて、換気扇の回る音がしている。降りそそぐシャワーがほてった熱いからだを急速に冷却していた。浴槽のお湯は全部抜かれて、ところどころに泡が残っている。それもシャワーでどんどん流されている。わたしは浴槽のふちに首を預けて、仰向けに伸びていた。
「お母さん、どうしたの」
「どうしたのじゃないでしょ。あんた、湯当たりしたんだわよう。何時間入ってたのよ」
 どうやらのぼせて気を失ってしまったらしい。お母さんが仕事から帰ってくるまで入っていたのなら、たしかにずいぶん長湯をしたものだ。けれど、あいつはいつお湯から出たのだろう。わたしを残して。うらめしい。
「ひどいなあ。お母さん、あいつはどこに行ったの」
「あいつって?」
「だから、わたしがあいつって言ったらひとりしかいないじゃない。あ、もうシャワーいらない」
 お母さんはぽかんとして、シャワーをわたしに浴びせつづけた。まるで空間に洞を見つけてしまったように、ぽかんとしている。そして、なにを血迷ったのか知らないが、いきなりシャワーヘッドをわたしの仰向けた顔の真上に持ってきた。とっさに目をつむったが、鼻穴に水が流れこみ、細胞をぷちぷちと浸透圧ではじけさせた。なけなしの腹筋を動員してからだを起こし、お母さんに抗議する。実の母に息の根を止められるなんて恐ろしいことこの上ない。
「娘をどうしようっていうの、お母さん」
「正気に戻そうと思ったのよ」
 お母さんの口調とまなざしは怖いくらいに真剣そのものだ。
「いたって正気だよ」
「まだ戻らないの」
 お母さんはわたしの頭を腕に抱えて、シャワーを浴びせた。お母さんの痩せた胸にも冷たい水が浸みてゆく。お母さんの心臓が、乱暴に波打っている。わたしの耳に直接鼓動が響く。お母さんに抱きかかえられるなんて久しぶりだ。最後に抱きしめられたのは、いつだったろう。それほど昔でもないような、ひどく昔のような。その時もお母さんの胸は内側から激しくノックされていた。あんまり速く動くと、心臓が汗をかいてしまうと、きっと心配した。
「もう、いないでしょ」
 それだけ聞き取りにくい声で言うお母さんの、わたしを抱く腕にちからがこもる。
 お母さんの言葉の意味が理解できない。
 まだ戻らないの。もう、いないでしょ。
 泣いてしまいそうなお母さんの声。これ以上、お母さんに喋らせてはいけないのだということは、長年の娘の勘でわかる。わたしはお母さんの背中をとんとんと叩いた。
「お母さん、もう大丈夫だから。出るよ。お母さんもぬれたんじゃないの。風邪ひいちゃうよう」
「ああ、そうね」
 ようやく、お母さんの腕がゆるむ。
 わたしは立ちあがって脱衣所へ歩いた。バスタオルで冷たいしずくを拭い、タオルを巻いただけの格好でリビングへ出た。
「あんた、風邪ひくわよう」
 いつものお母さんの声が追っかけてくる。わたしはちょっと笑う。笑ってテーブルの上に置いていたミネラルウォータを飲む。その時、視界の端に長方形の木製の戸棚が映った。小さなチョコレート色の戸棚だ。その扉は両開きで、中にはままごとのおもちゃみたいな白いお茶碗と、一箇所欠けた黒いマグと、ポテトチップスのコンソメ味、そして四角い縁の写真立てが置かれていた。
 わたしはその写真の前に立った。
 わたしはその仏壇の前に立った。
 そう、仏壇だ。仏壇の中の写真立てにおさまっているのは、あいつだった。
 どうしてだろう。
 わからない。
 どうして、こんなものが置いてあるのだろう。
 わからない。
 さっきまで、手をつないでいた。
 目の前でゆるゆると笑んでいた。
 あいつとお母さんの仕組んだ冗談だろうか。
「ああ、あんたはそんな格好でもう。もう夏じゃないんだからね。風邪ひいたって同情しないわよう」
 そう言いながらお風呂場から出て来たお母さんは、わたしの肩にもう一枚大きなタオルをかぶせてキッチンへ向かおうとした。でも、キッチンへは行かなかった。わたしがつぶやいたからだ。
「なんで、こんな写真があるの」
「なんでって」
 お母さんは、再び言葉をなくした。
 写真には覚えがある。写真の中のあいつはわたしの双子とは信じられないくらいにきれいな顔で笑っている。春に撮った写真だ。写真嫌いなあいつがめずらしく抵抗せずに撮らせてくれた。覚えている。お隣のうちの猫を抱いたあいつの図。すばらしく幸福な笑顔。
「どうしてこんなものがあるの」
 わたしは仏壇を指さした。
 最悪の冗談。黒すぎる冗談。冗談にならない冗談。
 お母さんの顔色がフィルタをかけたみたいに白く変わった。ごっそり表情が抜け落ちた。お母さんはくちもとをわななかせた。その後、目やくちを鼻に寄せてうつむいた。両手をぎゅっと握っている。緑色の血管が浮いている。
「しっかりしてよう、あんた」
 お母さんはわたしに答えてはくれなかった。
 わたしは人形にでもなった気持ちで、お母さんを見た。仏壇を見た。仏壇の中のあいつを見た。
 急に、寒気が背筋を這いのぼった。
 寒い。
 お母さんはシャツの上に厚手のパーカを着ている。カレンダのページは黄色と赤茶色の季節だ。リビングの端にはオイルヒータが置かれている。わたしの髪は、肩を越えて伸びている。
 もう夏ではない。
 じゃあ、今日のあの祭りはなんだったのだろう。
 金魚の尾に似た提燈が並び、キツネやサルやタヌキのお面がうつろっていった。
 夏祭り。
 わたしはあいつと待ち合わせをしていた。
 待ち合わせを。
 あいつは来なかった。
 どうして来なかったのだろう。
 記憶をたどる。
 今は、夏を過ぎている。
 キッチンの戸口でニックリ笑って片手を振ったあいつ。
 わたしが覚えているあいつの笑顔。
 その後、その後は。
 さっき。
 さっきのお風呂場。
 いや、違う。
 記憶をたどる途中で糸が玉になって絡まっているのがわかる。
 わたしはなにかを見失っている。
 片手を振ったあいつ。
 その先が、思い出せない。
「もう、いなくなっちゃったでしょう。どうして急に、わからなくなるのよう」
 お母さんが声をしぼった。無理やりに喉をふるわせたような声だった。
「一緒にお別れしたじゃないよう」
「いつ」
「あんた、本当に忘れたの。お祭りに行く途中で、トラックに」
 お母さんはそれ以上言葉をつなげられなかった。ぎゅぎゅうっと更にこぶしを硬くしている。
 わたしは仏壇を見る。
 あいつが笑っている。
 壊れた腕時計が写真立ての前に置かれている。それはわたしがプレゼントしたものだ。
「トラックに」
 わたしは記憶をたどる。
 絡まっていた糸がほどけてゆくのがわかる。
 神社の前、電柱を背もたれにして、青く暮れてゆく空を眺めた。
 浴衣の群れが行き来する中、わたしはひとりきり。
 一時間二十分待って、神社へは入らずにアパートへ帰った。
 仕事から帰ったお母さんにあいつの悪口を言って聞かせた。
 すると、けたたましく電話が鳴った。

 原付バイクで。
 信号無視の大型トラックに衝突。
 空を飛んで、別の乗用車に。

 病院から連絡が来たのは、吹っ飛んだ免許証が発見された後だった。病院へわたしとお母さんが着いた時には、なにもかもが手遅れだった。顔を見たって、だれだかわからなかった。グリーンのチェック柄をしたシャツは赤黒く汚れて。腕時計は割れて壊れた。あいつがバイトのお金を貯めて買ったお気に入りのスニーカーはどこかへ飛んでしまった。病院のひんやりした地下。葬儀屋を手配しろって言われたって、わからなくって。現実に思えなくて。泣いて崩れるわたし達のかわりに、祖父母が全部をしきってくれた。あの夜、わたしはお母さんの胸に抱かれて、わたしもお母さんの背中を抱いて、ふたりでどうしようもなくて。ただただ泣いていた。
 だって、あいつはずっとわたしとお母さんの恋人だったのだもの。

 まっすぐ伸びた記憶の先で、あいつが笑った。
 
 どうして忘れたのだろう。これほどわたし達の中心を占めていることを。
 それでも今日さっき、ついさっきまで、あいつは確かに。
「いたの」
 わたしはつぶやいた。
「いたのよ、さっきまで。あいつ」
「しっかりしてよう、あんた」
 お母さんはもう泣いている。
 お母さんはきっとわたしの頭の具合がおかしくなったと思っている。
 でもそうじゃない。
 あいつは絶対に。
「さっきまで、いたの。絶対にいたの」
 わたしは叫んだ。お母さんの脇を通り、脱衣所へ戻った。お風呂場を見れば、換気されて湯気のひとつも残っていない。あいつの気配も消えている。わたしは脱ぎ捨てた服を着、水のしたたる髪をゴムで束ねながらリビングを抜けて玄関でサンダルを履いた。絶対にあいつはいた。ついさっきまで。わたしの手を握っていた。あたたかい手にはしっかり肉の感触があった。生きている手だった。絶対にいたのだ。
 玄関のドアを開けた。アパートの廊下、蛍光灯の下にはだれもいない。鉄の階段を下る。階段の下、ガスボンベと郵便受けの間の暗がりにはだれもいない。電柱が並ぶ、見通しのいい路地にはだれもいない。走る。サンダルが脱げ落ちる。暗い夜に灯台みたいなコンビニの灯り、駐車場にはだれもいない。走る。どこかにいる。絶対いる。あたたかい手で、ムーンドロップをつまんで、舌先に転がした。あの赤い舌が夢なんて嘘だ。   
 ムーンドロップ。
 わたしは神社へ向かって走った。浴衣を着たひととすれ違うことはない。道は静かで、虫の声も聞こえない。絶対にいた。いてほしい。月がするどく冴えている。波のない黒い宇宙に月がたったひとつ、世界を照らしている。わたしの走る足音と、焼けた呼吸の乱れる音は、夜に吸われて消えてゆく。生きていた。生きていて。木に守られた神社に、祭りの名残はなかった。提燈も、屋台も、太鼓の舞台もない。祭りの気配は吐息ほどもない。石畳に落ち葉が舞う。境内を囲む木々はちらちら吹く風に頼りなく葉をゆらしている。そうだ、もう冬が近づいているのだ。片方はだしの足に石の感触が刺さり、髪から落ちるしずくが肩を冷やしていった。絶対いたはずなのに。
 探すべきものを見失い、わたしはお宮の前にしゃがみこんだ。
 乱れた呼吸がすっかり整い、走ったからだのほてりが失せた頃、目の前の石畳の色がふっと変わった。ほおずきの色に染まった。顔をあげると、ランタンを左手にトランクを右手に、ウサンクサイあのひとが立っていた。やはり魚眼レンズのおもちゃメガネは鼻の頭までずり落ちている。片方金色の目は笑っていない。今は小さなくちも笑っていない。顔の描かれていないお面みたいな表情だった。ウサンクサイそのひとは、砂色のコートの前をぴったり合わせて、わたしの前で止まっている。そう、このひとはずっと冬の装いだったのだ。
 わたしは尋ねた。このひとなら証明できるはずだ。あいつはこのウサンクサイひとからムーンドロップを買ったはずなのだから。
「わたしによく似た顔の男の子が、飴を買っていきませんでしたか。よく似ているけれど、わたしよりすてきな笑顔をするんです」
「飴」
 ウサンクサイそのひとは、こてっと首を傾げた。
「飴は用意しておりませんねえ」
「嘘よ、あるでしょう。しつこく勧めてきたじゃないの」
「ああ、あれはただの飴じゃあないのです。ムーン、」
 そこで男とも女ともわからないそのひとは、くちをすぼめて空気を無駄に吸った。つられて、わたしもくちをすぼめた。 そして、
「ドロップ」
 ロウソクの火を消すようなささやき声がふたりそろってしまった。
 ウサンクサイそのひとは、目もくちもニンマリまるめて、満足そうな笑顔を浮かべた。目が笑ったのは初めてだった。すると、ただの肉のかたまりだった頬が、ふっくらした白いパンのようにやわらかく変化した。半分ずり落ちたメガネはウサンクササの種ではなくてわたしの荒れた胸の表面をなでつける装置になり、コートの下に隠れているはずのたっぷりとした脂肪は得がたい幸福にすら思えた。ランタンの灯りによく似たほの明るい気配がわたし達の周囲に満ちた。わたしの望む言葉がこぼれ落ちる予感がした。けれどもそのひとの返答はわたしを失望させた。
「あなたによく似た男の子のかたには、お売りしておりません」
「それは本当に?」
「真実です」
「そんな」
 もっと食い下がって問いただしたい気持ちと、もう確認したくない気持ちがお互いを押し合っていた。顔もわからない姿になってうちに帰ったあいつが、本当は地球のどこかで生きている。そんな淡い夢をわたしは抱いていたのだ。そんなはずはないのだと打ち消す冷静と、麻薬に似た夢を望む願いとが、わたしの心臓にはぎゅうぎゅうに詰まっていて、心臓のポンプの加減で全身にどちらかの血液が回る。両方混ざって回ることもある。ポンプの加減が傾いて、記憶をこまかく分解して抽出して、質感まで再現する夢を見たのかもしれない。あいつはやはりいないのだろうか。どれだけたくさんのひとが生きているかわからないこの地球に、あいつを探すことはできない。そう考えると、ひたひたと黒い波に浸食されてしまいそうだった。わたしは二度とあいつに会うことはない。
 黒い波がわたしのくちも目もおおってしまいそうになった時、そのひとが言った。
「ムーンドロップは真実、あなたにお売りしました」
 やたら丁寧に発声した。そうしないと、わたしの耳からこぼれ落ちると危惧したのかもしれない。たしかにわたしの耳は機能を放棄したがっていたから適切だった。けれども、不意をつかれてひどく驚いた。無意味な冷やかしだと、背を向けて帰ったはずなのだから。
「わたしが買ったの?」
「ええ。いかがでしたか、ムーンドロップの味は」
「覚えてない。本当に買ったの?」
「真実です」
 そのひとは大きな顔を正面に傾けてゆっくりうなずいた。重々しくうなずいた顔がもとの位置に戻った時、金色の片目がランタンの灯りをはじいて光った。まばゆい満月のように。
月は月だ。ごつごつした石のかたまりだ。うさぎなんかいないし、かにもいない。月に神様なんているはずがない。月に願っても、こころが冷えるだけ。まばゆい光に涙がにじむだけ。夜空の孤独を思い知るだけ。けれど、金色の光は満月に似ているくせに、ちっともさみしくない。焚き火の黄金から生まれたみたいにあたたかな色をしていた。わたしはその色を知っている。思い出した。その色に、サミシイ虫は触角を伸ばしたのだ。


 神社の前を通るのは、アパートへ帰るいつもの道だった。今日の夕方も学校からうちへ帰る途中だった。すると、夏にあいつを待っていた電柱に、キツネのお面をつけた浴衣姿の子供が立っていた。風が枯葉を運んできて、その浴衣姿がひどく寒そうに見えた。どうしてそんな薄着でいるのだろう、と足を止めた。そうしたら、お面の子供は親しげに話しかけてきたのだ。
「こんばんは」
「こんばんは。どうしてそんな格好でいるの」
「だって、お祭りだから」
「この時期に、お祭りなんてあったっけ」
「あるよ。ほら、みんな来てる」
 子供はわたしの後ろを指さした。振り返ってみると、確かにぞくぞくと様々なお面をつけた浴衣姿のひと達が神社へ向かって歩いてくるところだった。
「ほら、お囃子も」
 子供が片耳に手を当てると、確かににぎやかな笛や太鼓の音が聞こえてきた。
 ふと神社の方へ目を戻すと、金魚の尾がゆらめくような提燈がつらなって灯っていた。
「おねえさんは、だれか待ってるんじゃないの」
 子供が言った。キツネの顔をななめに傾けている。そう言われると、確かに待っている気がした。そう、あいつを待っているのだと思った。
「そうね、でも、来ないの」
 わたしはそう子供へ返していた。
 子供は浴衣の裾を気にして直した。
「恋人にすっぽかされたみたいな顔してるね」
「そんなんじゃないわよう」
「ふうん。つまらないね。ずっとここで待ってるの」
「だって、待ってないといけないでしょう」
「そんな薄情なひとは待たないで、中を見て回ったらいいのに」
「だめよう、そんなの」
 すると、子供は浴衣の袖を風のようにひらめかせて、わたしに背を向けた。
「つまらないの。ぼくは、先に行くね」
「きみもだれか待ってたんじゃないの」
「いいんだよう。また会えるから」
 その声の調子は、ひどく懐かしいだれかに似ていた。
 走りゆく小さな背中を、わたしは昔にも見たような気がした。
 子供がいなくなって、わたしはひとりで電信柱の前に残った。それからしばらくサルやタヌキのひと達が通り過ぎるのを眺めていた。けれど、いくら待ってもあいつは来ない。だんだん、そのまま待っているのも従順すぎるように思えて、キツネの子供の言った通りに、中を見て回ろうという気持ちになった。
赤い光が暗い夜を溶かすお祭りをゆらゆらと歩いて、やがて神社の暗がりにぽつりと灯る小さなランタンを見つけた。ウサンクサイあのひとのトランクの前には、電柱に立っていたキツネの子供もしゃがんでいた。細い首をのばしてトランクを覗く姿は健気でかわいらしかった。わたしはトランクの中身の一番安いものだとしても買うつもりはなかった。だからウサンクサイあのひとがわたしに絡み始めた時、引きあげる頃合だと思ったのだった。これっぽっちの未練もなく。けれど、そうだ。
「ムーンドロップを舐めれば、会いたいひとに一度きり会えるのですよ」
 背を向けて祭りの雑踏に戻ろうとしたわたしに、そのひとはムーンドロップの効能を謳った。
 その瞬間、あいつには二度と会えないのだという現実を思い出した。会いたいひとに会える。それはどうしようもなく魅力的な効能だった。たとえ嘘だとしても。鼻の奥で涙がうずくくらいに、魅力的な嘘だった。
抗いがたい誘惑に振り返ると、ランタンに照らされて金色の目があたたかく光っていた。その色が、わたしの中の荒波のようなサミシサを一気に吸い寄せた。
そもそも、だまされるのはいやだ。
 けれども。
 夢を見たい血液が全身を回ってしまったのだ。
 わたしはムーンドロップを買い、小さなまるい玉を舌の上に転がした。
 ムーンドロップをくちに含んだ時の脈打つ心臓の熱さが、まざまざと今蘇った。
 

 あいつはゆるゆると笑んで、わたしの手を握り、子宮の中に戻ってみたいと同じ願いをぽろりとこぼした。手のぬくもりを、窮屈に折り曲げた足の感触を、お風呂場に響く声を、わたしのからだは覚えている。夢なのだろうか、現実なのだろうか。あいつが、わたしに会いに来てくれたのだろうか。
 わたしはやさしく光る月色の目に尋ねた。
「ムーンドロップは、おかしな薬なの? それとも、本物なの?」
「ムーンドロップはムーンドロップ。世界でひとつのお品物です」
 答えると、そのひとはわたしの脇を通って歩いてゆく。まるまるとはちきれそうな背中にわたしは呼びかけた。
「ねえ、もうひとつほしいの。ムーンドロップ」
 そのひとは顔だけちょっと振り向いて、メガネの位置を指で直した。
「残念ですが、あれは世界にひとつきり、今宵のためだけのご用意です」
 それは嘘だった。このひとが用意したのではない。キツネのお面をした子供がトランクに落としていったのだ。わたしはあの子供の行方が知りたい。なにか、このひとに手がかりを残していないかを知りたい。
「ねえ、知ってるの。あのキツネの子がトランクに入れていったんでしょう。あの子がどこの子か知らないの?」
 わたしは食い下がった。
 けれど、そのひとはただじっとわたしを見つめるばかりだった。なにも言わずに。まるで駄々をこねる子供を見やるおとなの目だった。また嘘を考えているのかもしれなかった。よく回る舌は、お伽話のような嘘をたやすく紡ぎだす。鳥のような目を、そのひとは細めた。
「帰るべき場所へ帰ったのでしょうね」
「なにも知らないの?」
「あなたは知らないのですか」
 逆に問われた。
 わたしがあの子供をよく知るはずはなかった。たった数分の出来事だったのだ。交わした言葉はごくわずか。世間話にもなりはしない。
「知らない」
「本当に」
「知らない、と思う」
 繰り返されると、自信がなくなる。もしかしたら、近所の子供だったのだろうか。お面をしているから気づかなかっただけで。ひっかかるところもあるのだ。わたしに背を向けて走ってゆく姿や、潔く行動を決める言葉。お面に開いたふたつの穴に覗く黒飴のような目。どこかの。だれかと。似ている。
 そのひとはコートの内側からキツネのお面を取り出して、わたしの顔の前へとかざした。ふたつ開いた穴から、そのひとがほほをまるめて笑ったのが見えた。
「なるほど。こうして見ると、黒い飴玉のような目がうりふたつでございます」
 黒い目をしていたのはキツネの子供だ。ひとなつこくわたしを見つめて手を振った。健気な細い首筋をしていた。ひどく懐かしい語尾の伸ばしかただった。空を抜ける風のようにわたしへ背を向けて走っていった。
 それはすべて、まるであいつのように。
 そう、まるであいつのように。
 ウサンクサかったそのひとの言葉は、わたしの中に生まれた小さな芽を一気に伸ばしてつぼみをつくらせ、そして花を開かせた。わたしは急いて尋ねた。心臓が胸もお腹も激しく叩いて鼓動している。
「あいつは、わたしに会いに来てくれたの?」
「さあ」
 いつだって先に進んでゆくあいつに未練なんてないと思っていた。
 会いたいと願うのはわたしだけなのだと思っていた。
 あいつはもう月よりも遠いどこかへ飛んでいったのだと思っていた。軽々と。
 それでも。
 あいつにも、わたしを振り返るくらいの、心残りはあったのだろうか。会いに行ってやろうかと、暗い地面を振り返るくらいの。
 会いたい、会いにきて、会いにいきたい。
 もう一度、手を握りたい。
 もう一度、一緒に子宮で眠りたい。
 そう願うくらいの、心残りはあったのだろうか。
 できることなら、あいつの胸倉をつかんで確かめたい。
「ねえ、もう本当にムーンドロップはないの?」
「残念ながらございません。ですが、月は空にだいたいいつでもありますゆえ、たまに舐めてみてはいかがでしょう。舐めて眠れば、なにか効能があるかもしれませんよ」
 ランタンを持った手の指をすっと立てて、上を示す。その先、暗く茂る木の上に金色の月がかがやいている。太陽の光を反射している。世界は真っ暗な闇に落ちない。絶望的なくらいに、情け容赦なく、月が光を与えている。サミシイ虫よ、寄って来るのだと。光を求めるのだと。こころを闇の海に浸すなと。冷たいくらいに、望みを与えようと光る。いつ会えるのと問いかけ、いつか会えますようにと願う。いつか、いつか。いつか。願いを望みを祈りを。こころの切っ先を向けろと。満月が引力を放っている。
「あいつ、会いにきてくれたんだよね。わたし、会えたんだよね」
 月に向かってつぶやいたわたしの声を、男か女かわからないそのひとが拾ってくれた。
「それは効能通りに。あなたは実に的確に品定めをなさるお客様でした。ただ、」
「ただ?」
「味の感想をいただけなかったのは、残念でございます」
 そのひとが直したメガネは、正しい位置に数十秒しか留まれなかった。つるりと半分落ちる瞬間を目撃してしまい、鼻の奥とのどちんこの間で小さな笑いが発生した。やっぱりウサンクサイ。わたしが笑うとそのひとの肩がぴくりとふるえたので、いくらかばつが悪かった。なので、軽く咳払いをして笑いを追い出し、謝罪をこめて言った。ムーンドロップの味なんて、実際のところ、覚えていないのだけれども。
「そうね、しょっぱいだけじゃなかった気がする」
「そうですか、それはなによりでした。では、お暇いたします」
「次はどこに行くの」
「さあ、気の向くまま足の向くまま」
 コートの襟をウサンクサク立てて、そのひとは今度こそ振り向かずに歩いて行った。
 境内にひとりきりになってから、ジーンズのポケットにガラスの小瓶が入っていることに気づいた。コルクは外れている。ムーンドロップ。からの小瓶をかざしてみると、まるまるとふくらんだ月がガラスの向こうに透けていた。

『ムーン、ドロップ。』

『ムーン、ドロップ。』 かくら 作

「さあさ、ご覧さいませ。お客様、あなたはお目が高い。実に高い。それは大変めずらしい。大変貴重なムーンドロップ」 双子の兄妹とムーンドロップをめぐるお話です。

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更新日
登録日 2011-08-24
Copyrighted

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