サマータイムブルースが聴こえる

サマータイムブルースが聴こえる

ごく平凡な会社で、ごく平凡なサラリーマンをやってた僕は、ふとしたはずみで上司と諍いになり、会社を飛び出してしまう。
昨日までの日々が一転した後、待っていた生活は?
幸福な生き方は、どこに有るのだろう?
いろんな人との関わりの中で、成長していく主人公。

あちらこちらでトラブルを起こしたり、偶然の出会いが有ったりしながら、自分の居場所を見つけて行く男の子の話です。
周囲の人達の暖かい対応で成長していく彼を応援してやってください。

第一章・跳ね返りBOY

「失礼します。」
 そう声をかけて踏み込んだ会議室には、熱気がこもっていた。部長、課長、グループリーダー、主任技師、諸々の役職のお偉いさんが二十名程、暑苦しそうな表情を浮かべて、僕の方に一斉に視線を向ける。
「彼が岡野君です。うちの課で彼を出すのは痛手なんですが。」
と僕の課の梅田課長が言いながら、部屋の隅の空いた椅子を指し、僕に座るように手振りをする。
 僕は、何故ここに呼ばれたのかも解からず、ただ会議室の隅の椅子で、これからの状況の展開を、不安に見守っている。品証の課長と部長が、品定めをするような視線で僕をじろじろと眺め回し、お互いの顔を見合わせる。
 毎週水曜日の朝には、会社のお偉いさんが集まって社内会議を開いていることは知っていたが、まさかその場に僕が呼び出されるとは、十分前まで思っても居なかった。
 いつものように朝の体操を済ませ、現場の朝礼前に機械の電源を入れ、暖機をしたまま朝礼を済ませ、さて仕事に取り掛かろうという時に、いきなり内線電話で会議室に来るように言われたのだ。隣の機械についていたリーダーも、僕がそれを伝えて機械を離れると、驚いた顔をした。
「お前、そんなところに呼ばれるなんて、いったい何をやらかしたんだ?」
そう訊かれても身に覚えは無い。

 僕の上司にあたる製造部長が僕に向かって猫なで声を出す。
「岡野君。実は品質保証部で人手が足りなくてね。製造部から優秀な人間をもらえないかという話になったんだよ。」
 僕は内心でしまったと思った。改善活動で表彰状をもらったりして、最近ちょっと目立ちすぎたんだ。こんなことになるんなら、程々にしていれば良かったんだ。

 僕の勤務する会社は、大手電機メーカーの下請けの部品工場。打ち抜きプレスで金属部品を作っている。従業員は百二十名くらい。部が四つ有って、製造部、品質保証部、生産管理部、企画改善部となっている。おかしなことに製品を作っているのは製造部なのだが、そこには全社員の半数の六十名程しか居ない。残りの半数がほぼ均等に三つの部に分れている。それぞれの部はさらにいくつかの課に分れ、いろいろな仕事をしている。
 僕は入社四年目の現場作業員だ。製造部で、自分の担当の機械で製品を作ることしか知らない。だが、先輩たちの話を聞いたり様子をうかがったりして、会社の内情が次第に解かってくると、どうもいい加減な会社らしいという感じがしてきている。
 基本的には、物を作って親会社に納めその代金を貰う会社だから、製品を作る事が一番大事だと思うのだが、それ以外の部門がそれぞれに自己主張をしているのだ。僕から見ると、何の役に立つのだろうと、疑問に思うような事が多い。
 品質保証部、通称〈品証〉は製品の出来上がりの管理をしている。抜き取りで完成品の寸法なんかを測って、保証書を発行したり、データを出したりする。
不良品の発生率なんかも管理して、誰が不良品を何%作ったかなんていうデータも出している。
 生産管理部は〈生管〉と略される。製品の納期や優先の順番なんかの指示を出したり、進行表を出したりする。どれを先にやって、いつまでの期限で何個を仕上げるか、生産ラインの司令塔の役目だ。
 そして企画改善部は〈カイゼン〉と呼ばれ、材料の節約やら、装置の能力の管理やら、いろいろなことを企画する部門だ。小集団活動とか言う事も、ここが先頭になってやらせている。
 三権分立と言えば聞こえは良いが、それぞれの部が生産部隊に向かって、勝手な指令を出している。製造現場の先輩が言うと、体がひとつで頭がみっつのキングギドラのようなものだ、という話になる。
 その上それぞれの部に、部長や課長やお偉い人がゴロゴロしているのだ。
 現場にいろいろな指示書や進行表が来ることがあるが、そういう書類にはたくさんの判が押してある。口の悪い先輩に言わせると、部長や課長はこのハンコを押すためだけに、会社に居るという。実際にその人達がなにかをやっているのを見たことは無いが、廻って来た書類にケチを付ける事と、ハンコを押すこと以外には、何をしているのだろ、と思う事がある。
 その先輩に言わせると、製品を作って百円で売れたら、その中の十円が材料費で、製造部に十円、機械や電気に十円、残りの七十円はいろいろな部の部長や課長以下の給料になっているって言う。まあ本当はそんなに極端な事は無いのだろうけれど、この会議室に揃ったメンバーだけで、全社員の給料の半分以上は持っていってしまいそうな気はする。

 別に、僕にしてみれば、製造の現場仕事から品証に引き抜かれようが、いっこうに構わない。それどころか現場の平社員から考えれば、出世だろう。でも僕はどうも、こういう他所の部の仕事がうさんくさく感じられたのだ。
 先月からカイゼンが小集団活動というやつを始めた。各職場で五人ずつ位のチームを作って、自分達のやっている仕事の無駄な部分をピックアップしろと言う話だった。その話に結構まともに取り組んで、たくさん改善する点を拾い上げたのだ。その活動の纏めで、僕のグループは会社内でトップになった。そして社長から改善賞という小さな表彰状をもらったのだ。あの時に、僕の名前も覚えられたのだろう。
 たしかに生産現場での無駄な部分は、数え上げればたくさん有る。でも一番無駄なのは、そういう指示を出して、上がってきたデータを並べて、何か自分でやったような気になっている連中の存在なんだと思う。現場に居て、製品を作っていれば、そういう実感はある。納期が迫っているのに、装置を停めて掃除をしろとか、出来たもの全部の寸法を測れとか、何の為になるんだか解らないことばかりやらせる。
 カイゼンは何とか安く製品を作るために、いろいろなことをしている。この間も、景気が悪くなって受注が減ったからといって、何年も現場に居た派遣作業者を3人辞めさせた。その分は他の作業者が、装置を掛け持ちで動かしている。間に合わないところは、残業してカバーしている。確かに計算では、月に三千個作るには一日に百個出来れば良いだろうけど、そうは行かない。風邪ひいて急に休むやつも居る。機械が壊れる事も有る。計算どおりにいかない事は良くあるのだ。そのカバーは製造部の残業なんかの負担が増えるのだから、人を減らされるのは現場にしてみれば痛手だった。
 生管が出す予定表は、お客が要求する納期に合わせて日程の線を引いてくる。それが出来るのか出来ないのかはお構いなしだ。製造部から無理だとクレームを出して初めて、ちょこちょこと優先順位を手直しするだけだ。口の悪い連中に「生管」じゃなくて「静観」だからなどと言われている。
 製造現場の人間は、そうやって他の部署の悪口を言って、憂さを晴らしたり、内部でまとまったりしているところもある。だから、僕が引き抜かれて品証に行って、その穴埋めで今までの仲間が余計に苦労することを考えると、気分は良くなかった。
「でも、僕は品証の仕事なんて、ぜんぜん解からないですよ。」
「それは良いんだ。最初はデータを取って、纏める仕事から始めて、徐々に憶えていけば。今までやっていた赤沢くんが指導してくれるよ。」
「赤沢さんはどうするんですか。」
「赤沢くんは今度主任技師に昇格するんだよ。だから今までやっていた仕事は君にやってもらって、もっと上の仕事になるんだ。」
つまり、書類を眺めてハンコを捺す仕事っていうことだ。
「それで、僕の今までやっていた仕事はどうなるんです?」
「それは、現場の皆で分担してやりくりしてもらうんだよ。」
「でも、今でも現場では機械の掛け持ちで、大変ですよ。」
「まあまあ。現状の生産量だと、もう三人くらいは減らせる計算なんだよ。」
なるほど、こうやって椅子にふんぞり返る人が増えて、現場だけが慌ただしくなるんだ。
「そんな計算したやつを現場に入れれば、もっと生産量が増えますよ。」
と、思わず口から出そうになる。
 この会議室の中で、現場の担当は部長と課長の二人だけだ。そんな批判的な事を言い出したら、まずいことぐらいは解かっている。
 僕は猫の子が貰われて行くように、自分の意志に関係なく品証の課長に連れられて、品証部に移ったのだった。
 お花見シーズンも一段落した葉桜の頃だった。



 部屋に帰ると、ヒロが勝手にビールを飲んでいた。
「なんだ、来てたのか。」
「お帰り、ユウキ。どう、仕事は?」
「ダメ!なんであんなつまんないことを、細々とこだわるんだろうね。」
「そうとう苦戦してるようね。まあビールでも飲みなよ。」
「飲みなよって、それは俺が昨日買ってきたヤツだろう。なに勝手に飲んでるんだよ。」
そんな話をしながら、ヒロは冷蔵庫からグラスとビールを出して注いでくれる。
 ヒロとはもう三年の付き合いになる。本名は浩子と言うのだが、その名前で呼ばれるのが気に入らないらしい。仲間内ではずっとヒロで通している。
 僕と知り合ったのは、市内の練習スタジオに「ヴォーカル募集」の張り紙をした時に、電話してきたのがきっかけだった。僕は、学生時代からのギター弾きで、軽音楽部でバンドを組んでいた。だけど、卒業や就職と同時にメンバーも変わり、ここで解散するか、建て直しを図るか、という状況だったのだ。幸いメンバーの中でドラムのトモヒコとギターの僕は地元に残った。ベースは一つ上の先輩がやってくれる事になった。あとはヴォーカルかキーボードが居れば、という事でメンバー募集をしたのだった。
 応募してきたのはヒロが三人目だった。最初に来た高校生の女の子は、カラオケの延長のつもりで居るようで、あれこれと歌ってみたい曲を言い出したけど、たいして上手くも無く、演奏の音に乗せられる声じゃなかった。夜遅くまで練習に付き合わせるわけにもいかないし、練習スタジオまでの足も自転車じゃ大変だ、ということでお断りした。
 もう一人は三十代の男で、いろんな音楽の知識はあるし、唄も上手い。だけど洋モノばっかりで、しかもブルースばかりやりたがるし、バンドをこうしたい、ああしたいと、自分の思う方向に変えたがるので、「僕らはあなたのバックバンドじゃない」という話になって、決裂した。
 そしてその後来たのがヒロだったのだ。曲調も声もバンドに合っていたし、雰囲気もすぐに溶け込んだ。ヒロが入ることでバンドも良くなったと、いつもやっているライヴハウスのマスターからもほめられた。
 そしてヒロが僕の部屋のカギを持つようになって、一年程になる。今では、月の半分位はこの部屋に泊っていっている。まあ、そんな関係だ。
「新しい仕事に移って、そろそろ三ヶ月くらいでしょう。まだダメなの?」
「うん。仕事自体は大丈夫なんだけどね。データをまとめたりするのに、いちいち煩いことを言われるんだ。」
「そんなに大変なんだ。」
「そう。たとえばさ、10センチの物を作るとするだろう。規格はプラスマイナス5ミリだ。普通なら9.5センチから10.5センチに入っていればOKだろう。」
「そんなの当たり前じゃない。どこがダメなの?」
「それがさ、1000個の中から10個測って、全部がその中に入っていても、データを並べて3シグマとか計算して、それが外れるとダメだって言うんだ。」
「規格に入っていてもダメなの。じゃあその製品はどうするの?作り直し?まさか捨てちゃうとか?」
「そんな事しないさ。その数字が規格に入ればいいんだから。もっと数を多く測って、数字が入ればOKにするのさ。」
「それで、毎日ダメ出しされてるのね。」
「まったく、毎日追試みたいなもんだよ。」
「それなら学生時代に慣れてるでしょう。」
「馬鹿言うなよ。こう見えても優秀な学生だったんだぞ。」
「そんな話、いままで一度も聞いた事なかったけどな。こんどトモに訊いてみよう。」
「ああ、トモヒコとユウキって言えば、首席を争ったライバルだからな。」
そこまで言って笑い出す。
 ヒロがそんな事を信じる訳が無い。就職活動の時期だけはまともな格好をしていたが、学生の頃には金髪で鎖をジャラジャラさせたメタルバンドをやっていた。今でも髪は長いし、ピアスもしてるし、会社でもよく文句を言われる。外見と中身が一致するわけじゃないけど、自分で見ても成績が優秀とは思えない外見だ。ヒロが歌う英語の歌詞でさえ、半分くらいしか理解してないのだ。今の会社に就職が決まったのも、卒業ギリギリだった。
「首席って、成績の悪い順なの?」
ヒロも思わず笑い出す。
「それより、腹減ったよ。晩飯どうする?」
「今日は、ここで食べよう。材料買ってきてあるから、作るよ。いつものメニューだけどね。」
「オーケイ。俺もいつものをやれば良いのかな?」
「うん。お願いね。」
 ヒロの好物で得意な料理は、から揚げ。でも付け合せの千切りキャベツを刻むのは、いつも僕の役目だ。前にやってるのを見ていたら、あんまりにも危なっかしいので、ちょっと代わってやったら、それ以来そういう分担になってしまった。今日もチキンとキャベツがお買い物袋の中に入っている。ヒロはてきぱきと、料理の仕度を始めた。
「やっぱりギター弾きね。キャベツを刻むのが、エイトビートのカッティングみたいよ。」
「あのね、普通は包丁でキャベツ刻むのは、こういうふうに出来るの。お前が不器用なんだよ。」
「そんな事無いわよ。私が普通なの。あなたは、ちょっとだけ私より上手なだけよ。から揚げの火の通るタイミングは、私の方が巧いでしょう。」
「そうだな。まあヴォーカルの、ここ一発のシャウトみたいなもんだな。」
「そう。お料理も音楽もリズム感とグルーヴだからね。」
ワンステージはひとつの料理みたいだ、って言うのが、このところのヒロの口癖。どんな名コックでも手抜きをすれば美味しい料理にはならない。その場限りだし、客相手だし、アドリヴもアンコールも有り、だそうだ。
 その割には、山盛りキャベツにマヨネーズとソースをかけて、頬張る姿は、どう見ても名コックという雰囲気ではない。
「おまえ、キャベツ好きだね。それじゃキャベツがメインでから揚げが付け合せみたいだよ。」
「うん。レタスは苦かったり当たり外れが有ったりするけど、キャベツは大抵甘いじゃない。パリパリした歯ごたえも良いし、大好きだよ。」
 こんなふうに馬鹿な話をしながら、ビール飲んで晩ご飯食べて、また明日になったら会社に出勤する。そんな日々がずっと続いていくような気がしていた。品証に異動して3ヶ月が過ぎようとしている頃だった。



「岡野くん。岡野くん。」
いつものバカ沢の声だ。ここ3ヶ月で僕は、自分の上司にあたる赤沢主任技師のことを、内心でバカ沢と呼ぶようになっていた。
 水曜日の社内会議が終ってすぐの事だった。僕は、昨日出したデータに、何か有ったのかとちょっと考えた。
「このデータなんだけどね。どうして抜き取り検査でこんなにたくさんデータが並んでるの?」
「それは規定のサンプル数だとシグマで規格外れになるんで、追加測定したんですよ。」
「君が測定するといつも追加になるね。どういうやり方をしてるの?」
「赤沢さんに教わったとおりにやってますよ。」
「僕がやってた頃は、こんなに追加はなかったけどね。」
「でも、データが外れたら追加測定しろって言ったのは、赤沢さんですよ。」
 いつもながら、こんな感じでくどくどと文句を言う。本当は解かってるんだ。データをきれいに見せる為に、粒を揃えていた事は。
「だって、この間から規格幅が厳しくなってるでしょう。作る装置は変わってないのに、精度が上がるはずないじゃないですか。」
「まあ、そこは巧くやらなきゃね。」
「だったら、最初から規格幅を変えないとか、測定機を変えるとか、きちんと方針を出してくださいよ。」
「まあまあ。規格幅はお客の要求だし、測定機を買い換える予算は無いだろう。」
「そこをはっきり話し合ってくるのが、技師の仕事じゃないんですか。打ち合わせ会議が有ったんでしょう。」
「うーん。まっ、このデータはこれで良いだろう。」
話の風向きが自分に不利になると、話をごまかして打ち切ってしまうのは、いつもの手だ。
 ほんとうにいつもながら、自転車乗りみたいな性格してる。上には頭をぺこぺこさげて、なんでもはいはいと受けてしまって、下はぐいぐい踏みつけるんだ。私生活も似たようなものなんだろうな、と想像してしまう。どこかの大学の大学院まで出て、この会社に入って、出世コースなんだろうけど、どうも周りに好かれていない。三十代独身。オタクっていう部類に入るのかも知れない。アニメやら漫画やらパソコン関係には詳しそうだ。もしかしたら、まだ童貞かもしれない。ヒロにそんな話をしたら「気味悪い」って一言言っただけだった。
会社でも、朝から晩までパソコンに向かって、データの整理してグラフ描いて、きれいに色を使ったりアニメーションを入れたりして会議の資料を作っている。そんな事して水曜日の首脳会議に持っていっても、誰も感心してくれないのに、自己満足だって解かってない。
口癖は「忙しい。」って言うのだけど、どう考えても自分の趣味でやってるような事で、給料を貰ってるようにしか見えない。夜遅くまで残業して、パソコンでお絵かきしてるんじゃ、同情どころか反感を買うだけだ。
「ところで、三和電機向けの製品だけど、今度から打ち抜きのバリの規格を0.3ミリにしてくれっていう話だ。よろしく頼むよ。」
「それは無理ですよ。どうせデータ取って3シグマで保証しろって言うんでしょう。」
「まあまあ。それはそうだけどサンプル数を増やして何とかするしかないな。」
「これ以上どうやって増やすんですか。全数測定でもしなきゃ無理ですよ。」
「だったら、全数測るんだな。お客の要求だから、いまさら断れないよ。」
「誰が、どうやって全数測るんです。0.1ミリのオーダーなら、ノギスじゃ無理でしょう。マイクロメーターで全数ですか。」
「それしかないなら、仕方無いじゃないか。」
「それは誰がやるんです。」
「君一人でやれとは言わないよ。製造の人間にやらせればいいじゃないか。」
「あいつらは作る方だけで目一杯ですよ。測定までやらせられませんよ。」
話していくうちに、だんだん腹が立ってきた。
「じゃあ、僕がやりますから、赤沢さんもやってくださいよ。マイクロメーターは2台有りますから。」
「僕は主任技師だよ。測定なら現場の仕事だろう。」
そうバカ沢が言った時には、僕はあいつの座っている椅子の足を思い切り蹴飛ばしてた。
 しまった。やっちまった。と思ったがもう遅い。
 椅子は、足を蹴られた勢いで、バカ沢の尻の下から見事に消えうせた。尻餅をついて床に落ちたバカ沢に、日頃思ってる啖呵を頭の上から浴びせ掛ける。
「そのお偉い主任技師さんの高い給料は、どこから出てくると思ってるんだ。会議室でくだらない会議をしてるだけで、どこからか金が湧いてくるのか。現場の連中が製品を作って、ひとついくらで売るからだろう。それを邪魔するようなことばかりしてるくせに、何様のつもりだ。」
 バカ沢は目を丸くして、何が起こったのか、まだ理解出来ていない様だ。きっとこういうのを、「鳩に豆鉄砲」って言うんだろうなと、つまらない余計な事まで考えてしまう。やった自分の方も、豆鉄砲を撃った反動に驚いてるようなものだ。こんなにきれいに椅子が抜けるとは思っていなかったのだ。どうやって事態を収めようかと戸惑ったが、いまさらここまでやって、こちらからどうこう出来るものでもない。そのまま転がっている椅子を、デモンストレーションのように、もう一度大きく蹴飛ばして事務所を出た。

 そのまま逃げ込むように現場に入り、昨日の続きの測定に手をつけた。もちろん内心ではそれどころではないのだが、なるべく平静を装っている。
 子供の頃からやんちゃで、喧嘩慣れはしているつもりだが、大人になってからこんな風に怒鳴ったのは初めてだろう。事務所の周りの皆も、あっけに取られて眺めていたから、いずれ課長あたりが何か言ってくるだろう。その時にちょっと反省したふりをして、痛み分けにしてもらえば収まるだろうなんて、内心でこれからの筋道を考えてた。でも、その前に事務所からの噂話の方が、先に僕に追いついて来た。
「お前、Bをボコボコにしたんだって。」
そう言いながら自分の就いていた装置から僕の方にやってきたのはリョウタだった。他にも何人か、ニコニコしながらこちらに集まってくる。
「なんだよ。Bって。」
「ほら。頭にBを付けるのが似合うヤツさ。B赤沢。」
やっぱりこいつらとは馬が合う。考えてる事も僕と同じレベルだ。
「良くやったな。ここの連中は皆、いつかはやりたいと思ってたけど、お前が代表でやってくれたんだってな。」
「ボコボコっていう程じゃないさ、椅子を蹴飛ばしただけ。まあ、あいつは尻の下に何も無くなって、床と仲良しになったけどな。それより、話が速いな。誰が持ってきたんだ。」
「庶務のショウコが、大慌てでこっちに来たんだよ。今頃事務所は大騒ぎだぞ。」

 そんな話をしているところに、梅田課長がやってきた。元々の僕の上司だった人で、現場の作業者からのたたき上げだから内情も良く解かっている。ちょっと困った顔をしてはいるが、内心では面白く思っているような表情が、どことなく分かる。
「岡野。おまえやっちゃったんだって。もう少し我慢できるかと思ってたんだけどな。」
「はい。すいません。でもあんまりにも腹が立って。」
「それは解かるよ。ことにあのバカ相手じゃな。半年くらいが限界だろう。」
「ってことは、もうこうなる事は予想済みですか。」
「ああ。もうちょっとおとなしく文句を言ってきたら、何か理由をつけて、現場に戻そうと思ってたんだけどね。ちょっと困った事になったな。」
 どうやらあいつは、恥も外聞も無く、暴力行為だと大騒ぎを始めたらしい。周りで見ていた人達も、話のいきさつを知っているから、あまり同情もせず、相手にしなかったようだ。そしたら、事もあろうに品証の部長のところに泣きついたらしい。
 品証部長もあんまりにもバカらしい話なんで、内心は相手にしたくないらしいのだが、いままでバカ沢をひいきにしていた経緯も有るので、それなりに相手になってやってるらしい。
「こうなっちまうと、難しいんだよ。それぞれの部署の顔も有るしな。」
 どうやら部署の間の力関係や、それぞれの部長の立場なんかも微妙なものがあるらしい。品証の部長と生管の部長は、どちらも親会社からの天下りだ。カイゼンの部長は、社内のたたき上げだが、現社長のいとこにあたる。そして製造部長は前社長の甥だ。バカ沢は品証部長の大学の後輩だということで、入社以来ずっと品証部長の下で仕事をしてきた。部長の本心は分からないが、一応後輩として可愛がられている事になっている。今回主任技師になった事も、部長が推薦したらしい。まあ、大学院まで出てるんだから、主任技師になってもおかしくは無いけど、あの性格を考えると、推薦するには無理が有ると思うのだが。
 梅田課長が言うには、以前にもバカ沢相手にトラブルになったやつも居たから、本当ならバカ沢の方が、部下を指導する仕事には向かないという事で、何か処分を受けるところだそうだ。
「面白かったぞ。あいつが尻餅ついたまま起き上がれもしないで、震えるようなうわずった声で、わめいてる姿は。でもまあ、お前も椅子だけとは言え、蹴飛ばしたんだから、なにかお咎めが有るかも知れないな。」
 課長は僕をなだめるように、肩をポンポンと叩いて、事務所に戻っていった。

 その日は、何事も無く一日が終った。バカ沢は尻餅ついた時のダメージが有ったのだろう、そのまま病院に行くと言って帰宅した。骨が折れてるかも知れないと、さんざん周りの人間にアピールしたらしい。ショウコなんか、大笑いでその話をしてくれた。
「尻餅ついてどこの骨が折れるのよ。ただのデブだから、自分の体重で痛い思いをしただけで、お尻の肉がクッションになってるわ。まあ尾てい骨でも折れてれば面白いわね。オムツみたいな形に、ギブスで固めてもらえばいいのよ。みんなから、また笑いものにされるわ。」
その姿を想像して、みんなは大笑いをして、僕はちょっとした現場のヒーローのような目で見られるようになった。
 だから、部屋に帰ってヒロにそんな話をしたときも、僕は何も考えてなかった。ヒロはちょっとだけ顔をしかめて、笑って良いのか怒った方が良いのか、迷ったような顔をした。
「そんなことしてクビになったりしないの?」
「大丈夫だろう。味方はたくさんいるし、せいぜい社長に呼ばれて叱られるくらいのことさ。」
「でも、会社の中での立場は大丈夫?もしも辞めさせられたりしたら、再就職は大変よ。」
「そうだね。まあ現場に逆戻りして、出世は無理で、一生平社員かな。」
「仕方ないわね。クビになるよりはましかな。懲戒解雇だとハローワークにも通知が行くから、再就職口も無くなるらしいけどね。」
「おまえ、そんな事まで良く知ってるね。」
「うちの会社で、やっぱりそうやって辞めた人がいたのよ。最初は喧嘩腰だったけど、ブラックリストに載っててどんな目に会うか解かってから、会社に戻ってきて人事部長に土下座して処分撤回してもらったって。」
 僕と一緒になって、バカ沢のことを笑い飛ばしたりせずに、そんな事を気にするなんて、いつものヒロとちょっと違っている気がした。笑ってもらえると思っていたので、ちょっと不満だったのだ。
どうしてそんな反応をしたのか、その理由がその時に解かっていれば、僕のそれからも大きく変わっていたかも知れない。



 バカ沢は翌日も会社を休んだ。そしてその翌日、僕は梅田課長に付き添われて社長室に向かった。社長室には、バカ沢と品証部長、品証課長がすでに待っていた。バカ沢が僕を恨みのこもった目で睨む。品証課長がいやみのように言う。
「社内でこんな暴力事件を起こされると困るんだよ。まったく現場の連中はどういう教育をされてるんだか。」
僕の隣で梅田課長が不愉快な顔に変わる。
「品証の内部の事で、現場を理由にされても困りますね。彼をどうしても欲しいと言って、人手不足の現場から引き抜いたのはそちらですから。」
「まあまあ。そんなに部のあいだで揉めないでくれ。」
社長が自ら割って入る。社長の立場にあると言っても、親会社からの天下りの部長なんかには、気を使ってしまうのだろう。こういう場で、頭ごなしに叱り付けるようなことはしない。そういえば元々この社長は、人当たりの良い穏やかな物腰の人だった。あまり良く知っているわけではないが、朝礼の時の話の様子なんかを見ていると、ワンマン経営者と言うより、部門間の調整役という感じだった。
「それじゃ、処分を発表しようか。みんな良いですか。」
社長の言葉で、改めて全員が横一列に並び、社長と向き合う。
「岡野くん。今回、暴力事件を起こした事の処分として、訓告と減給三カ月。減給は10パーセントと残業手当カット。配属は製造部に異動。但し現在行っている測定は、今後も継続して行う事。」
 その処分を聞いた梅田課長が、品証部長を睨む。
「ずいぶん重い処分ですね。測定もやらせて、生産ラインにも入れて、身体は一つしか無いんですよ。しかも残業手当カットじゃ、夜遅くまで只働きしろという事ですか。」
「こちらとしても、昨日まで岡野君のやっていた仕事を、今日居なくなったからと言って、いきなり誰かが変わるわけにはいかないからね。」
「じゃあ。赤沢くんの処分はどうなるんです?」
「赤沢は被害者だよ。なんで処分が必要なんだ。」
「部下の監督不行き届きですね。それとも赤沢くんでは無くて、その上司が責任を取るのですか。」
その時、いままで黙っていたバカ沢が口を開いた。
「現場の理屈っていうのは、馬鹿げてますね。僕は被害者で、岡野が一方的に暴力を振るったんですよ。こんなやつは現場に返しますから、同じ程度の連中と一緒に同じ程度の仕事をさせれば良いでしょう。」
そして、僕の方を向いて、小声で囁いた。
「ふん。ざまを見ろ。僕にあんな事をするからだ。バカはバカ同士でやってろ。」
そう言われて、僕の頭に瞬間的に血が上った。右手のこぶしを固めて、左手で掴みかかろうと、身体が動いた。その右手を僕の隣に居る課長が制止する。バカ沢は僕のアクションを見ただけで、青ざめて震え上がり、品証部長の影に隠れるように後ろにさがる。
「ほら、また暴力を振るおうとした。野蛮なやつだ。」
ヒステリックにそう叫ぶ声は、上ずって震えている。あまりにもみっともない姿に、殴る気も失せてしまう。
「赤沢くんの挑発行為が無ければ、岡野もそんな気にはなりませんよ。主任技師として部下を持つには、人を扱う方法を知ることも必要でしょう。」
梅田課長が冷静に言い放つ。それを聞いてバカ沢は赤くなったり青くなったりしている。この際、とことんまで波風を立ててやろうと、僕は考えた。
「僕に対する評価はどう言われてもかまいませんが、馬鹿は馬鹿同士という発言は、品証が製造に対してどう思っているかという、全体の意見なのでしょうか?」
品証部長に向かってそう訊ねる。もう完全に現場の立場でものを言っている。
「それは・・・赤沢くんの個人的意見だろう。」
「じゃあ、品証の赤沢主任技師はそういう意見を持っているということは、現場の皆にしっかり伝えておきますからね。」
「そんな風に喧嘩腰にならなくても良いんじゃないか。」
品証部長もちょっと返事があやふやになってきている。品証課長はそれを見て、ただおろおろとしているだけだ。社長は何も言わず、成り行きを見守っている。
「喧嘩を売ったのはそちらですから。僕個人の事じゃなくて、現場の皆に対して馬鹿呼ばわりしてるんですよ。その馬鹿の作った製品を売って儲けた金で、高い給料貰ってるのは誰なんです。こちらから言いましょうか。無駄飯食いの役立たずの品証、バカ沢って。」
品証課長がようやく割って入る。
「岡野。それ以上言わない方が良いぞ。部長に向かってそれ以上の事を言えば、もっと処分が重くなるからな。」
「処分は社長が出したんじゃないんですか。バカ沢が泣きついたから、品証部長が処分の内容を進言したんですね。」
そう言うと品証部長の顔が歪む。口にしたくない痛いところを突かれて、困ったという表情だ。どうせそんな事だろうとは思っていたが、向こうからそれを認めたことになる。
「解かりました。製造現場を馬鹿にしているのに、その稼ぎを掠め取ってる寄生虫みたいな連中のために、これ以上仕事をしたくありません。これ以上の重い処分なんていって、タダで使われても馬鹿らしいですからね。処分の出る前に、こんな会社辞めますよ。僕のやってた仕事は、そこに居るバカ沢がもともとやってた事ですから、またそいつにやらせれば良いでしょう。」
 そこまで啖呵を切って、あっけに取られている皆を背にして、社長に向かい深々とお辞儀をした。そして僕は、そのまま社長室を後にした。

 現場に戻って、皆にいきさつを詳しく話した。よくやった、現場の言いたい事を言ってくれた、という意見が圧倒的だった。でも、その後の辞職の話には誰もが複雑な反応だった。
「だって、この会社の九割はお前の味方だろう。辞めることなんか無いんだよ。」
真っ先にそう言ったのはリョウタだった。
「でもな、あそこまで言っちゃったから、やっぱり辞めるのは無し、って言うわけにはいかないだろう。」
「何言ってんだよ。バカ沢が辞めるんじゃともかく、お前が辞めてバカ沢が残るんじゃ、筋が違うだろう。」
「だって、椅子を蹴飛ばしたのは俺で、あいつはピイピイ泣いてただけだからな。加害者はこっちなんだよ。それにこの会社にこのまま残っていても、品証の連中に突付かれるだけだろう。」
「そうだよな。品証は部長以下全員、陰険だからな。」
そう言うと、また皆が笑い出す。
 そこに梅田課長も現われる。
「岡野の事。どうにか成らないんですか?」
真っ先にリョウタが口を開く。
「どうもこうも、岡野が自分から言い出した事だからな。早く社長のところに行って、撤回して来いよ。社長だって困ってるぞ。」
そう言いながら、課長は今入ってきたドアの方を親指で示す。課長の背に隠れたドアのところには、社長が立っていた。
「岡野くん。君の気持ちは良く解かるよ。私も同じように感じている事が有るからね。でも、私も社長とは言え、あちらこちらと気を使わなきゃいけない事も有るんでね。情けない話だが、人を受け入れてからそのポストを作るような事をしているうちに、こんな会社組織になってしまったんだよ。
それはともかく、君だってここで短気を起こして、明日からどうやって暮らしていくんだね。この会社の製造現場で、慣れた仕事をやる方が良いだろう。どうかね、もう一度考え直してみては。」
「でも、品証の部長にまであんな事を言ってしまいましたから・・・」
「なに、風当たりはいくらか強くなっても、くびにしろとまでは、言わないだろう。私も梅田君も付いているからな。」
社長がそう言ったことが、かえって僕の気持ちを固めさせた。
「でも、このままだとかえって社長にも課長にも迷惑をかけてしまいます。品証が、僕に無理難題を言ってきても、結局現場の人間の負担が大きくなるだけですから。僕が居なくなれば、落ち着くでしょう。一人短気な馬鹿が居なくなるだけで、社内の波風が治まるなら、その方が良いですよ。」
 僕がそう言うと、社長も課長も、諦めたように肩を落とした。社長や課長やみんなの気持ちは解かるし、ありがたいと思うが、ここで会社に残っても、泥沼の冷戦が続くのは見えていた。天下りの連中がのさばっている会社の様子が分ってしまったから、会社に嫌気がさしたのもある。
 僕はそのまま、ロッカーの私物を片付けて、退職手続きをする為に庶務係に向かった。本日付で自己理由での退職としてもらった。社長からの好意で、訓告や減給の処分は無くなり、ささやかながら退職金ももらえる事になった。
 そして、その日の定時後には、現場の皆が派手に激励会を開いてくれた。ちょうど週末だった事もあって、大勢のメンバーが参加してくれた。改めて、今回の事件で、こんなに皆に影響があったんだと感じた。主役の挨拶をしながら泣きそうになったが、それだけは堪えた。みんなに酒を注がれ、べろべろに酔っ払って、何軒かの店をはしごして、真夜中過ぎにアパートに帰った。
 明日からどうしようか。思い悩むのは、今夜だけはやめにして、部屋に入るなりベッドに転がり込んだ。梅雨が明けた蒸し暑い晩だった。



 週末は二日酔いの影響もあって、だらだらと過した。無職になってしまったけれど、そんなに悩むことは無かった。最近は不景気だったり、いろんな会社でリストラが有ったりして、再就職は厳しいという話は聞いてはいたが、自分一人がどこかに潜り込むくらいは、何とか成ると思っていた。
 普通の大学を、可も無く不可も無くの成績で卒業している。扶養家族も居ない。資格らしきものは普通免許くらい。バイクは有るが車は持っていない。アパートの家賃や光熱費と食費分くらいを稼げれば、最悪の場合にはフリーターでもどうにかなると考えた。
 偶然なのか、ヒロも現われなかった。ヒロに言ったらまた何か言われるだろうし、かといって嘘をついて黙っているわけにもいかないので、ヒロが顔を見せないのは都合が良いと思っていたのだ。
 月曜になってハローワークに行ってみた。想像以上の人が職探しに来ている。改めて、不景気の時代と言うのがわかった。とりあえず登録だけ済ませ、外に出た。こんな失業者の人ごみの中で、この空気に染まってしまうのが、ちょっと怖い気がしたし、中年のおじさんが妻子を養う為に、鬼気迫る様子で仕事を探しているのには、気持ちを改めないと、たちうちできない気がした。
 僕も、もしヒロと結婚でもしていたら、そして子供でも居たら、きっとあんな風に会社を辞めることもなかったのだろう。バカ沢が何を言っても、聞き流して、家族の生活の為と割り切って、仕事をしていたのだろう。そう考えると、あれだけの事で会社を辞めてしまった事が、ちょっともったいなかったとも思う。
ここに居るおじさんたちは、きっともっと辛い思いをして、ここに来たんだろうと思う。僕の話なんか聞けば、たかがそれだけの事で、と笑われてしまうような気がして、同じ立場で職を探すのが、申し訳ないような気にまでなって来た。
結局、ハローワークの雰囲気に呑まれて、ろくに求人票を探せもせずに、月曜は終った。
夕方、部屋に帰ってギターをいじっていると、ヒロが現われた。
「今日はどうしたの?いつもなら残業で遅くなるのに。」
「うん。あのさ・・・実は話があるんだ。」
「そう。あのね、私も実は話があるの。」
なにか言いたそうに、ちょっとうつむいて、でも、なかなか話し出そうとはしない。ぼくは、自分の失業の話を後にしたくて、ヒロを促す。
「何の話?良いことかな?悪いことかな?」
「うん、良いことって言えば、良いことなんだけど・・・」
「なんだよ。そんならもっとニコニコして、言ってくれよ。もしかして、サプライズで何かおどかそうとしてるんじゃないよね。」
「あのね・・・今日、お医者さんに行ってきたの。」
「医者?どこか具合悪いの。良いことなんだろう?」
「馬鹿ね。気付かないの。鈍感。お医者さんで、おめでとうって言われる事よ。」
「おめでとうって・・めでたいことね・・」
「そうよ。昔からそういう言い方もするわね。おめでたって。」
「おめでた・・・なのか?子供が・・・?」
「三ヶ月だって。覚えがあるでしょう。あなたがパパになるのよ。」
「ちょ・・ちょっと待ってくれよ。パパ?」
「そうよ。驚いた?すごいサプライズでしょう。」
 それからの三分間は、自分でも滑稽に思えるような取り乱し方をした僕だった。まさかそんな事になるとは、数分前まで想像も出来なかったのだ。僕だって、いずれはヒロと結婚しても良いとは考えていたし、そしたら子供の一人や二人、当然出来るものだと思っていた。ヒロの事も好きだ。子供も好きだ。二人のあいだに出来た子供なら、最高だろう。でも、それが目の前にいきなりやって来るとは思っても居なかった。僕のことを「パパ」と呼ぶヒロは、すっかり「ママ」の顔になっている。
 僕は恐る恐る切り出した。
「あの・・まだ結婚してないんだし、その子の事を諦めるっていう選択肢は、無いの?」
「何言ってるのよ。せっかく授かった命なのよ。もしも中絶手術なんかで、もう子供が出来ないような身体になったら、どうするの。それに、いつかは一緒になるつもりがあるなら、早くても遅くても同じよ。あなたが尻込みする気持ちも解かるけど、わたしはシングルマザーになっても産むからね。」
 そこまで言われたら、僕にはどうにも反論する余地は無かった。
「それで、あなたの話って、何?」

 結局、いままでのいきさつを最初から全部、ヒロに話す事になってしまった。話を聞き終えたヒロの答えは一言だった。
「しかたないわね。もうこうなっちゃったんだから、今からどうにかなるものじゃ無いしね。」
そう言って、ふっと息をつく。
「ごめんな。こんな事になってると知ってたら、もうちょっと考えも違ったんだけど。」
「大丈夫。もういいのよ。そんな事であなたが一生いじいじとしてるなら、私だって嫌だもの。さっぱりしたじゃない。」
「明日からしっかり、次の仕事を探すよ。」
「そうね。パパ。頑張ってね。」
「順番はどうなるか分らないけど、結婚式もやろうな。」
「そんなのは、いいのよ。この子のパパがきちんと判っていれば。」
 本当に考え方まで母親になっている。そんなヒロを見ながら、女は強いんだな、と感じていた。

 その翌日からは、僕も気合が入った。でも気合だけで次の仕事が見つかるほど、甘くは無かった。ハローワークの求人票をあてにして、幾つもの会社に行ったが、どこもあまり良い返事は貰えなかった。
ひとつは纏まりそうになったのだが、
「独身だよね?」
と訊かれて、事情を話すと、どうもそこから雲行きが変わってきた。どうやら家族手当の事とかがネックになった様子だった。
使う方は、出来るだけ安い給料で時間が自由になるような人間を使いたい。遅くまで残業させても、独身なら自由がきくと思ったのだろう。雇われる方は出来るだけ多く給料を貰いたいし、家族の為の時間だって欲しい。そしてこんな時代だから、一方では経営が危なくなったらすぐにもクビを切れる方が楽だし、勤める方は、出来れば一生そこで落ち着いて働きたい。
コンビニのバイトでは、ヒロと生まれてくる子供の面倒は見てやれないだろうし、どこか落ち着くところを探して、僕は必死だった。
ヒロの方は、かえって落ち着いて、どうにかなると思っているようだった。僕が仕事を探せずに、がっかりして部屋に帰っても、いつもと同じ様子で迎えてくれたし、晩ご飯も二人で食べて、夜を過して、朝は普通に仕事に出かけて行った。



ヒロの話をしよう。
もう三年も付き合いが有るのだから、家族の話とかは知っているけど、ヒロの持っている家庭のイメージで、時々食い違いが有るのを感じる事がある。その不思議な感覚が、僕にとってのヒロの魅力なのだが、やっぱりそれはヒロの今までの育ち方にも有るのかも知れない。
今はお母さんと二人暮らしだ。小学校の頃には家が有ったらしいが、お母さんがその家を売って、小さめのマンションを買ったという話だ。そのお母さんというのも、ヒロとは血のつながりが無いらしい。お父さんは、ヒロが小学校の頃に家を出て行ってそれっきり。父親と母親が再婚同士で一緒になって、ヒロは父親の連れ子だそうだ。
「家は4人暮らしだったの。おばあちゃんが居たから。お父さんの母親ね。でも、お父さんが出て行ってから女三人でしょう。姑と嫁だし、娘とは言っても、自分が産んだ子供じゃないし。お互いが気を使って遠慮してたようなところもあったよ。でも、お互いに優しくて居心地は良かったんだ。同じ家の中でも、隣近所の仲良しさんみたいな感覚もあって、マナーは守りましょう、っていう感じかな。」
 父親がどうしているのかは、分らないというし、産みの母は今どこに居るのかも知らない。そういうことを父親から聞かされるような年になる前に、父親が居なくなってしまったのだと、笑って話してくれる。
 中学を出た頃に、おばあちゃんが亡くなって、お母さんと二人っきりになった。家も土地もおばあちゃんの名義だったから、そのままお母さんの物になったし、そこにずっと居ても良かったのだけど、田舎だったからご近所の目が煩わしくて、マンションに引っ越したのだそうだ。お母さんはキャリアウーマンの先駆けみたいな人で、今も大きな商社の第一線で仕事をしているそうだ。ヒロは短大を出て就職し、普通の会社の事務をしている。
「二人っきりの家族だけどそんな関係だから、私が何をしても口うるさい事は言わないの。ユウキの事もちゃんと話してるよ。」
「子供の事も?」
「うん。そうか、おばあちゃんになるのか、って。」
 もう既成の事実として受け入れられてしまっている様子だ。どうやらあたふたとしているのは、僕だけらしい。
「じゃあ、一度きちんとご挨拶に行かなきゃね。」
「そうね。お母さん歓迎してくれるわよ。面食いでユウキみたいなタイプは好みだから。」
「そんなんで良いの?娘の結婚相手だろう。勤めとか年収とか、そういう事をまず考えるんじゃないの?」
「大丈夫よ。うるさい事を言う人じゃないから。」
「まあ。次の仕事が決まってからにしよう。いくらなんでも無職じゃ、カッコ悪いものな。」
「ギター弾いてるときはカッコ良いんだけどね。」
そんな事を言って、ヒロは笑った。


 僕のアパートの前の 部屋毎の駐車スペースには、ヒロの軽と僕のバイクが並んで停まっている。二台で一区画に入って、まだスペースに余裕があるのを、二階の部屋の窓から見下ろしていると、僕たちの暮らしにふさわしいサイズのように思えてくる。
僕の家族も、次男坊の僕が結婚して子供を作るのに反対はしないだろう。ヒロの家族もどうやら風当たりは悪くないようだ。こうやってアパートの一部屋に二人で過して、生活を重ねて行くのを、バイクと車が象徴しているように感じた。


 仕事探しも一週間を過ぎると、だんだん焦りが出てきた。いくつかの会社で面接を受けたし、相棒のトモヒコにも、就職口がどこかに無いか、相談もした。トモヒコは無職になったいきさつを聞くと、
「ユウキらしいよな。最低のタイミングで喧嘩するんだから。」
って、大笑いした。
「こうなったら、プロのミュージシャンにでもなるかい?」
って笑っているので
「お前のドラムと組んでるうちは、無理だろう。」
と答えると、本気でむっとした顔をした。
トモヒコだって入社4年目の下っ端だから、就職口の当てなんて無いだろうし、自分の仕事で精一杯のはずだ。自動販売機のベンダーの会社だから、外回りが多いという話は聞いているが、仕事の世話までは無理だろう。
ヒロも気にしてはくれているが、街を歩いていてアルバイト募集の張り紙が目に付く程度だという。それにヒロは別の事に気が行っている。子供を連れたカップルや母親、ベビー用品の店、子育て情報なんかだ。
この先の事は、どうにかなると本気で思っているようだ。もう会社にも話をして、出産休暇を取るって宣言してきたらしい。お母さんも、結婚式とか入籍とかのことはなにも心配していなくて、元気な孫が生まれることだけを待ち遠しく思っているという話だ。
ここまで大きく構えて居られると、なんだか僕一人が焦っているのが馬鹿らしいような気にもなる。もちろん焦ったところでどうにもならないのは、良く解かっている。

第二章・なんだか不思議な縁で・・・新米ファーマー

 ハローワークに通い始めて、十日目だった。面接先でまたことわられて、この先の当ても無くバイクで走っていた。昼の時間を過ぎていたので、通りすがりのコンビニでおにぎりとペットボトルのお茶を買った。バイクの不便なところは、こういうときにそれを食べる場所を考えてしまうところだ。車ならコンビニの駐車場に停めて、そのまま運転席で食べれば良いのだろうが、バイクでは店の前のベンチで食べることになる。なんだか平日の昼にそんなところで一人で飯を食うのが、嫌だった。どうせ時間は有るのだから、気分良く食べられるような場所を探して、街からちょっと離れた郊外に向かってみた。
天気は快晴。バイクも毎日エンジンを回しているので快調だ。考えてみれば、本当ならみんな仕事をしている時間のはずだ。無職になったことは痛いが、こんなふうに時間が自由になるのは、気分が良かった。
畑の中の道でバイクを止めた。道端に座り込んで、買ってきたおにぎりを食べる。これからどうしようかと考えていた、その時だった。
 僕の目の前を、一台の軽トラックが通り過ぎた。運転席にはもういい年のおじさんが乗っている。おじさんというよりは、おじいさんになるのかも知れない。相当ゆっくりと走っているのが、田舎らしいなと感心していた。そのトラックが僕のバイクを避けるようにハンドルを切って、道路の向こう側に寄った。そしてそのまま、映画のスローモーションのシーンのようにゆっくりと、路肩を踏み外し脱輪した。
 路肩の向こう側は30センチくらいの段差になっている。タイヤが宙に浮いたまま、斜めになって軽トラックは停まった。おじさんは車から降りて、途方に暮れたような顔をしている。センターラインも無いような畑の中の道だが、停まっているバイクを避けても十分に道幅は有ったはずだ。理屈から言えば、僕には何の責任も無いはずだが、畑の中で二人っきりで、おじさんと顔を見合わせている。おじさんも僕を責めるつもりは無いようだ。自分のやってしまったミスは承知しているらしい。僕はおじさんに声をかけた。
「手伝いましょうか?誰か呼んで来ます?」
「ありがとう。でも誰かと言ってもなあ。誰も当てに出来るやつは居ないし、家にいるばあさんを呼んできても役には立たないし・・・」
「じゃあ、仕方ない。二人で持ち上げますか。」
 軽トラックは左前輪が宙に浮いているだけだったので、平らに戻して引っ張れば元に戻ると思ったのだ。そのまま運転席に入りハンドルの向きを戻して、バックで戻せそうな気もしたが、後輪も片方が浮いているので、浮いているタイヤが空回りするだけで、動きはしなかった。
 荷台の積荷を右後ろ側に寄せて、近くにあった木の枝を梃子にして、助手席側を持ち上げて、三本のタイヤが接地するようにして、そろそろとバックして、トラックが道に戻ったのは、30分以上経ってからだった。
「ありがとうございました。一人じゃどうにもならなかったよ。いや、助かりました。」
そう言って汗を拭いたおじさんは、腕時計を眺めて急に慌てた。
「大変だ。農協の集荷の締め切りに間に合わなくなる。」
荷台にはダンボール箱の中に、きれいに並べたキュウリやナスがたくさん積んである。これを今から農協に運んでいくところだったのだろう。
「どうせですから、手伝いましょうか?」
僕がそう言うと、
「そこまで迷惑かけちゃ、すまないけれど。本当に手伝ってくれるのかい?」
と言って、嬉しそうににっこり笑った。
どうせ何の予定も無いし、こんな事も何かの縁だと思って、僕は軽トラックの助手席に乗り込んだ。
 おじさんの運転で農協まで行くと、大きなトラックにフォークリフトで荷物の積み込みをしているところだった。農協の係の人がこちらを見て、急げと言うように手招きをする。
「午前中には出荷しに来るって言ってたのに、来ないからどうしたかと思ってたんだよ。」
「悪かったね、松橋さん。途中でちょっと事故があってな。」
 そんな話をしながら、三人がかりで急いで荷物を最後のパレットに積み込む。
トラックの運転手らしき人が、フォークリフトの運転席で荷物を待っている。松橋さんと呼ばれた農協の係の人が合図をすると、フォークリフトは軽々とパレットを持ち上げ、大きなトラックの上に移す。荷台のガルウイングのような扉がゆっくりと降りて、準備が整った様子だった。
「本当にギリギリだったね。家に電話してもこっちに向かって出たって言うし、あと五分して来なかったら出ちゃうところだったよ。」
軽トラックのダッシュボードの伝票を松橋さんに渡して、本当にほっとした顔でおじさんが汗を拭う。
「いや。途中で畑に落ちそうになってな。この人に手伝ってもらって上げてたんだよ。」
「どこに落ちたって?」
「新田の池端さんの畑のところさ。」
「あんなところ。真っ直ぐな道じゃないか。」
「そうなんだよ。道端に停まってたバイクを避けただけなんだけど、反対側に寄り過ぎちゃって。」
「あんなところで車を落とすようじゃ、そろそろ耄碌してきたかな。気をつけなよ。」
もうお馴染みのやりとりなんだろう。二人ともニコニコしながらそんな話をしている。
「で、この人は?」
松橋さんが僕の方を向いて訊ねる。
「その避けたバイクっていうのが、僕のなんです。」
「あんなところで、こんなじいさんに出くわしたのが、運が悪かったんだな。別に君が悪かったわけじゃないだろう。」
「まあ、バイクが有ったから、こんな事になったんですけどね。」
「停まってるバイクを避けられないのは、運転してる方が悪いのさ。気にすることは無いよ。」
「そうそう。それに車を戻すのも手伝ってくれたし、出荷の手伝いまでしてくれたし、大助かりさ。さて、出荷も無事に済んだから、家に帰ってお茶でもしよう。バイクもあそこに置きっぱなしだしな。」



 おじさんに言われるままに、バイクを拾って、軽トラックの後ろを追いかけて、家にお邪魔した。家ではおばさんが待っていた。
「まったく農協からは電話が来るし、どこに行ったのか判らないし、心配したんだよ。」
「途中でちょっとした事故があってな。まだ呆けちゃいないから、大丈夫だ。」
「何言ってるの。農協までたどり着くのに一時間もかかるんなら、呆け老人の徘徊と同じようなもんだよ。まったく。」
「まあいいから。それよりお茶にしてくれ。大変な仕事をしてきたんだから。」
 そう言って僕に縁側の席を勧めてくれる。おばさんが三人分の湯のみやら菓子鉢やらを持って来る。よく冷えたスイカまで出てきて、三人でのお茶になった。
 おじさんが、さっきまでの事を話す。おばさんが示した反応は、農協の松橋さんと同じだった。おじさんは、耄碌だの呆けだの言われてもニコニコしている。
「ところで、あんな時間にあんなところで何をしてたんだい?」
おじさんが僕の方に話題を向ける。僕はぽつりぽつりと、前の会社を辞めた経緯やら職探しの話やらをすることになった。話の中心はおばさんで、上手にあいづちを打ったり、「それで?」などと水を向けて、僕に話をさせたりする。おじさんはほとんど頷いて聞いているだけだ。実家の父と母の姿と似ているな、などと思ってしまう。
「そうかい。仕事が無いのかい。大変なんだね。うちなんか仕事が間に合わなくて、人手が欲しくて困ってるのにね。」
「馬鹿だな。いまどきの若い人は、百姓なんてまともな仕事だとは思ってないのさ。うちの跡取りだってやる気は無いじゃないか。」
「百姓だってやってみれば良い仕事なんだけどね。自分のやりたい事が出来るし、マイペースで働けるし、他人に気を使わないし、定年は無いしね。」
「収入はお天気次第だし、商売物の売れ残りの野菜ばかり食わされるし、収穫時期には死にそうなほど忙しいしな。」
おじさんはそう言って自虐的に笑う。
「この時期は本当に忙しくてね。どう、岡野さん。仕事が無いなら、うちでアルバイトでもしない?」
「こらこら。こんな若い人をスカウトしてどうするんだい。農家のアルバイトなんて忙しい時だけだもの、きちんとした仕事を探さなきゃ。」
「そりゃあ、ずっとやってもらうなんて言いませんけど。仕事が見つかるまでのあいだ、ちょっとでも収入になったほうが、良いでしょう。」
「たしかに、そうだな。それに年寄り二人でやってるには、ちょっと荷が重い仕事だしな。手伝ってもらえれば有り難いのは本当だ。」
僕も無収入で蓄えを食いつぶして行く日々に、ちょっと焦りはあった。
「本当に僕なんかを使ってもらえるんですか?」
「もちろん。今日だってあんたが居なきゃ、まだあそこで立ち往生してるだろうしな。毎日居てくれれば大助かりさ。年寄り二人で食ってゆく分よりは、だいぶ儲かってるからな。バイト料ははずむよ。」
儲かっているという言葉には、ちょっと気を引かれた。農業なんていうものにまったく縁の無かった僕にしてみれば、いったい農業ではどのくらい収入が有るんだろうという好奇心も有った。
「そんなに儲かるものなんですか?」
「まあな。こういう仕事はやり方とやる気だから、巧くやれば売り上げは何千万にもなる処もあるしな。うちなんかは、年金貰ってる年寄り二人の呆け防止みたいな仕事だから、そんなにはならないけど。」
その返事には驚いた。いまどき会社勤めしても、年収三百万以下の人も多いという話は、ニュースなんかでも聞いている。ハローワークでも、面接に行った先でも、さんざん聞かされているから、農業で売り上げが何千万などという話は、冗談のように思えた。
「ほらほら、そんな大きな事を言って。この人が本気にしますよ。」
「大法螺じゃないだろう。本当にそのくらい稼いでる家もあるんだから。」
「あれは若い人がきちんと経営を考えて、インターネットとかで直売をやったり、直接お店と契約したりして、やってるからですよ。」
「でも作ってる規模は、うちとそんなに変わらんだろう。」
「そうは言っても、ちゃんと何が売れるか考えて、値段の良いモノを作ってるでしょう。うちみたいに、農協のお勧めのものを言いなりに作って、農協に出荷してれば、そんなに儲かりませんよ。」
 だんだんおじさんとおばさんで、難しい話になっていく。僕はあっけに取られて、その話を聞いていた。
「ほら、岡野さんがきょとんとしてますよ。」
おばさんがそう言って、その話もひと段落した。
「まあ、見ての通り、年寄り二人でやってる百姓だし、跡取りも居ないし、手伝って貰えるなら、そんな有り難い事は無い。あんたがその気になったら、いつでも歓迎するよ。」
 そんな話を聞かされて、お土産にと野菜をいっぱいもらって、おじさんとおばさんに見送られて、その家を後にした。そう言えばおじさんたちの名前も聞かなかったなと思い、玄関で振り向くと、表札と郵便受けに「石原」と名前があった。

 部屋に帰るとまもなく、ヒロが仕事から帰って来た。このところ仕事帰りには、僕の部屋に寄るのが日課になっている。今までは残業なんかで夜遅くまで居ない事も有ったし、当てにはならなかったけど、このところ夕方までには部屋に帰っているのが当たり前なので、安心してやってくるのだろう。
「今日はどうだったの?」
と訊く言葉は、最初の頃はプレッシャーにも感じたが、慣れてしまって普通の挨拶になっている。
「今日は大漁だったよ。」
ニコニコと笑って、大量の野菜の山を見せる。
「どうしたのよ?八百屋さんにでも就職が決まったの?」
目を丸くして、その野菜に驚いている。ナス・トマト・きゅうり・ピーマン・インゲン。どうやって食べたら良いか、迷うほどの量があるのだ。
「驚いた?りっぱな労働報酬だろう。」
「まさか、いよいよお金が無くなって、畑で野菜泥棒してきたんじゃないでしょうね?」
笑いながらそんな冗談を言う。
 僕は今日の出来事を、順を追って話した。ヒロは野菜を料理しながらその話に相槌を打つ。ナスの味噌炒め、トマトときゅうりのスライス、インゲンの煮物などの料理が並んで、ビールを開ける。
「じゃあ、明日から野菜料理のメニューが増えるわね。」
「ええっ、どうして?」
「だって、明日からそのお宅にアルバイトに行くんでしょう?」
「農家のアルバイトなんてしてたら、就職はどうするんだよ?」
「今だって毎日あちらこちらで断られてばっかりなんだから、ちょっとくらい気分転換でもしたほうが良いわよ。」
「お前。食い物に釣られただろう?」
「うん。産地直送の新鮮な野菜なんて貴重品じゃない。そんなのが毎日食べられるんじゃ、釣られもするわよ。それにお腹の子にも良さそうじゃない。」
「まあな、親切なおじさんたちだったし、職場の人間関係は、良さそうだな。」
「いやみな上司も居ないんでしょう?」
そう言って笑う。
「私、やっぱりキャベツがいいな。今度そこでキャベツを作ってもらえば。ユウキが私のために作ってくれたキャベツなんて、美味しそうだよね。」
「あのな、今から種まいてキャベツが出来るまで、農家の仕事させるつもり?」
「いいじゃない。そのおじさんたちは、一生その仕事をして生きてきたんでしょう。」
「そうだな。まあ、この先どうなるか解からないけど、偶然知り合ったのも何かの縁かな。ちょっとやってみるか。」
「頑張ってね。新米のファーマーさん。」
 ヒロは、残った野菜を冷蔵庫に入るだけ上手にしまいこんで、入りきらない野菜はスーパーの袋に詰め込んだ。
「これはもらって帰るね。お母さんも野菜好きだから、新鮮なのを食べさせてあげるんだ。ユウキからの貢物だってちゃんと言っておくからね。」
と言って帰って行った。

 その晩は、ずっと迷っていた。確かに職探しに行き詰っているのは本当だ。でも、目の前にあるアルバイトに手を出してしまえば、次の仕事を探すのが、だんだんと先送りになってしまう気はする。ヒロの言う事も、もっともだ。このまま職探しをしていても、きちんと就職出来る保証は無い。ここ何日かの、断られて悔しい思いをした記憶が浮かんでくる。
 結局、朝になった時には、昨夜ヒロが言ったとおりに、あのお宅に行ってみる方に、気持ちが傾いていた。

 朝、石原さんのお宅に行ってみると、留守だった。前の会社の始業時刻にあわせて、仕事を始める前に来たつもりだった。昨日はあんなふうに言われたけど、ただの社交辞令だったのかとも、ちょっと考えた。思い出してみれば、何時に来いと言われたわけでもなく、来ると約束したわけでもない。気持ちがまた迷った。このまま帰って今日もハローワークに行こうかと、思い始めた時だった。僕の背中の方から声がかけられた。
「おはよう。本当に来たね。」
振り向くとおばさんが、農作業姿で家に帰ってくるところだった。
「おはようございます。昨日言われたんで、本気にして来ちゃいました。」
「それは助かるよ。今もおじいさんと二人で一仕事してきたところだけど、なかなか、はかどらなくてね。」
「そんなに早くから仕事してるんですか?」
「年よりは朝が早いからね。まあ玄関先で立ち話もなんだから、あがりな。おじいさんももうすぐ帰って来るよ。朝飯を食べなきゃ持たないからね。」
どうやら、朝食前に畑で仕事をしてきたらしい。
 家に上がって、朝食の支度をするおばさんに誘われるまま、テーブルに着く。僕に朝食を食べてきたのか尋ね、お茶を出してくれる。おじさんも帰って来て、僕がお茶を飲んでいる隣で、二人の朝食になる。
 二人で、ご飯と味噌汁と納豆と漬物という純和風の朝食を食べながら、いろいろな説明をしてくれる。だいぶ僕のイメージしていたのとは、違っている事もあるようだ。
 朝の仕事を始めるのは、その日の仕事の内容と朝起きた時の調子で決めるとか、終わりにするのも、ある程度区切りがついて疲れ具合で判断するなど、まるっきりフリーの状態でやっているらしい。
「出荷出来れば、その分お金にはなるけど、体を壊したんじゃ困るからね。出来る分だけやるようにしてるんだよ。」
そう言って笑う。
「じゃあ、僕はいつ来ればいいんですか?」
「そうだね。今頃来て、私らの朝飯が済んだら、そこから一緒に始めればいいよ。それより前じゃ大変だろう。終るのは私らが終わりにする時に、一緒に終ればいいんだ。時間は融通が利くからね。その代わり、日曜も祭日も無く仕事は有るからね。稼ぎたければ休みなしに来れば良いし、疲れたり用事があったりしたら休めば良いんだよ。」
アルバイトとは言っても、時間で拘束されるわけではなく、仕事をした量で稼ぎになるらしい。新米でもベテランでも百姓はこういう流儀だからね、と話してくれる。天気は晴れでも雨でも、仕事をやるつもりなら、やる事はあると言う。ただし、かっぱを着ての仕事だと、体力的にきついから、あんまりやらないそうだ。
 当面は仕事を覚えながらだから、見習い程度の時給だよと言われる。お金の話も気にはなったが、それよりも農家というのがどんな仕事をしているのかに、興味が湧く。食後の一服の後で立ち上がったおじさんにつられて、僕も席を立った。おばさんは食事の片付けをしてから、追いかけて畑に来るらしい。僕は昨日と同じように、軽トラックの助手席に乗り込んだ。



「なかなか、格好が様になってきたな。」
「なんとか慣れたところですよ。」
農協で松橋さんに声をかけられる。石原さんのところで農業の見習いアルバイトを始めてから三ヶ月が経った頃だ。
「最近はご近所でも話題だよ。石原さんのところは良い人を見つけたって。」
「そんなこと無いですよ。まだまだ半人前のバイトなんだから。」
 最初の頃は畑で転んで泥だらけになったり、出荷できるものと未熟なものの区別が付かないで、全部もぎ取ってしまったりと、さんざんドジなことをやらかしたのだが、ようやくそんなミスもしなくなった。
スタイルも帽子と軍手と足元はアウトドアシューズで固めて、それなりになったかなとも思う。おじさんは手ぬぐいの頬かむりと長靴だが、そのスタイルだけは遠慮させてもらった。
 毎朝、アパートからバイクで出勤する。ヘルメットを作業帽に替えれば準備はOKだ。軽トラックで畑に向かい、出荷するものを収穫し、石原さんの家に帰って来て、選別や箱詰めをする。それを農協に時間までに運ぶ。仕事は大まかに言えば、そんな内容だ。
今まではおじさんとおばさんと二人でやっていた作業だが、僕が入って三人になると、効率が良くなって、今までの倍くらいの出荷が出来るようになったという。時には手分けをして、おじさんが一人で出荷してくる間に、次の作業を進めたり、僕が出荷を任されたりすることもある。農協の松橋さんたちにも、顔を覚えてもらって、声をかけられたりもする。
最初の頃は、弁当持参で通っていたのだけれど、どうせ昼の支度をするのは同じだからと、おばさんが言うのに甘えて、一緒に頂くことにもなった。量を揃えて箱詰めした残りの野菜は、持ち帰り自由なので、食べられる分くらいはもらって帰っている。ヒロはいろんな野菜料理のレシピを試していて、バリエーションがかなり増えて、ご機嫌だ。お腹の子供も野菜を摂って順調に育っているようだ。
ヒロも休みの週末、天気の良い日には、僕が仕事に行くのにくっついて来て、おじさんやおばさんとも顔なじみになった。本人は授業参観に来た母親にでもなった気分らしい。畑の周りの雑草の中から、四葉のクローバーを探したり、おばさんと一緒に野菜の箱詰めをしたり、お昼の支度を手伝ったりと、いろいろな事に手を出している。
 おばさんは息子夫婦が出来たようだねと、にこにこしている。石原さんのところには、本当の息子が一人居るのだそうだ。大学を卒業して、大手の電機メーカーに就職して、始めは地元の工場に配属になったそうだ。同居して暮らしていて、嫁さんももらったのだが、会社から転勤の辞令が出て、今は関西に住んでいるという話だ。孫も二人居るんだけど、顔を見るのは年に二回くらいだよと、ちょっと淋しそうな顔をする。
「帰ってきて百姓をやれとも言えないしね。このまま向こうに落ち着くような事も言っていたから、あの子が会社を定年にでもならないと、ここには戻って来ないかもしれないね。家を建てたいけど迷ってるって言ってたから、帰って来ないでも良いんだよとは、言ったけどね。」
嫁さんも向こうの人で、転勤を喜んでたし、子供もすっかり向こうの言葉で育っていると言う。
「あんたたちだって、いつまでも年寄りと一緒に百姓をやってるわけにも行かないだろう。一生この仕事をするって言うんなら、それでも良いんだけどね。」
 そんな話をするたびに、余計に次の仕事を探すのをためらってしまう。僕が居なくなれば、また二人っきりの日々に戻ってしまうのが、目に見えているからだ。

 そんな日々を過していたある日曜日。ヒロと相談して、ヒロのお母さんに会いに行った。ヒロのお腹も段々目立つように成って来ていたし、きちんと挨拶をしてけじめを付けて置かないといけないと思ったのだ。仕事は農家のアルバイトと言うのが、ちょっとためらったが、いつまでも先延ばしにするわけにも行かない。ヒロの車のハンドルを握り、ヒロを助手席に乗せて、お母さんの住んでいるマンションに向かった。
 お母さんはとても気さくな良い人で、僕を歓迎してくれた。
「ホントにヒロちゃんが言ってた通りね。いい男だわ。ヒロの好みにぴったりね。」
開けっぴろげにそんな言葉が出てくる。ヒロはちょっとはにかんだような表情を浮かべる。
 お湯を沸かしてコーヒーを淹れている間に、ヒロの部屋を見せてもらう。初めて入る部屋なのだが、想像していたイメージそのままのシンプルな部屋だった。お母さんの好みや躾も有るのだろう。マンションの部屋全体が、あまり飾りのないシンプルな感じだ。シックな家具が機能的に並んでいる。
「あんまり女の子っぽく無いでしょう。私に似たのかしらね。いろんな余計なものを置かないのよ。」
お母さんがそんな風に言う。
「ここに来た時から、母と娘の二人だったからね。男っ気がないから、あんまり女らしく飾り立てたりしてないのよ。父親と母親と、一人二役だったしね。」
 手土産に持ってきたお菓子を広げて、コーヒーを前にして、僕はどんな言葉から切り出せば良いのか迷った。お母さんが改まって、僕の方を向いてにっこり笑う。
「大事な一人娘なんだから、よろしくね。」
それだけを言うと、他は何も訊ねようともしない。ヒロに向かっては
「あなたが選んだ人なんだから、しっかり捕まえておくのよ。」
と言うだけだった。
「お母さん。それだけで良いの?」
「ほかに何を言えって言うのよ?もう二人で決めたんでしょう?」
「そうだけど。仕事だとか収入だとか、どこに住むつもりとか、いろんなことを訊かないの?」
「そんなことは些細な事で、どうでもいいのよ。本人が約束したって、一生守れるっていうものでもないしね。世の中は日々変わってるんだから。」
「そういうものなの?」
「男なんてね。肩書きや職業じゃ無くて、中身が大事なの。二回も結婚した私の見つけた結論ね。」


「まだヒロにも話してなかったかな。最初のだんなはね、同じ会社の同僚だったの。まだ二人とも若くて、甘い新婚生活っていうのが二年くらい有ったかな。でも、会社から辞令が出て、転勤になって、私を置いて単身赴任したの。付いて行けば良かったのだけど、私もまだまだ働く気でいたし、離れてもお互いの気持ちは変わらないと、信じてたのね。若かったから。そしたら半年で浮気したのよ。まだ携帯なんて無かった頃だから、いきなり訪ねて行って玄関を開けたら、女が出てきたの。そのまま空港に引き返して帰って来たわ。悔しいやら悲しいやら、いろんな気持ちが整理できなくて、でも、その場で修羅場になるには、自分にプライドが有りすぎたのね。飛行機が離陸するときには、泣くにも泣けないっていう状態だったけど、着陸する頃には気持ちが切り替わってたの。どれだけ慰謝料取って離婚してやろうかなって。泣いてすがり付いて、やり直してもらって、それからの人生をずっと、また浮気するんじゃないかって、怯えて過すのだけはやめようって。
 電話や手紙でやり取りして、離婚が成立したのは一年後くらいだったかな。弁護士を立てて、家庭裁判所に持ち込むわよって、脅したの。社内では出世コースだったから、そういうスキャンダルは避けたかったのね。でも結局は本社に戻ってこられずに、その女と一緒になって、向こうに落ち着いたみたいね。
 それからは、しばらく一人で居たけど、三十代になって、この先ずっと一人で生きてくのかなと思いはじめた頃、あなたのお父さんと知り合ったの。取引先の会社に居たんだけど、小さな娘を抱えて、毎日あたふたしてたわ。優しくていろんな事を自分でこなしていて、ちょっと甘えん坊で。お母さんもいい人だった。あなたのおばあちゃんね。あなたと四人で一つの家族に成れそうな気がして、結婚したの。自分で産まなくても、かわいい娘も出来て、良いだんなと姑さんと、このままずっとやっていけると思ったの。仕事は仕事、家庭は家庭で、きちんとやっていけるつもりだったの。
でも、お父さんがだんだん変わってきたの。拗ねてしまったのね。女ばかりの家で、自分より給料の良い奥さんを持って。おばあちゃんもしっかりしているし、娘も継母のほうに味方するしね。お酒の量も増えて、とうとうある日ふらっとどこかに行ってしまって、それっきりだった。ホームレスにでもなったのか、どこかの町に落ち着いて、新しい暮らしを始めてるのか、どうしているのかしらね。
 だから、男は仕事でも地位でもなくて、中身がどれだけ良い男なのかが、決め手なのよ。お金は無ければそれなりのレベルの生活にするとか、あなたが稼いでくるとか、二人で納得出来るようにしていけば良いし、子供をどうやって育てるのかも、二人の自由だもの。」

 そんな風に、ヒロに向かって話すお母さんは、自分の過去を懐かしむように、優しい表情をしていた。こういうお母さんに育てられたから、ヒロのような娘が出来たんだなと、納得できるようだった。
 仕事は何をしていても良いと言い切る。働いて稼ぐ意思がありさえすれば、何とかなるものだと笑う。かえって、会社や仕事にしがみつく人の方が危ないんだと言う事を、経験で知っている様子だ。
「ひとつだけ、私の経験からお願い。出来るだけ二人で一緒に居て。何でも口に出して話して。大好きなところも、気に入らないところも、言ってくれないと案外解らないものだからね。口に出してしまえば、それで相手に伝わるし、自分も納得したり、反省したり、言った以上はそれなりに自分もやるようになったり、状況も変わるものよ。」
 僕は自分の状況をぽつりぽつり話しながら、人生の先輩に相談に乗ってもらっているような感じだった。あなたはどう思うの?自分で一番やりたいのは?などと言われるたびに、自問自答して何が自分の望みなのか、どういう方向に進みたいのか、霧が晴れるように見えてくるようだった。霧が晴れると言うより、朝日が昇る前、景色が徐々に見えてくるようだったかも知れない。こういう人が、義理のお母さんになるのだと思うと、うれしい気分だった。
「迷ったり、ためらったり、後悔したり。いろんな事があるわよ。ヒロよりもいい女が現れて、ヒロと別れたくなるかも知れないし。みんな、そうやってその場その場の状況で決断をしていくんだから。」
そんな事まで、さらっと言ってしまうお母さんには、かなわないと思った。

 僕の家族にも、ヒロを紹介した。ちょっと長いドライヴになったけど、二人で僕の実家まで出かけた。父も母も喜んでヒロを迎えてくれたのだが、僕の仕事の事や、今後の生活なんかについては、小言が大変だった。元々が口うるさい母は、今までの会社を辞めたことに、ブツブツと文句を言い続け、ヒロに向っては、こんな息子だけど大丈夫かと、しつこいくらいに何度も訊ねた。
 とりあえずは入籍だけして、結婚式はやらない。住むところは今僕が住んでいるアパートに住んで、子供の成長に合わせて考える。などという、いろんな事を話して、納得してもらった。
 出産予定日は十二月末頃だと話すと、父は、次の正月は孫の顔が見れるなどという話をして、一人で喜んでいた。



 季節が秋から冬に向っても、農家の仕事はエンドレスだった。収穫時期を終わった株を片付け、畑をトラクターで鋤き込み、新しい種を蒔いたり苗を植えたりする。まだたくさん実を付けている株も、収量と手間と出荷価格を考えて、切ってしまったりもする。おじさんは、理由を僕に説明したり、時には僕に相談したりしながら、判断をしていくようになった。次は何を作ろうかなどという事も、僕に言ったりする。農業の楽しいところと厳しいところの、両方の面が見えてくる。
 いつかヒロが言ったように、キャベツはどうかと、話してみた。
「ここらじゃ、あんまり作っていないからな。上手く行くかどうか。それに、ある程度の量がまとまらないと、農協も嫌な顔をするからな。」
そう言いながらも、ちょっと試しに作ってみようかと、畑の一角にキャベツのスペースを作ってくれた。売り物になるかどうかも判らないし、売るにしてもどうやって市場に出すか判らないものでも、作ってみてしまうのが、農業の面白いところでもある。
「これが上手く行ったら、またキャベツ尽くしの食卓になるな。ばあさんにキャベツ料理のレパートリーを増やしてもらわなけりゃ。」
などと言って笑う。
「去年出来た物が、今年はまるっきりダメだったり、予想外に良く採れたり、そうかと思うと大きくなりすぎて出荷できないほどになったり、何年やっても判らないことも有るんだよ。この歳になってもな。」
お茶を飲みながら、作戦会議のように次の計画を考える。おばさんも、昔作ったあれが良かったよね、などと言いながら、自分の希望を話す。会社勤めなら平社員では参加出来ないような、経営方針会議をやっているのだ。
 そんな日々のお茶飲み話の中で、ある日、おじさんが言い出した。
「どうだい。百姓は面白いかい?自分で考えて、売れる物を作ってみたり、失敗してダメになったり、いろいろあるけどな。
 今度植えたキャベツの出来が良くて、売り上げが良かったら、特別ボーナスを出そうかと思ってるんだが。」
僕の意見を汲んで作付けをして、それが当たればボーナスを出すと言うのだ。
「年金を貰いながらの百姓だし、がつがつ稼がなきゃいけないわけでもない。あんたがこんなに一生懸命にやってくれてるから、もうちょっと良くしてあげないといけないと思ったんだよ。」

 キャベツは、僕とヒロの期待に応えるように、すくすくと成長した。今までも何種類かの苗を植え、育っていく様子を見てきているのだが、今回は僕が言い出した事なので、余計にその成長ぶりは気にかかった。もちろんボーナスという言葉に惹かれたことも大きい。
 農業収入は、収穫した作物を市場に出して売れた金額が入ってくる。当然の事だが、その準備にどれくらい掛かろうが、どれだけ努力しようが、出来た結果だけが全てだ。石原さんのところで収穫と出荷をしていた頃には、農協から伝票が帰ってきて金額が書いてあれば、それだけ稼いだのだと実感する事が出来たし、僕もそれに貢献したのだと思えた。バイト料を貰うのも、当然のことだと思って居られた。でも、最盛期が一段落して、畑を耕したり次の作物を植えたりしていると、これがきちんと出荷出来なければ、収入にならないのだというプレッシャーを感じるようになる。
 石原さんは最初、最盛期の手伝いのアルバイトと言っていたのだが、その時期が過ぎても毎日僕を使ってくれる。
「お疲れ様。明日も来てくれるかい?」
と言うのが、毎日帰る時の挨拶代わりに成っている。
 その言葉に甘えて、毎日の作業をしてはバイト料を貰っているのだが、それは石原さんの負担になっているのではないかという、不安が有った。だからこそ、僕の言い出したキャベツが、他の作物と同じように、出荷して売れるものになって欲しいと願って居たのだ。
 ところが、ヒロの期待が大きすぎたのか、僕のかけた肥料の種類が間違いだったのか、すくすくと育っていたキャベツは、成長しすぎた様子だった。スーパーで売っているサイズの倍になりそうなほどなのに、玉にならずに伸びている株が目立つ。外側の葉に虫が付いて、虫食いの跡が目立ったりしているのもある。
どうやら、最初の試みは失敗だったかなと、僕もおじさんたちもちょっとがっかりしていた。ヒロも週末毎に、様子を眺めに来ていたから、落胆の表情は同じだった。
 そんなある日、もうお腹の目立つようになっているヒロが、こんな事を言い出した。
「市場では規格通りのもので無いと売れないんでしょう。でも、食べて同じなら買っても良いって言う人は居るよね。そういう人に直接売ったらどうなの。」
確かにそのとおりなのだが、どうやってその販売経路を作るのか、石原さんも僕も解らなかったのだ。
「とりあえず、今度の週末の連休に、フリーマーケットが有るから、そういうところに持って行って、試しに売ってみない。」
そう言うと、そのフリーマーケットの主催者に連絡を取って、出店の申し込みをしてしまったのだ。どうやら主催者というのはヒロの知り合いで、出店状況が淋しかったらフリマが盛り上がらないと、心配をしていたらしい。だから、どんな種類であれ、出店は大歓迎だった。
 おじさんに話すと、それなら試しにやってみろと言ってくれた。どうせ出荷出来なければ一円にもならないのだ。畑に穴を掘って埋めてしまうよりは、誰かに食べてもらえれば、その方が良いと言う。もしも持って行くなら、キャベツだけでなく他の野菜も持って行って、売ってみれば良いとも、言ってくれた。  
僕とヒロはフリマの前日から準備をして、野菜を満載にした軽トラックで出かけて行った。
会場には、本当にいろんな種類のものが売られていた。雑貨小物、古着、古本、陶器、手芸品、食べ物の屋台を出している人も居た。そんな中で、会場にそのまま軽トラックを乗り入れて野菜を売っているのは、いっぷう変わっていて人目を引いた。ヒロはスケッチブックにカラフルなマジックで大きく〈新鮮・ヘルシーベジタブル〉と書いて、看板代わりにした。
野菜なんて場違いだよと言わんばかりに、不思議そうな目で眺めていく人。こんな若い二人で野菜を売っているのが珍しいのか、いろんなことを尋ねてくる人。ヘルシーという言葉につられたのか、女性には好意的に見られていた様子だった。お腹の大きいヒロが売っていることで、安心感が増したのかも知れない。昼過ぎになると、会場の近所の主婦層に口コミで広がったのか、ご近所の主婦が野菜目当てに来てくれた。ヒロは、野菜の料理方法なんかを教えながら、値段交渉を上手く仕切って、着実に売り上げを伸ばしていった。夕方終わる頃には、用意してきた全部の野菜が完売になった。売上金額も、最初に設定した値段の七割くらいにはなっていた。昨晩は、どうせダメ元だから半額くらいになれば良いよね、と話していたのだから、予想外の大健闘だ。
片付けをして、軽トラックを返しにおじさんの家に戻った。売り上げの金額を報告してお金を渡そうとすると、そのお金の入った封筒を僕達にそのまま渡してくれた。
「これは今日のバイト代と特別ボーナスだよ。今日は二人で頑張ってくれたし、こうやって新しい販売先も作ってくれたからね。」
 作ることから売ることまでかかわっていくことで、農業の難しさと楽しさを感じた日でもあったし、売り上げを握り締めて部屋に帰って、働いたことを実感した日でもあった。



 街もクリスマスカラーに変わり、子供達の冬休みが目の前になる頃、農家の仕事も冬休みになる。夏の最盛期には毎日収穫しても、翌日にはまた山のようになっていた野菜も、寒さとともに成長も鈍る。週に2回程、冬野菜を出荷するほかには、畑の手入れや農機具のメンテナンスなどが、主な仕事に変わる。そして、それも十二月の二十日を過ぎると、もうやることも無くなってしまう。 作業場の大掃除をして冬休みになった。
「来年は七日過ぎから始めよう。よろしくな。」
と言って、僕に十二月分のバイト料に冬のボーナスとしていくらか足した金額をくれた。
「本当に半年、ありがとうございました。来年もよろしくお願いします。」
と改まって挨拶した僕に
「そうそう、もうすぐ子供も生まれるんだから、頑張らなくちゃね。生まれたら教えてちょうだいね。お正月に行くところも無いんなら、遊びにでもおいで。」
とおばさんは言う。
 ヒロは予定日が近くなって、会社から出産休暇をもらっている。のんびりと部屋の片付けを済ませ、三人での始めてのお正月を、アパートで迎える予定だ。
 クリスマスイヴの朝、今晩はなにかご馳走でも作ろうかなどと、話していた時だった。ヒロがお腹を押さえて、苦しそうな顔をした。
「来たかな。」
「本当?」
「うん。たぶん。私も初めての経験だから、わかんないけど。たぶんね。」
「そうか。じゃあ行こうか。」
すでに入院の仕度は出来ている。バッグを車に放り込み、ゆっくりと慎重に運転して病院に向かった。街並みは師走の慌ただしさが目立つ。車の中だけが、時間の流れ方がゆっくりとしているようだ。
「このままだと、キリストさんと同じ誕生日かな。」
「そうね。おめでたい息子だわ。」
もう検診で男の子だということは、知らされている。
 長い待ち時間が、ゆっくりと流れて行った。待合室のテレビでは夜のニュースも終わり、音楽番組で賛美歌が流れた。やがてテレビも静かになり、僕のポケットの携帯FMからジョン・レノンのハッピークリスマスが静かに流れる中で、分娩室から待ちに待った声が聞こえた。世界で一番神聖な声に思えた。
 しばらく待つと、看護師さんが分娩室の扉を開けて、中に手招きしてくれた。まだ分娩台に乗ったままのヒロ。その隣には産湯で洗ってもらってきれいになった息子。聖なる夜の一番のプレゼントだった。
「やっぱり、あの名前にするの?」
微笑みながらヒロが尋ねる。子供の名前を考えた時に、クリスマスに生まれたら「聖夜」にしようかと、二人でふざけて笑ったのだ。本当にこんなタイミングで生まれるとは思ってはいなかったのに。
「そうだね。ここまでタイミング良く生まれて来るんだから、そんな名前でも似合うと思うよ。」
男なら聖夜、女なら聖音、昔読んだ漫画の主人公かなにかの名前だったと思う。
「きっとお父さんに似て、いい男になるわね。」
そう言って微笑むヒロ。安らかに寝息をたてる息子。聖なる夜は静かにふけて行った。

終章・サマータイムブルースが聴こえる


「せいや!転んじゃうよ!」
ヒロの声がとうもろこし畑のどこからか聞こえる。麦わら帽子に青い長靴の息子が、どこかを駆け回っているらしい。
 ヒロは六ヶ月になる娘の穂波を背負って、息子を追い掛け回している。夏の日差しは暑いが、風が感じられるので不快では無い日曜日だ。
 今、僕は石原さんと共同経営という形で、農業をやっている。結局、次の仕事を探すこともせず、あのまま農業に入り込んでしまったのだ。石原さんも、石原さんの息子も、僕がこの仕事を続けることに何の異論も無いという。
 共同経営とは言え、僕は本来何も持っていなかったのだから、その分を労働で出資する事になる。石原さんが農地や機械などを提供して、作物に関するアドバイスをくれて、農協関係の資材調達などをしてくれる。僕が実作業を主にやって、販売関係を担当する。もっとも販売で実際に活躍しているのはヒロだ。
 最初のフリーマーケットでの成果に気を良くして、インターネットを使っての直接販売を企てたり、畑に〈石原農園〉と看板を立て直売をしたり、いろいろな事を考えて、すぐ実行に移している。
 住むところも変った。息子が産まれて半年ほどして、アパートの契約更新の時に、苦情を言われたのだ。確かに、最初は一人で居たのに、二人になり赤ん坊が産まれ、その子の泣き声が毎晩聞こえるのでは、お隣も苦情を言うだろう。
新しい部屋を探そうと考えていた時に、石原さんから助け舟が出た。息子さんが結婚してから一年ほど住んでいた離れが空いていると言うのだ。
「狭いかもしれないが、キッチンもトイレも風呂も独立して作ったんだよ。いずれ孫が出来ても、きちんと暮らせるようにね。こんな近くに気心の知れた人が居てくれれば心強いよ。もっとも、目の前が仕事場だとあんたの方が落ち着かないかもしれないな。」
 僕達はありがたくその申し出を受けた。きちんと家賃を払って、その離れに入る事にした。ヒロにしてみれば、近くに石原さんたちが居るので、息子を育てるにも安心出来た様子だ。石原さんたちも、まるで孫でも見るように息子を可愛がってくれる。
 石原さんの息子さんも、親の近くに誰かが居ることで安心できたらしい。こちらに帰ってきた時には、一緒に飲んだりする。弟でも出来たような気分で居るらしい。
「どうせこんな農地も家も二束三文なんだから、お前が引き取ってくれるならありがたいくらいだ。なんなら親父と養子縁組でもして、ジジババ付きでどうだ。」
などと笑って言う。どうやら、関西の奥さんの実家の近くに家を建てる計画をしているらしい。
 ヒロは、この離れからいままでの会社に通っている。週末は僕の仕事を手伝ったり、新しい計画を考えたりしている。石原農園のホームページの更新もこまめにしているようだ。主婦のグループからメールで注文が来る事もある。
 今日も、とうもろこしの収穫を手伝いながら、背中の穂波に子守唄を唄っている。
「こんな青空の下なんだから、もっと景気の良い曲を唄ってくれよ。」
僕がリクエストをする。
「何が良いの?」
「サマータイムブルースなんてどう?」
〈サマタイムブルー。サマータイムブルース〉。と唄いだす。
「美里じゃなくてさ。エディ・コクランのが良いな。ほら清志朗がカバーしたやつだよ。」
そう言いながら、僕がイントロのリフを口笛で吹く。昔、バンドでやった事のある曲だ。ヒロの声が僕の口笛とハモる。とうもろこしの中に隠れていた息子も、様子を眺めに顔を出す。ヒロの背中に居る娘も、ご機嫌な声を上げる。
 こうして家族が増えて、毎日顔の見えるところで暮らしている。時々、ヒロのお母さんも孫の顔を見にやってくる。この先どんな転機が訪れるのか判らないが、いつまでもこうしてやっていけたら良いと思っている。
 空は気持ち良く澄み渡っている。ヒロの唄うサマータイムブルースが、とうもろこしの畑の上を、そよ風に乗って流れていく。
  

                 了

サマータイムブルースが聴こえる

とある文学賞に応募したなかで、最終選考まで残った作品です。
(ちなみに私の前出の作「ユーリ明日も晴れるよ!」も残りました。
 500を超える応募作の中で、最終選考13作に二つ残ったのは私だけでした。)

ユーリが女性を主人公にしたストーリーなので、対照的に
男の子を主人公にしたストーリーに仕上げました。
「ユーリ」と合わせて読んで貰えれば、嬉しいです。

派遣切りでやめさせられた女の子に対して、こちらは上司ともめて自分から会社を飛び出してしまう男の子の話です。

最後のハッピーエンドのイメージを出したくて、「サマータイムブルース」を使ったのですが、その後3.11事件が有り、この曲も別の意味で有名になってしまいました。
原子力に関係した深い意味は、何も有りませんので誤解無きようお願いします。

サマータイムブルースが聴こえる

ごく平凡な会社で、ごく平凡なサラリーマンをやってた僕は、 ふとしたはずみで上司と諍いになり、会社を飛び出してしまう。 昨日までの日々が一転した後、待っていた生活は? 幸福な生き方は、どこに有るのだろう? いろんな人との関わりの中で、成長していく主人公。 彼を取り巻く暖かな人達のもとで、自分の居場所を見つけて行く青年の話です。 成長していく彼を応援してやってください。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-08-10

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 第一章・跳ね返りBOY
  2. 第二章・なんだか不思議な縁で・・・新米ファーマー
  3. 終章・サマータイムブルースが聴こえる