最期の場所

最期の場所

            ◆

 彼方に、塔が見える。
 男は足を止め、息を吐いた。生きるものを寄せつけない純白の砂が、すべらかな風紋を描きながら無数の丘を形成し、抜けるような青空の奥へとつらなっている。
 空の青と、砂の白とに支配された、死の砂漠だった。
 男は老いていたが、引き締まった屈強な身体をしていた。頭から被った薄黒い装束の間から、異様に落ちくぼんだ両目が覗いて、うつろに広がる景色を捉えている。
 死を想ってから約一年、遥かな道を、この砂漠を目指して旅してきた。何も見えず、何も聴こえず、何も存在しないこの場所で死んでいくことが、男の願いだった。
(蜃気楼だろうか)
 塔は細い針のように、地平の果てから空に向かって、伸びている。
 男はぬるく舌を打って、足もとに視線を落とした。
(死に場所さえも選べぬか)
 無に還る場所とされる、何も存在しないはずの砂漠。塔は突如として出現し、最期に向かってやすらかに歩いていた男の心を波立たせた。すり傷だらけの旅靴に、うずくまるようにして寄り添っている己の影から視線を外し、男は再び、前方を仰ぐ。
 あの場所に行き着くまで、この身体は持つだろうか。
 ふと、腰に手をやった。古い水筒の栓をひねり、中身を飲み下す。男は脱力し、その場に座り込んだ。熱い地面に手を置くと、透明な砂が甲を流れる。身体の中心に、ゆっくりと水が染みていった。
 男はぎょろりと、目を動かした。塔の上で死ぬのも良いかもしれないと、思いつく。
 塔の上から、茫々と続く白い砂漠を眺めながら死ぬのはどうだろう。生涯抱き続けた焦燥など、求め続けた風景など、何の意味も持たなかったのだということを、狂おしいほどに胸に刻みつけ、この世界から消えていく。
 男は立ち上がった。

 男の母は画家であった。
 別れてから半世紀以上経つというのに、幼い手で掴んだ、そのしなやかな腕の感触を覚えている。彼女は心を患っており、床下に棲む虫や小動物、路地裏の乞食など、自らが「下位」と判断したものを、過剰なまでに蔑む嫌いがあった。
 母は主に風景を描いていた。林を吹く風の音や、闇夜に沈む水面のつぶやきが漏れ出るような情景を、油臭い手をキャンバスに擦りつけながら次々に生み出した。それはこの世のどこにも無い、彼女の内側に息づく、完璧な美しさに基づいた世界だった。
 母が消えたのは男が十一の時で、傷だらけのテーブルに、あたたかな食事が二人分、並んでいた。
 普段と違ったのは、食卓のかたわらに置かれたイーゼルに、絵が飾られていた点である。母に自分の絵を飾る習慣は無かった。
 ――冷めないうちに食べなさい。
 それが母の口癖だったので、男はひとり食卓につき、湯気のたつスープを口に運んだ。あっさりとしたうま味が舌に染み、やわらかく煮えた野菜が溶けた。
 視線を上げると、飾られた絵が目に入る。
(母さんが来たら、今までで一番好きな絵だと言おう)
 絵の具を盛り上げるようしてに塗られた濃い群青の空に、白い月が浮かんでいた。
 影にまみれた街は、道や壁の模様、排水溝で揺れる藻に至るまで細かく描き込まれ、もしかしたらこの絵だけは実在する場所なのではないかと、男は思った。特別なものだからこそ、こうして飾ったのかもしれない。
 絵を褒めても、母はいつも無反応で、少年はそのたび、凄まじい孤独の波に耐えねばならなかった。だが、次こそは微笑んで、抱きしめてくれるのではないかと、そう思えるだけの何かがこの絵にはある。
 しかし、母はそれきり、二度と戻っては来なかった。方々を探し歩き、足を棒にして再び部屋に戻った時、飾られていた絵は忽然と、消えていた。
 母の首の甘い匂いや、頬に触れてくる指の温もりを夢想して過ごすうち、少年はある思いに憑かれ始めた――母は、あの絵の場所にいるのではないか。
 胸に刻まれた、ただひとつの美しい風景。再び出会うことができるなら、この目に焼きつけることができるなら、どのような苦痛もいとわないと思ってきた。胸を掻きむしるほどに焦がれながら、この世を放浪した、半世紀を超える日々。
 だが、望みはついに叶えられず、長い間はりつめていた精神がそっと、蝋が溶けるようにおとろえていくのを、男は感じている。

            ◆ 
 
 塔はなめらかに磨かれた石造りだった。
 黒光りする壁には、見たこともない奇怪な文字が隙間なく刻まれ、石材の継ぎ目はどこにも見当たらない。白々とした大地から突き出た三角柱の黒い塔が、空に吸われるようにそびえる様を、男は途方に暮れる思いで見上げていた。
 男の前には出入口がひとつあり、中は薄暗く、人の気配は感じられない。扉の無い、三角に切り取られただけの出入口で、風のうなりが低い笛のように響いて、外に漏れている。
 探るように足を踏み入れると、思いのほか早く、階段に行き当たった。塔の内部は吹き抜けで、内側の壁に沿って規則正しく刻まれた石段が、上へと続いていた。
(……明るい)
 男は静かに、しみだらけの目もとを細めた。
 塔の内部には滲むような光が漂い、その闇をわずかに溶かしているが、視界に窓は存在しない。風の響きを聴く限り、外気は遥か上方から流れ込んでいるようだった。
(……………)
 全てが人知を超えている。だが、引き返すという選択肢は無かった。男は重い脚を持ち上げて、階段を進みはじめた。
 仄暗く閉鎖的な空間に、身体が少しずつ順応していく。道はどこまでも続いており、延々と繰り返される同じ景色と、塔内に反響する振り子時計のような自分の足音に、前後不覚に陥るような畏怖を覚えた。淡い緑に発光する階段は昇っても昇っても、一向に途絶える気配がない。
 外から見上げた塔の、その尋常でない高さを思い起こし、男は無表情に溜め息を吐いた。飢えと渇きは疲労によって押しつぶされ、ただ干からびた呼吸音だけが、頭を行き来している。
 傾く身体が壁を擦り、意識が白み出したころ、わずかな風が頬に触れた。新鮮な冷気が肺に流れ、視界が開けた。
 広々とした、三角形の部屋だった。いくつもの巨大な窓が周囲を囲み、風を取り込んでいる。中央には金属製の螺旋階段がしつらえられ、丸くくり抜かれた天井に消えていた。
 男は窓に歩み寄り、目を見開き、突き抜けるように広がる外の景色を凝視した。
 星をたたえはじめた濃厚な青の空が、連なる砂丘の奥に続いている。宙に立っているのかと、錯覚するほどの高さだった。冷たい風の中、身を乗り出して天を仰ぐと、塔の頂上が見えた。
 男は黒い石の床に座り、窓のふちに頭をつけた。
 恐らくもう、終わりにすべき時だ。世界には何も無いと信じられるほどの光景が、一足外には広がっている。あとはその一足を、踏み出せば良いだけだった。
 外界のうす青い光を、美しく照りかえす黒い壁に背中をあずけ、投げ出した足にまとわりつく、埃まみれの装束の端を男は見つめていた。
 東の果ての商人から譲り受けて以来、どれほどの時を、この分厚い布をまとって過ごしてきただろう。本当ならこのまま、広大な砂漠の屑となって、風の中で朽ちていくはずだったのだ。つややかに光る上質な石の上に、襤褸にくるまれた自分が不釣り合いに在る現実を思い、男は口許を歪め、うつむいた。
 その時、硬い音があたりに響いた。
 かすかではあったが、人為的なものを感じさせる、耳に残る音だった。男は目を上げ、螺旋階段の続く先を、見透かすようにじっと眺めた。
 熱を失い、こわばった胸の底で、尽きたはずの探求心が埋火のように息をしている。世界を歩きつくしたと自覚する男にとっても、この塔はまだ、未知だった。

 宇宙という場所の話を聞いたことがある。
 それは星々の世界だという。全てから解放された闇一面に、無限のいろどりを放つ光が撒き散らされ、渦巻き、弾け、惹き合っている。
 螺旋階段の途中に、男はいた。
 輝く金属製の階段には、おそろしく精巧な細工が施されている。可憐にしなだれた小さな花、生い茂った樹々、砂漠を進む駱駝の商隊。
 それらをひとつひとつ踏み越えて、男はこの場所までやってきた。そしてゆっくりと歩みを進めながら、周囲を取り巻く宇宙を見渡していた。
 無数の本が音もなく浮いて、渦巻いている。
 それは星ではなく、本だった。色とりどりの装丁の、あらゆる言語を宿した本が、闇に微光を投げかけながら漂い、巨大な群れを形成して、宇宙のような光景を作り出している。空間は無限に広がり、果ては見えない。
 男はただ幼子のような顔をして、それを眺めるしかなかった。長い旅の間、何を見ても石のように動かなかった胸の奥底が、震えていた。行き場をなくして回遊し、悲しんでばかりいた心の断片がそっと降りてきて、あるべき場所に沈んでゆく。
 何もかもを忘れ、ただ没頭して、見つめることが許される光景がそこにはあった。
 階段は異様に長かった。窓から顔を出し、塔の頂上を見やった時、果たしてここまでの距離があっただろうか。柔らかい意識にわずかな疑念がよぎったが、進んでいくうちに、それは消えてしまった。
 やがて頭上に、空間を無造作にくり抜いたような、小さな出口が現れた。
 近づくにつれ少しずつ、空気が変わりはじめる。ぽっかり開いたその穴から顔を出すと、質量のある静寂が覆いかぶさってきた。階段が尽き、塔の頂上に位置する部屋に、男はたどり着いた。
 少し肌寒いその部屋は、不気味なほどに白かった。
 壁や天井が、白で均一に塗られている。色を含んでいるのは褪せた木製の棚と、そこにぽつりと置かれた古めかしい銀のコップだけだった。
 隅には小さな水場が作られていた。白い陶器の甕に、透明な水がなみなみと満ちている。
 男は発作的に水場に跳びつき、垢にまみれた顔をつけ、その冷たく不可解な水を夢中で吸い上げて、のどを鳴らして飲んだ。全身の血が入れ替わったかのような、違和感と爽快感の入り混じった衝撃が、腹の底から突き上げる。
 吐き気をこらえながら、男はしばらくの間、白い甕に額をあてていた。不安定な呼吸を鎮め、周囲の静寂に、じっと耳をすます。
 背後に、まぎれもない人の気配があった。
 振り向くと、そこには質素なベッドがあり、少女がひとり、座っていた。
「おじさんは誰?」
 唐突に少女は訊いた。
 男は応えず、うずくまったまま目線を動かして、相手を観察した。
 少女の髪は白く、ベッドから垂れて床につくほど、長かった。うす灰色の目が、まばたきもせずに男の姿をとらえている。
 痩せた身体にまとった光沢のある服は、おそらく絹だろう。肩を覆うように広がった襟は細かく編まれており、身頃には流れるようなひだを配した見事なつくりだったが、黄色く変色した様子が歳月の経過を感じさせた。
「お願い、近くに来てください。私、目が弱っているの」
 少女の声はかすれており、抑揚が少なかった。
 一瞬の沈黙の後、男は立ち上がった。
 水のお陰か驚くほど身が軽かったが、酷使した脚を引きずる様子は異様だったのだろう。ベッドの脇にたどり着くと、少女はささやくように「疲れているの?」と問うた。
「いや……」
 言いかけて、男は首をひねり、ごつごつした指で口もとを撫でる。誰かと口を利いたのは、数年ぶりのことだった。
「どうかな」
 不器用なしぐさで答えると、少女の顔に、ひっそりとほころぶような笑みが浮かんだ。
「ずっと待っていたのよ、ここにだれかが来てくれるのを。ずっとずっと待っていたの。おじさんが思うよりも昔から」
 少女の話し方は静かで、打ち明け話をするかのようだった。
「私、もう少しで死ぬの。ついさっき、立つことができなくなったのよ。もう脚が動かないの。あのね、そこに落ちた本を取ってくださる?」
 死、という言葉には、もはや何の感情も覚えないはずだった。しかし、目の前に座る少女から発せられるその言葉は、淡泊でありながら妙な生々しさを持ち、胸に迫ってくる。
 男は動揺を悟られぬよう、そっと顎を引いた。
 目線を落とし、足許を探ると、小さな本が落ちている。質素な装丁の、古ぼけた本だった。拾い上げて差し出すと、 少女はかぼそい指を伸ばし、大切そうに膝の上におさめた。
「ありがとう」
 ひとりごとのように呟いた後、少女はしばらく喋らなかった。
 外はすでに夜だろう。窓のない部屋に、砂漠を渡る風の音が、かすかに響く。
「………図書室を通ってきたの?」
 男はうなずいた。図書室、と言われ、思い当たる場所はひとつしかない。
 少女は無表情に続けた。
「あそこの本は、全部読んだわ。私、本に書いてあることなら、なんでも知っているのよ。――でも」
 透き通るような睫毛にふちどられた瞳の中に、わずかな狂気と、うつろが混じる。
「この塔から外に出たことがないの」
 男は目を細めた。
「死ぬ前に、あなたが歩いた世界の話を聞かせて」

            ◆

 春の小さな花の咲く、若い緑の草原を、長い隊列を組んで進む放浪者の集団があった。
 頭上にはみ出すほどの大きな荷を背負い、陽気に言葉を交わす者もいれば、ただ黙々と歩く者もいる。男も女も銀色の紐で髪を結い上げ、集団を象徴するであろう黒い尾長鳥の模様をあしらった、毛織りの布の装束をまとっていた。
 木陰に寝転んでいた男の目に留まったのは、父親の背負う籠に潜って、顔だけを外に出している日に焼けた子供だった。
 ふくらんだ頬は赤く色づき、少し荒れているように見えた。親に守られ、安心に包まれた表情で、薄青い空の雲間を縫うようにして、彼方を見つめていたその目を思い出す。
「素敵だわ」
 呟くと、少女は細い息を吐いた。やわらかそうな白い枕に上半身を預け、瞳を伏せて、男の話に耳を傾けている。男はベッドの脇に立ち、朴訥とした口調で少女に求められるがまま、語り続けていた。
「おじさんは、本当に見たんだものね……」
 少女は顔を上げ、男の目を見つめる。
「本を読んでいくら想像しても、どこかがぼやけてしまうのよ。私の知っている世界は、あまりにも小さすぎるから……それでも構わないって自分に言い聞かせて、空想のひだの中に埋もれてしまうこともできたけれど、それはとても恐ろしいことのような気がしたの。それだけは、どうしてもできなかった」
 男は少なからず驚き、老いた目を瞠った。
 林に囲まれた家で、周囲を散策することもなく、大半の時間を創作に費やしていた母の姿が胸をかすめる。心に架空の世界を造り出すこともせずに、この絶望的なまでに閉鎖された環境で、良く正気を保っていられたものだ。
「ねえ、太陽の下で、子供の髪は光るでしょう?その光は、どんな風に動いて見える?」
「……………」
 しばらく沈黙した後、埋もれた記憶を掘り起こしながら、男は言った。
「子供の髪は繊細で、良く光る。陽の下で自由になると、子供というのは笑って、せわしなく動くものだ。髪の光にも意思が宿って、喜びに跳ねているかのように見える。ただじっとして、風に吹かれている時などは、毛先に光がたまることもある」
「でも、幸せに跳ねている子ばかりじゃないでしょう?不幸な子の光は、動かないの?」
「活発ではないかもしれないな。だが、滑るように、迷いなく動く。光も美しい」
 少女は微笑んだ。
 ――何故ここに、塔が?
 ――何故、生きていられた?
 ――一体、いつから。
 ――一体、何の為に。
 少女に問いただすことはできる。そしておそらく、少女は答えを拒絶せずに、ありのままを告げるだろう。
 しかし男は、残された時間の全てを、この哀れな少女に捧げようと決めていた。そう決意した今、先に挙げた疑問など、さしたることではないように思える。
 少女と対峙し、語ることが許されるこの一瞬一瞬が惜しかった。無駄に思えたこの人生も、少女にとっては、狂おしいほどに輝いて感じられるに違いない。
 男が胸に抱き続けた、ただ一枚の母の絵のように。
「海を見たことがある?」
「ああ、あるとも」
 男は頷いた。
「私、海がどういうものかは知っているけれど、そんなに沢山の水があるなんて……どうしても信じられなくて。でも、おじさんは見たのね」
「……少し、砂漠に似ているよ。船の上から眺めていると、水面は細かく、ちょうどこの白砂漠の砂粒のように輝いて見えるし、風によって様々な模様をつくる。ものすごく塩辛くて、飲むことができないから、海を渡る時は水の用意がないと死んでしまう」
 少女の瞳が深い海をさぐるように、ゆったりと閉じている。男はどこか物憂げに、その姿を眺めた。少女が独りきりで、水の満ちた小さな瓶を前に、海を思い描こうとたたずむ様が頭をよぎった。
「サカナが沢山いるんでしょう?」
「ああ。抱いている命の数は、砂漠とは比べ物にならないな。船で海を漂っていると、下に潜んでいるあまりに膨大な命の気配に、恐ろしくなることがある」
「そう……」
 少女は胸に手を当て、慈しむように、男の話に頷いた。
「不思議ね……そんなに沢山の命を抱いているのに、外の生き物をうるおすことは拒むなんて」
「しかし、海の水が空に昇って、雨となって、大地をうるおすのだよ」
「ああ、それも本に書いてあった。土に染み込んだ雨が大きな水の帯になって、また海へ還るのね」
 少女は手のひらを白い天井にかざし、降る雨を透かし見るように呟く。
「本を眺めていると、中身は少しずつ覚えていくけれど……自分との間に薄い膜があるようで、本当のことに感じられなかった。それに気づいた時、あまりに悲しくて、自分の身体が消えていくような心地がしたの」
 男は目を伏せた。全く違う境遇にあっても、男も常に、そういう心地で生きてきたように思う。
「おじさんと話していると、色の褪せた私の心に、命が吹き込まれてくるようだわ。ばらばらだった世界が、つながっていくような気がする」
 少女は微笑み、腕を下げて男を見やった。
「海の中にも、高い山があるって、本には書いてあったわ」
「そうらしいね。残念ながら、海に潜ったことは無いが」
「……じゃあ、森はどうかしら。よく知っている?」
「ああ、それなら」
 いくらでも語ることが出来ると、男は思う。同時に、軽い驚きを覚えた。
 森を歩く時、方角を見失って幾日も彷徨ったり、得体のしれない獣の気配に肩をこわばらすことはあっても、どこか満たされていた。常に胸を占めていた母への執着も、その時ばかりは僅かではあるが、和らいでいたように思う。
(………好き、だったのだろうか。森が)
 数十年放浪した挙句、ここにきて始めて、その可能性に行き当たった自分が滑稽に思える。
「森にも様々な種類がある。周囲の温度や空の様子、空気の湿り具合によって、森の在り方は全く違うのだよ……ああ、しかしまずは、木について説明せねばならないね……」
 気がつけば男は、せきを切ったように語り出していた。
 真っ直ぐな幹が黒々と林立し、影のような葉が空を覆う、同じ風景が延々とつづく森。
 黄緑色に生い茂る草木の間を、霧がうっすら漂う静寂の森。
 あちこちで隆起し、波打つ地面に、曲がりくねった樹々がまるで無秩序に生え重なる、磁石の効かない迷いの森――一夜の宿をと潜りこんだ廃屋で、屋根裏に住みつく老女に喰われそうになったことをぼやいてみせると、少女はくすくすと笑った。
 土を覆う落ち葉がたてる軽やかな音、その柔らかさ、親木の根株から発芽した、ほっそりと小さな若木。無限にひそむ小さな生物たちの息吹、見上げた枝の葉の間から射す、歩くたびに輝きを変える陽の光。
 雪の森は美しく、どこまでも静かだった。無数の結晶を踏んで進む足音と、ときおり響く、枝から雪の落ちる音とが、張りつめた静けさをより一層引き立てる。
 熱帯の森には濃密な命の匂いが立ち込め、むきだしの生物の気配が、常に緑を揺らしていた。
 少女はどこか恍惚とした表情で、話に聴き入っていた。薄く開かれたその目は、男の生きた世界を、吸い込もうとしているかのようだった。
 熱に浮かされたように語るうち、記憶につもった埃を払い、そこに同化し、果てには世界と同化しようとするかのような、眩暈にも似た刺激が男の身体を揺さぶった。
 幼いころ、無条件に感じていた、自らへのひたむきな愛情。泥のついた足でくさむらに転がって、ただ息をして、風に揺れる樹を見上げていた時の、何物にもかえがたい瑞々しい心地。
 男は優しい思い出の隙間に身をしずめ、その穏やかな息を言葉に織り込みながら、少女に送りつづけた。
「おじさん、語り部の才能が、あるかも」
 長い語りがついに落ち着こうかというころ、少女は血の気のない頬の表面にうすい涙をつたわせて、呟いた。
 夢にとらわれたかのように意識が定まらず、男は不安定な息をしずめるように、冷たい床に座り込んだ。
「……大丈夫?」
 少女が心配そうに問う。
「ずっと立たせてしまって、ごめんなさい」
「いや……気にすることはない。慣れているよ」
 男は首を振ると、自分の膝に腕をもたれ、白々と広がる壁に視線を泳がせる。巨大な空洞に嵐の断片が吹き込むかのような、低い耳鳴りが頭に響いていた。
「…………」
 長い沈黙が、白い部屋を支配する。
「………ねえ、おじさん」
 やがて少女がぽつりと、口火を切った。
「どうしてここへ来たの?」
 男はしわがれた目蓋を閉じ、小さくうなった。
 人生を呑みこむほどだった衝動も、少女との対話を通してみると、酷く浅はかで、くだらないものに思える。一体自分は、何をしてきたのだろう。あんなにも自由な、空と、海と、大地とに祝福された環境に身を置きながら、一体何を。
 男は膝の間に顔をうずめた後、そっと息を吐いて、降伏するように、ありのままを少女に打ち明けた。自分の存在を放置し、消えた母と、煮えたぎる不信感にさいなまれ、それでも母から離れられず、絵空事を信じ込もうとしていた自分。
(――ああ、そうか)
 全ては絵空事だったのだ。
 絵が実在するはずのないことは、とうの昔に分かっていた。それなのに、まとわりつく幻想を、ぬぐい去る努力もしないままで、醜く老いてしまった。違和感を叫ぶ小さな心を封じ、ただがむしゃらに世界を這いまわり、母の幻影に依存し続けたのだ。今ならばそれが、はっきりと分かる。
「私は、誰にも愛されなかったのさ」
 男は吐き捨てた。
 そう――ただ、寂しかったのだ。母から、真心のこもった視線を送られたことなど一度もなかった。それが、穴のあくほどに、寂しかった。自分の心さえも手放してしまうほどに、寂しかったのだ。
 男は肩を震わせながら、その場から逃げるように身体を丸めた。先刻に比べて何というありきたりな、つまらない話を自分はしているのだろう。少女もさぞかし呆れ、失望しているに違いない。激しい羞恥が胸を灼いた。
「……おじさんは綺麗だわ」
 不意をつくその呟きに、男はぎょっとして顔を上げた。
「皺だらけの顔も、首も、手も。染みだらけの日に焼けた肌も、濁ったクリーム色の目も」
 男は唖然として、少女を見つめる。
「ぼろぼろになった埃っぽい服も、頭巾からはみ出している、水気のない灰色の髪も。おじさんは感じない?その絶対的な美しさを」
「いや……綺麗というのは、君のような」
 人間に使う言葉だ。うろたえながら絞り出した台詞を、男は途中で飲み込んだ。
 少女の肌から、わずかに残っていた艶さえもが、失われ始めていた。ベッドにあずけた痩身は完全に脱力し、こちらを向ききらない青白い顔の中で意志の強い瞳だけがぎらぎらと、男を見据えている。いよいよ死期が迫っているのだと、男は悟った。
「――おじさんのことが好きだわ」
 男の視線を受け止め、少女はかすれた声で続ける。
「おじさんは優しい。こんな風に醜くて、得体のしれない私のことなんて、放っておこうと思えば簡単なのに。死にたくて死にたくて仕方がなかったのに、私のために生きて、時間を使ってくれたんだわ」
「待て、君は」
「あなたは、お母さんの良いところをちゃんと貰っているのよ。何かを表現して、人に伝える力を持っている。そして、お母さんには出来なかったことがあなたにはきっと、出来るはず」
 熱を帯びた言葉で語る少女が、母と重なった。
 似ているのだろうか。いや、おそらく、似ていない。母であれば絶対に、口にしない言葉。そして男が母の口から、何よりも聴きたかった言葉。
「だから、私が死んだら、帰らなきゃ駄目よ」
 男は押し黙った。
 瓶の水を飲んだ瞬間から、身体には不自然なほどの力が戻り、砂漠を渡る過酷な旅にも、どうにか耐えられそうである。
 それでも、絶望はいまだ胸の奥でくすぶっている。足を踏み出すことが恐ろしかった。少女の求める世界に、自分はまた、帰ることができるのに。
「ねえ、湯気に触れたことがある?」
「………? ああ、あるとも」
 突然の問いに、男は戸惑いながらも答えた。
「触れると、手に水を感じるの? どれくらいの温かさを感じる?」
「そうだな……」
「土からも、湯気が立ちのぼることがあるんでしょう? それは温かい?」
「……いや、温かさはほとんど感じない。だが、土が持っていた水気は、かすかに感じるよ」
「そう……」
 少女はようやく、男から視線をはがした。
「人が誰かのために料理をしている時も、湯気が沢山出るわね。私、よく、そういうことを考えたわ。お鍋をかき混ぜる時、立ちのぼる湯気の温かさを皆、どんな風に感じているんだろうって。どうやって手に、身体に、その感触が伝わっていくんだろうって、考えていたの」
「ああ……」
 母の作った料理を思い出す。母が、たっぷりの湯気をまとった温かい料理を運ぶ時、全身の緊張がほどけるような強い幸福を、いつも感じていた。そして、料理がきちんと二人分あることを確認し、安堵したものだ。
 男は肩を落とし、瞼をおさえた。自分は幼いころ、満たされない部分よりも、何か一つでも、幸福な部分を探そうとする子供だった。母の料理から立ちのぼる湯気も、そのひとつだった。
 いつから、こうなってしまったのだろう。
「……私、運がいいわね。こうして誰かが、一緒にいてくれるなんて……生きた世界の話を聴かせてくれるなんて、思わなかった」
 少女は目を細め、残酷なほどに白く、無機質な天井を仰いだ。
 細い指が、胸に置かれた本を撫でる。
「……最後に、これを読んでくださる?」
 少女には既に、その小さな本を持ち上げるだけの力は残っていないようだった。男は立ち上がり、腕を伸ばして、本を手に取った。宙を舞っていた煌びやかな本とは違い、古めかしく、元の装丁が分からないほどに朽ちた、みすぼらしい本だった。
「私の、一番大切な本なの。この本だけは、私に寄り添ってくれる気がした。おじさんの語りに、少し似ているかもしれない」
 かろうじて読み取れる題字は、偶然にも男の故郷の言葉で書かれている。中身をめくると外側よりも痛みが少なく、なんとか読むことができそうだった。
「本を、沢山読んできたけれど……誰かに読んでもらうのは、初めてだわ……」
 それは、巨大な街の底を這いまわる、鼠たちの話だった。
 薄汚く、誰にも気にかけられない、必要ないとされる世界の物語。
 一滴の水の中に広がる無限の景色や、空間を舞う塵のきらめき。濁った水路で、繊細な筋状の葉を揺らすやわらかい藻が刹那に発する、鮮やかな光。
 人に疎まれ、影に追いやられた鼠たちの小さな目に映る、圧倒的な世界の様子が、狂気さえも孕もうかという細やかさで、溢れるように描き出されていく。ただ生きて、息をしているその喜びと、絶望の淵でもがき続ける苦しみを知らなければ生み出すことはできないであろう、生命を持った文章だった。
 深い闇に射す一瞬の光。気づきさえすれば、それは呼吸の道筋を変えるほどに鮮烈で、たとえ陽の下に出ても、生涯褪せることは無い。
 退色し、ようやく判別できる小さな文字を、男は一心に追い続けた。少女がこの本に惹かれた気持ちが、痛いほどに分かった。
 少女は目を閉じ、穏やかな笑みをたたえて、男の声に聴き入っている。
 そして、読み進めるうち、男の中にひとつの違和感が芽生えた。
 街の構造に、既視感がある。群青の空にぽっかり浮いた白い月と、迷路のように入り組んだ細い路地、壁に敷きつめられた彩りゆたかなタイルの群れが、闇に沈んでいる光景。
 ページをめくる手が、震えた。見開きで大きく挿絵があり、黄ばんだ紙の上に印刷されたそれは、探し続けた母の絵であった。
 男の語りは途絶えた。
 反射的に少女を見やる。少女は唇をわずかに開き、死んでいた。
 男は震える息を吐き、再び、母の絵を凝視した。声にならない叫びが、しわがれた喉の奥に渦巻いている。乾いた眼球を包み込むようにして涙が溢れ、こけた頬を流れ落ちた。小さな本を抱きしめ、目を見開いたまま、男はその場に崩れるようにして膝をついた。
 硬い床に溜まった冷気が、襤褸にくるまれた脚をひっそりと舐める。
 長い時間を、少女の死体が横たわるベッドの脇で、うずくまって過ごした。ベッドの側面に頭を預け、静寂の向こうの風の音に耳を澄ましていた時、乾いたものの擦れるような奇妙な気配が、わずかに空気を揺らした。
 重い頭を持ち上げ、上目遣いに視界を巡らすと、細枝のように干からびた指が目前にある。
 男は驚き、立ち上がった。少女の身体はその瑞々しさを完全に失い、なめらかな敷布の上に、枯れ木のように転がっていた。
 落ち窪み、空洞と化した目は微動だにせず、虚をとらえている。茶色くしなびた骸を覆う、絹の服だけが古めかしい光沢を保っていた。長い髪が蜘蛛の巣のように、周囲に広がっている。
 男は呆然と口を開けて、たたずんでいた。抱いていた本をゆっくりと放し、変わり果てた少女のかたわらに置く。指を伸ばして一度だけ、その頭蓋に触れた。
(ありがとう)
 身をひるがえして階段へ向かう。
 白い瓶に満ちていたはずの水はすっかり消えている。内部にはかさついた灰色の、干上がったような跡があるだけだった。
 螺旋階段を下っていくと、そこは塔の延長にあたる漆黒の空間で、美しく輝いていた宇宙は跡形も無い。
 あっという間に男は、巨大な窓の並ぶ、元来た部屋に降り立った。

            ◆

 吹き抜ける風を一身に浴びて窓の前に立つと、砂漠は夜明けの光につつまれていた。
 遥かな地平へ広がる純白の大地の向こうに、薄紅色の輪をたたえた、透明な日が昇ろうとしている。
 広大な空は、刻一刻と表情を変えていく。蜜を流したような濃厚な青の夜が、日の出とともに透きとおった紅色に侵され、冴え冴えとした朝の気配を宿しはじめていた。
 世界にうごめく無数の命と隔絶された、こんなにも絶望的な場所で、夜明けは男のために訪れ、澄みきった色を大気に放出している。
 立ちつくしたまま、その光景を男は見つめ、そして目を閉じ、瞼の裏に光を刻んだ。
 ――ここに。
 探し求めた風景は、ここにあった。
 母は何処にもいない。母の描いた、ただ一枚の、命の宿った絵。実在などしない、一冊の本に印刷されただけの、その場所。
 それでも、ひとりの少女の心には、生きていた。たとえ溶け合うことの許されない、薄い膜越しのつながりではあっても、孤独な少女の心を、あたため続けてきた。
 母は、あの物語に触れて気づいたのだ。画壇でいかにもてはやされようと、結局は生のない、内に籠もって造り出した虚構を描いているだけであったことに。道端に揺れる草の輝きも、血を分けた我が子さえも愛せず、その才能に寄り掛かり、ただ自分を悲しんでいただけであったことに。
 その事実に耐えかねて、母は消えたのかもしれない。
(私も、同じだった)
 男は部屋を横切り、黒い石の床に立って、地上へと続く階段を見下ろした。
 やって来る時、足もとを照らしていたはずの淡い明るさは消え失せ、道程はおそらく真の闇である。それでも、一度はここまでやってきたのだから、足場を探して下っていけば、帰ることが出来るはずだ。
 塔の内部を反響する、重々しい風の音が痛いほどに、鼓膜を刺激する。
 男は階段を降りはじめた。
 果てしなく長い、世界へ着地するための階段を。



                                                      〈 終 〉

最期の場所

最期の場所

無に還る場所とされる、何も存在しないはずの砂漠。塔は突如として出現し、最期に向かってやすらかに歩いていた男の心を波立たせた。――あの場所に行き着くまで、この身体は持つだろうか――。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-03-10

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