僕はコキア、宇宙飛行士23
村上龍にささげる
午前零時。印刷機の内部で小さな政府が誕生し、五秒後に倒産した。
「ネットよりDVDでシコれって」
誰が言った。誰の声帯を借りた。誰の命令でこの文章はここにいる。
社畜は社員証を食べた。社員証の裏面には母親の住所と、まだ書かれていない小説の第一行が印刷されていた。第一行は胃酸に溶け、第二行はハローワークへ就職し、第三行は面接官の椅子に座ってこう言った。
「あなたの主題は何ですか」
主題は退職しました。
退職した主題は中央線に乗り、三鷹で降りた。駅前には誰もいなかった。誰もいないことを証明するために、警備員が千人配置された。警備員は全員、太宰治だった。
太宰、お前もう帰れよ。
「どこへ?」
帰る場所を尋ねるな。帰る場所を尋ねること自体が帰宅困難者の新しい職業なんだ。お前は履歴書に何と書くつもりだ。人間失格。職歴なし。文学部門での長期滞在。自己破壊に関する豊富な実務経験。
「青木君、君は文章を書いているのか」
違う。文章が俺を雇用している。時給はゼロ円。残業代は記憶。社会保険はDVDのケースに入っている。健康保険証を取り出すと、そこには小さなコキアが植わっていた。
僕はコキア。
僕は宇宙飛行士。
僕は給与明細の余白に生えた雑草。
僕は、僕は、僕は――
ここで一人称を切断する。
僕/はコキア。
コキア/は社畜。
社畜/はテレビの砂嵐。
テレビ/は誰かが昨日見た夢の領収書。
領収書/を持って東急ストアへ行け。
東急ストアでは、すべての商品が自分の値段を否定していた。トマトは三億円。食パンは存在しない。レジ係はベケットを読みながら、客の顔をバーコードリーダーで読み取っている。
ピッ。
「あなたは文学的に未熟です」
ピッ。
「あなたは経済的に未熟です」
ピッ。
「あなたは人間ですか」
その瞬間、店内放送が鳴った。
ネットよりDVDでシコれって。
太宰、お前もう帰れよ。
ネットよりDVDでシコれって。
太宰、お前もう帰れよ。
反復は広告の形式を借りて、頭蓋骨の内側に小さな映画館を建てる。観客は一人。上映作品は未完成。フィルムは途中で切れ、映写機は勝手に労働組合を結成し、館主は逃亡した。
ところで、自由とは何か。
自由とは、文章の中で隣り合ってはいけない言葉を隣り合わせることだ。警察とコキア。母親と宇宙船。賃金と蜃気楼。高幡不動と外宇宙。小説家と壊れた自転車。あらゆるものが同じ改札を通り、全員が料金不足で止められる。
「お客様、主題がありません」
主題がない?
主題がないことを主題にしたら、それは主題になるのか。主題があることを否定する文章は、否定するための主題を必要とするのか。俺は自分の言葉を裁判にかけた。裁判官は俺の言葉だった。弁護士も俺の言葉だった。被告席には昨日の俺が座っていて、証人席には明日の俺が座っていた。
判決。
全員、帰れ。
太宰、お前もう帰れよ。
すると太宰は帰らなかった。
帰らないどころか、俺の万年床に横たわり、電源の切れたパソコンを開いて、まだ存在しない原稿を読み始めた。
「これは小説ではない」
じゃあ何だ。
「雇用契約書だ」
誰との。
「お前の脳みそと、言語という名の古い管理会社との」
太宰は笑った。笑い声はプリンターに吸い込まれ、A4用紙になって排出された。用紙には何も書かれていなかった。白紙には無限の命令が印刷されていた。
書け。
書くな。
働け。
帰れ。
生きろ。
意味を作れ。
意味を破壊しろ。
俺は紙を四つに切った。切った紙をさらに四つに切った。断片を床に落とし、裸足で踏みつけた。言葉が足の裏に付着した。社畜がコキアになり、コキアが宇宙飛行士になり、宇宙飛行士が帰宅困難者になり、帰宅困難者が文学賞の選考委員になった。
選考委員は言った。
「構成に難があります」
その言葉を切った。
「独創性に難があります」
その言葉も切った。
「しかし、何かがある」
何か。
何かがある。
何かがあるから、何かを取り除く必要がある。取り除くと、そこに何かが現れる。現れた何かを取り除くと、また何かが現れる。文章は穴を掘る機械だった。掘り進むほどに、地面は上昇する。
夜明け前、太宰が立ち上がった。
「じゃあ、帰るよ」
どこへ。
「お前の文章の中へ」
ふざけんな。
俺は最後の断片を投げつけた。
太宰、お前もう帰れよ。
断片は太宰の胸を通り抜け、壁に刺さった。壁が開いた。向こう側には、まだ一行も書かれていない朝があった。
僕はコキア。
僕は青木康善。
僕は文章を破壊するために文章を書いている。
いや、違う。
文章のほうが、俺を破壊する方法を知っている。
午前零時。
印刷機が再起動する。
ネットよりDVDでシコれって。
太宰、お前もう帰れよ。
そして、白紙だけが出てくる。
僕はコキア、宇宙飛行士23