綿矢りさ風小説3 青木康善remix
要望があるみたいなので。
自由に向かい山下公園
自由になりたい、と言う人は多いけれど、自由になったあとの自分の顔まで考えている人は少ないと思う。たとえば、何をしてもいいと言われた瞬間、私はたぶん冷蔵庫を開ける。中に何もなければ、自由ってこんなに空腹に似ていたんだ、と感心する。それから誰かのせいにする。自由の責任を負うのは、想像していたより面倒くさい。
精神安定剤と週刊誌と、ロサンゼルスのシイタケ料理。五百ドルの紙幣にロッド・スチュワートの身体が宿る。こういう文章を読んで、意味が分からないと怒る人は、たぶん意味が分かることに安心しすぎている。世界はそんなに親切じゃない。立川のドラッグストアでは薬が売られ、モノレールが走り、誰かが何かを買い忘れる。そこにニュートリノ振動を持ち込んでも、レジの店員はたいてい困るだけだ。
私は困っている人を見ると、少しだけ安心する。自分だけが困っているのではないと分かるからだ。これは性格の悪さなのだろうか。それとも、他人の不幸を見て自分の幸福を確認するという、よく知られた人間の習性なのだろうか。名前をつければ少し賢くなったような気がする。でも、名前がついたからといって、性格がよくなるわけではない。
国鉄ヤクザが吠えた。
もう一度、国鉄ヤクザが吠えた。
私はこの言葉が気に入っている。国鉄とヤクザを結びつけると、どちらも本来の意味から少しずつ遠ざかって、最後には誰も責任を取らなくていい組織のように見えてくる。人間もそういうところがある。自分が何をしたのか分からなくなったとき、所属している集団の名前を口にすればいい。会社、国家、家族、あるいは病名。名前はときどき、私たちの代わりに謝罪してくれる。
でも、お母さんは死んだ。
だいぶ前に、お母さん、自殺しちゃった。
この文章のなかで、その一行だけは、うまく冗談にできない。冗談にできないものを見つけると、私はいつも困る。人間は悲しいことを悲しいと説明するために、ずいぶんたくさんの言葉を発明したはずなのに、いざ自分のことになると、言葉は急に頼りなくなる。悲しみを美しい文章にした瞬間、私は自分の悲しみを鑑賞していることになるのだろうか。そう考えると、書くことそのものが、少し恥ずかしい。
それでも、書く。
助けてくれ、と私は言う。ニット帽をさかさまにするように、と付け加える。助けてほしい人間が、どうしてニット帽の向きを気にしているのか、自分でも分からない。でも人間は、絶望しているときでさえ、身だしなみを気にする。泣いている顔を誰かに見られることより、泣いたあとに鼻水が出ていることのほうが気になる場合だってある。悲劇は、いつも少しだけ生活感がある。
自由に向かい山下公園。
山下公園まで行けば自由になれるのか。それは分からない。海を見れば人間が小さくなる、という話はよく聞くけれど、小さくなることと救われることは別だ。海は私たちを慰めるために存在しているのではない。こちらが勝手に海を見て、勝手に意味を感じているだけだ。美しい景色は、ときどき人間の身勝手さを隠すのに役立つ。
私は歩く。配達夫に乗り物はいつ来るのか、と考える。オリジン弁当のゾンビたちが、ニュートン力学を必要としている。書きたいことは尽きた、と言ったあとにも、まだ文章は続いてしまう。
たぶん、自由とは何かを手に入れることではない。何かを失ったあとでも、何かを食べたいと思うことなのかもしれない。グリーンサラダでもいいし、焼きそばでもいい。国鉄ヤクザが吠えていても、食事の時間はやってくる。
私はグリーンサラダを食べたい。
それから、もう一度、海を見たい。
綿矢りさ風小説3 青木康善remix