青色のスニーカー

母と風呂に入ったことを覚えている。

 覚えている、と書いた瞬間に、それが本当にあったことなのか、誰かが僕に見せた映像なのか、区別がつかなくなる。三鷹のアパート。プロパンガスのボンベ。脱衣所に置かれた洗濯機。母の背中には小さな茶色いほくろがあった。僕はそれを数えようとして、いつも途中で飽きた。

「康善、ちゃんと温まった?」

 母が聞く。

 僕は返事をしない。湯船の縁に顎を載せ、壁のタイルを眺めている。タイルのひとつに、細いひびが入っている。ひびは上から下へ伸びて、途中で枝分かれし、最後に小さな黒い点になる。

 その点が、ある日、新青梅街道になった。

 スズメバチ棺桶くぐり新青梅街道。VHS確認作業が蟹の道楽。池袋サンマルクカフェでの当たり屋の会話。遮った天麩羅蕎麦。

 誰がこんなことを言ったのか。

 僕はメモ帳を閉じた。

 メモ帳を閉じると、記憶が少しだけ静かになる。

 けれど、静かになるのは僕の頭のなかだけだった。外では相変わらず車が走り、駅員がアナウンスをし、コンビニの店員が弁当を温めている。人間は自分が世界を動かしていると思っているが、実際には世界のほうが人間を使っている。僕たちは巨大な機械のなかで、ひとつずつ交換される小さな部品だ。部品には名前があり、名前には住所があり、住所には家賃がある。

 僕は家賃のことを考えると、哲学をやめたくなる。

 哲学をやめると、今度は母のことを思い出す。

 母は厳格なムスリムだった。

 いや、違う。

 母が厳格なムスリムだったという記憶はない。僕の知っている母は、朝に鮭を焼いてくれたし、マクドナルドの百円コーヒーを喜んで飲んだ。宗教的な理由で豚肉を避けていたわけでもない。僕の文章のなかで母は、ときどき勝手に別の人間になる。僕がそうしたのか、言葉がそうしたのか、それはわからない。

 母はもう訂正してくれない。

 そのことが、僕にはいちばん困る。

 *

 西武新宿線の車内で、向かい側に座っている男が僕を見ていた。

 男は灰色のスーツを着て、膝の上にコンビニの袋を置いている。袋のなかには食パンと牛乳と、どういうわけか、子供用の縦笛が入っていた。

「あなたは、普通のことをすればいいんですよ」

 男が言った。

「何ですか、それ」

「普通のことです」

「具体的には?」

「普通のことを具体的に説明しなければならない時点で、あなたは普通ではありません」

 男は勝ち誇ったような顔をした。

 僕はその顔が嫌いだった。嫌いだったので、男の靴を見た。黒い革靴。右の爪先に白い傷がある。僕の靴にも傷がある。傷は傷を知っている。靴は人間より正直だ。どこを歩いたか、どれだけ歩いたか、誰に踏まれたか。靴は自分の履歴を隠せない。

「あなたはどちらまで?」

 僕は聞いた。

「終点です」

「終点はどこですか」

「それを知ってしまうと、途中駅に停車する意味がなくなるでしょう」

 男は窓の外を指さした。

 車窓には、上石神井駅が映っていた。

 そのホームにジミ・ヘンドリックスが立っていた。紫色のシャツを着て、ギターケースを抱えている。電車が止まると、彼はケースを開き、中から一本のネギを取り出した。ネギを肩に担いで、駅のトイレに向かった。

 僕はそれを夢で見たことがある。

 夢のなかのジミは、上石神井駅で降りて野糞をした。

 その夢を誰かに話したとき、相手は笑わなかった。笑わない人間は、笑う人間よりも信用できないことがある。相手は真剣な顔で、夢にはあなたの本質が表れています、と言った。

 僕はその日から、夢を話さなくなった。

 電車が発車した。

 男はもういなかった。

 膝の上に、食パンと牛乳と縦笛だけが残されていた。

 誰もそれを持っていこうとしなかった。

 *

 僕は本屋でアルバイトをしていたことがある。

 タバコは吸えなかったけれど、楽しかった。

 楽しかったという記憶は、いつも少しだけ疑わしい。人間はつらいことを忘れるために記憶を美化するのではない。忘れてしまった空白を埋めるために、あとから楽しかったことにするのだ。僕はレジのなかで釣り銭を数えながら、そんなことを考えていた。

 店長は毎朝、店内を一周した。文庫本の背表紙を指で押し、平台の雑誌を整え、レジの横にあるガムを正しい向きに並べた。

「本は売れればいいんだよ」

 店長は言った。

「読まれなくてもですか」

「読まれなくてもだ」

「じゃあ、何のために本屋があるんですか」

「本があるためだろう」

 店長は笑わなかった。

 僕はその答えが好きだった。

 国会図書館それ自体、という言葉を思いついたのは、そのころだった。僕は図書館に行く必要がない。僕の頭のなかには、読んだ本と読んでいない本と、読むつもりだった本と、誰かが読んだと言っていた本が、全部同じ棚に並んでいる。棚の番号はない。分類もない。貸出期限もない。

 僕は国会図書館それ自体だ。

 ただし、閉館時間になると電源が落ちる。

 電源が落ちると、僕は自分の名前を忘れる。

 康善。

 青木康善。

 どちらも誰かが僕に与えた名前だった。僕は名前を持っているから存在するのか、それとも存在しているから名前を持っているのか。そういうことを考えると、レジの客が怒り出す。

「おい、会計」

「あ、すみません」

「何やってんだよ」

「名前について考えていました」

「は?」

「いえ、何でもありません」

 客は本を抱えて帰っていった。

 その本のタイトルを、僕は思い出せない。

 思い出せないということだけが、妙にはっきりしている。

 *

 父は茶色いリンカーンに乗っていた。

 この文章は何度も書いたことがある。書くたびに、リンカーンの色が少しずつ変わる。最初は濃い茶色だった。それから赤みがかった茶色になり、あるときは金色に近かった。車のボディに映る空も、記憶するたびに違う。

 父の顔は、車ほど鮮明ではない。

 父は運転席に座り、ハンドルを握っていた。僕は後部座席にいた。窓の外を、東京の街が流れていく。三鷹、武蔵野、田無、東久留米。どこかの交差点で信号が赤になった。父はブレーキを踏んだ。車が止まった。

「世の中はな」

 父が言った。

「何ですか」

「いや、何でもない」

 父はそう言って、また車を走らせた。

 僕は続きを聞きたかった。世の中は何なのか。世の中は金なのか。世の中は力なのか。世の中は人間の善意でできているのか。それとも、人間が自分の悪意を隠すためにつくった巨大な書類の束なのか。

 父は何も言わなかった。

 僕は後部座席で、窓ガラスに自分の顔を映していた。

 大人になった僕は、あのとき父が何か重要なことを言おうとしていたのだと思うことがある。だが、父は何も言わなかったのかもしれない。僕が続きを捏造しているのかもしれない。記憶には、空欄がある。空欄には何を書いてもいい。だからこそ、空欄は危険なのだ。

 新青梅街道での出来事が、僕にとっちゃセキュリティーホールそのものだった。

 何があったのか。

 そこだけが抜けている。

 道路沿いの看板。ガソリンスタンド。交差点。青い空。助手席に置かれた紙袋。父の右手。僕の左手。

 そして、何かが起きたという感覚。

 それだけが残っている。

 僕はその穴を塞ごうとして、文章を書く。書けば書くほど、穴は広がる。穴の縁から別の記憶が顔を出す。プロパンガスのボンベ。母の背中。縦笛を持った男。天麩羅蕎麦。蟹。

 蟹は横に歩く。

 人間は前に進んでいるつもりで、横に歩いているのかもしれない。

 *

 中目黒のアパートを、エンドルフィンが照らしていた。

 正確には、照らしていたのは街灯だった。エンドルフィンは脳内物質であって、照明器具ではない。そんなことは知っている。知っていることと、そう書くことは別の話だ。

 僕は夜のアパートの前に立ち、窓を見上げていた。どの窓にもカーテンがかかっている。カーテンの向こうには、他人の生活がある。誰かが味噌汁を飲んでいる。誰かが子供を叱っている。誰かがテレビの音量を下げている。誰かが薬を飲んでいる。誰かが、もう誰とも話したくないと思っている。

 それぞれの部屋に、それぞれの世界がある。

 しかし、壁が薄ければ世界は混ざる。

 隣の部屋から、女の声が聞こえた。

「ねえ、普通のことをすればいいんじゃない?」

 僕は立ち止まった。

 別の声が答えた。

「普通って何?」

「普通は普通よ」

「それじゃわからない」

「わからなくても、みんなやってるでしょう」

 僕は笑いそうになった。みんながやっていることは、正しいことなのだろうか。みんながやっているから、みんながやめられなくなっただけではないのか。

 アパートの壁には、細いひびが入っていた。

 そのひびを見ていると、三鷹の風呂場を思い出した。

 母の背中。

 プロパンガスの火。

 タイルの黒い点。

 僕は自分がどこにいるのかわからなくなった。中目黒なのか、三鷹なのか、それともまだ電車のなかにいるのか。場所は地図の上にあるが、記憶のなかでは互いに侵入し合っている。

 僕はポケットから携帯電話を出した。

 画面には、知らない番号から着信があった。

 出てみた。

「もしもし」

「あなたは、まだ覚えていますか」

 女の声だった。

「何をですか」

「あなたが忘れたことです」

「何を忘れたんですか」

「それを忘れたから、電話したんです」

 電話は切れた。

 僕は履歴を確認した。

 番号はなかった。

 *

 微積分学に長けた煮込み屋の親父がいる。

 僕はその親父の店に通っていた。店は駅から少し離れた場所にあり、看板の文字は雨に濡れて薄くなっていた。親父は大鍋の前に立ち、箸で肉を持ち上げていた。肉は煮崩れそうになっている。

「先生、微分って何ですか」

 僕が聞くと、親父は肉を鍋に戻した。

「変化率だよ」

「じゃあ、積分は?」

「足し合わせることだ」

「人生は?」

 親父は僕を見た。

「人生は、煮込みすぎると味が濃くなる」

 僕はその答えをメモした。

 店の壁には、古いカレンダーがかかっていた。日付のところどころに赤い丸がついている。丸は、親父が休む日だった。僕はその丸を数えていた。数えることに意味はない。意味がないことをしていると、時間が少しだけ自分のものになる。

 親父は煮込みを皿に盛った。

「お前、何か書いてるのか」

「小説です」

「売れるのか」

「わかりません」

「売れないものを書くのは大変だな」

「売れるものを書くのも大変でしょう」

「そりゃそうだ」

 親父は笑った。

 その笑顔は、僕の知っている誰かの笑顔に似ていた。母かもしれない。父かもしれない。昔の同級生かもしれない。僕がどこかで見たテレビのなかの人かもしれない。

 親父は皿を置いた。

「食えよ。冷めるぞ」

 僕は食べた。

 煮込みはうまかった。

 うまいものを食べているときだけ、世界は説明を求めてこない。肉は肉で、汁は汁で、箸は箸だ。僕はそれが好きだった。

 食べ終わると、親父は皿を下げた。

「また来いよ」

 僕は頷いた。

 店を出ると、看板が消えていた。

 翌日、その店を探したが、見つからなかった。住所を調べても、そこには駐車場しかなかった。僕は駐車場の真ん中に立ち、何もない空間を見つめた。

 地面には、白い線が引かれていた。

 駐車スペースが六つ。

 僕はその数を数えた。

 六つ。

 六つ数えたところで、母が僕を呼んだ。

「康善、帰るよ」

 振り返ったが、誰もいなかった。

 *

 パチスロで儲かった。

 哀しみの血管が浮き出て、パチスロで儲かった。

 この二つの出来事は、僕のなかではひとつになっている。因果関係はない。哀しみの血管が浮き出たからといって、台が当たるわけではないし、台が当たったからといって、哀しみが消えるわけでもない。

 それでも、僕は勝った。

 ランプが光った。音が鳴った。数字が揃った。隣の客が舌打ちをした。店員が箱を持ってきた。玉やメダルが増える。増えたものを見ていると、自分まで増えたような気がした。

 金は数字だ。

 数字は誰かが決めた約束だ。

 その約束が、ある日突然、僕の腹を満たしたり、僕を空腹にしたりする。

 僕は勝った金を数えた。数えているあいだ、母のことを忘れていた。忘れていたことに気づくと、僕は急に恥ずかしくなった。母のことを忘れていたから勝ったのではない。母のことを思い出していたから負けたのでもない。母はパチスロの確率に関係がない。

 それなのに、僕は心のなかで母に謝った。

 母さん、ごめん。

 何に謝っているのかは、わからなかった。

 僕は景品交換所に向かった。外は明るかった。街路樹の葉が風に揺れている。歩道を小学生が歩いていた。ランドセルが揺れていた。ランドセルのなかには教科書が入っている。教科書のなかには正しい答えがある。正しい答えがあれば、子供は守られるのだろうか。

 知識で子供を守る。

 そんな標語をどこかで見た。

 僕は標語が嫌いではない。ただ、標語は人間が何かを守れなかったときに生まれることがある。守れなかったものを、言葉のなかに保存する。安全、安心、未来、希望。どれも大切な言葉だ。大切だからこそ、何度も使われ、薄くなる。

 小学生が僕の横を通り過ぎた。

 そのうちのひとりが振り返って、僕を見た。

「おじさん、何してるの?」

「金を数えてるんだよ」

「何のために?」

「生きるために」

 子供は納得したような顔をしなかった。

 それでよかった。

 *

 西武新宿線の帰り道、僕は薬のことを考えていた。

 薬の名前は、口に出すと呪文のように聞こえる。錠剤は小さい。小さいものが人間の一日を変える。飲む時間を間違えると、眠れなかったり、眠りすぎたりする。僕は自分の身体を、自分で扱いきれない機械のように感じることがあった。

 それでも、朝になると目が覚める。

 目が覚めると、喉が渇いている。

 水を飲む。

 窓を開ける。

 遠くで車が走っている。

 それだけで、世界は始まってしまう。

 僕はかつて、帰り道に薬の名前を繰り返していた。何ミリグラム、何錠。数字を繰り返すと、自分が自分の身体を管理できているような気がした。だが、数字を正確に覚えていても、気持ちが正確になるわけではない。僕の頭のなかには、いくつもの時刻表がある。どれも少しずつずれている。

 ある時刻表では、母はまだ生きている。

 ある時刻表では、父がリンカーンを運転している。

 ある時刻表では、僕は本屋で働いている。

 ある時刻表では、僕は何もしていない。

 どれが本当なのか。

 電車の窓に映る自分の顔を見ながら、僕は考えた。

 顔は、僕が思っていたよりも老けていた。

 その顔の後ろに、別の顔が映った。

 母だった。

 母は笑っていた。

 僕は振り返った。

 そこには誰もいなかった。

 *

 吉祥寺サンロードで会いましょう。縦笛持って。

 誰からの伝言だったのか、覚えていない。

 僕は吉祥寺に行った。サンロードは人でいっぱいだった。若い人たちが歩き、老人が立ち止まり、店員が声を張り上げていた。路上で楽器を吹いている人がいた。縦笛ではなく、銀色のフルートだった。

 僕はその人の演奏を聞いた。

 音は商店街の天井にぶつかり、買い物袋の間を抜け、信号の音に混ざった。誰も立ち止まらなかった。演奏者は気にしていないようだった。彼は目を閉じて、同じ旋律を何度も繰り返した。

 繰り返すうちに、旋律は別のものに聞こえ始めた。

 母が鮭を焼く音。

 父が車のエンジンをかける音。

 パチスロの機械音。

 駅のアナウンス。

 病院の廊下を歩く靴音。

 僕がタイプライターを打つ音。

 すべてが同じリズムになった。

 僕は演奏者に近づいた。

「その曲、何という曲ですか」

 演奏者は目を開けた。

「まだ名前はありません」

「名前がない曲なんですか」

「名前をつけると、終わってしまうんです」

 僕はその言葉をノートに書こうとした。

 ノートがなかった。

 ポケットを探したが、何もなかった。

 僕は演奏者を見た。

 彼はもういなかった。

 代わりに、歩道の端に蟹が一匹いた。蟹は横向きに歩き、人々の靴を避けながら、商店街の奥へ進んでいった。

 僕は蟹を追いかけた。

 蟹は立ち止まり、僕を見た。

 蟹の目は、小さな黒い点だった。

 僕はその点を知っていた。

 *

 母の写真は、部屋のなかで笑っていた。

 僕は写真の前に座っていた。写真のなかの母は、僕が知っている母だった。髪の毛が整っていて、顔には穏やかな表情があった。写真は何も言わない。何も言わないから、僕は何でも話すことができた。

「母さん、今日は吉祥寺に行ったよ」

 写真は笑っている。

「蟹がいた」

 写真は笑っている。

「パチスロで勝った」

 写真は笑っている。

「小説を書いているんだ」

 写真は笑っている。

 僕は写真を見つめた。

 写真のなかの母は、僕の話を全部聞いてくれる。途中で遮らない。僕が変なことを言っても、話をやめない。だが、僕の話を理解しているかどうかはわからない。写真は理解の代わりに、笑顔を差し出している。

 僕はその笑顔が好きだった。

 好きだったから、写真を見ているのがつらかった。

 母が生きていたころ、僕は母がいつまでも生きているような気がしていた。人間は、自分が失うものについて、失う前には正確に考えることができない。失ってから、失うという言葉の意味を覚える。

 僕は母の写真に向かって言った。

「普通のことをすればいいんだってさ」

 写真は笑っている。

「普通って何だろうね」

 写真は笑っている。

「僕は普通のことをしているのかな」

 写真は笑っている。

 僕は立ち上がり、台所に行った。水を飲んだ。コップを洗った。流しに残っていた小さな汚れを指でこすった。汚れはなかなか落ちなかった。洗剤をつけて、もう一度こすった。ようやく落ちた。

 僕はそのことを、少し誇らしく思った。

 たったそれだけのことだった。

 *

 夜中、電話が鳴った。

 僕は目を覚ました。

 電話を取ると、男の声がした。

「新青梅街道の件ですが」

「何ですか」

「確認が取れました」

「何の確認ですか」

「あなたが覚えていないことです」

 僕はベッドに座り直した。

「僕は何を覚えていないんですか」

「それは、こちらではお答えできません」

「どうしてですか」

「記録がありませんので」

「記録がないなら、どうして確認が取れたんですか」

 男は黙った。

 受話器の向こうで、紙をめくる音がした。

「あなたは、あの日、普通のことをしました」

 男は言った。

「普通のことって何ですか」

「普通のことです」

 僕は電話を切った。

 部屋は暗かった。

 窓の外に、街灯があった。街灯は道路を照らしていた。道路には車が走っていた。車のライトが壁に映り、ゆっくりと通り過ぎていく。

 僕は机に向かった。

 ノートを開いた。

 最初のページには、こう書いてあった。

 スズメバチ棺桶くぐり新青梅街道。

 その下に、VHS確認作業が蟹の道楽。

 その下に、父は茶色いリンカーンを乗っていた。

 その下に、母と風呂に入った。

 僕はペンを持ち、続きを書こうとした。

 しかし、何も思い浮かばなかった。

 頭のなかには、いくつもの場面が浮かんでいた。母の背中。父のハンドル。煮込み屋の親父。吉祥寺の蟹。上石神井駅のジミ・ヘンドリックス。縦笛を持った男。誰もいない駐車場。

 どれも鮮明だった。

 どれも本当のことのように思えた。

 僕はノートを閉じた。

 閉じても、場面は消えなかった。

 *

 翌朝、僕は外に出た。

 街はいつもどおりだった。コンビニの前に自転車が並び、横断歩道で人が信号を待っていた。老人が新聞を買い、学生がイヤホンをつけ、作業服の男が缶コーヒーを飲んでいた。

 世界は、僕がいなくても進んでいた。

 そのことに安心した。

 そのことが、少しだけ寂しかった。

 僕は歩道を歩いた。角を曲がり、交差点を渡り、知らない店の前を通り過ぎた。空は明るかった。遠くに雲があった。雲は何にも似ていなかった。

 途中で、小さな子供が転んだ。

 母親が駆け寄った。

「大丈夫?」

 子供は泣かなかった。膝についた砂を払い、母親の手を握った。

 僕はその光景を見ていた。

 子供は母親に何かを話した。母親は頷いた。二人は歩き出した。子供はときどき振り返り、道端のものを指さしていた。

 僕はその後ろ姿を見送りながら、三鷹のアパートを思い出した。

 プロパンガスの火。

 湯気。

 タイルのひび。

 母の背中。

 あのとき、僕は何を話していたのだろう。

 何も話していなかったのかもしれない。

 母は僕を風呂から上げ、身体を拭き、服を着せた。僕は床に落ちたタオルを拾った。母は髪を乾かしてくれた。ドライヤーの音がした。僕は鏡に映る自分の顔を見ていた。

 それだけだ。

 それだけのことが、今ではひとつの世界になっている。

 僕は歩き続けた。

 角を曲がると、道路の端に蟹がいた。

 蟹は横向きに歩いていた。

 僕はしゃがみ込んだ。

「どこへ行くんだ」

 蟹は答えなかった。

「家に帰るのか」

 蟹は答えなかった。

「それとも、どこかへ亡命するのか」

 蟹は立ち止まり、僕を見た。

 その目は、小さな黒い点だった。

 僕は笑った。

 蟹はまた歩き出した。

 僕も立ち上がり、歩き始めた。

 どこへ行くのかは決めていなかった。

 決めていなくても、道は続いていた。

 *

 夜になって、僕は机に戻った。

 ノートを開き、今日のことを書こうとした。

 蟹がいた。

 子供が転んだ。

 母親が手を握った。

 空が明るかった。

 そんなことを書いた。

 書いているうちに、別の記憶が混ざってきた。父のリンカーン。煮込み屋の親父。吉祥寺のフルート。中目黒のアパート。知らない男からの電話。パチスロのランプ。母の写真。

 僕は書き続けた。

 文章は途中で途切れ、別の文章につながった。

 意味が通じなくなった。

 それでも、僕は書いた。

 意味が通じることだけが、文章の仕事ではないのかもしれない。人間が忘れたものを、忘れたまま残しておくこと。正しい順番に並ばなかった記憶を、正しい順番に並べないこと。誰かが読んだとき、これは自分の記憶ではないのに、自分の記憶のような気がする。その程度のことが起きれば、文章は役目を果たしたことになるのかもしれない。

 僕はペンを置いた。

 母の写真を見た。

 写真のなかの母は笑っていた。

「今日はここまでにするよ」

 僕は言った。

 写真は笑っていた。

 窓の外を車が通り過ぎた。

 遠くで電車が走っていた。

 誰かがドアを閉めた。

 世界はまだ続いていた。

 僕は明日のことを考えた。朝になったら起きる。顔を洗う。何かを食べる。窓を開ける。必要なことをする。できなかったら、できなかったことを考える。できたら、できたことを考える。

 それは、普通のことなのかもしれない。

 僕はノートの最後に、一行だけ書いた。

 新青梅街道のことは、まだ覚えていない。

 その下に、もう一行書いた。

 母と風呂に入ったことは、覚えている。

 僕はしばらく、その二行を見つめていた。

 どちらも本当だった。

 どちらも、明日になれば少し違っているかもしれない。

 それでも僕は、ノートを閉じた。

 今度は、何も消えなかった。

青色のスニーカー

青色のスニーカー

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-10-11

Public Domain
自由に複製、改変・翻案、配布することが出来ます。

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