下町風味
市民とは一体なんですか、とテレビに向かって尋ねた。
テレビの中では、誰かが笑っていた。笑い声だけが大きくて、何がおかしいのかはわからなかった。画面の隅には小さな文字で「安心・安全」と表示されていた。安心と安全は、仲のいい双子みたいにいつも一緒にいる。片方だけでは心細いのかもしれない。
窓の外を、多摩ナンバーのセルシオが通り過ぎた。
ああいう車に乗っている人は、市民なのだろうか。市民税を払っているのなら市民なのか。選挙に行けば市民なのか。そもそも市民というのは、役所の書類に書かれるときだけ発生する生き物なのではないか。
僕は裸足で床に立っていた。胃が痛かった。三時間くらい何もせずに胃の痛みを我慢していたような気がする。時計を見ると、まだ十分しか経っていなかった。
人間の時間は、時計の時間とずれている。
僕はそれを発見したので、発見者として表彰されてもいいはずだった。しかし表彰状をくれる人はいなかった。市役所に電話しても、そういう窓口はありませんと言われるだけだろう。
壁には「知識で子供を守る」と書かれた紙が貼ってあった。
いつ、誰が貼ったのかは覚えていない。子供を守るのは大人の仕事だということは知っていた。けれど、大人が大人を守れない場合はどうすればいいのだろう。大人が大人のふりをするために、毎日どれほどの知識を必要としているのだろう。
僕はテレビの音量を下げた。
原発事故について専門家が説明していた。事故は終わったのか、終わっていないのか。安全なのか、安全ではないのか。食べ物を買う人は何を信じればいいのか。生産者はどうすればいいのか。画面の中では、言葉が整然と並んでいた。言葉が整然と並んでいると、世界まで整然としているように見える。
僕は冷蔵庫を開けた。
納豆の巻き寿司があった。
ひと口食べると、納豆が口の中で糸を引いた。糸は細く、しつこく、どこまでも伸びるようだった。こういうものを見ていると、政治も似たようなものだと思う。誰かが何かを言い、別の誰かがそれに反対し、反対した人に反対する人が現れ、最初に何が問題だったのか誰も覚えていない。それでも糸だけは切れない。
僕は巻き寿司を皿に戻した。
テレビの専門家は、風評被害という言葉を使っていた。
風評というのは、風の評判という意味なのだろうか。風が噂をしているところを想像した。風はどこの家にも入ってくる。窓の隙間から入り、カーテンを揺らし、テーブルの上の領収書を床に落とす。風は責任を取らない。風に請求書を送っても届かない。
けれど、人間は風のせいにすることができる。
買わない人が悪いのか。売れない人が悪いのか。危険を心配することが悪いのか。心配しないことが立派なのか。
僕にはわからなかった。
わからないことを、わからないと言える人間になりたかった。ところが世の中では、わからないと言うと、勉強不足だとか、理解が足りないとか、もっと冷静になれとか言われる。冷静になれと言う人は、だいたい自分が冷静であることを疑っていない。
僕は便所へ行った。
便所の中で父の声がした。
「国民を救済できない国家など」
声はそこで途切れた。
父はいつも、肝心なところで言葉をやめる。最後まで言わないことで、最後まで言ったことにするのだ。僕も似たようなことをする。話の途中で「あの、ええと、その」と言って、相手が先に諦めてくれるのを待つ。
便所には説得力がある。
少なくとも、そこに座っている人間は、何者でもない。会社員でも市民でも納税者でもなく、ただ腹の具合を気にしている人間だ。ところが便所から出た瞬間、また名前を持たされ、住所を持たされ、支払いを求められる。
僕は水を流した。
水の音は、どんな演説よりも短くて正確だった。
居間へ戻ると、テレビでは政治家が質問を受けていた。
「市民とは一体なんですか?」
質問者がそう尋ねたわけではない。僕が勝手に字幕をつけたのだ。
政治家は、パチンコについて聞かれているようだった。パチンコの話が、いつのまにか国民の生活の話になり、国民の生活の話が経済の話になり、経済の話が未来の話になった。未来という言葉は便利だ。現在の問題を未来へ送れば、現在の人間は少しだけ楽になる。
僕は一円玉を机の上に置いた。
一円で何ができるだろう。
何もできない、と言うのは簡単だ。しかし一円玉がなければ、百円は百円にならない。僕は一円玉を指先で弾いた。硬貨は机の上で回転し、しばらく立っていたあと、ぱたりと倒れた。
その短い回転を見て、僕は少し感動した。
人間もあれくらいでいいのではないか。立って、回って、倒れる。それだけで十分に活動したことになるのではないか。
もちろん、そんなことを履歴書に書くわけにはいかない。
僕は本棚を見た。
本棚には、政治の本、医学の本、文学の本、経済の本が並んでいた。エロ本もあった。みんな人それぞれ本を読む。エロ本ばかりだった。いや、全部がエロ本だったわけではない。そういうことにしてしまうと、本棚の品位が損なわれる。
僕は一冊の本を抜き取った。
何年も前に買った本だった。どんな内容だったか、ほとんど覚えていない。ページを開くと、昔の自分が引いた線があった。線は文章の下を走っていた。昔の僕は、そこが重要だと思ったのだろう。
しかし今の僕には、なぜ重要だったのかわからなかった。
人間は変わる。
そう言えば聞こえはいいが、昔の自分が何を考えていたかを忘れるだけなのかもしれない。忘れたことを成長と呼べば、だいたいのことは丸く収まる。
そのとき、インターホンが鳴った。
ドアを開けると、紳士が立っていた。
黒い背広に、磨かれた靴。ネクタイは青く、髪はきれいに整っていた。顔には、特に印象がなかった。印象がないということだけが、妙に印象的だった。
「あなたが市民ですか」
僕は尋ねた。
「そういうことになっています」
「誰が決めたんですか」
「決めた人は、もう帰りました」
「どこへ?」
「普通の生活へ」
紳士はそう言って、微笑んだ。
僕はこの微笑みを知っている気がした。役所の窓口で、病院の受付で、電話を切る直前の相手の声で、何度も出会った微笑みだった。相手は悪人ではない。ただ、こちらの事情を最後まで聞く時間がないのだ。
「市民とは何ですか」
もう一度、僕は尋ねた。
「書類に名前を書く人です」
「名前を書けない人は?」
「別の書類に名前を書いていただきます」
「名前がない人は?」
紳士は少し考えた。
「名前がないことを証明する書類が必要です」
僕は笑った。紳士も笑った。二人で笑っていると、なんだか僕たちは昔からの友人みたいだった。笑い終わると、紳士は鞄から一枚の紙を取り出した。
そこには、僕の名前が書かれていた。
その下に、僕の住所、年齢、職業、収入、病院に通った記録、買った本、見たテレビ番組、食べたものまで書かれていた。僕が覚えていないことも、紙には記録されていた。
「これは何ですか」
「あなたの記録です」
「誰が書いたんですか」
「皆さんです」
「皆さんって誰ですか」
紳士は答えなかった。
僕は紙を受け取ろうとした。けれど、指先が震えてうまくつかめなかった。紙は薄かった。薄いものほど、破れると元に戻らない。
紳士は紙を鞄にしまった。
「ご安心ください。あなたのことは、よくわかっています」
僕は、その言葉が一番怖かった。
わかっていると言われると、もう説明する必要がなくなる。説明する必要がなくなると、こちらの言葉はどこにも行けなくなる。言葉が行き場をなくすと、人間は自分の中で同じ言葉を繰り返すようになる。
ちんぽが痛い、とか。
金がない、とか。
母に会いたい、とか。
市民とは何か、とか。
どれも同じ声で繰り返される。どれも、誰かに聞いてもらいたい言葉だった。
「子供を守るには、どうすればいいんですか」
僕は紳士に尋ねた。
紳士は靴の先を見た。
「知識が必要です」
「知識があれば守れるんですか」
「知識がなければ、守れない場合があります」
「では、知識があっても守れない場合は?」
紳士は黙った。
その沈黙を見て、僕は初めて、紳士にもわからないことがあるのだと知った。紳士は完璧な人間ではなかった。完璧な人間ではないのに、完璧な書類を持っている。そのことが、僕にはどうしようもなくおかしかった。
僕は笑い出した。
紳士は困った顔をした。
「何がおかしいのですか」
「あなたも知らないんですね」
「何をですか」
「市民が何なのか」
紳士はネクタイを直した。
その仕草は、少しだけ人間らしかった。
帰り際、紳士は玄関で振り返った。
「ところで、あなたは何をしている人なんですか」
僕は答えようとした。
小説を書いています。音楽を作っています。昔のことを思い出しています。お金の計算をしています。食べ物を買っています。眠ろうとしています。母の笑顔を覚えていたいと思っています。
どれも本当だった。
しかし、どれを答えても嘘になる気がした。
「僕は、僕です」
紳士はうなずいた。
「それは困りましたね」
ドアが閉まった。
僕は居間に戻り、本棚の前に座った。テレビは消えていた。窓の外では、セルシオがもう一度通り過ぎた。多摩ナンバーだった。
机の上の一円玉は、さっき倒れたままだった。
僕はそれを拾い、財布に入れた。
それから、紙を一枚取り出した。
市民とは一体なんですか、と書いた。
次に、知識で子供を守る、と書いた。
その下に、国民を救済できない国家など、と書いた。
最後の言葉は書かなかった。
書かなかった言葉のほうが、書いた言葉よりも長く残ることがある。
僕はペンを置いた。
窓の外は、もう暗かった。
明日も僕は、何かを食べるだろう。何かを忘れるだろう。誰かに説明を求められ、うまく答えられず、あとになってから正しい言葉を思いつくだろう。
それでも、書くことはできる。
市民であるかどうかは、まだわからない。
ただ、紙の上には僕の字が残っていた。
下町風味