夢と現実とパンフレット
第一章 入れ歯であくせく金貸し
入れ歯であくせく金貸し。
朝の東京メトロ東西線には、青ざめた顔がいくつも並んでいた。誰もが誰かの母親を知っているような顔をしていたが、実際には誰も母親の顔を思い出せなかった。車内広告には、いらっしゃいませ土星へ、と書かれていた。土星旅行は片道九十九万円。帰りの運賃は現地でお尋ねください。なお、土星における金銭債務の時効は地球時間で三秒とする。
私はその広告を撮影しようとした。
しかし、携帯電話のカメラからゴキブリが出てきた。
一匹、二匹、三匹。
ゴキブリたちはレンズの縁を歩き、画面の中に映っている私の顔へ向かって進んだ。画面の中の私は、入れ歯を外していた。現実の私は入れ歯をしていなかった。では、誰が入れ歯をしているのか。
車内放送が告げた。
「次は高幡不動、高幡不動です。お忘れ物にご注意ください。とくに、記憶、債権、家族関係、および腐敗した図形については、駅係員もお預かりできません」
私は降りた。
降りる必要はなかった。
しかし、降りないという選択肢が、私の人生には最初から存在しなかった。
ホームのベンチには、マンガン電池が二本置かれていた。片方は太陽をなくしたいと言い、もう片方は、もういい加減ウンザリだ、と叫んでいた。二本とも液漏れしていた。液漏れした電池の周囲には、複雑でもない図形のビフテキが大量に並んでいた。
ビフテキには名前がついていた。
一号、二号、三号。
どれも同じ形だった。
しかし、一号だけが自分の存在を否定し、二号だけが金銭の返済を要求し、三号だけが何も言わなかった。
私は三号をポケットに入れた。
それが間違いだった。
第二章 OMEN BY HPの内部事情
私のパソコンは、いつからか異臭を放つようになっていた。
OMEN BY HP。
高性能のコンピュータである。少なくとも、購入した当初はそう説明されていた。ところが、内部には腐ったビフテキと、製紙会社に委託された諸条件と、アリの穴が仕込まれていた。
アリの穴は直径〇・七ミリだった。
穴の向こう側には、別の穴があった。
その穴の向こう側にも、また別の穴があった。
私は顕微鏡を買おうと思ったが、金がなかった。そこで、穴を拡大するために論理哲学論考を開いた。ページをめくるたび、穴は大きくなった。ウィトゲンシュタインの肖像写真が画面に現れ、私を睨みつけた。
「お前は何を観察しているのか」
「図形です」
「その図形を観察しているお前を観察しているものは何か」
私は答えられなかった。
そのとき、キーボードの隙間からゴキブリが出てきた。ゴキブリは私の指に乗り、エンターキーを押した。
画面に文字が現れた。
PAY BACK.
続いて、PAY BACK AGAIN.
さらに、PAY BACK BEFORE THE END OF THE WORLD.
私はパソコンを閉じた。
ファンが回り続けていた。
電源を切っても、ファンは止まらなかった。
その音は、遠くの工場で誰かが紙を製造している音に似ていた。製紙会社は、私の知らないところで、私の人生に必要な条件を印刷していた。
条件は一枚につき千円だった。
私はすでに二十枚分を滞納していた。
第三章 時間が足りないハゲ頭
時間が足りないハゲ頭が、眉間に皺を寄せていた。
彼は理工学を学んでいた。熱力学、流体力学、情報理論、そしてゴキブリの繁殖速度に関する非公式な研究である。
彼の机には、マンガン電池、壊れたドライヤー、古い電卓、武蔵野市民プールの入場券が置かれていた。
「問題は時間だ」
彼は言った。
「時間とは何か」
私は訊いた。
「トーストが焼けるまでの時間だ」
「それだけか」
「それ以上のことを考えている余裕はない」
彼はトースターに食パンを入れた。パンは焼けなかった。代わりに、トースターから一枚の紙が出てきた。
紙には、こう書かれていた。
《あなたは、まだ返済していない》
彼は紙を握りつぶした。
すると、握りつぶした紙の中から小さなクワガタが現れた。
破瓜型クワガタ。
クワガタは角を振り上げ、理工学者の額に飛びついた。彼は悲鳴を上げたが、悲鳴は音声データとして保存され、製紙会社へ送信された。
製紙会社は、その悲鳴をもとに新しい紙を開発した。
紙の名前は「生活苦」。
耐水性、耐熱性、耐久性に優れ、どのような場所に貼っても剥がれない。
私はその紙を一枚もらった。
壁に貼った。
剥がれなかった。
第四章 遠近とはなんだろうか
駅の場所が分からなければ、電車に乗れない。
その程度のことは誰でも知っている。
だが、自分の記憶がどこにあるのか分からなければ、どうすればいいのだろう。
私は親戚の家から帰る道を思い出そうとした。道路の両側には草花が生えていた。草花は関取になりたがっていた。関取になれば、誰かが自分の名前を呼んでくれるからだ。
道路の先には、空っぽの駐車場があった。
私はその場所が好きだった。
車が一台もなく、誰も話しかけず、誰も私の過去について質問しなかった。駐車場の白線だけが、地面の上に静かに存在していた。
ところが、その白線の一本が突然、こちらを向いた。
「あなたは、何を覚えているのですか」
私は答えた。
「よく分かりません」
「では、何を忘れたのですか」
「それも、よく分かりません」
白線は満足したようだった。
「それなら結構です。忘れたものを忘れたままにしておくことも、ひとつの管理方法です」
私は駐車場を出た。
振り返ると、そこには何もなかった。
ただ、遠近という概念が、地面に落ちていた。
第五章 金を返せよ
その男が現れたのは夕方だった。
男は黒いスーツを着ていた。ネクタイには小さな土星の模様があった。手には封筒を持ち、封筒の表面には私の名前が書かれていた。
青木康善。
男は封筒を差し出した。
「ご確認ください」
中には請求書が入っていた。
金額は書かれていなかった。
請求理由も書かれていなかった。
ただ、紙の中央に、大きな文字でこう記されていた。
金を返せよ。
私は言った。
「誰にですか」
男は答えなかった。
「私は誰から借りたんですか」
男は答えなかった。
「何を返せばいいんですか」
男は、ようやく口を開いた。
「あなたが覚えているものを、すべて返してください」
私は笑った。
「そんなものはありません」
男は頷いた。
「では、あなたが覚えていないものを返してください」
その瞬間、封筒の中から無数の写真が飛び出した。
幼いころの道路。
野球のバット。
電車の窓。
缶コーヒー。
誰かの背中。
母親の笑顔。
写真は空中で回転し、次々に白紙へと変わっていった。
男はその白紙を一枚ずつ拾った。
「これで、あなたの返済は完了しました」
「何も返していないじゃないですか」
「いいえ。記録上は完了しています」
男は立ち去った。
私は封筒を握りしめた。
その中には、もう何も入っていなかった。
第六章 土星に引っ越し代を
夜、私は土星へ引っ越すことにした。
引っ越し業者は、国鉄ヤクザと呼ばれる男たちだった。彼らは荷物を運ぶ代わりに、荷物の名前を変更した。
本は「未返却物」。
衣服は「過去の残骸」。
パソコンは「腐敗した未来」。
母親の写真は「返済不能」。
私は抗議した。
「勝手に名前を変えないでください」
彼らは笑った。
「名前は誰のものでもない。製紙会社が管理している」
トラックの荷台には、何百枚もの世田谷チラシが積まれていた。チラシには、老人ホームの勧誘と、土星の不動産広告と、マルチチュードに関する長い論文が印刷されていた。
私は一枚を手に取った。
人間は最も悪い。
その下に、小さな文字でこう書かれていた。
ただし、例外については別途ご相談ください。
私はチラシを破った。
破片は風に乗って空へ舞い上がり、星の間に散らばった。土星の輪は、無数の紙片でできていた。
私はそのことを誰にも言わなかった。
誰も信じないだろうと思ったからだ。
第七章 Pay Back
翌朝、私はまた高幡不動駅にいた。
駅のホームには、マンガン電池が二本置かれていた。昨日と同じ電池だった。
片方は太陽をなくしたいと言い、もう片方は、もういい加減ウンザリだ、と叫んでいた。
私は電池を拾った。
駅員が走ってきた。
「それは駅の備品です」
「備品ではありません」
「では何ですか」
「私の記憶です」
駅員は困った顔をした。
私は電池をポケットに入れた。
そのとき、ホームの端で、ゴキブリが一匹、入れ歯を引きずっていた。ゴキブリの背中には小さな紙が貼られていた。
紙には、こう書かれていた。
PAY BACK.
私はゴキブリを追いかけた。
ゴキブリは改札を抜け、階段を上り、道路を横切り、空っぽの駐車場へ入っていった。
駐車場の中央には、複雑でもない図形のビフテキが一枚置かれていた。
私はそれを拾った。
裏側には、さらに小さな文字があった。
《返済期限:あなたが自分の記憶を取り戻すまで》
私は長いあいだ、その文字を眺めていた。
太陽が沈みかけていた。
犬が一匹、道路の向こう側を歩いていた。
生きるか、死ぬか。
私はそのどちらも選ばなかった。
ただ、ポケットからマンガン電池を取り出し、空っぽの駐車場の白線の上に置いた。
そして、誰に向かっているのかも分からないまま、もう一度だけ言った。
金を返せよ。
Pay Back.
“Pay Back.”
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