淡い路線

淡い路線

淡谷のり子

中央線を暗記する
また同じ事象だ、と私は思った。
夢もそうだった。
夢というものは、毎晩違う顔をしてやって来るくせに、目が覚めると必ず同じ場所に私を置いていく。貧乏な部屋。古い壁。財布の中身を確認する手つき。そして、誰にも見せるつもりのない悲しみ。
快楽など、いざ知らず。
私は泣くこともある。
それを恥ずかしいとは思わない。泣くことぐらい俺だってある、と、山梨のおばあちゃんに言ってみたい。
「おばあちゃん、俺、貧乏なんだ」
するとおばあちゃんは、昔と同じような顔で笑う。
「まあ、いいんだよ。他の人が豊かであれば」
そんなことを言われたような気がする。
本当に言われたのかどうかは、もうわからない。
中央線を各駅、暗記するね。
私はそう決めた。
東京。
神田。
御茶ノ水。
四ツ谷。
信濃町。
千駄ヶ谷。
代々木。
新宿。
駅名を口の中で繰り返していると、自分の人生にも停車駅があるような気がした。
けれど、私の電車はいつもどこかで急行になってしまう。
国鉄ヤクザがなんだってんだ。
私は窓の外を見る。
高幡不動。
田無。
吉祥寺。
三鷹。
田無なんて、模型を置いておけばいい。
そんなことを考えながら、私は千駄ヶ谷のホープ軒のことを思い出す。昔食べた、糞不味いラーメン。なぜか人生の記憶には、そういうものばかりが残る。
小さなゴキブリを殺した早朝。
そのとき、私は自分の身体がまだ生きていることを知った。
窓の向こうでは、街が何事もなかったように動いている。
塩化ビニル管が西武池袋線に乗っている。
そんな光景を想像する。
誰も驚かない。
レントゲン写真が出来上がる。
そこには私の身体ではなく、私が今まで忘れようとしたものが写っている。
ムスリム同胞団が、どこか遠くでほくそ笑んでいる。
私はそれをニュースではなく、骨の中で聞いている。
一日に五回、私は死ぬ。
そのたびに母さんを思い出す。
母さん。
その言葉を口にすると、時間が一瞬だけ昔に戻る。
姪に会った。
ブックオフだった。
以前会ったときは子どもだった姪が、今度は成人していた。
時間というものは、私に相談もせずに進んでいく。
語尾にはダディ。
ダディは海に汚い。
意味なんてない。
でも、意味がないからこそ、私はその言葉を忘れられない。
世知辛さは泡になる。
オウムがオフラインISDNになる。
いい子はいい子になる。
私は何度もそういう言葉を並べてみる。
言葉を並べれば、世界も少しは整列すると思っていた。
でも世界は整列しない。
緩急の織りなす身体が浮遊して、土星まで風船の波に乗っていく。
私は笑った。
自分でもどうして笑ったのかわからなかった。
あっけらかんと生き死にを考える。
東名高速を一度だけ走った日のことを思い出す。
父が運転していた。
母が隣にいた。
私は後部座席にいた。
たぶん、まだ幼かった。
窓の外を流れていく道路標識。
サービスエリア。
青い空。
母の横顔。
それから、家に帰って、私は塗り絵をした。
母は私の塗り絵を見て笑った。
上手だね、と言った。
その笑顔だけが、今でも妙に鮮明だ。
記憶というのは不公平だ。
何十年も前の母の笑顔は残っているのに、昨日何を食べたかは忘れている。
私はその笑顔を見ながら、たぶん何も知らなかった。
人は死ぬこと。
家はなくなること。
電車は駅に着くこと。
駅に着いたら、また次の駅へ行くこと。
そして、どんなに暗記しても、最後の駅だけは誰にも教えてもらえないこと。
だから私は中央線を暗記する。
駅をひとつずつ。
東京。
神田。
御茶ノ水。
四ツ谷。
信濃町。
千駄ヶ谷。
代々木。
新宿。
そして、三鷹。
三鷹。
三鷹。
その名前を三度繰り返したところで、私はようやく眠くなった。
静かな魚雷が空を飛んでいた。
神輿がギリシャに落ちていった。
誰も逃げなかった。
私は目を閉じた。
母さんの笑顔が、もう一度だけこちらを向いた。

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更新日
登録日
2026-10-08

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