白銀の茨(はくぎんのいばら)【連載中】
第1章 サイラス:32歳 ルシアン:10歳
* °•. ☪︎ .•° 第1節 °•. ☪︎ .•°*
エストレア城内の静まり返った墓地に、サイラスの足音が小さく響いていた。
周囲には冷たく湿った風が吹き抜け、手入れされた石畳の隙間から細い雑草が顔を出している。その一角にある、妻と娘が寄り添うように眠る冷たい墓石の前で、サイラスは静かに立ち止まった。
彼は手向けるために持ってきた花を、そっと墓石の脇に添えた。
美しく光る銀髪と、透き通るようなエメラルドグリーンの瞳を持った妻と娘――。
失われてしまった温もりを思い出すたび、胸の奥が締め付けられる。いまだにその笑顔を、彼は昨日のことのように鮮明に思い出すことができた。
あの日、サイラスは多忙を極めていたが、久しぶりに親子水入らずで出かける約束をしていたはずだった。
しかし、思い出すのは仕事の焦りと、自分の不甲斐なさばかりだ。サイラスは残務処理に追われていて、約束の集合時間を少し遅れていた。
そろそろ約束の場所へ向かおうかという時だった。城内の廊下の向こうから、血相を変えた同僚や騎士団達が慌てた様子でサイラスの元に駆け付けた。
胸を突くような不穏な空気の中、告げられたのは信じがたい現実だった。運悪く、一帯をうろついていた野党に狙われたらしい。
全身の血の気が一気に引いていく感覚の中、サイラスはすぐさま現場へ駆け付けた。どうか神様、嘘であってくれと、心の底から願いながら。
だが、サイラスが目の当たりにしたのは、二人の変わり果てた姿だった。
野党はのちに捕らえられ、然るべき罰を受け、処刑された。法が裁きを下そうとも、失われた命が戻ることはない。
サイラスはずっと後悔の念に囚われ続けていた。
「俺は...いつも来るのが遅いんだよな...」
唇を噛みしめ、サイラスは終わりのない自責の念に自分を縛り付けた。
妻も子も、もう二度と戻っては来ない。
それでも、残酷なほどに時間は流れ、止まることなく「明日」はやってくる――。
* °•. ☪︎ .•° 第2節 °•. ☪︎ .•°*
うつろな追憶の底から引き戻されるように、城内の執務室に明るい声が響いた。
「おぉ、いたいた、サイラス!」
同僚の突然の元気な声に心底驚いて、山積みの資料整理に没頭していたサイラスは、手に抱えていた大切な資料を思わず床へとばらまいてしまった。
「なんだよ、急に」
焦る心とは裏腹に、サイラスは床に散らばった無数の資料をかき集め、拾い上げながら不機嫌そうに吐き捨てた。
「ガーネット長官がお前を探していた。応接室にすぐに来てくれって」
「ガーネットが?」
サイラスは上司の名前に眉をひそめ、急な呼び出しに対する警戒心を強めた。
(俺、何かしたっけな?)
思い当たる節を探りつつ、サイラスは拾い終えた資料整理を同僚の腕にパスすると、長官の待つ元へと早足で向かった。
重厚な扉を開け、応接室に足を踏み入れると、そこにはエストレア王宮魔導士長官のガーネットが泰然と構えており、その傍らには月夜の民の村長であるイレーネ、そしてその付添人たちが静かに控えていた。
そして、もう一人。イレーネの影に隠れるようにして、見るも麗しい一人の少年が居る。
その少年は、色素の薄い肌に美しい銀髪、そして目を奪われるほど透き通ったエメラルドグリーンの瞳を持っており、一目見るだけで彼が月夜の民の血を引く子供なのだと分かった。
初めて足を踏み入れたであろう厳かなエストレア城、そして見知らぬ大人たちが待ち受ける緊張の空間で、少年は怯えているのか、強張った表情のままイレーネの背後に小さく身を寄せて立っていた。
「何か御用ですか?ガーネット長官」
サイラスは一礼し、改まった声で尋ねた。
「サイラス、こちらに」
ガーネットは手招きして、自分のすぐ隣に来るように促した。
「ご無沙汰しております、イレーネ村長」
サイラスは丁寧に頭を下げた。イレーネもまた、慈悲深い瞳でそれに応えるように深く頷いた。
「リゼットの葬式以来ですね...」
イレーネの口からふと零れ落ちた妻の名前を聞いた瞬間、サイラスは喉元まで込み上げてきた熱いものをぐっと飲み込むようにして堪えた。
月夜の民という稀少な種族から妻を娶り、授かった大切な娘までも失ってしまった。守れなかったという消えない自責の念が、今も彼の心を蝕んでいる。
その複雑な心持ちは、同族である月夜の民の最高位・村長を前にして、申し訳なさと気まずさで彼の胸を重くした。
「今日はな、王宮魔導士の見習い候補として新たに人材を確保したんだ」
サイラスの動揺した表情を察したのか、ガーネットは気まずさを断ち切るように早速本題へと切り出した。
「へぇ...?」
サイラスはわずかに眉を上げ、どんな奴だろうかと興味を惹かれた。
エストレアの王宮魔導士として働きたいと望む者は山ほどいる。しかし、魔導の素養や技術的に一定のレベルまで達することは並大抵のことではなく、見習い候補の段階で挫折していく者も少なくなかった。だが、わざわざガーネットが自ら「人材を確保した」と宣言すると言うことは、年若いながらも相当に優秀な人物なのだろうとサイラスは推測した。
「ガーネット長官が認めるということは、相当な人物なんだろうな」
サイラスはわずかに笑みを浮かべ、ガーネットの顔を見た。
ガーネットはそんなサイラスの様子を見ると、意味深くにっこりと微笑んだ。
「あぁ、もちろんだ。おいで、ルシアン」
長官の呼びかけに、イレーネの影に隠れていた少年がびくりと小さな肩を揺らした。
イレーネが少年の背中にそっと優しく手を添えて押し出すと、少年はおずおずと、ガーネットとサイラスの前に一歩踏み出した。
「彼が、見習い候補だ。ルシアン、自己紹介を」
「ルシアン・ヴァン・エステラールです...」
ルシアンは緊張からか顔を強張らせたまま、目の前に立つサイラスをじっと見上げた。
その姿を見た瞬間、サイラスは息を呑んだ。まさか、目の前のこのあどけない少年が、王宮魔導士の候補生だとは微塵も思っていなかったからだ。
サイラスはそのエメラルドの透き通る瞳を真っ直ぐに見つめ返すと、なぜか胸の奥が締め付けられるような、どこか懐かしさを覚えるのだった。
「サイラス、お前が今日からルシアンの教育係だ」
「何!?」
予想の斜め上を行く提案に、サイラスは度肝を抜かれた。思わず声を荒げ、ガーネットの腕を掴むと、目の前の月夜の民たちに聞こえないよう、一歩引いた位置へと引っ張って小声で猛抗議した。
「おいおい、そんないきなり、ちょっと待ってくださいよ!」
「最近は毎日のように酒場に入り浸っているらしいじゃないか?どうせ、暇だろう?」
ガーネットの涼しげな横顔を見ると、冗談で言っているわけではないことが痛いほど伝わってきた。
「それは...」
「サイラス、お前の傷心も分かっている。だが、これは王宮魔導の未来にとっても、必要なことなんだ」
「だからと言って、俺である必要がどこに...!」
「ルシアンには、両親がいない」
「っ...!」
その言葉を聞いた瞬間、サイラスは喉の奥で詰まったように言葉を失った。そして、ガーネットがなぜ自分を指名したのか、その真意が痛いほど理解できてしまった。
「俺に、父親になれって言うのか...?無理だ、そんなの、俺には...」
「そうか。ならば、これは長官命令だ。サイラス、お前がやれ」
ガーネットは、心の傷に蓋をしたまま煮え切らない態度をとるサイラスに対し、無慈悲にも冷たく言い放った。
それ以上隙を与えないように、ガーネットはくるりと振り返り、イレーネとルシアンの方へと歩み寄った。
「快く引き受けてくれるそうだ」
「おい...!」
サイラスは堪らずもう一度抗議しようと口を開かけたが、ふと視線を感じてそちらを見ると、ルシアンが真っすぐで美しい綺麗な瞳をサイラスに向けてじっと見つめていた。その瞳のまっすぐさに気圧され、サイラスはそれ以上言葉を続けることができなくなった。
「では、あとはよろしく頼みます。ルシアン、月夜の民として誇らしいです。精一杯頑張るのですよ」
イレーネの温かい言葉に、ルシアンはこくんと深く頷いた。どうやら、まだ幼いながらにも自分が一族の期待を背負っており、王宮魔導士として働くことが栄誉なことであるのはしっかりと理解しているようだった。
そうして、イレーネは付添人たちを従え、静かに応接室をあとにしていった。
静けさが戻った部屋で、ガーネットは少年の目線に合わせるようにゆっくりとしゃがみ込んだ。
「ルシアン、これから我々と城で共同生活になるが、何か困ったことがあれば、サイラスに何でも言いなさい」
「はい、わかりました」
ルシアンは緊張の面持ちのまま、しっかりと頷いた。やはり、まだ見知らぬ環境への不安からか、体全体がこわばっているように見える。
サイラスは遠目からその様子を眺めながら、思わず小さく長いため息をついた。
ガーネットはすっと立ち上がると、今度はサイラスに向けてピリッとした鋭い視線を向け、厳しい表情を作った。
「サイラス。彼をぞんざいに扱うような不埒な真似があれば、容赦なく処罰の対象だからな?」
念を押すようにガーネットが忠告した。
「分かってますよ、そんなこと...」
サイラスは再び短いため息をつき、気まずそうに自分の頭を乱暴にかいた。
やがて、長官が席を外し、気まずい沈黙が流れる中、サイラスはルシアンと目線を合わせるように、彼の前でゆっくりとしゃがみ込んだ。大人の大きな体が、少年の小さな影をすっぽりと包み込む。
「俺はサイラス・モンフォールだ。これからよろしくな、ルシアン。堅苦しいのは抜きだ、俺のことはサイラスと呼んで構わないからな」
サイラスは、亡き家族を思い出させるその緑の瞳を真っ直ぐ見つめながら、できる限りの柔らかい笑みを浮かべて微笑みかけた。
ルシアンは、目の前の屈強な男が向けてくれた思わぬ優しさに気恥ずかしさを覚えたのか、ふっと頬を染め上げ、わずかに顔を赤らめた。
「よろしくお願いします...サイラス」
潤んだエメラルドの瞳が、少しだけ揺れたように見えた。
第2章 サイラス:39歳 ルシアン:17歳
* °•. ☪︎ .•° 第1節 °•. ☪︎ .•°*
「まぁ長いって言っても、2週間くらいで帰ってくるよ」
サイラスは、香ばしい肉料理を豪快に頬張りながら言った。
暫くの間、魔導研修のため遠征することが決まっていたサイラスは、その出発を間近に控え、ルシアンと二人で城下町のレストランに足を運んでいた。
店といっても気取った格式高さはなく、石壁の地下室に設えられたバーのような造りだった。あちこちの卓では演奏家たちが奏でる陽気で軽快な音楽が響き渡り、夜の喧騒が店内に満ちている。
「お前も俺が居ない間羽伸ばせるだろうし、たまにはいいだろう」
サイラスは、今度は籠から焼き立てのパンを掴み取り、豪快にかじりながら笑ってみせた。
テーブルを挟み、向かいの席に座るルシアンは、相変わらず黙々とサイラスの話を聞きながら、静かにフォークを動かしていた。
「あ、でも城の外に出るのは俺が戻って来るまで無し、な?」
サイラスは軽く笑いながら付け加えた。
いくら治安が維持されている城下町と言えど、王宮の一歩外には何が潜んでいるか知れない。
自分でも過保護すぎるとは頭の片隅で思いつつも、念を押さずにはいられなかった。
「わかりました」
ルシアンは一切の異論を挟むことなく、素直にこくんと頷いた。
二人は手早く食事を済ませると、夜風の冷たい石畳を抜けて王宮の自室へと向かった。
ルシアンの部屋の扉の前まで来た時、サイラスは腰に携えた革のポーチから、手のひらサイズの小さな木の箱を取り出した。
「これを渡しておく」
「何ですか?これ……」
ルシアンは、差し出された小さな金属の土台のような奇妙な機械を、不思議そうに両手で受け取った。
「魔法電信さ。これのダイヤルを回すと、登録した相手のホログラムが映し出されて、離れていても会話できるんだ」
初めて見る魔動機に、ルシアンの瞳が興味津々に輝いた。
「いいか?これに俺の台座の番号を登録して……ほら!」
サイラスが自分の手元の機械を操作すると、ルシアンの手のひらの上にある小さな台座から、すぐ横に立っているはずのサイラスの姿が立体的に映し出された。サイラスがその場でふざけた調子で奇妙なダンスを踊ってみせると、ホログラムの投影も完全に連動し、滑稽な動きをそのまま再現して見せる。
「ふふふ」
その思わず突拍子もない動きに、ルシアンは小さく噴き出して笑った。
あどけなさを残す可愛らしいその笑顔に、サイラスは胸の内で満足感を覚えた。
「魔導士の連中に、お前を見とくようには言っておいたけど……何かあったらすぐに連絡しろよ?」
「わかりました」
ルシアンはサイラスの顔をまっすぐに見据えて頷いた。
「そういや、研修先の街にはかなり美味いもんが沢山あるらしくてさ。お土産に食べ物とかいるか?」
サイラスは柔らかい笑みを浮かべ、ルシアンの反応を探るように尋ねた。
「いりません」
ルシアンは笑顔で間髪入れずに即答した。
「近くに鉱山があって、宝石とかも有名らしい。アクセサリーとか欲しいのあるか?」
ルシアンが本当に心惹かれるものは何だろうかと探りつつ、サイラスはめげずに畳みかけた。
「いりません」
これもまた、見事なまでの即答だった。
ルシアンの興味を惹くものは一体何なのか――サイラスは食い下がるように問いかけた。
「何か……欲しいものないのか……?」
「ありません」
サイラスはどうにかしてルシアンに喜んで欲しかったが、繰り出す提案はことごとく無残に砕け散った。
サイラスは目の前にいるルシアンのエメラルドグリーンの瞳をじっと見つめた。吸い込まれそうなくらい、あまりにも美しく澄んだ緑色だった。
ルシアンの答えはあまりに端的で愛想がないように思えるが、決して不機嫌なわけでも、拒絶しているわけでもない。本当にただ自分にとって「必要がない」からそう答えただけなのだということが、その飾らないルシアンの表情の端々からも痛いほど伺えた。
サイラスは小さく、短く息を吐き出した。
ルシアンはこれまで、一度たりとも我が儘を言ったことがなかった。あれが欲しい、これが欲しいとねだることも一切ない。振り返ってみても、サイラスは彼に対して厳しく躾けたつもりはなかったし、かといって過剰に甘やかして育てた覚えもなかった。
王宮魔導士として、一人の社会人として生きていくために必要な知識や技術は教え込んだし、世間を渡るための社会性というものも叩き込んだつもりだ。ルシアンは驚くほど素直だったし、魔導機の使い方についての飲み込みも驚異的に早かった。頭の回転も速く、周囲の大人が舌を巻くほど、彼はいつだって真面目だった。
だからこそ――それが逆に、サイラスの中でたまらなく不安で仕方がなかった。
年相応の子供らしさというものが微塵もないからこそ、もっと子どもらしく多少の我が儘を言ってほしかった。自分を頼って甘えてほしいと、サイラスは密かに願っていた。
(本当の親子じゃないから……心を開いてないわけじゃないよな……?)
ルシアンが年を重ねて少年から青年へと成長するにつれ、どこか決定的な距離を置かれているような、そんな寂しさを感じないでもなかった。これは多感な思春期特有の、親と一定の距離を取りたいという普通の心理なのだろうか?それとも、自分のこれまでの育て方が根本的に間違っていたのだろうか?――そんな迷いが胸をかすめる。
しかし、ルシアンはこれまで何一つ道を踏み外したことはない。それは彼が正しく、真っ直ぐに生きている動かぬ証拠であり、本来なら誇りに思っていいはずだった。
(良い子過ぎるんだよな……)
込み上げる形容しがたい感情に押され、サイラスはルシアンの体を優しく引き寄せ、しっかりと抱きしめた。強く抱き締められても、ルシアンは嫌がる素振りも見せず、微動だにしない。ルシアンはただ静かに、サイラスの胸元から伝わる体温に身を委ねていた。
「すまん、俺の方が……お前と離れるのが寂しいのかもな」
サイラスは腕の中に収まるルシアンの確かな温もりを、しかと確かめるように両腕に力を込めた。
ルシアンの年齢を考えれば、親が子離れするにはまだあまりにも早い時期だった。
「僕も……サイラスが傍にいないのは寂しいです」
胸のなかに顔をうずめたまま、ルシアンもか細く、しかしはっきりとそう答えた。
(くぅ~~!なんて可愛いんだ!)
愛おしさが爆発しそうになり、サイラスの腕の力が思わず強まる。
「ルシュ、必要なものがあれば遠慮しないで俺にちゃんと言ってくれ。我慢しなくていいから……」
サイラスは思わず、ルシアンがまだ幼かったころによく呼んでいた愛称を口走ってしまった。ルシアンが大きくなるにつれ、意識して避けていたつもりだったが、こうして寂しさが勝ると、いまだに昔の癖でうっかり零れてしまう。
もっとも、この愛称を呼ばれてルシアンに嫌な顔をされたことは一度たりともなかったのだが――。
サイラスは自分の今の素直な気持ちをそのまま言葉にして伝えた。そうすれば、少しはルシアンも自分の胸の内を明かしてくれるのではないかと思ったからだ。
「我慢……」
その瞬間、ふっとルシアンの表情がわずかに、しかし確実に暗い影を落としたように見えた。だが、サイラスが驚いて瞬きをした時には、いつもの物静かな表情へと戻っていた。
「いえ、今は何も問題ありません」
ルシアンは柔らかな笑顔を浮かべて答えた。
その穏やかな笑顔を目にしたことで、サイラスは自分の杞憂だったのだと無理やり胸をなで下ろした。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
二人は廊下の薄明かりの中で寝る前の穏やかな挨拶を交わすと、それぞれの自室へと戻っていった。
* °•. ☪︎ .•° 第2節 °•. ☪︎ .•°*
研修先の街に到着するやいなや、エストレアから派遣された優秀な魔導士たちの濃密な研修は容赦なく始まった。
朝から晩まで息つく暇もないほど根詰めたスケジュールが組まれ、目まぐるしく時間が過ぎ去っていった。
その日も、頭が沸騰しそうなほどの座学と実技の研修がようやく終わり、疲労困憊のサイラスは、いつもの顔馴染みのメンバーと共に食堂の一角で夕食の大きなテーブルを囲んでいた。
「そうだ、あなた研究室の管轄も兼任しているでしょ?研究チームにちゃんと日々の資材管理くらい徹底させてよね!」
すらりと伸びた背筋に、美しく手入れされた長い銀髪をきっちりと綺麗に束ねた女――キアラが、向かいの席から冷ややかな視線を向けながらサイラスに強く言った。彼女もまた「月夜の民」の血を引くサイラスの古くからの同僚だった。
「最近、研究室エリアの乱雑ぶりには困っています。管理表と資材調達の数がどうしても一致していません」
キアラの隣の席に腰を下ろしていたのは、独特な灰色の肌に、頭部から立派な白いラムホーンの角を生やしたティーフリングの男――エドガーだった。冷徹なトーンで説明を付け加えた。
「ははは!兼任と言っても名ばかりで、これと言って何もしていないもんな?サイラス」
サイラスのすぐ真横の席で、ワイングラスを傾けていた眼鏡の男――トリスタンが、からかうように声を上げて笑った。
サイラスはジョッキに口をつけ、横に座る同僚たちをジトッとした目で一瞥した。
「もう随分飲みにも来ないし。そんなに忙しいのか?」
「今抱えてる魔動機チームの仕事でいっぱいいっぱいなんだよ。すんませんね、お前らと違って暇じゃなくて」
サイラスはそう吐き捨てると、目の前のジョッキに残っていた酒を飲み干し、勢いよくテーブルに置き直した。
「その割にはさっさと仕事終えてるようですが……」
エドガーが涼しい顔で釘を刺す。
「そりゃぁ可愛い息子のことが心配だもんな」
トリスタンが悪趣味な笑みを浮かべながらサイラスの顔を覗き込む。
「もうそんな小さな子供じゃないんでしょ?親バカねぇ。あんまり過干渉だと嫌われるわよ」
キアラが呆れ果てたようにため息をつく。
「歳を考えたらまだ子供だぞ。心配になるだろ」
サイラスは不服そうに反論の声を上げた。
「それにしても、だいぶ大人しい子らしいじゃないか。我儘とか言わないみたいだし」
「そうだな...。もしかしたら俺に遠慮してるのかもしれん」
「子供がやりたいことはやらせてあげないとダメよ、お父さん」
「何を知った風に。男をとっかえひっかえしてるようなお前だけには言われたくない」
サイラスが余計なお世話だと言わんばかりに露骨に嫌そうな顔をすると、キアラは聞くに堪えないような罵詈雑言を間髪入れずに浴びせてきた。
そうして、決して上品で和やかとは言えないまでも、どこか腐れ縁のような気心の知れた4人は、目の前に運ばれてきた食後の甘いデザートのプリンを前に、一旦の落ち着きを取り戻した。
「そういえば、さっきの話じゃないけど、研究室と言えば……コルベインが最近、裏路地のバーに入り浸ってると聞いたな」
トリスタンが何かを思い出したように、スプーンを置きながら切り出した。
「ふーん?アイツも飲んだりするんだ?そういえば、今回の研修に参加しなかったな……」
サイラスは意外そうな声を漏らした。研究にすべての人生を捧げ、他のものには一切目をくれなかった男が酒場でグラスを傾けている姿など微塵も想像がつかなかったからだ。
「……そのことなんだけど、私も実は気になっていて。なんでも、街の裏路地にある怪しいバーに入り浸って、怪しい男と、怪しい魔法素材の取引をしてるらしいわよ」
キアラはテーブルに身を乗り出し、周囲を警戒するようにひそひそ声で告げた。
「なんだよ、その『怪しい』って。情報が抽象的すぎるだろ。何をしているのかは分からないんだろう?」
キアラのいつもの尾ひれがついたゴシップネタが始まったなと、サイラスは心底うんざりした顔をした。
「だから!あなたにちゃんと研究室の管理してって言ったじゃない!そもそもあなたが管理していれば怪しいかどうかだって……」
「あー!わかったよ、うるせーな」
サイラスは下手に突っ込むと、何倍もの怒濤の反論が返ってくることを知っているため、慌てて話を切り上げようとした。
「サイラス。真面目な話、王宮で管理していない未知の資材を勝手に研究室に持ち込んでいるようであれば問題だ。この研修が終わったらすぐに研究室を確認した方が良い。そのうえで、コルベインに不審な点があればガーネット長官に正式に報告しよう」
トリスタンの冷静な指摘に、サイラスはハッと表情を引き締めた。
確かに思い返してみれば、コルベインはかつて驚異的なペースで研究成果を上げていたが、ここ最近提出される報告書を見る限りでは、研究が行き詰まっているのか、どうにもパッとしない不自然な内容が多かった気がする。
(やれやれ……仕方ない、ここで一度バシッとメスをいれるか……)
サイラスは目の前に残っていたプリンを名残惜しそうにスプーンですくい上げ、一気に口の中に放り込むと、残りの厳しい研修期間を気合を入れて乗り切ることに決めた。
* °•. ☪︎ .•° 第3節 °•. ☪︎ .•°*
サイラスが魔導研修の遠征へと旅立ってから、すでに数日が経過していた。
そのころエストレア城では、王宮魔導士の見習いとして日々の公務に勤しんでいたルシアンに、思わぬ転機が訪れていた。長官であるガーネットの気まぐれともいえる提案により、普段は立ち入る機会のない「魔法研究室」を見学することになった。
「研究室はいつも騒がしいけどね。ほら、丁度みんな遠征中だろう?今なら少しだけ中を見せてあげよう」
ガーネットも多忙な執務の合間を縫って、ルシアンのためにわざわざ時間を作ってくれたようだった。
王宮魔導士のなかでも、実務的な文献調査や、サイラスの所属する「魔動機チーム」とはこれまで関わりがあったものの、純粋な魔法の根本的な研究となると話は別だった。それは非常に高度で専門的な分野であり、限られた一部の優秀な魔導士のみが立ち入ることを許された、閉ざされた領域だった。
ガーネットに促されて重厚な扉をくぐり、研究室へと足を踏み入れると、そこには見たこともない複雑な機材やガラス管が無数に並び、まさに今新しい魔法が生まれ出でようとする独特の熱気に満ちていた。
「す、凄い……」
ルシアンは純粋な感嘆の声を漏らし、周囲をキョロキョロと見回した。その様子を見て、ガーネットは満足そうに口元を緩める。
「ははは!どうだ?魔法研究にも興味があるかな?」
ガーネットは机に無造作に置かれたガラス管の機材を軽く手に取り、手慣れた様子で元の位置に戻した。
「サイラスと一緒にずっと魔動機を触っているのも退屈だろう?たまには別の分野の空気も吸ってみようか?……おい、コルベイン!」
そう言って、ガーネットは研究室の薄暗い奥の方で、背中を丸めて一心不乱に羊皮紙に何かを書き殴っていた男を大声で呼びつけた。
「はいっ!はいっ!な、なんでしょうか……っ」
コルベインは、びくりと肩を震わせ、頼りない足取りでふらふらとガーネットのもとへ駆け寄ってきた。
ガーネットは、そのおどおどとした冴えない態度に心底呆れたように、深い大きなため息をついた。
「コルベイン……前にも注意したが、その白衣はもう少しこまめに洗った方がいいんじゃないかね……」
心底うんざりしたような一瞥を向けながらガーネットが言う。
「は、はぁ……」
だが、コルベインは注意された意味すらまともに理解していないような、なんとも情けない間延びした返事をするばかりだった。
「まぁいい。少し研究室の仕事内容を、ルシアンに教えてやってくれないか?ずっと魔動機チームで学んでいたから、気分転換がてら魔法研究の基礎にも触れさせたくてね」
「は、はい……」
コルベインは何とも覇気のない、頼りない返事をした。
ガーネットはこれ以上彼と話すのを諦めたように、コルベインに背を向けてルシアンの方へと振り返った。
「ふぅ……。彼の身なりや態度はあんな調子だが、技術者としての頭脳や腕は確かなんだよ」
ガーネットはルシアンだけに聞こえるような小さな声で肩をすくめて言った。
「何か困ったことがあったら、いまサイラスは不在だからね……私に直接言いなさい。残っている魔動機チームのみんなに頼ってもいいからね」
ガーネットはそう言うとルシアンの肩を優しく軽く叩き、自分の執務室へと戻っていった。
取り残されたコルベインは、ルシアンにどう声をかければいいものか迷っているのか、その場で何度ももじもじと指先を絡ませていた。
「コルベインさん。ルシアンです。よろしくお願いいたします」
気まずい沈黙を断ち切るように、ルシアンはまず丁寧にお辞儀をして挨拶をした。
その日は、コルベインから現在行っている魔法研究の話を一通り聞き、見学一日目は何事もなく無事に終了した。
別れ際、コルベインが「もしよかったら、明日の朝食を一緒にとらないか?」と控えめに誘ってきたため、ルシアンは特に断る理由もなく、その誘いを快く了承したのだった。
* °•. ☪︎ .•° 第4節 °•. ☪︎ .•°*
翌日、ルシアンは約束通りコルベインと合流し、軽く朝食を共にした後、二人並んで研究室へと歩みを進めていた。
その途中、廊下の少し開けたスペースに、魔動機チームの同僚魔導士たちが何やら楽しげに集まっているのが見えた。彼らは、その場ですぐに被写体の姿を焼き付けられる最新式の撮影魔動機を取り出し、ふざけ合って遊んでいた。
遠くからルシアンの姿を見つけると、魔導士の一人が手を振って声をかけてきた。
「おっ、ルシアン! サイラスがいなくても元気にやってるか?」
気さくな同僚たちの気遣いに、ルシアンはほっとしたような笑みを浮かべてうなずいた。
ルシアンが興味深そうに撮影用の魔動機に視線を向けると、魔導士たちは「せっかくだから記念に一枚撮ってあげるよ」と気楽に提案してきた。
ルシアンは、今まさに一緒に歩いているコルベインを手前だけ置いて自分ひとりが写るのは気が引けた。
「あ、あの……コルベインさんも一緒にどうですか?」
ルシアンは遠慮がちに、隣にぼんやりと立っている男を誘った。
「えっ、僕かい……?」
戸惑いつつも、コルベインは促されるままルシアンの隣に並んだ。
カシャリ、と乾いた魔導の光が走り、即席で現像されたばかりの写真がルシアンの手に渡された。ルシアンはそれを確認すると、「どうぞ」とコルベインに手渡した。コルベインは手渡された写真に写る自分とルシアンの姿をじっと見つめ、なぜかどこか嬉しそうに、それを大事そうに自分の白衣の懐へとしまった。
その日も、コルベインから前日とは異なる魔法理論の話を聞き、見学の時間は滞りなく終わった。
* °•. ☪︎ .•° 第5節 °•. ☪︎ .•°*
そして、見学三日目。
その日は作業の手を止めたコルベインが、突然深い溜息をついてルシアンにぼやき始めた。
最近どうにも研究がスランプで、納得のいく成果が全く出なくて困っているのだという。
「僕で良ければ……何か力になれたらいいのですが……」
真面目な性格のルシアンが純粋な善意から返した。
コルベインはしばらくの間、じっと何かを思案するように黙り込んでから口を開いた。
「……君にしか頼めない手伝いがあるんだ。ちょっとこっちに来てくれないか」
コルベインに連れられ、二人が向かったのは、普段は誰も使っておらず、城の中でもすっかり忘れ去られていた古い塔の地下室だった。
足を踏み入れたそこは、本来はただの雑然とした物置であるはずだった。しかし、部屋の奥には見慣れない実験器具や魔導回路が勝手に運び込まれており、どうやらコルベインが個人的に私物化して作り上げた秘密の研究所のようになっていた。
「どうだい?僕だけの秘密の場所さ。ここなら誰にも邪魔されずに集中できるんだ」
ルシアンはさすがに嫌な予感を覚え、コルベインに不安げな声で確認した。
「あの……こんなところで勝手に研究なんてして、本当に大丈夫なんですか?」
「大丈夫さ、誰も使ってないし誰も来やしないよ」
コルベインは薄気味悪い笑みを浮かべて答えたが、エストレアの城内において、塔の地下を勝手に私物化し隠れ家のように使うなど、規律の厳しいこの城では本来あってはならないことだった。
この秘密の空間に足を踏み入れ、彼の手伝いをするということは、自分もこの男の規約違反に加担する「同罪」になってしまうのではないかという焦りが頭を駆け巡った。ルシアンの胸中に、徐々に言い知れない恐怖と警戒心が広がっていく。
しかし同時に、この男が他の魔導士たちや長官に隠れて、この地下でいったい何をコソコソと企んでいるのか――その正体をここでしっかりと見極めなければならないという正義感もあった。それを確かめた上で、戻ってきたサイラスにすべてを相談しよう――ルシアンはそう心に決め、警戒しつつも何も言わずにコルベインの後をついて地下室の奥へと進んだ。
地下室の奥は、長年放置されていたような澱んだ埃の匂いが鼻をついた。
「じゃあ、ルシアン。そこの壁に両手をついてくれるかい?」
「……壁?こうですか?」
ルシアンは特に疑うことなく、言われた通りに目の前の壁に両手をついた。
――その瞬間。
壁の隙間に巧妙に埋め込まれていた特殊な魔動機が突如として稼働し、ルシアンの両手首をガチャンと強烈な力で固定してしまった。
「っ……!?」
不意を突かれたルシアンは驚愕し、全体重をかけて思い切り両手を引っ張ったが、魔導の枷はビクともしない。
「なっ、何を……!」
慌てて首を後ろへ捻り、背後に立つコルベインに抗議の声を飛ばそうとした。
しかし、コルベインの鼻梁に乗せた丸眼鏡が、怪しくギラリと光った。
「さっき、何か力になってくれるって言ってくれたよねぇ?」
そう呟きながら、コルベインは這い寄るような不気味な足取りでルシアンの背後へと近づいてきた。
恐怖に凍りつくルシアンの口に、コルベインは容赦なく布のさるぐつわを噛ませ、声を封じた。
「んっ……! んーーっ……!」
「大丈夫、そんなに怖がらないで。痛くはしないからね?」
耳元で囁かれるねっとりとした声に、ルシアンの身体は恐怖で小刻みに震え始めた。
背後の闇の中で、カチャカチャと何やら聞き慣れない機材を準備するいやらしい金属音が響く。
やがて、再び近づいてきたコルベインの手が、ルシアンの腰元へと伸びた。ズボンと下着が乱暴に下ろされ、ルシアンの下半身が無防備に露出させられる。
「あぁ……綺麗な肌だね……」
白く透き通るような、見事なハリのあるルシアンの肢体を目の当たりにし、コルベインは下卑た歓声を漏らした。
背後から覆いかぶさるように、コルベインはルシアンの太ももを撫でまわす。
コルベインのねっとりとした手がルシアンの若々しい肉棒を掴み、執拗に扱き始めた。
「!!」
突然の屈辱的な感触に、ルシアンの身体が激しくビクリと跳ねる。
両手は完全に自由を奪われ、声も出せない絶望的な状況のなか、足を開かせられたまま下半身を弄ばれ続ける。
何とか逃れようと体を必死にもがくが、急所を直接刺激されているせいで思うように力が入らない。それどころか、暴れれば暴れるほど、背後の男の手の動きはさらにいやらしく速度を増していくのだった。
「こういう気持ちいいこと……お父さんは、まだ教えてくれてなかったのかな?」
耳元でささやかれたその卑劣な言葉に、サイラスを侮辱されたような激しい怒りが、ルシアンの胸の内で黒々と沸き上がった。
ルシアンは血走りかけたエメラルドの瞳で背後の男をキッと睨みつけ、無言のまま全身で抗議の意志を示したが、声を上げられない以上、その怒りは相手に届くはずもなかった。
しばらくして、手での愛撫を途中でやめたコルベインは、「次はこれを使おうね」と、別の不気味な弾力を持った器具を取り出してきた。
そして、恐怖に震えるルシアンの肉棒を、その異質な機材へと強引に押し込んだ。
素手とは違い、中は温かく柔らかい特殊な弾力性のある壁に締め付けられるような、これまでに味わったことのない異様な圧迫感に、ルシアンの身体は抗しきれず敏感に反応してしまう。
「もっと腰を動かしてよ」
コルベインはルシアンの細い腰をガシッと掴み、容赦なく激しく前後に動かし始めた。
機材のなかにルシアンの熱を持った肉棒が激しく出入りする。先ほどまでの激しい不快感と嫌悪感の裏腹で、頭が真っ白になるような抗いがたい快感が神経を焼き焦がしていく。
「んーーっ……!」
ルシアンの体が大きく弓なりに跳ね上がり、彼はその異質な機材の中でたまらず絶頂を迎えた。
ルシアンの肉棒から精液が機材の中に流れ落ちる。ルシアンが出し切ったのを確認するとコルベインは満足げに機材を引き抜いた。
「素晴らしい……! これだけ質の高い魔力を含んだ液体なら……!」
興奮で頬を紅潮させたコルベインは、採取した液体の入った機材を宝物のように大事そうに両手で抱え込んだ。
だが、悪夢はそれだけでは終わらなかった。
背後で衣擦れの音がしたかと思うと、なんとコルベイン自身が自分の下半身の衣服を乱暴に脱ぎ捨て始めた。
「!?」
正気を失いかけたルシアンの視界の端で、男の醜悪な肉体が露わになる。
コルベインはそのまま自分の下半身を、後ろから、濡れたルシアンの股へと生々しく擦り付け始めた。
「流石に、中に入れるのはまだちょっと早いかな……?」
独り言のように呟きながら、コルベインは自身の腰をルシアンの臀部に押し付け、ねっとりと小刻みに動かし始めた。
両手も口も完全に塞がれ、先ほどの絶頂ですでに体力の限界を迎えていたルシアンには、もはやこれ以上抵抗する気力も残されていなかった。
コルベインはルシアンの震える体に密着し、その腰を掴んだまま貪るように腰を振り続ける。男の生暖かい吐息が、ルシアンの無防備な首筋にねっとりと吹きかけられた。
「あぁっ……もう、イキそうだ……っ!」
狂ったような声を上げ、コルベインは自身の肉棒をルシアンの股から引き抜くと、そのままルシアンの尻の割れ目へと大量の精液を吐き出した。
ルシアンの臀部から太ももの裏をつたい、冷たい床へと、男の汚濁がドロリと滴り落ちていく。
恐怖と屈辱で、ルシアンの体は小さく、小刻みに震え続けることしかできなかった。
「はは……っ。すごく気持ちよかったよ……」
満足しきった様子でコルベインは醜態を晒したまま、近くにあった椅子に座った。
ルシアンの目から涙がとめどなく流れる。
それを見たコルベインはやっとのことでルシアンの口に噛まれていた猿ぐつわを外し、手首を固定していた魔動機の枷を解除した。
拘束が解けた瞬間、ルシアンのなかで限界まで抑え込まれていた怒りと拒絶が爆発した。ルシアンは全体重を乗せて背後のコルベインを力任せに床へと激しく押し倒した。
「ぐっ……!?」
不意を突かれたコルベインが、床の硬い石畳に体を打ち付け盛大に転がる。
ルシアンはその隙を見逃さず、足元に脱ぎ捨てられていた自身の衣服を拾い上げ、身につけると、半狂乱の状態でその地下室から必死の思いで脱出した。
* °•. ☪︎ .•° 第6節 °•. ☪︎ .•°*
頭が割れるように痛む中、ルシアンは死物狂いで自分の自室へと駆け戻った。
扉を閉めて鍵をかけると、全身から力が抜け落ちる。
(気持ち悪い……気持ち悪い、気持ち悪いっ……!!)
脳裏に焼きついた男の顔と、肌に残る生々しい感触に耐え切れず、ルシアンは纏っていた服をまるで毒物でも扱うかのように素早く引き剥がし、急いで浴室のシャワーへと飛び込んだ。シャワーの蛇口を限界までひねり、最大水圧の冷たい水を頭から直接かぶる。全身の皮膚がヒリヒリと赤く痛むまで、何度も、何度も必死に洗い流した。
止まっていた涙が再びあふれ出し、水滴と一緒にポロポロと床へと零れ落ちた。ルシアンは浴室のタイルの上に崩れ落ち、声を押し殺して泣いた。
全身を隅々まで清め、これ以上ないほど綺麗に洗い流したはずなのに、心の奥の汚れは一向に落ちる気がしなかった。先ほどまで着ていた衣服は、コルベインの汚らしい精液がついていることすら耐えられず、見るのも触るのも気味が悪くて、そのまま部屋のゴミ箱へと投げ捨てた。
清潔な部屋着に着替えると、ルシアンはそのままベッドにもぐり込み、分厚い布団を頭からすっぽりとかぶって、どうしようもない恐怖と嫌悪感から身を守るように丸まった。
どれくらい時間が経っただろうか。
震える手で、ルシアンはベッドサイドの小さなテーブルにぽつんと置いてある、サイラスから旅立ちの際に渡された「魔法電信の台座」を手に取った。
(サイラスに……会いたい……)
助けを求めたい衝動に駆られ、ルシアンはサイラスの登録番号へダイヤルを回そうと指をかけた。
しかし、その指先がピタリと動かなくなる。
(でも……サイラスは今、遠征先で大事な仕事をしている……)
事実、サイラスはいつも多忙を極めていた。ルシアンの面倒を日頃から優先して見てくれてはいたが、彼に割り振られている王宮での仕事量は他の魔導士の比ではなかった。次期長官候補と噂される男の肩にかかる責任の重さを、ルシアンは痛いほどよく知っていた。
(……忙しいのに、こんなことで心配をかけていいのだろうか……?)
サイラスに今すぐすべてを打ち明けて助けてほしいという強い思いと、あんなにも卑劣で恥ずかしい行為を強要された顛末を、敬愛する師に事細かに説明したくないという絶望的な羞恥心が、ルシアンのなかで激しくせめぎ合った。
(明日……またあの研究室に行かなきゃいけないの……? もう、行きたくない……)
これまで、王宮魔導士としての仕事はどれほど厳しくとも、自分の居場所であり、誇りだったから毎日が楽しみで仕方がなかった。
しかし、ルシアンの中にはこれまでにないほどの絶望的な無気力が広がっていた。
ルシアンは冷え切った手でその小さな台座を強く、痛いほどに握りしめ、再び枕に顔を埋めて静かに涙を流した。
——あの時、地下室の怪しさに気づいたあの瞬間、なぜ自分は素直にその場から逃げ出さなかったのか。
自分のなかのわずかな直感を信じていれば、こんな最悪な事態にはならなかったのに。
ルシアンは、あまりにも遅すぎた自分の判断の過ちと、無力さをただただ激しく呪い続けるしかできなかった。
* °•. ☪︎ .•° 第7節 °•. ☪︎ .•°*
魔導研修チームの一行を乗せた馬車が、次々とエストレア城の門をくぐり抜けた。
城内へ戻るなり、待っていたガーネットが足早にサイラスのもとへ歩み寄り、厳しい表情で声をかけた。
「サイラス、お前を待っていた。……ルシアンが具合を悪くしているようでね。すぐに様子を見に行ってやってくれ」
その思いがけない報告に、サイラスは眉間を険しく寄せた。
サイラスは旅の荷物の後片付けを同僚や他の仲間たちに任せると、険しい足取りで急いでルシアンの自室へと向かった。
ルシアンの自室の扉の前に立つと、扉は堅く閉ざされ、鍵がかかっていた。
サイラスは軽くノックを二度鳴らした。
「俺だ、戻ったぞ」
自分が帰ってきたことを扉越しに告げた。
しばらく返事はなかった。だが、わずかに魔力が波打ったのか、内側からカチャリと小さな音がして錠が外れた。
その控えめな音を聞き、サイラスは中にいるルシアンが自分を受け入れ、入ることを許してくれたのだと悟った。
サイラスは静かに扉を押し開き、部屋の中へと足を踏み入れた。
室内の明かりは一切つけられておらず、厚手のカーテンは閉めきったままで、空気はどこか澱んでいるように重たかった。
ただ事ではないルシアンの様子を肌で感じ取りながら、サイラスは波立つ心を必死に落ち着かせ、部屋の奥にあるベッドの上の「分厚い布団の塊」へと近づいた。
「ただいま」
サイラスはできる限り優しく、包み込むような声を投げかけた。
しかし、ベッドの上で丸くなっている分厚い布団の塊は、ピクリとも動かなかった。
サイラスはベッドサイドに腰を下ろすと、その分厚い布団の山をそっと両腕で抱きしめるように包み込んだ。
「どうした? ガーネットから具合が悪いって聞いたけど……」
やはり返事はない。
だが、すっぽりと被られた布団のわずかな隙間から、ルシアンの青白い手と、その両手に固く握りしめられた小さな魔法電信の台座がちらりと見えた。
「連絡……してよかったんだぞ? 遠慮するなって言っただろ?」
サイラスが優しく布団の端をなでると、その布の塊が小さく、小刻みに震えているのが手に取るように分かった。
サイラスはもう一度、布団の隙間からルシアンの手元に目をやった。
きらりと光る水滴——おそらく、抑えきれない涙が、ぽたぽたとルシアンの白い手のひらに零れ落ちていた。
「……何があったんだ? パパにも言えないか?」
サイラスの声は、どこまでも優しく、慈しみに満ちていた。
ただ泣いているだけでは、何があったのか本人にしか分からない。それは頭では分かっていた。だが、本人がまだ言いたくないと怯えているのであれば、無理矢理言葉を引き出すのは違うと思った。
今は詮索するよりも、まずはルシアンの凍てついた心を落ち着かせるのが先決だった。
サイラスは布団の隙間にそっと手を入れると、冷え切ったルシアンの白い手をしっかりと包み込むように掴んだ。
「言いたくなけりゃ、無理に言わなくても大丈夫さ。でもな、俺がこうして戻ってきたんだから、もう安心しなさい」
サイラスがそう語りかけた瞬間、分厚い布団のなかから、押し殺したような小さな嗚咽が漏れた。
これまでの人生で、ルシアンがこれほどまでに激しく、痛々しく涙を流したことがあっただろうか。
サイラスはそれ以上何も言わず、ただひたすらに分厚い布団ごと、その細い身体を強く抱きしめ続けた。
その時、静まり返った部屋の扉をノックする音が響いた。
サイラスがそっと立ち上がり、扉を少しだけ開けると、そこにはトレイを持ったトリスタンの姿があった。
「ずっと食事を摂っていないって聞いたからさ、持ってきたよ」
「……ありがとう」
「他に何か必要だったら言ってくれ。医務室の先生も心配してたよ」
「悪いな、トリスタン」
トリスタンはこれ以上詮索するのは野暮だと察したのか、食事の乗ったトレイをサイラスに託すと、足早に去っていった。
サイラスはトレイを受け取り、机の上にそっと置いた。
「ルシュ、全然ご飯食べてないんだろ? 少しだけでも口に入れよう」
そう言って、サイラスはベッドの上の分厚い布団の塊を、優しくするすると引きはがした。
そこに現れたのは、泣き腫らして青白く沈んだルシアンの顔だった。
これまで大切に、我が子のように育ててきた愛しい少年のあまりにも痛々しい姿を目の当たりにし、サイラスはこみ上げてくる涙を必死に堪えた。
サイラスは再びベッドに腰掛け、ルシアンを優しく抱きしめた。
「泣くのも……結構体力使うからな。食べよう? な?」
ルシアンはぎこちなく、拒絶するように小さく首を振ったが、サイラスになだめられるようにして、どうにか少しだけ食事を口にした。
ルシアンが食事を摂っている間、サイラスは少しでも環境を整えようと窓を開けて空気の入れ替えをし、ルシアンのベッドのシーツや布団を取り替えることにした。
黙々とベッドメイキングを進めていたサイラスの視界の端に、部屋の隅にあるゴミ箱が映った。そこには、衣服が上下ともに、乱雑に捨てられていた。
サイラスは不審に思い、手を止めた。なぜなら、その服はルシアンが最近買ったばかりの、比較的新しいお気に入りの衣服だったはずだからだ。
「ルシアン、この服……もういらないのか?」
サイラスがゴミ箱を手に取ろうと、何気ない調子で尋ねた、その瞬間だった。
「それに触らないでくださいっ——!!」
今までに聞いたこともない、切迫した激しい怒号が部屋の空気を切り裂いた。
サイラスはあまりのことに驚愕し、一瞬何が起きたのか理解できずに固まった。部屋中が音を失ったように静まり返る。
「……す……すまなかった」
初めて聞くルシアンの拒絶の叫びに気圧され、サイラスは頭が真っ白になり、それ以上言葉が出てこなかった。
「……ごめんなさい。それは、僕が後で……自分で捨てるので……」
ルシアンは震える声でそう言い訳し、視線を床に落とした。
「そうか……」
サイラスはそれ以上踏み込むことができず、ゴミ箱からそっと手を引いた。
「……サイラス、すみません。僕、もう頭が痛くて……」
「わかった、もうベッドで横になろうな」
サイラスは震えるルシアンの細い身体を支えるようにして、再び布団へと寝かしつけた。
ルシアンの額にそっと手を当ててみたが、熱っぽさは特に感じられなかった。
「あんまり食べられなくて、ごめんなさい……」
ルシアンの大きな瞳から、またぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
サイラスは大きくて温かい手で、その涙を優しく拭い去った。
「気にすんな。明日の朝もまた様子を見に来るから。あと、魔法電信はいつでも使っていいんだからな」
サイラスが優しく言うと、ルシアンは大きく頷いた。
サイラスは最後にルシアンの頬を愛おしそうに撫でると、「おやすみ」と告げて部屋をあとにした。
静かな廊下に一人立ち尽くしながら、サイラスの脳裏には様々な疑問と不安が渦巻いていた。
(俺が留守にしている間に、いったい何があったんだ……?)
城に戻ったときに出迎えたガーネットの様子からして、ガーネット自身はこの異常事態を把握していないようだった。
そして、あのゴミ箱に捨てられていた衣服。
あきらかに、触れてほしくない、あるいは思い出したくない「何か」がそこには隠されている。
サイラスは心に決めた。明日、徹底的に調べてやると。
愛するルシアンがこれほどまでに深く傷つき、怯えている原因があるのならば、どんな手を使ってでも見つけ出し、追及するしかなかった。
* °•. ☪︎ .•° 第8節 °•. ☪︎ .•°*
翌日の朝、サイラスは出来立ての温かい料理が乗ったトレイを手に取り、再びルシアンの元を訪れた。
部屋に入ると、サイラスはルシアンを優しく抱きしめ、食事を摂るようにそっと促した。ルシアンは気まずそうに目を伏せながらも、スプーンを口に運んでいく。
ルシアンに気づかれないよう、サイラスは横目で部屋の隅にあるゴミ箱に視線をやった。しかし、そこは空っぽになっていた。
昨日、確かにそのゴミ箱に投げ捨てられていた上下の衣服は、すでに跡形もなく消えている。
恐らく、ルシアンが急いで処分したのだろうとサイラスは察した。
あの衣服に、ルシアンがこれほどまでに深く悩んでいる何らかの痕跡があったのだとしたら——あの時、無理にでも強く問いただして中身を確認するべきだったのだろうか。サイラスは拭いきれない自問自答を心の中で繰り返した。
そんな彼の内心を知るはずもなく、ルシアンは目の前の食事をもぐもぐと大人しく食べている。
きれいな銀髪と、透き通るようなエメラルドグリーンの瞳。白くつやつやとした肌に、柔らかく引き締まった薄桃色の綺麗な口元。
血の繋がりこそないが、かけがえのない我が子として大切に育ててきた。こうして美しく成長した自慢の息子を見つめながら、サイラスは胸の奥で密かな誇らしさを覚えた。
「あ、そうだ。すっかり忘れてたよ」
サイラスは思い出したように一旦自分の部屋へと戻り、先日の遠征先で買ってきた土産物を抱えて再び現れた。
ルシアンが日頃から何を好むのか正確には分からなかったため、読書好きの彼ならと、思い切って魔導書を買ってきたのだった。
抱えるほどの大きなサイズのものや、ずっしりと重い分厚い魔導書などがいくつか含まれていた。
ルシアンはサイラスが差し出した本にふと目を止め、興味を示した。
表紙をめくると、ルシアンはそのまま食い入るようにページへと見入っていく。
どうやら気に入ってくれたらしいその様子を見て、サイラスはホッと胸をなでおろした。
「当分の間、お前の仕事は休みをもらえるようガーネットに申請しておいたからさ。この機会に新しい魔導書でも読んで、まずはゆっくり体調を回復させような」
サイラスは優しく声をかけ、ルシアンの頭をポンと軽く撫でた。
* °•. ☪︎ .•° 第9節 °•. ☪︎ .•°*
ルシアンの部屋を後にしたサイラスは、そのままガーネットの執務室へと向かった。
部屋に足を踏み入れるやいなや、ガーネットがすぐさまルシアンの体調を尋ねてくる。サイラスは、あいつは今朝しっかりと食事を済ませたと短く報告した。
それを聞いたガーネットは険しかった表情をわずかに和らげ、心底安心したような顔を見せる。
しかし、サイラスはすぐに表情を引き締め、険しい顔つきのまま本題を切り出した。
「研修期間にいったい何があったんですか?」
ガーネットは怪訝そうに眉をひそめた。
「新しい経験としてね、あの子に研究チームの仕事を見学させたんだよ。もしかしたら合わなかったのかな……」
どうやらガーネットとしては、ルシアンに魔法研究の仕事が合わなかったのだろうかと純粋に心配していたようだ。
その言葉を聞いたサイラスは、さらに目を鋭くさせた。
「研究チームねぇ……」
「私が直接指導したわけではなく、コルベインに面倒を見させるよう任せたのだ。彼がつきっきりで教えていたはずだから、詳しく知りたいなら彼に訊いてみるといい」
「コルベインか……」
その名を聞いた瞬間、サイラスの脳裏に、先日の同僚たちとの夕食の席でトリスタンやキアラが語っていた不穏な噂が鮮明に蘇ってきた。
もっとも、サイラスはこれまでコルベインとは特に親しく接したことがなかった。彼を嫌っているというわけではないが、専門とする分野が違うこともあり、普段からあまり関わりがなかったからだ。
だからこそ、余計に胸騒ぎがする。
足早に魔動機チームの自席へと戻ったサイラスは、コルベインに直接話を聞くしかなさそうだと思い、深いため息をついた。
トリスタンがサイラスの姿を見かけ、心配そうな足取りで近づいてきていた。
「サイラス。ルシアンの具合はどうだい? 」
「ああ、取り敢えず今朝は飯もちゃんと食べたから大丈夫だ」
サイラスの短い返事を聞いて、トリスタンもようやく安心したように息を吐いた。
しかし、次の瞬間、トリスタンは急に真面目で険しい顔つきへと切り替えた。
「このまえ話した研究チームの資材管理の件だが……ちょうど昼頃なら、責任者の技術者たちが昼食で部屋を空けるみたいだ。そのタイミングを狙って、一斉に立ち入り調査をしようと提案したいんだが」
事前に「監査をする」などと正式な通達を出してしまえば、連中はまた都合の悪い不正資材をどこかへ隠してしまうに違いなかった。
コルベインにルシアンの件も問いただしたいが、ここでタイミングを逃せば彼らの不正を見逃すことになりかねない。サイラスは苦渋の思いを呑み込み、小さく力強く頷いた。
昼時になり、研究チームの技術者たちが一斉にいなくなったその瞬間を狙い、サイラスとトリスタン、そして数名の同僚たちは研究室へと踏み込んだ。
正式なリストに載っていない不正な資材の棚卸しを始めると、あれよあれよという間に、管理外の危険な薬品や機材が次々と発見された。数はそこまで多くないものの、その種類や用途は多岐にわたっており、特にコルベインが日頃陣取っている研究デスクの棚のあたりからは、隠すようにしてごっそりと怪しげな私物が押し出されてきた。
「キアラが言ってた噂は、どうやら本当だったらしいな……」
目の前に積み上がっていく不正資材の山を目の当たりにし、トリスタンは開いた口が塞がらないといった様子でサイラスを振り返った。
トリスタンは他のメンバーに向かって、リストに載っていないすべての資材を回収箱へ押収するように指示を出した。
「よし、上の階も念のため確認しよう」
この研究所は2階部分が存在しており、室内の内階段を使って登れる構造になっていた。
サイラスも他のメンバーに続いて階段へ向かおうとしたその矢先、ふと、コルベインの乱雑な研究デスクの奥、壁の隙間に隠されるように置かれていた一つの小さな小瓶がサイラスの視界を捉えた。
妙な気配に引き寄せられるように、サイラスは思わずそれに手を伸ばし、拾い上げた。
容器の中身は、ねっとりとした白濁色の液体のようだった。しかし、手に取った瞬間、サイラスの全身に鳥肌が立つような奇妙な感覚が走った。この小瓶の中の液体には、凄まじく強い魔力が宿っている。
魔力というものは、本来は大気中へ放出されてしまえば一箇所に留めておけるような生易しい存在ではない。だからこそ、魔導士たちは専用の魔動核や精巧なコアを用い、何とか消えないように加工して溜め込むのだ。
ただのガラスの薬瓶に、そのような魔力をそのまま閉じ込めて保存するなど、通常の技術では絶対に不可能なはずだった。
だとすれば、この液体の正体はいったい——。
「おい、サイラス!」
上の階の探索を終えたらしいトリスタンが、階段の上からサイラスを呼んだ。
サイラスは思考を強制的に中断させ、その小瓶を自分のポケットの奥へと急いでしまい込んだ。そして、トリスタンのもとへと急ぎ足で駆け寄る。
「2階のデスク周りは問題なかったみたいだ。しかし、許可を得ていない資材を実験に使っていたのは間違いないようだな」
トリスタンが呆れ果てたように吐き捨てる。
「押収したすべての資材の成分を細かくチェックしよう。危険物の可能性もあるから、取り扱いは慎重にな」
トリスタンが他のメンバーにテキパキと指示を飛ばす。
「トリスタン、悪いけど……先にこれを調べてくれないか?」
サイラスはポケットから、先ほどコルベインの机で見つけた小瓶をそっと取り出し、トリスタンに手渡した。
「ん?」
トリスタンはその小瓶を受け取った瞬間、わずかに目を丸くし、何か異質なものに気づいたようにサイラスの顔を凝視した。
彼もまた、そのガラス越しに伝わる尋常ではない魔力のうねりを肌で感じ取ったらしかった。
「……分かった。最優先で解析に回す。結果が分かり次第、すぐに君に報告するよ」
「頼む」
そう言い残すと、トリスタンは足早に研究室をあとにして解析室へと向かった。
* °•. ☪︎ .•° 第10節 °•. ☪︎ .•°*
その頃、昼食を終えて戻ってきた他の研究員たちは、自分たちのテリトリーが荒らされているのを見て、研究室のなかで慌ただしく戸棚をあちこちに開き始めた。
「おい、ここに置いてあったはずの資材はどこだ!?」
「おかしい……確かに隠しておいたはずなのに……!」
研究室のなかは一気に不穏なざわつきに包まれ始めた。
そのうちの一人の男が青い顔をして研究室の扉を勢いよく開け放ち、廊下にいる仲間たちに向かって叫んだ。
「みんな、聞いてくれ! 俺たちがいない間に、どうやら突然の監査が入ったらしいぞ!」
「なんだって……!?」
部屋中のどよめきがさらに一段と大きくなる。
「どうやら調達チームのほうから兼任のサイラスに強い苦言がいったらしい」
「ちっ……! 普段は管理もしないくせに、こんな時だけ余計な真似を……!」
研究員たちは悔しそうに、サイラスに対する恨み節を口々に吐き散らした。
「許可されていない大事な特注資材まで根こそぎ没収だそうだ。くそっ、なんて日だ……!」
落胆し、頭を抱え込む研究員たち。
その只中で、ただ一人青ざめた顔で立ち尽くしていたコルベインは、ハッと息を呑むと自分の研究デスクへと慌てて駆け寄った。
デスクの上は荒らされたような痕跡があり、隠していたはずのものがごっそり消えている。コルベインの脳裏に「やられた……」という絶望的な文字が浮かび上がった。
そして、デスクの奥の死角、最も大事な場所に隠しておいたはずのあの小瓶が見当たらないことに気づいた。
「っ……!」
まさか、そんなはずはないと思った。監査が入ること自体が完全に想定外だったが、あの小瓶は徹底して死角に置いていたのだ。一見しただけですぐに見つかるような場所ではないはずだった。
(まさか、あれまで……没収されてしまったのか……!?)
コルベインは全身の血の気が引くのを感じた。
しかし、彼がその瞬間にそこまで取り乱したのは、卑劣な手段を使ってまで不正な資材を入手していたことが上層部にバレる恐怖からではなかった。研究者としての命である貴重な素材を失い、いま進めている研究の成果そのものが完全に途絶えてしまうかもしれないという絶望的なショックのほうが、彼のなかで圧倒的に大きかったからだ。
(あれさえあれば……やっと、あの完璧な新薬が完成させられたのに……っ!)
絶望に打ちひしがれたコルベインは、その場でガクンと膝をつき、情けないうめき声を漏らした。
一方、サイラスは押収した大量の不正資材のリストに目を通し、険しい顔で腕を組んでいた。
中には、こんなものを何に使うつもりだったのかと首をかしげたくなるような、不気味で奇怪な代物もいくつか混ざっていた。
サイラスは大きくため息をついた。そもそも、日頃から研究室全体の監督不行き届きを放置していた自分自身の責任は免れない。
調達チームからはもちろん、リソースを管理している管財チームからも、冷ややかな苦言を呈されたばかりだった。
もともと、魔導大国としてその名を轟かせているエストレアでは、魔法の発展や魔導技術の研究、古文書の収集などに対して国家予算が惜しみなく投資されていた。
しかし、エストレアの繁栄は魔法の力だけによって支えられているわけではない。国家の財政やインフラを支える者たちの中には、「魔法研究への投資が少し行き過ぎではないか?」と日頃から不満を抱く者も少なくなかったのだ。
監督不行き届きと咎められれば自分個人の処罰だけで済む話かもしれないが、これを機に王国全体の魔法管理システムそのものを見直す必要に迫られるかもしれない。次から次へと押し寄せる頭の痛い問題の山に、サイラスは思わずこの日何度目かになる深い溜息をついた。
そこへ、足早に廊下を戻ってきたトリスタンが、サイラスのもとへと駆け寄ってきた。
「サイラス、先ほど預かったあの小瓶の成分解析が、たった今終わったよ」
「どうだった?」
サイラスはその内容を一刻も早く知りたくて、険しい声で促した。
しかし、トリスタンの態度は妙にはっきりせず、周囲を警戒するようにキョロキョロと見回すと、「……すまない、こっちへ来てくれ」と、サイラスを人のいない静かな通路の隅へと引っ張っていった。
「それで?」
サイラスが静かな声で急かすように問う。
「……あの小瓶の中に満たされていた液体には、規格外なほどの高濃度の魔力が込められていた」
「そうか……やっぱり、ただの薬品じゃなかったんだな」
サイラスは険しい表情のまま、トリスタンの次の言葉を待った。
「……サイラス……あれは、人間の体液だよ」
「……体液……」
サイラスの表情が、さらに一段と暗く冷たく沈み込む。この続きを聞いていいものか迷った。寧ろこの続きを聞くのが怖かった。
そして、トリスタンも、これから告げる言葉を口にすべきかどうか、わずかに躊躇うように息を呑んだ。
「……言葉を濁すような言い方になってしまってすまない。あれは、”精液”だ。……僕らが持っているものと、何ら変わらない、男のね」
サイラスは何も言わなかった。なんとなく、心のどこかでは薄々感づいていたことだったが、実際に口に出して告げられると、胃のあたりに鉛の塊を飲み込んだような重苦しさが広がった。
「……高濃度の魔力が込められた体液なんて、まず”一般の人間”からは無理だろうね」
トリスタンのその冷静な声が、ハンマーのようにサイラスの脳天を強く打ち据えた。
サイラスは虚空のどこかをぼんやりと見つめたまま、言葉を失った。
トリスタンはそれ以上、余計な言葉を重ねようとはしなかった。だが、彼自身も解析を進めるうちに、この事実が何を意味しているのかに気づいてしまったのだろう。一般の人間でない存在……このやりとりから察せられるのは恐らく「月夜の民」のことだ。
そもそも、外部の人間が「月夜の民」と深く関わり合う機会など、日常において存在し得るはずがなかった。彼らは神聖な一族として国家の厳重な保護と敬意の下に暮らしているからだ。
月夜の民の隠れ里への出入りは、厳しく許可された者だけにしか許されていない。
それは王室の要人や大臣、長官などのごく一部の高位の存在か、あるいはサイラスのように、一族の女性を妻に迎えて親族となったごく限られた者たちだけだった。
だからこそ、そのような神聖かつ特殊な代物が、何も接点のない魔導士ごときに簡単に入手できるはずがなかったのだ。
そして現在、エストレアの王宮内で暮らしている「月夜の民」といえば、王宮魔導士でありサイラスの同僚である勝気な女性・キアラと、そして——サイラスが我が子のように愛し育てたルシアンの、わずか二人しかいなかった。
すべての点と点が繋がり、あまりにも残酷な真実の輪郭が浮かび上がる。
サイラスは大きく、肺の空気をすべて吐き出すように息を吐き出した。
「それから……こっちは、先ほどの研究室の立ち入り調査に関する正式な報告書だ」
トリスタンは沈痛な面持ちのまま、一枚の書類をサイラスの手に差し出した。
「今回の押収品の3分の2程度は……まぁ、裏ルートでの密輸というよりは、手続きを怠っただけの申告漏れとして大目に見ることもできるかもしれない。けれど、コルベインが個人的に隠し持っていた資材の数々は、どれも極めて危険で、到底見過ごせないシロモノばかりだ」
サイラスはその男の名を聞いた瞬間、胸の奥底からマグマのような激しい怒りがふつふつと込み上げてくるのを感じた。
「この調査書のなかで、入手先が完全に空欄になっている項目がいくつかある。……そこが、闇ルートだろうね」
トリスタンが静かに補足する。
サイラスの資料を握りしめる手に、思わずメリメリと音がしそうなほどの強い力がこもった。
「この調査報告書をそのままガーネットに提出して、コルベインに何らかの処分を下すとしたら……お前はどの程度の罰になると踏む?」
「……残念だけど、この調査報告書だけでは、せいぜい数日間の謹慎処分か、よくて厳重注意程度が良いところだと思う」
サイラスは険しく眉をひそめ、深く思案に沈んだ。
「分かった。調べてくれてありがとう、トリスタン」
サイラスはそう言い残すと、そのまま踵を返してその場を去ろうとした。
「あ、サイラス、待ってくれ」
トリスタンが慌てた様子でサイラスの腕を引っ張って引き留めた。
「これは……君が持っておいた方がいいだろう」
トリスタンが差し出したのは、先ほど解析に回した例の小さなガラスの小瓶だった。
「……」
サイラスは震える手で、その小さな小瓶をしっかりと受け取り、力強く握りしめた。
ガラスの容器越しに、中からじっと伝わってくる強い魔力が、いまはなぜか痛ましいほどに愛おしく感じられた。
サイラスは何も言わないまま、ただ無言でその小瓶を懐にしまい込むと、二度と言葉を交わさずにその場を去っていった。
トリスタンは、複雑な思いを瞳に宿しながら、遠ざかっていくサイラスの背中をただ静かに見送った。
* °•. ☪︎ .•° 第11節 °•. ☪︎ .•°*
静かな午後の光がカーテンの隙間から差し込む中、サイラスはルシアンの部屋の扉をそっとノックし、そのまま中へと足を踏み入れた。
「ルシアン、少しいいか?」
落ち着いた低い声をかけながら部屋を見渡すと、ルシアンはベッドの上で、先日サイラスが買ってきたばかりの分厚い魔導書を静かに開いて読んでいたところだった。サイラスの姿を認めたルシアンは、パタンと本を閉じ、ベッドから軽やかに降りると、パタパタと素早い足音を立ててサイラスの元へと駆け寄った。
「こんな時間にどうしたんです?」
ルシアンは小首をかしげ、まだ昼下がりで本来なら仕事中であるはずのサイラスの来訪を不思議そうに見上げた。
「ちょっと確認したいことがあってな」
サイラスは柔らかく微笑みながらそう返すと、部屋の窓際にある長椅子へとルシアンを促し、二人は並んで腰掛けた。
サイラスは、ルシアンのその白く細い手を自らの大きな手でそっと包み込むように優しく握った。
先ほどまで温かいベッドの中に居たせいか、その手は心地よい優しい温もりを帯びていた。
サイラスは言葉を続ける代わりに、握った手を離さず、そのままルシアンの体をしっかりと自分の胸へと抱き寄せた。
「サイラス?」
突然の密着に、ルシアンはいきなりどうしたのだろうかと小さく疑問の声を口にした。
サイラスはルシアンを優しく抱きしめたまま、しかし真摯な響きを込めて口を開いた。
「ルシアン……俺が居ない間……何があったか話してくれ」
その言葉を聞いた瞬間、ルシアンの琥珀のようなエメラルドグリーンの瞳が、驚きで見開かれた。
サイラスはゆっくりと体を離すと、今度はルシアンの瞳を正面からまっすぐに見据えた。
その表情にはいつもの飄々とした軽口は一切なく、切実なまでの真剣さが宿っており、まるで全ての真実をすでに把握しているかのような重みがあった。
「俺が、全部受け止めるから大丈夫だ」
サイラスのその圧倒的なまでの包容力と真剣な眼差しに耐え切れず、ルシアンは気まずそうにすっと目線を逸らした。
サイラスは震えるルシアンの小さな手をさらに強く握り締めた。その白い手は、わずかに、しかし小刻みに震えていた。
恐らく、ルシアンも本当は自分にすぐにでも相談したかったに違いない。
でなければ、あの日、ベッドの中であれほどまでに魔法電信の魔動機をずっと手から離さず握り続けていた辻褄が合わなかったからだ。愛する息子の必死のSOSに応えるべく、サイラスは彼の口から直接、真実を聞き出す必要があった。
「怖くて……」
絞り出すような、か細く震える声でルシアンがようやく口を開いた。
「ずっと……怖くて……言い出せなくて……どう伝えたらいいか分からなくて……」
「うん……」
ルシアンの美しい瞳から、堰を切ったように大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。サイラスは優しく白い細い手を握りしめたまま、急かさずにルシアンの言葉をじっと待った。
「う……うぅ……」
ルシアンは嗚咽をもらし、あまりの屈辱と恐怖に記憶を呼び起こすだけで精一杯なのか、言いたい言葉がなかなか喉から出てこないようだった。
サイラスは我が子の硬直した背中を、痛みを分かち合うように優しく、大きくさすり続けた。
「ガーネットから、コルベインと一緒に研究チームの仕事を見学したって話は聞いたよ」
サイラスが詰まりがちなルシアンの背中を、穏やかなトーンでそっと後押しした。
ルシアンは静かに頷いた。
「……手伝ってほしいことがあるって……地下室に……誘われて……」
「うん」
途切れ途切れで、思い出すだけでも苦しそうな声ではあったが、サイラスは一言一句漏らさないようにしっかりと聞き取った。
「……壁に…手をついてって言われて……そのまま両手を拘束させられて。口も塞がれて……」
「うん……」
サイラスは、我が身に降りかかったその残虐な手口を聞くにつれて、胸の奥が冷えていくような、耐え難い恐怖を覚え始めた。
「ズボンと下着を下ろされて。……前を……手で弄られて……」
「……」
サイラスはもうそれ以上言葉を返すことができなかった。そして、こんな悍ましい被害に遭いながら一人で抱え込ませてしまったこと、そして愛する息子にこんな辛い言葉を言わせてしまった自分自身の無力さを激しく後悔した。
「その後……機械の中に入れられて……腰を……動かされて」
サイラスは胸を突き上げる激しい衝動を抑え込み、自分が怒りで泣き出してしまわないようにぐっと歯を食いしばってこらえた。
「僕……本当は凄く気持ち悪くて。すごく嫌だったのに……。我慢できなくて……。出ちゃったの……」
ルシアンは自分を責めるように声を震わせた。
我が子がまさか、あんな変態男のせいで望まぬ絶頂へと導かれてしまったのだと想像すると、殺してやりたいほどの黒々とした怒りがサイラスの全身の血を沸騰させた。恐らく、あの時研究室のデスクで発見した、異様な魔力を放つ小瓶の中身は、まさにこの時のものに違いなかった。
「その後も……」
サイラスは思わず息を呑んだ。まだこれ以上に続くというのか。
「あの人の……モノを……股に擦りつけられて……そのままお尻にかけられて……」
サイラスの腸は煮えくり返るような思いだった。
禁忌の素材を手に入れるため、そしてその邪悪な欲望を満たすためだけに、純粋な子供を利用し、挙句の果てに自分自身の性欲の処理道具として使い潰そうとしていたなど、到底許されるものではなかった。
だが、今目の前でボロボロに傷ついているルシアンが居る以上、自分がここで感情を爆発させてはならない。サイラスは必死に理性を保ち、平静を装って声を絞り出した。
「ルシュ……怖かっただろう?辛かったな」
サイラスはルシアンの潤んだ目を見据え、心からの優しさを込めてなだめるように告げた。
ルシアンの瞳から、耐えきれずにまた大粒の涙がとめどなく流れ落ちる。
「ちゃんと話してくれてありがとうな。もう大丈夫。大丈夫だから」
「う……ひっく……」
ルシアンがどれほどの勇気を振り絞ってこの真実を打ち明けてくれたことか。それだけでサイラスには十分すぎた。
そして、ここからの後始末や法と組織による断罪は、大人の仕事だった。コルベインを生かしておくつもりなど毛頭なかった。
「……昨日の……服……ごめんなさい」
「服?」
「ゴミ箱の……」
サイラスはあの件かと思い出した。昨夜ルシアンが初めて見せた、心の底からの絶叫のような拒絶の声を目の当たりにした瞬間だった。
「あの人の……精子がついてたから……洗うのも気持ち悪くて……」
それは当然のことだとサイラスも心底同感した。あんな悍ましい痕跡のついた布など、どれほど綺麗に洗ったところで、心の奥底に染みついた嫌悪感や恐怖まで拭い去れるはずもなかった。
「いい、いい。そんなものは捨てちまえ。いつだって新しいの買ってやるから」
ずっと一人で抱え込んでいた耐えがたい悩みをサイラスに打ち明けたことで、ルシアンは少しだけ肩の荷が下りたのか、まだ涙を流してはいたが、どこかホッとしたような、ほんの少しだけ安心しきった表情を浮かべていた。
しかし、すべてを打ち明けたからといって、一度受けた心身の屈辱が消えてなくなるわけではない。この深い傷は、きっと一生ルシアンの心に残り続けることになるのだ。
「……あの人、悩んでいるみたいだったから、『僕で良ければ何か力になれたら』って言ったんです……。地下室に行くとき、少し、変だなって思った……その時、逃げればよかった……」
助けを求める弱者の振りをし、子供の純粋な親切心と責任感を悪用して暗がりへと誘い込むなど、悪党共が使う卑劣な常套手段そのものだった。
サイラスは今すぐにでも研究室へ赴き、コルベインの顔面を拳で徹底的に殴り飛ばしてやりたい衝動に駆られた。
一体なぜ、あんな外道が城内で何食わぬ顔で平然と仕事をしており、罪のないルシアンがここまで心を痛め、ボロボロにならなければならないのか。納得がいかなかった。
「ルシュ。お前は何にも悪くない。反省することなんて、何一つないんだよ」
サイラスは怒りを奥底に押し込め、声を震わせながら断言した。
「あの野郎が100%、全くだまくらかして悪いに決まってる」
怒りのあまり、握りしめた拳の力が強すぎて手が細かく震えそうになるのを、サイラスは必死に堪えた。
そして、大きく一つ深呼吸をして心を落ち着かせると、改めて真剣な表情を作ってルシアンに向き直った。
「この世の中……残念ながら、ちゃんとした大人ばかりじゃないんだ。悪人っていうのは悪い姿をしてるとも限らない、中にはそういうのが普通の顔して紛れ込んでいることもある。大人が子供に対して『助けてほしい』となんて頼むこと自体、絶対にありえないんだよ」
ルシアンは、サイラスの真剣な言葉を一言一句聞き逃すまいと、じっと静かに耳を傾けていた。
「大人っていうのはな、本来は自分の抱えた問題や困難を、自分の力でなんとか解決できる人間のことさ。それを未熟な子供に頼ろうとする時点で、最初からろくでもない下心があるのさ」
そう言いながら、サイラスはハッと我が身を振り返った。自分自身もこれまで、ルシアンを過保護に扱いすぎ、ずっと自分の手の届く安全な範囲だけに囲い込もうとしていたのではないか——そんな自身の過ちについても、深く反省した。
「ルシュは本当に良い子だからな。俺のことを無用に気遣って、自分で考えて行動しようとしたんだろ? それはとても素晴らしいことだ。でもな、少しでも不安に思ったことや、疑問に思ったのなら、どんな些細なことでもいい。抱え込まないですぐに俺に相談しなさい」
サイラスはルシアンの両手をしっかりと掴み、その瞳を真っ直ぐに見つめた。
ルシアンもまたサイラスの真摯な眼差しを見返し、静かに頷く。
「自分でどう判断していいか分からないと思ったら、何でも俺に聞いてくれ。なんなら、魔導機チームの連中に相談したって良い。あいつ等は口は悪いが、全員信頼がおける奴らだからな」
サイラスはルシアンに微笑んだ。
ルシアンは、サイラスのその温かく力強い言葉のすべてを受け止めるように、こくんと大きく力強く頷いた。
「お前を残して研修なんて行くんじゃなかったよ……お前を1人にさせて申し訳なかった……ダメな親父でごめん……」
サイラスの泣きそうな顔を見たルシアンは、サイラスの自責を否定するように左右に首を振った。
(あぁ……俺はまた失敗したんだ……また守れずに……)
こんな状況でも自分を気遣ってくれる我が子の優しさに涙し、サイラスはルシアンを再び強く抱きしめた。
* °•. ☪︎ .•° 第12節 °•. ☪︎ .•°*
いつの間にかうとうとしてしまい、気づいたら、ルシアンはサイラスの胸の中で穏やかに寝息を立てていた。
サイラスはすやすやと眠るルシアンの体を、そっと優しく抱き上げた。
ずしりと重く伝わってくる確かな質量に、サイラスは、もうこんなに大きく育ったのかと我が子の成長に驚きを覚えた。細身ではあるものの、背丈で言えばもうほぼ成人男性と変わらなかった。健康に、真っ直ぐに育ってくれて、それだけでこれまで注いできた苦労や尽くしてきたかいがあったものだな、とサイラスは胸の奥でしみじみと感じ入った。
サイラスはルシアンをベッドに丁寧に寝かせると、その額にかかった銀髪を優しく撫でた。そして、これまでの穏やかな眼差しから一変、己のなかで燃え盛る怒りと覚悟を込めて、決意したように険しく表情を変えると、コルベインの元へと足を向けた。
サイラスは怒涛の気配を纏いながら研究室へと向かった。
「コルベインッ!」
サイラスは研究室の重いドアを思いっきり蹴破るように開け放ち、怒号のような大声でコルベインの名前を呼んだ。
突如として乱入してきたサイラスの殺気に、研究室にいた他の魔導士たちが一斉に視線を向け、その場の空気が一瞬にして凍りつき、静まり返った。
呼ばれたコルベインは恐怖に顔を引きつらせ、何事かと驚きながら、ふらふらとした心許ない足取りでサイラスの元へとやってきた。
「何かな……?」
怯えたようにそう間抜けな声を漏らした瞬間、サイラスはコルベインの顔面を捉えると、もう我慢の限界を迎えていた拳を迷いなく叩き込んだ。
激しい衝撃音と共に、コルベインはその反動で後方へと吹っ飛び、床に激しく体を打ち付けた。
コルベインの鼻梁に乗っていた丸い眼鏡が、無残にひしゃげて転がっていく。
突然の暴力沙汰に、研究室にいた他の魔導士たちが一斉に騒ぎ出し、「おい、長官を呼んで来い!」と現場は激しいざわめきに包まれた。
サイラスは鬼の形相を浮かべたまま、床に転がり悶えるコルベインを冷酷に睨みつけた。
さらに許せないとばかりに、サイラスはそのままコルベインに馬乗りになり、その乱れた胸倉を荒々しく掴み上げた。
「てめぇ、よくも俺の息子に……!」
もう一発殴りかかろうと振り上げたサイラスの拳を、周囲に集まった他の魔導士たちが慌てて必死に両側からしがみついて止めた。
「おいサイラス、落ち着け! 離れるんだ!」
魔導士たちは必死に諭すように声を荒らげた。
コルベインは他の魔導士たちの手を借り、情けないうめき声を上げながらふらふらと起き上がった。
「くそっ……何が息子だ……血なんて繋がっていないくせに……」
痛む口元を押さえながら、コルベインは悪態をつくように小さく吐き捨てた。
「ぶっ殺してやる!!」
その言葉を聞き逃さなかった。ルシアンの痛みを踏みにじるような卑劣な台詞に、サイラスのなかの理性の糸が完全に切れ、激高して暴れ狂った。
そこへ、ただならぬ騒ぎを聞きつけたガーネット長官が、険しい顔つきで急いでやってきて、その場の混乱を何とか収拾した。
場所を移した執務室の中で、ガーネットは腕を組みながら、荒い息を整えるサイラスに何があったのかと静かに問い質した。
サイラスは持ってきた調査資料を、ガーネットの机の上に叩きつけるように置いた。
ガーネットは眉をひそめながらその資料を手に取り、目を走らせて読む。
「ほう……これは、確かに問題だな」
不正資材のリストを見たガーネットが小さく呟く。
「問題はそれだけじゃない……!」
サイラスは怒りに震える手で、あの小瓶をガーネットの目の前に突きつけるように見せた。
「コルベインは……ルシアンに性加害していたんだ。子供の、精液を勝手に搾取するなんて、こんな外道な真似、見過ごせるか!!」
サイラスはこれまでの抑え込んでいたすべての怒りをガーネットにぶつけた。
「あの野郎を、今すぐにでもエストレアから追放してくれ!」
サイラスは切実に、かつ鬼気迫る表情でガーネットに懇願した。
しかし、ガーネットは即答を避け、腕を組んだまま深く熟考し始めた。しばらくの間、部屋の中には重苦しい静寂が辺りを支配した。
「それは、ルシアン本人から聞いたのか?」
ガーネットが、冷静に事実を確認するように低い声で言った。
「あぁそうだ、俺はちゃんと本人から直接聞いたんだ」
サイラスは一歩も引かず、きっぱりと言い切った。
「そうか……。私が先日、コルベインからルシアンの様子について『見学中は非常に真面目に働いていた。ただ、少し体調不良であるようだと見受けられる』と報告を受けた。そして、その後にルシアン本人からも『体調が悪いから数日休ませてほしい』という話を聞いたきりだ」
ガーネットのその言葉を聞き、サイラスはまるで頭を殴られたかのように愕然とした。
「でも、現に俺はルシアンから詳細に話を聞いて、あの野郎の机からこの決定的な証拠の小瓶だって押収したんだ! 他に一体何があるっていうんだよ!?」
サイラスは激しい怒りと焦燥をどうしても隠せなかった。
まさか、長官ともあろう男が、これほど明白な証拠が目の前にあるというのに、コルベインを庇うと言うのだろうか?
サイラスにはその対応が信じられないといった様子で、なおも激しく詰め寄った。
「お前の個人的な言い分は分かった。だが、コルベインはエストレアの魔法発展にとっても不可欠な技術者だ。十分な確証なしに、今すぐに何の処罰を下すこともできない。まずはこちらとしても、コルベインとルシアン双方から詳細に事実確認をしなければならん。本当のところ、何があったのかをな」
サイラスはその返答に再び愕然とし、息を呑んだ。
目の前の男はいったい何を言っているのだ? 一方的に卑劣な被害に遭っているのはルシアンのほうなのだぞ? まさか、長官はルシアンが嘘を言っているとでも疑っているのだろうか?
ルシアンは誰にも相談できず、一人で恐怖と戦い、勇気をもってようやく自分に話してくれたというのに。
サイラスは自分のなかの怒りと絶望で、頭がおかしくなりそうだった。
「私には、組織のトップとしてこの状況を公平に整理する義務があるのだ……。その小瓶は、不正な証拠品として再度こちらで精査する必要があるため、一旦預かろう」
その冷徹な言葉を聞いて、サイラスは反射的に小瓶を掌にぎゅっと強く握り込み、ガーネットの提案をきっぱりと拒絶した。
「いや、もういい。あんたには心底失望した」
サイラスは吐き捨てるようにそう言い放つと、振り返り、荒々しい足取りで執務室を出て行った。
残されたガーネットは、静かに、そして複雑な思いを瞳に宿したまま、去っていったサイラスの背中を見つめ続けていた。
* °•. ☪︎ .•° 第13節 °•. ☪︎ .•°*
サイラスは、エストレア城内の一角にある静まり返った墓地に佇んでいた。
ここは王族や近親者など、エストレアにゆかりのある高貴な者たちだけが眠る特別な墓地だったが、かつて非業の死を遂げたサイラスの妻子の墓もまた、この場所にひっそりと佇んでいた。
サイラスは妻と娘の冷たい墓石の前に歩み寄り、そっと一輪の花を置くと、胸の奥に溜まった澱を吐き出すように深いため息をついた。
「どうした? 悩み事か?」
不意に、背後から声を掛けられた。しかし、サイラスはすぐに振り返ろうとはせず、その場に立ち尽くしたまま動かなかった。それでも、響いた声の主が誰であるのかは、長年の付き合いですぐに分かっていた。
「親友として相談にのろうか?」
「……かつての、な。今はエストレア国王様、だろ?」
サイラスはゆっくりと振り返り、その男と正面から対面した。
身に纏う高貴な衣服を上品に着こなすその男は、ほかならぬエストレア国王——アルバートだった。
サイラスとは幼少期の頃から泥まみれになってよく遊んだ間柄だった。アルバートが戴冠式を迎え、この国の頂点である国王となった今では立場も大きく違うが、お互いを一人の人間として尊重し合う心だけは昔から変わっていなかった。
「俺だけがお前を親友だと思っているなんて、寂しいじゃないか」
アルバートは穏やかな笑みを浮かべて言った。
「はっ……。お前が俺をまだ親友だと思ってくれてるなんてな……」
サイラスは自嘲気味に柔らかく笑った。しかし、その表情の緊張はすぐに解け、またすぐに深い暗い影を落とした。
二人は言葉を交わすと、そのまま墓地の脇に設置された静かなベンチに並んで腰かけた。
「……何があったんだ?」
アルバートは隣に座る男の様子を窺いながら、低く落ち着いた声で聞いた。
「ルシアンが……性被害に遭ったようだ」
「……」
サイラスは、あの忌まわしい具体的な被害の凄惨な様子こそ言葉を避けたが、起きた事実そのものは隠さずにアルバートにすべて話した。
幼馴染としての親友関係はもちろんだったが、アルバートの息子であり次代の王子であるバルザードとルシアンの間にも交流があったため、彼らは以前から家族ぐるみの深い付き合いを続けていたからだ。
同じ父親という立場を持つ者として、同じ父親として共感し、怒りを分かち合ってくれるのではないか——そんな縋るような思いも、心のどこかにあった。
すべての経緯と現状を語り終えると、しばらくの間、二人の間には凍てつくような冷たい空気が流れた。
「……重いな」
アルバートは率直な感想をぽつりとこぼした。サイラスも、親友の口からその言葉が出るのは決して不自然ではないし、そう言われるだろうことは分かっていた。
「俺から直接、コルベインに厳罰を下してもいい」
アルバートは濁りのない瞳で、はっきりとそう言った。
サイラスはその力強い言葉に、心の底から救われたような気がした。
「ありがとう、アルバート。その気持ちだけで十分すぎるほど嬉しいよ。でも……もういいんだ」
「もういいとは?」
アルバートは、ついさっきまでコルベインの処罰を強く望んでいたはずの親友が突然見せた諦めの色に戸惑い、思わず聞き返した。
「俺は……エストレアの王宮魔導士を辞める」
サイラスはまっすぐ前を見据えて言った。
「魔導士を辞めて、ルシアンを連れて、何処か静かな場所で二人で暮らそうと思う」
「そんな……」
アルバートは息を呑み、驚愕のあまり絶句した。エストレア王国にとって、彼のような優秀な人材が中枢からいなくなるという損失が大きいことはもちろんだった。
しかし、アルバートのなかで何よりも耐えがたかったのは、理不尽な被害に遭った被害者自身が、この国を捨てて離れるという選択をしなければ追い詰められていたという現実そのものだった。
「待ってくれ……。サイラス、俺は……」
アルバートは必死に言葉を探し、引き止めようとした。しかし、あまりの不条理さに、かけるべき適切な言葉がなかなか出てこなかった。
サイラスは、深く思案に暮れるアルバートの苦悩に満ちた表情を見て、これ以上昔馴染みの親友を困らせてしまったなと、痛切な苦笑を浮かべた。
「本当に、お前は昔から良い奴だよ。こんな俺のために一生懸命になってくれて、さ」
「サイラス……」
アルバートはいたたまれないほどの悲しい表情をサイラスに向けた。
「もう……俺は……父親としてやっていける自信がないよ……大切なものを守るのは、これで二度も失敗したんだ」
サイラスはそれ以上言葉を続ける気力を失い、うなだれたまま俯いた。
また再び、二人の間に重苦しい沈黙が落ちる。
「子供の頃にさ……エストレアから西にだいぶ離れたところにある、湖畔の……王族の別荘地に遊びに行ったことがあったろう?」
沈黙を破るように、アルバートが昔話を切り出した。サイラスは懐かしい記憶を呼び起こすように、静かにその声に耳を傾けた。
「お前と……ルシアンがよければ、そこに住むのはどうだろうか? あそこは普段あまり人も寄り付かないし……別荘と言ってもいざという時のために厳重な結界で管理されてるからね」
サイラスは答えず、ただ黙ったまま聞いていた。
「俺としては……お前をこの手元から失うのは、国としても個人的にも非常に惜しい。それはエストレアという国から見ても、だ。だけど、やはり親友として、何も悪いことをしていない、被害に遭った側のお前たちがこの国を去るというのは……どうしても心が痛む」
サイラスは項垂れた姿勢のまま、微動だにせずに聞いていた。
「だからこそ、穏やかに過ごせる場所ならと思って。あの別荘地なら、俺もバルザードも遊びに行けるしな」
アルバートは穏やかに微笑んだ。
恐らく、一国の国王という立場上、もう特別扱いはできないのだろう。親友に対するせめてもの救いだった。
アルバートの気持ちはサイラスにも分かっていた。
「ははは。ありがとうな。さっきのはあくまで……俺の身勝手な意見さ。ルシアンにもどうするかまだ話してない。もしかしたら……ここに残りたいっていうかもしれないし」
「……」
アルバートは、切なさに満ちたサイラスの悲しげな横顔をじっと見つめた。
サイラス自身は、最終的にはやはりルシアン自身の気持ちが一番尊重されるべきだと考えていた。
本当の我が子のように愛情を注いでルシアンを育ててきたのは紛れもない事実だった。しかし、「月夜の民の一族から預かったかけがえのない子供」という側面と、「将来のエストレアを背負う王宮魔導士候補生」という現実的な立場のこの2点を考えると、サイラスの一存だけでルシアンを勝手に連れ出して行方をくらますことなど、それこそ長官であるガーネットが絶対に許すはずもなかった。
サイラスはあくまで公式な「教育係」に過ぎなかったのだ。国の宝として国家に預けられたルシアンの身柄を、個人の独断でどうにかできるほど甘い世界ではないことを彼はよく知っていた。
「多分……ルシアンなら、迷わずお前と一緒についていきたいって、そう願うと思う……」
「……そう……だと、良いな……」
二人はそれ以上、お互いに対して余計な言葉を交わすことはなかった。
* °•. ☪︎ .•° 第14節 °•. ☪︎ .•°*
日が落ち、夜のとばりが降りる頃だった。
サイラスは今日、ほとんど仕事が手に付かず、気付けば早々にその場を切り上げてしまっていた。
先ほどアルバートに語った話は、あくまで自分の身勝手な理想や甘えに過ぎなかった。だが、エストレア城内の現状を冷徹に考えると、いっそのこと今晩のうちに荷物をまとめてルシアンと二人でこの国から逃げ出しても良いのではないか、そんな極端な考えさえ彼の頭をよぎっていた。
それほどまでに、サイラスの中では、卑劣な加害を働いたコルベインに即座に処罰が下されない不条理な状況や、未だに深い傷を負って苦しみ続けているルシアンの姿、そして何よりこの硬直した王宮魔導士という組織形態そのものに対する強い不信感が募っていた。
(ルシュは……俺が魔導士を辞めて、一緒に遠くへ行くって言ったら、一体何て答えるだろうか……)
サイラスはそんな取り止めのない仮定を胸に抱きながら、暗い廊下をぼんやりと歩いていた。
これまで、周囲の大人や自分の言うことに素直に従い、言われたことを健気に守ってきたルシアン。
折角必死に覚えた魔導機のこと、少しずつ慣れてきた仕事のこと、そしてようやく馴染んできたこの王都の環境もあるというのに、親の勝手な都合でいきなり見知らぬ土地へ連れ出され、二人きりで暮らそうと言われたら、ルシアンが「嫌だ」と拒むのも当然だろうと、サイラスは思った。
それに、肝心のルシアン自身が、今後もこの王宮で仕事を続けていきたいのか、その本当の本音をまだ自分に打ち明けてくれていなかった。今はあくまで、心身の療養期間として数日間の休みをもらっているだけに過ぎないからだ。
しかし、城内にコルベインという危険な男が野放しでいる以上、この先またいつ何が起きるか知れなかった。
もしこの閉塞した環境を自分たちの力で打開できないのなら、最悪の場合、自分たちでなんとかするしかない。サイラスは一人、暗い廊下でそう強く思い詰めた。
ガーネットの顔が、イレーネの顔が、そして魔動機チームの気心知れた同僚たちの顔が、さらに先ほど言葉を交わしたアルバートの姿が……。様々な人々の表情が次々と脳裏に浮かんでは消え、サイラスの心は激しい葛藤に引き裂かれそうになっていた。
そうして、答えの出ない思考を巡らせているうちに、気づけば彼の足取りは、自然とルシアンの自室へと向かっていた。
迷いを断ち切るように、サイラスはルシアンの部屋の扉を静かにノックした。
「ルシアン、ちょっといいか?」
「どうぞ」
扉の向こうから返ってきた控えめな声を確認し、サイラスはそっと部屋へ入った。
部屋の中には柔らかな灯りがともっており、ルシアンは相変わらずベッドの上で、先日サイラスが買い与えたばかりの魔導書を読んでいたようだった。だが、サイラスの姿を認めるなり、ルシアンはすぐさま本をパタンと閉じ、ベッドから軽やかに降りると、パタパタと素早い足音を立ててサイラスの元へと駆け寄ってきた。
「サイラス、もう終わったのですか?」
ルシアンは大きなエメラルドグリーンの瞳をパチクリとさせ、もうすっかり日が暮れたこの時間で、本来なら残務や研修の管理で忙しいはずのサイラスの来訪を不思議そうに見上げた。
「あぁ……ちょっと、仕事が手に着かなくてな。早々に切り上げたよ」
ふっと自嘲気味に笑いながらそう答えたが、ルシアンがどこか悲しそうな、申し訳なさそうな表情を浮かべたのを見て、サイラスは仕事が手に付かないなどと、余計なことを口にしてしまったと心の中で小さく反省した。
「話があるんだ」
サイラスは優しく促すように、ルシアンを部屋の窓際にある長椅子へと導き、二人は並んで腰掛けた。
サイラスは少し息を整えると、早速本題へと切り出した。
「ルシアン、仕事は好きか?」
「はい」
サイラスは横を向き、ルシアンの顔をしっかりと見つめた。そのまっすぐな返答に、嘘や偽りは微塵もないように見えた。
「今後も続けていきたいか?」
「今後も……」
その問いかけを投げかけられた瞬間、ルシアンの表情がスッと曇り、暗い陰を落とした。ルシアンは耐え切れぬように目を伏せ、何かを深く考え込むように押し黙ってしまった。
サイラスは急かさず、ただじっとルシアンの返答を待ち続けた。
「……よく分からないんです。でも、今は……お仕事に行きたくないです……」
絞り出すような、か細い声だった。
(だろうな……)
サイラスは胸が締め付けられる思いだった。きっとルシアン自身も、王宮魔導士という仕事そのものが嫌いになったわけではないのだと、サイラスには痛いほど分かっていた。
サイラスは一呼吸おいて、意を決するように切り出した。
「俺が、王宮魔導士を辞めて、エストレアから離れた知らない土地で、二人で暮らそうって言ったら、ルシアンはどう思う?」
「え……?」
想定していなかったその提案に、ルシアンの美しい瞳が激しく揺れた。
サイラスは今、ルシアンが心底でどう感じているのか、その偽りのない本音をどうしても知りたかった。
「この場所にしがみつく必要なんてないんだ。もしここに耐えられないなら、どこへだって……逃げたっていい。そんな生き方だって選べるんだよ」
サイラスは懸命にそう諭すように告げた。
「逃げる……」
しかし、その言葉を聞いたルシアンは、その響きに小さく息を呑み、痛ましげに目を伏せた。
無理もないことだった。彼はエストレアに対して何一つ悪いことなどしていないのだから。追われるようにコソコソと姿を隠すのは自分たちが選ぶべき道ではないと気づき、サイラスも内心で自分の言葉の選び方を激しく後悔した。
「すまない、少し語弊があったな。……コルベインの野郎の処罰を進言したんだが……すぐには無理だと言われた」
「……」
ルシアンは、自分をあんな目に遭わせた張本人に対して即座に制裁が下されなかったという現実を聞き、さらに肩を落として深く絶望したような表情を浮かべた。
サイラスはもう耐えきれなくなり、目の前の細い体をぐっと引き寄せて強く抱きしめた。
「俺は……俺だけはずっとお前の味方だからな」
サイラスの温もりを感じ取り、ルシアンの両腕が迷うことなく、すっとサイラスの背中にまわった。
「僕も……サイラスとずっと一緒がいい……」
震える声でそう呟くルシアンを包み込みながら、サイラスは彼の柔らかな銀髪の頭を大きな手で優しく撫でた。
かつて、ガーネットからルシアンを養育係として託された時、周囲の者たちは口を揃えてこれは「仕事」だと言った。
そしてサイラス自身も、最初はどこかで「仕事」として、利害関係の伴う「疑似家族」を割り切って演じようとしていたはずだった。
しかし、目の前にいるルシアンの純粋さに触れるうち、少年は自分を本当の父親のように心から慕ってくれるようになっていた。
ルシアンが自分に向けてくれるその真っ直ぐな想いに、嘘や妥協で返すことなどもうできなかった。
(俺は……今更ルシュと離れるなんて、もう絶対に無理だ……)
サイラスの胸の内で、熱を帯びた強い誓いが激しく波打った。
二度と、この少年の手を離すものか。仮に国を敵に回そうとも構わない。
これからはどんな脅威からもこの細い体を守り抜き、ただ彼の隣で生きると、サイラスは静かに、そして揺るぎない覚悟を固めた。
* °•. ☪︎ .•° 第15節 °•. ☪︎ .•°*
その頃、夜の闇に包まれた塔の地下では——。
夜空に浮かぶ月は分厚い雲のなかにすっぽりと隠れ、ぼんやりとした薄暗い光だけが不気味に辺りを照らしている深夜だった。
コルベインは、かつて誰も寄り付かなかった塔の地下を勝手に私物化して作り上げた薄汚い研究室に一人でこもっていた。
「何が息子だ……」
コルベインは、昼間にサイラスから殴られた顔面の痛む部分を右手で痛そうにさすりながら、苛立ちにまかせて低く悪態をついた。
コルベインはこれまでサイラス個人と直接的な深い接点はあまりなかったが、あの男はいつも陽気で、遠目から見ていても自然と誰かに囲まれていて、その眩しさが自分の持つ劣等感や歪んだプライドを刺激し、どうしようもなく鬱陶しいと感じていた。
コルベインは懐から、以前に手に入れたルシアンの写真を取り出した。
そして、その少年の姿を愛おしそうに指先でなぞると、再び懐へと大事そうにしまった。
コルベインは作業机の引き出しの奥にしまい込んであった、厳重な鍵のついた小さな宝箱をガチャリと乱暴に開けた。
その中から、不気味に白濁した液体がたっぷりと詰まった一つの小瓶を取り出す。
それは他でもない、先日ルシアンの肉体から強制的に採取したばかりの、純度の高い精液だった。
研究室の各所に分散して隠してあったため、昼間の監査ですべて没収されたわけではなく、この秘密の箱の中の分だけは奇跡的に残されていた。
コルベインはその濃厚な精液と、これまで長年かけて実験に実験を重ねて独自に生成した特製の薬液とを、手際よくビーカーの中で混ぜ合わせた。やがて、怪しく光る50mlほどの薬液が完成する。
この薬こそが、コルベインが人生のすべてを捧げて追求してきた研究の集大成とも言える代物、すなわち「魔力を爆発的に増強させる禁忌の薬」だった。
本来、一般人における魔法の適性や魔力の量とは、生まれ持った技術・才能・素質によるところがあまりにも大きかった。そしてそれらの限界をほんの少しでも引き上げるには、血の滲むような果てしない努力の他になかったのだ。
しかし、この特製薬さえあれば、特別な才能を持たない一般の人間であっても、一瞬にして膨大な高い魔力を発することができるようになる。そうなれば、生まれ持った才能や素質に恵まれていない人間でも、最上位の高度な魔法を自在に扱えるようになるはずだった。
コルベインは、これもまた魔導技術の未来における偉大な発展なのだと、歪んだ正当化を心の中で繰り返していた。魔法の力は本来、一部の特権階級や国家組織などによって厳しく管理されるべきではない——彼の中には、そんな大義名分めいた捻じ曲がった確信があった。
コルベインは自分が調合したばかりの危険な薬液を手に持ち、誰にも見つからないよう慎重に外套のポケットへ滑り込ませると、夜の静まり返ったエストレア城の廊下を足音を殺して歩き、城内の研究室へと戻った。
その後、研究資料をまとめていると、コツコツと足音が響き、研究室にフラリと入ってきた者がいた。
「コルベイン? こんな遅い時間まで、一人で何の研究をしているんだ?」
声をかけてきたのは、同じ研究チームの同僚だった。
「まぁ……いろいろとな」
鬱陶しそうに顔を背けながら、コルベインは同僚の問いかけを軽くあしらった。
すると、その同僚は興味本位からか、コルベインが先ほど手際よく調合したばかりの怪しい薬液の入った小瓶を面白そうにひょいと手に取った。
「おい、コルベイン。これはいったい何の薬だ?」
同僚が興味津々な様子で問いかけると、コルベインは面倒くさそうに答えた。
「人体にかつてないほどの魔力を与える、魔力増強剤さ」
それを聞いた同僚は、そんなものがあるのかと目を輝かせた。
「面白そうだな、俺にもそれを分けてくれよ」
その薬を譲ってほしいと軽い気持ちで申し出る同僚に対し、コルベインは慌ててそれを拒絶した。
「よせ、まだ実際に生体を使った実験ができていないんだ。飲んだら人体にどんな悪影響や副作用が出るか、まだ何も分かっていないんだからな」
コルベインが必死に止めると、しかし、その同僚は笑い飛ばした。
「お前の優秀な技術で作ったものなら大丈夫だろう」
同僚はコルベインのこれまでの研究者としての腕や技術を妙に高く評価していた。
そして、同僚は止める間もなく、その場で勢いよく小瓶の蓋を開け、中の薬液を飲み干してしまった。
次の瞬間、同僚は喉をかきむしるようにして凄まじいうめき声を上げた。
「体が、内側から焼けるように熱い……っ!」
血走った目で絶叫しながら、その場でのたうちまわる。
コルベインは予想外の劇的な副作用の前に、ただただ目の前で起きている惨状に圧倒され、目と口を大きく見開いたまま立ち尽くすことしかできなかった。
やがて、同僚の痙攣していた身体がガクンと力を失い、そのまま動かなくなった。
同僚は死んだ。
窓の外の月明かりすらない暗闇の中、テーブルの上の頼りない蝋燭の微かな光だけがぼんやりと周囲を照らし出す静まり返った部屋で、一人の魔導士が無残な息絶え方をしていた。
* °•. ☪︎ .•° 第16節 °•. ☪︎ .•°*
サイラスは、自室の机の上に置いた淡いランプの小さな光だけを頼りに、一枚の古い地図を広げていた。
(もし、二人で暮らすならどの辺りがいいだろうか……)
エストレアの都を離れ、ルシアンと二人で静かに暮らすための最適な場所を、彼は真剣に探し求めていた。
日中にアルバートから提案された、あの王家の別荘地も選択肢の一つとして頭には入れたが、どうにも気は進まなかった。
アルバートが国王としてこの国全体を背負い、守り抜こうとしているのは分かっている。だからこそ、こんな個人的な問題やいざこざにまで親友である彼にこれ以上負担を掛けたくはなかった。
(本来なら、俺が国王であるアルバートをしっかりと支えていかなきゃいけない側なのにな……)
自分の無力さと身勝手さに小さく自嘲しながら、サイラスは広げた地図を丁寧に畳むと、胸の奥の澱を吐き出すように小さくため息をついた。
その静寂を切り裂くように、不意に廊下の向こうから誰かが慌てふためいて駆けてくる激しい足音が聞こえてきた。
間髪を入れず、サイラスの部屋の扉を叩く、切羽詰まった荒々しい音が響く。
「サイラス! いるかっ!?」
聞き覚えのある、しかし酷く焦ったトリスタンの声だった。
サイラスは表情を険しくさせ、急ぎ足で扉を開けた。
目の前に立ったトリスタンは上着もきちんと羽織っておらず、普段とは違うラフな格好のままだった。よほど急な知らせだったのだろう、慌てて服を通してきたのが一目で分かった。
「どうしたんだ? こんな時間に……」
サイラスは、トリスタンの尋常ではない青ざめた様子を見て、ただ事ではない何かが起きたのだと察してすぐに尋ねた。
「俺もたった今急に呼び出されたんだ。研究室で、魔導士が一人……亡くなったらしい」
「なに……!?」
あまりにも唐突で、そして現実味のない急すぎる知らせに、サイラスは思わず大きな声を上げてしまった。
「一体、何が起きたんだ……?」
「詳しいことはまだ何も。遺体は医務室の方に運ばれて、いま確認中だ。まずは、急いで医務室まで来てくれ」
「分かった。他の連中は?」
「もう全員に招集をかけた。ガーネットは、現場となった研究室で状況を確認している」
トリスタンはそれだけ早口で告げると、仲間たちを率いるようにまた足早にその場を去っていった。
サイラスも一刻の猶予もないと判断し、椅子の背に掛けてあった適当な上着を慌てて羽織ると、足早に自室を出て医務室へと向かった。
城内の冷え切った長い回廊を息を切らして駆け抜けると、医務室の前にはすでに数人の魔導士たちが集まっていた。
各チームの管理者たちが、まず最優先で状況を把握しに駆けつけたようだった。
「サイラス、こっちだ!」
人垣の中から、トリスタンが切迫した声でサイラスを呼んだ。
サイラスはその声の方向へ鋭い視線を向けながら歩みを進めた。
そして、その中央には——無慈悲なまでに真っ白なシーツを頭からすっぽりとかけられた、間違いなく「遺体」であるものがベッドの上に横たわっていた。
集まった魔導士たちは、言葉を失ったままその白いシーツを取り囲むようにして、沈痛な面持ちで見下ろしていた。
サイラスは重い足取りで歩み寄り、震える手で白いシーツを恐る恐るめくった。
そこにあったのは、つい先日まで同じ職場で元気に仕事をしていたはずの、魔導士の変わり果てた姿だった。
その顔は耐え難い苦痛に歪み、まるで誰かに必死に助けを求めているかのような、痛ましい表情で固まっていた。
さらに、その青白い口元からは、何か異様な焦げたような液体が吐き出されているようにも見え、現場の異様さを物語っていた。
「一体……何が……」
サイラスは掠れた声で呟くことしかできなかった。
「魔法薬よ」
重苦しい沈黙の中、白いシーツを取り囲んでいた魔導士の一人が冷ややかに答えた。
キアラだった。彼女は美しい銀髪を揺らしながら、どこか物憂げで冷ややかな表情を浮かべてその場に立っていた。
「コルベインが……魔力を強制的に増強させる危険な薬を開発していたの。その試作品を、彼が飲んでしまったらしいわ」
「魔力を……増強だと?」
サイラスは息を呑み、思わず絶句した。
「……普通の人間なら、自分のキャパシティを超える魔力なんて持てるわけがないわ。この薬は、どうやらその限界を無理やり突破させるものらしいのよ」
キアラは目の前の痛ましい遺体から目を逸らさず、淡々と告げた。
「でもね、魔力というものは、それを収める器が小さければ、その分量しか注ぎ込めないものなのよ。器を無視して溢れさせれば、どうなるかなんて……分かりきっていることなのに」
キアラはそう言うとサイラスに歩み寄り、その腕をきつく掴むと、周囲の魔導士たちのざわめきから少し離れた人気のない場所まで強引に引っ張っていった。
「なんだよ」
サイラスはわずかに眉をひそめ、キアラの手を冷たく振り払った。
「ねえ……この薬、こんな異常に高い魔力を含んでいるなんて、自然の理として絶対にあり得ないわ。問題なのは、その成分のことなんだけど……」
キアラは言い淀むように、しかし確信を探るような複雑な顔でサイラスを見つめた。
サイラスは、その言葉を聞いた瞬間、ハッとして息を呑んだ。
——ああ、そういうことか、と深く納得がいった。
キアラ自身も「月夜の民」の血を引く者だからこそ、この薬の混ざり物から、魔力の異質な成分の出どころを肌で感じ取ったのだ。
サイラスが先日押収した、ルシアンの体から採取された例の小瓶——あの精液。恐らく、コルベインは監査によって研究室に没収されたもの以外にも、隠し持っていた分をこの禁忌の薬の精製に使ったに違いなかった。
ルシアンの身に起きたことへの怒りと焦りに気を取られ、コルベインが持っていた秘密の地下室の存在をすっかり失念していた自分を、サイラスは激しく呪った。
何故、もっと早くあの地下室を徹底的に捜索しなかったのだろうかという強い後悔が、頭を駆け巡った。
二人の間には、気まずくも冷たい沈黙が流れた。
「あなたとトリスタンが、コソコソと何かを確認していたのって……ルシアンのことだったのね……」
キアラは両腕を自身の胸元で組みながら、ため息ともつかない大きな息を吐き出した。
「……ガーネットにはもう報告したのかしら?」
「あぁ、言ったよ。でも、すぐには処罰できないって一蹴された」
「どうして……!?」
「知るかよ。文句があるなら、ガーネットに言ってくれ……」
サイラスが苛立ちを隠さずにそう吐き捨てた時、ちょうどそこへトリスタンとエドガーの二人が足早に近づいてきた。
「サイラス、キアラ。ガーネットがチーム管理者は全員、すぐに城内の研究室へ集まるようにとのことです」
エドガーが二人に緊迫した面持ちで告げた。
サイラスとキアラは顔を見合わせると、トリスタンとエドガーの後に続き、事件の現場となったエストレア城内の研究室へと向かった。
深夜のエストレア城内を包む空気はどこまでも重苦しく、四人は無言のまま、冷え切った石造りの廊下を歩いた。
本来ならこの時間帯は城内の誰もが既に深い眠りについているはずの静寂の時刻だったが、その夜の廊下は異様な緊張感に満ちていた。
目的地である研究室に到着すると、普段なら夜間は厳重に施錠されているはずの頑丈な扉が大きく開け放たれ、中からは煌々とした明かりが漏れていた。
そして、開いた扉の向こうからは、耳を疑うような男の叫び声が響いていた。
「事故だ! 僕は、ちゃんと危険性について警告した!」
それは研究者としてのプライドも何もない、恐怖と保身に満ちた、まるで泣き叫ぶような見苦しい声だった。
「あってはならないことだ……コルベイン」
それに被せるように、ガーネットの怒りを極限まで含んだ低く冷徹な声が、研究室内の空気を一瞬にして氷点下にまで凍りつかせた。
「これはまだ試作品で……生体を使った実験だってまだ済んでいなかったんだ! だから、だから僕はちゃんと止めた……!」
コルベインは恐怖に全身を小刻みに震わせながら、狂ったように叫び声を上げた。
ガーネットは怒りを押し殺すように、大きく息を吐き出した。
「裏ルートからの違法な魔法資材の購入、塔の地下室の勝手な私物化、禁忌とされている人体への不可逆的な影響を与える魔法薬の開発……そして、同僚の魔導士を死に至らしめたことに対する、過失致死の罪」
その“死に至らしめた”という現実を突きつける言葉に、コルベインは過剰なまでに反応して声を張り上げた。
「違う! 違う違う違う! 僕は殺してなんかいない! これは事故だ!」
コルベインは床に崩れ落ちるようにしながら、その場に立っていたガーネットの足元に縋りつくようにして必死に訴えかけた。
「コルベインを拘束しろ。今すぐ地下の牢へ連れていけ。それから、彼の研究に関する一切の書類、地下室に残された研究資材も、一余り残さず全て完全に押収しろ」
「そんな……待ってくれ! 僕はエストレア王国のためにこれを……! この国の魔導技術の未来を想って研究していたんだ……!」
駆けつけた頑強な騎士たちに両腕を力任せに掴まれ、地面を引きずられるようにして牢屋へ連れていかれながらも、コルベインは醜態を晒して叫び続けた。
「せめて……せめて僕の研究資料だけは! 長官、あれだけは返してくれ……!」
「うるさい! お前たち、さっさと連れていけ!」
ガーネットが鬼の形相で怒鳴りつけたその怒号は、エストレアの城全体が小さく揺れるほどの凄まじい迫力だった。
コルベインの引きつった泣き叫ぶ声だけが、冷たい回廊の遠くへと虚しくこだまして消えていった。
サイラスはその一連の始終を、腕を組んだまま冷ややかな目でじっと見つめていた。
その視線は、醜く悪あがきをするコルベインだけではなく、事態がここに至るまで動かなかったガーネットに対しても、痛烈な不信感を含んだ冷たいものだった。
(——人がこうして実際に命を落とさなければ、上層部は動かないってわけか……)
もしあの時、自分が持ち込んだ証拠を信じてガーネットがもっと早く迅速に動いてくれていれば、この無辜の魔導士の死を防ぐことができたのではないだろうか。そんな取り返しのつかない後悔が、サイラスの頭を重くよぎった。
サイラスはやり場のない怒りと疲労を飲み込むように、深く長いため息をついた。
翌日、コルベインは王国に対する数々の重大な罪を問われ、即日国外追放という厳罰が下された。
彼が二度とエストレアの土を踏むことは許されず、国境の外へと放り出されることになった。
コルベインが私物化していた地下室から見つかった研究成果や危険な資材は全て国家によって没収され、厳重な管理下に置かれた。
これを契機として、王国における魔法薬の開発や研究に対する認可基準は、これまで以上に厳格なものへと改められた。
こうして、城内を揺るがした一連の問題は、一応の表向きの決着を見せた。
しかし、愛する息子であるルシアンの心に深く刻まれた消えない傷と恐怖は、置き去りにされたままだった。
サイラスは、城の最も高い場所にある屋上のテラスに立ち、そこからエストレアの都全体をぼんやりと見下ろしていた。
どれほど高度な魔法や、便利な魔動機という最新の技術をもってしても、この国の中枢や人間社会の構造は、まだまだ細部において未熟で、発展途上に思えてならなかった。
「サイラス……。今回の件、まずは最悪の事態を免れて良かったと言うべきか……それとも」
不意に背後からかけられた声に、サイラスは振り返らなかった。足音を聞かなくても、それが誰であるのか分かっていたからだ。
「そうだな……。取り敢えずは、一区切りついた、か」
サイラスは淡々と答えながら、視線を青空の遠くへと向けた。
「何も力になってやれなくて、本当にすまなかった」
アルバートがいつの間にか歩み寄り、サイラスの真横に並んで立った。その表情には、一国の王としての威厳ではなく、親友に対して深い負い目を感じる男の苦渋の色が浮かんでいた。
「お前の気遣いだけで充分すぎるほどだよ。ありがとうな、アルバート」
サイラスはどこか乾いた苦笑を浮かべた。
昨日の今日というタイミングでこれほど迅速にコルベインの追放処分が下されたのも、他ならぬアルバートが裏で承認を急がせてくれたからなのは明白だった。
「で、ルシアンの体調はどうだ?」
「ああ、おかげさまでだいぶ良くなってきてるよ。ただ、もともと細い体だからさ、もう少ししっかり飯を食ってほしいもんだけどな」
周囲の者たちはみな、事件の当事者であるサイラス自身の身を案じたが、アルバートだけは一貫してルシアンの心身の体調を気遣ってくれた。その配慮が、サイラスにとっては救いでもあった。
「ずっと自室に籠りっきりというのも息が詰まるだろう。たまには、息抜きにバルザードの相手でもしてやってくれないか? 最近、退屈そうにしてるからね」
「はは。最近、城の騎士団に弟子入りしたらしいじゃないか。たまに見かけるぜ、汗を流して剣の稽古をつけてもらっているところ」
「まったく、好奇心旺盛であいつはじっとしていられないから困るよ」
他愛のない冗談に、二人は静かに笑い合った。
「この国は、まだまだ至らないところだらけだ。サイラス、これからも俺の力になってくれないか?」
アルバートはまっすぐ前を見据えたまま、静かにそう言った。
「俺も今さっき、全く似たようなことを考えていたところさ」
二人は並んで、眼下に広がるエストレアの街並みを穏やかな瞳で見つめた。
これからの技術の発展、そしてまだ見ぬ美しいエストレアの未来を、心に描きながら。
第3章 サイラス:42歳 ルシアン:20歳
* °•. ☪︎ .•° 第1節 °•. ☪︎ .•°*
「乾杯!」
陽気な声が、夜の帳が下りた城下町のバーに心地よく響き渡った。
今日は、ルシアンが王宮魔導士として正式に就任したことを祝う記念すべき日だった。
魔導チームの仲間たちはもちろん、懇意にしている他の魔導士や騎士団の面々も大勢集まり、店内は温かな祝賀ムードに包まれていた。
「今までは、見習いとして大目に見てた部分もあったけど、王宮魔導士となれば、もう同じ舞台に立つわけだからな!覚悟しとけよ」
「はい、頑張ります」
ルシアンは自信に満ちた顔で頷いた。
サイラスはここまで素直に育ったルシアンを見て、誇らしい気持ちになった。
宴は終始和やかな雰囲気の中で進み、やがて楽しかった時間も穏やかな終わりを迎えた。
夜風に少し酔いを覚ましたサイラスとルシアンの二人は、静かな帰路を歩いた。
夜道を並んで進みながら、サイラスはふと足を止め、懐から小さな包みを取り出した。
「ルシアン、就任おめでとう。これ、お祝いの品だ」
「え……?」
ルシアンは目を丸くしながらも、両手で丁寧にそれを受け取った。
「今、包みを開けてもいいですか?」
「あぁ、もちろんいいとも」
ルシアンが包装をそっと解くと、中から上質な魔導ペンが現れた。その洗練されたデザインと美しさに、彼は瞳を輝かせた。
「うわぁ……! ありがとうございます、サイラス!」
思いがけない贈り物に心底嬉しそうな笑みを浮かべ、ルシアンはそのまま勢いよくサイラスの胸元へと飛び込んできた。
「おっと……」
サイラスは不意を突かれて驚きつつも、戸惑うように腕を回し、その細い体を優しく抱きしめ返した。
ルシアンが少年から青年へと大きくなってからは、こうしたスキンシップを取ることもすっかりなくなっていた。流石にもう大人になったのだし、いつまでも子ども扱いされるのは嫌がるのではないかと、サイラスは対等な関係を築こうとしていた。
だが、こうしてルシアンの方から真っ直ぐに愛情表現をぶつけてくれると、父親として、そして育ての親として、胸の奥底から温かい喜びがこみ上げてくるのを感じた。
満たされた温もりを胸に抱いたまま、二人はそれぞれの自室へと戻り、穏やかな眠りについた。
しかし、その平穏な日常の幸福は、残酷なほどあっさりと打ち砕かれることになった。
まだ朝の静けさが残る城内。執務室へと急ぎ呼び出されたサイラスを待っていたのは、めずらしく厳めしい顔をして窓際に佇むガーネットの姿だった。
そこで告げられたのは、あまりにも唐突すぎる通告だった。
「ルシアンの、これまでの教育係を解任する」
「解任、ですか……?」
サイラスが訝しんだ表情を浮かべると、ガーネットは淡々と続けた。
「そうだ。これからは、ルシアンは補佐役として直接私の下で行動することになった」
信じられない話に、サイラスは絶句した。
「ちょっと待ってください! てっきり魔導チームで引き続き仕事をするのだとばかり……」
「元々、彼を引き取ったのは、私の補佐役として動いてもらうためだ。それに、魔導チームでの雑務や研究だけでは、彼の持つ才能に対して今の環境は役不足だと言っている」
ガーネットの冷徹な言葉に、サイラスは到底納得がいかなかった。
「俺がどれだけの愛情を注いで、どれほど大切に育ててきたと思っているんだ……! ようやく一人前に育った途端に、それを奪うなんてそんなのあんまりだ!」
「ルシアンはお前の所有物ではない」
感情任せに声を荒げるサイラスに対し、ガーネットは冷たく言い放った。
その言葉は、サイラスの胸に鋭く突き刺さった。
確かに、これまでの日々は「疑似家族」としての形をとって温かな関係を築いてきたが、法的な意味で正式な養子として家族になったわけではなかった。その厳然たる事実を突きつけられ、サイラスはそれ以上、何も言い返すことができなかった。
「取り急ぎ、ルシアンに魔導チームにある荷物をまとめて、私のところに来るよう指示してくれ」
「……」
サイラスは拳を震わせると、ガーネットの言葉には返事をせず執務室を出て行った。
その日から、ルシアンは魔導チームを離れ、ガーネットの補佐として働くことになった。
ルシアンは私物をまとめた仕事道具の入った箱を胸に抱えると、これまでお世話になった魔導チームのメンバーたち一人ひとりに、丁寧にお辞儀をして御礼の言葉を告げた。
チームの仕事部屋を出ていこうとするルシアンの背中を見送り、居ても立ってもいられなくなったサイラスは慌ててその後を追いかけ、冷え切った廊下でその腕を引き留めた。
「ルシアン……。仕事場は違うけど同じ城の中にいるんだ、困ったことがあったらいつでも俺に相談しろよ。いつでも話には乗るからな」
サイラスの必死な気遣いに、ルシアンはどこか痛々しいほどに寂しそうな、それでも無理やり作ったような作り笑いを向けて小さく頷いた。
「……ありがとうございます、サイラス。心配しないでください」
そう言い残すと、ルシアンは振り切るように足早にその場を去っていった。
サイラスは、どれだけ手を伸ばしてももう二度とあの頃の距離には戻れないのだと告げられているような気がして、遠ざかる後ろ姿が見えなくなるまで一歩も動くことができなかった。
(俺は……無力だ……)
上官の決定には逆らえず、大切に育ててきたはずの温もりを自分の手からスルリと零れ落としていく。
同じ城の屋根の下にいながら、ルシアンは自分の知らない新しい世界へと一足飛びに歩き出していってしまった——そんな言い知れぬ寂しさと取り残されたような焦りが、サイラスの胸の底から静かに這い上がり、いつまでも重く澱み続けていた。
* °•. ☪︎ .•° 第2節 °•. ☪︎ .•°*
ガーネットの下で働くようになってから、ルシアンの日常は一変した。
急激に押し寄せる激務の波に追われ、毎日のように自室と職場をただ往復するだけの生活が続いた。
今まではサイラスの温かい庇護の下で、教えを受けながら楽しく仕事ができていた。しかし、新しく覚えなければならない高度な政務や魔導の補佐業務はあまりにも多く、周囲の優しさに甘えて助けてもらえるような状況ではなかった。
同じエストレア城の敷地内にいるはずなのに、サイラスと顔を合わせる機会はほとんどなくなっていった。
毎日一緒に過ごしていたのに、大好きだった人に会うこともままならなくなり、ルシアンの心には日に日に耐えがたさが募り、重いストレスが溜まっていった。
冷たい月明かりがエストレア城の尖塔を白々と照らし出す、静まり返った夜のことだった。
その日も長い一日の激務を終えて自室に戻ったルシアンは、シャワーを浴びて冷えた体をさっぱりさせると、重い足取りで自分の机へと歩み寄った。そして、一番下の引き出しを引いた。
そこには、冷たい光を放つ大人向けの玩具——男性器を模した精巧な魔導具が、ひっそりと隠すように収納されていた。
いつの頃からか、過度なストレスと抑えきれない恋慕に押し潰されそうになった夜、ルシアンはこれを自分の体にあてがうことで、どうにか正気を保つようにして自分自身を慰めていた。
震える手でその中の一つを取り出すと、ベッドの上に腰掛け、潤滑剤をたっぷりと垂らした。まずは自分の指を秘部に這わせ、十分に濡らして準備を整える。
そして、冷たい感触の玩具を、自らの奥へと徐々に押し込んでいった。
(あ……っ、はぁ……)
脳裏に浮かべるのは、いつだってサイラスの姿だった。
今夜も、サイラスに抱かれているところを必死に想像する。耳元で、あの優しく低く響く声で、自分の名前を愛おしそうに呼んでくれているところを頭の中で何度も反芻した。
——自分は、男性が好きなのだろうか——?
ふと、そんな根本的な疑問が頭をよぎることもあった。だが、ルシアンにとって自身の恋愛対象は、ただ一人、サイラスというその人のみだった。
物心ついた幼い頃から、サイラスのことが「好き」だという自覚はあった。
それが自分を育ててくれた人への純粋な家族としての慕情なのか、あるいは一人の男性に抱くような恋心なのか、当時はそのあいまいな境界線すらよく分からなかった。
しかし、自分の身体も心も大人へと成長していくにつれて、そのぼやけていた輪郭は嫌でもはっきりと形を成していった。
サイラスを「父親」としてではなく、「一人の男性」として愛しているのだと。
その歪んでいて、誰にも言えない想いは、お互いの人生の歩幅がずれるようにして距離が遠くなればなるほど、皮肉にもどんどん色濃く、激しく膨れ上がっていった。
だからこそ、サイラスが自分を「息子」として扱い、慈愛に満ちた瞳で見つめるたびに、ルシアンの心は激しく引き裂かれるように痛んだ。彼が周囲の人々に「自慢の息子だ」と嬉しそうに語るたびに、サイラスとの間の埋められない絶望的な距離を感じて、息が詰まる思いがした。物理的にも精神的にも近い距離にいるというのに、この恋慕の想いは一生かかっても彼の心に届くことはないのだと分かっていたからだ。
「ん……っ、はぁ……あっ……!」
思考を巡らせながら腰を動かしているうちに、玩具はすでに根元まですっかりと飲み込まれていた。
ルシアンは荒い息を吐き出しながら、その玩具をゆっくりと奥へ出し入れし、快楽の波に身を委ねた。
(サイラス……僕を……もっと強く……抱いて欲しい……っ!)
サイラスが、自分が男が好きだと知ったらどんな顔をするだろうか。
サイラスが、自分のこんな見苦しい淫らな姿を見たら、いったいどんな気持ちになるだろうか。
息子として大切に慈しんできた相手から、肉欲を伴った恋愛感情を向けられていたと知ったら、気持ち悪いと軽蔑されるだろうか。
少なくとも、激しいショックを受けることだけは間違いなかった。
ルシアンは何よりも、サイラスに嫌われること、その冷たい目に晒されることが怖かった。
だからこそ、本当の気持ちは隠し通してきた。息子として従順に振る舞うことだけが、今の幸せな関係を辛うじて壊さずにいられる唯一の手段だったから。自分一人だけが陰でずっと傷つき、身を焦がしていたとしても、サイラスが息子として愛してくれているなら、それで十分だと思えた。
しかし、もう彼に対する愛を抑えきれなかった。
ただ傍にいるだけで良かったはずなのに、今は愛しすぎてしまうことがただただ苦しかった。
(サイラス……好き……大好き……)
限界に達したルシアンは、挿入された玩具に合わせるように自分の肉棒をも激しく握りしめ、一心不乱に扱き上げた。
「ふっ……んんっ……あぁ……っ!」
脳裏の妄想が頂点に達する。サイラスの大きな体に強く抱きしめられ、その熱に押し潰されながら、甘い言葉と共に果てへと導かれる姿を強烈に描き、ルシアンはついに頭が真っ白になるほどの絶頂を迎えて精液を撒き散らした。
「はぁっ……はぁっ……はぁ……」
激しい快楽の余韻が引いていくと同時に、今度は先ほどまでとは違う、冷たい泥水のような後悔が全身を襲ってきた。
これまでサイラスが自分に向けてくれた、あまりにも尊い「父親としての優しさ」や誠実な愛情を、こんな汚らわしい妄想と自慰行為で自ら汚してしまったという罪悪感だった。
(僕は……変態だし、最低な人間だ……サイラス……ごめんなさい)
とめどなく零れ落ちる涙を拭う気力もなく、ルシアンは散らかったベッドの上をただ虚ろな手つきで片付けた。自分の内側から湧き上がる醜い執着と自己嫌悪に泥沼のように沈み込みながら、冷めきった身体で暗い寝台の奥へと小さく丸まって潜り込んだ。
* °•. ☪︎ .•° 第3節 °•. ☪︎ .•°*
ルシアンが宮廷の資料室で山積みの書類に追われ、息をつく暇もなく忙殺されていたある日のことだった。
背後から聞き慣れた快活な声がかけられた。
「ルシアン。元気にやってるか? 最近、執務室の方でも全然見かけなかったから心配したぜ」
振り返ると、そこには変わらない笑顔を浮かべたサイラスが立っていた。
久しぶりに間近で見るサイラスの顔に、ルシアンの胸は高鳴り、今すぐにでもその胸に飛び込んで抱きつきたいという衝動に全身が支配されそうになった。
しかし、すぐ目の前にはガーネットと行う午後の重要な打ち合わせ用資料の山が控えており、そんな個人的な感情に浸っている余裕は一瞬たりともなかった。
これ以上彼を見つめ続けていたら、抑え込んでいる想いが決壊してしまいそうだったため、ルシアンは苦し紛れにパッとサイラスから目を逸らした。突然目をそらされたサイラスは、何も言わないルシアンの様子に戸惑い、最近の激務でまた具合でも悪くしているのではないかと心配の眉を寄せた。
「なんだかあまり顔色が良くないな。ちゃんと飯は食ってるのか?」
心配そうに歩み寄ってきたサイラスが、ふわりと伸びてきたその大きな手でルシアンの頬を優しく撫でた。
長らく忘れていた、そのゴツゴツとした大きな手から伝わる温もりに、ルシアンは心地良さと切なさが同時に押し寄せ、思わず涙腺が熱くなりそうになった。
(だめだ……こんなタイミングで優しくされたら、また頼りたくなってしまう……)
こみ上げる弱音を押し隠すように、ルシアンは無言のままサイラスに背中を向け、再び目の前の資料をごそごそと探し始めた。自分の緩みきった情けない表情を絶対に見せまいと、必死に気力を振り絞っていた。
そこでようやく、ルシアンは乾いた声を絞り出した。
「……サイラス殿。何か、御用でしょうか」
いつの間にか、職場でのサイラスに対する呼び方は「サイラス殿」と堅苦しいものに変わっていた。それは、これ以上甘えないための、ルシアンなりの痛々しいほどのけじめでもあった。
だが、自ら発したその言葉が、思いの外冷たく刺々しいトーンになってしまったことに、ルシアン自身が一番驚いて息を呑んだ。
「別に、用がなくたって……お前の顔を見に来ちゃ悪いかよ」
冷たく突き放されたように感じたのか、サイラスの声のトーンは微かに沈み、ショックの色を帯びていた。
その反応に気づいた瞬間、ルシアンはしまったと激しく青ざめた。
サイラスを鬱陶しがっているなど微塵もなく、ただ自分の感情のコントロールが効かなかっただけなのだというのに、あまりにも冷酷な態度をとってしまったことへの罪悪感が胸を締め付けた。
二人の間には、耐えがたいほど気まずい沈黙の空気が流れた。
前はあんなに自然に交わしていたはずの会話の仕方が分からなくなっていた。いつの間に自分はこんなにぎこちなくなってしまったのだろうと、ルシアンの胸は暗い絶望感で満たされていた。サイラスを意識すればするほど、喉の奥がつかえてまともな言葉すら出てこない。
「すみません……今、ちょっと手が離せなくて……」
本当は会えて嬉しかったと素直な気持ちを伝えることができたらどれほどよかったか。そんな理想とは裏腹に、口をついて出るのは拒絶の言葉ばかりだった。
「……そっか。ごめん、忙しいのにな。お前のことが何となく気になって、つい押しかけちまった……」
気まずそうに苦笑するサイラスの掠れた声が、背中越しに鋭く刺さるように響いた。
サイラスがこうして自分のことを変わらず気にかけてくれているだけで本当は救われる思いだったのに、それを自分のせいで無碍に扱ってしまったことが悔やんでも悔やみきれなかった。
「あの……サイラス殿……」
謝ろうと、あるいは本当の気持ちを少しだけでも零そうと、ルシアンが慌てて振り返ると、サイラスは持ってきた荷物の中から一冊の古い本を取り出していた。
「これ、お前に借りてた本なんだけどさ。返しに来たんだ」
それは、だいぶ前にサイラスへと貸したきりになっていた本だった。
ずっとサイラスの手元にその本があることは知っていた。サイラスが自分の所有している私物をずっと持ってくれているという事実だけで、どこか見えないつながりがあるような気がして心の支えになっていた。
それを今、「返される」ということは、その小さなつながりすらもここで断ち切られてしまうような気がして、ルシアンはどうしようもなく寂しさに襲われた。
「……これから会議があるので……申し訳ありませんが、僕の部屋の机の上に置いておいてくれませんか……?」
消え入りそうな、か細い声でルシアンはそう答えるのが精一杯だった。
「……わかった」
サイラスは静かに頷くと、どこか暗い表情のまま固まっているルシアンをしばらくじっと見つめた。
サイラスには、目の前の青年の様子が明らかに普通ではないことなど痛いほど分かっていた。しかし、これ以上踏み込んで良いのか迷っていた。また、返事の仕方から頑なに拒絶されているようにも感じて、無理に詮索することをやめた。
「仕事の邪魔して、悪かったな」
そう言ってサイラスはルシアンの肩を軽く、労わるように叩くと、そのまま静かに資料室を出て行った。
閉ざされた扉の向こうにサイラスの気配が消えていくのを感じながら、ルシアンは大きく溜息をついた。
(僕は……いったい何をやっているんだ……。こんな冷たい態度をとったら、余計に嫌われてしまうだけじゃないか……)
もうどうするのが正解なのか、何が正しい振る舞いなのか、ルシアンには全く分からなくなっていた。
毎夜のように彼の姿を淫らな妄想のなかに描き出し、自慰行為に溺れている醜い自分自身に、また強い吐き気がするほどの嫌悪感を覚える。
サイラスに向けて募っていくこのどうしようもない恋愛感情が強くなればなるほど、目の前の彼に対して「良き息子」として接することが、もはや不可能になりつつあった。
* °•. ☪︎ .•° 第4節 °•. ☪︎ .•°*
サイラスはルシアンの自室の扉を静かに開け、借りていた本をその綺麗な机の上にそっと置いた。
しばらく机の上に置かれた本を眺めていたが、やがてサイラスは深いため息をついた。
ルシアンが正式に王宮魔導士として任命され、ガーネットの補佐として引き抜かれてからというもの、教育係としての自分の役目は実質的に終わってしまった。そう頭では理解していても、どこか自分の居場所が失われたような、ルシアンとの心の距離がどんどん離れていっているような寂しさが拭えずにいた。
(さっきのあいつの様子……明らかに戸惑っていたよな……)
自分だけがいつまでも子離れできずにいるのだと、サイラスは苦い自嘲を噛み締めた。
あれだけ長い年月を常に隣り合って過ごしてきたのだ。簡単に距離を置くことなどできるはずがなかった。
(こんなふうにのめり込んで顔を出すなんて……俺のただのエゴだ。あいつにはあいつの新しい人生があるんだから、俺が変に邪魔しちゃいけないよな)
自分を必死に納得させながら、サイラスはルシアンの部屋の中をふと見渡した。
部屋は相変わらず塵一つなく綺麗に片付けられており、日々の生活を一人できちんと回している様子がうかがえた。
ルシアンはもう既に、自分の足でしっかりと自立しているのだと思わずにいられなかった。
そのとき、ベッドのサイドテーブルの上に、かつて自分が贈った魔導通信用の台座がぽつんと置かれているのが目に入った。
結局、あの台座を通じてルシアンから連絡が届いたことは、これまで一度もなかった。
それでも、それをこうして部屋の身近な場所にずっと大切に置いてくれているという事実だけで、サイラスの凍りつきかけた心は救われる思いがした。
(……親なら、変に干渉せずに遠くで見守ってやるのが一番大事なんだ。あいつが本当に誰かに頼りたくなった時に、いつでもどっしり構えていりゃいいんだからさ)
自分が過干渉になっていたのだと反省し、サイラスは心を切り替えようと背筋を伸ばした。
そして部屋の出口へと歩み出そうとしたその時、ふと足元にあるルシアンの机の一番下の引き出しが、わずかに隙間を空けて開いていることに気がついた。
(ん……? 閉め忘れか?)
サイラスは無意識に、それを元通りに押し閉めようと手を伸ばした。
だが、中で何かが引っかかっているのか、引き出しは途中でピクリとも動かずに押し込めなかった。
(奥に何か挟まっているのか……?)
原因を確かめようと、サイラスは引き出しを一度軽く手前に引いてみた。
そして、引き出しの中を覗き込んだ瞬間、サイラスの思考は完全に凍りつき、時間の流れが止まったかのような衝撃に襲われた。
引き出しの中には、見慣れない奇妙な形をした棒状の道具などが、幾つも丁寧に並べられていた。
(え……これって……?)
パッと見た瞬間から嫌な予感を覚えながら、サイラスは一番手前にあったその奇妙な玩具を、思わず自分の大きな手で引き上げてみた。どこをどう見ても、人間の生々しい「男性器」を忠実に模したものにしか見えなかった。
さらにその脇には、まだ包装箱から開封されていない類似の玩具や、専用の潤滑剤などが整然と収められていた。手がかりを探すように近くの箱の表記に目を走らせると、そこにはその玩具が「男性向けの大人の玩具」である旨の使用方法が赤裸々に記されていた。
サイラスの頭が真っ白になった。
数秒間、その場で硬直したのち、彼は持っていた玩具を慌てて元の位置にそっと戻し、引き出しの奥で引っかかっていた別の道具の位置も直すと、音を立てないように慎重にその引き出しを閉めた。
我が子であっても、他人の知られざる私的な領域に土足で踏み入るような悪趣味な真似など、最初から微塵もなかった。
ましてや、それが自分が我が子のように大切に育ててきたルシアンの、誰にも知られたくない秘められた繊細な部分であるならなおさらだった。
ルシアンの口から、これまでそのような趣味や恋愛観についての話を耳にしたことは一度もなかった。
それだけに、勝手に人知れず隠しておきたかった内面を暴いてしまったという強烈な背徳感と罪悪感が、サイラスの胸を重く圧迫した。
(すまない……ルシアン)
ルシアンが男性を恋愛対象として好んでいるということ自体に対して、サイラスの中に偏見や嫌悪感は微塵もなかった。
だが、その愛おしい我が子が「他の男に抱かれる姿」、あるいはこのような道具を使って一人で身体を慰めている姿を頭に思い浮かべてしまった。
年頃の息子を持つ親として、我が子のそんな生々しい営みなど正直想像したくもなかった。それでも、胸の奥がざわつくような言い知れぬ居心地の悪さと、嫉妬混じりの複雑な感情がじわりと湧き上がってくるのを感じた。
男だろうが女だろうが、ルシアンが本当に心を許した相手を好きになるのなら、父親としてどうこう言うつもりはない。
しかし、過去のコルベインによるあの悍ましい事件のトラウマがトラウマが残ってからというもの、サイラスの中でルシアンに不用意に近づいてくる不審な男に対する警戒心は常軌を逸したほど敏感になっていた。
(もしかして……最近あいつがあんなに思い詰めた顔をして、何かを一人で抱え込んでそうな雰囲気だったのは、このことに関係しているのか……?)
サイラスは腕を組み、険しい顔で深く思案した。
もしルシアンがまた自分の知らないところで深く悩み、一人で苦しんでいるのだとしたら、親として一刻も早く力になりたかった。
しかし、ルシアンももう立派な成人した大人なのだ。本人自身が絶対に知られたくない、触れてほしくない隠し事なのだとしたら、サイラスが無理やり踏み込んで問い詰めるなど論外だった。
(……だけど……もう見てしまったものは、今さらどう言い訳してもしょうがねぇよな)
サイラスは頭を抱えるようにして大きく深いため息をつくと、これ以上長居をしてはならないと、重い足取りでルシアンの部屋を後にした。
* °•. ☪︎ .•° 第5節 °•. ☪︎ .•°*
その日、資料室の最も奥にある、厳重に施錠された重要書類の保管室で、ルシアンはガーネットから頼まれた古文書の束を静かに探していた。
「ここにいたのか」
唐突に背後からかけられた低い声に、ルシアンは肩をビクリと揺らせて振り返った。
そこにはサイラスが立っていた。いつもの柔らかな笑顔は影を潜め、どこか真剣な面持ちのまま、ルシアンへと真っ直ぐに歩み寄ってくる。
サイラスはルシアンのすぐ目の前まで詰め寄ると、逃げ場を塞ぐように壁に片手をドンと突き、その高い体躯でルシアンを見下ろした。表情に笑みはなく、ただじっと、ルシアンの戸惑いに満ちた瞳を逃さぬように見つめている。
あまりの至近距離でまじまじと顔を見据えられ、ルシアンは心臓が跳ね上がるのを必死に隠しながら、手に持っていた資料の束で半分顔を隠すようにして、みるみるうちに頬を赤らめた。
「サイラス殿……そんなに近くで見られたら、恥ずかしいです……」
動揺しながら絞り出したその声に、サイラスはわずかに息を呑み、そしてどこか懐かしむような、複雑な色を瞳に宿した。
「何を今更……お前が小さい頃なんて、裸だって散々見てたのに」
「な、何をいきなり言い出すんですか……!」
ルシアンはあまりの不意打ちに顔を真っ赤に染め上げ、慌てふためいて声を裏返らせた。
最近まではほとんど顔を合わせることすらなかったというのに、突然やってきてこんな過去の幼児期の話を持ち出されては、どう反応していいか分からず頭が真っ白になりそうだった。
「少し話がしたいんだ。今夜、一緒に食事でも行かないか?」
「食事……ですか?」
「いつものバーの入り口で待ってるから。仕事が終わったら、ちゃんと来いよ」
サイラスはそれだけ一方的に告げると、ルシアンの返答を待つこともせず、踵を返して保管室から去っていった。
残されたルシアンは、ただパチパチと瞬きをするばかりだった。
これまで、サイラスが自分の意思を無視してこんな風に強引に誘ってくることなど一度もなかったからだ。一体どうしたというのだろうと、ルシアンは胸の内で首を傾げた。
しかし、不思議なことに、その強引な誘いの裏にあるサイラスの熱を感じて、なぜか悪くない気はしている自分がいた。
夜のとばりが降りる頃、ルシアンは指定された城下町のバーへと足を運んだ。
店に到着すると、サイラスは約束通り、入り口の前で腕を組んで待っていた。
「なんだ? 着替えて来たのか?」
サイラスはルシアンの姿を認めるなり、少し目を丸くして声を上げた。
「仕事着のままだと……なんだかリラックスできない気がして……」
ルシアンは少し気恥ずかしそうに視線を泳がせながら答えた。今日は公務を終えた後、自室に戻ってからわざわざ私服に着替えてきていたのだ。
「そんな気を遣わなくても良いのにさ」
サイラスはどこか嬉しそうな、しかし照れくさそうな笑みを浮かべると、自然な手つきでルシアンの細い腰に腕を回した。
「さ、中に入ろうぜ」
そのまま体を寄せられるようにして店内に導かれ、ルシアンはサイラスにエスコートされているのだという実感を肌で感じ、胸の奥が熱くなっていくのを知った。それと同時に、隣を歩くサイラスの飾らない自然なカッコ良さに、抑えきれないほど心が踊り狂っていた。
いつもなら、店内の音楽隊の演奏や他の客がよく見える広めの席に通されるのだが、その日はなぜか店の奥にある静かな個室へと案内された。
席に着きながら、ルシアンは昼間に急に誘われた時のことを思い出して、またしても胸に小さなざわめきを覚えた。
(サイラス……いったい、何か大事な話でもあるのだろうか……)
不安が頭をもたげる。こんな個室をわざわざ予約して二人きりで食事なんて、自分にとって良いことであるはずがないのではないかと、悪い想像ばかりが膨らんでいく。
やがて、あらかじめ注文されていたらしい上品なコース料理が、淡々とテーブルに運ばれてきた。
しかし、肝心のサイラスは美味しい料理に舌鼓を打ちつつも、一向に何か重要な切り出しをする気配を見せない。他愛のない魔導士たちの近況雑談をぽつりぽつりと口にするだけで、時間が過ぎていった。
そうして、メインの主菜をすべて食べ終え、静かな空気が流れた頃だった。
「ルシアン……その、なんだ。お前は……恋人とか、いるのか?」
グラスを傾けていたサイラスが、まるで意を決したかのように、唐突にその話題を切り出した。
「え……?」
あまりにも脈絡のない質問に、ルシアンは驚いて動きを止めた。
ずっと何か言いたげに口をモゴモゴさせていたのは、このことだったのかと納得が行く一方で、その質問の意図が全く読めなかった。
サイラスは気まずそうに目を泳がせ、ちらりとルシアンの顔を盗み見た。その視線とルシアンの目がバッチリと合ってしまう。
そのあまりの気まずそうな父親の姿に、ルシアンは思わず吹き出してしまった。
「ふふ……。サイラス殿、そんなことをわざわざ聞くために、こんな個室まで用意してこの場を設けたのですか?」
ルシアンの整った美しい顔に、隠しきれない笑みがこぼれ落ちる。
サイラスは、自分の不器用さが露呈した気まずさと、そして何より久しぶりに見た息子の心からの笑顔に少しだけ安堵したのか、気まずそうに口を閉ざした。
「恋人は……いません。でも、好きな人はいます」
ルシアンはあえて真っ直ぐにそう告げた。
「そ、そうか……」
サイラスは明らかに動揺し、その様子は傍目から見ても分かりやすいほどにおかしかった。
「安心しろ、誰かなんて詮索するつもりはないから」
サイラスは慌てて続けた。
ルシアンはくすりと笑ってみせた。
(このまま、ただの気まずい食事会で終わらせるくらいなら……)
そう思ったルシアンは、胸の内で小さく息を吸い、思い切って自分から仕掛けることにした。
「実は……僕の好きな人は、サイラス殿なんです」
冗談めかした様子もなく、ルシアンはにこりともせずにサイラスの瞳をまっすぐに見据えた。
サイラスは息を呑んだまま、ルシアンの真剣な瞳を見つめ返している。
店内の微かな物音だけを残し、気まずい静寂がしばらくの間二人の間に流れた。
「——ルシアン……。良かった。俺もだよ。ここ最近、ずっとお前に嫌われてるんじゃないかって……内心ヒヤヒヤしてたんだ。……安心した」
サイラスは、まるですべての重荷が降りたかのような、心の底から安心しきった安堵の笑みを浮かべてそう言った。
——違った。
サイラスの口から零れ落ちた「好き」という言葉の温度を肌で感じた瞬間、ルシアンの瞳から一瞬にして光がスッと消え失せた。
サイラスが自分に向けている「好き」は、一人の恋愛対象としての男性へのそれではなく、あくまで「可愛い息子」に向けられた家族愛だった。
勇気を振り絞って本心を曝け出したというのに、鎌をかけておきながら自爆したも同然だった。
ちょうどその時、デザートの皿が運ばれてきた。
目の前に置かれた甘いはずのプリンをスプーンですくい、口に運んでみたが、今のルシアンの舌にはいっさい味が感じられなかった。
「ルシアン、実はな……お前に謝りたいことがあるんだ」
デザートを見つめるルシアンの横で、サイラスが急に真剣な声音に戻った。
「謝りたいこと……ですか?」
サイラスのただならぬ表情を見て、ルシアンは、いよいよこっちが本当の今日の本題なのだと察した。
しかし、サイラスが自分に対して謝るようなことなど、一体何があるというのか全く想像がつかなかった。
「この前、お前に借りていた本を返しに部屋に行っただろう?」
「……はい」
「あの時、お前の机の引き出しが少し開いていて……閉めようとしたんだ。そしたら、中から何かつかえて上手く閉まらなくて……」
「……」
その言葉を聞いた瞬間、ルシアンの血の気がサーッと引いていくのが分かった。あぁ、そういうことかとすべてを悟った。あの時、自分が隠し持っていた「アレ」を、サイラスに見られてしまったようだった。
「すまない、見るつもりはまったくなかったんだ。でも、結果的に見てしまったから……どうしてもお前に謝りたくて。本当に、ごめん」
「……そうですか。ご丁寧にどうもありがとうございます」
光を失ったルシアンの瞳は、サイラスの顔ではなく、サイラスのプリンを捉えていた。
「……わざわざ、本人に言わなくても良かったのでは?」
ルシアンはサイラスへ冷たく言い放った。
鎌をかけて自滅した上に更に追い打ちをかける絶望。
自分だけが片想いで泥沼のように傷つき、情けない欲望に溺れているのを好きな人に知られるとは。
それは完全に八つ当たりであり、理不尽な逆恨みだと分かっていても止められなかった。
「それは思ったよ。見て見ぬふりをして、何も言わないでおこうって。でも……」
サイラスはそこで一息つき、苦しそうな顔をして言葉を続けた。
「あんな……あんな大きなものを自分の体に入れてるなんて、自分の身体を傷つけているようなものだろう? 折角、ご両親からも授かった大事な身体なんだから、もっと大切にしないと……」
その言葉を聞いた瞬間、ルシアンの中で何かがプツリと音を立てて切れた。そして、耐えがたい怒りで全身が激しく震え出した。
一体、誰の所為でこんなことになっていると思っているのか。
自分はサイラスへのどうしようもない愛をどうしても昇華できず、その苦しみから逃れるために自慰行為に耽っているというのに、当の本人からそんな的外れな説教をされる筋合いなど微塵もなかった。
「僕のすることに、サイラス殿は関係ないでしょう。僕が好きでやっていることなんですから」
ルシアンはこれまでにないほど冷たく、鋭く言い放った。自分でも驚くほど冷徹な声だった。
「……お前、もしかして男が好きなのか?」
「そうですよ。それが何か問題でもありますか?」
ルシアンは胸の内で煮え繰り返る怒りをもう抑えきれなくなっていた。
こちらはさっき命を削る思いで本音を伝えたというのに、まるで冗談か何かのように綺麗に流され、挙句の果てには自分の隠していた秘密まで覗き見された上に、性的嗜好まで根掘り葉掘り詮索される。無性に腹が立って仕方がなかった。
サイラスのあまりの鈍感さにも無神経さにも、呆れて涙が出そうだった。
「もういいですか? それじゃあ、僕はこれで失礼します」
これ以上ここにいたら全てをぶちまけて、ギリギリ保っている関係性を壊してしまいそうだった。
ルシアンは思い切ってその場を立ち去ろうとした。
「ルシアン、ちょっと待ってくれ!」
慌てた様子でサイラスが立ち上がり、店員に代金を投げつけるように支払うと、足早に店を出て行ったルシアンの背中を必死に追いかけた。
「ルシアン! おい、待ってって! ルシアン!」
夜の王都の通りを早足で帰路を進むルシアンの背中に、サイラスの焦った声が追いすがる。
ついに追いついたサイラスは、ルシアンの細い腕をグッと掴んで無理やり自分の方へと振り向かせた。
その拍子に、ルシアンの大きな瞳から、耐えきれなくなった涙がポロリと零れ落ちた。
「……っ」
その涙を見た瞬間、サイラスは青ざめた。
そこで初めて、自分がどれほど愚かで残酷な過ちを犯してしまったのかを痛感した。
ルシアンの口から真実を聞き出そうとして、彼がもし悩んでいるなら力になってやろうという親心からの行動だったはずが、結果として配慮のない言動が彼を深く傷つけていたのだと理解した。
「……うっ……」
ルシアンは片手で自分の口元をギュッと押さえ、喉の奥から込み上げる嗚咽を必死に堪えていた。
「すまん……俺が悪かった。本当に、ごめん……ごめん、ルシアン……」
サイラスは震えるルシアンの体をその大きな腕の中に引き寄せ、優しく強く抱きしめた。
「う……ひとの秘密をずけずけと聞いておいて、そんな説教なんて……。……うぅ、そんなの……」
「そうだよな……俺が馬鹿野郎だった。本当にごめん……」
サイラスは、ポロポロと涙を流し続けるルシアンの頭を、昔のように大きな手で優しく撫で続けた。
どっしり構えておけば良いなんて嘘じゃないか、サイラスは激しく猛省した。
「お前が……最近ずっと何か一人で悩んでるんじゃないかって心配でさ……。力になりたかったんだよ。身体のことも心配で……」
サイラスは優しくルシアンの背中を大きく包み込むようにさすった。
「ん……」
服の上からでも伝わってくるサイラスの大きな手の温もり、その圧倒的な体温に触れた瞬間、ルシアンは胸の奥が甘く熱くなっていくのが感じられた。
「もし……その、お前に好きな人ができて、いつか付き合うことになったらさ、その時は俺にも相手を紹介してくれよ。一緒に食事でもしようぜ」
サイラスは優しげな、励ますような笑みをルシアンに向けた。
そこには、もうこれ以上踏み込まないという決意にも見える表情だった。
「……僕の想い人とは……お付き合いすることは、一生叶わないので……」
「え?」
ルシアンの切なすぎる呟きに、サイラスは驚いたように目をパチクリさせた。
「まさか! こんなに美しくて、気立も良くていい奴を振るような愚か者がこの世にいるのか?」
サイラスは信じられないといった様子で、ルシアンの柔らかい銀髪を愛おしそうに撫でた。
ルシアンは、目の前で自分の気持ちに全く気づいていない呑気な父親の顔をじっと見つめると、力の抜けた大きな溜息をついた。
(なんだか……もう、疲れた……)
ルシアンは、サイラスの大きく温かい腕の中に抱かれながら、そう諦めにも似た感情に浸っていた。
息子として彼の愛情を一生こうしてもらい続けることができるのなら、いっそそれで良いのではないか。それは何度も何度も自問自答した思いだった。この叶わない報われない恋心を心の奥底に封印して忘れることができたなら、今頃どんなに幸せだっただろうかと思わずにはいられなかった。
白銀の茨(はくぎんのいばら)【連載中】