百合の君(125)

百合の君(125)

 珊瑚(さんご)の対応は、義郎(よしろう)の心を傷つけた。結局、喜林(きばやし)出海(いずみ)は合流し、木怒山(きぬやま)八津代(やつしろ)上噛島(かみがみしま)城まで追い詰めたが、義郎の心は晴れなかった。
 目の前で城下町が焼けていた。人々は逃げまどい、親を亡くした子が泣き叫んでいる。それらの景色は、義郎になんの感慨も与えなかった。
 この気持ちは、あの時と同じだと義郎は思った。同盟の証として、出海から穂乃(ほの)が来たとき。あれ以来、義郎は本当に孤独になり、力への志向は、それまでの目的を失い、それ自体が目的になった。
 いま、珊瑚に差し伸べた手は振り払われ、目の前の城が落ちれば、戦乱の世は終わる。もう力も無意味になる。
 私は、これから何を求めて生きればいいのだろう?
 義郎は、隣に立つ珊瑚を見た。切れ長の瞳に、細く通った鼻筋は美しかったが、自分とは全然似ていないと思った。そして、初めて珊瑚の若さを羨んだ。義郎は、四十を過ぎている。まだ衰えは感じていないが、これから新しい価値を求めて生きていくのは、つらい。
 若さへの羨望は、憎しみへと傾きつつあった。自分を拒否した息子が、自分が生きられない新しい世を統べようとしている。
 いま討つべきは、木怒山ではなくこの男なのか?
 しかし、珊瑚に向かう光の筋が見えて、義郎の思考は中断された。

 痛い。のか熱いのか。その方を見ると、脇腹に矢が刺さり、毛皮を血が汚していた。それが自分の血であると理解するのに、少し間があった。その血は、誰か別人の物のような気がしたが、痛みは自分の物に違いない。
「珊瑚殿・・・」義郎は珊瑚の手を取った。「やっと、その手を握って話をするという夢が叶いましたな」珊瑚の顔はやはり自分とは似ていないと思ったが、気にかけている余裕はなかった。
「二十六年前、私は出海浪親(なみちか)によって、あなたと穂乃を奪われた。私はあの男を憎んだ。憎んで憎んで侍になって力をつけ、とうとうあの男を倒すことができましたが、私は肝心のあなたと穂乃のことを全く考えていなかった。一度は取り戻した穂乃もあなたも、みすみすこの手で放り出してしまった。
 生まれた時から実の父と引き離されたあなたは、さぞお寂しかったでしょう。私はそんなことにも思い至らなかった。親に捨てられ、武道一筋で世を渡って来た自分と同じように育つべきだと思った。あなたが何を望んでいるのか、考えたこともなかった。
 許してくれとは申しませぬ、ただ、今少しこの手を離さずにいてくださらんか・・・」
 義郎は静止し、その肉体はもう何も思わなかった。家臣たちはむせび泣いた。上様は出海様をお守りしようとして矢に当たられたのだ。その言葉に、出海の兵まで袖を濡らした。
 しかし、珊瑚は違った。がっかりした。涙を流し膝に(すが)り付いてくる爺は、かつての今水流(いまずる)と同じだった。醜い。このような姿、私の知っている喜林義郎ではない。力を示すのではなかったのか。そのために私をさえ滅ぼそうとしたのではなかったのか。お前が失った二十六年前など、私は何も覚えていない。
 しかしこの反感は、何か心地よいものだった。義郎と同時に、浪親も心の中にすとんと落ちた。親は自分を理解しない。自分も親を理解しない。養子も実子も同じことだと珊瑚は思った。しかしそれは孤独ではない。単に自分が親とは別人格であるという当たり前の、以前から母に言われていながらも受け入れることのできなかった事実を、空気中から酸素を取り込むようにすっと我が身に取り入れることだった。
 珊瑚は生まれて初めて呼吸した。
 しかし、主を失った喜林の兵は次々に逃亡を始める。弔い合戦だと叫ぶ者は逃げる者を血祭りにあげ、喜林軍は完全に指揮を失った。止める珊瑚の声に耳を傾ける者はいない。珊瑚は自分の内面と外面で起こっていることの乖離に、取り残されてしまった。

百合の君(125)

義郎の最期の言葉は、本心だったのでしょうか・・・

百合の君(125)

あらすじ:義郎は、危機一髪のところで珊瑚を木怒山軍から救い出しました。しかし、それまでの対応から、珊瑚は義郎をまったく信用しませんでした。 本文中に出てくる穂乃が人質にきたエピソードは、(55)にあります。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-09-05

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