百合の君(124)
「木怒山軍、撤退!」
珊瑚にはその意味が理解できなかった。伝令は繰り返した。
「木怒山軍、撤退いたしました!」
「なに?」
珊瑚は守隆を見上げた。守隆も困惑した様子で見返してくる。
「喜林軍からの攻撃を受け、木怒山軍が逃走しています!」
珊瑚は、その伝令を敵の間者ではないかと疑った。つまり、珊瑚に偽情報を掴ませようとしているのだと思ったが、直接、そんなあからさまな嘘を言う間者はいないだろうと思い直した。しかも、自害しようとしているのだから、止める必要もないはずだ。
そう結論付けるのに一瞬の間しかなかったが、伝令に対する怒りは残った。それはもしかすると敵だと疑ったからではなく、自害を邪魔されたからかもしれなかった。死に向かうには物凄い勢いが必要だ。急に止められたエネルギーが、行き場所を求めているのかもしれない。
珊瑚はまさに腹に突き立てんとしていた短刀を置いて立ち上がると、荒々しく伝令の横を通り過ぎた。すれ違いざまに見た顔は、伏せているのでよく分からないが、鼻の頭に赤い腫れものがあって、きっと醜いに違いないと思った。
そして、自ら櫓に登って城の外を眺めた。
それは人の洪水だった。まるで大河が逆流するように、木怒山の軍が東に向かっている。しかし、追う喜林の旗印を見ても、珊瑚は父の愛を感じなかった。それどころか、今度は喜林軍に警戒した。
それは、珊瑚の立場では当然のことだった。珊瑚は、木怒山が喜林の命令で侵略してきたのだと思っているし、自分の母がかつての夫に宛てて書いた文も知らない。ましてや進軍の最中で義郎と園の間にあった会話など、知ろうはずもない。それに、直前の伝令に対する怒りが、珊瑚の気持ちを頑なにさせたのかもしれない。
珊瑚は追撃の命令を出さず、喜林に対しても、なかなか門を開かなかった。
百合の君(124)
申し訳ありません、来週は更新できなさそうです。