荊棘の轍(けいきょくのわだち)【連載中】

荊棘の轍(けいきょくのわだち)【連載中】

序章

<第一節 揺り籠に落ちた強欲の雫>
 
 緑豊かなヴェルダンテ王国の中心、白亜の王宮。その一角にある産室は、王族のみならず、多大な献金を行った下級貴族にも開放されるという、この国独自の慈悲深い伝統があった。辺境の下級貴族であるオルディン・ヴィ・セレストの妻もまた、幸運にもこの栄誉に預かっていた。

 産室の隅で、乳母のマルタは煮えたぎるような欲望を抑えきれずにいた。彼女の視線の先には、生まれたばかりの第一王女に贈られた王室の秘宝――【始祖の金緑石】をあしらった首飾りが、窓から差し込む月光を吸い込んで、妖しくも美しい深紅の輝きを放っている。彼女は腕利きの乳母として知られていたが、その実態は、王宮の調度品や宝石を隙あらばくすねる【手癖の悪い女】であった。

(これ一つあれば。私は一生、泥をすすり、靴の底を舐めるような生活からおさらばできる)

 周囲に侍女たちの気配はない。今が絶好の好機だった。マルタは震える指先で、赤子の首元に手を伸ばした。しかし、秘宝はまるで赤子の肌に吸い付いているかのように、中々外れなかった。焦ったマルタが強引に引き剥がそうとした瞬間、月光を浴びて深紅に染まった鋭利な金細工が、ゆりかごの中で眠っていた赤子の左肩を薄く切り裂いた。

「ぎゃあああああんっ!」

 赤子の喉から、静寂な月夜を引き裂くような鋭い泣き声が上がる。純白の産着が、金緑石の輝きと同じ不吉な赤色に染まっていく。

(どうしよう、どうしよう……死罪だ。私は殺される!)

 王族の体に一生消えない傷をつける――それは単なる過失ではない。マルタの命だけでは到底贖いきれぬ、一族郎党の処刑を意味する大罪であった。泣き叫ぶ赤子を前に、マルタは正気を失いかけた。

 焦燥に駆られた彼女は、ふと隣のゆりかごに目をやった。そこには、偶然にも同日に生まれたばかりの別の赤子がいた。辺境の下級貴族、オルディン・ヴィ・セレストの娘だ。二人の赤子は、偶然にも同じ型のゆりかごに寝かされ、同じ純白の産着を纏っていた。

 唯一の違いは、王女を包むブランケットに刺繍された【王家の紋章】のみ。

 マルタは震える手で王家の紋章がついたブランケットを剥ぎ取り、月明かりの下ですやすやと眠るオルディンの娘に被せた。そして、傷つき泣き叫ぶ本物の王女を、辺境の下級貴族のゆりかごへと放り込む。

「マルタ!? 一体何事ですか?」

 侍女たちの声と共に足音が近づく。マルタは瞬時に、今しがた放り込んだばかりの本物の王女(傷を負った赤子)を抱き上げ、あやす素振りを見せた。

「地方の小貴族の娘が急に泣き出したもので……」

 マルタはなるべく侍女の方を見ず、自分の体で本物の王女を隠し、血の滲む産着をブランケットの端で覆い隠した。

「王女様が起きてしまいますわ。これだから嫌ですわ。神聖な王宮産室を下級貴族にも金さえ払えば解放するなんて……」

 駆けつけた侍女たちは、マルタの腕の中で激しくぐずる赤子を忌々しげに一瞥した。そして、隣のゆりかごで豪華な紋章に包まれ、夜の宝石の守護を受けて眠り続けている赤子(オルディンの実子)を疑うことなく、大切に抱きかかえ、奥の私室へと運んでいった。侍女たちは秘宝が消えていることについても、今はまだ気にも留めていないようだった。

 早朝、マルタは手に入れた【始祖の金緑石】を懐に忍ばせ、霧に紛れて王宮を去った。偽の王女は新たな乳母の手に委ねられ、宝石のように大切に育てられることとなる。

 数日後、辺境の領主オルディンは、悲痛な面持ちで帰路についていた。最愛の妻は産後の肥立ちが悪く、息を引き取ってしまった。彼は、妻の亡骸と、産室から戻された【自分の娘】を連れ、王都から遠く離れた寂れた町へと戻っていった。オルディンが【自分の娘】に違和感を覚えたのは、妻の葬儀がひと段落した後だった。

<第二節 土埃に咲いた銀の徒花>
 
 ヴェルダンテ王国の北端、霧と岩に囲まれた辺境の町。そこで下級貴族の娘として育ったエルセリカ・ヴィ・セレストは、成長するにつれ、その美貌で周囲を驚かせた。
 陽光を浴びれば真珠のように輝く白銀の髪、そして深く澄んだエメラルドの瞳。その容姿は、土埃の舞う辺境の地ではあまりにも浮世離れしていた。

 オルディンは、エルセリカが三歳になる頃には、確信を持って悟っていた。

(……この子は、私の子ではない)

 かつて、王宮へ何度も書簡を送った。赤子の取り違えではないか、確認してほしいと。だが、当時の王宮は乳母マルタによる秘宝盗難事件の事後処理で混乱の極みにあった。下級貴族の訴えは「不敬な妄言」として切り捨てられ、次第に「秘宝の行方を知っていると見せかけて揺すりを目論む卑小な男」というレッテルまで貼られる始末だった。

 年月が流れるにつれ、エルセリカの美しさは増していった。オルディンは、彼女が王の娘であると確信しながらも、日ごとに募る愛おしさを抑えることができなかった。彼女を【本物の王女】として王宮に返せば、この優しい日々は終わる。しかし、このままでは彼女から本来の居場所を奪い続けることになる。

(エルセリカ、お前は……この場所で終わるべき人間ではないのだ)

 18歳になったエルセリカに、オルディンは決意を込めて王宮の高位官職を提案した。王の目につく場所に置けば、王も認めざるを得ないはずだ。エルセリカは父の提案を快諾した。父を喜ばせたい、その一心だった。

 王都に到着し、オルディンが役所で手続きを行っている間、エルセリカはふと足を止めた。城壁の広場から、鋭い金属のぶつかり合う音が聞こえてきたのだ。

 そこでは、ヴェルダンテ王国騎士団が訓練を行っていた。重厚な鎧を纏い、規律正しく剣を振るう騎士たち。その汗と誇りに満ちた光景に、彼女の胸は激しく高鳴った。

(事務仕事や、誰かの顔色を伺う官職など、私には向いていないだろう)

 戻ってきたオルディンに、エルセリカははっきりと告げた。

「お父様、私は騎士になります。自分の力で、この国を守れる存在になりたいのです」

 オルディンは絶句した。王女としての血が、彼女を頂点へと導こうとしているのか、それとも過酷な運命へと誘っているのか。だが、その瞳に宿る意志の強さに、彼は首を縦に振るしかなかった。

 エルセリカは18歳で騎士団の門を叩いた。銀髪を短く切り、男たちに混じって泥にまみれる日々が始まった。

<第三節 王冠を拒む剣の意志>
 
 それから5年。エルセリカは、騎士団の歴史を塗り替える速さで出世を遂げていた。
【辺境の銀狼】という異名を持ちながら、彼女は女性であることを言い訳にせず、誰よりも過酷な訓練に耐え、戦場では冷徹なまでの判断力を見せた。

 そして、エルセリカは、ついに騎士団副団長に任命される。

 就任式の当日。王の前に跪くエルセリカの姿に、会場は静まり返った。白銀のショートカットに、エメラルドの瞳。そして、騎士服の上からでも分かる、鍛え上げられつつも女性らしい肉付きの良い身体。その姿は、あまりにも眩しかった。

 王が剣を授けるため、彼女の前に立つ。その瞬間、王の動きが止まった。

「……貴殿、名は」
「エルセリカ・ヴィ・セレストでございます」

 そこにいたのは、若き日の王妃の顔立ちそのものだった。王の指先が微かに震える。慌てて大臣が割って入り、式典は何とか終了した。

 数日後、エルセリカとオルディンは王宮の奥深くに呼び出されることになる。
 そこには、王レジナルドと、そして一人の女性がいた。王女として育てられたその女性、イゾルデ・ヴィ・ヴェルダンテは、贅を尽くした暮らしのせいか酷く肥満しており、退屈そうに爪を弄っていた。髪は凡庸なブラウン。オルディンの亡き妻の面影が、そこには確かにあった。

「信じがたいことだが……調査により、23年前の取り違えが事実であると判明した」

 大臣の言葉に、部屋が凍りつく。エルセリカは静かに瞳を閉じた。これまでオルディンと暮らしてきて、家庭に流れる違和感の正体が、ようやく明かされたのだ。

「エルセリカよ。これからは王女として、本来の場所へ戻るが良い」

 レジナルドの言葉が終わるか終わらないかのうちに、イゾルデが叫んだ。

「嫌よ! 王女は私よ!! 私が王女なのよ!!! 田舎に帰るなんて絶対に嫌!!!」

 イゾルデは実の父であるオルディンを蔑むような目で見据え、部屋を飛び出していった。その様子を見たレジナルドとオルディンは呆気に取られた。エルセリカは、静かに、しかし力強く口を開いた。

「陛下。私は、この23年間、オルディン・ヴィ・セレストの娘として生きて参りました。そして、この5年間、自らの剣と汗で副団長の地位を勝ち取って参りました」

 エルセリカはレジナルドを真っ直ぐに見つめ、言葉を継ぐ。

「今さら【王女】という服に着替えるつもりはございません。……今はまだ、これまで通りの生活を望みます」

 王は苦渋に満ちた表情を浮かべたが、エルセリカの意志を折ることはできなかった。
 結局、取り違えの事実は公には伏せられ、エルセリカは【副団長】として、イゾルデは【王女】としての生活を続けるという、奇妙な均衡が保たれることになった。

 しかし、運命は彼女たちに安息を与えない。
 エルセリカが27歳を迎えた年。隣国エストレア王国の不穏な動きと共に、時代は大きな戦禍へと突き進んでいく。

第一章 エルセリカ・ヴィ・セレスト

 ヴェルダンテ王国とエストレア王国の激突。その凄惨な戦火のなか、ヴェルダンテ騎士団副団長エルセリカ・ヴィ・セレストは、退却の最中に敵魔法兵の追撃を受け、断崖から濁流へと転落した。それから数ヶ月。かつての誇り高き騎士は、泥水を啜り、獣を捌く野良犬のようなサバイバルを経て、ようやく中立国オルディナの辺境にあるギルド街へと辿り着いた。

「……私の誇りも、この程度か。二束三文とは、まさにこのことだろうな」

 質屋の薄汚れたカウンターを見つめ、エルセリカは静かに吐き捨てた。差し出したのは、ひび割れた胸当てと、王室の加護を受けたはずの銀の籠手。店主は鼻を鳴らし、わずかばかりの銅貨を放り出した。ヴェルダンテへの帰路を探す路銀には、到底足りない。

 店を出ると、湿った風が彼女の短い銀髪を揺らした。エメラルド色の瞳は空腹で翳り、色白の肌は埃にまみれている。しかし、ボロを纏っていても隠しきれない品の良さと、騎士服の隙間から覗く艶やかな身体のラインは、荒野のならず者たちの下卑た欲望を煽るには十分すぎた。

「おいおい、そこの銀髪の姉ちゃん。随分といい身体をしてるじゃねえか」
「その白い肌、荒野に捨てとくのは勿体ねえ。身体を売るなら、俺たちがいい値で買ってやるぜ?」

 下卑た笑い声を上げながら、三人の傭兵がエルセリカを囲む。彼らの視線は、彼女の豊かな胸元や、しなやかな太ももを舐めるように這った。エルセリカは腰の剣を求めて手が動いたが、そこに守るべき剣はない。その時、頭上から地鳴りのような低い声が響いた。

「お前ら、そんなに飢えてんなら、あたしが相手してやってもいいんだぜ?」

 男たちが弾かれたように振り返る。そこに立っていたのは、見上げるほどに巨大な躯体を持つティーフリングの女だった。
 並の男を二回りほども上回る長身。黒いくせ毛の隙間から突き出した角。赤い肌に宿る黄色の瞳が、獲物を狙う獣のように男たちを射抜いていた。

「な、ヴァルカ……! 【灰歩き】かッ!」

 男たちは顔を青くし、蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった。ヴァルカは鼻を鳴らし、足元に視線を落とした。そこには、緊張を解いたエルセリカが立っていた。女性としては十分に恵まれた背格好を誇るエルセリカですら、ヴァルカの隣に立つと、守られるべき少女のように小さく見えた。

「……感謝する。助かった。お前の気迫、並の騎士では太刀打ちできぬだろうな」
「あ? 礼なんていいよ。あたしはシケた面した野郎が嫌いなだけだ」

 エルセリカは力なく微笑むと、近くの枯れた噴水の縁に腰掛けた。小さな鞄から、いつのものかも分からぬ硬くなったパンの欠片を取り出し、喉に詰まらせながら水で流し込む。そのまま辺りを見回すと、近くの家畜小屋に積まれた藁の山を見つけ、そこへ吸い込まれるように横になった。

「……おい、マジかよ」

 ヴァルカは呆れ果てて歩み寄った。

「あんた、さっきの出来事で分かってねーのか? なんでそんな無防備なんだよ」
「……何のことだろう? 休息が必要なだけだ。ここで寝るのが一番合理的だと思ったのだが」

 エルセリカの至極真面目な答えに、ヴァルカは大きくため息をついた。

「はあぁ……。女が一人でこんな場所をうろつくんじゃねーよ」

 エルセリカは身体を起こし、ヴァルカの黄色の瞳をじっと見つめた。

「お前も女だろう」

 そう一言告げてエルセリカはまた横になった。

「あんたと一緒にすんな! 見りゃ分かんだろ、あたしを襲おうなんて命知らずはそういねーんだよ」
「そうか……。だが、残念なことに宿屋に泊まる金もない。仕方ないだろう」

 エルセリカの超然とした態度に毒気を抜かれたのか、ヴァルカは舌打ちをすると、彼女の腕を強引に引っ張り上げた。

「チッ、見てられねーな。来いよ、宿屋へ連れてってやる。これはあたしからの奢りだ」

 ヴァルカは一室を取り、薄汚れたエルセリカに先に身を清めるように言った。宿屋の簡素なシャワー室から、エルセリカが出てきた。濡れた髪をタオルで拭きながら、「お先にシャワーありがとう」と声をかける。その姿を一目見るなり、部屋で待っていたヴァルカは目を剥いた。

 汚れを落とした彼女は、あまりにも美しかった。輝く白銀の髪。深い湖のようなエメラルドの瞳。そして、石鹸の香りを漂わせる艶やかな白い肌。凛々しくも伸びやかな肢体は、騎士らしい適度な筋肉の上に、女性特有の柔らかく豊かな肉が乗っている。

「……お前、どっかのお貴族様か?」
「……辺境の下級貴族、オルディン・ヴィ・セレストの娘だ。ヴェルダンテの騎士団で副団長を務めていた」

 エルセリカは、親切にしてくれるヴァルカに信頼を寄せ、自らの素性を明かした。しかし、ヴァルカから返ってきたのは、絶望の報せだった。

「ヴェルダンテだって? なんでこんなところに? ヴェルダンテは既に降伏したんじゃなかったのか……」
「……っ! なんだと……!? それは、真実か!?」

 エルセリカの顔から血の気が引いた。彼女はヴァルカに詰め寄り、王室や騎士団の仲間の安否を問い質した。

「あたしは詳しいことまでは知らねーよ。傭兵どもが話してるのを聞いただけだ」

 ヴァルカは詰め寄るエルセリカを押しのけた。エルセリカは茫然とした。

(ヴェルダンテが……落ちた……それじゃあ、皆は……)

 血の気が引いていくエルセリカの様子をヴァルカは心配した。

「現状どうなってるかは分からないけど、都市部に行けばもっと新しい情報が入るかもね」

 エルセリカはヴァルカの言葉に少し希望を見出した。まだ自分の目で確かめたわけでもない。ここで落ち込んでいても仕方ない。まずは騎士団や王の所在を確認せねば……。

「ありがとう。私は都市部へ行く」

 エルセリカは決然と言った。しかし、中立国と言えどエストレアの兵が潜んでいる可能性は高い。今の丸腰の自分一人では心許ない。彼女は真っ直ぐにヴァルカを見据えた。

「ヴァルカ、お前を傭兵として雇いたい。私を都市部まで案内してくれないだろうか」
「あのな、さっきも言ったろ? この宿は奢りだって。あたしは金がねー奴の護衛はしねーんだよ」
「その……後払いでは……ダメだろうか?」
「ダメだね」

 ヴァルカは意地悪く、しかし真剣な表情を装ってエルセリカを覗き込んだ。

「……どうしてもってんなら、身体で払ってくれるか? あんた、いい身体してるしな」

 その言葉に、エルセリカは一瞬、エメラルド色の瞳を大きく見開いた。だが、彼女は迷わなかった。今の自分に残された唯一の対価。それを差し出す覚悟を決めたのだ。

「……分かった」

 エルセリカは指先を震わせながら、シャツのボタンを上から順に外していった。豊かな胸元が露わになり、白い肌が室内の淡い灯りに照らされる。彼女はヴァルカにゆっくりとすり寄ったが、その動作は驚くほどぎこちなく、誘っているというよりは、決死の覚悟で敵陣へ突撃しているようだった。

「ぶっ……! ギャハハハハ!」

 ヴァルカは腹を抱えて笑い出した。

「お前、マジかよ! 今までそんなこと一度もしたことねーだろ!」
「……っ。どうすれば良かったのだ?」

 顔を真っ赤にして憤慨するエルセリカに、ヴァルカは笑いすぎた涙を拭いながら歩み寄った。そして、エルセリカの胸元から覗く白い肌を隠すように、シャツのボタンを首元まで一つ一つ丁寧に閉め直した。

「いくら金がねーからって、自分を安く売るんじゃねーよ、騎士様」

 ヴァルカはぶっきらぼうに背を向けた。

「いいよ、後払いで。その代わり、利子はクソ高く付けてやるからな。覚悟しとけ」
「……恩に着る。ヴァルカ、お前は……実に高潔な戦士だな」
「お前の度胸に免じて、だ! さっさと寝ろ!」

 エルセリカがお礼を言って隣のベッドに横になると、ヴァルカは一人、大きくため息を吐いて自分のベッドに倒れ込んだ。

(……ったく。あんな肉付きの良い身体見せつけやがって。冗談でも、一回くらい抱いときゃ良かったかな)

 ヴァルカは微かに残る石鹸の香りを振り払うように、乱暴に目を閉じた。

第二章 ヴァルカ・アッシュウォーカー

 ギルド街を後にしてから、三日の月日が流れようとしていた。目的地である都市部までは、本来であれば整備された街道を道なりに進むのが最短の路程である。しかし、二人が今足を踏み入れているのは、陽光さえ遮るほどに樹木が鬱蒼と生い茂る、国境付近の深い原生林であった。

 地理に精通したヴァルカが、あえて険しい森を迂回する路を選んだのには明確な理由があった。目的地へ続く街道沿いには、羽を休めるための農村ひとつ存在せず、点在するのは打ち捨てられた野営地の跡のみ。そこは魔獣以上に質の悪い野盗たちの格好の根城となっており、二人きりの旅連れで正面から通り抜けるには、あまりに分が悪すぎる戦地と化していたのである。

 獣道さえない腐葉土の地面を踏み締め、ヴァルカは野獣のような確かな足取りで先を急ぐ。後方を進むエルセリカは、行く手を阻む枝葉を払いながら、自身の常識とは異なる野生の知恵を持つその背中を見つめていた。静寂に包まれた森の奥、鳥の鳴き声と草を踏む音だけが響く中、エルセリカはこの赤い肌をした大女の「内側」に潜む、語られぬ過去と思考の深淵について、静かに思いを馳せていた。

 *

 ある夜、焚き火を囲んでいた時のことだ。パチパチと爆ぜる火の粉を見つめながら、ヴァルカが不意に自嘲気味な笑みを漏らした。

「……あんたさ。あたしみたいなティーフリングと旅してて、怖くねーのかよ」

 エルセリカはエメラルドの瞳を向けた。

「怖い? 何故?お前は私の恩人であり、今は信頼すべき相棒だ」

「相棒、ね……。おめでてー騎士様だ。あたしらティーフリングってのは、人間からは【呪われた血】だと忌み嫌われ、悪魔からは【不完全な出来損ない】だと見下される。どっちつかずの掃き溜め野郎なんだよ」

 ヴァルカは己の逞しい赤い腕を見つめた。
 エルセリカはティーフリングについては書物を読んだ程度の知識しかなかった。しかし、人種が違えど、目の前の女性は自分と変わらない一人の人間だと思った。

「昔さ、あたしを拾ってくれた純血の悪魔がいたんだ。ガキだったあたしに戦い方を教え、力を与えてくれた。初めて自分を認めてくれる居場所ができたと思って、死ぬ気で忠誠を誓ったよ」

 彼女の声が、夜の冷気に低く沈む。

「ある戦いでさ。あたしはそいつを逃がすために、死ぬ思いで敵を食い止めた。やっとの思いでボロボロになりながら主(あるじ)の元へ戻ったら……そいつは何て言ったと思う? 『まだ生きていたのか、案外しぶといものだな』だとさ」

 ヴァルカの黄色の瞳に、当時の絶望の色が宿る。

「そいつはあたしの献身なんてこれっぽっちも見てなかった。ただの使い捨ての道具……いや、それ以下だ。結局、ボロボロになったあたしをそいつは崖から突き落としたんだ」

「……ヴァルカ」

「それ以来だ、あたしが誰も信じねーようになったのは。親切そうに近づいてくるのは、自分のためだってこと。生きるってのは、裏切られる前に裏切るか、誰とも関わらねーことだって学んだんだよ」

 吐き捨てるような言葉とは裏腹に、ヴァルカが焚き火を弄る手元はどこか寂しげだった。
 エルセリカは、揺れる火影に照らされたヴァルカの横顔を静かに見つめた。誰も信じない、誰とも関わらない。そう言いながらも、このティーフリングは行き倒れ同然だった自分を拾い、あまつさえなけなしの金で宿を奢って見せたのだ。

(自分を悪人と定めているようだが……本当に冷酷な奴なら、無一文の私など相手にしなかったはずだ)

 裏切られた過去を盾にして、これ以上傷つかぬよう自分に呪いをかけているだけではないのか。エルセリカは確信した。目の前のティーフリングは、かつて踏みにじられた誠実さを、今もなお不器用に、けれど確かにその胸の奥に抱き続けている。

 エルセリカは静かに立ち上がり、ヴァルカの隣に腰を下ろした。そして、躊躇いなく彼女の大きな赤い手に、自分の白い手を重ねた。

「ヴァルカ。少なくとも私はお前のことをそんな風には思ってないよ」

「……どうだか。ただの護衛だろ……」

「すまないな。今は持ち合わせがなくて……」

 エルセリカが柔らかく笑った。

(そうだ。金がない女を助けるなんて……断ることもできたのに、あたしはどうかしてる)

 ヴァルカは乱暴に手を引き抜いたが、その指先は微かに震えていた。
 エルセリカの持つ、世間知らずゆえの、しかし揺るぎない高潔さと優しさ。それが、ヴァルカが長年閉ざしてきた心の城壁を、少しずつ、音も立てずに崩し始めていた。

 *

 鬱蒼と生い茂った森を抜けた先に、不意に視界が開ける。そこには、鏡のように静かな湖畔が広がっていた。

「……おぉ~!!」

 ヴァルカが感嘆の声を漏らす。
 陽光を反射してキラキラと輝く水面は底まで透き通り、魚の影さえはっきりと見える。

「天気も良いし、空気も美味い! ピクニック日和だ!」

 ヴァルカの元気な姿を見て、エルセリカも自然と笑みがこぼれた。

「透き通る程、水が綺麗だ」

 エルセリカは岸辺に歩み寄り、水面をすくった。昨夜の重い空気は、この澄んだ光の中に溶けて消えたようだった。

「この辺で少し休まないか?」

 エルセリカが提案した。

「一緒に水浴びしよう」

 そう言うと、エルセリカは躊躇いなく衣服を脱ぎ捨てた。

「……おいおい」

 エルセリカの大胆な行動に、ヴァルカは思わず顔を赤らめた。
 白銀の短い髪を揺らし、エルセリカはザブザブと水の中へ入っていく。

「ふふ、ヴァルカ! 冷たくて気持ちいいぞ!」

 腰まで水に浸かったエルセリカが、岸辺のヴァルカを振り返って微笑んだ。

 その光景に、ヴァルカは息を呑んだ。
 陽の光の下で見るエルセリカの肌は、磨かれた大理石のように白く、眩い。豊かな胸が、深い呼吸に合わせてゆったりと揺れ、水面に柔らかな波紋を描いている。しなやかで肉付きの良い身体は、まるで湖面に舞い降りた女神のようだった。

「…………」

 ヴァルカは、自分が猛烈に動悸していることに気づいた。耳の奥まで心音が響く。

(なんだ……これ。なんであたしが緊張してんだよ……)

「おい、ヴァルカ! どうした、入らないのか?」
「……わ、分かってるよ! 今行くって!」

 ヴァルカは動揺を隠すように急いで服を脱ぎ捨て、わざとらしく大きな声で鼻歌を歌いながら、大きな飛沫を上げて水に飛び込んだ。冷たい水が、火照った身体を冷やしてくれることを期待して。

「えい!」

 エルセリカが、悪戯っぽく笑ってヴァルカに水をかけた。
 顔を濡らしたヴァルカが、きょとんとして固まる。

「……あはは! 面白い顔をしているぞ」

 エルセリカが声を上げて笑った。それは、等身大の娘の笑顔だった。

「……やったな! 覚悟しやがれ、騎士様!」

 ヴァルカも叫び、大きな掌で盛大に水をかけ返した。
 そこからは、言葉通りの乱闘だった。二人は子供のように、裸のまま無邪気に追いかけっこを楽しんだ。跳ね上がる水飛沫。きらめく光。二人の笑い声が静かな森に反響する。

「ヴァルカ、捕まえた!」

 背後から声がしたかと思うと、エルセリカの腕がヴァルカの胴に回された。
 後ろからの抱擁。
 エルセリカの柔らかく、弾力のある胸が、ヴァルカの赤い背中に密着した。
 濡れた肌同士が吸い付くような感覚。そして、エルセリカの吐息が背中にかかる。

「……っ!?」

 ヴァルカの思考が真っ白に染まった。
 生きるためだけに、ただ一人で剣を振るってきた。裏切られ、傷つき、灰の中を歩いてきた彼女にとって、誰かとこんな風に「楽しい」という純粋な感情を共有する時間は、生まれて初めてのことだった。

(あ、熱い……。水の中なのに、なんでこんなにあたし……)

 また鼓動が早くなる。このままでは、背中のエルセリカに自分の心臓の音がバレてしまう。ヴァルカはパニックに近い焦燥に駆られた。

「——このッ!」

 ヴァルカは勢いよくエルセリカの手を掴むと、力任せに彼女の身体を自分の前へと回し、そのまま勢いよく背負い投げの要領で投げ飛ばした。

「わっ……!?」

 大きな飛沫を上げて、エルセリカが水中に没する。
 数秒後、ぷはっと顔を出したエルセリカは、髪をかき上げながら憤慨した顔をした。

「……ひどいぞ!」

「ギャハハハハ! 油断したあんたが悪いんだよ! 騎士団の訓練はどうしたんだよ!?」

 ヴァルカは腹を抱えてゲラゲラと笑った。
 自分の頬が熱いのは、きっと日差しのせいだ。そう自分に言い聞かせながら、ヴァルカは再びエルセリカに向かって水を跳ね上げた。

第三章 サイラス・モンフォール

 静寂。それが現在のサイラスにとって、何よりも贅沢な報酬だった。
 鏡のような湖畔の傍らで、彼は丸太に背を預け、微睡みの中にいた。ここ数日、まともな睡眠が取れていなかったサイラスにとって、澄んだ空気と穏やかな風が吹き抜けるこの場所は、ようやく神経を休めることのできる最高の安息地だった。

 意識が深い闇へと沈みかけた、その時だった。
 バシャバシャと、静寂を切り裂く暴力的なまでの水音が耳に飛び込んできた。それに続いて、高い笑い声が静かな森に反響する。
 
「…………っ」
 
 村の子供たちが水遊びでも始めたのだろうか。
 サイラスの眉間に深い皺が寄る。ようやく手にした至福の時間を邪魔された苛立ちが、喉の奥から舌打ちとなって漏れた。

「――おい、うるせえぞガキどもッ!」

 怒声と共に目を見開いたサイラスは、音がした方へ鋭い視線を向けた。だが、そこにいたのは想像していたような村の子供などではなかった。
 湖畔には、燃えるような赤い肌をしたティーフリングの女性と、月光を溶かしたような白銀の髪を持つ美しい女性が、生まれたままの姿で立ち尽くしていた。二人は、きょとんとした顔でこちらを見つめている。

「おっさん、こんなとこで何してんの?」

 驚く様子も見せず、赤い肌の女――ヴァルカがザブザブと水をかき分けて近づいてくる。
 
「…………ッ!! 服を着ろ!! この痴女どもが!!」
 
 サイラスは顔を真っ赤に染め、弾かれたように顔を背けた。

 *

 しばらくして、二人が衣服を身に着けたのを確認してから、三人は焚き火を囲んで言葉を交わした。

「俺はサイラス。ただの傭兵だ。遠路はるばる仕事の用事でな。ちょうど片がついたんで、良い場所を見つけて休んでいたんだよ。あんたらは?」

 ブラウンのくせ毛を無造作に流し、少し日焼けした肌に整えられたあごひげ。首元には使い込まれたスカーフを巻き、その上に丈夫そうなジャケットを羽織った姿は、いかにも場数を踏んできた手練れの傭兵といった風情だ。
 
「私はエルセリカだ。こちらは……」

 エルセリカが視線を向けた先で、ティーフリングがゲラゲラと下品に笑った。
 
「あたしはヴァルカ。同じく傭兵さ。おっさん、良いもん拝ませてやったんだから感謝しろよな!」
 
 サイラスは、この品性も知性も欠片もなさそうな女を忌々しげにひと睨みした。
 
「まったく。いくら人気がないからって、真昼間から全裸で水に入る奴があるか」

 サイラスは丸太に座ったまま、落ちていた小枝で焚き火を突いた。彼が右手を軽く振ると、消えかけていた火がパッと勢いよく燃え上がる。
 
「すげーー! おっさん、魔法が使えるんだ!?」

 ヴァルカが子供のように目を輝かせ、興味津々といった様子でのめり出してきた。
 
「ハッ、これくらいで驚かれちゃ困るな。こんなのは朝飯前だ」
 
 鼻で笑いながら、サイラスは鞄から手際よくキャンプ用のティーセットを取り出した。

 だが、ヴァルカの純粋な驚きとは対照的に、エルセリカは内心で冷や汗をかいていた。
 
(魔法が使える……。となれば、この男、エストレアの人間か?)

 エルセリカの脳裏に警鐘が鳴り響く。エストレアは彼女にとって、最も警戒すべき魔導大国だ。

「……ところで、そっちのねーちゃんも傭兵なのか?」
 
 紅茶を啜りながら、サイラスが何気ない風を装って訊ねた。その白い肌の下に隠された四肢の引き締まりや、重心の安定した立ち居振る舞いを見て、ただの町娘ではないとサイラスは考察していた。
 
「エルセリカは、実はな……」
 
 ヴァルカが口を開きかけた瞬間、エルセリカがそれを遮るようにやや強く言い放った。
 
「そうだ。私も傭兵だ」
「へぇ……。武器も持たずにねぇ……」

 サイラスの細められた瞳が、値踏みするように彼女を射抜く。エルセリカは平静を装い、ヴァルカに目配せを送った。
 
「初心者なんだ。その……今は先輩に戦い方を教わってる」
「そーそー! 可愛い後輩のために、手取り足取りな!」
 
 ヴァルカが察して笑い飛ばしたが、サイラスは「フッ」と鼻を鳴らし、再び紅茶を啜るだけだった。

「ところで、おっさん。一人でこの荒野に来たのか? いくら大男の魔法使いでも、街道沿いはあぶねーぞ?」
 
 ヴァルカの言葉には、確かな親切心が籠っていた。
 
「仕事仲間とはぐれちまってな。探してるうちにこっち側に来たんだよ」
「へぇ? ここまで来る間に人は見かけなかったけどなぁ。どんな容姿なんだ?」

 サイラスはティーセットを鞄にしまいながら、一度言葉を切った。そして、射抜くような鋭い視線を、じっとエルセリカに向けた。
 
「……銀髪で、エメラルドの瞳の……」
 
 その言葉に、エルセリカは思わず息を呑み、視線を逸らした。まるで、自分の正体を見透かされているような錯覚に陥る。

「……若い魔導士の男だ」
「へー? 銀髪の緑の目? エルに似てる奴?」
 
 ヴァルカが能天気に発した言葉に、サイラスは答えなかった。三人の間に、刺すような沈黙が流れる。

 重苦しい空気を破ったのは、サイラスの唐突な提案だった。
 
「なぁ、あんたらも都市部へ行くんだろ? 街道沿いはおっかねーし、一緒に都市部へ行かねーか?」

 エルセリカが不安げにヴァルカの顔を見る。
 
「傭兵を雇う金はねーぞ?」

 ヴァルカは鼻を鳴らし腕を組みながら強く言った。サイラスが足元を見て吹っ掛けようとしていると見たのだろう。
 
「別に商売しようと思ってねーよ。それに、俺を連れてると何かと便利だぜ?」

 サイラスは立ち上がると、無造作に右手を突き出した。
 次の瞬間、先ほどの着火とは比較にならないほど強力な魔力が渦巻き、近くの茂みが轟音と共に吹き飛んだ。土煙の先には、今まさに奇襲を仕掛けようとしていた魔物の残骸が転がっていた。

 エルセリカとヴァルカは思わず息を呑む。
 サイラスは得意げに二人を見た。その不敵な笑みは、「断る理由はないだろう?」と突きつけているかのようだった。

 *

 サイラスの同行を受け入れたものの、エルセリカの胸中には終始、拭い去れぬ不安が沈殿していた。相手は魔導大国エストレアの人間。いつ牙を剥いてもおかしくない敵だ。
 
 しかし、そんな彼女の懸念を余所に、サイラスは道中、二人について執拗に詮索することはしなかった。それどころか、足場の悪い岩場や鋭い棘のある茂みを通る際には、ぶっきらぼうながらもエルセリカを気遣う素振りさえ見せた。

 やがて日が傾き、森に夜の帳が降り始める頃、サイラスは手際よく夕食の支度を始めた。
 焚き火の上で煮込まれるスープの香りが、夜の冷気に混じって食欲をそそる。その無駄のない動きは、彼が長年、過酷な旅路を生き抜いてきたことを物語っていた。

「うんまぁ! サイラス、あんた良い奥さんになれるよ!」
 
 差し出されたスープを豪快に啜りながら、ヴァルカが声を弾ませた。
 
「そいつはどーも」
 
 ヴァルカの凄まじい食べっぷりを眺めながら、サイラスはまんざらでもなさそうに鼻を鳴らした。
 エルセリカは、手の中の木杯に視線を落としていた。湯気に揺れるスープの波紋を見つめ、思考を巡らせる。
 
「どうした? 毒なんか入ってねーぞ」
 
 サイラスがニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべて覗き込んできた。
 
「あぁ……。疑っているわけでは……」
 
 エルセリカは慌ててスープを口に運んだ。温かな液体が喉を通り、五臓六腑に染み渡っていく。
 
「美味しい。……心が温まる。サイラス、ありがとう」
 
 偽りのない感想と共に、彼女はサイラスへ向けて柔らかく微笑んだ。
 
「あぁ……」
 
 一瞬、サイラスの動きが止まった。彼は短く生返事をするなり、その笑顔から逃げるように顔を逸らし、勢いよく水を飲み下した。

 夕食後。エルセリカはヴァルカを呼び、焚き火の爆ぜる音が遠のく場所まで移動した。
 
「ヴァルカ。言うのが遅くなったが……私がヴェルダンテの騎士だということは、サイラスには伏せておいてほしい」
「分かってるよ。大丈夫だって!」
 
 ヴァルカは軽く請け負ったが、エルセリカの不安は消えない。腹を満たし、すっかりサイラスに懐いている今のヴァルカを見ていると、うっかり口を滑らせるのではないかと危惧してしまう。

 もし今、丸腰の自分がエストレアの魔導士と戦うことになれば、勝ち目はない。
 
「ヴェルダンテの現状を知るまで、私はここで終わりたくないんだ」
 
 祖国の混乱、仲間の安否、そこで王の行方。それらを確かめるまでは、死んでも死にきれなかった。

「エル、心配すんなって。もしおっさんが襲いかかってきたら、あたしがぎったぎたにしてやるよ」
 
 エルセリカの震える肩を、ヴァルカの大きな手が力強く叩いた。
 
「ヴァルカ……ありがとう」
「それにさ。あたしの勘だけど、おっさん、エルに惚れてると思うぜ!」
「……え?」
 
 斜め上からの言葉に、エルセリカはきょとんと固まった。
 
「やたらと気遣ってるし、あれは絶対、湖畔であんたのエロい体を見たからだな!」
「ば、馬鹿なことを……!」
 
 冗談を一蹴しようとしたが、昼間の羞恥が鮮明に蘇り、エルセリカの顔が瞬時に熱くなった。
 
「サイラスに裸で近づいたのは、お前の方だろう?」
「あれ? そーだっけ?」
 
 けろりと笑い飛ばすヴァルカに、思わずエルセリカも吹き出した。
 張り詰めていた緊張が、不器用な相棒の笑い声に溶けていく。

 二人は気づいていなかった。
 木陰の暗がりに身を置き、サイラスが静かにその姿を視界に収めていたことに。
 揺らめく火影は、彼の真意を暴くことなく、ただ夜の静寂を深めていった。

第四章 叙事詩の幕間に、唯一の温もりを

 三日の路程を経て、3人はついに活気と混沌の渦巻く中立国の都市部へと辿り着いた。石畳を打つ蹄の音、呼び込みの喧騒、そして多種多様な人種の匂い。原生林の静寂に慣れた耳には、そのすべてが暴力的なまでの情報量として突き刺さる。

 道中、幾度か魔獣の襲撃に遭った際、武器を持たぬエルセリカはヴァルカとサイラスの背に守られる形となった。人混みの入り口で、彼女は2人に向き直り、深々と頭を下げた。

「道中、至らぬ私を助けてくれたこと、心から感謝する」
「気にすんなって。あたしらは一蓮托生だろ?」

 ヴァルカが快活に笑う横で、サイラスは肩をすくめてみせた。

「善良な市民を助けるのは戦士の役目だからな。気にするな」

 その言葉の端々に、どこか芝居がかった響きを感じながらも、エルセリカは小さく微笑んだ。

「さて……俺は都市部でちょいと連れを探してみるよ。ここらでお別れだ」
「色々助かったぜ、おっさん」

 ヴァルカの粗野な別れの挨拶に、サイラスは「フッ」と不敵な笑みを漏らす。

「礼を言うのは俺の方さ。こんな綺麗な淑女たちと旅ができたんだからな」
「嘘つけ! 心にもないこと言うなってーの!」

 ヴァルカの苦々しい顔にサイラスは愉快そうに声を上げて笑うと、懐から一冊のメモ帳を取り出した。彼はペンを走らせると、2枚のページを引きちぎり、それぞれに手渡した。

「俺はエストレアに居る。もし遊びに来るようなことがあれば、俺を訪ねてくれ。何かと融通が利くかもしれん」

 それだけ言い残すと、大柄な背中はまたたく間に雑踏の向こうへと消えていった。

「……やはり、エストレアの戦士だったか」

 エルセリカがぽつりと呟いた。その脳裏には、彼が放った一瞬の魔力の残光が焼き付いている。

「まぁでも、悪い奴じゃなさそうだったけどな」

 ヴァルカは気楽に言ったが、エルセリカの心境は複雑だった。

(悪い奴じゃない……か……)

 もし自分が、敵国であるヴェルダンテ騎士団の副団長だと知っても、彼はあのように親切に振る舞っただろうか。丸腰で、力なき一般市民に見えていたからこそ、手を出さなかっただけではないのか。疑念は、霧のように彼女の心を覆った。

「で、これからどうするんだ? エル」

 ヴァルカの声に、エルセリカは思考を振り切るように顔を上げた。

「そうだな……まずはヴェルダンテとエストレアの情報収集と、それからヴァルカへの報酬を稼がないとな」

 騎士団と王の安否は最優先事項だが、目の前のティーフリングに対して謝礼もなしというのは騎士道に反すると、彼女は考えていた。

「ヴァルカ……ところで、ここまでの報酬はどのくらいになるだろうか?」
「そうだなぁ。大体、10万ゴールドってところかな!」

 元気よく提示された額に、エルセリカは一瞬息を止めた。3万、せめて5万あれば足りるだろうという甘い予測は、音を立てて崩れ去った。

「……そ、そうか。……少し、時間をくれないか。3日で、必ず用意する」
「良いけどさ……その間、泊まる金はあるのか?」

 ヴァルカの怪訝な視線に、エルセリカは視線を泳がせた。

「それは……裏路地で野宿でもして凌ごうかと……」
「ダメダメ! 逃げられたら困るからね。あたしと一緒に宿に泊まってくれ」

 腕を組み、有無を言わせぬ口調でヴァルカが言い放つ。
 エルセリカは悪い気はしなかった。むしろ「逃げられたら困る」という建前で自分を気遣うヴァルカの言葉に、深い親切心を感じていた。

(金のためとは言え……ヴァルカはやっぱり優しいな)

 その期待に応えるためにも、報酬は必ず返さねばならないと彼女は決意を新たにした。

 *

 だが、現実は騎士の理想よりも遥かに非情だった。
 都市部の仕事斡旋所で求人票を隅から隅まで眺めても、3日で10万ゴールドなどという破格の仕事はどこにもない。ギルドであれば高額依頼もあるだろうが、装備も身分証も持たぬエルセリカに回ってくるのは、路地の清掃や荷運びといった薄給の軽作業のみだった。

(……仕事をするための金さえないなんて)

 焦燥に駆られ、別の斡旋所を探すうちに、エルセリカはいつの間にか表通りの喧騒から外れた裏路地へと迷い込んでいた。
 そこは、先ほどまでの活気が嘘のような退廃の街だった。
 薄汚れた下着姿の女たちが壁に寄りかかり、男たちが品定めするように彼女らを見つめている。剥き出しの欲望が渦巻く光景に、エルセリカは根源的な疑問を抱いた。
 なぜ、男は性的なものにこれほどの高値を払うのか。あるいは、なぜ女は己の肉体にそこまでの価値を見出せるのか。

 だが、今はその哲学に浸っている時間はない。とにかく金が必要だった。

(ここなら、10万ゴールドが手に入るかもしれない)

「あんたも、客を待ってるのか?」

 背後から、葉巻の匂いと共に大柄な男が近づいてきた。男の目は、獲物を探る肉食獣のようにエルセリカの肢体を舐めるように這う。

「10万ゴールド、欲しい」

 エルセリカは、自らの震える声を殺して言い放った。男は一瞬虚を突かれたように目を見開いたが、すぐに下卑た笑みを浮かべた。

「10万? 大層な自信だな。……まぁいい、8万でどうだ?」

 エルセリカは顔をしかめた。値切られたことが、騎士としての名誉を汚されたように感じたのだ。

「10万も出せないようでは、話にならない」

 突っぱねて背を向けようとした瞬間、太い腕がエルセリカの腕を強引に掴んだ。

「なんだぁ? 高慢ちきな女だ、面白ぇじゃねぇか……!」

「――俺なら15万払ってもいい」

 男の笑い声を裂くように、聞き覚えのある低い声が響いた。
 驚愕に目を見開いたエルセリカの視線の先――路地の入り口に、今朝別れたはずの男、サイラスが立っていた。

「チッ……」

 サイラスの放つ威圧感に気圧されたのか、男は忌々しげに舌打ちすると、エルセリカの手を放して闇の中へと消えていった。

「サイラス……」

 助けられた感謝よりも先に、最悪の場面を見られた屈辱が勝った。エルセリカは鋭い視線で彼を睨みつける。
 だが、サイラスの瞳に宿っていたのは、慈悲でも同情でもなかった。

「それで? ヤるのか、ヤらないのか。俺なら15万、きっちり払ってやるぜ?」
「……本当に、払ってくれるんだろうな」

 エルセリカの念押しに、サイラスは「あぁ、いいとも」と、端金でも投じるような余裕で答えた。その底知れぬ態度に、エルセリカは言いようのない不気味さを感じながらも、彼の手を借りることを決意した。

 *

 二人は裏路地の寂れた宿の一室へと入った。
 湿った空気とカビの匂い。沈黙が部屋を支配し、エルセリカの心臓は早鐘のように鳴り響く。

(こういう時……まず、どうすればいいんだ……)

 ベッドの端まで歩み寄り、恐る恐るサイラスを盗み見る。彼は何も言わず、ただ静かにエルセリカを見つめていた。

「……まず、シャワーに……」

 絞り出した会話は、あまりに無様だった。

「シャワーだと? そんなものは必要ない」

 サイラスが間髪入れずに言葉を折り、大股で距離を詰めてくる。逃げる間もなく、エルセリカは柔らかなベッドへと押し倒された。
 身体が、意志に反してガタガタと震え出す。見上げるサイラスの影が、巨大な絶望のように彼女を覆った。

「ハッ! 戦場での威勢はどうした? 【辺境の銀狼】とも呼ばれた人間が、性行為で怯えるとは無様だな」

 心臓が跳ね上がった。

「ヴェルダンテ王国騎士団副団長、エルセリカ・ヴィ・セレスト。……間違いないだろう?」

 冷徹な声が、彼女の正体を暴き立てる。

「……そうだ」

 エルセリカは屈辱に顔を背けた。だが、すぐに思い直し、起き上がってサイラスのジャケットの裾を必死に掴んだ。

「待ってくれ、サイラス! せめて……せめてヴァルカへの義理を、報酬だけは果たしたいんだ! だから……っ」

 必死に縋り付くエルセリカの形相を見て、サイラスは一瞬呆気に取られたように目を見開き、そして愉快そうに吹き出した。

「フフッ……ハハハ!」

 ひとしきり笑い終えたところで、サイラスは冷静に戻った。

「何を勘違いしてるのか知らねぇが、俺はお前を殺しに来たわけじゃないぜ」
「じゃ、じゃあ……やっぱり、女の体を求めているのか……?」

 わかりやすく息を呑むエルセリカに、サイラスは大きく溜息をつき、ベッドサイドにドカッと腰を下ろした。

「悪いが、今の俺には若い女への情欲なんてものは欠片もないんだ。すまんな」
「では、15万ゴールドは……」

 今のエルセリカには、何よりもそれが重要だった。その執着ぶりに、サイラスは苦笑を浮かべ、真剣な瞳で彼女を見つめた。

「エル、意地悪が過ぎたな。俺が悪かったよ。……一旦落ち着いて、俺の話を聞け」

 その声は、先ほどまでの敵国の魔導士のものではなく、どこか慈愛を孕んだ大人のものに変わっていた。エルセリカも毒気を抜かれ、大人しく彼の隣に座った。

「俺はエストレアの王宮魔導士だ」

 ようやく明かされた正体。エルセリカが身構えるより早く、彼は続けた。

「安心しろ。ヴェルダンテの王も、騎士の連中も生きている。……まぁ、軟禁状態ではあるがな」
「……良かった」

 心の底から漏れた安堵の言葉。だが、サイラスは容赦なく現実を突きつける。

「“良かった”、ねぇ。ヴェルダンテが降伏したのは事実だ。お前の祖国は、もう地図の上には存在しない。そして――俺たちはずっとお前を探していたんだよ、エルセリカ」
「私を? なぜ……」
「なぜだって? お前はヴェルダンテ王国の、正統なる第一王女だろう」

 衝撃が走った。この事実は王国内でも極秘扱いだったはずだ。

「私は……王女ではない。ヴェルダンテの王女は、イゾルデ様だ」
「ふーん……。お前も大概、頑固だねぇ」

 白を切る彼女を細めた目で見つめ、サイラスは立ち上がった。

「だが、エストレアに来れば、嫌でも王女と名乗らざるを得なくなるぜ」
「どういう意味だ?」
「……いいか、エルセリカ。エストレアに来い」
「言われなくても、私は仲間を助けるために行くつもりだ。だが……」

 不穏な予感が胸をよぎる。生かされた王、そして騎士団。それは、彼女を誘い出すための「餌」ではないのか。
 サイラスは部屋の出口へ向かいながら、小さな革の箱をベッドへ放り投げた。

「15万ゴールドだ」
「こんな……受け取れない。私は何も……」
「なんだ?金が欲しかったんじゃないのか?」
 
 サイラスは驚いたように言った。
 
「理由が欲しいのなら、これは俺のお遊びに付き合ってくれた礼ってことで」

 そしてドアに手をかけると、再びサイラスが振り返った。

「……それから」

 その表情は、敵国の魔導士でも、欲深い傭兵でもなかった。

「エル。二度と自分の体を売って稼ごうなんて真似はするな。……親父さんが悲しむぜ」

 それは、実の父親が娘を叱るような、深い情愛に満ちた眼差しだった。
 エルセリカの胸の奥が、熱い痛みと共に締め付けられる。何も言い返せず俯く彼女を見て、サイラスは満足げに鼻を鳴らした。

「美しき白銀の乙女に、幸多からんことを」

 風のように彼が去った後、部屋には静寂だけが残された。
 エルセリカが震える手で小箱を開けると、そこには示し合わせたかのように、ちょうど15万ゴールドの金貨が詰まっていた。
 窓の外、夜の帳が降りた街を眺めながら、エルセリカはまだ見ぬエストレアの空に思いを馳せた。

 *
 
 サイラスと別れたエルセリカは、重い足取りでヴァルカの待つ宿へと戻った。
 扉を開けると、部屋の主であるティーフリングがすぐに顔を上げた。
 
「おかえり! 仕事、見つかったのか?」
 
 予定よりも帰りが遅かったエルセリカを案じていたのだろう。ヴァルカの声には隠しきれない心配が混じっていた。
 
「あ、あぁ……まあな」
 
 エルセリカは言葉を濁し、視線を逸らす。その様子に気づいてか知らずか、ヴァルカは努めて明るく振る舞った。
 
「なーなー! 中心部の方でさ、美味そうな店を見つけたんだ! 今から飯、食べに行こうぜ!」
「……すまない。今は少し疲れていて、食欲が湧かないんだ。また今度にしよう」
 
 サイラスに突きつけられた残酷な真実と、自らを売ろうとした醜い決意の残滓。それらが胸につかえて、今は何も手につかなかった。ヴァルカを傷つけぬよう丁寧に断ると、彼女は深く詮索することなく、大きな手でエルセリカの肩を叩いた。
 
「そうか! じゃあ……あたしは軽く食べてくるから、ゆっくり休んでな!」

 ヴァルカが部屋を出ていくと、静寂が部屋を支配した。
 
(……すまない、ヴァルカ)
 
 心の中で謝罪を繰り返しながら、エルセリカはソファに身を横たえた。懐からサイラスに渡された小箱を取り出し、その鈍い光沢を見つめる。
 
(サイラス……一体、どういうつもりなのだろうか)
 
 自分を探していたと彼は言った。だが、ヴェルダンテの正統なる王女はイゾルデのはずだ。それなのに自分を求める理由が、エストレアにはあるのだろうか。
 
 初めてサイラスと出会った時の言葉を思い出す。銀髪にエメラルドの瞳をした連れを探している――あの時、彼の眼はエルセリカに流れる「血」そのものを確かめようとしていた。

(エストレアか……)
 
 敵国の中心に単身乗り込むのは、あまりに無謀だ。王や騎士団が生きているという話も、彼が自分を誘い出すためについた嘘かもしれない。このままどこか遠い町へ逃げ、騎士でも王女でもない、一人の人間として生きる道もあるのではないか。そんな考えが脳裏をよぎる。
 
 崖から落ちたあの日……そもそも騎士団の者たちは、本当に自分を探してくれていたのだろうか。
 答えの出ない自問自答を繰り返すうちに、エルセリカは抗えぬ眠りへと落ちていった。

 *

 目が覚めた時、視界に入ったのは宿の天井だった。
 いつの間にかソファからベッドへ運ばれていたらしく、傍らのテーブルにはサイラスの小箱や自分のポーチが丁寧に整えられて置かれていた。
 隣のベッドでは、ヴァルカが大きな体を丸めるようにして眠っている。どうやら彼女が運んでくれたようだ。
 エルセリカは忍び足でシャワー室に向かい、心身を清めた。部屋に戻ると、ちょうどヴァルカが大きなあくびを漏らしながら身を起こしたところだった。

「エル、よく寝れた?」
 
 目をこすり、大きく伸びをするヴァルカに、エルセリカは優しく微笑みかけた。
 
「あぁ。ありがとう、ヴァルカ。ベッドに運んでくれたんだな」
「相当疲れてたんだな。飯から帰ってきたらソファで寝てたから、びっくりしたよ」
 
 豪快に笑う彼女に、エルセリカは「ふふ、すまない」と苦笑を返す。
 
「今日も仕事に行くんだろ? あたしもギルドの依頼だけ、ちょっと見てこようかなって思ってさ」
「あ、あぁ……そうだな」
 
 2人は宿で軽く朝食を済ませ、それぞれの目的のために別れた。

(さて……どうするか)
 
 独りになったエルセリカは、再び小箱を見つめた。
 すぐにでもヴァルカに渡すべきなのは分かっている。だが、これだけの大金をわずか一日で用意した理由を、どう説明すればいいのか。
 
(こんなに良くしてくれている彼女に、嘘はつきたくない)
 
 エルセリカはヴァルカに対し、誠実でありたいと願った。
 悩んだ末、彼女は15万ゴールドのうち5万を当面の資金とし、自らを守るための剣と軽装備を購入した。そして残りの10万をヴァルカへの報酬として携え、自らの運命に決着をつけるべく、エストレアへと向かう決意を固めた。

 その日の夜。再び宿に戻ったエルセリカを見て、ヴァルカは目を丸くした。
 
「おいおい……? どうしたんだ、その格好……」
 
 軽装ではあるが戦場へ向かう騎士のような身なり。そのただならぬ雰囲気に、ヴァルカは不審を隠せない。
 
「ヴァルカ、約束の報酬だ」
 
 エルセリカは無言でテーブルに小箱を置いた。
 ヴァルカが訝しげに中を開けると、そこには眩いばかりの金貨が詰まっていた。
 
「10万ゴールドある。これまで助けてくれて、本当にありがとう」
 
 深々と頭を下げるエルセリカ。報酬を渡せば、彼女は喜んでくれる。そう思っていた。
 だが、ヴァルカは唇を噛み締め、見たこともないような辛辣な表情でエルセリカを射抜いた。
 
「……こんな大金、一日や二日で用意できるもんじゃない。どうやったんだ?」

 やはり、そこを問われるだろうことは分かっていた。
 エルセリカが沈黙を守ると、ヴァルカは椅子を蹴るようにして立ち上がり、彼女に詰め寄った。
 
「まさか、体を売るなんて真似……してないよな?」
 
 即座に否定したかった。しかし、裏路地で自ら男に大金を突きつけた事実は消えない。答えを失ったエルセリカに、ヴァルカの声が激昂となって響く。
 
「なんで……なんでだよ! あたしはこんなにエルのことを大切にしてるのに! なんでそんな……!」
「ヴァルカ、落ち着いてくれ! これは、このお金は……サイラスからもらったものなんだ!」
「なっ……!」
 
 今度はヴァルカの顔から血の気が引いていく。
 
「まさか、あのおっさんと……?」
 
 ショックのあまり言葉を失う彼女に、エルセリカは必死に首を振った。
 
「違うんだ、ヴァルカ! サイラスとも……誰とも、そんなことはしていない。信じてくれ」
「じゃあ、どうしてさ……?」

 エルセリカは重い口を開き、昨夜のサイラスとの出来事、そして自らの出自にまつわる衝撃的な事実をすべて打ち明けた。ヴァルカは終始、唸り声を上げながらその話を聞き入っていた。
 
「……エルが、王女様だったのか」
「血筋としては、な。だがヴェルダンテの王女はイゾルデ様だ。現に私は、こうしてここにいる」
「あのおっさん……いや、あの野郎! エルをどうする気なんだ……?」
「分からない。王や騎士団の安否も気になる。全てを確かめる必要がありそうだ」
「それで、その装備か」
 
 ヴァルカが納得したように、エルセリカが新調した剣と軽装備に目を向ける。
 
「本当に行くのか? エストレアに」
「あぁ。逃げ出したい気持ちがなかったわけではない。だが、やはりこの目で確かめたいんだ」
 
 確固たる意志を宿した瞳。それを見たヴァルカは、大きく頷き決心を固めた素振りをした。
 
「よし! そうと決まれば、遠征の準備をしないとな!」
「待て、ヴァルカ。報酬は渡したはずだ。これで傭兵の雇用関係は終わっただろう?」
「はあ? 何を言ってんだよ! こっからは『新しい依頼』だろ? 報酬、たっぷり期待してるぜ――王女様!」

 そのあまりに彼女らしい物言いに、エルセリカの頬が自然と緩んだ。
 
「まったく……お前というやつは……」
 
 重く沈んでいた心が、一気に軽くなる。
 
「ありがとう、ヴァルカ。改めて、礼を言う」
「でもな、二度と自分の体を売ろうなんて考えるなよ! 」
「はは……。サイラスにも同じことを言われたよ」
 
 苦笑を浮かべるエルセリカの表情には、どこか寂しげな色が混じっていた。
 地位も、名誉も、美貌も持ち合わせているはずの彼女には、常に「孤独」の影がつきまとっている。

(自己犠牲、か……。あたしとは対照的だな)
 
 同じく孤独の中を生き抜いてきたヴァルカは、その正体を見抜いていた。自分を守る術を知らず、他人のために己を削ろうとする危うさ。
 ヴァルカはたまらず、エルセリカの体を抱きしめた。
 驚きに目を見開くエルセリカに、ヴァルカが小さく囁く。
 
「安心しろって。あたしは強いぞ?」
「……うん」
 
 エルセリカは静かに頷き、ヴァルカの広い背中にそっと両手を回した。
 2人の温かな抱擁が、冷え切っていた宿の一室を、確かに満たしていった。

第五章 バルザード・デル・エストレア

 エストレア城内、その一角ではヴェルダンテの運命とは裏腹に、退廃の空気が淀んでいた。
 
 ヴェルダンテ王国から「王女」として迎えられたはずのイゾルデは、とある一室でエストレアの官職たちと乱れた性交渉に耽っている。彼女もまたエルセリカと同様、運命の歯車を狂わされた当事者の一人であった。
 
 ふくよかな肢体を持つイゾルデは、まるで渇いた喉を潤す娼婦のように、次から次へと男をとっかえひっかえしては淫らに肌を重ねる。
 
「私がエストレア王妃になれば、あなたたちにもっと良い思いをさせてあげられるのに」
 
 イゾルデは男たちのあさましい性欲を巧みに翻弄し、満足げに舌をぺろりと出す。彼女は男たちの情欲を逆手に取り、エストレアにおける自らの地位を確固たるものにしようと画策していた。老齢の官僚たちは、そんな彼女を次期王妃として担ぎ上げることで、己の権勢を保とうと腐心している。

 エストレア王国の内政は、いまや二つの派閥に激しく分断されていた。
 一つは魔導国家としての威信をかけ、強大な魔導士の育成に執心する王宮魔導士派。もう一つは、隣国である太陽の国ヴェルダンテとの融和と迎合を唱える官僚たちの穏健派である。
 
 28歳でエストレア王に戴冠したバルザードは、幼少期より魔導士たちと深い関わりの中で育ってきたため、生粋の王宮魔導士派であった。何よりバルザードは、甘い言葉で擦り寄ってくるだけの官僚たちを心底嫌悪している。
 
 彼は幼少期からの信頼できる精鋭たち数人と、亡き父の親友である魔導士サイラス、そして【月夜の民】の血を引く若き魔導士ルシアンという二人の重臣だけを、唯一無二の相談役として傍らに置いていた。

 月夜の民とは、銀髪とエメラルドの瞳を持ち、エストレアに古くから伝わる驚異的な魔力を持った崇高な民族だった。はるか昔、エストレアの内戦で逃げ出した一部の月夜の民が築いたのがヴェルダンテであった。それを踏まえるとエストレアとヴェルダンテはある意味で姉妹国ではあった。しかし、ヴェルダンテの月夜の民は環境に順応できず数を減らし、今や王家のみがその血を受け継いでいた。

 さて、今回の戦争は、エストレアの官僚たちがヴェルダンテと密約を交わしていたという情報を、バルザードが掴んだことが発端である。
 
 実は、数ヶ月前の衝突時にエストレアとヴェルダンテの間では停戦交渉が行われていた。エストレア側の提示した条件は「ヴェルダンテ王女をエストレアに渡すこと」。

 バルザードは、ヴェルダンテ王女が【月夜の民】であることは知っていたので、魔導士の素質を踏まえ、王宮魔導士派による教育と管理という条件下で迎え入れようとした。さらに王女を妻に迎えてヴェルダンテ王と直接手を結べば、その後ろ盾を失った内通者たちは打つ手をなくす。ヴェルダンテを自らの手中に収めることこそが、バルザードの狙いであった。

 ヴェルダンテ王は悩むことなく条件を快諾し、イゾルデを早々とエストレアに送り出した。
 
 バルザードは激怒した。
 なぜなら、目の前に現れたのは、月夜の民でもなく、人間の醜い欲望を煮詰めたような平凡な女であったからだ。

 バルザードは、ヴェルダンテ王が娘の身を案じて身代わりを寄越したのだと断定し、交渉は決裂。
 ヴェルダンテは即座に制圧され、王家と騎士団は囚われの身となった。
 
 ところが、ヴェルダンテ側の聴取を重ねると、イゾルデは間違いなくヴェルダンテの王女であるという証言ばかりが並ぶ。月夜の民の血は色濃く、平凡な赤子が生まれるはずがない――バルザードは不審を抱き、側近に徹底的な調査を命じた。
 
 その結果、驚愕の事実が浮かび上がる。イゾルデは乳母の手による赤子の取り違えで王女として育てられ、本来の王女は田舎の低級貴族の娘として現在はヴェルダンテ騎士団の副団長に就任していた。
 
 バルザードがヴェルダンテ王を問い詰めると、王は泣きながら弁明した。自分もまさか乳母によって娘を失うことになるとは思っていなかったのだと。バルザードはその姿を見て、彼もまた一人の親として悲劇の被害者だったのかもしれないと一瞬だけ憐憫の情を抱いた。傍らでヴェルダンテの大臣たちもしきりに謝罪を繰り返す。イゾルデの素行に手を焼いていた彼らにとって、今回の「王女」の押し付けは、好機であったという。
 
 こうして"ヴェルダンテ王女"との婚約は一旦保留となった。
 
(早いところ本物の王女を見つけなければ……)
 
 バルザードは真の王女の居所を探るべく牢の騎士団を問い詰めたが、返ってきたのは「副団長は崖から転落し死んだ」という絶望的な報告だった。ヴェルダンテに不信感を抱くバルザードは、また居所を隠しているのではないかと「確かめたのか?」と鋭く問うた。深い渓谷ゆえに確認は取れていないが、あの高さから助かるはずがないという騎士団の言葉。

 バルザードはもはや、自分の側近しか信じられる者はいないと悟り、サイラスとルシアンに副団長の捜索を命じた。サイラスとルシアンほどの魔導士であれば、たとえ亡くなっていても死者との会話が可能だからだ。二人はヴェルダンテとオルディナを分断する渓谷へ足を運んだが、結局、亡くなった痕跡すら見当たらなかった。

 そして――。

 エストレア城の大広間では、側近が溜息混じりに報告を上げていた。
 
「困ったものです。イゾルデ様は次から次へと官僚たちを虜にしているのですから……」
 
 バルザードは、鼻をつく退廃的な空気に眉をひそめ、吐き捨てるように言い放った。
 
「臭くて敵わん。アレに付き合っている連中ごとこの城から追い出せ」
「ですが、彼らに公務を抜けられても困ってしまいます。急募していますが中々……」
 
 短い白銀の髪をさらりと揺らし、エメラルドの瞳を輝かせた美しい青年、王宮魔導士のルシアンが、憂いを含んだ眼差しで顎に手を当てながら進言する。
 
「で? ルシアン……サイラスはどうした? あいつはいつ帰って来るんだ?」
 
 バルザードはルシアンを見つめ、問いかける。
 
「お呼びですか、陛下?」
 
 ルシアンが言葉を返そうとした瞬間、広間の重厚な扉が勢いよく開け放たれた。サイラスが悠然とした大股で広間に足を踏み入れる。
 
「サイラス……どこをほっつき歩いていたんだ」
 
 バルザードが呆れを隠さずに問うと、サイラスは悪びれる様子もなく、身振り手振りで仰々しく説明した。
 
「いやいや、私はルシアンを探していたんですよ。迷子になったと思って」
「はぁっ!? 何を言ってるんですか!? 勝手にいなくなったのはあなたですよ!? サイラス殿!」
 
 ルシアンは顔を紅潮させ、信じられないものを見るような目で大きく反論した。
 バルザードは、いつもの二人のやりとりに大きな溜息を吐いた。
 
「まったく……サイラスお前というやつは。ルシアンを振り回すのはやめてくれ」
「失敬!」
 
 そう言ってサイラスはバルザードの近くまで歩み寄り、周囲に聞こえぬよう声を低くして耳打ちした。
 
「それから……探していたものは見つかりました」
 
 バルザードは驚きに目を見開き、サイラスを凝視した。
 
「!? ……それで、生きて……いるのか?」
 
 王としての威厳を忘れ、まずはその安否を確認する。サイラスは口角をわずかに上げ、少しもったいぶったように答えた。
 
「えぇ……」
「連れてこなかったのか?」
 
 バルザードの問いに、サイラスは肩をすくめる。
 
「それが。ティーフリングの女と傭兵ごっこをしているようでした」
「ほう……」
「ですが、間もなくエストレアには来るかと」
「そうか……早く会いたいものだな」
 
 バルザードは、胸の奥で燻っていた火種が燃え上がるような、薄く冷ややかな笑みを浮かべた。
 
「一体どちらにいらっしゃったんですか?」
 
 ルシアンの問いに、サイラスは悪戯っぽく軽く両手を広げてみせた。
 
「ギルド方面だ。あの深い谷を自力で登ったんだろう。タフなやつだ」
「本当に本人で間違いないんですか?」
 
 ルシアンは疑わしげに目を細めた。谷を登るほどの猛者など、にわかには信じがたいのだろう。
 
「なーんだよ、疑ってんのか? 安心しろ、えれぇべっぴんさんだったぜ、本物だ」
「サイラス、まさか手を出していないだろうな?」
 
 バルザードが鋭く睨みつけると、サイラスは「何を冗談を」とでもいう風に呆れて首を振った。
 
「まさか! 王妃となる御方に」
「待ちきれないな……」
 
 バルザードは、まだ見ぬ将来の花嫁を夢想するように、虚空を眺めた。
 
「サイラス、この話はまだ内密に。連中が何か仕掛けてくるかもしれん」
 
 バルザードは、穏健派の暗躍に鋭い視線を向ける。若き王に従わぬ者たちが、城内にも多く巣食っているからだ。
 
「分かりました。私の方でも色々見ておきましょう」
 
 サイラスは、先までの軽薄さを消し去り、厳しい顔で静かに頷いた。
 嵐の前の静けさが、エストレアの夜をより深く冷たく塗り潰していく。

 *

 エルセリカとヴァルカは旅支度を整えると、ようやくエストレアへと向けて出立した。
 国境の村外れで、二人は偶然通りかかった行商人の馬車に厚意で乗せてもらうことになった。揺れる荷台の上、埃っぽい風を浴びながら、エルセリカは隣に座るティーフリングに視線を向けた。

「ヴァルカはエストレアに行ったことあるのか?」
「いや、初めて行くよ。でもずっと前から行ってみたかったんだ!」

 ヴァルカの顔には、まるで遠足を楽しみにする子供のような無邪気な輝きがあった。その明るさに触れ、エルセリカの凍てついていた心にも小さな温もりが宿る。

「ヴァルカって好奇心旺盛なんだな」
 
 エルセリカがくすりと笑うと、ヴァルカは不服そうに頬を膨らませた。
 
「あ! いまちょっと馬鹿にしただろ!」
「気を悪くしたのならすまない。あまりにも可愛かったから」

 不意を突かれたのか、ヴァルカの顔が朱に染まった。
 
「その……可愛いとかやめろよ……」
 
 照れ隠しに小さく呟くヴァルカに、エルセリカは自分の何気ない一言が彼女を傷つけたのではないかと瞬時に焦り、青ざめた。
 
「嫌だったか? すまない」

 エルセリカは悲痛な面持ちで謝罪を重ねたが、ヴァルカは頑なに横を向いたまま、沈黙を守っている。エルセリカは猛省した。これから命を預け合う大切な旅路の仲間に対し、自分はなんて無神経な振る舞いをしてしまったのだろうと。
 しかし、ヴァルカの沈黙は怒りではない。胸の内で渦巻くのは、エルセリカに向けられた隠しようのない熱情だった。

(……可愛いのは、エルの方だ)

 孤独な傭兵として生きてきたヴァルカにとって、エルセリカのように裏表なく、真っ直ぐに魂をぶつけてくる人間は初めての存在だった。最初はただの偽善で手を差し伸べただけだったはずが、今では彼女への愛情が、自分でも制御できないほどに募っている。
 
(あたし、たぶん……エルに恋してるんだ)

「なぁ、エル。エストレアに着いたらどうするんだ?」
 
 ヴァルカは胸の奥で高鳴る鼓動を必死に押し殺し、努めて冷静な声音で問いかけた。
 
「ん? そうだな。まずは市内を少し観察しよう。何かあったときの退路も確認しておかないとな」

 エルセリカは、ヴァルカが怒っていないことに安堵し、騎士らしくきっぱりと答えた。ヴァルカは呆れたように肩をすくめる。
 
「っかー! なんだよ、せっかく新しい土地なんだからちょっとくらい観光しても良いのに」
「ヴェルダンテ王や騎士団の命も懸っているのだ。遊んでいる余裕はない」
 
 エルセリカの声は鋭く、まるで自分自身に言い聞かせるように硬質だった。
 
「でもさ、変じゃない? ヴェルダンテはもう制圧されて、戦争は3ヶ月も前に終わってるのに王も騎士団も処刑されてないなんて」

 エルセリカは言葉を詰まらせた。それは、彼女自身が夜毎問いかけていた疑念そのものだったからだ。
 
「それも確かめるまでだ」
 
 彼女は右手を胸にそっと当て、揺るぎない覚悟を示すように力強く頷いた。

 やがて馬車が橋の手前で止まり、行商人が困った顔で振り返った。
 
「お嬢さんたち、どうやら荷物検査でだいぶ混んでいるようだ。申し訳ないが、ここからは歩いて行ってくれ」
 
 馬車を降りると、そこにはエストレアへ入国を望む長蛇の列が伸びていた。徒歩で正門へと向かう二人の前では、厳格な衛兵が通行証の確認を行っている。

「通行証か……」
 
 遠くから眺める衛兵の険しい顔つきに、ヴァルカが不安げにサイラスから渡された紙切れを取り出した。
 
「おっさんも通行証の話なんかしてなかったよな? もしかしたらこれを見せろってことだったのか?」
「まさか、そんなメモに?」
 
 エルセリカもポケットからメモを取り出す。そこにはサイラスの名前と、彼の風貌とは不釣り合いな不細工なハートマーク。だが不思議と、その紙切れから絶対的な自信が漂っているように見えた。

 二人は意を決して列に並んだ。番が来ると、衛兵は無機質な声で促した。
 
「通行証を」
「すまない、通行証がないんだ」
 
 エルセリカの説明に、衛兵は冷たく言い放った。
 
「通行証がない? では通せない。帰れ」
「これじゃダメかな?」
 
 ヴァルカがメモを差し出すと、衛兵はそれを手に取り、しばらく眺めた。そして急にその強張った表情が崩れ、柔和な笑顔に変わった。
 
「どうぞお通りください。ようこそエストレアへ」

 入国を促され、二人は呆然と互いの顔を見合わせた。
 
「ただの名前が書いてあるだけじゃないか。そんな有名なのか、あのおっさん」
「こんなサイン、いくらでも偽造できるのに……」
 
 腑に落ちない思いを抱えつつも、エストレアのそびえ立つ城を見上げて足を速める。城の警備は予想以上に堅牢で、至る所で魔力を動力源とした無骨な「魔動機」が巡回していた。先の大戦でエルセリカを苦しめた技術の産物だ。正面突破は不可能だと悟り、一旦作戦を練り直すために城下町の広場へと向かった。

 そこは、魔法図書館や魔道具店が立ち並ぶ、見たこともない先進的な文明の街だった。幼い子供ですら魔力を操り、物を浮かせている。
 
(これが……エストレア)
 
 圧倒的な技術の隔絶を目の当たりにし、ヴェルダンテが敗北した理由を突きつけられたような喪失感が、エルセリカの胸を刺した。

「なーなー! エル、ここちょっと見てみようぜ!」
 
 ヴァルカに促され、魔道具店に足を踏み入れる。中には多くの客で溢れ、光り飛び交う魔動機のサンプルに目もくらむほどだ。ヴァルカは目を輝かせ、店の真ん中にある卵型の魔動機へと突進していった。
 
「待て、ヴァルカ!」
 
 エルセリカはやれやれとため息をつきつつ、ふと棚に置かれた繊細なガラス細工の魔動機に目を留めた。
 あまりにも美しい輝きを放っていたため、思わず手に取ってみた。
 
「そちらは自身の魔力を溜めて置ける魔動機でございます」
 
 いつの間にか隣にいた店員に声をかけられ、エルセリカは慌てて商品を戻した。
 
「まぁ! 『月夜』の方でございましたか。いつも御贔屓に」
 
 恭しく礼をされ、訳の分からぬ居心地の悪さに、早々にその場を立ち去ることにした。
 
「エル! すげぇぞ! あのタマゴに人が入って手足を動かせるんだ!」
「そうか……」
 
 無邪気なヴァルカの声とは裏腹に、エルセリカの声は影を落としていた。
 
「エル? どうした? 疲れたか?」
「あぁ……少し熱気が凄くてな」
「いったん外に出るか」
 
 ヴァルカはエルセリカの肩を支え、人混みから彼女をかばうようにして屋外へと連れ出した。
 冷たい風が吹き抜ける通りで、エルセリカは肩の力を抜いて深く息をついた。
 
「ふぅ……なんの参考にもならなかったな……」
 
 エルセリカは、やりきれなさを噛み殺すようにぽつりと呟いた。
 そんな彼女の様子に気づき、ヴァルカは申し訳なさそうな顔で俯いた。
 
「悪かったって」

 ヴァルカは申し訳なさそうに俯いた。
 そのひたむきな気遣いに、エルセリカは自責の念を抱いた。
 
「いや、いいんだよヴァルカ。私の我儘に付き合わせてすまない……」
「……エストレアに入ってから、エルずっと暗いから。あたし、エルの笑顔が好きだから……」
 
 ヴァルカは照れくさそうに視線を逸らした。
 思わぬ言葉に、エルセリカは心臓が跳ねるのを感じた。ヴァルカの瞳には、切実で純粋な情が宿っている。
 
「あ、あ、ありがとう」
 
 彼女は真っ赤に染まった顔を隠すように視線を彷徨わせ、ようやく絞り出すように小さく微笑んだ。
 
「嬉しい……」
 
 恥ずかしさに頬を赤らめ、はにかむエルセリカ。
 その可憐な表情を間近で見たヴァルカは、途端に自分の方が気恥ずかしくなってしまった。
 
「あたし! 飲み物買ってくる!!!」

 ヴァルカは顔を真っ赤にして、逃げるように店の方向へと駆け出していった。
 
(ヴァルカ……)
 
 エルセリカは、その背中を愛おしげに見守る。
 
(ヴァルカのためにも、早く決着をつけなければ)

 そう決心し、再び前を向いたその瞬間だった。
 
「よう! 早かったな、迎えに来たぜ」

 エルセリカが声のした方を振り返ると、そこには先日別れたばかりの、あの不敵な男――サイラスが立っていた。
 彼の背後には、機械的な魔動機の足音が、冷徹な秩序とともにエストレアの広間に響き渡っていった。

第六章 レジナルド・ヴィ・ヴェルダンテ

 エストレア城へ足を踏み入れた瞬間、エルセリカは背筋を走る冷たい違和感を覚えた。石造りの荘厳な外観とは裏腹に、城内の回廊は無機質な魔導機が発する低周波の駆動音に満ちている。まるで巨大な機械の胎内に迷い込んだかのような閉塞感。エルセリカは隣を歩くヴァルカと視線を交わし、互いに警戒を強めた。

 先導するサイラスは、二人の緊張など意に介さぬ様子で軽妙に語りかける。
 
「そういえば、都市部で渡したあのメモ、役に立ったろ?」
 
 それは衛兵たちを問答無用で黙らせるための、高位魔法を施した紙だったらしい。
 
「お前らに通行証の発行ができるなんて期待していなかったからな」
 
 サイラスは肩越しに振り返り、悪びれもせず笑ってみせる。
 
「結局、最初から最後まであんたの手のひらで転がされてたのかよ」
 
 ヴァルカが苦々しい表情で毒づく。しかし、エルセリカは一言も発さなかった。ただサイラスの背中を、射抜くような鋭い眼差しで睨みつけていた。

 エルセリカから放たれる殺気——かつて戦場を駆け抜けた騎士の気配に、サイラスはふと足を止め、苦笑混じりに振り返る。
 
「エル、そんな険しい顔すんなって。言ったろ? 王と騎士団は大丈夫だって」
 
 その声は驚くほど優しかった。だが、エルセリカの決意は揺らがない。
 
「……この目で皆の無事を見るまでは、お前を信用できない」
 
 毅然とした声音。ヴァルカは心配そうにエルセリカの横顔を覗き込み、自身の剣の柄を握り直した。
 その時、廊下の向こうから柔らかな光を纏ったような青年が歩み寄ってきた。
 
「サイラス殿……。こちらの方が、まさか……」
 
 青年は、エルセリカの姿を認めるなり、息を呑むような表情で歩みを止めた。
 
「ルシアン! 良いところに!」
 
 サイラスは好機とばかりに、大仰な動作でルシアンを手招きする。
 エルセリカは、目の前に立つ青年の顔を見て、言葉を失った。
 自分と同じ、月の光をすくい上げたような銀髪。エメラルドの瞳。鏡を見るような錯覚すら覚えた。
 驚愕に沈黙するエルセリカに、ルシアンは穏やかな微笑みを向ける。
 
「エルセリカ様ですね。お初にお目にかかります。僕はルシアン・ヴァン・エステラールと申します」
 
 ルシアンが友好的に手を差し出す。エルセリカは一瞬戸惑ったが、その瞳に宿る澄んだ光に敵意がないことを悟り、意を決してその手を取った。

 掌が重なった瞬間、エルセリカの全身に戦慄が走った。
 体内の魔力が共鳴し、何か懐かしい熱が腹の底から湧き上がってくる。それは決して毒のような感覚ではなく、長い間、記憶の霧に閉ざされていた「故郷」の温もりに触れたかのような——。
 
(何故だろう……初めて会ったはずなのに、昔から知っているような……)
 
 握手を終えても熱は消えず、エルセリカは胸に手を当て、そっと目を瞑った。

「はは! お前ら並ぶと姉弟みたいだな!」
 
 サイラスが茶化すように笑う。
 
「月夜の民は、ほぼみんな家族みたいなものですから」
 
 ルシアンが静かに答える。
 
「そいつは良かった。エルも寂しがらずに済みそうだ」
 
 サイラスの含みを持たせた物言いに、エルセリカは再び鋭い視線を投げつける。
 
「……どういう意味だ?」
「おっさん、何を企んでやがる?」
 
 ヴァルカがエルセリカを庇うように一歩踏み出した。
 
「取り敢えず、まずはうちの王様にあってくれ。話はそれからだ」
 
 サイラスは面倒事を避けるように歩き出し、ルシアンもまた、静かな所作でエルセリカたちを促した。

 *

 エストレア城の大広間は、静寂と圧迫感に支配されていた。
 両脇に整列した騎士団の無機質な視線を浴びながら、エルセリカとヴァルカは玉座の前へと引き立てられる。
 玉座に座していたのは、漆黒の髪を持つエストレアの支配者、バルザード・デル・エストレアであった。

 サイラスとルシアンが膝をつく中、バルザードがゆっくりと立ち上がる。
 静かに二人の側へ道が作られ、バルザードがエルセリカの正面へと歩み寄る。ヴァルカは野獣のように腕を組み、いつでも跳びかかれる姿勢をとった。

「私はエストレア王国国王、バルザード・デル・エストレアだ」
 
 重厚な声が広間に響く。バルザードはエルセリカを値踏みするように見つめ、不敵に口角を上げた。
 
「待っていたぞ、ヴェルダンテ王国王女」

 その言葉に、エルセリカは一瞬たじろいだが、直ちに強く首を振った。
 
「違う。私はヴェルダンテ王国騎士団、副団長エルセリカ・ヴィ・セレストだ!」
 
 エルセリカが腰の剣に手をかける。ヴァルカも即座に武器を構え、周囲の兵士たちも一斉に剣を抜いて大広間は殺気で満ちた。
 サイラスが割って入ろうとするが、バルザードが片手を挙げ、彼を制した。

「ふっ。血気盛んな女だな」
「ヴェルダンテの生き残りとして、最後まで戦うつもりだ。今すぐ、ヴェルダンテ王と騎士団を解放しろ!」
 
 エルセリカは剣を抜き放ち、バルザードの喉元へ鋭い切っ先を向けた。
 
「その美貌があればヴェルダンテ王女として優雅な暮らしができていたものの……可哀想にな」
 
 バルザードは、理解できないものを見るような冷ややかな目で嘲笑う。
 
「ヴェルダンテは降伏した。今ここで私を殺しても、国が復活するわけではないが?」
「私は屈しない!」
 
 エルセリカの叫びに応えるかのように、兵士たちの甲冑が鳴る。

「では、交渉といこうか」
 
 バルザードは冷徹に言い放つ。
 
「ヴェルダンテ王女として私と婚約しろ。エストレア王妃となれ。そうすればレジナルドと騎士団は釈放してやる」
「なっ……」
 
 エルセリカとヴァルカの声が重なった。
 
「拒むのであれば、ヴェルダンテの戦犯たちは直ちに処刑するのみだ」
 
 それは選択の余地などない、一方的な死刑宣告だった。
 
「私は……王女ではない……! 王女はイゾルデ様だ……!」
 
 絞り出すようなエルセリカの剣先が、カタカタと小さく震えた。
 
「ふっ。ヴェルダンテはつくづく変な連中だ。あんな偽物を王女として担ぎ上げねばならんとは」
 
 バルザードは呆れ果てた様子で吐き捨てると、サイラスに合図を送る。
 
「返事は待ってやろう。まずは、父親との再会を喜ぶんだな。私も無慈悲ではない」
 
 数人の護衛を伴い、バルザードは大広間を後にした。

 エルセリカは、虚空へ剣を向けたまま、氷の像のように立ち尽くしていた。
 
 (私は……私は……)
 
 ヴァルカがそっとエルセリカの腕を下ろし、剣を鞘へ収めさせた。
 
「おっさん……あんたの狙いは、最初からこれだったのかよ」
 
 ヴァルカの問いに、サイラスは何も答えず、背中を向けたまま告げた。
 
「……ヴェルダンテ国王のところに案内する。ついてこい」

 案内された先は、豪華な客室だった。そこには顔見知りの大臣や使用人たちが不安げな面持ちで控えていた。
 
「エルセリカ様、よくぞご無事で……」
 
 エルセリカもまずは皆が生きていたことに安堵した。
 
「レジナルド様は?」
 
 エルセリカは大臣に訊いた。
 
「奥の寝室に。心労もあり……今は……」
 
 その声の響きだけで、レジナルドの容態が決して芳しくないことをエルセリカは察した。やがて使用人が寝室から顔を出し、レジナルドが面会を許可したことを告げる。

 薄暗い寝室へ踏み入れると、そこには痩せ細った老王の姿があった。
 
「あぁ……あぁ……待っていた、待っていたぞ」
 
 レジナルドが震える手で起き上がろうとするのを、大臣が慌てて支える。
 
「エルセリカ、我が娘、よく戻ってきてくれた」
 
 その声を聞いた瞬間、エルセリカの心で何かが音を立てて崩れた。
 副団長としてヴェルダンテを守りきれなかった不甲斐なさ。実の父であるレジナルドと、本当の父娘として過ごせなかった長い空白の年月。そして、決して叶うはずがないと諦めかけていた、こうして生きて父と再会できたという奇跡。
 
「……お父様!」
 
 エルセリカは堰を切ったように泣き叫び、レジナルドの胸に飛び込んだ。
 副団長として、騎士として、常に冷静で大人しかった彼女が、誰の目も気にすることなくただの娘として声を上げて泣きじゃくる。ヴァルカたちも、そのあまりに純粋で悲痛な再会を、ただ静かに見守るしかなかった。

「父親として、何もしてやれなくて申し訳なかった……」
 
 レジナルドが震える手でエルセリカの頬を撫でる。
 
「……もうお前の自由に生きなさい」
 
 その慈愛に満ちた言葉が、エルセリカの心の深淵に深く刻み込まれる。
 彼女は顔を上げようともせず、ただ溢れ出る涙で父の服を濡らしながら、喉が張り裂けんばかりに泣き声を上げ続けた。それは彼女が初めて世界に対して示した、ありのままの感情の咆哮であった。

 *
 
 病床のレジナルドを静かに休ませるため、一行は重苦しい沈黙を引き連れて別室へと移動した。
 広い客室に入った瞬間、ヴァルカはたまらずといった様子で、震えるエルセリカの肩を強く抱き寄せた。
 
「大丈夫か?」
 
 向けられたのは、粗暴な外面からは想像もつかないほど柔らかな、慈しみに満ちた声だった。
 
「ありがとう……もう、大丈夫だ」
 
 エルセリカはヴァルカの腕の中で小さく頷き、彼女を見上げた。ヴァルカは大きな手で、エルセリカの火照った頬を優しく撫でる。
 ひどく涙を流したせいだろう、エルセリカのエメラルドの瞳は赤く腫れ、痛々しいほどだった。ヴァルカはその顔を見て、今度は壊れ物を扱うような慎重さで、しかし力強く、彼女を再び抱きしめた。エルセリカもまた、ヴァルカの厚い胸板に顔をうずめ、安らぎを求めるように深く息を吐いた。

 その光景を、少し離れた場所からサイラスとルシアンが眺めていた。
 
「サイラス殿……」
 
 ルシアンが眉をひそめ、戸惑いと疑問が混ざり合った複雑な表情をサイラスに向ける。
 
「なんだ?」
 
 サイラスは視線をエルセリカたちに固定したまま、低く短い声で応じた。
 
「この婚約は……果たして、最善策なのでしょうか?」
 
 ルシアンの問いは、騎士としての正義感と、エルセリカへの同情から漏れ出た本音だった。
 
「最善策だ」
 
 サイラスは迷いなく、冷徹なまでに言い切った。その横顔には、これまでにない険しさが刻まれている。
 
「この国……いや、バルザードだけじゃない。エルセリカにとっても、だ」
 
 その言葉の真意を測りかね、ルシアンはそっと口をつぐんだ。そして、寄り添い合う二人の女性を、祈るような目で見守るしかなかった。

「さて、エルセリカ」
 
 サイラスは雰囲気を断ち切るように二人のもとへ歩み寄り、ぶっきらぼうに告げた。
 
「次は騎士団だ。ついてこい」
 
 返事も待たず、彼は部屋の扉を勢いよく蹴り出すように開けた。
 
「……チッ」
 
 ヴァルカが派手に舌打ちをしたが、エルセリカの肩を支える手だけは離さず、サイラスの背を追った。ルシアンもまた、静かな足取りでその後に続いた。

 案内されたのは、冷たい湿気が立ち込める地下牢だった。幾重にも並ぶ牢獄の奥で、サイラスが足を止める。
 
「よう。元気か?」
 
 軽薄な問いかけに対し、鉄格子の向こうからは沈黙だけが返ってきた。囚われた人々は、憎悪に満ちた眼差しでサイラスを睨みつける。
 サイラスはそんな騎士たちの態度を鼻で笑うと、エルセリカを促した。
 エルセリカが、震える足で鉄格子へと歩み寄る。
 
「みんな……」
 
 その掠れた声が響いた瞬間、牢内の空気が一変した。
 
「!……エルセリカ……さま!?」
「副団長!?」
 
 次々と人影が立ち上がり、すがるように鉄格子へと駆け寄ってくる。
 
「あぁ、エルセリカ様! 生きていらっしゃったのですね!」
 
 部下たちの嗚咽混じりの声を聞き、エルセリカの胸にようやく安堵が広がった。
 
「長い間、すまなかった。お前たちが生きていてくれて、本当に良かった」
「助けに行けず、申し訳ありませんでした!」
 
 格子越しに、エルセリカは騎士たちの節くれだった手を取り合った。かつての精鋭たちは、獄中生活で見る影もなくやせ細っている。その無惨な姿に、彼女の心はナイフで抉られるような痛みを覚えた。

 騎士たちがこれまでの過酷な日々や再会の喜びに沸く中、歓喜の渦から遠く離れ、牢の奥深くから冷ややかに様子を伺う一人の男がいた。
 サイラスはその影に目を留める。彼はルシアンに目配せしてエルセリカたちの保護を頼むと、一人その男のもとへ歩み寄った。
 
「お前さんも、再会を喜んだらどうだ?」
 
 皮肉げな笑みを浮かべ、鉄格子越しに声をかける。しかし、男は一言も発さず、ただ殺意の籠もった眼光でサイラスを射抜いた。
 
(……やはり、こいつだったか)
 
 確信を得たサイラスは、内心の冷笑を隠して再びエルセリカたちのもとへ戻った。

「とりあえず、今日はここまでだな」
 
 サイラスの通る声が、広がる再会の喜びを無情に切り裂いた。その場にいた全員が、弾かれたように口をつぐむ。
 
「エルセリカ、どうだ? ちゃんと生きていただろう?」
 
 俺が嘘をつかなかったことが証明されたな、と彼はエルセリカを追い詰めるように身を乗り出した。エルセリカは唇を噛み締め、何も答えなかった。
 
「ついてこい」
 
 行き先も告げず、サイラスが踵を返す。
 ヴァルカが怒りを露わに詰め寄ろうとしたが、エルセリカがその腕を静かに制した。彼女は無言のまま、サイラスの後ろに従った。ヴァルカは騎士たちが心配そうに見守る視線に背中を焼かれながら、再度舌打ちをして彼女の後に続いた。

 城外へ出ると、冷たい夜風が吹き抜けた。
 
「おい、おっさん! どこまで連れていくつもりだ!」
 
 後方から響くヴァルカの怒号を、サイラスは背中で受け流して立ち止まろうとはしない。
 しばらく歩いた先に、月明かりに照らされた朽ちた庭園があった。城内でありながら、誰の手入れも届いていない打ち捨てられた場所。
 だが、その庭園に足を踏み入れた瞬間、エルセリカは息を呑んだ。

 闇の中で、一面に白い花々が揺れていた。
 
「これは……」
「月下美人だ。夜にしか咲かない花らしい。俺はそんなに詳しくないがな」
 
 サイラスはどこか遠くを見るような目で呟いた。
 
「ハハッ! 確かにおっさんにゃ、花なんてガラじゃねえもんな!」
 
 ゲラゲラと笑うヴァルカを尻目に、サイラスはエルセリカの正面に向き直った。その表情は、今夜の誰よりも真剣で、重かった。
 
「エルセリカ。エストレア王妃になる決心は、できたか?」
「私は……」
 
 エルセリカは言葉を詰まらせた。
 病床のレジナルド、やせ細った部下たち。そして今、すぐ隣で自分を案じているヴァルカ。
 ようやく巡り会えた彼らと、再び、そして永遠に離れなければならない。その予感が、彼女の心を引き裂こうとしていた。
 
「もう一度確認するが……。お前が拒否すれば、連中の命はないと思え」
「てめえ……っ!」
「ヴァルカ」
 
 激昂し剣の柄に手をかけるヴァルカを、エルセリカが必死に宥める。
 
「エル……よく考えてくれよ。あのじいさんも言ってたじゃないか、自由に生きろってさ……」
 
 ヴァルカが、今にも泣き出しそうな、すがるような目をした。
 
「あたしは……ずっと……ずっとエルセリカと一緒に、旅がしたいんだよ……」
 
 その剥き出しの本音に、エルセリカの視界が歪んだ。自分だって、同じ気持ちだった。彼女の傍で、この世界を歩いていきたかった。

「ヴァルカ、ありがとう……」
 
 エルセリカは、ヴァルカの温かい体を強く抱きしめた。
 
「私も、ヴァルカのことが大好きだ。ずっと、一緒にいたい」
「エル……!」
 
 ヴァルカが喜びの色を浮かべ、彼女の背に手を回そうとした——その瞬間。
 エルセリカは渾身の力でヴァルカの胸を突き放し、距離を取った。
 
「……すまない」
 
 そして、決然とした顔でサイラスを見据えた。
 
「私は、バルザード・デル・エストレアと婚約する」

 ヴァルカは、信じられないものを見たように絶句した。
 
「……本当に、いいんだな?」
 
 サイラスが念を押すように問いかける。
 
「ああ。その代わり、約束通り父と騎士団は解放してくれ」
「騎士団は解放する。だがレジナルドは……見た通り、容体が深刻だ。この城で看取ることになるだろう」
「……分かった。構わない」
 
 もはや動かすことすら叶わぬ父の姿を思い出し、エルセリカは深く頷いた。

「そんな……そんなのってねえよ……!」
 
 ヴァルカが、崩れ落ちるように叫んだ。
 
「エル、もう一度考え直してくれよ! お願いだ!」
 
 彼女はエルセリカの肩を掴み、喉を枯らして絶叫した。しかし、エルセリカはその手を静かに外した。
 
「ヴァルカ、すまない……。私には、かつての仲間を見捨てることなどできない!」
 
 その悲痛な拒絶に、ヴァルカは力なく項垂れた。
 
「エルセリカ。最後にもう一度聞く。本当に、それでいいんだな?」
 
 サイラスの問いに、エルセリカはただ一言、迷いのない声を返した。
 
「……ああ。よろしく頼む」
「……分かった。今日は城に一室用意してある。俺は王に報告してくる。ルシアン、二人を案内してやれ」
「お二人とも……こちらへ」
 
 ルシアンは二人を刺激しないよう、慎重に距離を保ちながら歩き出した。

 *

 客室への案内を終えたルシアンは、静まり返った回廊でサイラスと合流した。
 
「どうだ? 二人とも、休んだか?」
「はい。明朝、お部屋へ伺う旨もお伝えしました」
 
 ルシアンの短い報告に、サイラスは小さく頷いた。
 
「バルザードは喜んでたぜ。なんせ、あんなに美しい王妃をもらうんだからな」
 
 ニヤニヤと笑うサイラスに対し、ルシアンの視線は冷ややかだった。
 
「サイラス殿……僕は、エルセリカ様の胸中を考えると、とても素直に喜ぶ気にはなれません」
「なんだよ。王宮魔導士として仕えるなら、美しい王妃様の方が景気がいいだろ?」
 
 サイラスはルシアンの肩を気安く抱き寄せたが、次の瞬間、その声から温度が消えた。
 
「……明日、オルディナでヴェルダンテ騎士団を解放する手はずになっている」
 
 仕事の時の、低く冷たいトーン。ルシアンは姿勢を正してサイラスを見つめた。
 
「長髪の騎士がいただろう。解放後、あいつに偵察をつけろ」
「……分かりました」
 
「それと、イゾルデも『ただの市民』としてオルディナで放り出すことが決まった。あいつにも、念入りに偵察をつけろ」
「……分かりました」
 
 ルシアンの心は、晴れない。
 
「安心しろ。エルセリカが正式に王妃となれば、今度は俺たちの側から守れるようになる」
「……僕が心配しているのは、ヴァルカ様のことです。彼女はどうなるのですか?」
 
 サイラスは一瞬、きょとんとした顔をした。
 
「あ、悪い! そこまで考えてなかった!」
 
 ルシアンは今日一番の深い溜息をついた。
 
「僕は、いずれ彼女を必要とする時が来ると思います。エルセリカ様の心が折れる前に」
「分かった、分かったって! ヴァルカの動向も追跡するようにしとくよ」
 
 サイラスは小さく息を吐き、頭を掻いた。
 
「……ありがとうございます」
 
 ルシアンは、ようやく微かな微笑を浮かべた。
 窓の外では、エストレアの冷たい月明かりが、城内の無機質な床をどこまでも白く照らし出していた。

第七章 イゾルデ・ヴィ・ヴェルダンテ

 ルシアンによって案内された客室に足を踏み入れたエルセリカとヴァルカは、終始、重苦しい無言を貫いていた。
 ルシアンが「明日の朝、お迎えに上がります」と、二人の心情を慮るように控えめな声音で告げた時も、エルセリカはただ、感情の抜け落ちた声で短い二つ返事を返すことしかできなかった。

 あつらえられた部屋は、客室とは思えないほど豪奢な造りで、そこには天蓋付きの大きなベッドが二つ、不自然なほどの距離を保って並べられていた。
 
 主を失った人形のように、二人はそれぞれ別のベッドの端に腰を下ろす。互いに背を向けたまま、シーツに沈み込む体温だけが、静寂の中で際立っていた。

 エルセリカは、暗い天井を見つめながら、ヴェルダンテの崖から転落したあの運命の日からの記憶を、濁流に呑まれるように思い返していた。
 
 生き延びるために泥をすすり、必死で足掻いた孤独な日々。その荒野の中で出会った、粗暴だが誰よりも温かい肌を持ったヴァルカ。胡散臭い笑みの裏に底知れぬ企みを隠した魔導士サイラス。そして、自らを奈落へと突き落としたバルザードとの冷徹な対面と、やせ細った騎士団、そして実父レジナルドとの涙の再会。

 思いは更に、過去の記憶の深淵へと遡っていく。
 
(もし私が……あの時、ヴェルダンテの王女として生きる運命を受け入れていたなら、こんなことにはなっていなかったのだろうか……)
 
 胸を焦がすような悔恨が、苦い不味汁のように喉元までせり上がってくる。
 
 初めて己の出生の秘密、そのあまりに重い境遇を明かされたのは、他ならぬヴェルダンテ王国騎士団の副騎士団長就任式の直後だった。若き日のエルセリカには、あまりに突然の宣告だった。自分の血と汗で掴み取った『騎士』という未来と、血脈という逃れられぬ『責務』を天秤にかけたとき、彼女はただ、一人の人間として自由であることを望み、決断を保留にしてしまった。その結果が、この凄惨な破滅と、大切な人々を人質に取られるという最悪の結末だった。

 エルセリカが深い思索の檻に囚われていると、夜の静寂を切り裂くように、ヴァルカが胸の奥底から絞り出すような、大きなため息をついた。その重苦しい響きに弾かれたように、エルセリカはベッドサイドから立ち上がり、吸い寄せられるようにヴァルカの元へと歩み寄った。

「ヴァルカ……いままで、本当にありがとう」

 エルセリカは、今にも決壊して溢れ出しそうになる涙を必死に堪え、震える声でお礼を言った。
 しかし、ヴァルカはその大きな背中を丸めたまま、頑なにエルセリカの方を向こうとはしなかった。赤黒い肌が、窓から差し込む月光を浴びて鈍く光っている。
 
「お前のことが好きだというのは、本心だ。そこに、一滴の嘘もない」
 
 重なるエルセリカの告白に対しても、ヴァルカはぴくりとも動かず、何も答えなかった。
 しばらくの間、二人の間には張り詰めた沈黙だけが流れた。客室の大きな窓の外は、雲一つない夜空が広がっており、冷徹なまでに冴え渡った月明かりが、エストレアの巨大な城郭を白々と照らし出していた。

「……最初から、分かってたんだ」

 地を這うようなヴァルカの声が、ようやく静寂を破った。
 
「いつか、こんな別れが来るってことくらいさ。オルディナで無理やりついていったのも、全部あたしの我儘だったんだから」
「ヴァルカ……っ」
 
 その健気な諦めの言葉に、エルセリカの目から、堰を切ったように熱い涙がこぼれ落ちた。
 
「ようやく、エルの本当の気持ちが聞けたってのによ……」
 
 エルセリカは溢れ出る嗚咽を堪えるように、両手で固く口を押さえた。その華奢な肩が激しく上下するのを見て、ヴァルカはゆっくりとベッドから立ち上がり、エルセリカの元へと歩み寄った。

「エル、守ってあげられなくて、ごめん」

 ヴァルカの太い腕が、エルセリカの体を包み込むように強く抱きしめた。エルセリカはヴァルカの広い胸の中に顔をうずめ、言葉にならない悲痛を乗せて、何度も何度も首を横に振った。あなたが悪いわけではない、と伝えるように。
 
「あたしは、どんなに離れても、いつもエルのこと想ってるから。だから、待っててくれ」
「うぅ……う、ヴァルカ……っ!」
 
 ヴァルカは大きな指先で、エルセリカの白い頬をつたう涙をそっと拭った。そして、そのまま吸い寄せられるように、エルセリカの唇に己の唇を重ねた。

 別れを惜しむような深い口づけを交わした後、ヴァルカは再びベッドに腰を下ろすと、エルセリカの瑞々しい体を軽々と自分の膝の上へと引き上げ、互いの体温を確かめ合うように抱き合った。見つめ合う二人の視線が絡み合い、どちらからともなく、再び濃厚な口づけが交わされる。ヴァルカの長い舌が、エルセリカの熱い口内を優しく、愛おしむように撫で回した。
 
「ん……っ……」
 
 エルセリカの鼻から、これまでに聞いたこともないような、甘く色っぽい艶声が漏れ出た。

「はぁ……。あたしの方が、エルを先に見つけたってのによ……」
 
 唇を離したヴァルカは、サイラスやバルザードの傲慢な顔を思い出し、苛立ちを隠せない様子で牙を鳴らした。
 
 ヴァルカはエルセリカの体を優しく抱き上げると、シーツの上にそっと横に降ろした。
 情熱的な夜が始まるのかとエルセリカが息を呑んだ次の瞬間、ヴァルカは唐突に身を翻して机に向かい、椅子に座ると、静かに、そして丁寧に手の爪を切り始めた。パチン、パチンと、規則的な音が響く。

「……ヴァルカ?」
 
 先ほどまで甘い口づけを交わしていたというのに、あまりにも突飛で奇妙な行動を始めた相棒に、エルセリカは完全に呆気にとられてしまった。
 
(そう、だな……。もう夜も更けたし……明日の準備もしなければならないし……)
 
 現実に引き戻されたような冷や水に、エルセリカは胸の奥に一抹の心残りを覚えつつも、納得しようとした。

 先にシャワーを浴びて身を清めようかと考え、ベッドの上で衣服のボタンに手をかけ、布地を脱ぎ去り始めた、その時だった。背後から音もなく近づいたヴァルカの大きな影が、野獣のような質量でエルセリカの体に覆いかぶさってきた。
 
「なんだ、エルも結構乗り気じゃん?」
 
 耳元で囁くヴァルカのニヤついた声に、エルセリカは目を丸くした。
 
「え……?」
 
 答えを聞くより早く、ヴァルカの強靭な手がエルセリカの衣服を次々と剥ぎ取り、瞬く間に彼女を完全な一糸まとわぬ姿へと変えていく。
 
「ま、待って、先にシャワーを浴びようと……」
「いいから」
 
 ヴァルカはその制止を短く退けると、窓からの月明かりに照らされて妖しく輝く、白く美しいエルセリカの肌を、先ほど丁寧に整えた指先で愛撫し始めた。
 
「ヴァルカ、くすぐったい……っ」
 
 エルセリカは恥じらいのあまり、肉付きの良い豊かな体を小さく丸めようとする。
 
「エル、隠さないで、もっとよく見せてよ」
 
 ヴァルカは抵抗を許さない強さで、エルセリカの両手首を片手でまとめて掴み、頭の上へと固定した。遮るもののなくなったエルセリカの豊満な乳房としなやかに引き締まった腰のラインが、月光の下で一幅の絵画のように美しく曝け出される。

「ヴァルカ……」
 
 不安と期待の入り混じったエルセリカの声を遮るように、ヴァルカはエルセリカの尖った乳頭を割れ目ごと、その大きな口で深く咥え込んだ。
 
「ん……く、ぅっ!」
 
 ヴァルカはそのまま、エルセリカの豊かな胸から溢れ出るような甘い錯覚を覚えるほどの勢いで、激しくその身を吸い上げていく。
 
「あ……あぁっ、あ!」
 
 あまりの快感に、エルセリカの口から愛らしい悲鳴が漏れ出た。
 
「はぁ……おいしい」
 
 ヴァルカは満足そうに吐息を漏らし、長い舌で自身の唇を妖艶に拭った。

 ヴァルカもまた自身の衣服を荒々しく脱ぎ捨てると、ベッドの上で二人の剥き出しの肉体が激しく重なり合った。ヴァルカの大きな手が、しきりにエルセリカの滑らかな背中や、肉感的な太ももを優しく撫で上げていく。エルセリカも、その情熱的な愛撫に心地良さを感じ、次第に体の奥が熱を帯びていくのを自覚していた。

 やがてヴァルカの手指が、エルセリカの太ももの内側、最も敏感な柔らかい肌をなぞり、そのまま彼女の秘部へと容赦なく押し当てられた。
 
「っ!」
 
 エルセリカの体がぴくんと大きく跳ね上がる。ヴァルカは容赦なく、その繊細な粘膜を指先でしきりに愛撫し続けた。熱い指が擦れるたび、エルセリカの秘部が少しずつ、蜜で濡れていくのが分かった。

 ヴァルカは、十分に濡れそぼったその窄みへと、自身の太い指をゆっくりと割り込ませた。
 
「んあ……あ、うあぁっ!」
 
 侵入の感覚に、エルセリカの声が激しく漏れる。ヴァルカは肉壁を内側から擦り上げるように、容赦なく指を曲げて蠢かせた。
 
「あんっ!」
 
 最奥の痛痒い快感に、エルセリカの体が弓なりに熟れる。ヴァルカは躊躇うことなく、二本目の指をその狭い肉の隙間へと滑り込ませた。同時に、エルセリカの白く柔らかな太ももをガシッと掴むと、それを彼女の胸元へと力任せに押し上げた。

「あ、ヴァルカ……待って、それ……」
 
 片足を無防備に跳ね上げられた姿勢のまま、ヴァルカの指は秘部の最奥、子宮口の直前まで鋭く到達する。
 
「んあぁ……っ、やぁ……あ!」
 
 ヴァルカは容赦ない速度で、エルセリカの奥底から指を激しく出し入れし始めた。ピチャピチャと、淫らな水音が静かな寝室に響き渡り、そのたびにエルセリカの秘部から決壊した愛液が溢れ出していく。

「エル、見てみなよ。もうこんなに濡れて、あたしの指から溢れてるよ」
 
 ヴァルカが耳元で、悪戯っぽく息を吹きかけながら囁いた。
 
「はぁ……っ、んあぁ……っ!」
 
 熱を帯びて、赤く火照ったエルセリカの体をきつく抱きしめながら、ヴァルカは二本の指をさらに激しく、深く突き動かした。エルセリカは快楽の絶頂に翻弄されながらも、ヴァルカの広い背中に必死に手を回し、しがみつこうと爪を立てた。
 そして、エルセリカの秘部の最奥から、我慢しきれなくなった激しい愛液の奔流が、指を伝って一気に噴き出した。

「あ……っ、はぁ……」
 
 エルセリカは顔を耳の裏まで真っ赤に染め、息を荒くした。
 
「ヴァルカ……ごめんなさい、私……」
「ううん。すげえ気持ちよかったんだね、エル」
 
 ヴァルカは満足げな悦びに満ちた表情で、エルセリカの唇に優しく口づけをした。美しい、高潔な女神を己の手で犯し、快楽に溺れさせているという背徳感が、ヴァルカの心に底知れぬ充足感をもたらしていた。

「痛くなかった?」
 
 ヴァルカは枕元の布を手に取ると、エルセリカの体ににじんだ汗や、太ももを汚した愛液を丁寧に拭き取ってあげた。
 
「うん……平気」
 
 優しく体を拭われながらも、エルセリカの火照った体の芯にある熱は、一向に収まる気配を見せなかった。
 
「ヴァルカ……あの、もっと……もっと、触ってほしい……」
 
 エルセリカは恥じらいに顔を伏せながらも、消え入るような声で本音をねだった。
 ヴァルカは布を投げ捨てると、愛おしさに満ちた笑みを浮かべてエルセリカを再び強く、優しく抱きしめた。
 二人は、夜が明けるまで何度も濃厚な口づけを交わし、互いの境界が分からなくなるほどに溶け合っていった。愛し合う二人の女性の美しい肉体を、エストレアの冷たい月明かりだけが、祝福するように静かに照らし続けていた。

 翌朝、遮光性の高いカーテンの隙間から眩しい朝光が差し込む頃、ルシアンは約束通りエルセリカとヴァルカの滞在する客室の前に立っていた。
 ルシアンは衣服を整え、丁寧な所作で木製の扉をノックした。
 
「エルセリカ様、ヴァルカ様、おはようございます。お迎えに上がりました」

 その直後、扉の向こう側から何かをひっくり返したような凄まじい足音と物音が響き渡り、ややあって、静かに扉が細く開いた。
 
「おはよう、ルシアン。すまない、たった今起きたばかりで……」
 
 開いた扉の隙間から顔を覗かせたエルセリカの姿に、ルシアンは硬直した。
 彼女の着衣はひどく乱れており、白いシャツの襟元が大きくはだけて、豊満な胸の谷間が露わになっていたのだ。そればかりか、その白い肌には、誰が見てもそれと分かる生々しい赤みがいくつか浮かんでいる。

 ルシアンは一瞬で事態を察し、その中性的な顔を見る見るうちに真っ赤に染め上げた。
 
「お、おおおお休みのところ、大変申し訳ありませんでした……っ!」
 
 直視してはならないと、ルシアンは弾かれたように回廊の壁の方へと顔を背け、激しく動揺しながら早口で捲し立てた。
 
「す、すぐそこの階段を降りていただいた場所に食堂がございます! 朝食の用意をしてありますので、じゅ、準備が整いましたら、お越しください!」
「わかった。シャワーを浴びたら、すぐに向かうよ」
 
 エルセリカの落ち着いた返事に、ルシアンは何度もぎこちなく頷くと、耳まで赤くしたまま、そそくさとその場から逃げ出すように立ち去っていった。

 エルセリカは軽く息を吐きながら扉を閉めると、ベッドの上で未だに「すやすや」と気持ち良さそうに眠りこけている、大きな相棒の姿を見つめた。
 
 昨晩はあれほど情熱的に自分を可愛がってくれたというのに、今こうして無防備な寝顔を眺めていると、彼女の年齢相応の、どこか幼い愛らしさが見てとれた。
 
「……守ってあげられなかったのは、私の方だな」
 
 エルセリカは、愛しい相棒に向けて消え入るような声で呟くと、そのままシャワー室へと向かい、昨夜の名残を洗い流して身を清めた。

 シャワー室から出たエルセリカは、まだ泥のように眠っていたヴァルカの体を揺さぶって叩き起こし、シャワーを浴びて早く身支度をするよう促した。ヴァルカが不承不承ながらも準備を終えると、二人はルシアンに言われた通り、一階の食堂へと向かった。

 食堂の入り口では、控えていた使用人が恭しく一礼し、二人を奥の席へと案内した。テーブルの上には、焼きたてのパンや色鮮やかな肉料理、スープなど、ほぼ国賓扱いの豪華な朝食が所狭しと並べられている。二人は席に着くと、促されるままに食事に手を付けた。
 
「すげぇ……っ! あたし、こんな豪華な飯、生まれて初めて見たぜ!!」
 
 ヴァルカは黄色い瞳をキラキラと輝かせながら、大皿の肉を次々と口に放り込んでいく。その子供のように無邪気な様子を見て、エルセリカの心にも自然と柔らかい微笑みが浮かんだ。

 すると、食堂の奥から、低く聞き馴染んだ、どこか軽薄な声が飛んできた。
 
「どうだ? 夕べはゆっくり休めたか?」
 
 ニヤニヤとした意地の悪い笑みを浮かべながら、無精髭を撫でて近づいてきたのはサイラスだった。
 
「っけ! 折角の美味い飯が、一瞬でマズくなりやがった!」
 
 ヴァルカは露骨に嫌悪感を示し、頬張っていた肉を咀嚼しながら、サイラスに向かってべっと舌を突き出した。
 
「はは! 元気があって何よりだな、悪魔ッ子」
 
 サイラスはヴァルカの無礼を気にする風でもなく、バクバクと朝食を平らげていく様子を満足そうに眺めた後、視線をエルセリカへと移した。その鋭いブラウンの瞳が、彼女の顔を値踏みするように見つめる。
 
「エルは……少し、疲れているようだな。まぁ、無理もないか」
 
 勝手知ったる風なその気遣いの言葉に、エルセリカはただ黙って視線を落とし、何も答えなかった。
 
「二人とも、食事が終わったらエントランスホールに来てくれ」
 
 サイラスはそれだけを言い残すと、ひらりとマントを翻して食堂を去っていった。エルセリカの胸から、小さく重いため息が漏れる。
 
「何だよあのおっさん、偉そうに命令しやがって!」
 
 ヴァルカはサイラスが去っていった扉に向けて、手にした骨付き肉を突き出して毒づいた。

 食事を終えた二人がエントランスホールへ向かうと、そこには旅支度を整えたエストレアの騎士や魔導士が数人集まっており、その中心にサイラスとルシアンの姿があった。
 ルシアンは二人の姿を認めるなり、小走りで駆け寄ってきた。
 
「お食事は、お口に合いましたでしょうか?」
 
 ルシアンは真摯な面持ちで感想を求めた。おそらく、後に控えるシェフに細かく伝えるためなのだろう。
 
「ああ、あんなに美味い飯は初めてだったぜ! 感謝する!」
 
 ヴァルカがゲラゲラと笑いながら答えると、ルシアンもホッとしたように「それは良かったです」と微笑んだ。しかし、ルシアンの視線はすぐに、エルセリカのどこか憂鬱そうな表情へと向けられた。
 
「エルセリカ様は……何か、苦手なものでもありましたか?」
 
 ルシアンのその心配そうな曇った顔を見て、エルセリカの胸に、妙な罪悪感が湧き上がった。
 思えば、昨日エストレアの王バルザードに剣の切っ先を向け、その場で不敬罪として斬られてもおかしくなかったはずなのに、この城の人間は誰も彼女を咎めず、むしろ優しかった。サイラスの態度はともかくとして、この純粋で親切なルシアンの気持ちまでもを無下にするわけにはいかない。
 
「ありがとう、ルシアン。何一つ問題ない。本当に美味しかったよ」
 
 エルセリカが柔らかい微笑みを向けると、ルシアンは満足そうに目元を和ませた。

「エル、ヴァルカ。こっちはもう、出発の準備ができているぞ」
 
 サイラスの声が響く。その顔は、先ほど食堂で見せたニヤけたものとは異なり、冷徹な『王宮魔導士』としての、冷たい仕事人の顔に戻っていた。
 
「別れの挨拶をするなら、今のうちだ。心残りがないようにな」
 
 サイラスはそう言って、顎で城門の外を指し示し、二人を促した。

 開かれた重厚な城門の前には、荷積みの作業を終えた三台ほどの大きな馬車が並んでいた。その横に、エストレア衛兵の厳重な監視を受けながらも、自由な身となったヴェルダンテ王国騎士団の面々が整列して立っていた。
 エルセリカは、胸を高鳴らせながら彼らの元へと歩み寄った。

「みんな……!」
「エルセリカ様……っ!」

 騎士団の面々は、駆け寄るエルセリカの姿を見るなり、一斉に居住まいを正した。彼らの顔には、エルセリカの本当の出自と、バルザード王との婚約による自分たちの解放という驚愕の事実に対する、複雑な感情が入り混じっていた。
 
「まさか、エルセリカ様が我がヴェルダンテの本当の王女様だったなんて……未だに信じられません」
 
 ヒルダがそのタフな顔を少し歪ませ、信じられないといった様子で呟く。すると、その横からフェリックスが、これ見よがしに鼻を鳴らして胸を張った。
 
「ヘッ! 俺はな、初めてお会いした時から、ただ者じゃないって気づいてたけどな!」
「嘘をつけ、この大ホラ吹きが!」
 
 マルクスが即座にフェリックスの頭をバシッと叩いて突っ込んだ。
 
「お前、魔物討伐の祝賀会の時、調子に乗って真っ先に副団長の頭からビールぶっかけてただろ! 忘れたとは言わせねえぞ!」
「あ、あれは親睦を深めるための、ほら、通過儀礼ってやつで……っ!」
 
 痛そうに頭を押さえるフェリックスと、腕をまくるマルクスの掛け合いに、エルセリカは思わず声を上げて大きく笑ってしまった。涙が滲むほど懐かしい、あの騒がしい日々の記憶。目の前にいる仲間たちが、たまらなく愛おしかった。

「……もう、エルセリカ様と馬を並べて荒野を駆けあうことも、叶わないのですね」
 
 ギゼルが、その凛とした切れ者の瞳を少し伏せ、寂しげに呟いた。
 エルセリカは、グッと胸に詰まるものを堪え、どこまでも気丈に振る舞った。最愛の仲間の前でだけは、決して弱い姿を見せたくはなかったのだ。
 
「立場は変わってしまったが、私たちは共に死線をくぐり抜けた、生涯の仲間だ。いつか……またこうして全員で揃って、美味い酒でも飲もうじゃないか」
 
 その言葉に、やりとりを静かに見守っていたレイノルトやバスティアンたちも含め騎士団の面々は力強く頷いた。エルセリカは一人一人の元を回り、固い握手と、言葉なきハグを交わしていった。

 その時、エルセリカは少し離れた馬車の影で、一人腕を組んでこちらを静かに見つめていた人物に気が付いた。
 
「フィリアス……お前にも、苦労をかけたな」
 
 エルセリカは、彼との間に流れる奇妙な距離感を保ったまま、静かに話しかけた。
 
「いえ、とんでもございません。まさか、あの高さの崖から投げ出されて、傷一つなく生還なさるなど……夢にも思いませんでしたよ」
 
 長い金髪を揺らしながらフィリアスの美しい顔から発せられた言葉は、どこか刺すような皮肉の色を帯びていた。
 
(フィリアス……)
 
 エルセリカは、彼が自分に対して明確な敵意と劣等感を抱いていることを、以前から薄々知っていた。

 実は、ヴェルダンテ騎士団の次期副団長候補として、最有力に名前が挙がっていたのはエルセリカではなく、名家出身のフィリアスだったのだ。しかし、エルセリカが戦場で凄まじい功績を叩き上げ、彼を追い抜いてその座に就任した。彼のプライドを深く傷つけてしまったという自覚が、エルセリカにはあった。

 エルセリカは、それでも一人の仲間として、静かに手を差し出した。
 
「お前も、元気で過ごしてくれ」
 
 ヴェルダンテという国家そのものが崩壊した以上、もはや騎士の肩書も、不毛な序列も不要なはずだった。あとは一人の人間として、この先の人生を穏やかに送ってほしいという、心からの祈りを込めた握手だった。
 
 だが、フィリアスはその差し出された白い手を、和解など無用と言わんばかりに冷ややかに一瞥すると、完全に無視して踵を返し、無言のまま馬車へと乗り込んでいった。エルセリカの手が、寂しく空をきった。

「エル……」
 
 騎士団との別れが済んだのを見計らい、ヴァルカが後ろからそっと声をかけた。
 
「ヴァルカ、待たせてしまってすまなかった」
「ううん。副団長様のエルセリカってあんなに偉そうで、みんなを引っ張ってるんだなって、新鮮で面白かったよ!」
 
 ヴァルカのからかうような言葉に、二人は顔を見合わせて大きく笑い合った。
 
「ヴァルカ……本当に、ありがとう。お前との出会いは、私の凍てついた心を満たしてくれた」
 
 エルセリカは、ヴァルカの節くれ立った大きな手を両手で包み込むと、彼女の黄色い瞳を真っ直ぐに見つめた。
 
「エル……」
 
 見つめ返されたヴァルカは、エルセリカのあまりの美しさと、昨晩その細い体を自分の指先で激しく貪った記憶が急に脳裏に鮮明に蘇り、驚いたように大きく目を見開いた。
 
「……ッ、あ!」
「どうかしたか?」
「いや……その、昨日のこと、急に思い出しちゃってさ……」
「!!」
 
 ヴァルカの言葉の意味を理解した瞬間、エルセリカの顔もまた、沸騰したように耳の裏まで真っ赤に染まった。
 二人は繋いだ手を離せないまま、お互いに猛烈な恥ずかしさに襲われ、真っ赤な顔のまま俯いてしまった。沈黙の後、エルセリカはたまらず一歩踏み出し、ヴァルカの大きな背中に手を回して、その体に強く抱きついた。

「ずっと、待っている。だから、また、いつか……」
 
 エルセリカはヴァルカの胸に顔をうずめ、涙声を隠すように囁いた。
 
「うん、あたしもだ」
 
 ヴァルカもまた、エルセリカの体を押し潰さんばかりに強く抱きしめ、その美しく、柔らかい銀髪を愛おしそうに何度も撫で回した。

「……ウォッホン!」

 背後から、サイラスのこれ見よがしで、わざとらしい特大の咳払いが響いた。
 周囲のエストレア衛兵たちも、二人のあまりに濃厚な別れの儀式に目のやり場を困らせており、馬車の窓からはマルクスやフェリックス、ヒルダたちが興味津々で顔を出し、こちらを覗き込んでいた。
 
 二人は慌てて体を離すと、エルセリカは赤面したままヴァルカの大きな背中を見送り、ヴァルカは照れ隠しに頭を掻きながら馬車へと乗り込んだ。

 その直後だった。
 
「ちょっと! 汚い手で私の腕を引っ張らないでもちょうだい!」
 
 城門の奥から、けたたましい金切り声が響き渡った。
 現れたのは、派手なピンク色のドレスの裾を泥で汚し、ヴェルダンテ王室の象徴であるエメラルドのティアラとネックレスをぎらつかせた、でっぷりとふくよかな女性——イゾルデだった。
 
「私はヴェルダンテ王女なのよ!? 無礼者め、陛下に言いつけて死刑にしてやるわ!」
 
 喚き散らすイゾルデだったが、エストレアの衛兵たちは冷淡な表情のまま、早く歩くよう彼女の肥満した背中を無慈悲に押し進める。
 
「押さないでよ、この平民が!」
 
 運動不足の体をヒィヒィと言わせながらようやく馬車の近くまで連れてこられたイゾルデは、ふと、そこに佇むエルセリカの姿に気が付いた。
 イゾルデはエルセリカを見るなり、その肉に埋もれた顔をみるみるうちに怨念に満ちた鬼の形相へと変貌させた。
 
「……何を、今さら。私の地位を、王女の座を奪うために戻ってきたのね、この泥棒狐が……!」
 
 イゾルデの目から放たれる、純粋な狂気とも言える憎悪の濁流に、エルセリカは思わず一歩たじろいだ。
 
「イゾルデ様……私は、そんなつもりでは……」
「お前さえ……お前さえいなければ、私は……私は今頃……っ!」
 
 呪詛の言葉を最後まで言い終わらないうちに、イゾルデは衛兵によって半ば強引に荷台へと押し込まれ、バタンと荒々しく扉が閉められた。

 呆然とするエルセリカの肩を、サイラスがポンと優しく叩いた。
 
「エル、悪いな。あのヴェルダンテ王室のエメラルドのティアラとネックレス、アイツが狂ったように暴れて、頑なに手を離さなかったらしい。まぁ、これからの惨めな生活の餞別として、あの哀れな女にくれてやっても良いだろ?」
 
 サイラスは、底冷えするような憐れみの眼差しで馬車を見つめながら言った。
 
「ああ……」
 
 エルセリカは元より権力や宝石などには一抹の興味もなかったので、適当な返事をした。
 
「それとな、アイツの父親……つまりお前の養父であるオルディンだが、イゾルデの引き取りを、明確に拒否したらしい」
「!……父上は、ご無事なのだな……。生きていて、何よりだ……」
「おいおい、勘違いするなよ。エストレアはそこまで無慈悲にヴェルダンテを破壊しちゃいない。辺境の農村地帯や貴族の領地は、今まで通りさ」
「……私が思っている以上に、エストレアという国は、寛大なのだな」
 
 エルセリカは、胸を締め付けられるような痛みを覚えた。自分がこれまで【本物の王女】であることを拒み、運命から逃げ続けたせいで、イゾルデの狂気を生み、フィリアスの怨恨を育て、結果としてこの戦争という全ての火種を自分が作ってしまったのではないかという、猛烈な罪悪感。

「……オルディンに、会いたいか?」
 
 サイラスの問いに、エルセリカはしばらく沈黙した後、小さく首を振った。
 
「いや……今は、いい」

 エルセリカは静かに視線を落とした。
 オルディンが実の娘であるイゾルデの引き取りを拒否したと聞き、彼女を気の毒に思った。落ちぶれたイゾルデを差し置いて、本物の王女となった自分が今さら娘の顔をして会いに行くのは、あまりにも気が引けた。

「出発の準備、完了しました!」
 
 衛兵の野太い叫び声が響き渡る。
 
「よし! じゃあ、出発だ!」
 
 サイラスが大きく手を挙げた。ガタガタと馬車が動き出す。
 エルセリカはハッと顔を上げ、ヴァルカの乗った最後の馬車を追いかけるように一歩踏み出した。
 
「ヴァルカ!」
 
 エルセリカは喉を張り裂かんばかりに叫んだ。
 
「エル! 元気でな!」
 
 ヴァルカが荷台の窓からその赤い顔を大きく覗かせ、叫び返した。その変わらない力強い姿を見た瞬間、エルセリカの目から、堪えていた涙が激しくこぼれ落ちた。
 
「ヴァルカ! お前も元気で!」
 
 エルセリカは泣きじゃくりながら、馬車が見えなくなるまで、何度も何度も手を振り続けた。マルクスやフェリックス、ヒルダたちも荷台から身を乗り出し、彼女の門出を祝うように大きく手を振り続けていた。

 やがて、荒野の彼方に馬車の砂煙が完全に消え去ったところで、エルセリカは力なく手を下ろした。
 
「サイラス殿、こちらもすべての準備が整いました」
 
 ルシアンがサイラスに呼び掛けた。
 
「分かった。エル、辛いのは百も承知だが、お前自身が決心した道だ。ここからは、しゃんとしてもらうぜ」
「……分かっている」
 
 エルセリカは涙を拭い、静かに頷いた。見送りに集まっていた人々は、潮が引くように城内へと戻っていった。

 サイラスに連れられて辿り着いたのは、昨日エルセリカたちが過ごした客室とは、およそ桁違いの広さと豪華絢爛さを誇る、文字通りの『王妃の私室』だった。
 
「今日からここが、エルの部屋だ」
 
 サイラスに促され、部屋に足を踏み入れたエルセリカは、金箔が施された家具や精緻な彫刻、あまりの派手さに眩暈を覚えた。
 
「私は……昨日の部屋の方が落ち着く。あそこがいい」
「あー、ダメダメ。これからはエストレアの王妃様として振る舞ってもらわなきゃ困るんだよ」
 
 サイラスがエルセリカの要望をすっぱりと切り捨てると同時に、部屋の扉が開き、衣服や化粧道具を抱えた数人の使用人たちが、流れるような所作で入ってきた。
 
「じゃ、あとはよろしく頼む。準備ができたら、執務室へ案内してやってくれ」
「かしこまりました」
 
 サイラスはそう言い残すと、足早に部屋を出て行った。エルセリカは、これから自分の身に一体何が起きるのだろうと、激しい戸惑いに襲われた。

「エルセリカ様、まずは、こちらのドレスをお召しになってくださいませ」
 
 使用人が恭しく掲げて見せたのは、胸元が大胆に大きく開き、太ももが根元まで覗くほど深いスリットが一本入った、濃いネイビーの細身のシルクドレスだった。
 
「私が着るのか? これを……?」
「左様でございます、お似合いになりますわ」
 
 そこからの使用人たちの行動は、恐ろしいほど迅速だった。エルセリカが困惑している間に、手慣れた手つきで彼女の衣服をさっさと脱がせ、下着を整え、ドレスを着せ、宝石の施されたアクセサリーを飾り、高いヒールを履かせた。

「まぁ……。なんてお美しいのでしょう。サイズも恐ろしいほどぴったりでございますわね」
 
 使用人たちは、うっとりとした表情でエルセリカの姿を眺め、ため息を漏らした。
 
「こんな……こんな胸の開いたもの、恥ずかしい……」
 
 これまで騎士としての無骨な甲冑や軍服しか着たことがなかったエルセリカは、肌を露出するドレスの心許なさと動きづらさに、半ば強い不快感と気恥ずかしさを覚えた。
 
「そんなことはございません、エルセリカ様の白く美しいお肌が、このネイビーにとても美しく映えますわ」
 
 使用人たちは口々に彼女の容姿を激賛した。エルセリカは女性騎士としてはやや長身であり、肉付きの良い豊かな身体つきをしている。そのため、既製品のドレスでこれほどジャストサイズの美しいラインを出すのは至難の業のはずだった。
 
「……一つ、聞いてもいいか。どうやって私のサイズを知ったのだ?」
 
 疑問に思ったことをそのまま口に出すと、使用人はにっこりと微笑んで答えた。
 
「サイラス様から、事前に細かい寸法を指示されております」

(なっ……! サイラス……あの、男め……!)

 エルセリカは、道中行動を共にしている間に、あの男が勝手に自分の体のサイズ(それも胸や腰の細部まで)を測っていたことに気づき、無防備だった己への羞恥心と、あの魔導士への猛烈な怒りで顔を真っ赤に染めた。

 着替えを済ませると、エルセリカは使用人たちに先導され、執務室へと連れてこられた。重厚な扉を開けると、そこにはソファに深く腰掛け、優雅に本を読んでいるサイラスの姿があった。
 サイラスは顔を上げ、エルセリカの姿を見るなり、満足げにパチンと指を鳴らした。
 
「お! ジャストサイズ! 俺の目に狂いはなかったな」
「何がジャストサイズだ! サイラス、貴様……っ、よくも不埒な真似を!」
 
 エルセリカは怒りのあまりサイラスに掴みかかろうと一歩踏み出したが、履き慣れない高いヒールに足元を取られ、派手によろめいた。
 
「おい!」
 
 サイラスは読んでいた本を床に投げ捨て、素早い動きでエルセリカの豊かな体をその腕でがっしりと支えた。
 
「あぶねぇな。なんだ、ドレス着るの初めてなのか?」
 
 サイラスが至近距離で、冷や汗をかきながら苦笑する。
 
「当たり前だ! こんな動きづらい、まともに歩行もできない服など……っ!」
 
 エルセリカは顔を真っ赤にしながら、弾かれたようにサイラスの身体から離れ、ドレスの裾を整えた。
 
「ふーん? こんな別嬪さんを鎧の中に隠して放っておくなんて、ヴェルダンテの連中はつくづく見る目がないねぇ」
「ふざけるな……っ!」
 
 エルセリカが怒りに任せて放った拳は、サイラスに軽くいなされ、空を切った。
 そこへ、ルシアンが書類を抱えて執務室へと入ってきた。
 
「サイラス殿、そうやって遊んでいるのを見つかったら、今度こそ陛下に後ろから刺されますよ」
 
 呆れ果てた声音で、ルシアンが先輩の軽挙を厳しく咎める。
 
「エルセリカ様、大変お美しいです。……バルザード陛下がお呼びです。大広間へ向かいましょう」

 三人は、静まり返った回廊を通り、再び大広間へと向かった。
 大広間の扉が開かれると、王座の前でバルザードが眉間に深い皺を寄せながら、長い羊皮紙の巻物を読んでいた。彼は三人の気配を察するなり、読んでいた巻物を大臣に手渡し、冷淡に下がらせた。

「エルセリカ……」

 バルザードは、付き従うサイラスとルシアンには一瞥もくれず、真っ直ぐにエルセリカの前へと歩み寄った。その青い瞳が、ネイビーのドレスに身を包んだ彼女の姿を捉え、怪しく輝く。
 
「美しい。髪も、瞳も、唇も、肌も……。何もかもが、私の想像以上に美しい」
 
 バルザードの細く冷たい指先が、エルセリカの白い頬に優しく触れた。
 エルセリカは、エストレアの人間たちが会うたびにしきりに容姿ばかりを褒めちぎるので、むず痒さと気恥ずかしさのあまり、全身の筋肉を強張らせ、顔を強張らせた。
 
「どうしたのだ? 体が震えているが」
 
 バルザードが彼女の強張った表情を覗き込んで尋ねる。
 
「あ……の。その、そのような……“美しい”などという言葉は、今まで言われ慣れていないので……戸惑っているだけだ」
 
 恥ずかしそうに視線を彷徨わせるエルセリカを見て、背後のソファの陰でサイラスが必死に笑いを堪えて肩を震わせていた。バルザードはその気配を察し、鋭い眼差しでサイラスを睨みつける。
 
「エルセリカ、恥じらうことなど何もない。お前はその美しさに、絶対の自信を持てば良いのだ。我が妻となるのだからな」
 
 バルザードの言葉には、絶対的な支配者としての響きがあった。

「結婚式も、今から待ち遠しいな」
「結婚式……」
 
 エルセリカは、その言葉によって急に冷酷な現実を突きつけられた気がして、胸が冷たくなった。
 
「そうだ。お前との婚姻は、全土に知らしめる必要がある。長い年月をかけて隠されてきた、【月夜の民】の帰還とともに、大いなる儀式としてな」
「月夜の民……」
 
 エルセリカの頭の中は、次々と押し寄せる未知の単語と運命の濁流に、もう何が何やら、いっぱいいっぱいになっていた。
 
「陛下、村長が『エルセリカ様に一度お会いしたい』と申しておりました」
 
 ルシアンが、一歩前に出て進言する。
 
「そうだな。式の準備もまだまだ山積みだし、その前に一度、あの民の村を訪れてみるのも良いかもしれん」
 
 バルザードは頷いた。エルセリカ自身の話であるはずなのに、彼女を完全に置き去りにしたまま、話は恐ろしい速度でどんどん進んでいく。
 
「エル、お前も自身のルーツを知っておいた方が良いだろう。失われた【月夜の民】の正統なる血脈としてな」
「ルーツなんて……! 私は、月夜の民が何なのかすら、何も知らないのに……っ!」
 
 エルセリカは、あまりの理不尽さと息苦しさに、半ば苛立ったような悲痛な叫びをあげた。

 その言葉を聞いた瞬間、バルザードはひどく驚いたような、信じられないものを見たという顔をして絶句した。
 
「何? 【月夜の民】の歴史を知らないだと……? ヴェルダンテの連中は、お前に何も教えていなかったというのか?」
「……陛下、これに関しては、客室にいらっしゃるレジナルド様に直接、過去の経緯を伺ってみるのが最も確実かもしれません」
 
 ルシアンが、バルザードとエルセリカの間の空気をとりなすように静かに提案した。
 
「そうだな。どうやら、我が未来の王妃には、色々と学ばせることが多いようだ」
「私は……私は、好きでここにいるわけじゃない……っ!」

 エルセリカは、ついに耐えきれず、籠もっていた感情を剥き出しにして悲痛な叫びを大広間に響かせた。
 すると、バルザードは一瞬にしてその表情から温度を消し去り、エルセリカの体を抗えぬ力で強く抱き寄せた。彼の端正な顔が至近距離まで近づく。その青い瞳は氷のように冷たく、発せられた声は、先ほどまでの甘い賛辞とは打って変わって、地を這うように冷酷だった。

「——こちらは、約束を果たした。お前はそれを全て承知の上で、決心したのだろう? ……違うか?」

 エルセリカは息を呑み、エメラルドの瞳を大きく見開いたまま、それ以上、一言も言葉を返すことができなかった。彼の言う通りだった。部下たちの命、実父の安全と引き換えに、自らこの檻に入ることを選んだのだから。

「私はしばらく、公務が立て込んでいる。エルセリカの教育と護衛、あとはよろしく頼んだぞ。サイラス、ルシアン」

 バルザードは冷徹に言い放つと、エルセリカの体を静かに離し、マントを翻して大広間を後にした。残されたエルセリカは、豪華なドレスの中で、ただ一人、冷たい床の上に立ち尽くすしかなかった。

 *
 
 その頃、エストレア王城を慌ただしく出発した三台の大型馬車は、石畳が続くオルディナ共和国の賑やかな都市部を猛然と駆け抜けていた。さらに東へ、東へと進むにつれ、車窓の景色は石造りの街並みから、次第に乾いた土埃の舞う殺風景なものへと移り変わっていく。
 やがて、見渡す限りの広大な乾燥農村地域に差し掛かったところで、先頭の馬車が軋んだ悲鳴を上げてその場に急停止した。

 バタン、と粗暴な音を立てて木製の重い扉が開かれる。
 
「全員、降りろ」
 
 エストレアの御者である騎士の声に促され、詰め込まれていた元ヴェルダンテ王国騎士団の面々、ヴァルカ、そしてピンクのドレスを引きずったイゾルデが、陽光の照りつける見知らぬ土地へと降ろされた。
 
 同行していたエストレアの騎士たちは、馬車の荷台から数週間分はあろうかという食料の袋や、生活に必要な雑多な備品が入った麻袋を、冷淡な手つきで地面へと次々に投げ渡していく。

「今日からここがお前たちの家だ。1ヵ月分の家賃は我がエストレアが支払ってある。バルザード王の底知れぬ慈悲に感謝することだな」
 
 先頭に立つ騎士が、不毛な大地に点在するいくつかのボロ小屋を顎で指し示しながら、傲慢に言い放った。
 
「なお、お前たちのエストレア王国への入国は今後一切不可とする。あとは野となれ山となれ、好きにするがいい。以上だ」
 
 それだけを機械的に言い残すと、騎士たちは速やかに馬車へと飛び乗り、手綱を引いた。三台の馬車は、来た時と同じような激しい砂煙を上げながら、再びエストレア方面へと足早に引き返していった。

 乾燥した大地に取り残された騎士団の面々が、投げ出された荷物を一人ずつ手分けして拾い集めていく。ふと割り当てを確認すると、数週間分の食料や備品の中には、当然のようにヴァルカの分の包みも含まれていた。
 
 元ヴェルダンテ王国騎士団たちがそれを手渡そうとしたが、ヴァルカは大きな手をひらひらと振ってそれを拒んだ。
 
「ああ、あたしはその荷物、いらないかな」
「いらないって……? これからどうするつもりだ?」
 
 レイノルトが不思議そうに尋ねると、ヴァルカは不敵な笑みを浮かべて見せた。
 
「あたしはこれでも売れっ子の傭兵だからね、金には困ってねえんだ。それに、もう次の仕事のアテもしっかり決まってる。だから、あたしの分の飯はあんたらで山分けしなよ」
 
 そう言ってヴァルカは、今しがた馬車が引き返していった、オルディナの都市部へと続く方向へ向かって、大きな歩幅で悠々と歩き出し始めた。

「待ってくれ! その『仕事のアテ』というのを、参考までに僕たちにも聞かせてくれないか!?」
 
 騎士団の一人が、縋るような声を上げた。身分を剥奪され、祖国を失った彼らがこれから一人一人自分の力だけで生きていくためには、どんな小さな情報でも必死だったのだ。
 
「そうだ、頼む! 教えてくれ!」
「俺たちにもできる仕事はあるか!?」
 
 我も我もと、元騎士たちは荷物を抱えたままヴァルカの周りに慌ただしく集まってきた。
 
「ちょっと、急に群がらないでよ……」
 
 ヴァルカは面食らったように顔をしかめ、せわしなく頭の黒髪を掻いた。
 
「仕事のアテって言っても、あたしがやるのは血生臭い傭兵稼業だぜ? あんたらみたいな高潔な騎士様には……」
「もちろんだ! 身分証も故郷も失った俺たちに、選り好みできる贅沢などない。できる仕事なら、どんな力仕事だって死に物狂いでやるさ!」
 
 バスティアンの悲痛な叫びに、マルクスやセドリックたちも深く頷いた。
 熱い視線を一身に浴びたヴァルカは、ふぅ、と天を仰いで大きなため息をついた。
 
(まったく、まぁ……曲がりなりにも、あのエルの大事な仲間たちだからね。ここで無下に見捨てるのも寝覚めが悪いか……)

「……さっき馬車で通った時、大きな街があっただろ?」
 
 ヴァルカは足を止め、集まった騎士たちに向き直って丁寧に説明を始めた。
 
「あそこには、傭兵や冒険者の依頼を斡旋してくれる『ギルドの案内所』があるんだ。なかでも、南の門近くにある案内所なら、国籍や身分証がなくても、腕さえあればすぐに請け負える仕事がいくらでも転がってるはずだよ」
 
 その言葉を聞いた瞬間、騎士たちの沈んでいた目に一斉に輝きが戻った。さすがは歴戦の戦士たち、生き残るための道が見えれば、その反応は割と前向きで早かった。
 
「なるほど……! 案内所か。泥仕事だろうが何だろうが、しばらくはそこで死に物狂いで稼いで食い繋ぐって感じだな」
 
 姉御肌のヒルダをはじめとする元騎士のたちは、ヴァルカに対して「恩にきる」と丁寧にお礼を述べると、すぐに新しい生活の計画について、あれこれと活発に話し合いだした。ヴァルカはその逞しい様子を遠目に見届けると、安心したように小さく口角を上げ、再び都市部の方へと歩み去っていった。

 その一方、ピンク色のドレスを泥と汗でドロドロに汚したイゾルデは、割り当てられた数週間分の食料と備品を両腕で重そうに抱え、不衛生なボロ小屋の中へと転がり込んだ。
 扉を閉めた途端、彼女の肉に埋もれた顔は醜く歪み、激しい悪態が口から飛び出した。
 
「クソ! クソ! クソッ!あの忌々しい女のせいで……っ! 絶対に許せないわ!」
 
 エルセリカがこの期に及んで本物の王女として名乗り出たことで、自分が築いてきたヴェルダンテ王女としての地位や贅沢が、これほど無残に剥奪されるとは夢にも思っていなかったのだ。
 というのも、前執政官たちからは『エルセリカは崖から転落して死んだ』と聞かされていたからだ。
 
「あの女、死んだんじゃなかったの……!? なんで生きてるのよぉ!」
 
 イゾルデは怒り狂い、頭に載せていたティアラと首にかけていた大きなネックレスを引きちぎるように外すと、床へ乱暴に叩きつけた。
 エストレアの宮廷にいた穏健派の大臣たちは、エルセリカの生存と正統性が明らかにされた途端、手のひらを返したようにイゾルデの元から颯爽と離れていった。
 
(どいつもこいつも、美味いところだけ啜っておいて……見捨てやがって……!)

 ゼェゼェと荒い息をつく中、ふと、先ほど外でヴァルカと騎士団が交わしていたやりとりに聞き耳を立てていた内容が頭をよぎった。
 
(さっきあいつら、都市部がどうとか、仕事がどうとか言ってたわね……)
 
 イゾルデは床に置いた数週間分の食料の袋を開けて中を覗き込んだ。入っていたのは、王宮では家畜の餌にもしなかったような雑穀米や、泥のついた不揃いなイモ、カチカチに干からびたトウモロコシの山だった。
 
「はっ……! 汚らしい。こんなもの、人間の食べるものじゃないわ……!」
 
 ヴェルダンテ王室の山海の珍味、極上の贅沢に慣れきっていたイゾルデは、激しい嫌悪感に顔をしかめた。
 さらに、もう一つの備品の袋を開けてみる。中から出てきたのは、真鍮製の安っぽいランタンや予備のロウソク、そしてひび割れた粗末な木の器やスプーンだった。
 
「何なのよ、これ……。馬鹿にしてるの!?」
 
 とてもじゃないが、街の質屋に売って大金になりそうな高価なものは何一つ入っていなかった。

「もう……! 一体どうやって生きていけばいいのよぉ……っ!?」
 
 イゾルデはその場にドサリと座り込むと、情けなく大粒の涙を流して泣き叫んだ。ヴェルダンテ王女という偽りの立場を利用し、私利私欲の限りを尽くしてきた彼女には、汗を流して「自分の力で生きる」という術など、何一つ備わっていなかったのだ。
 
 昨日、病床のレジナルド王からは冷酷な勘当を突きつけられ、さらに実父であるはずのオルディンに至っては、エストレアからの引き取り要請を明確に拒否するという始末。
 
「どいつもこいつも……父親のくせに、全く使えない奴らばかりだわ!」

 泣きながら考えるうちに、彼女の思考は最終的に、現在エストレアの王宮で贅沢を享受しているであろうエルセリカに対する、狂気じみた憎悪と嫉妬へと帰着していった。
 
「エルセリカだけが幸せになるなんて、絶対に許せない……! あんな、可愛げのない女のどこが良いっていうのよ!?」
 
 イゾルデは先ほど床に叩きつけた、ティアラとネックレスに埋め込まれた、深緑のエメラルドの宝石を血走った目で睨みつけた。その鮮やかな緑は、本物の王族だけが持つという、ヴェルダンテ王家の美しいエメラルドの瞳になぞらえてあつらえられた、皮肉な宝石でもあった。
 
「エルセリカなんてブスよ! ブス、ブス!」

 激しい呪詛を吐き散らしていた、その時だった。
 コン、コン、と、ボロ小屋の建付けの悪い木戸を叩く、静かな音が響いた。
 
「……誰?」
 
 イゾルデは重たい身体を苛立たしげに起こし、涙を拭うこともせず、手荒に扉を開けた。

「——お初にお目にかかります、イゾルデ様。元ヴェルダンテ王国騎士団の、フィリアスと申します」

 そこに立っていたのは、陽光に映える美しい金髪の長髪を揺らし、非の打ち所のない端正な顔立ちをした青年、フィリアスだった。彼はいつもの冷徹な刺すような視線を隠し、どこか親しげで友好的な、優しい笑みを浮かべていた。
 
「元騎士団の男が……私に何か、御用かしら?」
 
 目の前に現れたフィリアスのあまりの美形ぶりに、イゾルデは毒気を抜かれたように態度を一変させ、乱れた己の髪を少し整えるような、女としての仕草を見せた。
 
「いえ。先ほど、小屋の中から副団長の話をされているのが聞こえましたので」

 その名を聞いた瞬間、イゾルデの顔色は途端に怒りで真っ青に変わった。
 
「あぁ! ただの独り言よ! ごめんあそばせ、あなた方が首を長くして敬愛している、偉大なる副団長様の悪口を言ってしまって!」
 
 フン、と鼻を鳴らすように、イゾルデは露骨にそっぽを向いた。
 
「それで? わざわざ私を注意しにやってきたのかしら?」
 
 フィリアスに背を向けたまま、イゾルデはイライラと片足を鳴らして問いかける。

「いいえ。……僕も実は、エルセリカという女が、反吐が出るほど嫌いですので」

 その予想だにしない冷徹な言葉を聞いて、イゾルデは弾かれたように振り返った。
 
「あらぁ……! あなた、意外と気が合うじゃない。あの脳筋の騎士団の中にも、ようやくまともな話ができる人間がいたのね!」
 
 イゾルデは両手を胸の前で合わせ、醜い顔を歪めてにっこりと満面の笑みを浮かべた。
 
「実は、そのエルセリカのことで、あなたと少しお話がしたく……」
 
 フィリアスはそう言うと、細長い瞳を怪しく光らせて自身の背後を鋭く警戒した。そして、躊躇うことなくイゾルデのボロ小屋の中へと滑り込むように足を踏み入れ、背後でパタンと静かに扉を閉め、閂をかけた。

「ふぅ……。申し訳ないけれど、私、あの薄汚い狐女のことを考えるだけで、虫酸が走って嫌な気分になるのよね」
 
 イゾルデはベッドの代わりに置かれた藁の上に、半ば不貞腐れたように腰を下ろして言った。
 
「重々承知しております。あの高さの崖から転落して生還するなど、中々しぶとい、ゴキブリのような女ですからね」
 
 フィリアスはイゾルデの傍らにゆっくりと近づくと、その端正な顔を影で覆い、周囲に聞こえないよう、低く地を這うような声にトーンを下げた。
 
「そうなのよ!」
 
 自分の醜悪な感情を全肯定されたイゾルデは、目をギラギラと輝かせ、思わず大きな声を張り上げた。
 フィリアスはすかさず、自身の白く細い人差し指をイゾルデの肉厚な口元に立て、その声を抑えるように静かに制した。その視線は、隙間だらけの小屋の外を執拗に警戒している。
 
「あら、ごめんなさい……」
 
 事の重大さを察知したイゾルデも、唾を飲み込んで声のトーンを極限まで落とした。

「イゾルデ様……。僕と一緒に、エルセリカに“復讐”をしませんか?」

 フィリアスの形の良い唇から漏れ出たその言葉と、彼の瞳の奥底に揺らめく、剥き出しの悍ましい憎悪の焔。それを間近で垣間見たイゾルデは、その肥満した口角を不敵に、そして邪悪に釣り上げた。
 
「ふぅん……。面白そうじゃない。私、そういうの好きよ」

 乾燥した大地の片隅、光の届かない暗いボロ小屋の中で、持たざる者たちの歪んだ怨念が静かに、しかし確実に結びついた。
 じりじりと大地を灼く太陽がわずかに傾き、すべての影が長く、濃く伸びてゆく昼下がり。その昏い陰りの底で、エストレアの栄華を黒く侵食する毒が、静かに、しかし確実に滴り落ちようとしていた——。

第八章 ルシアン・ヴァン・エステラール

 大広間でのバルザードとの息詰まる謁見を終えたエルセリカは、サイラスとルシアンに伴われ、病床のレジナルド王が静養している客室へと赴いた。
 
 重厚な木目の扉を開けた先の前室には、ヴェルダンテの大臣たちや数人の使用人が控えており、身を寄せるようにして主の看病を続けていた。彼らは、捕らえられていた騎士団の面々やイゾルデが正式に解放されたという報を耳にすると、それまでの悲痛な面持ちを劇的に和らげ、深く安堵の息を漏らした。
 
「エルセリカ様……! 騎士団の皆様が、無事解放されたと聞き、安心いたしました。レジナルド様も、我がことのように大いに喜ばれております」
 
 老臣が涙ぐみながら告げる言葉に、エルセリカは小さく頷いた。
 
「よかった……。大臣、少しお父様と話をさせてくれないだろうか」
「はい、もちろんでございます。どうぞ奥へ」
 
 大臣は恭しく一礼すると、エルセリカ、そして背後に控えるサイラスとルシアンを静かに奥の寝室へと通した。

 白を基調とした清潔な寝室のベッドでは、レジナルド王が細い身体を起こし、虚空を見つめていた。
 
「お父様……お体の具合はいかがですか」
 
 エルセリカはベッドサイドへ歩み寄り、痛々しいほどにやせ細った実父を気遣うように、その穏やかな容態を尋ねた。
 その声に反応して顔を上げたレジナルドは、胸元が大胆に開いた濃いネイビーのドレスに身を包み、比類なき気品を漂わせる娘の姿を目にした瞬間、その青い瞳を大きく見開いた。
 
「ああ……エルセリカ、お前……。亡き妻の、若い頃にそっくりだ……」
 
 かつての王妃の面影を目の前の娘に重ね合わせ、レジナルドは感激のあまりに目元を濡らし、幾筋もの涙を頬につたわせた。
 レジナルドは、騎士団やイゾルデがここを発ったこともすでに聞き及んでいた。
 
「イゾルデに関しては……本当に申し訳ないことをした。あの子をあそこまで我儘に育ててしまったのは、偏に私の責任なのだ。同時にお前を苦しめる結果になってしまい、本当にすまない……」
 
 実の父の心からの謝罪に、エルセリカは胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
 
「だが、安心するがいい。バルザード王から直々に言葉をいただいているのだ。『エルセリカの身の安全とこれからのことは、私にすべて任せてくれ』とな」
 
 心底安堵したように微笑む父の顔とは対照的に、しかしエルセリカの脳裏には、人質を取るような卑劣な真似で婚姻を迫ったバルザードの冷徹な顔が鮮明に浮かび上がっていた。

(……何が“任せてくれ”、だ。すべてを自分の思い通りに事を進めているくせに、よくもそんな恩着せがましいことが言えたものだ)
 
 込み上げる激しい憤りを、エルセリカはドレスの裾を強く握りしめることで必死に檻の中に閉じ込めた。

 そこへ、親子の会話の区切りを見計らったルシアンが、紳士的かつ率直な疑問を口にした。
 
「レジナルド様。なぜこれまで、エルセリカ様に【月夜の民】としての血筋や歴史を一切伝えていなかったのですか?」
 
 その問いに、レジナルドは悲しげに目を伏せ、力なく微笑んだ。
 
「……エルセリカが王宮を離れ、『ただの騎士』として生きていたからだ。私とこの娘の間には常に適切な距離があり、直接会って真実を明かす機会が、物理的にも、政治的にもなかったのだよ」
 
 エルセリカもルシアンに向けて、過去を振り返るように静かに補足した。
 
「私とお父様が直接言葉を交わしたのは、あの副団長就任式の時が最初で最後だったのだ。あの時は突然に出自を明かされて頭が真っ白になり、とても歴史の話を聞くどころではなかった……」
 
 すれ違い続けた父娘の歴史。レジナルドはさらにヴェルダンテの真の成り立ちを語ろうと口を開きかけたが、突如として激しい咳に襲われ、胸を押さえて激しく苦しんだ。
 
「ゲホッ、ゴホゴホッ……!」
「お父様!」
 
 前室から使用人たちが慌てて駆け寄り、背中をさすり始める。これ以上の長い会話は確実に体に障ると判断し、サイラスがエルセリカの肩に手を置いた。
 
「エル、ここまでにしておこう。一度、手前の応接間に戻るぞ」
 
 一行は看病を使用人たちに委ね、寝室を辞して客室の前室へと戻ることにした。

 寝室の扉が閉まった後、静まり返った前室でヴェルダンテの大臣が、重い口を開いて語り出した。
 
「レジナルド様に代わり、不肖この私が説明いたしましょう。あくまでヴェルダンテの王宮に伝承として伝えられている部分ではありますが……【月夜の民】と、我が国の建国の歴史についてを……」

 そう言って大臣は、古びた羊皮紙の巻物を机の上に広げた。そこに記された一族の古き記録を指でなぞりながら、厳かな声音で語り出す。

 1.種族の特徴
 月夜の民とは、銀髪とエメラルドの瞳、長身で引き締まった体型、そして透き通るような色白の肌を持つ神秘の種族。生まれながらにして常人を遥かに凌駕する高い魔力を有し、エルセリカとルシアンの容姿は、まさにその正統なる血脈の象徴であった。
 
 2.エルダー・ヴィオラの地
 月夜の民が今もひっそりと暮らす隠れ里は、エストレア王国の中心部から少し外れた場所に位置する。人を拒むように広がる「精霊の森」のさらに奥地、巨大樹の遺跡を囲むようにして、その集落は存在しているという。
 
 3.ヴェルダンテ建国の起源
 かつてエストレア王国で激しい内戦が起きた際、迫害や戦火から逃れるために、月夜の民の一部が国境を越えて遠く逃げ延びた。その逃亡先で、彼らが自らの手で興し、建国した国こそが「ヴェルダンテ王国」の始まりであった。

「……我が祖国が、実はエストレアとそれほど深い関わりを持っていたなんて……」
 
 大臣がすべてを語り終えた後、エルセリカは自身の祖国がエストレアとこれほど深く、血塗られた歴史で繋がっていた事実に、ただただ驚愕するしかなかった。
 すると、その沈黙を破るようにルシアンがそっと切り出した。
 
「エルセリカ様。実は、僕たちの村の村長が、ぜひエルセリカ様にお会いしたいと申しておりました。僕としては、エルセリカ様がご自身のルーツを知る、とても良い機会になると思うのですが……いかがでしょうか」
 
 突然突きつけられた壮大な運命に戸惑いつつも、自分の血に流れる種族のルーツ、そして彼らがひっそりと暮らすという村の存在に、エルセリカは純粋な興味を抱いていた。
 
「分かった。ルシアン、その村へ案内してほしい」
「ありがとうございます。では、すぐに手配を」
 
 エルセリカが承諾すると、傍らで顎を撫でながら話を聞いていたサイラスが、いつもの調子で不敵に笑った。
 
「よし、じゃあ決まりだな。俺はまだ、このクソ忙しい王宮の面倒な残務処理が山ほど残ってんだ。エル、後はルシアンに任せるから、しっかり案内してもらえよ」
 
 サイラスは二人の道中を信頼する愛弟子に託し、ひらひらと手を振って自らの執務へと戻っていった。こうしてエルセリカは、華奢なネイビーのドレス姿のまま、ルシアンと共に【月夜の民の村】へと向かうこととなった。

 *

 エストレア城の巨大な城門から、豪奢な装飾が施された馬車が二台、静かに出発した。
 一台の馬車にはエルセリカとルシアンが並んで座り、二台目の馬車には彼らを護衛するエストレアの精鋭騎士三名が同乗していた。馬車は騒がしい都の喧騒を離れ、やがて生い茂る緑の境界線——精霊の森の入り口へと到達した。

 馬車が止まり、外へ出たエルセリカの目に見えたのは、ただの鬱蒼とした立ち木の壁だった。しかし、ルシアンがその細い空間にそっと手をかざし、唇を微かに動かして結界を解くと、大気が水面のように大きく歪み、奥へと続く隠された美しい小道が忽然と浮かび上がった。
 
「この入り口は、精霊の結界によって、月夜の民の血を引く者しか見ることすらできず、出入りも叶わないようになっているのです」

 エルセリカは驚いた。
 
「僕たち『エステラール家』は、古よりエストレア王家からこの名と、精霊の森を守る使命を直々に賜っているんです」
 
 その中性的な横顔に深い誇りを滲ませて語った。
 エルセリカは、月夜の民という存在が、古くからこの国の王家とどれほど密接で、切っても切れない関わりを持っていたのかを知り、静かな感銘を覚えた。

 鬱蒼とした森の小道を抜けた瞬間、視界が劇的に開けた。
 天を覆いつくさんばかりの、圧倒的な巨木。その太い根元に広がる古代の遺跡のような空間を囲むように、幻想的な集落が現れた。そこは森の奥地だからといって決して原始的なわけではなく、精霊の純粋な力と精緻な魔動機が完璧に調和した、独自の発展を遂げた文明の地——隠れ里『エルダー・ヴィオラ』だった。

 集落の入り口には、杖を突いた物腰柔らかな老婆が待っていた。
 
「イラーナ村長、ご無沙汰しております。こちらのエルセリカ様をお連れしました」
 
 ルシアンの丁寧な紹介を受け、イラーナは慈愛に満ちた笑みを浮かべ、エルセリカの白い手を優しく包み込んだ。
 
「よくぞ戻った、我が同胞よ」
 
 エルダー・ヴィオラに住まう月夜の民は皆、血縁を超えた一つの大きな家族のようであった。集まってきた村人たちの歓迎は驚くほど盛大で、エルセリカは、一族の「同胞」として無条件に受け入れられたことに、冷え切っていた胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。

 イラーナ村長はエルセリカの手を握ったまま、不思議そうにそのエメラルド色の瞳を見つめ、眉をひそめた。
 
「おぬし……もしかして、これまで一度も魔法を使ったことがないのか?」
 
 問いかけられたエルセリカは、当惑したように頷いた。
 
「私はただの騎士として育てられた。剣の扱いしか知らない」

 エルセリカが困惑気味に答えると、イラーナは静かに首を振った。
 
「高い魔力を秘めて生まれた月夜の民は、適度にその魔力を外へ放出せねば、身体の血脈の循環が悪くなってしまうのでの。かつて国境を越え、ヴェルダンテを建国した我が同胞たちが、次第にその数を減らし、滅びの道を辿るに至ったのも……人里に紛れ、魔力の放出を怠ったからだと言われておる」
 
 イラーナ村長は巨大樹の方向を見ながら、一つの提案を口にした。
 
「まずは、ここの子供たちが一人前になるために行う、簡単な『覚醒の儀式』をおぬしもやってみるが良い」
「私にも……魔法が使えると言うことだろうか」
 
 エルセリカが半信半疑で尋ねると、イラーナは深く頷いた。
 
「左様。月夜の民は生まれつき莫大な魔力を持っておる。しかし、それを自在に扱えるようになるには、また別の訓練が必要での」
 
 村長は傍らのルシアンの方へ振り返った。

 「ルシアン、エルセリカ様の儀式の手伝いをしておくれ」
 「はい、わかりました。準備をしてまいりますので、エルセリカ様は少しの間ここで待っていてください」

 ルシアンはそう言い残すとその場を離れた。

 ルシアンが儀式の支度のために姿を消している間、エルセリカの周りには、好奇心に目を輝かせた村人たちが次々と集まってきた。彼らはヴェルダンテから帰ってきた同胞に興味津々だった。
 
「いやあ、ルシアンがこんな綺麗な女性を連れて帰ってくるなんて、夢にも思わなかったぜ」
 
 恰幅のいい男性の村人がゲラゲラと笑う。その村人や周囲の老婆たちが語るには、ルシアンは幼い頃に両親を早くに亡くし、この村の皆で我が子のように育てられたのだという。
 
「あの子は昔から、あまり感情を表に出さない静かな子でな。突出した魔法の才能を持っていたから、若くしてエストレアの王宮魔導士として旅立った時は、そりゃぁ皆で本当に心配したのさ」
 
 別の村人が懐かしそうに目を細める。
 
「王宮に行ってからは、サイラス様が父親のように面倒を見てくれているようで安心したよ」
「本当さ! たまに村へ帰省してきたと思えば、『サイラス殿が〜、サイラス殿が〜』ってサイラス様の話ばかりでさ。こっちはもう半分うんざりするくらいだ!」
 
 村人たちが笑い混じりに話す様子を見て、エルセリカの口元からも自然と笑みがこぼれた。
 
「サイラス殿も、昔に妻子を失って深く傷心していたからな。ルシアンが来てくれたことで、あの方自身も救われたのかもしれん」

 村人が漏らした言葉に、エルセリカは息を呑んだ。
 
「サイラスに……妻子がいたのか?」
 
 初めて聞く事実に、エルセリカは目を丸くした。
 
「ええ、サイラス様の奥様も、この村の出身である月夜の民だったのですよ」

 親切そうな女性の村人が教えてくれた。
 
「もし娘さんが生きていたら、ちょうどルシアンと同じくらいの年頃になっていただろうにねぇ……」
 
 切なげに零されたその言葉に、エルセリカは、あの不埒で食えない魔導士サイラスが、ルシアンや自分に対して時折見せていた底知れぬ哀愁を帯びた眼差しの正体を、ようやく理解できた気がした。
 
「……サイラスの奥方は、なぜお亡くなりに?」
 
 不躾な質問だとは分かっていたが、エルセリカはどうしても聞いておきたかった。尋ねられた村人は、一瞬だけ表情を曇らせ、声を落とした。
 
「……野盗に襲われ、非業の死を遂げられたのです。実は、昔から月夜の民の珍しい容姿と高い魔力を狙った不気味な組織があり、私たちは常に人身売買や奴隷商人の脅威にさらされ続けてきました」
 
 エルセリカは胸を激しく締め付けられた。彼らが精霊の森から決して出ようとしないのも、ただの偏屈ではなく、一族が生き残るための苦渋の選択、血の滲むような防衛策だったのだ。
 
「幸い、今のエストレア王家……バルザード王は月夜の民の事情をよく理解し、守ってくれている。だが、世の中はそう甘くないからね」
 
 バルザードを心から慕い、感謝している村人たちの様子を見て、エルセリカの胸中は複雑に、激しく揺れ動いた。
 エルセリカにとっては、バルザードは祖国を滅ぼし、自分を脅迫して檻に閉じ込めた敵国の冷徹な王だった。しかし、彼は決して無慈悲な怪物ではない。自分に王妃としてのドレスを与え、豪華な食事を出し、ヴェルダンテの騎士団を解放し、レジナルドの看病に対しても礼を失することはなかった。
 
(私は、バルザードのあの優しさに、どうしても素直に応えることはできない……。けれど、あの男が、私が思っていたほど血も涙もない悪人ではないことは、薄々感じてしまっている……)
 
 割り切れない思いを抱え、彼女が俯いたその時、準備を終えたルシアンが軽やかな足取りで戻ってきた。
 
「エルセリカ様、お待たせいたしました。行きましょう」
 
 ルシアンはエルセリカを、巨大樹の遺跡の最奥に鎮座する、古びた、しかし厳かな祭壇へと導いた。いよいよ、儀式の時が迫っていた。

 祭壇の中心には、幾星霜もの時間を経た直方体の石造りの台座が置かれていた。ルシアンはその台座の表面を、白い布で丁寧に、神聖なものを扱う手つきで拭い清めていく。
 台座の中央には滑らかな丸いくぼみがあり、ルシアンは携えていた小瓶から、透き通った聖水をその中へと静かに注ぎ込んだ。水面が、巨大樹の隙間から差し込む光を反射してきらきらと輝く。

「エルセリカ様、儀式の流れを説明します。まずは、この聖水で両手を清めてください」
 
 エルセリカは言われた通り、冷たい聖水に手を浸し、両手を洗った。
 
「次に、その洗った両手で聖水を優しくすくい上げてください」
 
 エルセリカが聖水を両手で手のひらにすくうと、ルシアンは台座の奥にある、月をモチーフにした美しい意匠の結晶球を指し示した。
 
「そのすくった聖水を、この球体にゆっくりとかけてください」
 
 エルセリカが球体の上から水をかける。サラサラと音を立てて、聖水が球体の表面を濡らしていく。
 
「最後に、その球体に両手を添え、グッと力を込めてください。その際、ご自身の体の中にある魔力が、球体の中へと優しく注ぎ込まれていくイメージを持つと上手くいきます。球体が銀色の輝きを放てば、無事に成功です。」

(私の中に眠る、魔力……)
 
 騎士として戦場を駆け抜けていた時には意識したこともない、体の奥底、血脈の源流にある熱い塊を探り当てる。
 
 エルセリカは息を整え、ドレスの袖が濡れるのも構わずに球体へと両手を添えた。目を閉じ、騎士としての集中力を指先に集める。これまで剣の気合として扱っていた体内の熱い何かが、明確な流動となって球体へと流れ込んでいく感覚。
 次の瞬間、球体はエルセリカのエメラルド色の瞳の輝きと共鳴するように、眩いばかりの銀色の輝きを放ち、遺跡の空間を白々と照らし出した。
 
「……素晴らしいです。球体がこれほど強く輝くなんて!」
 
 ルシアンの歓声に目をあけると、球体は美しい銀の波動を放っていた。

「では、次はこちらを」
 
 ルシアンは、小さな魔動機のランプと、四角いバッテリーのような結晶体を取り出してみせた。
 
「これは魔力を蓄えるためのバッテリーです。この中に魔力を注ぎ込むことができれば、様々な魔動機を動かすことができます」
 
 ルシアンに促され、エルセリカは先ほどの要領でバッテリーに手を当て、魔力を意識的に放出した。すると、結晶体は彼女の魔力を吸い込み、すぐに淡く柔らかな光を帯びて安定した。
 そのバッテリーをルシアンが手際よくランプの魔動機に差し込むと、カチリと音がして、ランプが温かい明かりを灯した。
 
「エルセリカ様の、初めての魔法ですね!」
 
 ルシアンが自分のことのように嬉しそうに微笑む。エルセリカは灯る明かりを見つめながら、なんだか自分も物語の魔法使いになれたかのような、小さな誇らしさを胸に覚えた。
 
「……私にも、この力で魔物を倒せたり、傷ついた人を癒したりできたら良いのだがな」
 
 エルセリカがポツリと、かつての騎士としての本音を漏らす。すると、ルシアンは少し困ったように苦笑し、優しい声で諭した。
 
「そうですね……。その領域に達するとなると、かなりの知識や、何年にもわたる過酷な修行、訓練が必要になってきます」
「そ、そうだろうな。簡単に扱えるものだと思ってしまった。剣の修行と同じようなものか……」
 
 魔法という神秘を短絡的に考えていた自分が途端に恥ずかしくなり、エルセリカは赤面して視線をそらした。
 
「ですが、今はまだ魔動機を動かせるだけの魔力を初めて放出できたのです。それだけでも、よしとしましょう」
「……ありがとう、ルシアン」
 
 ルシアンの温かい気遣いに、エルセリカは心からお礼を言った。
 
「では、イラーナ村長に無事成功したことを報告しに行きましょう」

 二人が遺跡を後にし、村の中央にある広場へと向かった、その時だった。
 穏やかな時間を切り裂くように、村の境界の鬱蒼とした茂みから、鋭い、悲痛な悲鳴が響き渡った。
 
「いやあああ! 離して!」
 
 エルセリカの騎士としての本能が瞬時に覚醒する。悲鳴のした方向へ二人が猛然と駆けつけると、そこには黒いローブを頭から深く被った、見るからに怪しい数人の男たちが、月夜の民の幼い少女を無理やり腕の中に抱え込み、連れ去ろうとしていた。
 
「何をしている! その子を離せ!」
 
 エルセリカが鋭く一喝する。
 黒いローブの者たちは舌打ちをすると、懐から奇妙な形をした、金属製の魔動機の杖を取り出し、一斉に応戦の構えをとった。
 ルシアンが瞬時に前に飛び出す。
 
「エルセリカ様、僕の後ろに!」
 
 細い身体で彼女を庇おうとしたルシアンだったが、エルセリカはそれを制するようにドレスの裾を翻した。広場の隅、鍛冶屋の掘り出し物の樽の中に、売りに出されていた錆びついた鉄剣が突き刺さっているのが目に入る。
 エルセリカは迷わずその錆びた剣を力任せに引き抜くと、ドレスの動きの邪魔になっていた高いヒールの靴を乱暴に脱ぎ棄て、裸足のまま黒いローブの集団へと容赦なく斬りかかった。
 
「私は騎士だ! 容赦はしない!」
 
 激しい怒声とともに、エルセリカは錆びた剣を凄まじい風切り音とともに奮った。
 
「いけません! エルセリカ様!」
 
 ルシアンは慌てて、手から青白い攻撃魔法を黒いローブの者たち目掛けて放った。
 黒いローブの連中も負けじと、魔動機の杖の先端から赤黒い光弾を放ち、村のあちこちの地面や木々が激しく被弾する。爆辞が響く中、エルセリカの長いドレスの裾にも魔法の余波が掠め、美しい紺色のシルクが黒く焦げて弾け飛んだ。
 
「奴らを捕えろ! 逃がすな!」
 
 村人たちや、待機していたエストレアの護衛騎士三名も武器を手にして参戦する。
 辺りは魔法での激しい攻防戦になった。
 
(……あの魔動機の杖。あいつら、奴ら自身は魔法が使えない者か……?)
 
 魔力を体内に持っているルシアンやサイラスとは違い、彼らは魔動機の仕組みによって強制的に魔法を放っているに過ぎない。エルセリカはその一瞬の違和感を見逃さなかった。
 
(それなら……発動までの隙が大きい。懐に入れさえすれば……!)

 裸足で地を蹴り、エルセリカは黒いローブの男の一人へ素早く肉薄した。
 射程圏内へと強引に侵入し、錆びた剣を容赦なく一閃する。
 
「なっ!?」
 
 黒いローブの者は驚愕の声を上げ、寸前のところで必死に身を躱した。剣先はローブの布地を裂いたものの、浅い。
 
「っく!」
 
 体制を崩したエルセリカの隙を突き、別の黒いローブが彼女の至近距離から魔動機の杖を向け、魔法を放とうとした。
 
「ぐおっ!」
 
 ルシアンがとっさに放った、凄まじい威力の衝撃魔法が男の胴体を直撃し、大砲のように激しく吹き飛ばした。その余波の凄まじい突風に煽られ、子供を抱えていた主犯格の男もバランスを崩して派手に転倒する。
 
「きゃあああああっ!」
 
 叫び声とともに、黒いローブの腕から幼い少女の身体が宙へと放り出された。
 
「危ない!」
 
 エルセリカは錆びた剣を投げ捨て、裸足のまま地面へと全力で滑り込み、落ちてくる少女の小さな身体をその両腕でしっかりと受け止めた。凄まじい摩擦音とともに地面を滑り、エルセリカのネイビーのドレスは背中側が激しく擦れ、ほぼボロ切れのような無残な姿へと破け飛んだ。
 
 子供を奪還された黒いローブのリーダーは、地面に倒れたままエルセリカの銀髪とエメラルドの瞳をじっと見つめた後、何かを囁くように合図を出し、一斉に散開して深い森の奥へと煙のように消え去っていった。
 
「逃がすな! 追え!」
 
 護衛のエストレア騎士と村の若い男たちが、武器を手にその後を猛然と追いかけていく。

「エルセリカ様!」
 
 ルシアンがエルセリカの元へと必死に駆け寄ってきた。
 
「ふぇえええん……! 怖かったぁ……!」
 
 エルセリカの腕の中で、少女は激しく泣きじゃくっていた。
 
「もう大丈夫だ。怪我はないか?」
 
 エルセリカは自身のボロボロの姿など気にも留めず、少女を優しく抱きしめ、その銀髪の頭を何度も撫でて安心させた。
 
「エルセリカ様……お怪我は!? 」
 
 ルシアンはエルセリカのボロボロの姿を見て顔面蒼白になった。
 
「私は大丈夫だ。ルシアン、それよりこの子の治療を……」
 
 エルセリカは駆け寄ってきた母親の元へ少女を預け、安堵の息をついた。
 
「エルセリカ様……本当に困ります。僕はバルザード陛下から、貴方の護衛を命じられているというのに……もしものことがあったら、僕は……!」
 
 ルシアンは落胆した表情で、ぽつりと声を漏らした。
 
「問題ない。私は騎士だ、これくらいの荒事は慣れているさ」
 
 エルセリカは笑ってみせようとしたが、ルシアンの困惑した表情にかける言葉がなかった。

「……王妃様がそのお姿では、他の男たちが目のやり場に困るでしょう。ひとまず、こちらを着ていてください」

 ルシアンは、自身の着ていた純白の魔導士のローブを素早く脱ぐと、それをエルセリカの豊かな肩へと優しく被せた。
 
 エルセリカの姿は、お世辞にも「王妃」と呼べるものではなかった。美しいネイビーのドレスは魔法の被弾とスライディングによってボロボロに裂け、裾は当初の長さの半分ほどにまで短くなって白い足が完全に露わになっていた。さらに、背中側も激しく擦れて、ほぼ生肌が剥き出しの悲惨な状態だった。

「あぁ……すまないな、ルシアン」
 
 彼の細やかな気遣いを受け入れ、エルセリカは白いローブの前を固く合わせた。
 やがて、精霊の森の奥へと黒いローブを追っていたエストレアの騎士と村人たちが、苦渋の表情で帰ってきた。
 
「……取り逃がしました。ですが、あの魔動機の扱い、おそらくはいつもの『あの組織』の連中でしょう。ここ最近は大人しかったというのに、なぜ急に……」

 精霊の森へ黒いローブを追った村人たちが苦々しく言った。
 
「そもそも、どうやって精霊の結界を抜けてこの村にまで侵入したのだ……?」
「この隠れ里にまで奴らの手が伸びるなんて……」
 
 村人たちは一様にざわつきだし、平穏を脅かされた恐怖に不安の声を漏らした。
 
「今回の件は、王宮に戻ってすぐに徹底的な調査を行います」
 
 ルシアンが厳しい表情で村人たちに約束する。
 
「ルシアン、助かるよ。頼んだぜ……」
 
 村人が藁にもすがる思いで頷く。
 
「……エルセリカ様。今日のところは、ひとまずお城に帰りましょう」
 
 ルシアンは、重く暗い声音でそう告げた。
 エルダー・ヴィオラの村人たちの沈痛な見送りと、背後に迫る大きな陰謀の気配を感じながら、一行は急ぎ馬車へと乗り込み、失意の中で隠れ里を発った。

 二台の馬車がエストレア城の広大な中庭に入ると、バルザードとサイラスの二人がエルセリカとルシアンの帰りを待っていた。
 馬車の扉が開き、ルシアンの白いローブを羽織った、ボロボロのエルセリカが姿を現した瞬間、バルザードは言葉を失って完全に絶句した。
 
「な……っ。なんだ、その格好は……!?」
 
 バルザードの端正な顔は、彼女の無残に裂けたドレスと裸足の姿を目にした瞬間、一気に青ざめた。
 
「一体何があったか、説明しろ!」
 
 バルザードはこれまでにないほどの血相を変え、馬車から降りてきたエストレアの護衛騎士に向かって怒号を浴びせた。
 
「も、申し訳ありません……! エルダー・ヴィオラの境界にて謎の集団と戦闘になり、我々の警護が至らず……っ!」
 
 騎士がしどろもどろになりながら答えているところへ、エルセリカが毅然とした足取りで割って入った。
 
「村の子供が不審な連中に誘拐されそうになったのだ。少し戦闘になったが、私は大丈夫だ」
「少し……だと?」
 
 バルザードの青い瞳が、エルセリカの破れたドレスの裾から覗く、擦り傷だらけの足を捉えた。とても『少しの戦闘』で済んだ姿ではない。
 
「……まさかお前、自ら剣を取って戦ったんじゃないだろうな?」
「私は騎士の心得を持っている。子供を救うために当然の行動をしたまでだ。問題ない」
「——そういうことではない!!!」

 地を揺るがすようなバルザードの怒声が、静かな中庭に響き渡った。
 これまでに聞いたこともないような王の激昂に、周囲の衛兵や騎士、そしてルシアンまでもが完全に息を呑んで黙り込んだ。
 
「エルセリカ! お前は、自分が今どういう立場にいるのかを、全く分かっていない!!!」
 
 バルザードは肩を激しく震わせ、狂おしいほどの怒りを剥き出しにして叫ぶ。
 
「何を言う! 子供を守るのも、騎士の、そして人の務めだろう……!」
 
 エルセリカも負けじと、そのエメラルドの瞳を厳しく尖らせて反論した。
 
「お前はもう、騎士ではない!!!」
 
 バルザードのさらなる絶叫が、中庭の空気を完全に凍りつかせた。冷たい風が、二人の間に吹き抜ける。
 
「何のために……何のために護衛をつけさせたと思っているのだ!? 王妃を守るためだ! 」
「私は……! 自分の身くらい、自分で守れる!」
「黙れ!!!」
 
 バルザードの圧倒的な威圧感に、エルセリカは思わず一歩たじろいだ。
 
「もうお前は……守る側から、守られる側なのだということを自覚しろ」
 
 バルザードの低く冷徹な声音が、辺りの空間そのものを氷の檻に閉じ込めるようだった。
 
「エルセリカ……お前に命ずる。もう、二度と剣を取るな。魔法も使うな」
「!」
「そして——本日限りで、“この城からの一切の外出を禁止”とする」
「なっ……!」
 
 エルセリカは衝撃のあまり絶句した。それは、彼女から自由を完全に奪い去る、事実上の『軟禁命令』だった。
 
「陛下! すべては私の不徳の致すところです! 罰は、護衛を任されていたこの僕が受けます。ですからどうか、エルセリカ様への処分は……!」
 
 ルシアンが慌ててバルザードの前に膝をつき、必死の形相でとりなそうとした。
 しかし、バルザードは鬼の形相のままルシアンを一瞥すると、最後に、脇でずっと口を挟まずに静かに一部始終を見ていたサイラスへと視線を移した。

 サイラスの表情は、怒るでも焦るでもなく、まるで不器用な子供たちの激しいやり取りを遠くから見守るかのような、静かな父親の眼差しでバルザードを見つめ返していた。
 
 バルザードはその視線に僅かに毒気を抜かれたように、ふぅ、と深く息を吐き出した。
 
「……お前たちも、遠征で疲れたであろう。詳しい報告は、明日聞く。今日はもうゆっくり休め」
 
 バルザードはルシアンに静かにそう告げると、激しい音を立ててマントを翻し、一人で城の奥へと去っていった。

 残された中庭には、静まり返った重苦しい沈黙だけが流れていた。誰もが言葉を失い、身動きすらできない。
 
「……やれやれ。うちの若い陛下は、本当に気が利かないねぇ」
 
 その静けさを破るように、サイラスがいつもの気怠げな声を響かせた。彼は護衛の騎士たちを振り返る。
 
「あぁ、アンタら、もう下がって良いぞ。馬車の片づけだけよろしくな」
「はい!」
 
 騎士たちは救われたような面持ちでサイラスに敬礼すると、早足で馬車の片付けに取りかかった。
 
「エル、一旦治療室にいこう。その足……だいぶ痛いだろう?他にも怪我してないか見る必要があるからな」
 
 サイラスはエルセリカの元へ歩み寄ると、驚くほど優しく、労るような声音で声をかけた。
 エルセリカは何も言わず、ただ静かに頷いた。その拍子に、彼女の長い睫毛から、微かにきらりと光る涙の雫が一つだけ、地面へとこぼれ落ちた。
 
「サイラス殿……僕が……僕のせいで……申し訳ありません……」
 
 ルシアンの表情もまた、激しい自責の念で完全に憔悴しきっていた。
 
「誰も悪くねぇよ、気にするな。話は後で俺がいくらでも聞いてやるから。お前もまずは、部屋に戻って少し休め」
 
 サイラスはルシアンの肩を優しくポンと叩いた。そして、傷ついた裸足のエルセリカの細い肩をいたわるようにそっと抱き寄せ、ゆっくりとした足取りで治療室へと歩き出した。ルシアンもまた、消え入りそうな影を引いて二人の後に続いた。

 *
 
 治療室のベッドに腰掛けたエルセリカは、初老の医師によって両足の丁寧な手当てを受けていた。
 
「まぁまぁ……王妃様ともあろうお方が、これほど無茶をなさるなんて……」
 
 医師は呆れたように苦言を呈しつつも、泥と血に汚れた彼女の足を温かい布で拭い、手際よく消毒した。
 
「背中の方も、かなり激しく擦れていますね……。痛まれますか?」
 
 子供を助けた瞬間にできた、背中の生々しい擦り傷は、白く美しい肌の上で痛々しく真っ赤に腫れ上がっていた。
 
「お風呂で身を清められましたら、こちらの特製の軟膏をよく塗ってください。すぐに痛みは引きますから」
「……ありがとう」
 
 エルセリカは、医師に向けて消え入るような声で丁寧にお礼を言った。

 手当てを終えて、三人は治療室を出ると、静まり返った回廊を通り、エルセリカの部屋の前へと向かった。
 豪華な扉の前まで辿り着いたところで、サイラスが静かに口を開いた。
 
「夕食は後で部屋に運ばせる。何か必要なものがあったら、どんな小さなことでも侍女を呼びつけて構わないからな」
「……ありがとう」
 
 エルセリカのか細い声が、廊下に寂しく響く。彼女は肩にかけていた白いローブをゆっくりと脱ぐと、それを両手でルシアンへと差し出した。
 
「ルシアン……これ、貸してくれて、ありがとう……」
「エルセリカ様……本当に、申し訳ありませんでした……」
 
 ルシアンはローブを受け取ると、悲痛な面持ちで再び深く頭を下げた。
 
「ゆっくり休めよ、エル。……明日、お前と少し真面目な話をしたい」
 
 サイラスはいつもの軽薄さを完全に消し去り、真剣で、どこか温かい眼差しでエルセリカを見つめた。
 エルセリカは静かに頷いた。その表情は虚ろであった。
 
「じゃあ……おやすみ……」
 
 彼女はそう言い残すと、逃げるように自身の部屋の中へと入り、静かに扉を閉めた。

「さて。今度は、お前の番だな!」
 
 サイラスは残されたルシアンの肩を、今度は力強く、優しく抱き寄せた。
 
「サイラス殿……」
「さぁ、行くぞ」
 
 偉大な師匠とその最愛の弟子は、青白い月明かりが静かに降り注ぐ王宮の回廊を、魔導士の執務室へと向かって静かに歩みを進めるのだった。

第九章 陽だまりの墓碑に、誓いの花を束ね

 澄み渡るような青空が広がっていた。エストレア城の敷地内、歴代の王やその側近といった高貴な者たちが眠る墓地は、静寂に包まれている。

 エルセリカは、背中の擦り傷に差し支えないよう、ゆったりとした仕立てのシルクのドレスを纏っていた。足元の傷も隠れるほどの丈があり、彼女の歩みは慎重だ。遠くでは侍女が、主の静かな時間を邪魔すまいと控えめに控えている。
 
 エルセリカは、大きな墓石と小さな墓石が寄り添うように並べられたその場所に、じっと視線を落としていた。二つの墓石の前に、持参した美しい白いユリの花を丁寧に添える。

「エルセリカ様……?」

 背後からかけられた、透き通るような優しい声に、エルセリカはゆっくりと振り返った。そこには、どこか疲れたような表情で、しかし驚いたように目を見開くルシアンが立っていた。彼の手には、エルセリカが供えたものと同じ白いユリの花と、水の入った木のバケツ、そして雑巾が握られている。

「どうして……ここに……」

 ルシアンが戸惑いを隠せない様子で問いかけると、エルセリカは穏やかに、しかし正直に告げた。

「昨日、村の者から教えてもらったんだ。サイラスの妻と子のことを……」
「……そうですか。全く、彼らはお喋りで困ったものです……」

 ルシアンは小さく溜息をつくと、サイラスの妻子の墓石へと近づいた。彼はバケツの水で雑巾を濡らし、力強く絞ると、汚れひとつない墓石をさらに丁寧に拭き始めた。

「ここの墓が綺麗なのは、お前がいつも掃除しているからか?」

 エルセリカは気になっていたことを尋ねた。他の墓よりも際立って墓石が磨き上げられ、手入れが行き届いているのは明らかだった。

「……そうですね……ごくたまに、ではありますが。サイラス殿にはあまり来るなと言われておりますので……」

 墓石を拭くルシアンの横顔はどこか寂しげで、近しい間柄であるはずのルシアンにさえ、サイラスにとっては触れられたくない、あるいは大切な過去なのだろうとエルセリカは推し量った。

 ルシアンは丁寧に作業を終えると、持参したユリの花を墓前に優しく供えた。

「ルシアン……昨日はすまなかった」

 エルセリカはルシアンと向き直り、謝罪の言葉を紡いだ。騎士として人助けをする行為がまさかバルザードの怒りを買うとは思わなかった。あの後、バルザードに投げつけられた言葉が、エルセリカの頭の中で繰り返し反芻されていた。

「いえ、エルセリカ様が謝ることではありません……」

 ルシアンは優しく首を振った。彼もまた、昨日の一件から心身ともに疲弊し、憂いを帯びた表情をしていたが、そのエメラルドの瞳は真っ直ぐにエルセリカを見つめ返していた。

「……まったく、人んちの墓の前で賑わってて嬉しいよ」

 いつの間にか、背後にサイラスが立っていた。彼は無精ひげを蓄えた顔を少し歪め、足音も立てずに二人の元へ歩み寄る。

「ルシアン、頻繁に来なくていいと言ったはずだぞ」

 サイラスは墓石にそっと手を触れ、愛おしむように撫でながら呟いた。怒気は全くなく、ただ淡々と、事実を述べるような声音だった。

「申し訳ありません……」

 ルシアンが力なく俯くと、サイラスは軽く息を吐き出し、その細い肩を優しくポンと叩いた。

「いつも綺麗にしてくれて、ありがとうな」

 その言葉は、先ほどまでの淡々とした態度とは打って変わり、温かな慈しみに満ちていた。ルシアンは注意と労いの言葉を同時に受け、どう返答すべきか迷い、なおさら深く俯くしかなかった。
 サイラスは視線をエルセリカへと向ける。

「アイツらから聞いたのか?」

 鋭い眼光を向けられ、エルセリカはその熱量から逃げるように墓石へと視線を戻した。

「お前にも……守るべきものがあったのだな」
「……守れなかった……がな」

 サイラスもまた、墓石へと視線を移す。

「昨日はすまなかった」

 エルセリカが改めて謝罪を口にすると、サイラスは首を横に振る。

「いや、いい。俺も一緒についていけば良かったと反省していたところさ」
「私のせいで誰かが処罰を受けるのは本望ではない」

 エルセリカが淡々とそう語りながら、傍らで元気をなくしているルシアンを見ると、サイラスは不敵に笑みを浮かべた。

「フっ……。大丈夫だ。バルザードはそんな悪い奴じゃねぇよ」

 まるで自分の息子を庇う父親のような口ぶりでサイラスは言い放ち、ニヤリと笑った。

「ちっと、すぐに頭に血が上るタイプではあるがな」

 サイラスのその様子に、エルセリカも少しだけ表情を緩めた。

「俺は前の王……つまりバルザードの親父だな……と、まぁ友達だったんだ。だから、バルザードのことも小さい頃から知っている」

 どことなくそんな予感はしていた。バルザードは殊更サイラスのことを信頼していたからだ。
 
「……サイラス。お前、苦労しているんだな」
「だろぉ!? 王妃様に分かってもらえて光栄だぜ!」

 サイラスは仰々しく両手を広げて見せた。
 その冗談めかした態度から、一転して彼は真剣な表情を浮かべる。

「エル……お前にとっちゃ不本意かもしれねぇけど、俺はお前がエストレアに来てくれて、本当に良かったと思ってる」

 エルセリカはその言葉を静かに胸の内に受け止めた。

「昨日、実感しただろう? 月夜の民が常に脅威にさらされていることを……俺はアイツらを守りたいんだ」

 サイラスは再び墓石を見つめる。エルセリカもそれに倣う。

「それにお前や、ルシアンのこともな」

 サイラスの言葉には、過去に守れなかった者たちへの後悔と、今目の前にいる者たちへの深い決意が混ざり合っていた。

「昨日の連中は一体、何者なのだ?」

 エルセリカは率直な疑問をぶつけた。
 
「ただのゴロツキ……と言いてぇところだが、いずれお前にも分かるだろう。ただ、結界を破ってきたのは……もう時間がないのかもしれないな」

 精霊の森の結界が破られた事実は、エルセリカにとって大きな衝撃だった。
 精霊の森は月夜の民しか入れない場所だったはずだ。

「一般の人間でも入れる……ということか?」
「いや、精霊の森の結界は強固だ。どちらかというと、連中の技術が発展してきているんだろう」
「技術……」

 エルセリカは本も嗜む方ではあったが、エストレアが言う技術というのは魔法の力のことなのだろうと察した。
 
「月夜の民を連れ去り、根幹の魔力を吸い、奴隷として扱い、力尽きた頃には嬲り殺して銀髪とエメラルドの眼球を装飾に施すような、野蛮な連中だ」
「なっ……!」

 エルセリカは、そのおぞましい話に恐怖よりも先に、腹の底から湧き上がる激しい怒りで身体を震わせた。

「何故、そんな連中を野放しに!」
「別に放ってるわけじゃねぇ。殺しても殺しても湧いて出てくるんだ」

 サイラスの声は、これ以上にないほど憎しみが込められていた。
 
「親玉は……」
「親玉が誰かは分かっている。だが、居所がつかめない。昨日みたいなのは、自身の親玉すら知らねぇ下っ端の連中さ」
「……」

 エルセリカは押し黙った。沈黙の中、柔らかい風が墓地を吹き抜け、そこにいる者たちを静かに包み込んでいく。その風に宥められるように、サイラスは一呼吸置いた。

「それより、足は大丈夫か?」
「あぁ、取り敢えず歩けはするから。ありがとう」
「バルザードが、みんなで朝食を摂りたいと言っていた」

 サイラスが何の気なしに話題を切り替えた。エルセリカは気が重かったが、これ以上バルザードの機嫌を損ねるわけにはいかないと判断し、了承した。

「ルシアン様、そちらのバケツはわたくしが片付けておきます」

 側に控えていた侍女が三人を気遣い、雑用を申し出た。ルシアンはお礼を言ってバケツを預け、三人は食堂へと向かった。
 
 食堂の入り口で、バルザードと鉢合わせた。彼はサイラスとルシアンには目もくれず、真っ先にエルセリカの正面へと歩み寄る。

「エルセリカ、足はどうだ?」
「……まだ痛みはあるが……歩けるから大丈夫だ」

 バルザードの顔を直視できず、エルセリカは顔を逸らして答えた。バルザードはエルセリカを抱き寄せると、そのまま長いドレスの裾を躊躇なくめくり上げた。

「きゃっ!」

 エルセリカは驚いて少女のような声を上げ、ドレスの裾を慌てて抑えながら顔を真っ赤にした。

「ば、ばか! こんな通路で女のスカートをめくる奴があるか!」

 サイラスは相手を国王としてではなく、旧友の息子として叱り飛ばす。

「何が悪い? 我が妻になる女だ。問題ないだろう」

 バルザードは至って真剣に、何一つ悪いことはしていないといった表情で応じた。

「そういうことじゃねぇよ!」

 サイラスは頭を抱えるように呆れ果てた。

「後でちゃんと傷の状態を確認する。まずは食事にしよう」

 バルザードはそう言うとエルセリカの手を取り、ゆっくりと歩き出した。サイラスとルシアンは呆れた顔を見合わせ、二人の後に続いた。
 
 食事の間、四人は終始無言だった。楽しい食事とは程遠い空気に、なぜバルザードが会食を望んだのか謎は深まるばかりだった。

「エル、具合でも悪いのか?」

 食事が進まないエルセリカを気に留め、バルザードが尋ねる。

「あまり……食欲がなくて……」

 この重苦しい空気も理由の一つだったが、食欲がないというのは嘘ではなかった。

「ふむ……」

 バルザードは少し考えた後、エルセリカを休ませると言って彼女と共に席を立った。

「おぉ……ようやくエスコートする気になったか」

 サイラスがニヤニヤしながら二人の背中を見送ると、ルシアンが咎めるような視線を向けた。

「サイラス殿……失礼ですよ、そういうのは」

 ルシアンは呆れながら静かにサラダを頬張った。
 
 *
 
 バルザードはエルセリカを連れて王妃の部屋に入ると、ベッドに座るよう促した。エルセリカが腰を下ろすと、バルザードは屈み込み、彼女の足を優しく取った。

「結婚式までに治れば良いが……」

 バルザードが憂いを帯びた表情を見せたので、エルセリカは申し訳ない気持ちになった。バルザードは今度はエルセリカの隣に座ると、ドレスの背中のチャックを強引に開けた。

「薬はちゃんと塗っているのか?」
「今朝はまだ……」
「薬はどこだ?」
「机の上にある……」

 バルザードは机の上の薬を手に取ると、自らの手でエルセリカの背中に塗り始めた。急に触れられたことで、彼女の身体がピクリと動く。

「痛むか?」
「いいえ……」

 会話は端的でぎこちないままだった。

「バルザード……昨日はすまなかった」

 エルセリカは本日三人目の謝罪をした。しかし、バルザードは何も言わず、ただ淡々と薬を塗り続けた。チャックを締め直すと、彼はようやく口を開いた。

「エル、昨日は怒鳴ってすまなかった」

 バルザードもまた、エルセリカと同じように謝罪した。
 エルセリカはこの時初めて思った。みんなで朝食を摂ろうと言い出したのも、こうして気遣いを見せるのも、恐らく謝る機会を伺っていたのだろうと。
 
 この男がいかに不器用であるかを知り、彼女は少しだけ複雑な思いを抱く。

「だが、もう危ないことはしないでくれ」

 その表情は昨日とは違い、心からの心配に満ちていた。自分を心配してくれるその姿に、エルセリカはまた心が痛んだ。

「足がこれでなければ、お前に城内を案内したかったのだがな。また今度にしよう」

 バルザードが初めて柔らかい表情を見せた。年相応の男性の、優しい表情だった。

「はい……」

 エルセリカはその日初めて、しっかりと彼の顔を見つめて返事をした。満足したのか、バルザードは立ち上がる。

「私は公務がある。エル、何か困ったことがあれば侍女に言いつけてくれ」

 そう言って部屋を出て行った。
 エルセリカの心境は穏やかだった。バルザードとコミュニケーションが取れたとは言い難いが、彼の優しさを感じたのは確かだった。

(これが……友としてなら良かったのに……)

 エルセリカの心の中にバルザードへの憎しみはもうなかった。寧ろ、印象は好転している。しかし、どれほど優しくされても、「恋愛感情」を芽生えさせることは難しい。だからこそ、バルザードに優しくされればされるほど心が痛む。エルセリカはベッドに座ったまま、深く項垂れた。

 *

 王妃の部屋を出たバルザードは、真っ先にサイラスの元へ向かった。サイラスはニヤついた顔でバルザードを迎える。

「どうだった? 上手くできたか!?」
「エルはとても反省しているようだった」

 サイラスはバルザードがエスコートを成功させたかを確認したかったが、回答は斜め上をいっていた。

「はぁ……これだからお前ってやつは……」

 サイラスは大きな溜息をついた。

「サイラス、エルセリカに護衛を付けたい。本来ならお前に買って出てほしいところだが……お前に公務を抜けられると困ってしまうのでな」
「護衛……」
「そうだ。エルが戦う必要がないくらい、屈強な奴を頼む」
「ふーん……。アイツは? この前のデッカい赤い女」

 サイラスは好機とみて、ヴァルカのことを進言してみた。

「あのティーフリングか……いまいち信用ならない」
「アイツ割と頑丈だぜ?」
「……」

 バルザードは少し考え込んだ。恐らくサイラスが信頼するだけの根拠があるのだろうと推察した。

「では、こうしよう。エルを護衛をするだけの熱意があるか、トーナメントを開催してくれ」

 サイラスはバルザードの急な無茶ぶりに目を見開いた。

「別にそんなことしなくても……」
「見事勝ち上がってきた、熱意のあるものに王妃の護衛を任せる。エルの命をその身に懸けて守ってくれるなら、どんな者でも良いだろう」

 そう言ってマントを翻し、バルザードは執務室へと向かって行った。

「やれやれ……」

 サイラスは頭をかきながら、突如の思い付きで開催することになった余興の準備へと重い腰を上げた。

第十章 黒き灯火を頼りに、復讐の淵を歩む

 オルディナ共和国の東方、乾いた大地にへばりつくような貧相な村。
 その朝は、村の静寂を切り裂くような騒音から始まった。

 イゾルデは、村を訪れていた行商人を呼び止めると、自分が今着ている最高級のピンクのドレスの売却を持ちかけた。しかし、行商人が提示したあまりに低い買取り額を聞くや否や、彼女は鬼のような形相で声を荒らげた。

「いい? このピンクのドレスはヴェルダンテ王家御用達の最高級品よ! 貴方のようなしがない行商人が一生かかっても稼げない額を叩きつけてでも手に入れる価値があるわ!」

 イゾルデの高圧的な態度と怒号に気圧され、行商人は額の汗を拭いながら、渋々と当初の提示額を大幅に上回る高値を口にした。イゾルデはその金額を確認すると、ふんと鼻を鳴らして顔を背ける。

「……じゃあ、今度は私が着る服を出しなさい。このドレスを渡したら、着るものがなくなってしまうでしょう?」

 イゾルデが当然のように命じると、行商人は溜息交じりに荷物の中から、いくつか古びた着替えの服を取り出し、広げて提案した。
 あるものは袖口が綻び、またあるものは酷く色あせていた。イゾルデはその並べられた品々を冷ややかな目で見つめ、どれもが自分の身分にはふさわしくないとばかりに、次々と突き返していく。

「……もっとマシな服は無いの? 私の肌にこんな肌触りの悪いものを着せようというの!」

 突き放すように問いただすと、行商人は困ったように肩をすくめた。

「そりゃあ、お客様の体型ではその服しかご用意できなくてねぇ……」

 その言葉が、プライドの高いイゾルデの逆鱗に触れた。

「はぁ!? 誰の体型に文句を言っているのよ!」

 彼女は顔を真っ赤にして激昂した。イゾルデの怒声が、静かな村の朝に不穏な波紋を広げていく。

 一方、その騒ぎから少し離れた場所で、ヴェルダンテの元騎士たちが、オルディナの都市で仕事を探そうと馬車を調達していた。取りまとめ役であるヒルダが、地図を見ながら考え込んでいたフィリアスに声をかける。

「フィリアス、お前はどうする?」
「そうだな……」

 フィリアスは、思案するように金色の前髪をかき上げると、行商人とひと悶着を起こしているイゾルデの方を見た。ヒルダはその視線を追い、イゾルデに対して訝しむような眼を向けた。

「……ヴェルダンテはもうない。それに、あのお方は“王女様”ではないぞ?」

 ヒルダは、イゾルデが偽物の王女だと知った今、敬う気持ちは一切なくなっていた。
 フィリアスはそんなヒルダの心中を察し、冷ややかな微笑を浮かべた。

「お前の騎士道はそんなものか? 困っている者を見捨てるなど私にはできない」

 フィリアスは建前を取り繕うと、イゾルデの元へ歩み始めた。

「私たちもオルディナへ向かう。二名追加で頼む」

 ぶっきらぼうに命じるフィリアスに、ヒルダは呆れ返りながらも、溜息とともに御者へと人数を伝えた。
 フィリアスは苛立ちを隠せない様子のイゾルデに声をかけた。

「連中がオルディナへ行くと言うので、我々も都市へ向かう馬車に乗せてもらうことにしました」

 イゾルデはボロボロの衣服を身にまとい、不満そうな態度を露わにしながら、鼻を鳴らした。

「都市部の方が何かと便利でしょう。あちらにはちゃんとした食事もありますから」

 フィリアスは不機嫌なイゾルデを宥めるように優しく、しかしどこか見下すような響きを含ませて告げた。
 こうして元騎士たちとイゾルデの一行を乗せた馬車は、塵にまみれた村を後にした。

 都市部に到着すると、元騎士たちはそれぞれの生計を立てるために足早に街へと散っていった。

「あの田舎村は不便なので、まずはこの都市部を拠点にしましょう」

 フィリアスの説明に、イゾルデは素直に頷く。
 しかし、二人ともこの街は初めてだったので、目的地の「宿屋」を見つけるために右往左往することになった。
 ようやく見つけた宿屋の前で、フィリアスは立ち止まる。

「私は資金がありませんので、このまま日雇いの仕事をして宿泊費を稼いできます。夕方にこの宿屋で落ち合いましょう」
「わ、私はどうすれば……」

 学も才もなく、常に誰かに「してもらえる」ことしか知らなかったイゾルデは、放り出された迷子のように困惑した。

「イゾルデ様は……そうですね、観光でも自由にしていてください」

 フィリアスは無責任とも言える言葉を残し、人波の中へと消えていった。
 取り残されたイゾルデには働く手段などない。しかし、彼女はふと、これまで身に着けていたヴェルダンテ王家のエメラルドのティアラやネックレス、イヤリング、指環を換金しようと考えた。
 
 街をくまなく探し、質屋を見つけると、店主に対して横柄な態度で宝飾品を叩きつけ、店の有り金のほとんどを強引に強奪するようにして手に入れた。
 再び手にした大金に、空腹が追い打ちをかける。

「ロクなもの食べていなかったからお腹が空いたわ……」

 街の商業施設で高級そうなレストランに入ろうとするが、古ぼけた服装の彼女を店員が制止しようとした。イゾルデは札束をちらつかせ、有無を言わさず店内に案内させる。その姿に周りの客が呆気にとられる。
 
 腹を満たし、大通りに並ぶ洋菓子店や雑貨屋を堪能して日が落ちた頃だった。
 イゾルデは宿屋へ戻ろうとして道を間違え、裏路地に迷い込んだ。空気が悪く、怪しい男たちがたむろしている。

 イゾルデの後ろからも大男がゆっくりと近づいてくる。イゾルデは、この男が所々でこちらを見ていることに気づいていた。恐らく、高級レストランや商業施設で大枚をはたいていた姿を見て、つけていたと推測した。その時、どこからともなく声がした。

「お嬢さん、そこは危ないねぇ、こちらにいらっしゃい」

 老婆の声に導かれるまま、イゾルデは裏路地を進む。しかし、行き止まりだった。

「あれ? 確かにこっちから声が聞こえたはずなのに……」
「そのまま進んで」

 その声は壁の向こうから聞こえ、イゾルデが触れると、壁に吸い込まれるようにして通り抜けた。
 通り抜けた先は魔法雑貨屋だった。しかし、エストレアの面白くも賑やかな店とは違う、日常的ではない禍々しい品々が並ぶ場所だった。カウンターの向こう側には、老婆が座っていた。

「若い女性がこんなところをうろつくもんじゃないねぇ」

 薄気味悪い笑みを浮かべる老婆に、イゾルデは説明する。

「宿屋に帰るところで道に迷ったの」
「ホホホ。宿屋まで送り届けてあげようかねぇ」

 老婆の親切心にを聞く前に、既にイゾルデの心は店内の商品に目を奪われていた。

「それにしても面白いものを売ってるわね」

 一角に、古着の魔導士のローブや普段着が置かれているのを見つける。手に取って鏡に合わせるが、今のふくよかな体型では到底入らない。

「はぁ……やっぱり痩せないと入らないわね」
「ホホホ。お困りかねぇ? “痩せる薬”なんてものもあるがねぇ?」

 イゾルデが振り返ると、老婆の前に薬瓶が並べられていた。

「うちには薬も取り揃えておるがねぇ? 眠り薬、惚れ薬、性転換薬、化け薬、しびれ薬、毒薬……そして“痩せる薬”ももちろんあるねぇ」

 イゾルデはピンク色の体に悪そうな液体を四方八方から眺めた。

「本当に痩せるんでしょうね?」
「ホホホ。危ない薬じゃないがねぇ」

 イゾルデは代金を支払うとその場で飲みほした。
 直後、猛烈な腹痛が襲う。

「お、おばあさん! トイレ貸して!」
「ホホホ。右奥のドアの向こうさねぇ」

 イゾルデは足早にトイレへ駆けこんだ。
 しばらくしてトイレから出てきたイゾルデの身体は、先ほどとは見違えるほど痩せていた。

「ホホホ。随分と綺麗におなりねぇ」
「お腹は痛くなったけど、ほんと! 痩せてるわ!」

 鏡に写る自分の姿に感激するイゾルデに、老婆は念を押す。

「この痩せる薬は効果は永続さねぇ。但し、食べ過ぎると結局元に戻ってしまうからほどほどにねぇ」

 イゾルデは大きく頷き、先ほど気に入った服を購入し着替えた。
 続いて、宿屋への道を尋ねると、老婆はうんうんと頷いた。

「目を瞑ってごらん」
「?」

 イゾルデは老婆に従い目を瞑った。しばらくして老婆が「目を開けていいよ」と告げた。目を開けると、宿屋の前だった。
 そこへちょうどフィリアスが戻ってきた。

「フィリアス!」

 元気よく呼ぶイゾルデに、フィリアスはたじろいだ。

「え? あの……? どなた様でしょうか?」
「ちょっと! 私が分からないの!?」

 イゾルデはフィリアスがつまらない冗談を言っているのかと思った。
 
「まさか……イゾルデ様?」
「当たり前でしょう? 私もう疲れたわ。さ、取り敢えず宿屋に入りましょ」

 フィリアスは戸惑いを隠せない。二人はそれぞれ別の部屋を取りチェックインを済ませた。
 一旦、イゾルデを部屋に見送ると、彼は改めて尋ねた。

「イゾルデ様……一体何があったのですか? その恰好は……」
「実はね! 面白いおばあさんに会ったの!」

 事の顛末を話すと、フィリアスは興味を抱いた。表に出ない商品を扱う闇の雑貨屋。
 そんな商品を扱う人物が「表」の人間とは到底思えなかった。

「イゾルデ様。明日、私もその老婆に会いたいのですが……?」
「良いわよ!場所なら覚えてるわ!」

 この何も考えていなさそうな元気な返事がフィリアスを不安にさせた。
 
「で、では、また明日……」

 フィリアスが部屋を出ようとすると、イゾルデが裾を掴む。

「イゾルデ様、何かまだ?」
「あなたもそろそろ人肌が恋しいんじゃないかと思って」

 彼女は胸元をちらつかせた。

「イゾルデ様……申し訳ありません、本日は日雇いの仕事で疲れておりまして……」
「あら、そ!」
「また明日の朝、部屋にお伺いします」

 フィリアスは淡泊に言い残し、颯爽と部屋を出た。

「フンッ! つまらない男ね!」

 イゾルデはドアに向かって舌を出した。
 
 足早に自分の部屋に戻ったフィリアスは、大きく溜息をついた。

(エストレアの官僚たちがあの女と性行為を嗜んでいたなんて噂があったが、冗談だろう? 想像するだけで気持ち悪い……)

 フィリアスは俗世の汚れを流すため、シャワー室に入った。
 シャワーを浴びながら思考を巡らせる。

(あの女……思った以上に考えなしで困ったが、やはり悪運は強いようだ)

 全身の汚れを落とすように体を洗い、シャワーで流した。

(まずは、その“怪しい老婆”を探すのが先だな。あの女の言うことが本当なら……その老婆は間違いなく“我々の味方”になってくれるだろう)

 フィリアスは、蛇口を力強く締めた。その瞳には、復讐への冷徹な炎が宿っていた。

 *

 翌日、フィリアスは朝食を摂るべく食堂へと向かった。しかし、そこには既に食膳を終えたイゾルデが、満足げな面持ちで寛いでいた。

「イゾルデ様……おはようございます。朝は早いのですね?」

 常に怠惰を絵に描いたような彼女にしては、珍しいことだ。フィリアスが驚きを含んだ声で尋ねると、イゾルデは不満そうに眉をひそめた。

「昨日の夜からお腹が空いてしまって。でもここの朝食、凄く不味いわ!」

 イゾルデがあまりに高らかな声で感想を述べたため、カウンター内にいた店主が殺気立った視線を向けてくる。フィリアスは冷や汗を流しながら、慌てて彼女を制した。

「そ、そうですか……お口に合わなかったのは残念です。私も朝食を摂りましたら、お迎えに上がりますので、お部屋でお待ちいただけますか?」
「わかったわ」

 なるべくイゾルデを刺激しないよう気を遣い、フィリアスはほっと胸をなでおろした。彼が手早く朝食を済ませて部屋に戻り、イゾルデを呼び出すと、二人はすぐに宿屋をチェックアウトした。

「これからどうするの?」
「そうですね……あそこの宿屋は長期滞在に向いていませんので、どこか一室借りる必要がありますね」

 フィリアスが当然のように告げると、イゾルデは不思議そうに小首を傾げた。庶民の金銭感覚が未だに理解できていないらしい。フィリアスは溜息を呑み込み、本題を切り出した。

「取り敢えず、昨日イゾルデ様がお会いした老婆に会ってみたいのですが……」
「そうね! こっちよ!」

 イゾルデは張り切って裏路地へと足を進めた。
 そこは、増改築を繰り返した建物が陽光を遮り、昼間だというのに薄暗く、空気が淀んでいた。虚ろな目をした男たちが道行く者を品定めするように路地を這っており、フィリアスは張り詰めた殺気に即座に警戒心を高める。
 イゾルデが案内した場所は、昨日老婆と出会ったはずの壁だった。

「あら? おかしいわね。昨日はこの壁の向こうに……」

 彼女が壁をペタペタと触るが、どこをどう見ても、それはただの冷たい煉瓦の“壁”でしかなかった。
 その時、路地の後方から荒々しい男たちの怒鳴り声が響き渡った。

「な、何!?」

 イゾルデがフィリアスの影に隠れる。すると、足音がこちらに向かって近づいてくる。
 
 曲がり角の先から現れたのは、口から血を流し、うつろな瞳で目を見開いた男だった。
 その男は、フィリアスたちの前で糸が切れた操り人形のように崩れ落ちていく。

「ひっ……!」

 イゾルデが悲鳴ともつかない声を上げ、その凄惨な光景から目を背けた。
 直後、黒いローブを身に纏った男が姿を現した。男は足元に転がる死体を無造作に蹴り飛ばし、二人の前へ踏み出す。

「貴様ら、己がコイツにずっとつけられていたのを気づかなかったのか?」

 日の当たらない裏路地と黒いローブ姿でその男の顔は見えなかった。

「コイツはエストレアの諜報員だ」
 
 黒いローブの男は再びつま先で死体を小突いた。フィリアスは崩れ落ちた男を見た。やはり、田舎村の時から視線を感じていたのはエストレアの人間で間違いなかったようだった。

「……アンタは誰だ?」

 フィリアスが警戒心全開で問いかけるが、黒いローブの男は答えようとしない。ただ、顔は見えずとも、執拗にフィリアスを射貫いているかのような重圧を感じた。

「おやめなさい。その子たちは私のお客様さねぇ」
「!……おばあさん!?」

 イゾルデが安堵の声を上げた。老婆の声は、やはり壁の向こうから聞こえていた。
 イゾルデが真っ先に壁をすり抜けて姿を消した。フィリアスは驚きつつも、黒いローブの男を警戒しながら後退りして壁をすり抜ける。
 二人は老婆の雑貨屋に入り込んだ。

「おばあさん、ありがとう! 助かったわ!」

 イゾルデが嬉しそうに老婆に話しかけた。フィリアスは店内を見渡した。確かにイゾルデが言っていた通り怪しい雑貨屋ではあった。
 すると、店のドアが開き、先ほどの黒いローブの男も入ってきた。
 
「なっ……!」

 フィリアスが驚くと同時に、イゾルデはまたフィリアスの影に隠れた。

「ほう……まさかマダム・ベリャールのお得意先様とは……な」

 黒いローブの男はフードの奥から嘲るような声を漏らした。
 マダム・ベリャールと呼ばれた老婆は、不気味に目を細める。
 
「お嬢さん、またあたしに会いにきたということは何か用事でも?」
「あ、あのね、用があるのは私じゃなくて……」

 イゾルデはちらりとフィリアスの方を見た。
 フィリアスはマダム・ベリャールに向き直ると姿勢を正した。

「かすり傷でも致命傷を負えるほどの毒薬を購入したい」

 フィリアスは淡泊に言うとマダム・ベリャールの瞳を見つめた。

「ほう...?」

 マダム・ベリャールの瞳がキラリと光る。
 
「そんな毒薬をどうするさねぇ」
「商品を買うのにいちいち理由がいるのか?」

 フィリアスは射貫くような眼光をマダム・ベリャールに向け、威圧した。しかし、マダム・ベリャールは狼狽える様子も見せず、ただただ、フィリアスを見つめていた。暫しの沈黙が流れる。先に痺れを切らしたのはフィリアスだった。

「……くっ。毒薬は……エストレア王妃に使いたい」

 フィリアスの返答を聞くとマダム・ベリャールは薄気味悪い笑みを浮かべた。

「ホホホ。エストレア王のバルザードは未婚のはずだがねぇ?」
「いや...これから王妃になる女だ」
「そうなの! おばあさん!聞いてちょうだい!」

 イゾルデが横から口を挟んだ。
 
「あの女を! アイツを殺して欲しいの!」

 それは最早、取り返しのつかない一線を越えた要求だった。
 すると、後ろで話を聞いていた黒いローブの男が高らかに笑った。イゾルデとフィリアスは振り返って黒いローブの男を見た。

「滑稽だ。実にな。マスターが言っていたのは本当だったらしい」
「……」

 マダム・ベリャールは何も言わなかった。

「残念だが、王妃は殺せない」
「何故だ!?」
「マスターから月夜の民は殺すなと言われているからさ」

 黒いローブの男は淡々と答えた。イゾルデがマダム・ベリャールの方へ振り向くと、マダム・ベリャールも大きく頷いた。

「だったら、私がこの手で殺すまでだ...」

 フィリアスはこれまでになかったほどの憎悪を吐き出した。

「……。絶望を与えたいのなら、バルザードを殺すのはどうだ?」
「?」
「俺たちはエストレアを滅ぼすために動いている」

 黒いローブの男が語った。その声は周囲を凍らすほどの冷たさだった。

「貴様らがエストレアを滅ぼす功績を立てたら、マスターへ復讐の進言を立てても良い」

 これは交渉だった。フィリアスは思案した。地位も金も故郷も何もかも失ったフィリアスには最早退くという選択肢はなかった。

「……私は、何をすればいいのだ?」

 フィリアスは唇を噛みながら黒いローブの男に言った。
 
「まずは我々の拠点へ来い。歓迎するよ、元ヴェルダンテ騎士団、フィリアス・コールマン」

 その時初めて黒いローブの男の口元が見えた。不敵に笑う口元にイゾルデとフィリアスは背筋が凍った。いつの間にか黒い渦の深淵へと足を踏み入れてしまっていた。二人の復讐の誓いは、さらに深く、暗い淵へと飲み込まれていった。

第十一章 聖域を灼く陽光、暗渠で軋む鋼の鼓動

 平穏だったエストレア城内に、バタバタと慌ただしい足音が響き渡る。石造りの冷たい回廊に響くその乱れた靴音は、城の静寂を容赦なく切り裂いていった。

 息を切らせ、額に汗を浮かべた王宮魔導士の一人がサイラスの元へと駆け込み、緊迫した様子でその耳元へと口を寄せ、周囲に聞こえぬよう小声で耳打ちをした。

 その耳打ちの内容を聞いた瞬間、サイラスはブラウンの瞳を鋭く光らせ、表情を険しく歪めた。事態の深刻さを即座に察知した彼は、周囲に緊張感を走らせながら、取り急ぎ城内の精鋭部隊を即座に招集した。

 完全に人払いを済ませ、重々しい空気が満ちる一室。鍵の閉まった密室の中で、集められた精鋭部隊の隊長がサイラスの前に進み出ると、厳しい表情で改めて詳細な報告を口にした。

 報告の内容は、オルディナ共和国方面において、逃亡中だったフィリアスとイゾルデを秘密裏に監視・追跡していたエストレアの腕利きの諜報員が、何者かの手によって無残に殺害されたという衝撃的なものだった。

 室内の中心には、すでに息絶え、白い布を頭から掛けられた諜報員の遺体が静かに安置されていた。特有の血臭が薄暗い部屋の空気を澱ませている。サイラスは歩み寄ると、躊躇うことなくその白布をめくり、変わり果てた諜報員の遺体を正面から確認した。

「……うっ!」
「なんて惨い……」
「まさかアイツがやられるなんて……」

 室内の空気はにわかに不穏にざわついた。
 衣服を引き裂かれ、無残に変色した遺体の姿が露わになると、周囲を囲む精鋭部隊からは、あるものは驚きに目を見開き、あるものは痛ましさに顔をしかめて悲しんだ。

 しかし、サイラスは動じず、無言のまま冷たくなった遺体に直接触れつつ、熟練の戦闘経験から傷の状態をつぶさに調べ始めた。

「検死の結果ですが、体中に無数の傷はあります。ですが、最終的には喉を鋭く深くひと突きされたものが致命傷のようです」

 傍らに控えていた別の王宮魔導士が、手元の記録に目を落としながら、沈痛な面持ちで補足の報告を入れた。確かにサイラスの目の前にある遺体には、抵抗を許されずになぶられたような無数の切り傷が刻まれていた。それだけではない。

 死者の胸元には、あからさまにこちら側へ向けたメッセージ、あるいは警告とも受け取れる、歪で不気味な切り傷が深く残されていた。

 その胸の傷跡を凝視しながら、サイラスは無精髭の生えた顎に手を当て、不快そうに眉をひそめた。

(この前の嫌がらせのつもりか……)

 サイラスの脳裏に、先日エルダー・ヴィオラで発生した、月夜の民の誘拐未遂事件がよぎる。あの時、エストレア側によって目論みを潰された例の組織が、その腹いせとして、失敗の意趣返しをこの死体という形で送りつけてきた――そう思えなくもなかった。

 理不尽に命を奪われた部下への無念と、エストレアの威信を足蹴にされた屈辱により、サイラスの胸の奥で静かに、しかし激しい怒りの炎が燃え上がった。

「それから、もう一つ残念な報告が。この事件の直後から、フィリアスとイゾルデの消息が完全に分からなくなりました……」

 部下のさらなる苦渋の報告に、サイラスは遺体から視線を外さぬまま答えた。

「……そうか」

 ただ一言、サイラスは重い部下の報告を噛みしめるように受け取った。

 正直なところ、フィリアスとイゾルデの二人については、国家を揺るがすほどの脅威としてはそれ程感じてはいなかった。
 しかし、“連中”とあの利己的な元騎士が手を組むとなれば、話は完全に変わってくる。

「急ぎ二人の行方を捜索してくれ。それから、万が一に備えてエストレア全土の守備強化、さらに戦闘用の魔動機の調達も急ぎ手配してくれ」

 サイラスは振り返り、部屋に集う全員に向けて、低く通る声で的確に指示を下した。

 すぐに最悪の事態が起こるとは思ってはいない。だが、フィリアスは牢屋、イゾルデは軟禁状態という形ではあったものの、二人とも”エストレア城の内に居た”という厳然たる事実はある。城の構造や防衛の薄い部分を知られている可能性は否定できなかった。

 その場にいた精鋭部隊の面々は、サイラスの危機感に深く同調して鋭く了承すると、すぐさまそれぞれの持ち場へと、風のように仕事にとりかかった。

 一人残された部屋で、サイラスは深く、大きく溜息をついた。天井を見上げ、無精髭をなぞる。

(これは早々に、アイツを連れてこなきゃな……)

 サイラスは、かつて共に旅をした、誰よりも信頼できる大柄な女性のティーフリングの猛々しい姿を脳裏に鮮明に思い浮かべた。

 近々、国威発揚を名目に開催を予定している「護衛トーナメント」は、単なる華やかな催しではない。バルザードとエルセリカの結婚式を間近に控え、城内の守備を合法的に最大まで引き上げると同時に、国内外から有能な精鋭を一堂に集めて防衛線を強固にするための、高度な軍事策でもあったのだ。

(今は守るので精一杯だが……いずれ……)

 サイラスは静かに白布を死体に掛け直すと、その瞳の奥に、部下の仇を討ち、王国の敵を屠るという、復讐ともとれる苛烈な執念の炎を静かに燃え上がらせた。

 *

 不幸というものは、往々にして重なるものである。
 翌日、ヴェルダンテ王レジナルドの容態が危篤状態であると報を受け、エルセリカは息を呑み、急ぎ自室の扉を蹴るようにして飛び出した。

 心臓を激しく打ち鳴らしながら、長い回廊を足早に駆け抜け、レジナルドの静養する客室へと向かう。重厚な扉を押し開けた先、室内には既に、険しい顔をした国王バルザード、壁際に立つサイラス、そして祈るように手を組むルシアンたちが集まっていた。

 白く清潔なベッドに横たわるレジナルドは、痛々しいほどにやせ細り、その呼吸は弱々しく浅い。医学の力を以てしても、既に生きる力はほとんど残されていなかった。

「お父様……!」

 エルセリカはベッドサイドへ駆け寄り、声を絞り出したが、レジナルドの瞼は閉じたまま、既に周りの音すら聞こえていないようだった。エルセリカは縋り付くようにして、レジナルドの骨張った手を取った。しかし、かつて自分を優しく抱きしめてくれたその手には、もう暖かさはほとんど残されていなかった。

 部屋の中に、静まり返った沈黙が流れる。
 静粛な空気の中、付き添う医者が静かに聴診器をレジナルドの胸に当て、その微かな心音を確認した。バルザードや魔導士たち、エルセリカたち全員が固唾をのんで見守るなか、やがて医者が静かに聴診器を取った。医者が周囲に告げる。
 レジナルドは静かに息を引き取り、すべての苦しみから解放されて永遠の眠りについた。

 エルセリカのエメラルド色の瞳から、大粒の涙がとめどなく零れ落ち、レジナルドの手の甲を濡らした。
 バルザードがエルセリカの細い肩を支え、レジナルドの遺体から優しく引きはがすように抱きとめると、事後処理を行う医者やヴェルダンテの大臣らをその場に残し、彼女を静かに隣の前室へと移動させ、休ませた。

「これから簡単な密葬を行う。レジナルドは生前、故郷であるヴェルダンテ城の墓地への埋葬を希望していたので、そのまま城に送ることにした」

 前室の柔らかなソファにエルセリカを座らせ、バルザードは彼女の目線に合わせて低い声で丁寧に説明した。

 エルセリカは、亡き父がバルザードに対して「ヴェルダンテの地で眠りたい」と直に切望していたこと、そしてバルザードがそれを最大限に尊重して聞き届けてくれたことを知り、悲しみの中でもどこか救われたように安心した。

 また、この主の死を一つの契機として、これまでエストレアでレジナルドの看病や身の回りの世話に付き従っていたヴェルダンテ王国の大臣や使用人たちも、それぞれの役目を終えた。そのため、彼らの希望通り故郷であるヴェルダンテへ帰還することにした、とバルザードは淡々と説明した。

 こうして、エストレア城の一角で、バルザードの信頼する最低限の側近と、ヴェルダンテの大臣や使用人のみが見守る中、厳かにレジナルドの葬儀が執り行われた。王宮に仕えていた数人の月夜の民たちが同胞の死を悼むように祈りを捧げた。

 すべての儀式を終えた後、エルセリカは深く頭を下げ、バルザードに心からの感謝を伝えた。

「バルザード。お父様の葬儀をありがとう」
「あぁ……」

 バルザードは、涙を拭って赤く目を腫らしたエルセリカの顔をじっと見つめ、いつもと変わらぬ淡泊な声音で短く答えた。
 そして、言葉の代わりに、バルザードはエルセリカをそっと優しく抱きしめた。バルザードの胸の温もりと、その気遣いに触れ、少しだけほっとしたような安らぎが広がった。

 やがて、ヴェルダンテへ帰る旧臣たちとの、本当の別れの時が来た。
 城門の前に用意された馬車の前で、エルセリカは旧臣の前に立った。

「大臣、長い間、レジナルド王……お父様を支えてくれてありがとう」

 頭を下げる高貴な銀髪の女性に対し、大臣は慌てて首を振った。

「滅相もございません」

 年老いた大臣は、切なげに目を細めた。

「エルセリカ様がヴェルダンテの正統な王女となる日をずっと夢見ておりましたが、それも叶わず……。ですが、レジナルド様が生きておられるうちに、エストレアの地で再びエルセリカ様とお会いできたことも奇跡でございます。貴女様は本当に、天に守られた運がお強いお方だ。エストレア王国では、これからもどうか健やかにお過ごしくださいませ」

 そう言って、大臣は涙を浮かべながら恭しく最後の礼をした。
 エルセリカは、胸を締め付けられるような涙を必死に堪えながら、長年仕えてくれた使用人たちにも一人ひとり視線を合わせ、温かい感謝を述べた。

「お父様のことを、よろしくたのみます」

 エルセリカは最後に、大臣と使用人たちに向けて深く頭を下げた。
 大臣と使用人たちは、主の遺志を継ぐように、力強く、何度も大きく頷いた。

 そうして、レジナルドの遺体を乗せた重厚な馬車が、静かに車輪を回し、旧臣たちと共にヴェルダンテの地へと静かに向かって出発していった。

 遠ざかり、やがて小さくなっていく馬車の後ろ姿を、乾いた風の中でじっと見つめながら、エルセリカは、このエストレアの地から自分を繋ぐヴェルダンテの人間が一人もいなくなってしまったという事実に、胸にぽっかりと穴が空いたような深い落胆を覚えた。
 異国の地で、本当に独りぼっちになってしまったのだと、冷たい孤独感に打ちひしがれた。

 レジナルドの死後、それからのエルセリカは明らかに部屋での溜息が多くなった。窓辺に佇んでは俯きがちになり、かつての凛とした元気を完全に失ってしまった彼女の姿を、サイラスとルシアンは陰から深く心配そうに見つめていた。

 ある日の廊下、サイラスはルシアンを呼び止め、真剣な面持ちで語りかけた。

「ルシアン。少しの間、エルを見守っててくれないか?」
「わかりました……」

 丁寧に応じたルシアンだったが、ふとエメラルドグリーンの瞳を揺らし、疑問を口にする。

「しかし、僕で良いのですか? サイラス殿の方が、適任のような気がしますが……」

 中性的な顔立ちに戸惑いを浮かべる若い魔導士に、サイラスは首を振った。

「俺はバルザードから、ちょっと頼み事をされてるからな」

 サイラスは苦笑混じりに頭を掻きながら、バルザードから防衛や国政に関する重要な仕事があるとのことだった。

「それに結婚式の準備もまだまだやることがたくさんあるんだよ」
「そういうことなら、お任せください」

 多忙な師からの頼みを受けたルシアンは、紳士的に頷くと、さっそくバルザードにエルセリカの外出の許可をもらいに行った。
 
 城の大きな窓から寂しげに外の景色を眺めているエルセリカに、ルシアンはそっと優しい声音で声をかけた。

「エルセリカ様、ずっとお城の中に閉じこもっているのも退屈でしょう。陛下から特別に許可をいただきましたので、気分転換に、少しお外にお散歩に行きませんか?」
「ルシアン……」

 エルセリカは振り返り、自分を気遣ってくれる青年の素直な優しさを深く汲み取ると、小さく頷いた。

 バルザードが配備した数人の厳重な護衛兵を伴いながら、彼らは城下町の限られた、安全が確保された場所のみをゆっくりと時間をかけて見て回った。

 やがて、見覚えのある大通りの一角へと差し掛かった。そこは以前、ヴァルカと共に訪れたことのある、あの賑やかな魔法雑貨店の近くだった。

「ここは……」

 エルセリカがふと足を止めると、ルシアンは優しく問いかけた。

「何か気になるものでもありましたか?」

 ルシアンは、どことなくエルセリカが何をするにも遠慮がちで、心を閉ざしているように見えたため、彼女が少しでも興味をひいたものは、率先してすべて受け止めにいくつもりだった。

「あ、いや……初めてエストレアに来た時に、この店に入ったんだ……」

 きらびやかな看板を見つめながら、エルセリカはあの時、隣で目を輝かせていた赤い肌の相棒の姿を鮮明に思い出した。

(ヴァルカ……元気にしているだろうか?)

 ふと、思いつめたような、どこか遠くを見る雰囲気になったエルセリカの表情を見て、ルシアンは彼女の鬱屈を晴らすように、明るい声を響かせた。

「折角ですから、このお店に入りましょう!」

 そうしてルシアンは、戸惑うエルセリカの手を半ば強引に、しかしエスコートするようにして、護衛兵たちを引き連れて活気あふれる店内へと入っていった。

 店内は、色とりどりの魔導具が光を放ち、相変わらず多くの買い物客で大いに賑わっていた。エルセリカは、ルシアンが自分のために嬉々として案内してくれたからには、何か一つでも品物を見なければ申し訳ないと思い、ちょうど人混みが途切れている静かなエリアの商品棚があったので、その前に立ち、並ぶ品々を見ることにした。

 その棚に並んでいるものは、どれも精緻な細工が施されており、おそらく”一般の人間では到底手が届かないであろう”極めて高額な値段がつけられた、一風変わった品物が美しく置かれていた。

 エルセリカはそのうちの一つ、奇妙な意匠が施された小さな金属製の台座に目を留め、そっと手に取った。

(こんな台座が? 一体何に使うのだ?)

 不思議に思ったエルセリカは、その台座らしき魔動機を四方八方から、ひっくり返すようにして見回した。

「それは、魔法通信ですね。この台座に思念を飛ばすと、この台座にホログラムが映し出され、どれだけ離れていても会話ができる仕組みです」

 ルシアンが横から顔を覗かせ、知的なエメラルド色の瞳を輝かせながら説明した。

「へ、へぇ……」

 エルセリカは魔導技術に詳しくないためよくわからなかったが、どうやら遠く離れた場所にいる人間と直接対話ができる、非常に高度な魔動機らしいということだけは理解できた。

「通常の通信機では、お互いが物理的な機械を持っていなければ話すことができませんし、距離が限定的です。しかし、この魔法通信はさらに遠く離れていても、強い思念によって会話が可能なのです」

 エルセリカはよくわからぬまま、ルシアンの流暢な説明を聞きながら感心して頷いた。
 すると、ルシアンは満足そうに微笑み、すぐに近にいた店主を呼び寄せると、迷うことなくその高額な魔動機をその場で購入してしまった。

「ルシアン……!?」

 突然の行動にエルセリカは驚いて目を見張ったが、ルシアンは全く問題ないと言う風に、ふわりと微笑んで答えた。

「陛下から、散歩の道中でエルセリカ様が少しでも興味を惹かれたものがあれば、すべて買い与えるようにと仰せつかっておりますので」

 ルシアンはにっこりと、紳士的に答えた。どうやらこの買い物にかかる莫大な費用はすべてバルザードが支払う手筈になっているらしい。
 エルセリカは、大して使い道も使い方も分からない品物を、ただ適当に手に取ってしまったことを内心で激しく後悔した。

「ルシアン……あの……後で、使い方をちゃんと教えてくれるだろうか?」

 折角自分のために買ってくれたのならば、無駄にはできない。少し気まずそうに、申し訳なさそうにエルセリカが言うと、ルシアンはエルセリカが少しでも魔動機に興味を持ってくれたのがよほど嬉しかったのか、さらに目を輝かせて別の品物まで率先して提案してきた。

「エルセリカ様、実はこちらの魔動機なのですが……!」

 次から次へと、ルシアンが饒舌にあれこれと楽しそうに説明してくれるのを聞きながら、エルセリカは、彼がこうして自分の鬱屈した暗い気持ちを紛らわせようと、一生懸命になってくれているのだと気付いた。その健気な優しさに触れ、彼女の心に温かな灯がともり、急にこの真面目な青年が愛おしくなった。
 
(サイラスが、ルシアンのことを可愛がっている理由も分かる気がするな……)
 
 恐らくルシアンは、打算など何もない、とても真面目で素直な青年なのだろうとエルセリカは思った。
 こうしてエルセリカたちは、ささやかな買い物を楽しんだり、陽光が差し込むエストレア城近辺を穏やかに散歩したりして、久しぶりの安らぎの時間を共有した。

 *

 一方で、国境を越え、中立国オルディナ共和国へと自ら赴いていたサイラスは、活気と混沌の渦巻くオルディナ共和国へと赴いていた。騒がしい街の雑踏を進み、薄汚れた街の片隅で、目指す大柄な赤い肌の影――ヴァルカを見つけた。

 現在のヴァルカは、小規模な傭兵稼業だけでなく、街の荷運びや雑用、細かい力仕事などを含めて、嫌な顔一つせず、額に汗を流して真面目に働いているようだった。赤い肌に汗を光らせ、重い荷物を運ぶ彼女の姿は、以前よりもどこか落ち着いて見えた。

「よう? 元気か?」

 サイラスはいつもの気怠げな調子を装い、背後からヴァルカに声をかけた。
 ヴァルカはピクリと角を震わせて振り返り、サイラスの顔を認めると、一言も発さず、あからさまに不服そうな、警戒の混じった表情をサイラスに向けた。

 無言のまま、ヴァルカは少し周囲の目が届かない人気のない裏路地へとサイラスを連れて来ると、無造作に積まれた木材の上にドカリと腰を下ろした。太い尻尾が不機嫌そうに揺れている。

 サイラスは、そんな彼女の態度を気にせず、ヴァルカの最近の近況について尋ね、お互いの現状について暫くの間、他愛のない世間話などを静かに交わした。

「……大した用がないなら、この辺で。悪いけど仕事があるんだ」

 ヴァルカはサイラスの胡散臭い態度を察し、早々に話を切り上げて立ち上がろうとした。その様子を見て、サイラスは一瞬でひょうきんな笑みを消し去り、表情を鋭く引き締めて本題を切り出した。

「実はな……」

 サイラスは、近々エストレア王室主催で開催される、高位の護衛トーナメントへの参加を単刀直入に持ちかけた。

「エルセリカの護衛を探しているんだ。俺はお前が一番の適任じゃないかと思ってな? どうだ、受けてみないか?」
「……興味がないね」

 ヴァルカは冷淡に言い放ち、視線を逸らした。

「興味が……ない?」

 サイラスは、ヴァルカのエルセリカに対する深い情愛を知っているだけに、そんなはずはないだろうと言いたげな風に、ヴァルカの顔を覗き込んだ。

「あたしみたいな傭兵が、エルの側にいるべきじゃない」

 ヴァルカは、木材に背を預けながら、自分なりにエルセリカの未来について色々と考え抜いた結論を述べた。自分のような荒事しかできない者が側にいるより、王宮で守られている方がいい――そう考えているようだった。

 そう言うと、ヴァルカは今度こそ未練を断ち切るように、颯爽とサイラスの前を去ろうと足を進めた。

「待て、ヴァルカ」

 サイラスはすぐさま、強い声でヴァルカの背中を呼び止めた。

「エストレア王室の専属護衛ともなれば、毎日美味い飯が食えるし、温かいシャワーも浴び放題だ。おまけに遊んで暮らせるようなもんだぞ?」

 サイラスはなんとか彼女の頑なな心を説得しようと、あえて俗っぽい待遇の良さを次々と並べ立てて引き留めようとした。

「あたしは、この乾いた泥の臭いがする生活が気に入っているんだよ」

 しかし、どれだけ物質的な好条件を提示されても、ヴァルカが首を縦に振ることはなかった。
 これ以上の表面的な説得は意味を成さないと悟り、痺れを切らしたサイラスは、ふっと周囲の喧騒を遮るように声を落とし、重く静かなトーンで、去りゆくヴァルカの背中から最大の事実を投げかけた。

「エルセリカは今、何者かに命を狙われている」

 サイラスの口からその不穏な言葉を聞いた瞬間、ヴァルカの身体が硬直を始め、目の色が変わった。
 ヴァルカは弾かれたように振り返ると、燃えるような鋭い眼光で、サイラスの顔を正面から強く見据えた。その赤い肌の下で、筋肉が緊張に震えている。

「お前も、エルがヴェルダンテの崖から落ちた時の話を聞いていただろう。あれは……単なる事故なんかじゃない。何者かによる故意の暗殺未遂だ」

 サイラスから冷徹な事実を突きつけられた瞬間、ヴァルカの心は、愛する者を襲う激しい焦燥と、犯人への煮えたぎるような怒りで激しくざわつきだした。
 サイラスは一歩近づき、ヴァルカの黄色い瞳を真っ直ぐに見つめた。

「エルを……側で守って欲しい。これはエストレアの国としてじゃねえ。俺個人の、お前へのお願いだ」

 サイラスはヴァルカの前に立ち、その大柄な身体を折って、深く頭を下げた。
 国の重鎮であるはずの男の剥き出しの真剣な態度、そして何よりも愛するエルの身に迫る絶対的な危機を受け止め、ヴァルカはきつく歯を食いしばり、血が滲むほどに拳を握りしめた。

「……分かった。そのトーナメントは受ける。ただし、条件がある」
「なんだ?」

 サイラスはゆっくりと顔を上げ、彼女が提示する条件を真摯に聞いた。

「まず、先にエルの顔が見たい。一度、エルに会わせてほしい」

 ヴァルカがその頑なな態度を翻し、エルセリカのために戦うことを承諾してくれたことに、サイラスは表情を一気に明るくして心から喜んだ。

「もちろんだとも! そうと決まれば、話は早い。早速エストレアにいこうぜ!」

 さっきまでのシリアスな雰囲気を吹き飛ばし、自分よりもだいぶ歳が離れているはずのおじさんが、まるで遠足前の子供のようにうきうきとして声を弾ませている姿を見て、ヴァルカはすっかり毒気を抜かれ、思わず呆れたように呆然とした後、フッと吹き出してしまった。

 *

「ヴァルカ――!」
「エル!」

 エストレア城内の片隅にある、人目のつかない寂れた庭園。緑の蔦が絡まる石壁の向こうから、嬉しそうに声を弾ませたエルセリカが、美しい銀髪を揺らして石畳の上を走ってきた。
 しかし、エルセリカは普段履き慣れない王妃用の格式高いヒールで無理に走ったため、古びた石畳の隙間にヒールをとられ、バランスを崩して前方に激しく躓き倒れそうになった。

「危ねえっ!」

 咄嗟に長い尻尾を揺らしたヴァルカが長い腕を伸ばし、倒れ込むエルセリカの豊かな身体をその大きな胸でしっかりと支えた。
 寸前で抱きとめられ、ヴァルカの胸の中に収まったエルセリカは、安堵の息を漏らして顔を上げた。

「ありがとう」

 間近で見つめ合う、エルセリカの温厚で優しい笑顔。そして、彼女の身体から漂う気品ある優しい香りが、ヴァルカの胸の奥を瞬時に満たし、その心を激しく揺さぶった。

「エル、会えてよかった……」

 愛おしさが昂ぶり、ヴァルカは腕に力を込めて、エルセリカの身体を壊れ物を労るように強く抱きしめた。
 二人の再会の余韻を遮るように、少し離れた庭路の辻で、サイラスが周囲を警戒しながら注意深く釘を刺した。

「言っておくが、少し話をするだけだからな。一応、エルセリカの立場は王妃なんだからよ」
「わかってるよ!」

 ヴァルカはサイラスの方を向き、邪魔をされたことに不満そうに、子供のように口を尖らせながら鋭く言い返した。

 二人は庭園の隅にある、恐らく長いこと誰も使っていないであろう、埃の積まった薄暗い物置小屋の古ぼけた木の扉を静かに開けた。壊れた農具や木箱が並ぶ空間だったが、ここなら二人だけで、誰の目も気にせずゆっくりと話ができそうだった。
 物置小屋の隙間だらけの向こう側では、サイラスが腕を組んで壁に背を預け、他の人間が近づかないよう厳しく見張りについていた。

「エル、元気だったか?」

 ヴァルカは薄暗い光の中で、エルセリカの柔らかい銀色の髪を愛おしそうに大きな手で優しく撫でた。
 光の下で見る彼女の肌は相変わらず白く美しいままだったが、心労のせいか、以前旅をした時よりも少し痩せたようにも見えるエルセリカの姿が、ヴァルカはたまらなく気になった。

「あぁ……。ずっと城の中で過ごしているから、少し退屈ではあるが……お前が来てくれて嬉しい」

 エルセリカが力なく、しかし愛おしそうに答えたので、ヴァルカは胸が締め付けられ、たまらず彼女の肉付きの良い身体を再び抱きしめた。

「エル……。凄く、良い匂いがする」

 至近距離で伝わるエルセリカの体温と香りに、ヴァルカはもう理性を耐え切ることができなかった。彼女の豊かな身体を確かめるように、ドレスの上からあちこちを激しく撫でまわし、その潤んだ唇へと激しく口づけを交わした。
 エルセリカが驚きつつも、愛しいヴァルカの情熱に応えるようにそっとその唇を開くと、ヴァルカはそのまま自身の舌をエルセリカの口内へと深く滑り込ませ、愛を確かめ合うように貪欲に舌を這わせた。

「ん……ふぁ……っ……」

 深い接吻を交わし、息を弾ませながら、エルセリカが潤んだ瞳でヴァルカを見つめる。
 彼女はヴァルカの赤い首筋に手を回しながら、切実な願いを口にした。

「……護衛が……ヴァルカだったら、どんなに嬉しいか……」

 その儚くも自分を求める言葉を聞いた瞬間、ヴァルカの胸中の闘志に、凄まじいまでの業火が燃え移った。

「あたし、絶対に勝つよ。エルの側にいるのはあたしだ」

 エルセリカの心からの期待に完璧に応えるように、ヴァルカは強い決心を目に宿して見せた。
 昂ぶる感情のまま、ヴァルカはエルセリカの上品なドレスの深いスリットから大胆に大きな手を滑り込ませ、その滑らかな柔らかいふとももをまさぐった。
 そして、薄い下着の上から、エルセリカの最も敏感な秘部を、大きな指先で優しく、愛撫するように触った。

「……っ……ん、あっ……」

 エルセリカの口から漏れた、これまで聞いたこともないような愛らしい、艶っぽい声を聞いて、ヴァルカの情動は完全に決壊した。今度はエルセリカのドレスの胸元を少し引き下げるようにして脱がす。
 薄暗がりに露わになった、色白で豊満な乳房に対し、ヴァルカは顔を埋め、思いっきりその先端を吸い上げた。

「……あぁ……んっ!」

 あまりの快感に、エルセリカは思わず理性を失い、静かな物置小屋の中に大きな嬌声を響かせてしまった。

 その瞬間、扉の外で見張っていたサイラスがそのあまりに生々しい声に反応し、驚愕して弾かれたように振り返ると、木の扉の隙間から慌てて中を覗き込んだ。

「ば、ばかやろう! 話をするだけだと言ったはずだろッ!」

 サイラスは扉を勢いよく開け放ち、顔を真っ赤に染めて小声で怒鳴りながら、エルセリカの胸に顔を埋めているヴァルカを激しく叱りつけた。

「ちぇー」

 ヴァルカは露骨に口を尖らせて不満を漏らしながらも、サイラスの剣幕に気圧され、名残惜しそうに手を離すと、エルセリカの乱れたドレスの胸元や裾を素早く直した。
 サイラスは、乱れた呼吸を整え、呆れたようにため息をついた。

「エルも、だ! 王妃なんだから。頼むから自覚を持ってくれよ……」

 サイラスが頭痛を堪えるように言うと、エルセリカも顔を赤く染めて、自身の軽率な行動を深く反省した。

「す、すまない……。つい、気が緩んでしまった……」
「はぁ……。もうお開きにするぞ。ヴァルカ、お前は先に宿屋に戻れ。エルセリカを無事に部屋まで送った後、俺がまたトーナメントの詳細を説明しに行ってやるから」

 サイラスの厳しい促しに、ヴァルカとエルセリカは互いに視線を交わし、名残惜しさに胸を締め付けられながらも、静かに手を離して別れた。こうして、ひとときの熱い逢瀬を終えたヴァルカとエルセリカは、再びそれぞれの役割へと戻るべく、静かに別れの途についたのだった。

 *
 
 数日後、エストレアの王都の一角にて、急遽開催された護衛選抜トーナメントの幕が上がった。
 予選は、瞬発力、スタミナ、技術力など基礎的な、言わば体力・技能テストのようなものだった。大半の挑戦者がここで脱落していった。よほど実践的な戦いをしていないと厳しいものだった。

 その熾烈な選別を駆け抜けたヴァルカは、本戦を控えた休憩時間、独り静かに呼吸を整えていた。彼女の元へ、サイラスがどこか食えない笑みを浮かべて歩み寄る。

「魔法が相手だ。力任せに振るだけじゃ焼かれるぞ。魔導士の詠唱時間の隙を見て懐へ飛び込め」

 ヴァルカは不貞腐れたように鼻を鳴らした。

「……ふん。あたしにはあたしなりのやり方があるんだよ」

 そう嘯きつつも、彼女は先刻の試合からサイラスの助言を忠実に実践していた。傭兵時代に培った野性的な勘に、騎士として戦うための論理的な戦術が融合していく。それは、ただ勝つためではなく、「エルセリカを守る」という目的を遂行するための誠実な進化であった。

 貴賓席では、バルザードが冷徹に戦況を見下ろし、その傍らでエルセリカが静かに戦いを見守っていた。公人としての立場上、特定の参加者を応援することは許されない。だがエルセリカの瞳は、懸命に勝ち進むかつての相棒を、一瞬たりとも見逃そうとはしていなかった。

(ヴァルカ……頑張って……)

 必死に戦うその姿に、エルセリカは心の中で祈るような気持ちで見守っていた。

 そして、決勝戦。互いに武器が砕ける死闘の末、ヴァルカは最後の一撃を叩き込み、勝利を掴み取った。

 閉幕後、厳かな表彰式が行われた。
 本戦を勝ち上がった者たちは、それぞれの特性に応じて近衛騎士団や精鋭部隊、王宮衛兵へと配属が次々と言い渡されていく。エストレアの防衛体制が着実に強固なものとなっていく中、最後に王の証としてヴァルカがバルザードの前に立った。

「貴様が本当に勝ち上がって来るとは、な」

 バルザードの言葉には、エルセリカに対する独占欲と、ヴァルカへの拭えぬ不信感が滲んでいる。だがヴァルカは、微塵も臆することなく真っ直ぐにバルザードを見据えた。

「あたしがエルセリカを守る」
「……ほう」

 バルザードは目を細める。

「あんたに認められなくたって、あたしはエルに尽くすだけだ」

 バルザードは鼻で笑った。

「その執念だけは評価してやろう」

 バルザードは不快感をあらわにしつつも、ヴァルカに王家のしるしが刻まれた短剣を手渡した。それは、彼女が王妃の守護者として正式に認められた証であった。

 *

 魔動機の放つ華やかな光がエストレアの街を照らす一方で、その足元に広がる闇――場面は、地底へと潜むフィリアスとイゾルデの様子へと移り変わる。

 マダム・ベリャールと、路地裏で諜報員を屠ったあの黒いローブの男に導かれ、二人はついに彼らの拠点へと足を踏み入れた。

 そこは、表層のエストレアとは全く異なる世界だった。

 黒鉄で組まれた巨大な機械の群れがあちこちで蒸気を吹き上げ、耳をつんざくようなピストン運動を繰り返している。壁面に無数に張り巡らされたパイプは、巨大な「炉」から流れ出る、禍々しい色をした未知の液体を血管のように運んでいた。エストレアの街中で見るものと同様に、ここでも魔動機の監視ロボットが虚空を漂い、侵入者を冷徹にスキャンしている。

 フィリアスとイゾルデは、圧倒的な光景に呑まれ、あたりをぐるりと見回した。オルディナの街からわずかしか離れていない地下に、これほど壮大な地下都市が広がっているとは、夢にも思わなかったからだ。

「ここは、『不滅の炉(エターナル・フォージ)』だ。基本的にここを活動拠点としている」

 黒いローブの男がそう告げる。彼らはエストレアの現体制に反旗を翻す、「異端の天秤(ヘレティカ)」と名乗るレジスタンスだった。かつてはエストレア国内の辺境で細々と活動していたが、今では国外追放された者たちの集まりだという。

「現在、エストレア王国では魔法の知識や強力な魔動機について、国家が法律の元で厳重に独占管理している」

 黒いローブの男は、淡々とした口調でフィリアスたちに語りかける。

「我々は国家がその強大な力を独り占めしている歪んだ現状を打破し、魔法や技術を市井の民にとってより身近なものにするべく、大義のために立ち上がっているのだ」

 その言葉は、いかにも高潔な理想のように響く。
 だが、フィリアスは、その大義名分を聞きながら一瞬で欺瞞を見抜いて冷笑した。

(単なる『表向き』の綺麗事だろうな……)

 組織の表向きの主張がどうあれ、彼らを率いる中枢が向いている真の方向性は、明らかに理想主義などではない。国家そのものの完全なる転覆、すなわちバルザード体制の破壊を狙っていることは、この禍々しい施設を見れば明白だった。

 その時、黒いローブを着た別の男が慌ただしく近づいてきた。どうやらこの黒いローブ自体が、この組織の象徴的な正装らしい。

「ゼイド様……。マスターから連絡が入っております……」
「うむ。分かった。この二人は新入りだ。いつものように頼む」
「かしこまりました」

 裏路地でエストレアの諜報員を殺害した男――ゼイドと呼ばれた彼は、短く命じると、影に溶け込むようにしてその場から立ち去った。

「歓迎します……。こちらへ……」

 フィリアスとイゾルデの二人は、この陰鬱な拠点の一室で、「異端の天秤(ヘレティカ)」の制服である専用の衣服や、殺傷性の高そうな特製の武器などを支給された。
 手渡されたその重厚な武装を見たイゾルデは、思わずゴクリと唾を呑み込んだ。

「ねぇ、フィリアス。私……怖いわ……」

 これまで一切の戦闘経験がなく、本質的に甘やかされて育ったイゾルデは、物々しい威圧感を放つ武器や、周囲を漂う刺々しい雰囲気に気圧されていた。これまでの威勢はどこへやら、彼女は震える手で魔動機の銃を手に取る。それはずっしりと重量があり、華奢な彼女には抱えるだけで精一杯だった。

 フィリアスはそんなイゾルデの怯えなど眼中にないかのように、無造作に支給された衣服に袖を通し、武器を装備していく。

「くくく。安心しろ。それは特別な訓練を積んでいない素人でも、引き金を引くだけで容易に扱える魔導武器だ。」

 不意に背後からかけられた冷酷な声に、フィリアスとイゾルデは振り返る。
 いつの間にか用事を済ませてゼイドが戻ってきていた。

「お望みなら、一時的に人間離れした力を引き出す肉体強化の薬もあるぞ」

 ゼイドはフードの奥で不敵に笑った。

「フン……様になっているな」

 ゼイドの視線は、イゾルデからフィリアスへと向けられていた。
 フィリアスは長い金髪をきつくポニーテールにまとめ上げると、その鋭い眼光は既に組織の一員としての顔つきに変わっていた。

 ゼイドによれば、彼らが「マスター」と呼んで崇める組織の最高権力者には、限られた一部の精鋭しか目通りを許されず、それ以外の構成員は全員、単なる使い捨ての下っ端扱いなのだという。

「下っ端と言っても、功績が認められればランクは上がっていく。何も功績はエストレアの連中を殺すことだけじゃない。『情報』も言わば資産になるだろう……」

 イゾルデがなおも武器を抱えて震える様子を尻目に、ゼイドはフィリアスを射貫くように見つめて言った。

「情報……」

 その単語を聞き、フィリアスはエストレアの牢獄で過ごした日々を思い出した。あの暗い独房生活で、監視の目はあったものの、それなりにエストレアの衛兵の会話の盗み聞きや城内の造りなどは把握していた。

(果たして役に立つかどうか……)

 フィリアスは、自分の手のひらを力強く握りしめた。

 かつて所属していたヴェルダンテ王国騎士団は、規律と正義という名の鎖に縛られた、あまりにも生ぬるい退屈な環境だった。情報戦略に長けていたはずの自分は、結局のところ、あの脳筋まがいの女副団長に座を奪われ、冷飯を食わされることになった。

 今のフィリアスの胸中には、恐怖など欠片もない。

 闇の組織から与えられた不吉な制服に袖を通し、殺傷力に特化した武器をその手に握りしめた瞬間、フィリアスの全身にゾクゾクと狂気が走り抜ける。早く誰かを、この手で痛めつけたくてウズウズとした衝動が突き上げてきた。

 あの時、自分の地位を蹴落とし、今やエストレアの次期王妃として幸福の絶頂にいるエルセリカの顔を、この新しい力で容赦なく踏みつけ、絶望に染め上げる情景を脳裏に鮮明に思い浮かべる。

「面白い。やってやろうじゃないか……」

 フィリアスは暗いアジトの奥で、復讐の狂喜に身を焦がしながら、周囲の冷たい空気を凍りつかせるような禍々しい笑声を、高らかに響かせた。

第十二章 白き花冠の祝祭、祝杯に紛れ込む変容の雫

 数々の激動と悲しみを乗り越え、ようやく表向きの平穏を取り戻した魔導大国エストレア王国。その首都の城下町は、数日前から未曾有の熱気と歓声に包まれていた。
 
 国を挙げて催されているのは、若き国王バルザードと、隣国ヴェルダンテの血を引く気高き王女エルセリカの婚姻を祝う祝祭である。通りには色とりどりの旗がはためき、至る所で魔動機の美しい光が花火のように夜空を彩り、昼夜を問わず民衆たちの賑やかなお祭り騒ぎが響き渡っていた。
 
 街の賑わいが最高潮に達しようとしていたその時、外界の喧騒を厚い石壁で隔てたエストレア城の奥深くでは、静かに、そして厳かに婚姻の儀式が執り行われようとしていた。

 いよいよ迎えた、バルザードとエルセリカの結婚式の当日。
 静まり返った回廊の控室で、贅沢な礼服に身を包んだサイラスは、窓の外の祝祭を眺めながら、ふと感慨深げに心境を漏らした。
 
「なんだか……息子の成長を見る親の気分のようだな……」
 
 ぽつりとした呟きには、いつもの気怠げな調子はなかった。サイラスにとって、親友であり先代の王であった男の息子――バルザードは、幼い頃から見守ってきた我が子も同然の存在だったのだ。
 
 その隣で、同じく礼服を纏ったルシアンが、師の横顔を見つめながら静かに頷いた。ルシアン自身もまた、若くして身寄りのない身で王宮へと引き取られ、魔導士としての生を受くことになった身だ。立場は違えど、同世代であるバルザードがこうして一国の主として伴侶を迎える姿には、胸が熱くなるほどの感慨深さがあった。

 一方、厳重な警備が敷かれた王妃の私室では、対照的な華やかさと緊張感が同居していた。
 何人もの熟練の侍女たちがせっせと立ち働き、エルセリカの着付けを行っている。彼女が身に纏うのは、エストレアの職人たちが総力を挙げて仕立てた純白のウエディングドレスだった。
 
 専属護衛騎士としての初任務を迎えたヴァルカは、部屋の壁に背を預け、長い尻尾を静かに巻きつけながら、侍女たちの邪魔にならないよう鋭い眼光で周囲を警戒しつつ、その中心にいるエルセリカを見守っていた。
 
 やがて、気の遠くなるような時間をかけた着付けが終わり、侍女たちは満足げに一礼すると一旦その場を後にした。

 誰もいなくなった室内で、ヴァルカは息を呑んだ。
 そこに佇むエルセリカの姿は、あまりにも美しかった。色白の肌に映える純白の布地、豊かな身体のラインを際立たせる見事な刺繍、性能の良い魔動機のように整った気品溢れるエメラルド色の瞳。ヴァルカは胸が締め付けられるような感覚に襲われ、思わず目頭が熱くなって泣きそうになった。
 
「ヴァルカ? どうしたんだ?」
 
 相棒の尋常ならざる様子に気づき、エルセリカが驚いたように声をかけ、ドレスの裾を揺らして振り返った。
 
「いや……。あまりにも美しすぎて……。なんていうか、その……尊いなって」
 
 ヴァルカは頬の赤い肌をさらに紅潮させ、少し狼狽えたように視線を彷徨わせながら答えた。
 
「なんだ? 尊いって……。ふふふ」
 
 大柄な戦士が子供のように照れている様子が可笑しかったのか、エルセリカはそれまでの緊張を解きほぐすように、思わず上品に鈴を転がすような声で笑った。
 
「それしか表現が思い浮かばなかったんだよ!」
 
 ヴァルカは子供っぽく口を尖らせ、不貞腐れたようにそっぽを向いた。そんな愛らしい相棒の姿を見て、エルセリカは優しい眼差しを向ける。
 
「ヴァルカ、こっちに来て」
 
 少し離れた壁際にいたヴァルカを、エルセリカはそっと手招きして呼んだ。
 促されるまま、ヴァルカがゆっくりとエルセリカの前に近づく。エルセリカは迷うことなく腕を伸ばし、ヴァルカの大きな手を取った。
 
「私の……傍に居てくれてありがとう」
 
 エルセリカは心からの笑顔で感謝の言葉を紡ぎ、ヴァルカの顔を優しく見上げた。異国で分裂しそうな不安を抱えていた彼女にとって、この手の手応えだけが唯一の救いだった。
 
 ヴァルカの黄色い瞳に情熱が宿る。彼女は震える指先で、エルセリカの顔を覆う繊細なレースのベールをそっと押し上げた。二人は至近距離で、言葉を失ったようにじっと見つめ合った。
 
 どちらからともなく顔が近づき、二人はそのまま、切なくも熱い口づけを交わした。王妃としてのエルセリカではなく、ただの愛しい女としての温もりがそこにあった。

 しかし、その至福の時間を切り裂くように、回廊の向こうからバタバタと慌ただしい足音が聞こえてきた。
 二人は弾かれたように唇を離し、再び部屋に入ってきた侍女たちの前で、何事もなかったかのように凛とした態度を装った。
 
 どうやら新郎であるバルザードの方も大方の準備が整ったようで、いよいよ式が執り行われる大広間へと向かう時刻になったらしい。
 ブライズメイドたちが進み出て、床に長く広がるエルセリカのドレスの裾を恭しく持ち上げた。
 
(いよいよか……)
 
 その後ろを歩きながら、ヴァルカの胸には鉛のような寂しい気持ちが押し寄せていた。
 サイラスから打診され、命を懸けて彼女を護るために王妃の護衛となったものの、やはり自分の最も愛する想い人が、法的に他人の所有物となってしまうという現実のショックは、隠しきれるものではなかった。
 
(最初から分かっていたことだけど、やっぱり、胸にくるものがあるな……)
 
 拳を強く握りしめ、ヴァルカは心の中で激しく首を振った。
 
(だけど、今は嘆いてる時じゃない。エルの身を守るために、あたしはここにいるんだから。しっかりしなきゃ)
 
 彼女は鋭い呼吸と共に気を取り直した。サイラスの話によれば、厳重に警戒されたエストレア城内での結婚式そのものは問題ないだろうが、真の危機は城下町を練り歩く祝宴パレードにある。そこでこそ警戒を最大に強めて欲しいと言われていたのだ。

 ヴァルカが周囲の防衛配置について思案しているうちに、一行は厳かな大広間へと到着した。
 そこには、黒髪を整え、威風堂々たる礼装を纏ったバルザードが、祭壇の前で静かに待ち構えていた。
 
 ヴァルカは私情を完全に排し、サイラスやルシアンと同様に、いつでも武器に手をかけられる位置へと速やかに持ち場についた。
 荘厳なパイプオルガンの音が響く中、ブライズメイドを伴ったエルセリカが、ゆっくりとした足取りでバルザードの元へと歩み寄る。
 
「エルセリカ……美しい……」
 
 バルザードの青い瞳が微かに揺れ、ベールの向こうにあるエルセリカの顔をじっと見つめて溜息のように呟いた。
 エルセリカもまた、向けられたバルザードの視線をまじまじと見返した。こうして改めて間近でバルザードを見ると、生まれ持った王家の圧倒的な気品もさることながら、冷徹なまでに整った顔立ちから放たれる独特の色気があり、世の女性たちが放っておかない美男子であるということを、認めざるを得なかった。
 
「どうかしたか?」
 
 あまりにも自分をじっと見つめてくるエルセリカに対し、バルザードが微かに眉を上げて疑問を呈した。
 
「あ、いや……。バルザードも、素敵だ」
 
 エルセリカは少し頬を染めながらも、率直な感想を口にして微笑んだ。
 いつも冷徹なバルザードは、その予想外の言葉と彼女の無垢な笑顔を見ると、少し照れくさそうに視線をふいと横へ逸らした。

 やがて、厳粛な空気の中で婚姻の儀式が始まった。
 老神父の導きに従い、大広間の正面に鎮座する、エストレアの象徴たる月の女神の巨大な「ルーナ像」に向かって、二人は神聖なる誓いを立てた。
 
 バルザードがエルセリカのベールをゆっくりと押し上げ、誓いのキスを交わす。
 その光景を、列席者の陰から見つめていたヴァルカは、胸の痛みを堪えるように小さくため息をついた。
 
(エル……幸せになってくれ……)
 
 嫉妬や羨望を超えて、ヴァルカはただ、目の前の愛しい女性の幸福だけを天に祈った。
 ヴァルカ自身、満身創痍の精神状態になりかけてはいたが、ふと隣を見ると、なんと強面のサイラスがハンカチも握らずにボロボロと大粒の涙を流していたため、ヴァルカもルシアンもぎょっとして目を剥いた。
 
「お……おっさん……」
 
 ヴァルカは失恋の切なさから今すぐにでもこの場を立ち去りたいくらいだったのに、片やサイラスが我が子の旅立ちを見るかのように大感動で涙を流していたため、ここで場の空気を乱すようなツッコミを入れるのも悪いと思い、言葉を飲み込んだ。
 
 サイラスは大きな手で涙を拭うと、二人の様子を真摯に見守り続けた。そして、誰に聞かせるでもなく、独り言のようにポツリと呟いた。
 
「後で、アイツにもちゃんと報告しないとな……」
 
 その「アイツ」が、先代の王のことなのか、あるいは別の誰かなのかは分からなかったが、彼の胸にも深い歴史があることだけは確かだった。

 式は滞りなく無事に終わり、一行は次なる披露宴の準備へと入ることになった。とはいえ、披露宴も同じエストレア城内の大饗宴場で行われるため、移動自体は短い回廊を通るだけで済んだ。
 
 エストレア城内は完璧な防衛魔法と近衛兵によって警備を強固にしているものの、サイラスやルシアンは決して油断せず、行き交う給仕や招待客の人数、その顔触れを常にチェックしつつ、細心の注意を払って鋭い視線を走らせていた。

 やがて始まった披露宴では、エストレア国内の高位の貴族だけでなく、日頃城を支えている使用人や末端の騎士たち、そして王宮魔導士たちも一堂に呼ばれ、無礼講の賑やかな会食が行われた。料理長の厳格な指揮の元で作られた、山海の珍味を用いた盛大な宮廷料理が次々と運び込まれ、祝杯の音が絶え間なく響く。エストレア城内は、かつてないほどの活気と歓喜に満ち溢れていた。

 その喧騒の中、雛壇に座るバルザードがふと隣のエルセリカを見ると、彼女の皿の上にある豪華な料理は原型をとどめたままで、ほとんど箸をつけていないようだった。
 
「どうした? 具合でも悪いのか?」
 
 バルザードは宴の賑やかさに声を張り上げることもなく、隣のエルセリカにだけ聞こえる音量で、心底心配そうに問いただした。
 
「いや……それが」
 
 エルセリカは、晴れの舞台の主役としてこんなことを言うべきか否か、しばらく迷って視線を落とした。だが、バルザードの真摯な眼差しに気圧され、素直に伝えることにした。
 
「実は……ドレスが少々きつくて……胃が圧迫されているようだ」
 
 その豊満で肉付きの良い身体をコルセットで無理に締め付けていたため、限界がきていたのだ。
 バルザードはそれを聞いて、意外そうに小さく目を見開いた。
 
「それはすまなかった。配慮が足りなかったな」
 
 バルザードは持っていたナイフとフォークを皿の上に綺麗な「ハの字」に置くと、速やかに席を立ち、エルセリカの細い手を取って連れ立った。
 主役の突然の退席に、壁際で控えていたヴァルカ、サイラス、ルシアンの三人が即座に異変を察知して駆け寄ってくる。
 
「何か困りごとか? 陛下」
 
 サイラスが声をかけると、バルザードは生真面目な顔のまま彼を振り返った。
 
「エルのドレスを緩めることはできないのか? 食事も喉を通らないようだ」
「ん? あぁ……なるほど、ドレスの締め付けか」
 
 サイラスは状況を把握すると、緊張感を解いて苦笑した。
 
「式も終わってるんだ、これ以上の無理は必要ない。着替えても問題ないだろう」
 
 サイラスはそう言うと、近くにいた侍女を鋭い指先で呼びつけた。
 
「エルに、もっと楽な服装をさせてやってくれ」
 
 サイラスの指示に侍女は深く頭を下げ、王妃の部屋へと先導した。エルセリカが静かに歩き出すと、専属護衛であるヴァルカも当然のようにその後ろへと続いた。ドレスの重みから解放される前段階として、エルセリカは少し疲れたようにぐったりとヴァルカの肩に身を預けていた。
 後に残された廊下で、サイラスが肩をすくめて補足するように言った。
 
「まぁ、あの手のドレスってのは、体裁を整えて見栄えをよくするためだけの呪具みたいなもんだからな」
「新婦の体調が悪くなってしまっては元も子もない」
 
 バルザードはきっぱりとした口調で断言した。その様子に、サイラスは声を立てて笑った。
 
「そりゃそうだ! 全くだな」

 サイラスが笑い声を収めると、バルザードは更に表情を引き締め、本題の警備に話を切り替えた。
 
「サイラス、今のところ、城内に特に不審な問題はないだろうな?」
「今のところは、な。だが、本当の問題は明日の城下町でのパレードだろう。あそこは死角が多すぎる」
 
 サイラスは真剣な表情をバルザードへと向けた。
 
「そうか。……私は、あのティーフリングの女を完全には信用していない。サイラス、ルシアン。万事、頼むぞ」
 
 バルザードは、エルセリカの側に置いた異国の傭兵への懸念を隠さず、二人の魔導士に念を押すように視線を向けた。
 
「ふぅ。大丈夫だって。俺たちに任せとけよ」
 
 サイラスはバルザードの心配そうな表情をかき消すように、あえて大雑把な口調で言って彼の肩を叩いた。

 その時、賑やかな宴会場の方から、皆が十分に料理や酒で満たされたのか、可笑しなリズムの陽気な歌声と笑い声が廊下まで響いてきた。暗い回廊に佇んでいたバルザード、サイラス、ルシアンの三人は互いに顔を見合わせると、あまりの場違いな陽気さに思わず吹き出し、張り詰めた空気を緩めて宴会場へと戻っていった。
 それは、数々の脅威に晒されるエストレア城において、束の間の温かい空気が満ち溢れた夜であった。

 宴もたけなわとなった深夜、意気揚々と会場に集まっていた各国の紳士淑女たちは満足げに解散していった。

 深い夜の静寂が城を包み込む頃、楽な衣服に着替えていたエルセリカは、侍女を通じてバルザードの寝所へと呼び出された。

 王の部屋に、この婚礼の夜に呼ばれた意味を、エルセリカは当然理解していた。
 理解していたからこそ、冷たい廊下を進む彼女の足取りは、鉛のように重かった。
 バルザードの部屋の入り口には、いつもなら屈強な衛兵が二人、微動だにせず立っているはずだったが、気遣いからか、今日は少し離れた廊下の角で警備についていた。

 エルセリカが重厚な木紋の扉を静かに叩くと、中からバルザードの落ち着いた声で、部屋に入るよう返事が返ってきた。
 扉を開けると、室内はあちこちに配置されたランプの優しい炎が揺らめいていた。全体的に薄暗く、どちらかと言えば、大きな窓から差し込む青白い月明りの方が眩しいくらいであった。
 バルザードは寝所の中央にある机に向かっており、何か手紙のようなものを熱心に書いていた。
 
「エル、すまないが適当に座って少し待っていてくれ」
 
 バルザードは振り返らず、静かな声音で言った。
 エルセリカは指示された通り、部屋の隅にある豪奢な長椅子に腰かけた。
 やがて、バルザードは手紙を書き終えると、使っていたペンや紙を几帳面な動作で引き出しにしまい、机の上を完璧に綺麗に片付けた。

 エルセリカは、バルザードとここ数日を過ごした中で、彼が非常に几帳面な性格であるという印象を強く抱いていた。とは言え、それが細かくて神経質かと言えば、そういう訳でもない。時折、王としての権威を笠に着た自分勝手なところはあるものの、先ほどのドレスの件も含め、エルセリカに対する細やかな思いやりなど、端々に覗く大らかさは、やはり生まれ持っての王家の品格なのだろうとエルセリカは思った。

「待たせたな」
 
 バルザードが机の椅子から立ち上がり、長い影を引いてエルセリカの元へと歩み寄る。
 エルセリカはソファからスッと立ち上がり、迫るバルザードをじっと見つめた。
 
「今日は、朝からだいぶ疲れただろう」
 
 バルザードはエルセリカの前に立つと、そっと手を伸ばし、彼女の白い頬を優しく撫でた。先ほどまで手紙をしたためていたその指先は、微かに冷たかった。エルセリカは言葉を返さず、静かに頷いた。
 
 二人は無言のまま、薄暗い月光の中で暫く見つめあった。お互いが、この静寂の中で何を言おうか迷っているようだった。

 バルザードは何も言わずにエルセリカの細い腰に手を回すと、自然な動作で彼女の身体を大きなベッドへと促した。
 その瞬間、エルセリカの身体が明確に強張る。
 
 その微かな拒絶の気配を肌で感じ取ったのか、バルザードは無理に進めることをせず、エルセリカの身体を一旦ベッドサイドに座らせた。二人は並んでベッドの端に腰かけ、また暫くの間、重苦しい沈黙が辺りを包み込んだ。
 
「形式的とは言え、私たちはようやく夫婦になったのだ。……緊張はしなくてもよい」
 
 バルザードはエルセリカの緊張を解こうと言葉を紡いだが、彼自身も慣れていないのか、あまり気の利いた甘い言葉は出てこなかった。

 バルザードはふと視線を落とすと、この沈黙を埋めるように、自らが背負うエストレアという国について静かに語り始めた。
 
 彼の話によれば、エストレア王国は、月夜の民の存在や、彼らがもたらす強大な魔法を取り巻く環境のせいで、永らく血で血を洗うような激しい内紛の歴史が続いていたのだという。そして、現在の王家はあまりにも脆弱だった。魔導国家と称されてはいるものの、皮肉なことに王家自身の血筋は魔法に疎く、力を持たなかったからだ。
 
 だからこそ、曾祖父の代から国をより強固なものにしようと法律の元で魔法を厳重に管理し、月夜の民へ敬意を払い、魔動機の推進を促すことで、全ての人々が豊かな暮らしができるよう国を築き上げてきたのだと彼は言った。かつてエストレアが持っていた「他国からの魔力搾取」という悪いイメージを一新したのだ、と。
 
「だが、今もなお王家は、見えざる脅威にさらされている。……私も決して例外ではない」
 
 バルザードは淡々と、これまでに自身に対しても何度か卑劣な暗殺未遂などが行われていたという事実を明かした。
 
「私は、初めからお前に自分への愛が無いのは分かっている」
 
 バルザードは語気を強め、エルセリカの両手をしっかりと包み込むように取った。
 
「だが、自分もいつ死ぬか分からない身だ。このエストレアという王国を、次代へと正しく紡いでいくために……私との世継ぎを産んで欲しい。エストレアの真の王妃として、私に尽くしてくれないか」
 
 その言葉は、冷徹な王としての命令のようでありながら、どこか縋るような情熱を帯びていた。
 エルセリカはバルザードの強い眼差しを見つめながら、ふと疑問を口にした。
 
「バルザード……。政略的な結婚にも、果たして『愛情』というものは存在するのだろうか?」
 
 バルザードは真っ直ぐに彼女のエメラルド色の瞳を見据え、迷いなく答えた。
 
「当初は確かに、国益のための政略結婚だった。だが……今は、私はエルセリカ、お前のことを愛している」
 
 バルザードのその言葉には、一切の嘘偽りはなかった。それは彼の揺るぎない青い瞳を見れば明白だった。これまで、何を考えているか分からなかった氷のような瞳の奥に宿る、一人の男としての強固な決意が、エルセリカには初めて見えた気がした。
 
(この男は……自分のすべてを賭けて、エストレアを守るために戦っているのだ……)

 その光景を目の当たりにし、エルセリカは翻って、自分が果たして故郷ヴェルダンテのために戦っていたのだろうかと自問自答した。かつて騎士団に入り、血の滲むような努力の結果、副団長の座まで上り詰めたが、それは本当に国のためだったのか。いや、あれは周囲を見返すための、自分自身の名誉のためだったのではないか。正式に王女と明かされた時も、自分はその重責から逃げ出したに過ぎなかったのではないか――。

「バルザード……。私の話を聞いてくれるだろうか?」
 
 エルセリカはぽつりと、胸の奥の澱を吐き出すように呟いた。
 
「なんだ?」
 
 バルザードの返答は、彼女を問い詰めるようなものではなく、むしろ弱さを受け止めるような、ひどく優しい聞き方だった。
 
「私は下級貴族の娘として育った。騎士に憧れて騎士団に入ったが、周りは男だらけで。女の私を嘲笑い、見下した。だが、私は諦めず、努力して副団長までに上り詰めたんだ」
 
 エルセリカは王室の豪華な絨毯を見つめたまま、過去の自分を呼び覚ますように淡々と話した。バルザードは遮ることも、頷くこともなく、ただエルセリカの横顔をじっと見つめながら静かに話を聞いていた。
 
「私が副団長に就任すると、王室から招集がかかって……その時初めて自分が王女であることを知った。イゾルデ様は王女の座を下りることを頑なに拒まれたが、私は……内心、ほっとしたんだ。私にとって、王室なんて自由のない鳥かごのようなものだと、そう想像して恐れていたから」
 
 エルセリカは遠い記憶を見つめるようにふっと自嘲気味に笑うと、ようやく視線を上げてバルザードの方を真っ直ぐに見つめ、真剣な口調で問うた。
 
「お前は、王の重責に押しつぶされそうになったことはないのか? ……自由を欲したことはないのか?」

 バルザードはしばらくの間、月明かりの中で深く思案するように目を伏せていたが、やがて静かに口を開いた。
 
「私は……この生活を不自由だと思ったことは一度もない」

 バルザードの返答を聞き、エルセリカは目を見開いた。
 
「私の周りの者が大変良くしてくれている。サイラスも、ルシアンも、城の者たちもな。彼らの献身的な協力があってこその私だ。感謝しても足りないくらいだ」
 
 バルザードはそう言うと、いつもの冷徹さを消し去り、見たこともないような柔和な表情でエルセリカに微笑みかけた。
 
「だから私は、この国を平和にしていくと皆に約束した。それが、私を支えてくれる者たちへ、私にできる唯一の恩返しだからだ」

 エルセリカは、目の前の男に対して激しい気後れと、自分自身への深い恥ずかしさを覚えた。お互いに王家の人間でありながら、バルザードは既にその若い身空で、明確な覚悟をもって王の座についていた。それは生まれながらに王家であるという血筋以上に、他者に対する深い感謝や慈しみを決して忘れない、彼自身の気高い人柄によるものだと確信させられた。
 
「お前は……凄いな。私は、自分のことばかりで……」
「そうだろうか? 私には、お前は誰よりも他者を優先させているように思えるがな」
 
 エルセリカはバルザードのその温かい気遣いの返答に、何も答えることができなかった。
 
「お前の優しさに付け込んで、このような婚姻を結んだ私の罪を許して欲しい」
 
 バルザードはエルセリカの柔らかな手を取ると、その手の甲へ、祈るように優しく口づけを落とした。
 
「今後も……私が、お前を心から愛すとは限らないのに……」
 
 エルセリカが悲しそうな瞳で、バルザードを見つめる。
 
「それでも構わない。たとえそうであっても……私はエルセリカ、お前を愛し続ける」
 
 バルザードはエルセリカの頬を優しく撫でると、そのまま静かに引き寄せ、彼女の唇へと口づけを交わした。
 
 エルセリカの心の中には、不思議と抵抗の感情は湧き上がらなかった。

 窓から差し込む静かな青白い月明かりが、広い寝所を満たしている。二人は互いの温もりを確かめ合うように、静かに白い肌を重ね合わせた。それは国王のひたむきな愛を受け止めた、エルセリカなりの選択の証でもあった。城下町の喧騒も届かない静寂のなかで、二人の契りは深く、優しく結ばれていった。

 *
 
 式の翌日、早朝。
 まだ夜の冷気が残る静まり返ったエストレア城内で、エルセリカとバルザードは厳かに身を清めた後、祝宴パレードに向けた支度を始めた。

 エルセリカが自室へと戻ると、昨日と同じように侍女たちがせわしなく出入りを始める。彼女たちの手には、次から次へと運び込まれる大きな木箱が抱えられていた。おそらく、その箱の中身はパレード用の、昨日とはまた異なる豪華な衣装なのだろう。
 
 侍女たちが木箱を開き、華美なドレスを取り出すのをぼんやりと見つめながら、エルセリカの心は別の場所に囚われていた。未だに肌へ残っている気がする、昨夜のバルザードのぬくもり。その感触が頭から離れず、気が気でならなかった。

「エル、おはよう!」

 不意に部屋の扉が開き、ヴァルカが元気な声を響かせてエルセリカの元へとやってきた。彼女の屈強な体躯と、いつも通りの屈託のない笑顔が室内を一気に明るくする。

「ヴァルカ……おはよう……」

 そう応じたものの、エルセリカの胸には言い知れぬ後ろめたさが込み上げていた。昨夜、バルザードを受け入れたという事実が、誠実なヴァルカを前にすると罪悪感となってチクチクと胸を刺す。エルセリカは上手く彼女の顔を見ることができず、わずかに視線を泳がせて俯いてしまった。
 
 そんな相棒の様子に、ヴァルカは首を傾げる。

「どうかしたのか?」
「いや……なんでもない。もう朝食は済ませたのか?」
「実は一緒に食べようと思って!」

 ヴァルカは大きな口を開けて嬉しそうに笑った。

「そうか、じゃぁ一緒に食べよう」

 エルセリカがそう応じると、まだ準備に時間がかかることを察した侍女たちは、阿吽の呼吸で「ごゆっくり」とばかりに優しく微笑み、恭しく一礼して一旦部屋を後にした。

 エルセリカとヴァルカが食堂へ向かうため大階段を下りていくと、ちょうど食堂の手前を通り過ぎようとしていたサイラスとルシアンに出くわした。

「よお、これから飯か?」

 サイラスがいつも通りの気怠げで陽気な調子で声をかける。その横で、正装をしたルシアンが丁寧にお辞儀をした。

「まぁね」

 ヴァルカは機嫌良く答えると、そのまま軽い足取りで一足先に食堂へと入っていった。
 エルセリカは彼らと視線を合わせないよう、足早にヴァルカの後に続こうとした。だがその瞬間、サイラスの手がそっと彼女の前に差し出され、その進行を遮った。

「エル、少し話が」
「な、なんだ……?」

 エルセリカは足を止め、眉間にしわを寄せた。今は誰とも、特に鋭い観察眼を持つこの男とは話をしたくないという態度を全面に出して身構える。

「そんなに嫌そうな顔をするなよ、傷つくぞ」

 サイラスがわざとらしくがっかりとした表情を作ってみせたので、エルセリカは無礼を働いたような気がして申し訳なく感じた。

「すまない、そんなつもりは……」
「体調の方は大丈夫か訊きたかったんだが、その感じだと元気そうだな」
「ま、まぁ……」

 エルセリカはなんとも歯切れの悪い返答をした。その視線は泳ぎ、明らかにこの場を早く去りたがっている。
 するとサイラスは、ふっと悪戯っぽく口元を歪めると、エルセリカにじわじわと近づき、その耳元で周囲に聞こえないようにそっと囁いた。

「首筋に綺麗にキスマークついてるぞ」

 その言葉が鼓膜に触れた瞬間、エルセリカは心臓が跳ね上がるほど驚き、咄嗟に首筋を右手で覆い隠した。
 しかし、その反応を見たサイラスは、愉快そうに喉を鳴らす。

「逆だ」

 ニヤニヤと笑いながらサイラスが言う。

「……ッ!」

 隠した手とは逆の側に残された痕跡を指摘され、エルセリカの顔は一瞬で耳の裏まで真っ赤に染まった。

「ははは! パレードもしっかり頼むぜ、王妃様」

 声を立てて笑いながら、サイラスはルシアンを連れだってロビー方面へと歩き去っていく。

「サイラス! 貴様! バルザードに言いつけてやる!」

 子供の喧嘩のような、品のない言い返しだと自分でも分かりつつも、エルセリカは精一杯の抗議をサイラスの背中に向けて投げつけた。

「どうしたんだ、エル?」

 中々食堂に入ってこないエルセリカを心配して、ヴァルカが扉から顔を覗かせた。

「なん……でもない。サイラスに冗談を言われただけだ。さっさと朝食を済ませよう」

 エルセリカは上った血を引かせるように手で顔を仰ぐそぶりを見せながら、ヴァルカにこれ以上の不審を抱かせないよう、促すようにして食堂の中へと入っていった。

 *

 祝宴パレードは、安全確保の観点からも、基本的には城下町の見晴らしの良い大通りを大きく一周するのみの短いルートとされた。
 パレード開始直前、城門の前ではサイラスがエストレア騎士団長や王宮魔導士の幹部たちと、張り詰めた空気の中で最終的な警備の打ち合わせを行っていた。

(表向きはこんなもんだろうな……)

 サイラスは城門の前に立ち、華やかに飾られた城下町をぐるりと見渡した。パレードの順路の要所には、隙なく衛兵が配置されている。さらに、お祝いのために人が一箇所に最も多く集まる広場などの死角には、変装させた精鋭部隊を陰で密かに配置させていた。
 上空では、自動巡回を行う魔導機の監視も抜かりない。

(やるならいつでもかかってこいよ……)

 サイラスはその瞳の奥に、獲物を待ち構える獣のような鋭い闘志を燃やしていた。

「サイラス殿」

 ルシアンが横からそっと声をかけた。

「眉間に皺が寄っていますよ。一応パレードですから笑顔で」

 ルシアンがにっこりと柔らかく微笑む。その穏やかな笑顔を見たサイラスは、ふっと肩の力が抜け、急に気が抜けた。

「ハッ! そうだな。お前の言うとおりだ」

 サイラスは苦笑いしながら、ルシアンの背中をポンと軽く叩いた。
 そこへ、パレード用の礼装への着替えを済ませたバルザードとエルセリカ、そして護衛として背後を固めるヴァルカが揃って集合した。

「そろそろだな。みな、よろしく頼むぞ」

 バルザードが、その場に集まったサイラスや護衛たち全員に、信頼を託すように厳かに言った。
 城門の外には、金と青の装飾が施された豪華な馬車が3台ほど並べられていた。

「なんだか緊張する……」

 エルセリカは、外から地響きのように聞こえる群衆の熱気を受け、思わずつぶやいた。

「大丈夫だ。堂々としていればよい。あと、笑顔を忘れずにな」

 バルザードが彼女の隣に並び、優しく諭すように言った。

 バルザードとエルセリカを乗せた豪華な馬車が先頭に進み、その後ろを、ヴァルカとサイラス、ルシアンを乗せた護衛の馬車が続く。後方の馬車には数人の王宮魔導士が控え、それを取り囲むように、銀の甲冑を纏った騎馬隊が一定の距離を保ちながら並走した。最後尾には一糸乱れぬ隊列を組んだ騎士団が続く。
 
 馬車の進む速度はゆっくりとしたもので、城門を一歩出た瞬間、街の人たちの爆発するような祝福の歓声が馬車を包み込んだ。
 周囲の家屋のベランダや窓からは、色鮮やかなフラワーシャワーや風船が飛び交い、大通りを彩る。

「エルセリカさま!」

 人混みの前列で、幼い少女がエルセリカの名を呼び、必死に手を振っていた。
 エルセリカもそれに応えるように、柔和な笑顔で手を振り返した。

「エストレアも悪くないだろう?」

 バルザードが並び立ち、正面を見据えたままエルセリカに言った。

「街の人たちの笑顔も……王家が守ってきたのだろう?」

 エルセリカは彼に視線を向け、囁くように優しく言った。
 バルザードは意外そうに横目でエルセリカを見ると、照れくさそうにすぐに正面へと向き直した。

 パレードがちょうど中間地点となる、最も人が密集した城下町の広場に差し掛かる、まさにその時だった。

「止まれー! 止まれー!」

 バルザードとエルセリカを乗せた馬車の御者が、必死の形相で手綱を引き、勢いよく馬車を止めた。
 その突然の急停車のはずみで、エルセリカの身体が前方に放り出されそうになり、咄嗟にバルザードが彼女の豊かな身体をしっかりと支えた。ただならぬ気配を察知したサイラスとヴァルカは、後続の馬車から勢いよく飛び降り、即座に二人の元へと駆け付けた。

「何事だ!」

 バルザードは馬車の窓から顔を覗かせ、御者に対して怒りを露わにした。

「も、申し訳ございません……通路を塞いでいる者がいるようです」

 御者が冷や汗を拭いながら説明した。
 一同が前方に鋭い視線をやると、そこには、あらかじめ配置されていた衛兵数人に取り囲まれている、身なりの貧しい住人の男がいた。

「様子を見てくる。馬車から降りるなよ」

 サイラスはバルザードとエルセリカに強く念を押すと、騒動の真っ只中へと向かった。
 広場に集まっていた周囲の住人達も、王の馬車の突然の停止に、急な出来事としてざわざわとざわめき始めていた。

「どうした?」

 サイラスが衛兵たちの輪に入り、話を聞いた。

「それが……この男がどうしても自分の作品を王に見て欲しいと急に飛び出してきまして……」

 衛兵が困惑して答える。すると、その住人の男はサイラスの顔を見るや否や、衛兵たちの手を必死に振りほどき、サイラスの前に崩れるようにして跪いた。

「お願いです! この日のために前々から準備していたんです!! 渾身の作なんです!!」

 住人の男は涙ながらに懇願した。

「何だ?その渾身の作ってのは?」

 サイラスが半ば適当に聞き返すと、住人の男は待ってましたと言わんばかりに、側に置いてあった大きな台座を引きずり持ってきた。そして、仕切り板を取り外し、中にあった作品を皆に見せた。

 そこには、細部まで丁寧にデコレーションが施された、非常に豪華なウェディングケーキが用意されていた。一つ一つの飾りが精巧に作られており、表面にはまるで宝石のように怪しく輝くフルーツが散りばめられていた。
 それを見た周りの住人たちから、感嘆の声が漏れる。

「あー……あのね。残念だけど、今日のパレードでは食べ物は受け付けてないから」

 サイラスはその見事なケーキの出来栄えにはさっぱり興味がないように、きっぱりと断った。

「そ、そんなぁ~」

 住人の男は絶望に目をうるわせてサイラスを見つめた。

「見るだけなら良いでしょう」

 不意に背後から声が聞こえた。いつの間にかエルセリカが、サイラスの指示を無視して馬車から降り、すぐ側まで歩み寄ってきていた。

「おい! 馬車から降りるなと言ったのに……」

 サイラスは驚いてエルセリカを見た後、彼女の背後を守るヴァルカを鋭い目で睨んだ。
 だが、ヴァルカは完全に素知らぬ顔でそっぽを向き、視線を明後日の方へと逸らした。

「ふむ……確かにこれは見事だな」

 バルザードがウェディングケーキを見ながら感心したように言った。彼もまた、ルシアンを伴って馬車から降りてきていた。

「あぁ、とても素敵なウェディングケーキだ」

 エルセリカもバルザードに呼応するように、跪く住人の男に対して優しく微笑みながら言った。

「ありがとうございます! ありがとうございます!」

 住人の男は、救われたように何度も地面にひれ伏した。
 エルセリカは、その美しいデコレーションをもう少し近くで見ようと、ケーキに一歩近づいた。
 その瞬間、ケーキの中心から、禍々しい紫色の湯気のような気体がゆらりと立ち上った。

「な、なんだ?」

 住人の男が呆然と呟く。

「エルセリカ様! 下がってください!」

 ルシアンが叫ぶのと同時に、ヴァルカが恐るべき瞬発力でエルセリカの前に立ち塞がった。
 次の瞬間、ウェディングケーキが内側から勢いよく爆発した。

 パンッ!という凄まじい破裂音と共に、極彩色のスポンジや生クリーム、鋭いフルーツの破片が四散し、広場は一瞬にしてパニック状態に陥った。逃げ惑う住人たちの悲鳴が響き渡る。
 周囲の衛兵たちが即座に、地面にへたり込んでいた住人の男を捕らえる。

「貴様、ふざけた真似を!」

 衛兵が怒鳴りつける。

「そ、そんな! どうして! 私の渾身の作が!!!」

 ケーキが一瞬で崩れ去り、黒焦げの残骸と化した様子を見て、住人の男は顔を青ざめさせて叫んだ。

「エル! 大丈夫か!?」

 バルザードがすぐに駆け寄り、エルセリカの身体を抱えて状態を確認した。

「私は大丈夫だ。ヴァルカが庇ってくれたから……」

 エルセリカは、目の前に立ちはだかる相棒を見上げた。
 ヴァルカは飛び散ったケーキのクリームや果汁をその身に思う存分被弾していたが、幸いにも怪我はないようだった。

「他に怪しい奴が居ないか巡回してくれ!」

 サイラスが、周囲の混乱を収めようと騎士や衛兵たちに的確に指示を出す。
 その時、不穏な空気を感じたルシアンが、崩れたケーキの中心部に何か異様なものがあるのに気が付き、そっと近づいた。

「これは……!」

 ルシアンがその正体に気づくよりも早く、崩れたケーキの中心から、真っ赤に染まる血の様な不気味な液体がドクドクと湧き出し、辺りの石畳を赤く濡らした。
 
 その液体は一気に広がったかと思うと、そのまま地面の隙間に吸い込まれるようにして静かに消えていった。しかし、その濡れた跡には、人々の言葉を失わせるような、深く焼き付いた気味の悪い大きな文字が浮かび上がっていた。

『 ―王妃を殺す― 』

「ッ!!……ふざけおって! パレードは中止だ!」

 バルザードはその悍ましい血文字を見て、これまでにない怒りで激昂した。
 ヴァルカは周囲を鋭く警戒し、エルセリカを庇うようにして素早く馬車に乗り込ませた。
 こうして、華やかに幕を開けたはずの祝宴パレードは、最悪の後味の悪さと見えざる脅威を残し、忌々しい思い出となって幕を閉じた。

 *

 時は、祝宴パレードでの騒動から少し遡る。

 オルディナ共和国から少し離れたの地底深く、不気味に稼働する巨大な機械と立ち上る魔導の蒸気に満ちた不滅の炉(エターナル・フォージ)。その薄暗いアジトの奥で、フィリアスとイゾルデは、組織の幹部であるゼイドから今後の計画を聞かされていた。

「そんなことをすれば、エストレアの警備が手厚くなるだけではないのか?」

 作戦の意図が解せず、フィリアスがゼイドに不審げに訊いた。

「寧ろそれが狙いだ」

 ゼイドの表情は、深く被ったローブの闇に隠されていてよく見えなかったが、その声はひどく冷徹に響いた。

「近々、フェルクラム公国へバルザードが王妃を連れて訪問することになっている。……我々は、主がいなくなり警備が手薄になっているエストレアに入国するのだ」
「どうやって? 少なくとも俺とイゾルデ様はエストレアでは顔が割れているし、身分証明も持っていない。入国は無理だぞ?」

 フィリアスはかつての丁寧な物腰から一変し、この不滅の炉においてはもはや隠す必要が無いと言ったように、ぶっきらぼうで粗雑な態度を露わにしていた。
 すると、側に控えていたマダム・ベリャールが、しわがれた手で石造りの机に静かに複数の小さなガラスの薬瓶を並べた。

「エストレアではな、身体を著しく変化させる魔法薬を法律で固く禁止している。……それこそが、我々がかつてあそこから追い出された所以でもあろうね」
「あ! それってもしかして、私が昔飲んだ『痩せる薬』と同じ……」

 イゾルデが興味津々に、身を乗り出して小瓶の中の液体を覗き込んだ。

「フッ……。まだあんな下剤まがいの薬を売りつけていたのか、マダム」

 ゼイドが意地の悪い冷笑を浮かべ、吐き捨てるように言った。

「げ、下剤ですって!? ちょっとおばあさん! どういうことなの!?」

 真実を知ったイゾルデは、激怒してマダム・ベリャールに詰め寄った。

「ホホホ」

 しかし、マダム・ベリャールは不気味に笑うだけで、イゾルデの怒りの質問には何も答えず、澄ました顔で説明を続けた。

「因みにこの薬はね、一時的に他人になりすますことができるのだよ」
「変身薬ということか? どのくらいもつんだ?」

 フィリアスが小瓶を手に取りながら訊いた。

「持ってせいぜい1時間くらいだな」

 まるで、今まで試したことがあるような口ぶりでゼイドが言った。

「この薬は大変、作るのが難しい。また、そう持続力もないのだよ」

 マダム・ベリャールが補足した。

「そんなに短いのか……。入国した後はどうするんだ?」
「そう急ぐな。我々もかつてのエストレアの住人だ。奴らの目の届かない、人目につかない場所は把握している」

 ゼイドは机の上に一枚の紙を広げると、エストレア城の地下牢に捕らえられていたフィリアスとイゾルデの証言を元に作成した、詳細な侵入進路を指で示した。バルザードとエルセリカが帰還後、城内に深く侵入し真っ先に王妃の私室を狙うという。

「王妃をどうするかは、お前たちに任せよう」
「……? あんたたちはどうするんだ?」

 フィリアスが、ゼイドの真意を探るようにじっと見つめた。

「我々は……エストレア城内で別の任務がある。お前たちが上で派手に暴れてくれたら、我々にとっても好都合なのだがな」

 ゼイドの顔はローブで見えなかったが、その口元は微かに笑っているようにも見えた。

「……」

 フィリアスは無言のまま、ゼイドの言葉の裏にある不穏な気配を感じ取っていた。自分とイゾルデは、奴らの目的を果たすための単なる都合の良い捨て駒に過ぎないのではないか、と。

(こいつらの思い通りになってたまるか……)

 手の中の冷たい薬瓶を強く握りしめながら、フィリアスは暗闇の中で黒い野望の炎を静かに燃え上がらせた。
 地上に不吉な影を落とした祝祭の裏側で、禁忌の薬と歪な思惑が今、エストレア王国の喉元へと静かに牙を剥こうとしていた。

第十三章 荒涼の城郭、蠢く忘却の影

 婚礼の儀を告げる鐘の音が魔導大国エストレア王国の全土に響き渡り、熱狂のパレードが城下町を彩ってから、数週間の月日が流れていた。街を包んでいた未曾有の喧騒は、引いていく波のように静まり返り、首都は本来の厳格で知的な平穏を取り戻しつつある。

 そんな中、若き国王バルザードと、新たに王妃として迎えられたエルセリカの姿は、国境を越え峻険な岩山に囲まれた小国へと向かう途上にあった。

 パチパチと乾いた音を立てて車輪が石を弾く。街道を進むのは、エストレアの王室が誇る、豪奢な装飾を施された最高級の魔動馬車だった。

 広々とした一両目の客車。対面のシートには、気品あるネイビーの軍服に身を包んだバルザードと、ゆったりとしたシルクのドレスを纏ったエルセリカが並んで腰掛けている。その正面では、黒のロングコートを着た王宮魔導士サイラスが、長い足を窮屈そうに折り曲げ、窓の外の荒涼とした景色を眺めていた。

 彼らの乗る馬車の後方には、もう一輌、随伴用の馬車が従っている。そこにはエルセリカの専属護衛となった赤い肌のティーフリング、ヴァルカと、若き王宮魔導士ルシアンが乗り込んでいた。

 さらにその周囲を、鋭い眼光を放つエストレアの護衛騎士五名と、魔法兵の精鋭五名が、騎馬で固めるように取り囲んでいる。

 一国の王の外出としては当然の布陣かもしれないが、フェルクラム公国という小国を訪問するにしては、いささか大所帯に過ぎる。それは、先日の婚姻パレードの最中、エルセリカの元へ届けられた不穏なメッセージを警戒しての、サイラスによる「念には念を入れた」過保護なまでの防衛策であった。

 エルセリカは、窓外を流れる赤茶けた岩肌を視野の端に捉えながら、隣の夫へと視線を向けた。その意図を察したように、バルザードが低く、均整の取れた声を開く。

「数日前、フェルクラム公国から届いた婚礼の祝い品に対する、表向きはただの返礼だ」

 バルザードは腰の長剣の柄にそっと手を置き、冷徹なブルーの瞳を細めた。

「だが、本真意は別にある。太陽の国の血を引くお前を我が妃としてエストレアに迎えた。これにより、『月夜の民』との絆がより強固になったことを、周囲の国々に示すための牽制だ。あの大公が妙な野心を抱かぬよう、釘を刺しておく必要がある」

 フェルクラム公国。エストレア王国とはこれまで深い国交があったわけではない。しかし、バルザードの父である先代の王の代から、にわかに親交が深まり始めたという。

「現大公ガルトロクが、我が国の魔動機技術に異常なまでの関心を寄せていたからな。……フェルクラムは周りを険しい山脈に囲まれた、極めて小さな国だ」

 バルザードは、膝の上に広げた地図を指先でなぞりながら、エルセリカにその国の歪な実情を語り聞かせた。

「一見すれば、外敵を寄せ付けぬ難攻不落の天然の要塞。だがその実態は、高台ゆえに水分を失い、白く干からびた不毛の大地だ。作物は容易に育たず、かといって国を潤すほどの豊富な鉱脈があるわけでもない。山を穿てば固い土ばかりが顔を出し、人手で掘り起こすにはあまりにも効率が悪すぎる。」

 バルザードの言葉の端々に、冷徹なまでの現実主義が滲む。

「そんな地ゆえに、彼らはここ最近、我が国の魔法技術や魔動機を産業に導入し、国を近代化させようと必死に思案していたらしい。先王は外交の一環として、型落ちの中古の魔動機をいくつか提供したが……そこには致命的な問題があった。整備士が圧倒的に不足しているのだ」

 バルザードがそこで話を切ると、それまで静かに話を聞いていたサイラスが、オリーブグリーンのマフラーを直しながら、気怠げな、しかしどこか鋭い声音で会話を引き取った。

「フェルクラムの人間なんてのは、元々はツルハシ一本で生きてきた粗野な炭鉱夫ばかりだ。テクノロジーという高度な概念には、とことん疎かったのさ。なりふり構わず、魔法を扱える技術者を各地から呼び寄せようとした。しかし、そんな寂れた乾燥地帯に好んで赴く優秀な魔導士などそうそういなくてな。だが、1人だけ志願を申し出た魔導士がいたんだ」

 サイラスのブラウンの瞳の奥に、仄暗い嫌悪の炎がゆらりと揺らめいた。

「コルベイン。……かつて、エストレアの王宮魔導士だった男だ」

 その名が放たれた瞬間、客車内の空気が一気に張り詰めた。サイラスは馬車の窓から昔を思い出すように遠くを眺めた。

「彼は、当時からサイラスと魔導士長官の座を争うほどの実力者だった」

 サイラスの様子をみて、バルザードが補足するように言う。

「エストレア王室は、魔力や魔動機の軍事利用を厳格に管理している。それこそ、生まれつき強大な魔力を宿す『月夜の民』の身分や居住区に至るまで、ありとあらゆる実験や開発に制限を設けている。コルベインは、その規律の檻が我慢ならなかったようで、何もかもが制限された環境では、自分の思うような魔導研究ができないと、王室への不満を募らせていた」

 バルザードが王室の規定を淡々と続けて説明した。サイラスが忌々しげに鼻を鳴らし、追放劇の真相を吐き捨てた。

「奴は魔法薬の研究に異常な執念を燃やしていた。人間の身体能力を限界を超えて強化したり、魔力を無理やり増強させるような、禁忌の劇薬だ。当然、必要な素材の調達は国法によって厳しく制限されていたが、奴は裏ルートの密売組織から素材を不法に入手し、地下で調合を続けた。案の定、治験の実験中に、副作用で同僚の魔導士が一人死んだ」

 エルセリカのエメラルド色の瞳が微かに見開かれる。

「同僚を殺害した罪、裏ルートからの素材密輸。責任を問われ、当然の報いとして王宮魔導士の資格を剥奪、エストレアを永久追放したんだ。奴がそれまで携わっていた研究成果や資料のすべてを没収した。その内容はあまりにも危険だったからだ。消息は完全に途絶えたと思われていたが……」

 サイラスは、いつになく真剣な表情で、エルセリカの目を正面から射抜くように見つめた。

「再び奴の名前を聞いたのが、フェルクラム公国だった。いいか?エル。コルベインには、何があっても絶対に近付くな。なるべく関わらないようにしてくれ」

 エルセリカは言葉を返さず、ただサイラスの張り詰めた横顔を静かに見つめ返した。その沈黙の重さに耐えかねたように、サイラスは深く、重いため息をつく。

「コルベインという男はな……『月夜の民』に対して、常軌を逸した、異常なまでの執着を見せている。奴は危険だ。」

 サイラスは、胸の奥に溜まった澱を吐き出すかのように、深く、重いため息をついた。
 
「実のところ、私はコルベインという男の顔すら詳しく知らんのだ」

 バルザードが、座席の背にもたれかかりながら、飾り気のない率直な感想を口にした。

「私がまだ若かりし頃の事件だからな。だが、サイラスがここまで言うのだ、間違いはない。エルセリカ、城内では決して一人になるな。気を付けるように」

 先代の王はサイラスと深く懇意にしていたが、同じ王宮魔導士であっても、コルベインとは距離を置いていたのだろう。エルセリカは、二人の忠告の重さを反芻し、決然とした面持ちで大きく頷いた。

 そうして、バルザードやサイラスからフェルクラム公国の複雑な内情や過去の因縁を聞かされているうちに、馬車は山脈の険しい隘路を抜け、乾燥した風が吹き荒れるフェルクラム公国の城門へと滑り込んだ。

 石造りの頑丈な停車場に馬車が止まり、エルセリカがバルザードに手を引かれて外へ降り立つと、ほぼ同時に後続の馬車からも、長旅の終わりを告げる足音が響いてきた。

「やっと着いたぁぁぁ〜〜!」

 馬車の扉が開いた瞬間、後続車両から飛び出してきたヴァルカが、巨体を大きく反らせて両腕を突き上げた。燃えるような赤い肌が、フェルクラムの乾燥した陽光に照らされる。窮屈な車内に押し込められていた身体を解放するように、彼女は両手を天に突き上げて思い切り伸びをした。その背後から、プラチナシルバーの髪を揺らしたルシアンが、控えめに苦笑しながら続いてくる。

「ふふ。ヴァルカ、大柄なお前にはあの馬車は狭すぎたな。ご苦労様」

 エルセリカは、野生児のような相棒の姿に、ようやく張り詰めていた表情を緩めて苦笑した。

「おうよ! 身体がバキバキだぜ!」

 ヴァルカは自身の肩を叩きながら、ニカッと不敵な笑みを浮かべ、エルセリカの耳元に顔を寄せた。

 「あ、なぁなぁエル! 聞いてくれよ。道中、ルシアンから聞いたんだけどさ、おっさんって、意外と子供好きなんだってよ!」
「え……?」

 エルセリカは、ヴァルカの突拍子もない言葉に、思わず目を丸くして聞き返した。

「ルシアン、お前……俺の居ないところで、妙なデマを吹き込んでないだろうな?」

 馬車の片付けを騎士たちに命じていたサイラスが、鋭い片眉を跳ね上げ、疑惑の眼差しをルシアンへと向けた。

「そ、そんなわけないでしょう!」

 プラチナシルバーの髪を揺らし、白いフードを揺らしながら慌てて両手を振って弁明した。

「僕はただ……僕が子供の頃、初めてエストレア城の研究室へ連れてこられた時のことを、ヴァルカ様にお話ししただけで……!」
「フッ。子供好き、という点に関しては私も同意だな」

 バルザードが、珍しく口元に微かな皮肉の笑みを浮かべて会話に加わった。

「サイラスは昔から無駄に世話焼きだからな。……ただ、流石にこの歳になると、小言が多くて少々説教臭いのが玉に瑕だが」
「陛下、一言余計だぞ」

 サイラスが不機嫌そうに王を睨みつける。その、大国の君主と臣下とは思えぬ、長年の信頼に裏打ちされた軽妙な掛け合いを目の当たりにして、エルセリカの唇から、自然と張り詰めていた緊張が解けるような笑みが漏れた。

 バルザードは、彼女のその嘘偽りのない自然な笑顔を静かに見つめ、自身の酷薄な面容にも、驚くほど柔らかく温かい微笑を浮かべた。

 国を挙げた婚姻の儀という重圧を終えて以降、二人の間に漂う空気は、冷徹な契約関係から、本当の夫婦のそれへと確実に変化しつつあった。

「……そろそろ行こう。待たせている」

 バルザードが再び表情を引き締め、王としての威厳を纏ってフェルクラムの城内へと先頭を切った。

 *
 
 乾いた石壁に囲まれたフェルクラム公国の居城――通称「鉄の揺り籠」と呼ばれるその城の大広間へと、エストレアの一行は厳重な警備に守られながら通された。窓が少なく、仄暗い室内に、突如として二つの足音が響き渡る。

 大広間の重厚な扉が開かれ、フェルクラム公国の大公ガルトロク・フォン・タールと、その背後に控える参謀ミシェル・ド・ルーヴが姿を現した。

 ガルトロク大公の容姿は、異様な歪さを放っていた。首のあたりまで綺麗に切り揃えられたおかっぱ頭の黒髪は、粘り気のあるオイルでべっとりとなでつけられており、光を鈍く反射している。鼻の下には、不自然に整えられた長い口ひげが蓄えられており、彼が喋るたびに奇妙に揺れ動いた。身を包むのは、時代錯誤なほど鮮やかな赤色の貴族服だ。

 対照的に、後ろに従う参謀のミシェルは、非の打ち所のない美丈夫だった。癖のある短いブロンドの髪を上品に整え、仕立ての良い最新の軍服を隙なく着こなしている。紳士的な微笑を浮かべてはいるが、その双眸の奥には一切の感情が馨っておらず、何を考えているのか全く読めない薄気味悪さがあった。

「あぁ、エストレア国王陛下! よくぞこの辺境のフェルクラムへお越しくださった!」

 ガルトロクは、床を鳴らすような大げさな足取りですぐさまバルザードへと歩み寄り、両手で激しく握手を求めた。

「先日は、我が国の婚姻に対して大層な祝品を賜り、厚く御礼申し上げる。ガルトロク公」

 バルザードは、大公の放つ異様な威圧感に眉一つ動かさず、完璧な王の微笑を以て丁寧に応じた。

「いえいえ、滅相もない! まさか、こちらこそ、差し上げた品の、倍以上もの豪華な返礼品がエストレアから届くとは夢にも思わず……。それで……もしや、そちらにいらっしゃるのが?」

 ガルトロクは揉み手をしながら、その下卑た好奇心を隠そうともせず、バルザードの斜め後ろに立つエルセリカの方へと視線をちらつかせた。

「我が妻、エルセリカだ」

 バルザードはエルセリカの腰にそっと手を添え、自らの隣へと優しく促した。エルセリカは一歩前に出ると、王妃としての優雅な一礼を捧げた。

「エルセリカです。お初にお目にかかります、大公閣下」

 エルセリカが言い終わるか終わらないかのうちに、ガルトロクは短い脚を動かしてエルセリカの目の前まで凄まじい勢いで接近した。

「えぇ、えぇ! 存じておりますとも! まさか、あの! あの高貴なる『月夜の民』の血を引く気高き美貌を、この目で拝める日が来るとは! 誠にお美しい! いや、実に素晴らしい! フェルクラム公国の大公、ガルトロクにございます!」

 ガルトロクは、エルセリカの銀髪からつま先までを舐めるようにまじまじと見つめ、仰々しい身振りを交えて絶賛した。

「あ……ありがとうございます。何卒、よろしくお願いいたします」

 そのあまりにも執拗で大げさな態度、そして品性の欠片もない視線に、百戦錬磨の元騎士であるエルセリカも、流派の違う怪物に出会ったかのように狼狽の気配を隠せなかった。

「ご覧の通り、岩と土以外には何もない不毛の土地ではございますが、まずは長旅の疲れを癒やし、我が城でごゆるりとお過ごしくだされば幸いですな」

 ガルトロクは、バルザードたちの背後に一分の隙もなく控えるヴァルカやサイラス、そしてエストレアの精鋭たちをざっと見渡し、口元を歪めた。

「ミシェル、我が国が誇る最高の客室へ、偉大なる両陛下と客人たちを案内せよ」
「かしこまりました。……皆さま、どうぞこちらへ」

 参謀のミシェルは恭しく一礼すると、流れるような優雅な動作で回廊へと一行を先導した。

 冷たい石壁が続く廊下を歩く中、サイラスがわざとらしく足音を緩め、ミシェルの隣へと並んだ。

「大所帯で押しかけちまって、悪いな」

 サイラスの、気さくな調子を受け取ってもなお、ミシェルは歩調を崩さず、ただ前を見据えたまま完璧な微笑を浮かべた。

「……いえ、一向に構いません。……国境を越え、一国の王が動かれるのです。ここまで厳重な護衛を敷かねばならないそれ相応の……表には出せぬ深い『訳』があるのでしょう」

 その含みのある返答を耳にした瞬間、サイラスの表情から一切の感情が消え失せ、冷徹な魔導士の無表情へと変わった。ミシェルがエストレアの国内情勢、あるいはパレードでの不穏な動きを察知している可能性を示唆していた。

 それからしばらくの間、廊下には不気味な無言の足音だけが響いていた。やがてミシェルは、重厚な扉が並ぶ、城の最奥の区画へと一行を導いた。

「奥の最も広大なお部屋を、両陛下の寝室としてご用意しております。残りの三部屋は、そちらの護衛の皆さまでお好きにお使いください」

「ミシェル殿、感謝する。大公にも、手厚いもてなしに礼を伝えておいてくれ」

 バルザードが王としての謝辞を述べると、ミシェルは完璧な角度で丁寧なお辞儀をし、音もなくその場を後にした。

 その背中が角の向こうへ消えた瞬間、サイラスがふっと肩の力を抜き、ぽつりと呟いた。

「……中々食えない野郎だな」
「先王の代からの付き合いとは言え、フェルクラムが完全に我が国に臣従しているわけではない。油断はならん」

 バルザードは釘を刺すようにサイラスを見つめた後、視線を横へ移した。

 「サイラス、ルシアン……それから、ヴァルカ」

 不意に、バルザードの低い声が、その場にいた一人の名を明確に呼んだ。

「へっ……!?」

 ヴァルカは、まさかあの傲慢極まりないエストレアの王の口から、自分の名前が直接呼ばれるとは思っておらず、聞き返すように思いっきり首を回してバルザードの顔を凝視した。

「――お前たちも、こちらに来てくれ」

 バルザードはヴァルカの動揺を気にする風もなく、エルセリカの細い肩に手を添え、あてがわれた最も大きな客室の扉を開けた。皆が部屋に入り、重厚な扉が閉まると、バルザードは周囲を一瞥して命じた。

「不審な魔導具、あるいは仕掛けが無いか確認してくれ」

 その命が下るや否や、サイラスとルシアンは視線だけで了解を交わし、一切の無駄のない動作で室内の四隅、絨毯の裏、果ては家具の隙間に至るまで、魔力の残滓を感知する作業に入った。

 ヴァルカはその高度な隠密捜査の作法を知る由もなく、ただ突っ立って二人の様子をぽかんと眺めていた。

「おい、ヴァルカ。ちょっとこっちに来い」

 サイラスが、天蓋付きの大きなベッドの柱を調べながら、手招きをしてヴァルカを呼んだ。

「ヴァルカ、いいか? これから先、お前がエルの専属護衛として他国や見知らぬ場所を訪問するときは、こうやってな……部屋に入るなり、盗聴や毒素の仕掛けがないか調べるんだ。覚えておけ」

 ヴァルカは、サイラスの真剣な横顔を見つめ、ようやく彼らが何のために動いているのかを理解したようだった。

「不自然な点があれば、どんなに細かいことでも共有してください」

 そう言うと、ルシアンが部屋の中央で大きく両手を振った。その瞬間、空間の制約を解除されたかのように、室内に一陣の清涼な風が吹き抜けたような、微かな魔力の波導が全員の肌へと伝わる。

「隠し魔導具の類いは一切感知されません。特に怪しい仕掛けはないようです、陛下」

 ルシアンはバルザードに向き直り、確信を持って報告した。

「ありがとう、ルシアン。……ヴァルカ、今サイラスが言った通りだ。今後のエルの安全は、お前のその鋭い野生の勘にも懸かっている。頼むぞ」

 バルザードはルシアンへの労いを述べた後、真っ直ぐにヴァルカへと、確かな信頼と期待を込めた眼差しを向けた。

「う、うん……!」

 これまでの敵意が嘘のように真っ直ぐに向けられた王の眼差しに、ヴァルカは、気圧されながらも大きく首を縦に振った。

「そこは、”はい”だろうが!」

 サイラスがすかさずヴァルカに突っ込みを入れる。エストレアを訪れる前に過ごした旅路を思い出させる光景に、エルセリカは再び耐えきれずに、クスクスと楽しげに笑った。

「ふむ……。これで、ようやく一息つけるな」

 バルザードもまた、エルセリカの笑い声に安堵したように、長旅の緊張から解放されて深く息を吐き出した。

 しかし、その安息の時間は一瞬にして破られた。トントン、と部屋の扉を遠慮がちにノックする音が響く。サイラスが警戒の魔力を指先に宿しながら扉を開けると、そこにはエストレアの護衛騎士の一人が、申し訳なさそうな面持ちで控えていた。

「フェルクラムの参謀ミシェル殿より伝言が。……ガルトロク様が、先代様から賜った魔動機の不具合について、少々国王陛下にお話を伺いたい、と……」

「……だそう、だ。どうする?」

 サイラスは、首だけを後ろに回すようにして、ベッドに腰掛けようとしていたバルザードへと視線を送った。

「やれやれ……。断るわけにもいくまい。分かった、行こう」

 バルザードは重い腰を上げ、軍服のシワを伸ばした。

「エルセリカ、ヴァルカ。お前たちはディナーの時刻まで、体を休めていてくれ」

 そう言い残すと、バルザードはサイラスとルシアンを従え、冷たい廊下へと戻っていった。

「ふぃ〜〜〜! やっと解放されたー!」

 扉が閉まった瞬間、ヴァルカは豪奢なキングサイズのベッドの上へと、文字通り大の字になって倒れ込んだ。

「ふふふ、お疲れ様、ヴァルカ」

 エルセリカは、ヴァルカの子供のような愚行を愛おしそうに見つめながら、その隣のスペースへと、ゆっくりと自身の身体を寝転ばせた。

「……なんだか、エストレアの城に行ってから、久しぶりにこうやって二人きりになれた気がするな」

 ヴァルカは横を向き、目の前にあるエルセリカの輝くような銀髪にそっと触れると、慈しむようにその頭を優しく撫でた。

「……うん。そうだな、ヴァルカ」

 エルセリカは横たわったまま、ヴァルカの逞しい赤色の身体を、そっと両腕で抱き寄せた。

「エル、疲れてない? 」
「大丈夫だ……傍に居てくれてありがとう……」

 エルセリカは、ヴァルカの力強い鼓動を耳の奥で聴きながら、至高の心地よさに身を委ねた。フェルクラムという異国の冷たい城の中で、唯一の聖域。二人は互いの体温に包まれながら、張り詰めていた緊張の糸が解けたかのように、吸い込まれるように深い、自然な眠りの中へと落ちていった。

 *
 
 バルザードたちがミシェルの先導で城の地下深くにある格納庫へと赴くと、そこには油臭い空気の中に、キャスター付きの強固な台座に乗せられた、エストレア製の中型魔動機が鎮座していた。不格好な真鍮のパイプが這うその機械の前で、ガルトロク大公が待っていた。

「あぁ! お疲れのところ、このような場所へ呼び立ててしまい、誠に申し訳ありません、バルザード陛下!」

 ガルトロクは、再びこれみよがしに仰々しく眉をひそめ、恐縮したような表情を作ってみせた。

「実は、あなた様のお父様から我が国へ親交の証として賜った、こちらの貴重な魔動機なのですが……。どうにもここ数日、出力が安定せず異音を発するという不具合が生じておりましてな。本日は、エストレアが誇る高名な王宮魔導士の方々もご一緒だと聞き及び……、もしよろしければ、少し状態を見ていただけないかと、こうして不躾なお願いをした次第でございます」

 ガルトロクは、錆びついた魔動機のレバーを身振り手振りで叩きながら、下卑た期待を込めて説明した。
 
「ふむ……。サイラス、ルシアン。どうだ、何か分かるか?」

 バルザードが二人に調べるよう促した。サイラスは無精髭の生えた顎を擦りながら、魔動機に近づき、屈み込んで魔力の回路を覗き込んだ。

「この型番を見る限り……そこまで古い骨董品じゃねえと思いますがね」
「いやはや、我が国の魔法技師たちにも数名、総出で見てもらったのですが、何が原因で動かないのか、さっぱり分からずでして……」

 ガルトロクは、バルザードの表情の変化を逐一、貪るように確認しながら、その太い眉をピクピクと動かした。そして、手の指を卑しくすり合わせながら、本命の要求を切り出した。
 
「ひいては……これは些かな相談なのですがね、バルザード陛下。あのー……もし、エストレアの広大な蔵の中に、お使いになっていない、あるいは余っている魔動機などが、他にもあれば……そのー……、是非とも、我がフェルクラムへの『追加の支援』として、ご一考いただけないかと……」

 バルザードは、ガルトロクの浅ましい強欲さに内面で冷たい視線を送り、小さくため息をついた。

「――それについては、我が国の軍事・産業バランスに関わることだ。私一人の独断で判断しかねる」

 バルザードは、政治的な物乞いに対して、明確な拒絶の含みを持たせると、ガルトロクは僅かに口元を歪めた。それの様子を見て、バルザードは軽くため息をつくと、ルシアンとサイラスに向き直った。

「ルシアン、すまないが、この場でその魔動機の不具合の原因を突き止めておいてくれ。サイラス、お前はこちらへ来い」

 バルザードは、屈み込んで魔動機の歯車を覗き込んでいたサイラスを呼んだ。

「ルシアン、悪いな。ちょっとこのポンコツの世話を見ててくれ。すぐに戻る」

 サイラスはルシアンの肩を優しく叩き、後輩にその場を託した。

「はい、わかりました。お任せください」

 ルシアンは、師の期待に応えるように、自分一人でも十分に処理できるという確かな自信をその瞳に宿して、快く引き受けた。

 ガルトロクは、「待ってました」と言わんばかりに下卑た笑みを口ひげの裏に隠し、ミシェルを従えて、バルザードとサイラスを密談のための応接室へと案内していった。

 静まり返った作業室に、一人取り残されたルシアンは、腰のレザーベルトから小さな魔導ペンを取り出し、魔動機の装飾的な真鍮のパーツを一つずつ丁寧にチェックし始めた。

(……魔力伝達回路、異常なし。魔動核の駆動音、問題なし。……おかしいな、どこも壊れていない。だとしたら……)

 ルシアンは、魔動機の下方にある、排気用の小さな鉄の扉に目を留めた。手を伸ばし、固く閉ざされた扉のくぼみに、持っていた細いペンの先端を力強く差し込み、テコの原理でカチリと押し上げる。

 バチン、と音を立てて、外側から長方形の金属製の板が飛び出してきた。

(あぁ、やっぱり……)

 ルシアンはその飛び出してきた板を、するすると手元へ引き抜いた。その表面には、フェルクラムの乾燥した大地が放った、大量の細かい砂埃と油煤が、目詰まりを起こすほどびっしりと付着して汚れていた。

(フェルクラムの技師たちは、この『循環フィルター』の掃除が必要だって知らなかったんだ……)

 ルシアンは、あまりにも初歩的な原因に心の中で苦笑しながらも、持っていた清潔な白いハンカチを広げ、汚れた板の表面を丁寧に優しく拭き取り始めた。

 そして、元の輝きを取り戻した金属板を再び魔動機へと差し込み、起動スイッチを入れる。

 ウィィィーン……という、静かで安定した駆動音が室内に響き渡り、魔動機は正常に稼働を始めた。

「よかった、直った……」

 ルシアンがほっと胸を撫で下ろし、額の汗を拭った、その瞬間だった。

「……ルシアン……? 」

 背後の薄暗い廊下から、掠れた、しかし妙に粘質を帯びた低い声が、ルシアンの鼓膜を直撃した。

 ルシアンの身体が、恐怖で本能的にドキリと跳ね上がる。ゆっくりと振り返ったルシアンの視線の先に、一人の男が立っていた。

 数本の白髪が混じった、アッシュグレーの長い髪を後ろで神経質に束ね、顔には細い真鍮の丸眼鏡を乗せている。煤けた作業着を着込み、腰のレザーベルトにはフェルクラムの無骨な工具類をいくつも吊り下げている。その奥にある瞳は、暗い歓喜に濡れていた。

「コルベイン、殿……」

 ルシアンの身体が、本能的な嫌悪感で強張った。

「僕のことを、まだ覚えていてくれたんだね。嬉しいよ、ルシアン。ああ……見ない間に、こんなにも美しく、大きくなって……」

 コルベインは、丸眼鏡の奥の瞳をいやらしく歪め、昔を懐かしむような猫撫で声で、ルシアンとの距離を詰め始めた。ルシアンは寒気を覚え、思わず後方へと一歩下がった。しかし、ルシアンが下がった分だけ、コルベインはさらに異常な執着を隠そうともせず、足早に近づいてくる。

「この魔動機を直してくれたんだね。……やはり、君の魔導の才能は素晴らしい。ありがとう、ルシアン」

 コルベインは、ルシアンの返答を待たず、その白く細い両手を強引に掴み取った。

「いえ……単なる手入れ不足でしたので、どなたでも直せます。……離してください」

 ルシアンは、エメラルドグリーンの瞳に明確な拒絶を宿し、コルベインの手を振り払おうと力を込めた。しかし、コルベインの細い指先は、見た目からは想像もつかないほどに強固な力で、ルシアンの手首を締め付け、決して離そうとはしなかった。

「ルシアン、実はね……奥の僕の研究室にも、ぜひ君に見てもらいたい、高度な魔動機がいくつもあるんだ。一緒に来てくれないか?」

 コルベインは、ルシアンの身体を強引に引っ張り、互いの身体が触れ合うほどに、さらに距離を縮めようと身体をのめり込ませてきた。

「お断りします……」

 ルシアンが必死に抵抗しようとした瞬間、コルベインは狂気的な力でルシアンの腰を抱き寄せ、自らの頑丈な胸元へと強引に抱き寄せた。

「エストレアの最新の魔法技術の話とか……君がエストレアで今どんな生活をしてるのかとか興味があるんだ……」

 コルベインは興奮のあまり荒い息を吐き散らし、ルシアンの顔、その白い首筋へと執拗に自らの顔を近づけていく。

「離して、離してください……っ!」

 ルシアンは、コルベインの肩を両手で掴んで必死に引き離そうとした。しかし、コルベインはまるで頑丈な鉄の檻のように、ルシアンに抱き着いたまま、その身体を離そうとしない。

「こんなにも美しい君を……エストレアが、独り占めにするなど許されるはずがない……」

 コルベインはルシアンをきつく締め上げ、その細い身体を壊さんばかりに狂気的な愛着を爆発させる。ルシアンの首筋に、男の脂ぎった皮膚の熱と、荒々しく湿った息がかかる。

「いや……っ! 」

 ルシアンの背筋に、凄まじいまでの寒気と、吐き気を催すほどの恐怖が駆け巡る。

「誰か……誰か来てください! サイラス殿!!」

 ルシアンは、涙目で必死に抵抗しながら、敬愛する師の名を叫んだ、まさにその瞬間。

「その汚ねえ手を離せ!」

 激しい怒号と共に、黒いロングコートを翻したサイラスが猛然と突進してきた。彼の強靭な足から放たれた渾身の蹴りが、コルベインの脇腹へと正確に、かつ容赦なく叩き込まれた。

「ぐっ……!?」

 凄まじい衝撃音と共に、コルベインの身体が真横へと吹き飛び、床の石畳の上を無様に転がった。その強引な引き剥がしの勢いに巻き込まれ、ルシアンもまた床へと倒れ込んでしまう。

「すまん、ルシアン! 大丈夫か! 」

 サイラスは、吹き飛んだコルベインの様子など目もくれず、真っ先に倒れたルシアンの元へ駆け寄り、その細い肩を抱き上げて身を起こした。
 ブラウンの瞳には、かつてないほどの激昂と、我が子を案じる親のような狂おしいまでの狼狽が満ちていた。

「だ、大丈夫です……。サイラス殿、ありがとうございます……」

 ルシアンは怯えに身体を震わせながらも、サイラスの胸の匂いに包まれ、ようやく呼吸を取り戻した。幸い、身体に目立った怪我はないようだった。

「一体、何事ですか? 大層な騒ぎのようですが」

 後方から、不穏な空気を察知して、バルザードとガルトロク大公が、慌てた様子で駆け込んできた。

「サイラス様、これは些か困りますね。我がフェルクラム公国が誇る”大切な”魔法技師に対して、このような公の場で暴力を振るわれるとは……」

 後ろから現れた参謀のミシェルが、いつもの紳士的な微笑を完全に消し去り、呆れたような冷淡な声音でサイラスを咎めた。サイラスはルシアンを自らの背後に隠し、射殺さんばかりの鋭い眼光で参謀を睨みつけた。

「だったら、そっちの”大切な”魔法技師とやらに、うちの”大切”な王宮魔導士に薄汚い手でベタベタ触らないよう躾してもらいたいもんだな」
 
 サイラスは毅然とした、一歩も引かない態度で言い放った。

「どうにも胸騒ぎがして、応接室を途中で抜け出して戻ってきて正解だったぜ。こんな変質者がうろついているんじゃ、大事な弟子を一人にできるわけがねえ」

 サイラスはそう毒づくと、未だ恐怖に震えるルシアンの頭を優しく自らの胸元へと寄せ、庇うように抱きすくめた。
 対照的に、ミシェルは、床で脇腹を押さえて呻いているコルベインの元へ歩み寄り、その身体を冷淡に引き起こした。

「大丈夫ですか? コルベイン」

 ミシェルのその言葉には、同僚を気遣う優しさなどは微塵もなく、ただ義務的に状況を処理しようとする冷徹さだけがあった。

「あぁ……痛い、痛い! 肋骨が折れたようだよ! なんて野蛮で暴力的なんだ!」
 
 コルベインは丸眼鏡を歪ませ、痛みに顔を歪めながらも、サイラスを細い指で指差し、周囲の官僚たちに聞こえよがしに絶叫した。
 
「あの男は昔からそうだ! エストレアにいた頃から、自分の気に入らない研究、気に入らない人間をすべて排除しようとする、最低で冷酷な奴なんだよ!」

 コルベインは、肋骨を押さえ、狂気混じりの声を張り上げてサイラスを指差し、周囲の騎士たちに聞こえよがしに怒鳴り散らした。サイラスは、その哀れな被害者面に対して、今すぐその口を永遠に閉じさせてやろうかとばかりに、拳を固く握りしめて睨みつけた。

「……それで? そちらの若い魔導士は、コルベインに具体的に『何か』されたのですか?」

 ミシェルは、コルベインを介抱する手を緩めず、冷たい視線でルシアンを射抜くように咎めた。確たる証拠がなければ、エストレア側の非礼として外交問題にするという、無言の脅迫だった。

「あ……あの……」

 ルシアンは、これ以上自分のせいでバルザードの外交に泥を塗り、事を荒立てるのはエストレアにとって得策ではないと、瞬時に知的な判断を下した。彼は小さく拳を握り締め、俯いたまま、自ら声を絞り出した。

「……僕が、不意に声をかけられて、大げさに叫んでしまいました。……申し訳ありません」
「ルシアン! お前……」

 サイラスが驚愕し、ルシアンの顔を覗き込もうとしたが、それをコルベインが勝ち誇ったように遮った。

「僕はただ、昔のよしみで、親愛の挨拶を交わそうとしただけだ!」
「思いっきり抱きついて、首筋に息を吹きかけてただろうが。次その汚い口を開いたら、本当に叩き潰すぞ」

 サイラスは今にも コルベインに殴りかからんとする一触即発の態勢をとったが、それを制したのは、バルザードの冷徹な一言だった。

「そこまでにしろ、サイラス」

 バルザードは一歩前に出ると、ガルトロク大公を見据えた。

「ガルトロク公。先ほどの魔動機の追加調達の件……前向きに善処しよう。我が臣下の非礼に対する、個人的な『詫び』も含めて。今回の件はこれで手打ちにしてもらえないだろうか?」

 バルザードが、技術供与という最大の譲歩をカードとして提示した瞬間、ガルトロク大公の不気味なおかっぱ頭が跳ね上がり、その醜悪な顔に満面の笑みが浮かんだ。

「もちろんですとも! 国王陛下がそう仰るなら、何の問題もございません! ささ、ディナーの準備もそろそろ整う頃合いかと存じます。皆さま、どうぞお部屋へ戻り、ごゆるりとおくつろぎください!」

 サイラスは激しい舌打ちを床に叩きつけると、ルシアンの細い肩を己の腕でがっちりと守りながら、バルザードと共に客室の方向へと足早に戻っていった。

 ガルトロクは、三人の背中が完全に廊下の奥へと消えるのを笑顔で見届けた。しかし、その姿が見えなくなった瞬間、笑顔は瞬時に消え去り、隣に立つミシェルとコルベインに向き直ると、底冷えするような呆れた顔を隠そうともしなかった。

「コルベイン……困るよ。いくら昔馴染みだからといって、我が国の重要な外交の客人、それもエストレアの王宮魔導士に手を出してもらってはねぇ……」

 ガルトロクは口ひげを不快そうに揺らし、頭を左右に振った。
 
「そんな! 閣下、僕はただ、昔の親しいよしみで……!」

 コルベインは丸眼鏡を歪ませ、必死に弁明しようとしたが、ガルトロクの目は冷酷そのものだった。

「君は、そもそもエストレアを不祥事で追放された身だろう? いくら我が国に不可欠な魔法技術を持っているからといって、私の顔にこれ以上の泥を塗ってもらっては困るな」
「……申し訳、ございません……」

 コルベインは、ガルトロクの威圧感に圧され、折れた脇腹を抱えたまま深く項垂れるしかなかった。

「私は会食の時間まで、少し自室で休ませてもらう。どうやら魔動機も直っているようだしな。……後は頼んだぞ、ミシェル」
「かしこまりました。大公閣下」

 ガルトロク大公は、ふんぞり返るような傲慢な足取りで、自らの贅沢な部屋へと戻っていった。ミシェルは床に佇むコルベインを一瞥すると、何の感情も籠もっていない手つきで魔動機の台座を押し、元あった暗い格納庫へと戻しに歩いていった。

 *

 コルベインは、サイラスの蹴りによって青黒く腫れ上がった脇腹を必死に押さえ、脂汗を流しながら自らにあてがわれた薄暗い技師室へと戻った。

 部屋の淀んだ空気を入れ替えようと、彼は震える手で重い石の窓を開け放つ。フェルクラムの乾燥した、しかしどこか冷たい風が室内に滑り込んできた。

 コルベインは窓枠に両手を突き、夜の闇に消えゆく荒れ地を眺めながら、本日何度目かも分からない、深く重いため息をついた。

「――貴様は、いつ見てもため息ばかりついているな」

 不意に、部屋の奥の暗闇から、地を這うような低い、不気味な声音が響いた。いつの間にか、壁に背をもたれかけるようにして、深いフードで顔を完全に隠した、黒いローブの男が闇に溶け込むように佇んでいた。

 コルベインは驚く風もなく、ただ窓の外を見つめたまま、心底不快そうに声を返した。

「君か……。何度も言っているだろう、勝手に人の部屋に入らないでもらえるかい? 不法侵入は、この国でも罪だよ」
「新薬の進捗を聞きに来ただけだ」

 黒いフードの奥から冷徹な視線がコルベインの背中を刺す。コルベインは、脇腹の痛みに顔を歪めながら、ゆっくりと振り返った。

「アレを開発するには、最新の『設備』と、純度の高い『素材』と、莫大な『魔力』が必要だって、前にも説明したはずだ」
「設備と素材と魔力の触媒は、お前の要求通り十分に提供したはずだが?あと、何が足りないというのだ」
「そんなの……」

 コルベインは口を濁し、視線を泳がせた。

「困るな。我が組織のリソースをこれ以上無駄遣いされては。……事と次第によっては、お前をここで『処罰』せねばならん」

 黒いローブの男は、腰に携帯していた、幾多の血を吸ってきたであろう重厚な長い鞭を、床に向けて鋭く振るった。硬質な音が室内に響き渡る。

「ちょ、ちょっと待ってよ! 一応、試作品なら、すでにいくつか完成しているんだから……!」

 コルベインは、慌てて床の隅に置いてあった頑丈なトランクへ這いつくばるようにして向かい、鍵を開けた。中から、怪しい紫色の液体が満ちた数本のガラスの試験管を取り出すと、震える手で黒いローブの男へと差し出した。

「君たちからもらった素材をベースに、極限まで濃縮したものだ……。これで、一旦試してみてくれないか?」

 黒いローブの男は、差し出された試験管を受け取り、その中で妖しく揺れる液体をフードの奥からじっと眺めると、納得したようにそれを懐へと仕舞い込んだ。

 すると、黒いローブの男の視線が、部屋の古い箪笥の上に飾られていた、一つの小さな銀の写真立てへと向けられた。黒いローブの男は躊躇うことなく、革手袋をはめた手でそれを手に取った。

 その写真には、エストレアの王宮魔導士だった頃の若きコルベインと、その隣で、白銀の髪と輝くエメラルドグリーンの瞳を持った、美しい『月夜の民』の少年が、並んで写っていた。

「君ねぇ……っ! 僕の大切なものに、勝手に触らないでくれッ!」

 コルベインは、血相を変えて男の手から写真立てを強引にもぎ取り、胸元に抱え込んだ。

「……なるほど。『月夜の民』の最高級の素材が欲しかったのか。……安心しろ、必要ならば、近いうちにその純度の高い血が、お前の手元に入ることになる」

 フードの奥の表情は見えなかったが、その口元だけが、下卑た三日月の形に微かに歪んで笑っているのが見えた。

「……君たちは、そうやってすぐに月夜の民の命を自由を奪い、殺そうとするから嫌いだよ。 彼らは、あんなエストレアの狭い村に縛り付けられておくべき存在じゃないんだ。もっと広い世界で暮らすのが、一番の幸福なんだから……」

 コルベインは、手の中の写真立てのガラス面を、愛おしそうに指先で撫でた。

「僕は……彼らに危害を加えたいわけじゃない。彼らの宿す、神聖な力の有効活用を考えているだけだ。君たちが今後も月夜の民を殺そうとするなら……申し訳ないけれど、これ以上君たちには協力できない」

 コルベインは、きっぱりとした、歪なプライドの籠もった声を響かせた。黒いローブの男は、フードの奥から、コルベインが手にもつ写真立ての少年の顔を、冷酷にじっと見つめ続けた。

「安心しろ。我々組織の目的は、別にある。……新薬の開発は、引き続き頼むぞ。魔導技師」
「……」

 コルベインは返事をせず、ただ男を睨み続けた。
 その沈黙を肯定と受け取ったのか、黒いローブの男は、次の瞬間には影が溶けるようにして、一瞬でその姿を作業室から消し去っていた。

 静寂が戻った技師室で、コルベインは写真立てを、恭しく元の箪笥の上へと戻した。

「ルシアン……。君が傍にいてくれたら、どれほど心強いか……」

 コルベインは窓の枠に額を押し当て、再び、深く暗いため息を夜の風へと吐き散らした。

 *

 バルザード、サイラス、そしてルシアンの三人が、重苦しい沈黙を伴って客室へと戻ると、それぞれに割り当てられた個別の寝室へと入っていった。

 中央の共有リビング。サイラスとルシアンは、古びた革のソファへと深く腰掛けた。

「……ルシアン、本当に大丈夫だったか」

 サイラスは、いつもの軽薄な調子を完全に捨て去り、父親のような、あるいは本物の師としての深い憂慮を宿した声音で、隣のルシアンに問いかけた。

「ええ……。何ともありません」

 ルシアンは、襲われた際の首筋の嫌悪感が未だ消えないのか、顔をサイラスから逸らしたまま、消え入りそうな声で答えた。

「ちゃんとこっちを見ろ。目を見て話すんだ、ルシアン」

 幼い子供に言い聞かすように、サイラスは語気を強め、ルシアンの顎に手を添えて、強引に自らの方を向かせた。サイラスに強く促され、ルシアンは恐る恐る、そのブラウンの瞳を見つめ返した。

「奴に、何をされた」
「……抱きつかれて、昔の話をされただけです。それ以上は、何も……」

 ルシアンは、再び耐えかねたように視線を逸らそうとした。

「……そうか。お前を、あんな場所に一人にしてすまなかった。」

 サイラスは、大きな、傷だらけのごつごつした手で、ルシアンの震える白い手を上から包み込むように力強く握り締めた。
 ルシアンは、その肌から伝わってくる、長年自分を守り続けてくれた師のぬくもりに、凍りついていた心がようやく安心の熱を取り戻していくのを感じた。

「……少しだけ……昔の記憶がフラッシュバックして、怖くて、驚いただけです」

 ルシアンはぽつりと、本音の涙を一滴だけ溢れさせた。

「あぁ、分かっている。分かっているさ」

 サイラスがその細い肩を抱き寄せようとした、まさにその時。バタンッ! と勢いよく共有リビングの扉が開き、バルザードが強引に入ってきた。

「どうした、陛下? 何か不測の事態でも起きたか?」

 サイラスは、王の尋常ならざる雰囲気に、ルシアンの手を離して立ち上がり、問いかけた。

「あぁ……。いや……。エルセリカとヴァルカが、二人揃ってベッドの上で、完全に寝ていたのだ。……大の字になってな」
「えぇっ!?」

 サイラスとルシアンは、思わず同時に素頓狂な声を上げた。

「アイツ……! 王妃の護衛任務中だってのに、何ぐっすり添い寝してやがるッ!」

 サイラスは、専属護衛としての自覚を欠いたヴァルカの暴挙に、怒りを露わにして部屋を飛び出そうと立ち上がった。それをバルザードが片手を挙げて制した。

「サイラス、いいんだ。二人とも移動と緊張で疲れていたのだろう。そのまま寝かせておいてやってくれ」
「だけどお前たちの寝室だろ? 王の休む場所が――」
「今はいい。これ以上、事を荒立てるのには疲れた。……それよりも、サイラス。すまないが、お前の部屋のベッドを少し借りてもいいか? 私も、少々横になりたい」
「あぁ、そういうことなら、いくらでも使ってくれ」

 サイラスとルシアンは、王の顔に刻まれた本物の疲弊を察し、急ぎバルザードに付き従って、奥の寝室のベッドへ横になるのを丁寧に手伝った。

 バルザードは、重厚な毛布に身を包みながら、枕元に佇む二人へと視線を向けた。

「……大事な話をしていたようだが、邪魔をして悪かったな」

 バルザードはシーツに身体を沈めながら、サイラスとルシアンに向けて、どこか弱々しく謝罪の言葉を口にした。サイラスはふっといつもの意地の悪い、しかし温かい笑みを取り戻した。

「陛下に聞かれてマズい話なんて、一つもあるわけないだろ」
「陛下……先ほどは、僕の不手際で……誠に申し訳ありませんでした」

 ルシアンは再び深く頭を下げて謝罪しようとしたが、バルザードはそれを遮るように、ベッドの中から優しく首を振った。

「私はお前たちを咎めるつもりは毛頭ない、ルシアン。……月夜の民の力を渇望する狂人が他国にいると知りながら、お前を一人にしてしまったのは、私の完全な失策だ」
「そんな、陛下が謝ることでは……! 僕は、何一つお役に立てず……」
「自分を責めるな、ルシアン。……お前たちの宿す強大な魔力は、この未開な世界においては、やはり危険が多すぎるのだ。……いつか、お前たち『月夜の民』が、誰の視線もおびえることなく、自由に、誇り高く暮らせる世界を……私がこの手で作らねばならんな」

 バルザードは、ルシアンの瞳を真っ直ぐに見つめ、年相応の、一人の不器用な男としての優しい微笑みを浮かべると、そのまま静かに目を閉じた。

 サイラスは、親友の息子の寝顔に、愛おしそうに優しく布団をかけると、これ以上の休憩の邪魔をしないよう足音を消し、そっとルシアンを伴って手前のソファのエリアへと戻っていった。

「……さて、俺たちも、ディナーまでは少し身体を休めようぜ」

 サイラスはそう言って、ルシアンの隣へと腰掛け、その心を完全に落ち着かせるように、再びその温かい手を優しく握り締めた。ルシアンは、静かに稼働を続けるフェルクラムの魔動機の音を遠くに聞きながら、師の胸へとそっと頭を預け、短い安息の闇へと身を委ねていった。

第十四章 禁忌の調合の足音、王宮回廊の侵食

 乾いた大地の広がる関所を抜け、馬車の列をなして行商人たちは国境の門をくぐり抜けていた。彼らは警備の兵士たちにそれぞれの身分証明を差し出し、形式的な受け答えを淡々とこなしていく。

「身分証の提示を」

 城門の検問所に立つ厳格な衛兵は、荷馬車の御者台に腰掛けたやせ細った行商人たちを一瞥すると、その顔色一つ変えずに無機質な手を出した。

 やせ細った行商人は震える手で懐から身分証を取り出し、厳格な衛兵の冷たい手のひらの上に置いた。

 厳格な衛兵は差し出された身分証と、目の前に立つやせ細った行商人の顔を交互に見比べた。そのカード型の身分証には、本人の顔写真を含め、精巧な魔導インクで刻まれた手形までもがしっかりと記されている。

 この身分証の情報は、王国の巨大な情報庫にも完全に保管されているため、少しでも不一致や偽装の痕跡があれば、その場で直ちに厳重な検査へと回される仕組みになっていた。

 直近の首都パレードで起こった不穏な騒ぎの件があって以来、エストレアの国境管理はかつてないほど厳重に引き締められていたのだ。

 厳格な衛兵の脇に控えていた若い衛兵が、手元の魔導機を起動させると、やせ細った行商人が隠し武器や違法な魔導触媒を持っていないかを入念にチェックしていった。

「目的は?」

 厳格な衛兵が、低く端的な声音で問いかけた。

「……仕事です。王都のヴェント商店から、資材の調達を頼まれています」

 やせ細った行商人は、魔導機による身体検査を受けながらも、必死に身振り手振りを交えて答えた。その背後には、白く厚手の布で覆われた、不自然なほど大きな荷馬車がどっしりと控えている。

「荷物をチェックしろ」

 厳格な衛兵の短く冷徹な指示に従い、待機していた三、四人の衛兵たちが一斉に動き出し、荷馬車へと群がった。布を剥ぎ取り、荷物を一つひとつ検分していく。

 すると、その荷馬車の奥からは、ただの資材や木箱だけでなく、やせ細った一人の女性と、怯えた様子の少年、そして少女が、身を寄せ合うようにしてうずくまっているのが露わになった。

「おいおい、困るな。荷物だけじゃなく、同乗している者たちもちゃんと身分証を提示してもらわないと困る」
「……申し訳ありません。ちょうど休ませていたところでした」

 厳格な衛兵は眉間に深い皺を寄せ、女子供に対して馬車から降りるように命じた。
 やせ細った行商人は、荷馬車の荷台で縮こまっていた、おそらく自らの家族であろう者たちに目を配り、身分証を出すように促した。
 厳格な衛兵は、女子供の震える手から次々と身分証を受け取ると、その記載内容に偽りがないかを一つひとつ確認していく。

 他の衛兵たちは手を休めることなく、荷馬車の隙間から不審な隠し場所がないかをくまなく探り続けている。

「先ほどヴェント商店への照会が取れました。この商人が頻繁に資材の調達を請け負っているのは間違いないようです」

 若い衛兵が、無線魔導機を使って王都のヴェント商店へ行商人についての照会を行っていたらしく、厳格な衛兵の耳元へと駆け寄って報告した。

「ふむ……」

 厳格な衛兵は腕を組み、どことなくこのやせ細った行商人に対して拭い難い違和感を覚えていた。しかし、その引っかかりが一体何に由来するのかは、何度見返してもはっきりとしない。

 それもそのはず、彼は家族を隠していた点を除けば、身分証も店への照会も完璧で、客観的には“怪しい点”が微塵も存在しなかったからだ。

 そうしている間にも、検問の列の後方では、やたらと長い荷物検査のせいで足止めを食らった商人たちが痺れをきらし、まだかまだかと苛立ちの声を上げ始めていた。

「荷物も全て、申告通りの資材でした!」

 荷馬車の裏側を調べていた別の衛兵が、大きな声で調査完了を告げた。

「……よし、通れ」

 厳格な衛兵は、納得がいかないような、しかしこれ以上引き止める大義名分もないというように大きく息を吐き出しながら、やせ細った行商人とその荷馬車の通行を許可した。

 やせ細った行商人の男と荷馬車は、そのまま王都へ入ると指定されたヴェント商店へと到着し、店主に資材を無事に引き渡し、わずかな代金を受け取ると足早にその場を去っていった。

 やがて、完全に空っぽになった荷馬車は、城下町のずれ落ちそうな古びた一軒家の前で静かに止まった。

 その一軒家は、かろうじて建物の造りを成してはいるものの、庭には人の背丈ほどもある雑草が伸び放題に茂り、窓ガラスはあちこちが蜘蛛の巣状に割れ、天井部分は一部が朽ち果てて穴が空いていた。

 正面玄関であるはずの木の扉は、すでに取っ手が完全に外れており、上の蝶番がかろうじて傾いだ木の板を支えているだけの痛々しい状態に見える。

 やせ細った行商人は警戒するように周囲を窺いながら家の中に入ると、埃まみれの木のテーブルにぽつんと置かれていたろうそくに火をつけた。連れ立っていた子供たちも中へと入り、女はかつて扉だったはずの傾いだ木の板を内側から閉ざした。

 その瞬間、子供たちの喉から突然、えぐるような苦しげなうめき声が漏れ、彼らはその場で激しくうずくまった。
 それだけでなく、やせ細った行商人の男も、そして女の身体からも、骨が軋むような異様な音が全身から発せられ始めた。

「……くっ、目覚めが悪すぎる。まるで長い悪夢を見ていたようだ」

 苦悶の気配が引いた後、先ほどまで少年がいたはずのその場所には、見違えるように美しい金髪を揺らすフィリアスの姿が立っていた。

「フンッ。元に戻れただけでもありがたく思えよ……」

 やせ細った行商人がいたはずの場所から立ち上がったのは、ゼイドだった。彼は低い喉を鳴らすように不気味に笑った。普段は黒いローブですっぽりと隠されていたその素顔は、短く切り揃えられた黒髪と、冷ややかな黄色の瞳を持った精悍な青年そのものだった。その鋭すぎる眼光は、まるで草むらから獲物を瞬時に捕らえる毒蛇のようである。

「ホホホ。中には薬の拒絶反応で元に戻れず、一生その姿のまま過ごす羽目になる者だっているさねぇ」

 老婆の姿をしていた女が歪んだ笑みを浮かべた。そこにはマダム・ベリャールの姿が顕現していた。

「なっ……!? 一生、元の姿に戻れないですって……!?」

 少女の姿でうずくまっていたはずの人物は、波打つ美しい茶髪を揺らすイゾルデだった。マダム・ベリャールの告げた残酷な可能性に、彼女は酷く顔を青ざめさせ、激しい衝撃を受けて絶句した。

「言ったはずだ。この変身薬は極めて高度かつ不安定な代物で、開発そのものが難しい。それ相応のリスクが伴うということだ」

 ゼイドは、イゾルデの動揺などまるで取るに足らない問題であるかのように、冷淡に言い捨てた。

「それにしても……エストレアの検問は、かなり念入りに調べられたな」

 フィリアスは、テーブルの上に古いエストレアの地図を無造作に広げながら、険しい顔つきで呟いた。

「頻繁に出入りしている商人に化けても、本人の顔を微かに覚えている目の利く衛兵がいれば、それだけで怪しまれることもある」
「それなら、最初から顔パスですぐに入れてもらえるような身分に変身すればよかったじゃないの?」

 王宮の甘い環境で育ったイゾルデが、世間知らずな不満を無邪気に表した。

「……愚かな。余計な特権階級の顔を真似れば、かえって本人の動静と照らし合わされて一発で綻びが出る。やつらは我々の入国行動そのものに、微かな不信感を抱き始めているのだ。『いつもの商人の動きとは違う』とな」

 ゼイドは面倒くさそうに吐き捨てた。

「……他の攪乱用の連中は、無事に潜入できただろうか?」

 フィリアスは、地図の端を指で叩きながら、かすかな不安を滲ませて尋ねた。
 この場にいる四人の他にも、王都の治安を混乱させるための攪乱要因として、別のチームが手はず通りに入国しているはずだった。

「さぁな」

 ゼイドはそっけなく答え、冷めた視線を返す。

「ちょっと、『さぁな』って……! 心配じゃないの? 私たちは同じ組織の仲間でしょう?」

 イゾルデはゼイドに詰め寄った。

「仲間、か。ヴェルダンテの連中にも、実の肉親すら見捨てられた偽の王女よ……」

 ゼイドは、その冷酷な金色の瞳で、イゾルデの心を射貫くようにねっとりと見つめた。
 イゾルデは図星を突かれたように、思わず顔を激しくしかめた。

 長い時を王女として贅沢に過ごしながらも、心の底では王家の血筋を持たないというコンプレックスに苛まれ、育ての親のレジナルドからも、挙句の果てには実の父親であるオルディンからも見放された記憶が脳裏に蘇る。

 そして、オルディナ共和国で別れた元騎士団員たちの、あの冷ややかで蔑むような眼差しを思い出すと、怒りと屈辱がイゾルデの胸の内で黒い炎となって沸騰する。

「……そうね。そんなもの、最初からなかったわ」

 イゾルデが吐き捨てるように言い放つと、ゼイドは面白そうに不敵な笑みを浮かべた。

 その時、コン、コン、と乾いた木を叩くようなノックの音が、朽ちかけた扉から響いた。
 薄汚れた室内にいた全員が、一斉に警戒の色を浮かべて入り口の方へと視線を向ける。

 ゼイドは重い足取りで大股に扉へと近づき、隙間から外を確認すると、ゆっくりとその板戸を開け放った。

「指定された武器の調達、無事に完了しました」

 扉の向こうに現れた別の工作員が、低い声でそう告げる。ゼイドは彼らを中に素早く招き入れた。

「……先ほど、城内の動きを隠密裏に調査したところによると、エストレア王は、明日の夕刻にフェルクラム公国からの帰還を果たすとのことです」

 工作員がもたらした新たな情報に、室内の空気が一段と引き締まる。

「しばらくは身を潜めて長期潜伏する必要があるかとも思っていたが……これ以上ない絶好のタイミングだな」

 ゼイドは、作業台の前に立つフィリアスの方へと鋭い視線を向けた。
 フィリアスは、復讐に満ちた冷徹な決意をその目に宿し、黙ってゼイドを見つめ返した。

「明日の夜、すべての決行とする」

 ゼイドが広げられた地図の上に指を置き、最終的な襲撃ルートのチェックを始めた。
 その低い声に引き寄せられるように、フィリアス、イゾルデ、マダム・ベリャールたちが一斉にテーブルの周りへと無言で集まっていく。

 美しく、どこまでも気高き魔導大国エストレアの片隅で、静かに、しかし確実に、ひとつの国家と人々の希望を打ち砕くための組織の歯車が狂い始めた。

 *

 昼下がりの乾いた山脈の街道を抜けた先では、二台の豪奢な馬車が、遠くの青空の下に美しくそびえ立つエストレア城へと向かって車輪を走らせていた。

「はぁ……やはり、このきちんと整備されていない荒れた道を馬車で長々移動するってのは、この年齢の体には結構こたえるな」

 サイラスは何の気なしに馬車の小窓から外の景色を眺めながら、首をゴキゴキと鳴らした。

「エストレアの地下鉄が、もっと外の国境付近まで伸びていりゃ楽なんだけどな」
「チカテツ……?」

 エルセリカは、サイラスの口から飛び出した聞き慣れない単語に反応し、首をかしげた。

「そうか、エルはまだエストレアの地下魔導鉄道を見たことがないのだな……。王都に戻ったら、今度一緒に乗ろう」

 隣に座っていたバルザードが、落ち着いた声音でエルセリカへと説明した。どうやらエストレアの首都の地下には、魔導エネルギーで駆動する専用の鉄道網が蜘蛛の巣のように敷かれており、街の隅々まで短時間で一周できるようになっているらしい。

「街の中を移動するだけなら、馬車よりも地下鉄の方が圧倒的に便利だぜ」
「その……チカテツというのは、ヴェルダンテの方向へも線路を伸ばすことはできないのか?」

 エルセリカが未来の可能性に目を輝かせながら尋ねる。

「広大な山脈やヴェルダンテの深い森まで地下を掘り続けるのは、技術的にも予算的にも途方もない労力がかかる。……だが、地上の普通の鉄道網なら、近い将来に開通させる計画はある」

 バルザードの言葉を聞き、エルセリカは胸を高鳴らせた。これまで過酷な旅路を自らの足で歩き通してきた彼女にとって、魔法や技術によって人々が簡単かつ安全に移動できる社会の到来は、強烈な希望として映ったのだ。

「エストレアの魔法使いといえば、どこかへ行く時はみんな瞬間移動で行き来するものだとばかり思っていた」

 エルセリカがぽつりと本音を漏らすと、サイラスは思わず声を出して愉快そうに笑った。

「ははは!高度なテレポート魔法を完全に制御できるのは、ごく一部の限られた高位魔導士だけだ。それに、大人数の人間を同時にテレポートさせるのはリスクがあまりに大きすぎるよ」

 かつて、大人数の瞬間移動に失敗し、同行者たちが空間の歪みに巻き込まれて消息不明となった悲惨な事故が多発した暗黒の時期があったと、バルザードは丁寧に解説を加えた。

「移動先が同じ空間座標だったために、魔導士同士が物質的に衝突して大怪我する事故もあったからなぁ。なんにせよ、長距離の移動ともなれば精神力も魔力もごっそり削られる。それだけで疲労困憊してしまうのさ。だから、魔動機という道具を使った移動のほうが、安全で疲れなくて済むんだよ」

 さも自分が何度も瞬間移動を経験したことがあるかのような口ぶりでサイラスが説明した。

「それは……サイラスも、昔は瞬間移動をしたことがあるのか?」

 エルセリカの好奇心が、さらに別の疑問へと向かう。

「さぁ、どうかな? 」

 サイラスはニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべながら、エルセリカをちらりと見た。

「先ほど、悲惨な事故が多発した話をしただろう? 以来、エストレアではテレポート魔法の行使は厳格に法律で禁止されている。もう二度とその危険な光景をお目にかかることはないだろうな」

 バルザードは少しだけ寂しげな、遠くを見るような表情を浮かべてエルセリカに告げた。
 エルセリカもまた、その夫の表情の奥にあるものを感じ取り、どこか胸が締め付けられるような切なさを覚えた。
 おそらく彼もまた、幼い頃から偉大な魔導士たちと関わる中で、誰もが一度は夢見る「瞬間移動」という圧倒的な自由への憧れを、その胸の奥に抱いていたのだろうと。

 他愛のない、しかし穏やかな雑談を交わしているうちに、馬車は夕暮れ時の染まりゆくエストレア城の巨大な城門へと静かに滑り込み、到着した。城のエントランスでは、大勢の侍女や宮廷官僚たちが出迎えて頭を下げている。

 バルザードは、道中護衛を務めてくれた騎士団の面々や魔導士たちをねぎらい、その場で一旦解散を命じた。

 その後、バルザードはエルセリカ、そして付き添ってきたヴァルカ、サイラス、ルシアンの三人を伴い、それぞれの自室へと向かう回廊を進む。重厚な客室の扉の前まで差し掛かると、バルザードはふと足を止め、ヴァルカとサイラス、そしてルシアンを一人ずつしっかりと見据えた。

「皆、遠いところまでの長旅、本当にご苦労だった。今日は互いに疲れだろう、明日の朝までゆっくりと休んでくれ」

 王の労いの言葉に、三人はそれぞれに大きく頷き、頭を下げた。

「そうだ! もし明日、天気が良ければ、俺がエストレアの自慢である『地下鉄』を案内してやろうじゃないか」

 サイラスが、どこか誇らしげに意気揚々と提案した。

「チカテツ……? なんだそりゃ?」

 ヴァルカはエルセリカと同様、聞き慣れない響きに小首をかしげた。

「エストレアの王都の地下には、魔法で動く鉄道が走っているらしいぞ」
「へえ……」

 ヴァルカは相変わらずピンときていない様子だったが、とりあえず大きな体を揺らして適当に返事をした。

「ははは! 実際に見たら、たまげるほどびっくりするぜ!」

 サイラスがエルセリカとヴァルカに向かって自慢げに笑ってみせると、傍らに立っていたバルザードやルシアンの顔にも、自然と穏やかな笑みがこぼれた。彼らにとって、自分たちが築き上げてきた技術がこれほど誇らしいものであることは、疑いようのない事実だった。

「楽しみにしておくよ!」

 ヴァルカが子供のような無邪気な笑顔を見せたところで、三人はそれぞれの夜を過ごすため、その場でバルザードたちと別れた。

 エルセリカはそのまま、バルザードに招かれるようにして彼の私室へと足を踏み入れた。

「エル……今回の外交、疲れただろう。だが、今後はこのような国王夫妻としての公務も増えてくる。お前に過度な負担をかけるつもりはないが……我が王妃として、堂々と胸を張っておればそれで何の問題もない」

 バルザードは窓際のデスクに背を預け、静かに語りかけた。

「あぁ……私は、大丈夫だ」

 エルセリカは力強く頷いた。
 その気丈で凛とした、妻の美しい立ち居振る舞いを見つめながら、バルザードは心の底から誇らしい気持ちに満たされていた。

「本当は、すぐにでも一人にして休ませてやりたいところなのだが……」

 そう呟くと、バルザードは歩み寄り、エルセリカの華奢な肩を引き寄せ、その唇に優しい口づけを落としてから、愛おしそうに身体を強く抱きしめた。

 その腕の中で、エルセリカの心は微かに揺れていた。

 彼女の脳裏に蘇っていたのは、フェルクラム公国で用意された豪奢な客室でのこと――疲労のあまり、バルザードの部屋のベッドでヴァルカと一緒に大の字になって眠りこけてしまったあの記憶だった。

 あの後、バルザードはその出来事について彼女たちを強く咎めようとなかった。

 だが、その出来事以降、バルザードが見せる顔は、怒りというよりも、どこかすべてを諦め切ったような、痛々しいほど寂しげな表情だった。そのバルザードの表情が、今もエルセリカの胸を締め付けるように抉っていた。

(私は……バルザードの純粋な気持ちを、これ以上無下にしてしまっていいのか……?)

 思い詰めるように、エルセリカはそっとバルザードの頑丈な腰に両腕を回し、自ら身を寄せるように抱きついた。

「……バルザード。もし私が、あなたのことを……本当に好きになったと言ったら、どうする?」

 その突然の言葉に、バルザードは僅かに身体を強ばらせ、驚いた表情で彼女の顔を覗き込んだ。それは、エルセリカの真意や嘘を測ろうとするかのような、重苦しい沈黙の時間が流れる。

「……同情か?」

 バルザードの発した声は、信じられないほど冷ややかだった。彼の冷徹な瞳がわずかに細められると、バルザードはそれまで抱きしめていたエルセリカの身体を、拒絶するように急に引き剥がした。

「やはり、今日のところはやめておこう。疲れているのだろう、もう休んでくれ」

 バルザードは冷たくそう言い放つと、彼女に背中を向け、自分のマントの留め具を無造作に外し始めた。
 こちらから歩み寄ろうと勇気を出した途端に突き放されたエルセリカは、酷く落胆し、胸の奥が冷たく凍りつくようなショックを受けた。

 同時に、バルザードの自分に対する不器用なまでの独占欲や深い愛情を知りながら、あのような試すような言い方をしてしまった自分の愚かさを、彼女は激しく後悔した。

 背後でカサカサと衣服を脱ぐ物音が聞こえる中、バルザードが気になって振り返った瞬間、彼は息を呑んで硬直した。

 目の前で、エルセリカが自らの手で高価なドレスの紐をほどき、次々と布地を床へと落としていく。彼女は、月明かりが差し込む部屋の中で、下着姿のまま佇んでいた。

「エル……? 一体、何を……」

 驚愕に目を見開くバルザードを横切り、エルセリカは一歩一歩、確かな足取りでベッドへと歩み寄り、そのまま真っ直ぐに上がった。

「……バルザードも、来て……」

 エルセリカは恥ずかしさから微かに震える小さな声を絞り出し、顔を伏せた。

「まったく……相変わらず、人を誘うのが下手な女性だな」

 バルザードは苦笑を漏らしながらも、その瞳の奥に熱を帯びさせ、静かにベッドへと歩み寄って腰を下ろした。

「……じゃあ、どうすれば良かったのだ……」

 エルセリカは顔を真っ赤に染め上げ、バルザードから顔を背けるようにそっぽを向いて呟く。

「すまない……。お前が無理をして、私に対する気持ちを偽るような真似だけはしてほしくないと思ったんだ。だが……お前がその気なら、もう遠慮はしない」

 バルザードはそう囁くと、震えるエルセリカの身体を再び引き寄せ、今度は決して逃がさないように強く、深く抱きしめた。

「愛している、エルセリカ」

 バルザードは、彼女の耳元に唇を寄せ、消え入るような切なさを込めて愛の言葉を紡いだ。
 エルセリカは何も言わず、ただその腕の中で目を閉じ、夫の体温を受け入れ続けた。

 *

 夜も更けた頃、ルシアンは静まり返った資料室で、明日の業務のために忘れないうちに仕事の調べものをひとりで済ませようとしていた。

 ふいに、窓の外の夜気を何気なく視線で滑らせた時、向かい側にそびえる塔の最上階にある研究室で、不自然な黒い影が動いているのを捉えた。

 ルシアンは思わず手を止め、訝しげに眉をひそめた。
 こんな真夜中に、明かりもまともにつけず、誰かが研究室で作業をするなんて考えにくかったからだ。

 研究室で扱っているのは高度な禁忌魔法や国家機密に関わる素材だ。危険性や不正利用の観点から、その入退室は厳重な魔導の鍵によって管理されていた。直近のスケジュールを見ても、夜通しで徹夜作業を行うような魔導師の申請は出ていなかったはずだった。

 胸騒ぎを覚えたルシアンは、開いていた資料をそっと棚にしまうと、早足で研究室のある塔へと急ぎ足で向かった。

 研究室の入り口まで来ると、厳重に施錠されているはずのドアが、わずかに押し開けられたように隙間を覗かせている。

 この扉の鍵は物理的なものではなく、高位の魔術回路が施されており、基本的に内部へ立ち入れるのは王宮魔導士の中でも認証を受けた者だけのはずだった。

 ルシアンはますます疑念を深めた。少なくとも、中に潜り込んでいるのは並の曲者ではなくその資格を持つ者に違いなかった。

 ルシアンは身構え、いつでも即座に攻撃魔法を放てるよう、自らの魔力を研ぎ澄まして精神を集中させた。

 慎重に押し開けられた扉から一歩踏み入れると、研究室の内部は異様なほどに静まり返っていた。

 窓から差し込む青い月明りに照らされた特殊な道具や、レアな魔導素材の詰まったガラスケース、高価な薬瓶などが、いつもの場所でいつも通りに冷たく、綺麗に整頓された状態でキラキラと光っている。

 耳を限界まで研ぎ澄ませて室内の気配を探ってみるが、聞こえてくるのは自分の微かな呼吸音だけで、物音一つしない。
 ルシアンは胸の動悸を抑え込むように、深く呼吸を整えた。

「――誰か、いるのですか?」

 ルシアンの澄んだ問いかけが、月明りに照らされた静まり返った研究室のなかに冷たく響き渡った。
 だが、返事は一切ない。
 
 ルシアンは警戒を解かぬまま、足音を殺して部屋の奥へと歩みを進めた。

 すると、その静寂を切り裂くように、さらに奥の暗がりで、黒い影が小さく動いた気配が走った。

「誰です……ッ!?」

 ルシアンは語気を強め、いつでも迎撃できるよう身構えながら、ゆっくりと影の気配へと近づいていく。

「許可の申請無くして、この研究室への入室は禁じられていますよ!」

 ルシアンは毅然と言い放った。

 しかし、その影は相変わらず言葉を発さず、不気味に静まり返ったままだった。

 その瞬間――。

 ガシャンッ、と、ガラスや機材が無残に割れ散る激しい音と共に、棚に保管されていた膨大な研究資料が、まるで吹雪のように宙へと一斉に舞い上がった。相手の狙いは視界を奪う目くらましなのだろうか。ルシアンは目の前に飛び交う紙吹雪や資料を、手にした魔導の力で激しく振り払った。

 その隙に、黒い影は一目散に出入り口の扉へと向かって駆け出していた。
 ルシアンは咄嗟に右手を突き出し、空間の魔力を収束させてその扉を強力な魔導で固く封印した。
 扉を塞がれた影は、背後を振り返ると、忌々しげに低い舌打ちを鳴らしてルシアンをねめつけた。

 月明りがその男の顔立ちを明るく照らし出し、隠されていた姿が露わになる。

 短く切り揃えられた黒髪。そして、蛇のような冷酷な輝きを放つ、黄色の瞳。男は不敵に、いやらしくニヤリと笑ってみせた。

 次の瞬間、男は懐から鋭い短剣を抜き放つと、一直線にルシアンめがけて跳びかかってきた。

 ルシアンは瞬時に跳び退きながら、男の動きを止めるための拘束魔法を放ったが、素早い身のこなしで軽々と躱されてしまう。

(――っ、この研究室の中で派手に魔法で戦うのはまずい……!)

 ルシアンは、周囲に散らばる貴重な機材や薬品の破損を気遣い、どうしても手加減した控えめな攻撃しか繰り出せずにいた。

 次の一手を放とうと精神を集中させたその時、足元に転がっていた機材の破片に足を取られ、ルシアンはバランスを崩して体勢を大きく揺らしてしまった。

 男はその絶好の好機を逃さず、冷酷な光を帯びた短剣を容赦なく振るった。

 ルシアンは反射的に上体を捻って致命傷を避けたが、切れ味の鋭い短剣の刃が、ルシアンの左腕の服を浅く切り裂きながらかすめていった。

「…………ッ!」

 ルシアンは咄嗟に左腕の傷口を右手で押さえた。切り裂かれた衣服の隙間からわずかに露出したその生傷のあたりから、奇妙な熱感がじわじわと身体の芯へ向かって広がっていくのを感じる。

 その動揺と同時に、扉にかけられていた封印魔法が破られ解き放たれた。
 男は振り返ることもなく、そのまま開いた扉めがけて一目散に廊下へと駆け抜けていく。

「待て……ッ!」

 ルシアンは熱を帯びる左腕の痛みを押さえつけながら、男の背中を追って研究室を飛び出した。
 男の人間離れした驚異的な素早さに翻弄されながら、二人はついに城の建物から外の夜気の中へと飛び出した。

「ルシアン!! おい、一体何があった!?」

 夜空を仰ぐ塔の上から、異変を察知したサイラスの荒々しい怒号が降ってきた。

「――研究室から、資料が盗まれました……ッ!」

 ルシアンは上空のサイラスに向かって必死に叫び声を上げながら、なおも逃げる男の背中をがむしゃらに追いかける。
 その逃げ惑う男の不自然な足取りを真下から目撃し、塔の上にいたサイラスはハッと眉間を寄せた。
 
 その男の走り方は、まるでわざとルシアンを「誘い込んでいる」ようにしか見えなかった。

「ダメだ!!深追いするな、ルシアン!!」

 サイラスは塔の上から喉が裂けそうになるほどの絶叫で引き留めようとしたが、焦りと責任感に駆られたルシアンの耳には、その警告はもはや届いていなかった。

「クソッ……!」

 サイラスは塔の上からそのまま飛び降りようと足をかけたが、流石にこの高低差を無謀に飛び降りればタダでは済まないと思い直し、舌打ちをしながら急ぎ足で階段へと引き返して地上へ向かった。

 その頃、地上を疾走していたルシアンは、自分の呼吸が先ほどから急激に荒くなっていることに気づき始めていた。もともと、ルシアンは前線の白兵戦や激しい運動を得意とするタイプの魔導士ではなかった。

 いざとなれば高い魔法力があれば体力的なハンデなど十分にカバーできると思い込んでいたが、追いつかない肉体は正直だった。

(こんなことなら……サイラス殿のしごきに耐えて、少しだけでも護衛術の基本くらい教わっておくべきだった……)

 ルシアンの足の回転が目に見えて鈍り、ついに限界を迎える。

 ルシアンはその場で両膝をガクンと突き、荒い息を吐き出した。自分の情けない不甲斐なさと、組織の重要な資料を取り返せなかったことへの深い落胆が胸を突く。しかし、それ以上に。

(なんだろう……これ……。視界が、急に歪んで……)

 崩れ落ちるように膝をついたルシアンが、めまいに耐えながらふと顔を上げた時、いつの間にか先ほどまで少し前を逃げ回っていたはずの男が、不気味な笑みをたたえて目の前に立っていた。

「フンッ。……ようやく、薬が血肉に回ってきたようだな……」

 男の冷ややかな呟きを聞いて、ルシアンは脳裏のパズルが組み合わさるようにようやく理解した。
 左腕の切り傷はもちろんのこと、奪われた研究資料をエサに、この男によって完全に手のひらの上で踊らされていたのだと。

(だとしても……なぜ……?)

 ルシアンは立とうと力を込めたが、全身の筋肉が急速に弛緩していき、もはや指一本動かすこともできなかった。
 男は這いつくばるルシアンの顔の脇に歩み寄り、冷たい手でそっとその頬を撫で回した。

 その瞬間――。

 夜の闇を切り裂くように、眩い閃光を放つ魔法の弾丸が、男めがけて凄まじい勢いで撃ち込まれた。

 男は反射的に首を捻り、紙一重のところでその閃光をかわしながら宙を舞うように後方へと飛び退いた。

「ルシアン……ッ!」

 地を蹴って駆けつけたサイラスが、膝をついてぐったりとしているルシアンの傍らに滑り込むようにひざまずき、その状態を必死に確認した。

「サイラス殿……申し訳ありません……資料を取り戻すことができず……」

 ルシアンがうわ言のようにかすれた声を漏らす。
 
「そんなものはどうだっていい!!!」

 サイラスは愛弟子をきつく抱きしめた。そして、沸騰するような激しい怒号が理性を焼き尽くした。

「――この野郎……ッ!!」

 サイラスは立ち上がると同時に腰の長剣を乱暴に引き抜き、殺気を剥き出しにして男へと突進した。

 サイラスは放つ攻撃魔法で敵の視界と平衡感覚を巧みに惑わせつつ、無駄のない殺人剣の構えで相手の懐へと一気に飛び込んでいく。

 だが、男の身のこなしは恐ろしいほどに素早く、サイラスの必殺の剣閃を紙一重でかわし続ける。
 かと言って、男の側もサイラスの容赦ない猛攻をただ躱すだけで精一杯のようで、反撃の余裕すらないように見えた。

「フンッ! 俺の相手ばかりしていて、本当にそれでいいのか……?」

 男は薄ら笑いを浮かべ、不敵にサイラスを挑発した。

「……何だと……ッ!?」

 サイラスが鋭い怒声を上げた、その瞬間だった。

 城の中心部、王族や要人たちの居住区がある中枢の方角から、城の石壁をも震わせるような、地響きを伴う凄まじい爆発音が突如として鳴り響いた。

「なっ……!?」

 その予想外の大爆発の音に気を取られたわずかな隙を突かれ、男は軽やかに跳躍すると、すでに城壁の最上部へと身軽に飛び乗っていた。

 サイラスは怒りに燃えるブラウンの瞳で、壁の上の男を険しく睨みつけた。

「その神聖な『月夜の民』の血肉も手土産に持ち帰りたいところだったが……まあいい。我々の目的はすでに果たされた。あとは、せいぜい地獄の余興を楽しむんだな」

 そう言い残すと、男は闇夜のなかにその影を完全に溶かすようにして、一瞬で消え去った。

 サイラスは歯ぎしりしながら剣を鞘に収めると、全速力でぐったりと倒れ込んでいるルシアンの元へとって返した。

「ルシアン、しっかりしろ!」

 ルシアンはかろうじて微かに呼吸をしているようだったが、全身の骨格の支えを失ったかのように力が抜け、完全にぐったりとして意識が薄れている。

 サイラスが焦りながらその体勢を支えると、ルシアンの左腕の袖口が赤く染まっているのが目に入った。

「――クソッ……! あの野郎、剣に何か厄介なものを仕込んでやがったか……」

 致命的な猛毒ではないようだが、全身の自由を奪う強力な麻痺薬か、あるいは特殊な神経毒の類であることは間違いなかった。

(嫌な予感がする……一刻も早く、城内に戻らねえと……)

 サイラスは意識の遠のくルシアンを迷うことなく両腕でしっかりと抱え上げると、ただごとではない気配の立ち込める城内へ向けて、全力で駆け出した。

 *

 城の厨房からほど近い一角では、ヴァルカが少し小腹を満たすため、城の親切な使用人に頼んで余り物の食材で簡単な夜食を作ってもらっていた。

 数人の若い使用人たちも、一日の長くて過酷な仕事をようやく終えて、キッチン脇にある広めの木のテーブルに腰掛け、燭台の柔らかな明かりを頼りにお茶を飲みながら静かに談笑していた。

 ヴァルカは目の前の温かい夜食を豪快に頬張りながら、周囲の使用人たちの穏やかな話し声に耳を傾けていた。

「そういえば、王宮魔導士の中にも、ヴァルカ様と同じ『ティーフリング』の方がいらっしゃるのですよ」

 ふと、若い使用人の一人がそう話題に出した。ヴァルカは驚いて手を止めた。

 ティーフリングといえば、その生まれ持った悪魔の血筋ゆえに、過酷な肉体労働や傭兵として生きる者が多く、こうした宮廷の頭脳労働や魔導の研究職といった仕事に就くのは極めて珍しかったからだ。

「へえ、そうなのか。どうりで、エストレアに来た時、みんながあたしを見てもそこまで驚かないわけだぜ」

 ヴァルカがエストレア王都に足を踏み入れた時、何よりも意外だったのは、街の人間が自分のような異形の人種に対して「偏見」や露骨な恐怖心をほとんど抱いていなかったことだった。

「はい。その方は今、数人の魔導士仲間たちと一緒に、はるか遠くの異国へ赴いて新しい魔法技術について学んでいらっしゃると聞きました」

 どうやらこのエストレア王国以外にも、独自の魔法を発展させている国はいくつか存在し、この国は比較的、外国や異種族との交流に対して積極的な気風があったらしい。

 和やかな笑い声が、キッチンの空間を温かい雰囲気で満たした――まさにその直後だった。
 城全体が激しく揺れ動くほどの、尋常ではない巨大な爆発音が耳をつんざくように鳴り響いた。

「きゃあぁぁっ……! 一体、なんですの……!?」

 テーブルに座っていた使用人たちは、恐怖のあまり一斉に顔を真っ青にして怯え縮こまった。

「あたしが、ちょっと外の様子を見てくる。あんたたちはここでじっとしてて!」

 ヴァルカは瞬時に食べかけの皿を置き、使用人たちをその場で待機させると、食堂の重い扉を蹴破るようにして暗い廊下へと飛び出した。

 周囲の空気は妙に静まり返り、不気味な気配が漂っているように思えたが、次の瞬間、正面ロビーの方角から、衛兵たちの必死の怒号と悲鳴が聞こえてきた。

 ヴァルカは迷わずロビーへと駆けつける。

「侵入者だ!」
「くそっ、全門に警報を鳴らせ!」

 屈強なエストレアの衛兵たちが武器を構えて叫んでいる。

 だが、次の瞬間、天井の暗がりから、全身を不気味な黒いローブで纏った複数の影が、一斉に無数のガラス瓶を床へと投げつけた。

 パリンッ、と景気良く割れた瓶から、濃密な紫色の煙が爆発的に噴き出す。

「ぐっ……! なんだ、この煙は……っ!」

 辺り一面に瞬く間に毒々しい煙が漂い、それを吸い込んだ衛兵たちが、次々と声を失ってその場で倒れていく。

「毒ガスだ!!」

 その紫色の煙はロビーの一角から凄まじい勢いで広がり、城の内部へとどんどんと侵食し始めていた。

「みんな、外へ出ろ! 息をするな!」

 衛兵たちの間にパニックの波が広がる。毒ガスの魔手に捕らえられた衛兵が、一人、またひとりと意識を失って床に崩れ落ちていく。

 その凄惨な光景を目の当たりにしてヴァルカは息を呑み、即座に身を翻して食堂の方へと引き返し、使用人たちが待つ部屋のドアを勢いよく開けた。

「ヴァルカ様……! いったい、外で何が……」
「みんな、落ち着いて聞け! 城内に侵入者が入ってきた。正面のロビーは危ない。ここから外へ安全に出るための抜け道はあるか!?」

 ヴァルカは焦燥感を隠さず、一気にまくし立てた。

「使用人用の『裏口』からなら、中庭を抜けて外へ出られます! 」

 ヴァルカは使用人たちを慌てて引き連れ、厳重に警戒しながら裏口の扉へと急ぎ、冷たい夜の外気の中へと脱出した。

 幸い、裏口の周辺にはまだ毒ガスは到達していなかった。ヴァルカは、外に出て安堵している数人の衛兵たちを使用人たちの誘導役として引き渡し、王妃様の安全を確認しに行くと告げた。

 ヴァルカの胸の奥底に、言いようのない凄まじい不安の予感がよぎった。
 こんなタイミングで、自分の愛するエルセリカの傍から離れてしまっていること。

 城の外では騎士団や王宮魔導士がロープや魔動機などを使い、城内に取り残された者たちの救出を急いでいた。
 既に一階部分は毒ガスの煙が充満しているようだった。城の上層部へ行くには外壁をつたっていくしかなかった。

 彼女は視線を巡らせ、別塔の屋根をつたって城内へ飛び込もうと考えた。

(エル……頼むから、無事でいてくれ……!)

得体の知れない、悪意に満ちた紫色の毒煙が、美しい魔導の城の隅々へと静かに、そして確実にその冷たい触手を伸ばし始めていた。

荊棘の轍(けいきょくのわだち)【連載中】

荊棘の轍(けいきょくのわだち)【連載中】

王宮で起きた赤子の取り違えにより、王女としての運命を奪われたエルセリカ。辺境の下級貴族の娘として育てられた彼女は、高潔な騎士へと成長するが、隣国との激戦の果てに断崖から転落し、すべてを失う。 荒野へと流れ着いた彼女を救ったのは、異形の赤い肌を持つ孤独な傭兵ヴァルカだった。 絶望の淵から這い上がった銀髪の騎士は、不器用な相棒と共に、自らの血に刻まれた過酷な真実を取り戻すための旅を始める。

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  • 強い性的表現
  • 強い反社会的表現
  • 強い言語・思想的表現
更新日
登録日
2026-08-18

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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  1. 序章
  2. 第一章 エルセリカ・ヴィ・セレスト
  3. 第二章 ヴァルカ・アッシュウォーカー
  4. 第三章 サイラス・モンフォール
  5. 第四章 叙事詩の幕間に、唯一の温もりを
  6. 第五章 バルザード・デル・エストレア
  7. 第六章 レジナルド・ヴィ・ヴェルダンテ
  8. 第七章 イゾルデ・ヴィ・ヴェルダンテ
  9. 第八章 ルシアン・ヴァン・エステラール
  10. 第九章 陽だまりの墓碑に、誓いの花を束ね
  11. 第十章 黒き灯火を頼りに、復讐の淵を歩む
  12. 第十一章 聖域を灼く陽光、暗渠で軋む鋼の鼓動
  13. 第十二章 白き花冠の祝祭、祝杯に紛れ込む変容の雫
  14. 第十三章 荒涼の城郭、蠢く忘却の影
  15. 第十四章 禁忌の調合の足音、王宮回廊の侵食