終焉のアヴェニール 【完結】

終焉のアヴェニール 【完結】

序章

 冷たい横殴りの雨が強風に吹かれて横から刺すように降っていた。嵐だ。力強い風と雨に打たれて木々がけたたましい音を立てて唸りを上げている。暗い森の中をいくつかの黒い影が颯爽と駆け抜ける。
 
「いたぞー!こっちだ!」
 
 いくつかの黒い影を追うのは、王国の騎士団だ。
 
「っく!追いつかれたか...」
 
 屈強な影は後方を見据え、暫く熟考した後、大きく息を吐いた。
 
「師父!我々はここで食い止めます。王子を何卒……」
 
 屈強な影は抱えていた毛布を老齢な影に受け渡した。毛布に包まれていたのは頭から血を出して気を失っている少年だった。老齢な影は毛布からかすかに覗くその少年の顔をじっと見つめた後、屈強な影に向かって頷いた。屈強な影は決意と共に双剣を抜いた。隣に居た細身な影も後に続く。
 
「父上!俺も戦います!」
 
 老齢な影の後方に隠れていた小さな影が両手に握りこぶしを作り声高に叫ぶ。
 
「ダメだ!」
 
 屈強な影がすかさず答えた。そしてまた大きく息を吐いた。小さな影の目線を合せるように屈強な影と細身の影がしゃがんだ。
 
「お前は師父と共に王子を生涯お守りするのだ。」
「強く生きるのよ。誇り高き戦士であれ。」
 
 細身の影は小さな影の頭を優しく撫でると、屈強な影と共にこれまで来た道を引き返していった。
 
「儂についてこい!この先にボートがある。」
 
 二つの影は、ぬかるんだ石階段を滑るように駆け下り、ボート乗り場を目指した。強風に煽られた波が、木製の桟橋を不気味な獣のように唸らせている。桟橋にかろうじてしがみついている古びたボートが見えた。
 
「乗り込め!すぐにオールを漕ぐんだ!」
 
 小さな影がボートに飛び乗るのを確認し、老齢の影は優しく毛布に包まれた幼い少年をボートの底に置いた。老齢の影がボートと桟橋をつなぐ太い縄を斬り離した瞬間、森の奥から女性の、断末魔の叫びが聞こえた。

「母上ー!」

 小さな影は、咄嗟にボートから降りようと身体をひねった。

「諦めろ!」

 説得する時間などなかった。老齢の影は小さな影を思い切りボートの底へと突き飛ばすと、鬼のような形相で叱咤した。

「漕げー!」

 老齢の影が自ら力任せにオールを漕ぎ始めると、小さな影もまた、雨と涙で顔を濡らしながらも必死にオールに力を込めた。
 森からガチャガチャと甲冑を鳴らし、王国の騎士団が桟橋へ姿を現した。

「逃がしたか……」

 松明の光に照らされた大柄な騎士が、遠ざかるボートの方を眺めながら呟いた。

「追いますか?」

 部下の一人が問う。

「いや、この嵐では助かるまい。残党は?」
「一部取り逃がしたとの報告が……」
「ふん……」

 王から直々に受けた命令は第三王子の抹殺。まさか第三王妃がゴロツキ集団を後ろ盾にしていたのは予想外だった。そして何より、この事件が発覚するまで第三王妃に関する情報が一切公開されていなかったことに、彼は疑問を覚える。一体何故、第三王妃はこんな連中と関わっていたのか。

「連中の遺体を城へ運べ。一人ずつ身元を調べよ」

 大柄な騎士は荒れ狂う波を背に、部下に命令した。松明の明かりで、大柄な騎士の黒い鎧が不気味に照らされていた。鎧に付着していたいくつかの影の血は、既に雨で流れ落ちていた。

第一章 家族(かぞく)

 真っ白な無限に広がるその空間にその女性はいた。薄紫色の長い髪をなびかせて、いつも自分を悲しげな表情で見つめている。時折、何かを喋っているようにも見える。だが、その言葉は耳に届かない。

(一体誰なんだろう……)

 その女性の正体が分からぬまま目覚める。

 着替えを済ませ二階の自室から階段を降りると、焼き立てのパンと、淹れたてのハーブティーの香りに包まれる。

「おはよう、じいちゃん。」
「おぉ起きたか、おはよう、リノ。」

 髪も眉も髭も真っ白に染まった老人ドロテオはリノに優しく微笑みかけた。ダイニングテーブルにはきれいに朝食が用意されていた。

「おはよう、ヴィダル」
「……」

 挨拶は今日も返ってこなかった。昔は幾度となく自分の声が小さくて聞こえていないのかと思っていた。だが、いつからかヴィダルの背中からは「お前の挨拶を絶対に返してやるものか」という強い意志を感じた。

 同じ屋根の下、同じ時間を共にする者として、毎日挨拶を無視されるのはあまり気分の良いものではない。それでも一方通行の挨拶を続けるのは、やはり自分が家族の一員であると思いたいからだ。

 ドロテオは今こそ白髪にはなっているが、昔はヴィダルと同じようにアッシュグレーの髪色だった。そしてヴィダルと同じように赤い瞳を持ち、まさに二人が血縁関係であることを証明していた。薄い水色の髪色に金色の瞳を持つ自分だけが異質な容姿である。

 いつだったかドロテオに自分の両親のことを聞いた。その時は、そっけなく「お前の両親は事故で死んだ」と聞かされた。それ以来、家族はドロテオとヴィダルだけだと自分に言い聞かせてきた。

「早く座って食べたらどうだ?」

 ヴィダルは炊事場に向いたまま振り向きもせず言い放った。少し戸惑いながら、椅子に座り目の前の食事に小声で感謝しつつ食べ始めた。ヴィダルもようやく家事を終え椅子に座る。三人が食卓を囲む形になった。

「リノ、実は今日は医者へ行こうと思っておる。また二、三日留守番を頼むぞ。」

 ここ最近、ドロテオの体の具合が良くないことは知っていた。この村には医者が不在のため、少し森を抜けた先にある町医者が唯一の頼みであった。しかし、町に行くのは決まってドロテオとヴィダルだけだった。
 
「また留守番?たまには俺も連れて行ってよ!」
「遊びに行くんじゃない」

 ヴィダルからすかさず鋭い眼光と静かな怒りを抱えた言葉が返ってきた。遊びでないことはもちろん分かっている。だが、毎回置いて行かれる寂しい気持ちも分かって欲しい。と、喉まで出かかった気持ちを押し込めた。

「……ごめんなさい」
 
 リノはいつも感じていた。家族なのに、自分が家族であろうとしているのに、どこか二人は遠い存在だということを。我儘も言うことさえ許されない。ヴィダルに至っては関係が良好であるなら兄として慕うこともできたかもしれない。

 だが、ずっと自分には冷たい態度で距離を詰めることを拒絶されていた。一体何に怒っているのか、何が不満なのか、それを聞くことさえ叶わない。
 
「またいつものようにお土産は買ってくるから。さ、お食べ。」

 俯いたリノに優しい微笑みを向けてドロテオは言った。ヴィダルが冷たい態度を取るたびにドロテオは一層優しく接してくれた。その優しさが余計に苦しさを増した。家族というものを考えれば考えるほど涙が出そうになった。心が痛くなると決まって食事の味はしなかった。
 
 朝食から少し間を置き、ドロテオとヴィダルは旅支度を整えた。玄関でリノが二人を見送る。

「留守の間は、いつものようにモンテ一家に頼んである。良い子で待っているんじゃぞ。」

 ドロテオはそう告げ、リノに優しく微笑みかけた。ヴィダルは終始無言のまま背を向けていた。二人の背中を見送って玄関を閉め、リノは二階の自室へと戻る。窓から外の様子を伺うと、二人がちょうど家の坂を下りるところだった。ドロテオがリノに気づき、立ち止まって手を振った。リノもまた、小さく手を振り返した。その仕草にすらヴィダルは興味がないようだった。二人が完全に森の木々に隠れて見えなくなったところで、リノは力が抜けたようにベッドに大の字に倒れた。

(家族ってなんだろう……)

 いつもと同じ思考が頭の中を巡る。血の繋がり?一緒に暮らした時間?笑いあえる関係性?

 突然、家のベルが軽快な音を立てて鳴り響いた。リノが玄関に行きドアを開けると、赤毛の少女が両手を腰に当てて立っていた。リノと歳の変わらないその少女は、近所に住むモンテ夫妻の娘カタリーナだ。彼女は勝気な態度でリノを見つめた。

「また置いてけぼり?本当に可哀想ねぇ、リノ」
 
 カタリーナは、にやにやと笑いながら言った。

「うるさい。俺だって好きで留守番してるわけじゃない」
 
 リノは少しふてくされたように返したが、言葉とは裏腹に、彼女が自分を訪問してくれたことが少し嬉しかった。カタリーナは少し同情したように軽く息を吐き、表情を和らげた。
 
「今日の夕食は、うちで食べるようにって母さんが言ってたわ。ご馳走よ!楽しみにしててね」

 リノはお礼を言い、家の片づけを済ませたらすぐにモンテ家に向かうと伝えた。リノの表情が少し明るくなったのを見て、カタリーナは満足したように「ちゃんと来るのよ」と短く返事をして、軽やかに自宅へ戻っていった。

 夕刻、モンテ家の夕食は、まるで賑やかな宴のようだった。カタリーナの叔父一家がちょうど遊びに来ていたようで、テーブルには大皿料理がいくつも並び、大人の話し声と子供たちの笑い声が溢れていた。町の流行り話や、ギルドによる危険なモンスター討伐の話など、普段ドロテオたちからは聞けない話が次々と語られた。村から出たことのないリノにとって、外の世界の話は新鮮で面白く、リノも笑顔を見せた。しかし、この賑やかな宴の温かさとは裏腹に、リノの心は晴れなかった。

(本来家族って、こういうものなんだ……)

 親戚同士で集まり、他愛のない話で笑い合う。それはリノの家には存在しない光景だった。ギュッと心が締め付けられ、どこに居ても自分は部外者で、孤独を感じることをやめられなかった。

 酒瓶も空になり、大柄な男たちの眠気も迫ってきたところで、リノはモンテ夫人とカタリーナに丁寧にお礼を言って自宅へ戻った。明かりひとつ付いていない真っ暗な自宅が、リノの孤独感を一層深くさせた。

 自室に戻り、ベッドに座った。ベッドわきの本棚から中世の英雄が活躍するおとぎ話の小説を取り出し、ページをパラパラとめくる。その物語は、主人公が誰の助けも借りずに、悪の組織から世界を救い英雄となる話だった。

(独り立ちしたら、じいちゃんやヴィダルの知らない世界へだって行ける。色んな事ができるし、色んなことをしたい……)

 そのためには、まず自分一人で何でもできるようにならなければならない。守られる対象から、誰かを守る存在になりたい。リノは強く決意を胸に、本を本棚に戻した。

 *

 あれから数か月が過ぎた。

 ドロテオの体調は、町医者が往診に来るほど悪化していた。かつてはリノやヴィダルに稽古をつけるほど活発だった身体も、病には勝てなかった。優しさと逞しさを残しながらも、ただ窓の外の森を眺めるだけの姿になっていた。

 最後に、会話らしい会話をしたのは老人が旅立つ数日前だった。

 その日は、リノが夕食を食べ終え、自室で重くなったまぶたを閉じて椅子にもたれかかっていた時だった。部屋のドアを叩く、控えめな音が聞こえた。

 「師父がお前と話したいそうだ」
 
 ドア越しにヴィダルの不愛想な声が聞こえた。リノは軽く返事をし、すぐに立ち上がり急いでドロテオの部屋を訪れた。部屋全体に漂う薬草の匂いにリノは息を詰める。ドロテオはベッドに横たわり、窓の外を眺めていた。その瞳にはほとんど光がなく、その視線がどこを見ているのかさえ分からなかった。

「最後に、きちんとお前と話したかったんじゃ」

 リノはベッド脇の椅子に腰掛けた。

「これまでお前に辛い思いをさせて、すまなかったな」

 辛い思い……それが一体何を意味しているのかは分からなかった。しかし、謝罪の言葉を聞いた瞬間、ドロテオがいなくなることへの悲しみと共に涙が込み上げてきた。ドロテオは穏やかに続けた。
 
「これからはヴィダルと二人で仲良く過ごしてくれ。お前は、あやつのたった一人の家族じゃ」

 この言葉は、リノにとって大きな衝撃を与えた。唯一の救いであったドロテオにさえ裏切られたと感じた。ヴィダルと共に生きていく未来は、自分の中で描いていなかったからだ。

 本当は、この老人にヴィダルとは別々の道を歩んでいきたいことを相談したかった。家を出て自立したいという願望を、この老人に話したかった。だが、日に日に弱っていく老人を前に、そんな自分勝手な我儘を話せるはずもなかった。この老人の最期の安寧だけが、今、最も重要なことだ。

「うん……大丈夫だよ、じいちゃん。二人で、頑張る」
 
 リノは、喉の奥が張り裂けそうになるのを必死に堪え、目の前の老人を安心させるために自分の想いとは反対の言葉を言った。目の前の老人は安心したように優しく微笑んだ。その安堵が、リノの心をさらに深く抉った。

「そうか、ありがとう、リノ。ヴィダルを呼んできておくれ」

 リノは頷き、重い足取りでヴィダルの部屋へ向かった。ドアをノックし「じいちゃんが呼んでるよ」と伝えた。ヴィダルはドアを開け、リノの濡れた瞳を一瞥した後、何も言わずに階段を下りていった。

 ヴィダルがドロテオの部屋に入ると、すぐにドロテオの声が聞こえた。

「これが最後になるかもしれん」
 
 ドロテオは、ヴィダルに対し、もはや演技をする必要もなかった。

「その後のことは、この手紙に全て書いてある。よく読んでおけ」

 ヴィダルは無言で手紙を受け取った。ヴィダルはその手紙にサッと目を通した。

 一.自分の骨は生前用意していたこの村の墓地に埋めること。
 二.自分が亡くなった後は家財一切を売ること。
 三.リノをリノの母の兄オスカー・クレマンに届けること。

「この……オスカー・クレマンという人物はどこに?」
 
 ヴィダルが静かに尋ねる。

「かつて天界の特務機関にいたことしか分かっておらん」

 天界。神の領域にも等しいその場所の名に、ヴィダルの赤い瞳が僅かに揺れた。

「ただ、現在もいるかは分からん」
「ほぼ情報が無いようなものだな」

 ヴィダルは呆れるように言った。あとは任せたと言ったところなのだろう。

「お前には申し訳ないことをした」
 
 ドロテオは、まるで過去の重荷をすべて吐き出すように言った。

「リノを守るために、お前の両親を失った。そして、お前のリノに対する態度が、儂を責めた」

 ヴィダルは静かに目を閉じた。両親の最期の瞬間。あの嵐の夜、「強くなるのよ。誇り高き戦士であれ」という母の言葉が、今もヴィダルの耳の奥に焼き付いている。その命と引き換えに守られたリノに対して、ヴィダルが抱える感情は、憎しみだけだった。

「どうか、リノをオスカー殿のところへ送り届けてやってくれ」
 
 ドロテオの願いは、一族の使命の完遂だった。

「その先は、お前の自由に振る舞って構わない。もう、お前は自由だ」

 ヴィダルは唇を噛み締めた。
 
「……師父。俺は、この十二年間、ずっと納得できない気持ちがありました。本当に、アレを守る必要があったのでしょうか」

 部屋に、重い沈黙が落ちる。ドロテオは即座に答えなかった。
 ドロテオは天井を見上げた。
 
「それを否定したら、命を懸けて戦った同胞に失礼だろう」

 ドロテオは掠れた声で答えた。ヴィダルは、その言葉に反論できなかった。この老人は、使命だけで生きてきた。しかしその使命は、多くの仲間、友、そして両親を犠牲にした。ヴィダルは、歯を食いしばり、持っていた手紙を力強く握った。それは、自分自身の感情と、一族の誇りとの間で引き裂かれている、彼の心の叫びだった。

第二章 邂逅(かいこう)

 数日後、村人たちの温かい協力のもと、ドロテオの葬儀は静かに執り行われた。

 ドロテオの墓前を前に、リノの涙は、とめどなく溢れ続けた。優しき老人を失った悲しみだけではない。ドロテオに最期の嘘をついてしまった罪悪感と、これから始まるヴィダルとの二人きりの未来への言いようのない不安が、涙腺を緩ませていた。その隣で、ヴィダルは終始、不動の岩のように立っていた。アッシュグレーの髪も、彼の冷たい赤い瞳も、乾いたままだ。涙ひとつ流すことなく、彼は粛々と弔いの儀式をこなしていた。

 翌日、ドロテオの遺言に従い売りに出していた家財の資金を受け取り、二人は村を出立することになった。リノは、モンテ一家や親切な村人たち一人ひとりに、感謝の言葉を伝えた。

「元気でね、リノ。またいつか遊びにきてちょうだいね。」
 
 カタリーナの母は、リノを抱きしめ、涙ぐんだ。カタリーナは何も言わず、ただ勝気な瞳を潤ませていた。ヴィダルもまた、村人たちへの感謝を、礼儀正しく、しかし感情を一切滲ませることなく丁寧に伝えていた。その振る舞いは、リノに向けられる日頃の冷徹さとはかけ離れていた。

(普段俺とは口も利かないくせに……。他人にはそんなに優しくなれるものなんだな。)

 リノの胸に、また苦い感情が湧き上がる。たくさんの人に見送られながら、二人は森へと続く坂道を下り、村を後にした。向かう先は、第二の都市「セザール」。かつてドロテオたちが通った町医者のいる町よりも、さらに先に位置する巨大な都市だ。ヴィダルからその都市に行くと告げられたっきり、何をしに行くのかまで詳細を教えてもらえなかった。

 生まれて初めて村を出たリノにとって、道中はすべてが新鮮だった。

 鬱蒼とした森を抜けた先に広がる、見たこともない鮮やかな植物や、奇妙な動物の鳴き声。リノは、一つ一つをゆっくり観察するように立ち止まり、手に取ってみたり、その匂いを嗅いでみたりした。ヴィダルは、そんなリノの行動に徐々に苛立ち始めた。

「いい加減にしろ!今は都市に向かうのが先だ!」

 突然、背後から地を這うようなヴィダルの怒号が轟いた。その声に、リノは心臓が跳ね上がるのを感じた。鬼の形相で自分を睨むヴィダルに、リノは申し訳なさそうに謝った。
 
「ご、ごめんなさい。初めて見るものばかりだったから……」

(もうじいちゃんもいない……これからずっと、この怒りを向けられながら二人で生活が続くんだ)

 考えるだけで胃がキリキリと痛んだ。ヴィダルと二人っきりのときは、いつも腹部に重い痛みを覚える。怒らせないように、地雷を踏まないように細心の注意を払っているつもりでも、何かしら彼の気に障る行動をしてしまう。

 新鮮に映っていたはずの周りの木々も、今は自分を見下し、あざ笑っているかのようだった。

(苦しい……)

 また涙が出そうになった、その瞬間だった。突然、後方から男性の悲鳴と共に、馬と車輪の騒がしい音が近づいてきた。見れば、一頭立ての馬車が激しく揺れながらこちらへ向かっている。馬車の上部には、鋭い爪と牙を持った小型のモンスターがしがみついていた。馬車はモンスターを振り払おうと左右に大きく揺れ、御者は悲鳴を上げている。

 突如、モンスターが御者に襲い掛かった。

 その瞬間、ヴィダルは腰に携えていた双剣を抜いた。

 リノが目視できる速さを遥かに超えた、目にも見えぬ速さだった。ヴィダルは地を蹴り、馬車と並走したかと思うと、一瞬でモンスターの背後に回り込み、二度の閃光と共に、それを仕留めた。モンスターは甲高い悲鳴を上げることなく、静かに地面に転がり落ちた。

 双剣はすでに鞘に戻されていた。

 直後、コントロールを失った馬車は横転し、馬と御者はそれぞれ悲鳴を上げて森の中へ逃げてしまった。

「ヴィダル……すごい……」
 
 リノから素直な称賛の言葉が漏れたが、ヴィダルはいつものようにそれを無視した。彼は無表情で、横転した馬車を警戒するよう見つめている。横転した馬車がガタガタと音を立てた。勢いよく扉が開き、中から装飾の施されたトランクが飛び出してきた。続いて、光を放つように美しい少女が姿を現した。

 薄紫色の髪を両サイドにお団子結びで束ね、白いケープを纏っていた。彼女は馬車から降り立つと、リノとヴィダルに向かって優雅に微笑みかけた。

「まぁ、あなたたちがモンスターを倒してくださったのですね。ありがとうございます」

 *

 モンスターに襲われて大破した馬車を森の道端に残し、リノたちは一旦、町へと引き返した。

 新しい馬車は以前のものよりも狭く、リノとヴィダル、そしてレネの三人が向かい合うように座ることになった。ヴィダルと二人きりの息苦しい旅から、一時的に解放されたことにリノは安堵を覚えたが、同時にヴィダルの不機嫌さも増しているように感じられた。

 馬車が軋む音だけが響く中、リノは重い空気に耐えかねて口を開いた。

「ええと……俺はリノ。こっちは……」
 
 リノがヴィダルに目線をやった。

「ヴィダルだ」
 
 ヴィダルは窓の外を向いたまま、ぶっきらぼうに名前を投げつけた。レネは少しも気にすることなく、優雅に頭を下げた。
 
「わたくしはレネと申します。改めて、助けていただき感謝いたしますわ」

 ヴィダルの冷徹な態度とは対照的な、都会的で洗練された振る舞いに、リノは少し気圧された。

「まさかモンスターが襲ってくるなんて……このあたりも大変物騒になりましたのね」
 
 レネは頬に手を当てながら憂鬱そうに言った。

「女の子一人で旅なんて怖くないの?」
 
 純粋に自分と同じくらいの年頃の女性がこんな暗い森の中を一人で移動するなど考えられなかったからだ。リノが尋ねると、レネは澄んだ声で笑った。
 
「えぇ、わたくし一人で外出するのが好きですの。大丈夫ですわ。護身術も治癒術も心得ておりますもの」
 
 何の問題もないといった感じで二人に微笑みかけた。

「ふん……どこかの誰かとは大違いだな」
 
 ヴィダルが馬車の窓の外を眺めながら、冷たい氷を吐き出すようにつぶやいた。リノの胃が、またキリキリと痛み始めた。その言葉が自分に向けられた明確な嫌味だと理解した。事実、自分は戦闘に向いてはいなかった。ドロテオやヴィダルに熱心に剣の稽古をつけてもらっても、彼らのように超人的な動きで剣を扱うことはできなかった。ヴィダルにとって、自分はやはり足手まといの荷物でしかないのだろう。リノが何も反論できずにもごもごしているのを無視して、ヴィダルはレネに鋭い視線を向けた。

「あんた、天界人だろ?しかもその身なり……お貴族様が護衛も付けずに一人で出歩いてて良いのか?」

 天界人。それは、かつて神に最も近い存在とされていた使徒の遺伝子を持つ人間のことであり、その血筋は特別視されていると、ドロテオから聞いたことがあった。レネは目をぱちくりさせたあと、再び微笑みながら言った。
 
「外出の許可はもらっておりますわ。」
「まぁどうでもいいけど」
 
 ヴィダルはそっけなく言い放った。

 「あなたこそ……常人では考えられないほど的確な急所を突いていて見事な剣さばきでしたわね」
 
 レネが微笑みながら、モンスターを倒した時のヴィダルの超人的な動きを称賛した。途端に、ヴィダルの赤い冷たい視線がレネを威嚇した。その瞳は、獲物を狩る獣のように、一切の感情を排していた。だが、レネはその威嚇が効かないとばかりに、ただ穏やかに微笑んでいる。しかしその微笑みはどことなく勝ち誇ったようにも見えた。

 リノは、二人の間に流れる鋼のように張り詰めた空気に息をのんだ。レネのどの言動がヴィダルの気に障ったのか、リノには分からなかった。しかし、ヴィダルがレネの存在に、本能的な警戒を強めているのだけは感じ取れた。重たい沈黙が馬車の中に充満する。この空気に押し潰されそうになり、リノは何か話題を変えなければと焦った。

「あの……レネは、天界に行ったことあるの?」
「ええ、ありますわ。リノは天界に興味がありますの?」
 
 レネは、笑顔でリノの方を向いてくれた。

「あ、うーん……あの宙に浮いてる島がどんなところなのかなって。いつか行ってみたいとは思ってるんだ」
 
 リノは、ヴィダルの様子を横目でちらりと伺いながら答えた。ヴィダルは肘をついて馬車の窓から景色を見ており、会話には全く関心がないふりだった。

「そうですわね、口で説明するのが難しいのですけれど。いつかご案内差し上げたいですわ」
 
 レネはにっこりと微笑みながら言った。その後、レネがこれまでの旅の楽しかった思い出や、世界の流行の話をし始めたため、リノの心は温かく和らいだ。これまでドロテオやヴィダル以外と誰かと話すことがほとんどなかったリノにとって、レネがとてもおしゃべりだったことは幸いだった。おかげで、退屈せずに済んだ。だが、その間もヴィダルはずっと窓の外を見ていた。その背中は、リノが村を出て以来、ずっと感じている冷たい孤独の壁そのものだった。

 *

 馬車がセザールに到着すると、その喧騒にリノは一瞬、目を細めた。都市全体が熱気に包まれている。どうやらちょうど、豊作を祝うフェスティバルが始まっていたらしい。

 あちこちで色とりどりの出店が並び、リズミカルな演奏に合わせて踊る人々、大きなグラスを掲げて飲み食いする男たち、そして色鮮やかな風船で遊ぶ子供たちの賑やかな声が、まるで一つの巨大な生き物の鼓動のように響いていた。リノが育った静かな村とは、あまりにもかけ離れた、生きた世界だった。

 御者にお礼を言い、三人はまず、街の中心にある一軒の宿にチェックインした。

 部屋に荷物を置いた後、ヴィダルが静かに、しかし有無を言わせぬ調子で言った。
 
「俺はこれから少し調べものがある。お前は、先に部屋で休んでいろ」

 それは、提案ではなく、ほぼ命令だった。ヴィダルはリノの返答を待たず、そのまま人混みの中へと消えていった。

「う、うん……」
 
 リノは、反射的に頷くことしかできなかった。また胃がキリキリと痛んだ。彼の全てを抑圧するような言い方をされると、リノは何もできなくなってしまう。自由な意志を奪われる感覚に、心臓が重くなる。レネは、そんなリノを心配そうに見ていた。

「レネ、色々お話してくれてありがとう。楽しかったよ。じゃあ……さよなら」
 
 リノは無理やり笑顔を作りつつお礼を言って、重い足取りで宿の部屋へ向かおうとした。これ以上、ヴィダルに怒られる要因を作りたくなかった。

「リノ!」
 
 レネは、リノの腕を思いっきり掴んだ。その力の強さに、リノは驚いて立ち止まる。

「折角のお祭りですわ!ちょっと私に付き合ってください!」
 
 レネは、先ほどの憂鬱そうな表情を打ち消すように微笑み、リノを強引に外へと連れ出した。

「で、でも……」
 
 リノが躊躇すると、レネはリノの手を引いて歩き出した。
 
「心配いりませんわ!チェックインは済んでいますし。少しくらい遊ばないと、この素晴らしい街に失礼ですもの!」
 
 レネも引くつもりは毛頭ないようだった。

 *
 
 リノは、レネに導かれるまま、しばらくあちこちを見て回った。二人で並んで輪投げや射的、神経衰弱など様々な出店ゲームをして子供たちと遊び、レネが奢ってくれた見たこともない美味しそうなスイーツをご馳走になった 。リノは生まれて初めて、「楽しい」という感情が、体中で弾けるのを感じた。レネの明るさと快活さが、ヴィダルによって張り詰めていたリノの心の糸を、優しく緩めていく。

 二人は、誰にも急かされることなく、とても楽しい時間を過ごした。やがて日が暮れ、夜の帳が降りると、中央広場では華やかな演奏が始まった。空には月が昇り、街の賑わいは一層増していく。祭りの喧騒を後にし、二人は宿へ戻ることにした。

 帰り道、人通りが少なくなった路地で、レネはリノに微笑みかけた。
 
「リノが笑顔になってくださって良かったですわ」

 リノは、その言葉にびっくりして立ち止まった。出会って間もない少女が、まさか自分の内面の状態をそこまで気遣っていたとは思わなかったからだ。レネも立ち止まり、言葉を続けた。
 
「リノ……我慢しなくて良いのです。我儘を言っても良いのですよ」

 今まで微笑んでいたレネの表情は真剣だった。恐らく、馬車の出来事や、ヴィダルに対するリノの委縮した態度から、二人の関係性を察知したのだろう。リノは言葉が出てこなかった。ただレネを見つめるばかりだった。レネはさらに続けた。
 
「ヴィダルはあなたの家族なのでしょう?」

 その言葉に、リノはうなだれた。家族。リノはこれまで、家族であろうと、何度もヴィダルに歩み寄ろうとしてきた。しかし、全て拒絶されていた。目線を合わすことも、意見を交わすことも、叶わなかったのだ。

(家族……なんかじゃ……ない)

 心の中でその重い言葉を叫んだが、口に出すのをためらった。自分から家族であることを否定したら、何故だかヴィダルに負ける気がしたからだ。この重い言葉は、いつかヴィダルの口から言わせたいという、リノ自身の意地がそう望んでいた。何も言わないリノを、レネはただ心配そうに見つめた。そして、リノにそっと近づいた。

「リノ、手を出してください」

 リノは、恐る恐る手を出した。レネはリノの手を優しく両手で掴み、深く、そして優しく微笑んだ。

「あなたはもっと自由で良いのです」

 リノは目頭が熱くなった。すると、レネに包まれていたリノの指先が、淡い光を放って輝いた 。

「これは……?」
「おまじないですわ」
 
 レネはそう言って、自分の胸元にある美しいネックレスを見せてくれた。

「これは魔動器(まどうき)と言って、コアに魔力を溜めて使うのです。今のは、精神を和らげる魔法ですわ」

 リノはハッとして、自分の胸元をゴソゴソと探り、肌身離さず持っているネックレスを取り出した。

「もしかして、これも同じものなのかな……」
 
 リノはレネに尋ねた。

「まぁ、これは……立派な魔動器ですわ」
 
 レネはリノのネックレスをまじまじと見て、感嘆の声を漏らした。

「でも俺、使い方わからないや……魔力ってどうやって溜めるの?」
「魔力は、本来天界人しか扱えませんわ。でも……このネックレス、既に魔力が溜まっていますわ」
 
 リノは驚いた表情を浮かべた。このネックレスはドロテオからお前の母の形見だから肌身離さず持てと言われていたものだ。

「リノ……あなたもしかして……」
 
 レネが何か重要なことを言いかけた、その瞬間だった。

「何をしている!」

 背後から、怒りという感情だけが剥き出しになった、ものすごい怒号が飛んだ。ヴィダルだ。
 
 鬼の形相でヴィダルが二人のもとに近づいてきた。その赤い瞳は、怒りによってさらに血の色を濃くしている。ヴィダルはリノの胸倉を掴んだ。
 
「俺は先に部屋で休んでいろと言ったはずだ」
 
 鋭い眼光がリノを突き刺す。その圧倒的な威圧感に、リノは急に怒鳴られたことと胸倉を掴まれたことで体が強張り、何も答えられなかった。すかさずレネが仲裁に入った。
 
「おやめくださいませ」
 
 レネの声は穏やかだったが、どことなく静かに怒っているようにも聞こえた。

「わたくしがリノをお誘いしましたの」
 
 レネは淡々と答えた。その表情は今まで微笑んでいたレネとは別人に思えた。リノに向けられていた鋭い眼光が、レネに移る。ヴィダルは舌打ちをして、リノを突き飛ばすように掴んでいた胸倉を離した。そして、一言も発することなく、宿の方へ戻っていった。レネは、よろめいたリノの体をすぐさま支えた。リノは、恐怖と屈辱で少し過呼吸のような状態になっていた。

「リノ……大丈夫ですか?」
 
 レネは心配そうな表情でリノの様子を伺った。

「う、うん……ありがとう、大丈夫だよ。少しびっくりしただけ」
 
 リノは深く深呼吸をしながら震える手を抑えるように答えた。そう言ってリノは、宿の方へ歩き出した。その寂しそうな、丸くなった背中を、レネは黙って見つめていた。リノの孤独と、彼が抱える秘密の片鱗に触れたレネの表情には、深い戸惑いと決意が混ざり合っていた。

第三章 舌禍(ぜっか)

 翌朝、リノが重い体を起こして目覚めたとき、隣のベッドは既に空だった。元々そこに誰も存在していなかったかのように、シーツは綺麗に整えられ、冷たい空気を纏っている。ヴィダルは、リノの過ちを許す気も、怒りを解くつもりもないようだった。リノは、昨日感じた胸の痛みと、突き放された孤独を抱えたまま、朝食を食べにロビーへ向かった。

 その途端、朝食のトレイを持ったレネと出くわした。

「リノ、おはようございます」
 
 レネは相変わらずの優しさに満ちた微笑みで挨拶した。

「レネ、おはよう」
 
 その一言で、リノは久しぶりに心の奥が温まる気がした。ヴィダルの冷たい壁に阻まれて息苦しかった心は、レネの何気ない挨拶で救われた。

「レネも今から朝食?」
「えぇ、リノも一緒に食べましょう。先に席に着いてますわね」
 
 レネはそう微笑むと、リノの返事を待たずに、迷うことなくテーブルの方へ向かっていった。リノも急いで朝食を取りに行った。

 二人は会話を楽しみながら朝食を共にした。リノは、レネと話している間だけは、ヴィダルの存在を忘れ、素直な自分に戻ることができた。

「先ほど、お宿のおじ様とお話したのですけれど、ここ最近モンスターが街付近にも頻繁に現れているそうですわ」
 
 レネはパンを小さくちぎりながら、街の状況を話した。

「モンスター……」
 
 リノは噛んでいたパンを思いっきり飲み込んだ。
 
「モンスターって、昨日のやつみたいな?」
「そうですわ。でも、おじ様が言うには、もっと大型のようです。ギルドに討伐依頼をだしていますが、キリがないそうですわ」
「ギルドに討伐依頼……」
 
 リノは静かにレネの話を聞いていた。村から出たことが無かったリノにとって、どれも聞き馴染みのない言葉ばかりだった。

(もっと勉強しないとな……)
 
 いつか独り立ちするには、自分で何でも一人でできるようにならなくてはと決意していたリノは、レネの話をきちんと聞いておく必要があると思った。

「レネって物知りなんだね。俺、村から出たことがなかったから、何も知らなくて……」
「まぁそうですの……。でも知らないことは罪ではありませんわ。これから知っていけば良いのです」
 
 レネはそういってすべてを受け入れるように微笑んだ。彼女は、自分が何を言っても優しく答えてくれる。自分が何もできない人間でも、あざ笑ったりはしない。

 そこへ、外出していたらしいヴィダルがロビーに戻ってきた。

「あ……おはようヴィダル」
 
 リノはすかさず挨拶したが、ヴィダルは横目でちらとリノを見ただけで、そのまま会話もせず部屋に戻っていった。リノは深いため息が出るのを抑え、また食事を口にした。レネは、その様子をまた心配そうに見つめていた。

 朝食を採り終えてしばらく小休憩した後、レネが聞いた。
 
「リノは、これからの予定が決まっていますの?」
「予定……」
 
 リノにとって、それは避けて通れない問題だった。昨日はヴィダルと一切言葉を交わさなかった。交わす勇気もなかった。

(これから……どうなるんだろう……)
 
 不安しかなかった。宿の代金もヴィダルが管理しており、自分は仕事ができる技術も持ち合わせていない。

(俺一人じゃ……何もできない……)
 
 急に現実を叩きつけられて、リノは俯いた。

「リノ……」
 
 レネは、リノの窮状を気の毒そうに見ていた。そのとき、急にリノに暗い影が覆った。ヴィダルが横からリノを見下ろしていたのだ。その表情は怒っているようではなく、ただただ無感情でリノを見下ろしていた。
 
「出かけるぞ。支度をしろ」
 
 ヴィダルはそう言って、少し離れた別のテーブル席に腰を下ろした。

「お出かけですわね」
 
 レネはリノに微笑んだ。レネの微笑みにリノは頷いた。リノは急いで部屋に戻り支度を整えてヴィダルのもとに駆け寄った。

「お待たせ」
 
 もしかして昨日の機嫌が直ったのかもしれない。そう期待を寄せて放った一言だったが、ヴィダルはリノの方を一切見ずに、目を通していた書類を綺麗に折りたたみ懐にしまい、立ち上がった。宿を出ると、レネが近づいてきた。
 
「まぁ今日はどちらに向かいますの?丘の方でも新たな催しがあるようですわ」
「なんであんたまで付いてくるんだ?」

 ヴィダルがレネを一瞥した。

「あら?良いじゃありませんの?人数が多い方がきっと楽しいですわ」

 レネはにっこり微笑んだ。

「勝手にしろ」

 ヴィダルは不快感を表した表情をレネに向けた後、さっさと歩き出した。ヴィダルの刺すような眼光にも動じないレネの姿に、リノは感心してしまった。何故、自分と歳も変わらない彼女はこんなにも強くいられるのだろう。

(俺も……こんな風になれたらいいな……)
 
 リノは、レネの美しくも凛とした態度に、憧れを抱いた。

 *

 三人が向かった先は、裏路地の情報屋だった。仕事の案件や個人の簡単な依頼など、色々な情報を取り扱っていた。

「昨日頼んでおいた件はどうだ?」
 
 ヴィダルが不躾に店主へ聞いた。

「それが、確かに存在はしたようだが、その後どうなったかという足取りがつかめなくてな」
 
 店主が書類を整理しながら忙しそうに言った。

「やはり直接行って調べるしかないのか……」
 
 ヴィダルは誰に答えるでもなく呟いた。

「それで、もう一つの方だが、こっちも中々難しくてなぁ」
 
 店主はバツが悪そうに答えた。
 
「今は一般人が天界へ行くルートは限られてるんだわ。旅行感覚ではまず無理だなぁ」
「まあ!あなた天界へ行きたいのです?」
 
 ヴィダルの横から急にレネが割って入った。

「あんたには関係ない」
 
 ヴィダルは鬱陶しそうに答えた。

「天界は、天界人の中でも王国から発行されたパスポート所持者しか行けませんわ」
 
 レネは負けじと答えた。

(そうなんだ……ん?)
 
 レネの話を聞いていたリノは思い出した。

(あれ?レネ、昨日天界に行ったことあるっていってなかったっけ……)

 天界人の中でも王家から発行されたパスポートを持つ者しか行けない……だとするとレネはもしかしてとても偉い人なのでは?と考えを巡らしたリノは、急に自分が今までレネに対して接した態度に失礼がなかったか反省しだした。

「まぁ、もう一つ手段があるとしたら……」
 
 店主が机の上にある書類の山を漁る。「これだね」と一枚のチラシを見せた。

「天界で研究機関の候補生を募集しているのがある。こいつは一般人を対象にしている。天界に憧れてる連中が何人か応募してるぜ」
「初めて聞きますわ」
 
 レネは眉をひそめた。

「そうかい?結構昔から長いこと募集してるけどねぇ。ただ、それなりに試験が難関らしくてな。それなりの戦闘能力を持った精鋭しか合格しないらしいぜ」
 
 チラシには【求ム即戦力!アナタノ技術ヲ最大限発揮デキル場所!】とでかでかと書かれていた。

 ヴィダルはそのチラシを暫く眺め、視線をリノに移した。ヴィダルの視線に気づいたリノがヴィダルの目を見ると、二人の視線が合った。ヴィダルはすぐにチラシに視線を戻した。

(俺は可能だとしても、コイツには無理だな……)
 
 ヴィダルは深いため息をついた。

「すまないが、この辺りで仕事を探してくれないか。一つは肉体労働でもなんでもいい、もう一つは……軽作業で頼む」
「あいよ」

 店主は軽く返事をした。

 三人が情報屋を出ると、レネがヴィダルに向かって聞いた。
 
「何故天界へ行きたいのですか?」
 
 その言葉は、何かを探るような低いトーンで、まるで尋問のようだった。この問いは、リノも気になっていた。情報屋を訪れて、初めてヴィダルが天界に行くつもりであったことを知ったからだ。

「あんたに関係ないと言ったはずだ」
 
 ヴィダルがイラついたように答えた。しばらくの沈黙が空気を重たくする。

「天界へ行くのはおやめなさい」
 
 レネが静かな声で答えた。

 「あそこは簡単に訪れるべき場所ではありません」
 
 それは警告に近い言葉だった。

「何も知らないくせに」
 
 ヴィダルが唇をかみながら言う。

「勝手に俺たちの問題に介入してくるな!」
 
 ヴィダルがレネに強い口調で叫んだ、その時だった。三人の上方が一瞬きらめいたかと思うと、突然ヴィダルに向かって巨体が飛んできた。ヴィダルは咄嗟に後方へ一回転し、避けると同時に、瞬時に携えていた双剣を抜いた。ヴィダルがさっきまでいた位置には、巨体が剣を突き立てている。その巨体は、薄紫色の長い髪をなびかせ、傭兵のような恰好をしていた。

「お前、やるねぇ」
 
 巨体がゆっくり立ち上がりながら、にやにや笑いながら言った。
 
 ヴィダルは次の一手が来るかと構えている。その構えは、明らかに次の一手で仕留めようという意思を帯びていた。

「エミール!」
 
 レネが驚いたように叫んだ。

「はぁ~……お嬢、探したぜぇ~。まーったく、こんな遠路はるばる。とんでもねぇお嬢様だ」
 
 エミールは手を額に当てて頭を横に振り、呆れたようにレネを見た。

「ヴィダル、ごめんなさい。その方は私の従者です。剣をお納めください」
 
 レネはとても申し訳なさそうに謝った。

 ヴィダルはレネを見て、エミールを見た後、構えを解いて双剣を収めた。
 
 *
 
 急な騒ぎで周りの人たちが集まり始めたため、四人は裏路地から少し離れた人気のない、寂れた広場へと移動した。リノとレネは、石造りの古びたベンチに並んで腰掛けた。エミールはレネの傍に、用心深い従者のように腕を組み立っている。一方、ヴィダルは三人とは少し離れた場所で、腕を組み壁に寄りかかり、終始不機嫌な顔でこちらを見ていた。

「取り敢えず、まずは礼を言うぜ。うちのお嬢様を助けてくれてありがとうな」
 
 エミールは軽薄な笑みを消し、リノとヴィダルに向けて言った。

「あ、いえ、どうも……」
「人に斬りかかる前に言って欲しいものだな」

 リノがもごもご返答した直後、すかさずヴィダルが皮肉めいて言った。

「わりぃわりぃ。お前さんがあんまりにも殺気立ってたからよー」
 
 エミールは悪びれる様子もなく肩をすくめた。その態度からは、ヴィダルを格下と見ているのではなく、ただの昔馴染みに接しているような気安さがあった。

「お嬢も満足したでしょう?ささ、ホームに帰りましょうや」
 
 エミールが帰路を促すと、レネは少し考えた後、リノに向かって静かに言った。

「ねぇ、リノ。わたくしと一緒に王都へ行きませんか?」

 リノはびっくりした。王都……。恐らくレネが言っている王都とは、天界の下に位置する、天界人が作り上げた白い王国である。

(やっぱりレネは……)

「もちろん、ヴィダルも」
 
 レネは今度はヴィダルの方を微笑みながら言った。エミールは「また何を言い出すんだこの娘は」と言いたげな表情でレネを見ている。

「断る」
 
 ヴィダルは即座に言った。
 
「俺たちは天界にいく必要がある」

 レネは今度は悲しそうな表情で言った。

「何故……なぜそんなに天界へ行きたがるのですか」

 ヴィダルは問いかけているレネではなく、リノの眼をまっすぐ見て言った。
 
「使命だからだ」

 リノは、ヴィダルがこちらを見ていることに気づいてハッとした。
 
(使命……そうか、じいちゃんの遺言か……)
 
 リノは、恐らくヴィダルとドロテオの間でなにか密約が交わされているのだろうと悟った。また沈黙が辺りを包む。

「ごめんレネ、俺、王都には行けない」
 
 リノは申し訳なさそうにレネに言った。自分のせいでヴィダルが使命を果たせないかもしれないのに、これ以上他人に甘えるわけにはいかないと思った。

「リノ……」
 
 レネはとても残念そうな顔をした。

「先ほども申しましたけど、天界へは天界人の中でも王国が発行したパスポートでしか入国を認められていません。他に手段があるとお思いですか?」
 
 レネはヴィダルに聞いた。

 ヴィダルは静かに目を閉じた。先ほどの情報屋のチラシ。自分だけなら難関突破も無理はない。しかし、リノはどうする?この出来損ないの男を天界に送り届けるには……。ヴィダルには今のところ方法が見当たらなかった。

「ふーん?お前ら天界に行きたいの?何しに?」
 
 エミールが、何度となく聞いたことのある質問を繰り返した。誰も何も言わなかった。

「そういえば、先ほど天界が一般人の精鋭を募集しているというチラシを見たのですが、エミールはご存じでしたか?」
 
 レネがエミールに向かって聞いた。

「何?聞いたことないが……」
 
 薄紫色の無精ひげをなでながらエミールは答えた。

「また相変わらず変な研究でもしてるんじゃねーか?あいつらの考えてることはよくわからん」
「あんた、天界に詳しいのか?」
 
 ヴィダルが食いついた。

「まぁ俺、昔天界に住んでたからな。ちぃっと訳あって天界とはオサラバしたけど」
 
 エミールはにやにやしながら答えた。

 ヴィダルの赤い瞳が揺れた。

 (いまは少しでも手がかりが欲しい……)
 
 リノはそんな三人のやり取りを見て、また疎外感を覚えた。何も知らない自分はまた置いてけぼりだった。

 *
 
 そろそろ日が落ちて、街全体がオレンジ色に染まる夕暮れ時だった。
 
 リノは食事を済ませ、部屋に戻ろうとドアの前に立ち止まったとき、部屋の中から会話が聞こえてきた。ヴィダルとエミールが話していた。

「あんた天界の特務機関に居たのか」
「まぁな、しょーもない下っ端研究員だったけどな」
 
 どうやらエミールが天界にいた頃の話をしているようだ。リノは立ち聞きは悪いと思いつつ、でも自分の部屋だしと思い、どうもできずその場で立ちすくんでいた。

「オスカー・クレマンという男をしっているか?」
 
 ヴィダルの口から意外な人物の名前を聞いたエミールは、目を見開いた。

「お前……何故オスカーのことを知っている?」
 
 エミールは途端に警戒し、訝しんだ。

「それは言えない」

 ヴィダルは即座に答えた。

「俺はオスカーに会わなければならない。どこに居るか知っているか?」

 エミールは深いため息をついた。

「残念だけど、俺は知らない」
 
 ヴィダルは眉をひそめた。それを見たエミールは続けた。

「隠してるとかじゃなくて本当に知らないんだよ」

 エミールは弁解するように言った。

「まぁ確かにオスカーに会いたいなら天界を探すっていうのは納得だわな」
「でもお前ら天界に行けないだろう?」

 エミールは改めて天界へ行く手段がないことを言及した。

「頼みがある」

 ヴィダルは言った。

「無理だ」

 エミールは即座に断った。

「なっ……!」
 
 まだ依頼の内容も口にせぬまま断られて、ヴィダルは衝撃を受けた。

「どうせ俺にオスカーの所在を探してこいってんだろ?」
 
 まさにその通りではあるのだが、まさか交渉する前から断られるとも思っていなかった。

「俺、天界は出禁になってるんだよ」
 
 エミールは頭の後ろで手を組みながら言った。

「俺も今は天界の情報は人伝なんだ、悪いな」

 肩をすくめてエミールは言った。

 ヴィダルはひどく落胆した。折角希望の糸口を見つけたと思ったが、また振り出しに戻った気がした。やはり地道に、自分たちで天界へ向かうしかない。

「さっきのチラシ?だったか?お嬢が言ってた。あの方法はダメなのか?」
 
 思い出したようにエミールが言った。

「俺は問題ないが、連れが無理だ」
「難関試練の突破ねぇ。でもお前めっちゃ強そうだし、少年に稽古つけたら突破できそうだけどなぁ?」
 
 エミールが無精ひげをなでながら言った。

「アイツは何もできない」

 ヴィダルは即座に否定した。

「それか、道場とかに少年を預けたら案外開花するかもよ~?」
 
 エミールが笑いながら言った。

「これまで何もできなかったんだ、これからも何もできない」
 
 ヴィダルはまた強めに否定した。そんなヴィダルの様子を見て、エミールは深く息を吐いた。

 「お前ね、そんなにやる前から見下すもんじゃないよ。お嬢から聞いたけど、よく話を聞いてくれるみたいだし、素直で良い少年だと思うけどな~俺は」

 エミールは諭した。

 暫く沈黙が続く。

「俺の気持ちは?」
 
 静かにヴィダルが口を開いた。その言葉には怒りがにじみ出ていた。

「ん?」

 エミールが聞き返す。

「どうして誰も俺の気持ちを分かってくれないんだ!」
 
 急に激高したヴィダルにエミールはうろたえた。

「おい、どうしたどうした急に?」
「俺は全部アイツのために!何もかも捨てて!こんなに頑張っているのに!」
 
 今まで抑えていた怒りがあふれ出す。

「落ち着けって」
 
 エミールはヴィダルをなだめた。

「まだ出会ったばかりでよくは知らんが...お前さんが苦労してるのは分かる。でも家族じゃないか?」
 
 エミールは優しく諭した。

「あんな奴……家族じゃない!」
 
 ヴィダルの拳に力が入る。
 
「俺は……アイツを家族だと思ったことは一度たりともない!」

 *

 リノは頭を思いっきり鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
 分かっていた。分かってはいたのだ。ヴィダルの毎日の態度から、自分が拒絶されていたことを。だが、改めて言葉にされると、世界が崩壊したようだった。

(もう、無理だよ……)

 激しい動悸と眩暈でその場に倒れそうになるのをこらえて、リノはその場を離れた。部屋へ戻ることもできず、宿を飛び出した。まだ踏み出したことのない見知らぬ街道を、当てもなく走り続けた。もう引き返せないところまできてしまったんだという気持ちだった。身体は冷たい汗でぐっしょりと濡れて冷え切っていた。いつも以上に胃がキリキリ痛んだ。でも今は。走り続けないと行けない気がした。

 ドロテオに二人で頑張ると嘘をついてしまったこと。

(じいちゃん...ごめんなさい...……)

 レネの顔が浮かんだ。自分に優しくしてくれたレネ。

(レネ、ごめん……。弱くて、ごめんね……。)

 突然あふれ出る涙。その優しさも全て投げうってしまった罪悪感にも苛まれたリノは、ただひたすら走り続けた。

 *

 どれくらい走ったのだろう。いつの間にか暗い森の中を歩いていた。月明かりでかろうじて見える道をのろのろと歩いていた。走っていた時よりも胃がキリキリ痛む。もうここがどこだか分からない。お金も食料も武器も持たず、ただ歩き続けていた。

(結局、俺一人じゃ何もできないんだ……)

 道の先に薄っすらと明かりが灯っているのが見えた。どうやら森を抜けた先に町があるらしい。何も持っていないリノは、取り敢えず町で野宿しようと考えた。今は疲れた体を休めたいと思った。

(暗がりで一人で過ごすのは慣れているから……)

 町の入り口を目指しひたすら森を道なりに歩いていると、突如、生い茂った草木からギチギチと異様な音が鳴った。静かな森が異様な空気に包まれた。急に何かに囲まれているような気配を感じた。

(これは……)

 気付いた瞬間、黒い影が襲い掛かってきた。

(モンスターだ……!)

 咄嗟に避けたものの、左腕の服がモンスターの爪で引き裂かれた。

(逃げなきゃ……!)

 武器を持たないリノには逃げるしか方法がなかった。先ほどまで全力疾走していたせいか、走る元気がほとんど残されていなかった。モンスターは後方で左右に飛び交いながらリノを追いかけてきた。脚がもつれてリノは転んだ。

(もう……)

 リノは静かに目を閉じた。

 その瞬間、きらりと光る閃光がモンスターを薙ぎ払った。次から次へと襲い掛かってくるモンスターが一瞬のうちにパタパタと倒れていった。

「大丈夫か!?」
 
 背の低い男がランタンを掲げながら言った。

「明かりも持たずに森の中を歩くとは随分不用心だな」
 
 背の高い男が武器をしまいながら言った。

 背の低い男はリノに駆け寄って身を起こしながら「怪我はないか?」と聞いた。

「ありがとうございます」
 
 リノは震える声で丁寧にお礼を言った。

「まだ他に魔物が居るかもしれない。ここは危険だ。取り敢えず町に行こうぜ」
 
 背の低い男がリノの肩をポンポンと叩いた。リノはゆっくりと立ち上がろうとした。

「歩けるか?」
 
 背の低い男がリノを支えながら心配そうに聞いた。

「はい……」

 力ない返事をした直後だった。
 宿での出来事、全力疾走、モンスターの遭遇、これまで張り詰めていた緊張が解けたのか、助けられた目の前の見知らぬ男性を前にして、リノは堪えきれず胃の中のものをすべて嘔吐した。

第四章 自負(じふ)

 窓の外からは、行商人たちの活発な声が騒々しく響き、荷車を引く木々の軋む音、商品の値段を叫び合う声が入り混じる。町全体が勢いよく活動を始める時間帯だった。
 
 リノはゆっくりと目を開けた。自分が心地よい厚さのマットレスに横たえられていることに気が付いた。
 
(あれ……どうして……)
 
 昨日の夜の出来事が、途切れ途切れに脳裏をよぎる。ヴィダルの冷たい、突き刺さるような言葉。胸を抉られたような強烈な痛み。衝動的に宿を飛び出し、出口の見えない暗い森を当てもなくさまよい、そして――。
 
(そうだ、魔物に襲われて、危ないところを……)
 
 意識が途切れる直前、見知らぬ二人の青年に助けられたことを鮮明に思い出した。

「おー!目が覚めたか!」

 勢いよく扉があけられ、一人の青年が部屋に入ってきた。明るいアッシュブロンドの髪に、頭には青い縁のサングラスを乗せている。青と白を基調とした軍服のような、無駄のない整然とした装いが目を引いた。左の腰には、鞘に収められた刀を携えている。

 青年はベッド脇の椅子にドカッと腰を下ろし、リノの顔を朗らかに覗き込んだ。

「顔色はだいぶ良くなったみたいだな」
 
 青年は心底安心したような表情を浮かべた。

「あの……昨日は大変ご迷惑をおかけしました。そして、本当にありがとうございます」
 
 リノは慌てて上半身を起こし、深く頭を下げた。昨夜は暗がりでよく顔が見えなかったが、青年は端正な顔立ちをしている。

「あっはっは!いや~びっくりしたね。まさか助けた直後にゲロったりするから驚いちゃったよ」
 
 青年は自分の太ももを豪快に叩きながら、屈託なく笑った。リノは途端に顔が熱くなった。恥ずかしくて穴があったら入りたい気持ちだ。ずっと胸が締め付けられるように胃が痛かったとはいえ、まさか見ず知らずの人前で嘔吐してしまうとは、自分でも予想していなかった。

 宿まで運んでもらい、清潔なベッドまで用意してもらった恩義を感じる一方で、リノはふと現実に引き戻される。実際問題として、自分はお礼の金銭を一切持っていなかった。恐る恐る口を開く。
 
「あの……俺、お金を持っていなくて……」

「あぁ、だろうね!なんせあんな暗い森に明かりひとつ持ってないもんな!」
 
 青年はまた大きく笑った。

「心配しなくていいよ、宿は俺のおごり!それより食欲はある?取り敢えず朝メシ食おうぜ!」
 
 そう言って、青年は椅子から立ち上がった。リノも急いでベッドから抜け出し、乱れた身なりを整えて青年の後を追った。
 
 この宿は一階が賑やかな酒場と一体になっており、早朝から大柄な男たちが活発に出入りしている。

「こっちだ!」
 
 先ほどのサングラスの青年が、奥のテーブルから手を挙げて呼んでいた。サングラスの青年の元に行くと、既にテーブルにはもう一人の青年が着席していた。その青年はブラウンの髪をきっちりとしたポニーテールに結び、服装は、サングラスの青年と同じ青と白を基調とした軍服のようなものを着ている。こちらの青年も切れ長の目の端正な顔立ちをしていた。テーブルには、焼きたての香ばしいパン、温かいスープ、そして色鮮やかなサラダが用意されている。

「好きなだけ食べていいぞ」
 
 ポニーテールの青年が静かに言った。

「そういや名前聞いてなかったな」
 
 サングラスの青年が、こんもりと盛られたサラダを取りながらリノに尋ねた。

「リノです」

「リノか、よろしくな!俺はカレル」
 
 サングラスの青年、カレルは快活にウインクした。

「俺はレオンだ」
 
 ポニーテールの青年が静かに応じた。

「昨日は助けていただき、本当にありがとうございました」
 
 リノはレオンにも丁寧にお礼を言った。

「あぁ」
 
 と軽く返事をしてレオンもサラダを食べ始めた。

「リノは何も持たないでなんであんな森をうろついてたわけ?」
 
 カレルがパンをほおばりながら、ざっくばらんに聞いた。

「最近魔物が活発化している。戦う術を持たないのであれば、護衛を付けずに森を歩くのは危険だ」
 
 レオンが、リノの昨晩の無謀な行動を冷静に指摘した。見知らぬ二人に、ヴィダルとの込み入った個人的な事情を話すべきか迷い、俯いて考え込んでいると、「ま、若いうちは誰だって悩みが尽きないもんだ!」とカレルが明るく言った。
 
「飯を食ったら、嫌なことは全て忘れちまえ!」

 その時、酒場のドアが勢いよく開き、一人の小男が慌ただしく飛び込んできた。

「朗報朗報~!」
「精鋭ギルドが、ついに例のドラゴン討伐を完了したってよ!」
「なんだと……!」
 
 酒場にいた男たちが一斉にざわめき始めた。

 その様子を横目で見ていたカレルは、「へーえ、ドラゴン討伐ねぇ……」と大して興味がなさそうに呟いた。レオンは一切反応せず、黙々と朝食を続けている。

(ギルド……)
 
 リノは、これまで度々「ギルド」のモンスター討伐の話は聞いたことがあったのを思い出した。もしかしたら、ギルドに登録すれば自分でもお金が稼げるかもしれない。この二人にも、きちんとお礼のお金を渡したい。そう考えたリノは、勇気を出して二人に問いかけた。
 
「ねぇ……ギルドってどうやったら入れるの?」

 *

 どうやら、昨晩リノが彷徨った森の先にあった町は「ギルド街」として栄えているらしい。通りには、大勢の屈強そうな男女が武器を研いだり、仕留めた獲物を引きずったりしながら、ひっきりなしに行き交っていた。様々なお店が軒を連ねる通りを物色しながら、三人は歩いていた。
 
「一人でギルド登録しようだなんて無謀すぎるぜ。普通は熟練者とチームを組んでやるもんだよ」
 
 カレルは笑いながら言った。

「野良でやっている者もいるにはいるがな。大体は、何でも一人でこなせる手練れ中の手練れだけだ」
 
 レオンが冷淡な調子で続けた。やはり自分一人では無理なのかと半ば諦めかけていたリノだったが、突然カレルが身を乗り出してきた。

「じゃあさ、俺たちと組むのはどうだ?」
 
 カレルは得意げに提案した。

「おい。遊んでいる暇はないぞ」
 
 レオンが静止するように言った。

「遊びじゃないさ。それに、依頼をこなしていれば、なにかしら手がかりがつかめるかもしれないだろ?」
 
 カレルはレオンの耳元に身を寄せ、ささやくように言った。

「ふむ……」
 
 レオンは腕を組み、カレルの言葉にも一理あるなと少し考え込んだ。

「手がかりって?」
 
 リノが聞いた。

「あー……まぁ俺たちも実はちょっと探し物しててね。でも今は、行き詰ってあてのない旅をしてる感じだな」
 
 カレルが曖昧に説明した。

「ふーん……」
 
 自分が昨夜の事情を詳細に話さなかった手前、彼らの込み入った事情を探るのは悪いと思い、リノはそれ以上追及しなかった。

「まあ、探し物の話は一旦置いておいて」とカレルは話題を元に戻した。
 
「なんか、心配なんだよなー。老婆心じゃないけど」
 
 カレルは腕を組みながら、リノの顔をじっと覗き込むように言った。

「確かに……金も武器も持たず、挙句に世間知らずでは、すぐに野垂れ死ぬのが関の山だろう」
 
 レオンも容赦のない言葉を続けた。何も反論できず、リノは思わず息をのんだ。彼らの言うことは、紛れもない事実だったからだ。

「まずは、お前が一人で生きていけるように、俺たちが基礎の基礎から色々教えてやるよ」
 
 カレルが屈託のない笑顔で言った。

 その日の午後、三人は早速行動を開始した。リノはカレルとレオンに連れられて武具屋へ行き、まずは身を守るための最低限の武器を手に入れた。基礎的な戦闘技術については、町の外れの訓練場でカレルとレオンが直接指導してくれた。彼らは戦いに慣れているだけあって、教え方は非常に理路整然とし、分かりやすかった。続いて道具屋で道具や薬草の使い方を教わり、リノは戦うための準備を一通り整えることができた。そして、町の中心にあるギルドセンターに行き、正式にギルド登録を済ませた。

 こうして、リノは自らの意志で、新たな一歩を踏み出すことができたのだった。

「それで、だな……」

 カレルは、ギルドセンターの壁一面を覆う巨大な掲示板の前を行ったり来たりしながら、画鋲で留められた一枚の紙を強引に引き剥がした。

「これが依頼(クエスト)ってやつだ。ギルドは、この依頼をこなすことで報酬を受け取るって仕組みさ」
 そう言いながらリノに紙を渡した。

 紙には、いささか拙く、汚い字で【さがしています。おんせんたまご。】と書かれていた。

 リノは思わずカレルに向かって「これだけじゃ分からないよ」と不満げに言った。

「だろ?こういう時はな、一旦依頼主に詳細を聞きに行くんだ」
 
 カレルは快活に笑った。

「依頼には必ず依頼主の名前がある。基本的にギルドマスターが依頼主の名前がないものは受け付けていないからな」
 
 レオンが冷静に補足した。

「まぁ、何事も最初は一通りこういう流れでやるってのを覚えてからにしようぜ」
 
 カレルはリノの背中をポンポンと叩いた。

「うん!」
 
 リノは素直に嬉しさがこみ上げた。今までドロテオやヴィダルからは、何か尋ねても「お前に必要ない」「やらなくていい」と、何も教えてもらえなかった。しかし、カレルとレオンは教えてくれる。自分が自立するために必要なことを、一つ一つ丁寧に教えてくれる。リノは二人の親切を無駄にしないよう、教わったことを一生懸命吸収しようとした。

 依頼主の家は、この町の片隅にあった。事情を聞きに行くと、そこにいたのは幼い少女とその母親だった。

「昔、立ち寄った冒険者様からいただいた温泉卵が、どうしてもまた食べたいとこの子が言い出して……」
 
 少女の母親が、心底申し訳なさそうな顔をして言った。
 
「その冒険者様から、どこで手に入れたものか聞きそびれてしまって……」

 そうして、三人はまず酒場から聞き込みを開始した。聞き込みしているうちに、とある峠に個人経営でひっそりと営業している温泉宿があり、そこで「龍の卵」と呼ばれる黒い卵が手に入るらしいという情報にたどり着いた。

「おそらくそこだろう」
 
 レオンが断定した。

「依頼って、モンスター討伐だけかと思ったけど、こんなお使いみたいなこともするんだね」
 
 リノが率直な感想を漏らした。

「まぁなんでもあるわな」
 
 カレルは笑った。
 
「大体の連中は魔物討伐の高額報酬ばかり追いかけ、こういう依頼は目もくれず、ずっと残っているもんさ」
 
 カレルは少し寂しそうに言った。リノはその言葉を聞いてハッとした。助けを求めても誰も助けてくれない――。この依頼の紙もよく見れば画鋲の周りが色褪せ、古くなっていた。

(きっとこの依頼主の幼い子も……ずっと誰かに助けを求めていたのかもしれない……)

 カレルは依頼についてそれ以上言及はしなかったが、もしかしたら彼は、ずっと残っていたこの依頼書を優先させたのかもしれない。そう思うと、リノの胸が温かいもので満たされた。

(俺も誰かの役に立てたらいいな...)

 三人は早速、その峠に向かった。

 道中、数匹の小型モンスターが現れた。カレルやレオンの明確なサポートと指示のもと、リノは練習がてら何体か倒すことに成功した。ヴィダルと二人でいるときは、ただ恐怖しか感じなかった魔物だが、二人の後ろ盾と具体的な支援があるおかげで、冷静に対処し、剣を振るうことができた。リノが心底嬉しそうにしていると、カレルやレオンも満足そうに微笑んだ。

「最初は一人で対処するのは難しいだろうが、倒せればそれが自信につながる」
 
 珍しくレオンが優しい口調で言った。

 峠を登り終えたところで、目的の温泉宿を見つけた。店主に事情を話し、「龍の卵」を無事手に入れた。

 町に戻り、依頼主に龍の卵を渡すと、少女と母親は言葉にできないほど喜び、リノに何度も心からのお礼を言った。リノは少女から、依頼書に完了のサインをもらった。

「完了のサインをもらったら、ギルドセンターで報告するんだ」
 
 カレルが教えた。三人はギルドセンターに行き、リノが完了済みの依頼書を受付に提出すると、受付から依頼の報酬が渡された。

「リノ、初めて依頼を達成したな!おめでとさん!」
 
 カレルがリノの肩を抱いた。

「良かったな」
 
 レオンも優しい眼差しでリノを見た。

 リノは顔を赤らめてはにかみ、「ありがとう、二人のおかげだよ!」と心から喜びを表現した。初めて自分の力で仕事をして報酬をもらえたことが、何よりも誇らしかった。周りにいた見ず知らずの傭兵たちもこぞって、「坊主、初めてのクエストか!?やったじゃねぇか!」「お祝いに一杯奢ってやろうか!」と、リノを祝ってくれた。

「と、まぁ、流れはだいたいこんな感じだ」
 
 カレルが満足げに言った。

「明日はいよいよ魔物討伐でもするのか?」
 
 レオンが問いかけた。

「モンスター……」
 
 リノは息をのんだ。一瞬、森での絶望的な恐怖が鮮明に蘇ったからだ。

「そうさなぁ...」
 
 カレルはリノをちらと見た。
 
「リノ、お前はもう少し自信を持て。そんなに怯えなくてもお前ならやれるよ」

 リノの胸に、カレルの言葉が熱く響いた。

 (お前ならやれる……)
 
 今までヴィダルに散々何もできないと罵られ、完全に自信を無くしていたリノだったが、カレルとレオンと行動を共にするうちに、その言葉の通り、ほんの少しずつだが、前に進むための確かな自信がついてきているのを自分でも感じていた。

(俺も頑張りたい……)

「疲れただろう、今日はもう休んで、また明日にしよう」
 
 レオンが穏やかに促した。

 三人は、喧騒を後に宿へと戻っていった。

 *
 
 同時刻、リノたちがいた宿から数キロ離れた場所で、エミールとレネは重苦しい空気を纏うヴィダルと向かい合っていた。

「そっちはどうだった?」
 
 エミールが尋ねる。

「いや……」
 
 ヴィダルは重い口を開いた。

「こちらも……わかりませんでしたわ」
 
 レネは憔悴したように言った。リノが飛び出してから、彼らは町中や近隣の森の入り口をしらみつぶしに探していたが、人影はおろか、確かな手がかり一つ見つけられていない。

(リノ……一体どこへ行ってしまいましたの……)
 
 レネは不安と自責の念に駆られ、遠くの夕焼けを見つめた。薄暗くなり始めた路地裏で、ヴィダルは深く息を吐いた。

「もういい」
 
 ヴィダルが静かに、しかし鋼鉄のように冷たい声で言った。

「え?」
 
 レネが聞き返した。彼女の探す目つきは、疲労の色を濃くしていた。

「もういい。俺はこのまま一人で天界へ向かう」
 
 その言葉は、一切の感情を排したかのように硬く、有無を言わせないものだった。

「リノを……置いていくのですか?」
 
 レネが、信じられないという表情でヴィダルに問いかけた。その声には、驚愕と、わずかながら非難の色が混じっていた。

「置いていく……だと?」
 
 ヴィダルの赤い鋭い眼光が、憎悪の炎を宿したかのようにレネに向けられた。
 
「アイツは自分から逃げ出したんだ!俺の苦労も知らずにな!」
 
 彼の声は怒りに震え、その凄まじい視線にレネはたじろぎ、言葉を失った。

「おいおい、お嬢に感情をぶつけてもしょうがないだろ」
 
 エミールが呆れたように、そして疲れたように二人の間に割って入った。

「わたくし、もう少し探してみますわ」
 
 レネがそう言って走り出そうとした、その腕をエミールががっしりと掴んだ。

「ストーップ!」
 
 エミールはぴしゃりと言い放ち、真剣な顔をした。
 
「お嬢、もう時間切れです。俺たちも王都に戻らないと。お父上にきつく言われてるんでね。これ以上滞在を延ばすことはできない」

 そして、エミールは怒りが収まらないヴィダルに向けて言った。
 
「ヴィダル、天界に行くならどの道お前も王都に向かうんだろ?俺が王都行きの列車の乗車手続きをするから。明日の朝、駅で集合な」

 ヴィダルはエミールの顔を射抜くように睨みつけた後、何も言葉を発さずに宿の方へ歩き出した。彼の背中は、今まで以上に孤独と、拭い難い怒りの感情を纏っているように見えた。ヴィダルが去った後、エミールは今にも泣き出しそうなレネの表情を見て、優しく宥めた。

「宿屋に言付けを置いときましょう。金も武器もロクに持ってないんだ。お腹を空かせて、そのうち戻ってきますよ」

 レネは何も答えなかった。ただ、彼女の頬に一粒の透明な涙が伝った。

(わたくしは彼の孤独に気づいていたのに……助けてあげられなかった……)

 リノが常に感じていた孤独、誰にも理解されない苦しみを、レネは知っていたはずだった。
 エミールは優しくレネの肩を支え、二人は宿の方へと静かに歩き出した。

第五章 決意(けつい)

 その日も、窓の外はどこまでも澄み渡る晴天だった。

 リノは身支度を整え、軽く伸びをしてから、朝食を取るため宿の一階にある酒場へと降りていった。酒場は夜の喧騒とは打って変わり、静かで清潔な空気が流れていた。

 奥のテーブルには既にレオンが着席しており、窓から差し込む朝の柔らかな光を受けて、彼のポニーテールに結われたブラウンの髪が淡く輝いていた。

 レオンの元に近づき、リノは「おはよう」と挨拶をした。

「お前、朝が早いんだな」
 
 レオンは既に朝食を済ませていたようで、食後のハーブティーを一口すすった。

 レオンは冷淡な雰囲気を纏ってはいるものの、時折見せる言葉遣いや眼差しにはかすかな優しさが含まれており、ヴィダルと接する時に感じていたような、全身がすくむほどの張り詰めた緊張感はなかった。リノは彼の前では、自分を無理に萎縮させずに済むのを感じていた。

 リノはあたりを見渡したあと、「カレルは?」とレオンに尋ねた。

「あぁ、アイツはもうしばらく起きてこないだろう。昨晩、だいぶ遅くまで飲んでいたようだからな」
 
 レオンは肩をすくめて見せた。

「そうなんだ……」
 
 そういえば昨晩、リノが自室に戻る直前、酒場のカウンターでグラスを傾けているカレルの姿を確かに見たような気がした。

「レオンは一緒に飲んだりしないの?」
 
 リノはふと気になり、口に出してしまっていた。
 するとレオンはフッと小さく笑い、「俺は、酒が飲めないからな。下戸ってやつだ」と答え、またハーブティーを口に運んだ。

 カレルとレオンは、依頼を共にするほど深く信頼しあっているはずなのに、互いの行動に干渉せず、それぞれが好きなように振る舞っている。この、互いを尊重しあう適度な距離感と信頼感が、リノにはひどく羨ましくも思えた。それは、ヴィダルと自分の、常に一方的で張り詰めた関係とはあまりにもかけ離れていたからだ。

 リノはカウンターで簡単な朝食を受け取り、レオンと同じテーブルに座ってパンを頬張った。しばらくして、二人のいるテーブルに、寝ぼけ眼のカレルがのろのろと近づいてきた。アッシュブロンドの髪はいつもより乱れ、顔にはくっきりと寝跡が残っている。

「おあよ……」
 
 大きなあくびをしながら、カレルが言った。

「カレル、おはよう」
 
 リノが元気よく挨拶を返した。

「お前、そんなんで今日出かけられるのか?」
 
 レオンが呆れるように言った。

「うむ……」
 
 レオンの皮肉が聞こえているのか、聞こえていないのか、どちらとも取れない曖昧な返事が返ってきた。ギルドについて事細かに、熱意をもって教えてくれた時の知的な様子とは裏腹に、だらしないカレルの意外な一面を知れて、リノは少し嬉しくなった。彼は思っていたよりもずっと「普通」の人間に近いのかもしれない。

 リノがようやく朝食を済ませた後、三人はギルドセンターに向かって歩き出した。

 ギルドセンターに着くと、カレルは依頼掲示板の前を行ったり来たりしながら、指先でいくつかの依頼書に触れていた。

「よし、まあ取り敢えずはこの辺りだろうな」

 カレルが抜き取ったのは、上部の欄外に小さなスタンプが押された一枚の紙だった。彼はそれをリノに手渡す。リノは依頼書に書かれた文字を目で追った。

 依頼書には丁寧に、しかしどこか切実さを感じさせる文字で【街道に出現する中型モンスターの討伐】と書かれていた。

「中型モンスター...」

 リノは思わず息をのんだ。
 カレルはリノの不安を察し、その肩に軽く手を置いた。
 
「大丈夫、大丈夫。俺たちもバックアップはするから。一応、魔物の大きさや動きにも慣れておかないとな。今後の旅を考えれば、これは必要な経験だ」

 カレルの言う通りだった。経験は必要だ。リノは緊張しつつも、「逃げてはいけない」と心の中で自らを叱咤した。

「依頼主に詳しい話を聞こう」

 レオンが短く言って、ギルドの奥にある受付へと促した。
 依頼主は、この町を拠点とする小太りの行商人だった。彼はハンカチで汗を拭いながら、切羽詰まった様子で三人に状況を説明した。

「本当に困ってるんですわ。最近、街道に中型モンスターが出没し始めて。何度も依頼は出してはいるんですが...困ったことに倒しても倒しても湧いて出てくるもんで」
「どんな魔物なんだ?」

 レオンが低い声で尋ねた。
 行商人は身震いした。

 「それがまた、気味が悪いんですよ。街道脇にある森から出てくるんですが、緋色の花を背負った植物のようなヤツなんです。近づいた人間を長い触手で絡め取り、森の奥に引きずりこむんですわ」
「引きずりこまれるとどうなるの...?」

 リノが恐る恐る尋ねた。

「わかりません……。引きずりこまれたものは誰も帰ってこないし。かといって、私たち行商人に森の中まで捜索するなんて手が回らんしなぁ」

 行商人は諦めたように首を振った。

 「街道に出てきたやつを叩いてもらうので精一杯でさぁ」

「ふーん……そいつは、森に親玉がいる可能性が高いな」

 カレルは顎に手を当ててつぶやいた。

「だが、今回は街道の魔物討伐だ。報酬もそのつもりなのだろう?」

 レオンは行商人に確認した。

「そうですなぁ...我々も森の奥は確認したことがないので、その親玉?もいるかどうか……。規模もわからんのですわ。まずは街道の安全を確保していただけるだけで」

 行商人としては見える範囲だけでもと言ったところだ。

「まぁいいさ。取り敢えず、街道の魔物だけ倒しに行ってみようぜ。」

 カレルはそう言って、レオンとリノに目配せをした。
 リノも「うん!」と元気よく答え、気合を入れ直した。

 *

 三人は依頼を受け、街道の指定された場所へと向かった。道の脇には、陽光を遮るほど鬱蒼とした暗い森が広がり、道の反対方向は一転して、小動物や蝶が飛び交うのどかな斜面になっていた。

「モンスターが出る場所にしては、のどかだね」

 リノがお散歩気分で言った。
 しかし、カレルとレオンは無言で、極度の緊張感を漂わせ、森の方を微動だにせず注視していた。

「いるな」カレルが囁くように言った。
「あぁ」レオンが淡泊に応じた。

「いるって……?」

 リノが聞き返した、その瞬間だった。カレルとレオンが、ほとんど同時に刀を抜き放った。その研ぎ澄まされた動作に、リノは一瞬思考が止まるが、すぐに愛用の剣を抜いた。

「くるぞ!」レオンが雷鳴のような声で叫んだ。

 街道の脇、森の最も暗い部分から、巨大な植物のモンスターがその姿を現した。それは、奇妙に鮮烈な緋色の花を背負い、そこから数メートルにも及ぶ黒い触手が、うねうねと不規則に空間をかき回している。

「一体じゃない!」

 カレルが即座に周囲を警戒しながら叫んだ。最初のモンスターの背後から、さらに二匹の同種のモンスターが続き、街道はあっという間に三体の植物のモンスターに占拠された。

 カレルはリノに、的確な指示を飛ばした。
 
「リノ!触手に注意しながら、花を叩け!花の中心が弱点だ!」

 カレルとレオンは既に最前線に躍り出ていた。二人は華麗な刀捌きで、次々に飛来する触手を綺麗に切り刻み、一瞬の隙に花の中心を突いた。

(俺も……!)

 リノは、二人の背中を守るように、三体目のモンスターへと向かった。長く伸びてきた触手の一本を、渾身の力を込めた剣で薙ぎ払う。

(今だ……!)

 触手が怯んだ一瞬の隙に、リノは花の中心を突こうと飛び込んだ。しかし、それはモンスターが仕掛けた巧妙な罠だった。完全に斬り切れなかった一本の触手が素早く跳ね上がり、リノの足首を捕らえた。リノは体勢を崩され、前のめりに倒れこみ、剣を地面に落としてしまった。

(しまった……!)

 武器を失い、地面に這いつくばったリノの顔の真上へ、緋色の花が毒々しい雄しべを広げながら、勢いよく襲い掛かってきた。

 その刹那。

 三体目の花が一刀両断された。レオンの刀だった。見事な切れ味と共に花の中心は真っ二つに斬られていた。

「大丈夫か?」

 カレルがリノの傍に駆け寄り、肩を抱き起こした。リノは身体を起こしながら、二人に申し訳なさそうに礼を言った。

「あ、ありがとう……」

 モンスターを倒せなかったこと、自分の不甲斐なさと、二人に迷惑をかけてしまったことに、リノは強い罪悪感を覚えた。

「ごめんなさい……俺、全然役に立てなくて……」

 リノは二人に震える声で謝った。何もできない自分に戻ってしまった絶望感から、顔を上げることができない。

「リノ」

 カレルはリノに優しく呼びかけた。リノは恐る恐るカレルの顔を見た。カレルはリノににっこりと笑顔を見せて、次の瞬間、リノの額に思いっきりデコピンを食らわせた。

「痛っ!」

 リノは思わず声が漏れた。

「リノ、怖いか?」

 カレルが言った。

「え?」

 リノが額を抑えながら聞き返した。
 
(モンスターは怖いけど...でもここで怖いなんて言ったら...)

 リノが答えを探していると、カレルは続けた。
 
「俺たちが怖いか?」

 今度はいつもの茶目っ気のある笑顔とは違い、真剣で、それでいて優しい眼差しで言った。レオンも二人のやりとりを無言で見ていたが、その表情には怒りや非難の色はなかった。

「カレル...」

 心地良い風が三人を包んだ。
 リノはカレルの瞳を見た。彼の青い瞳は、リノをまっすぐ見ていた。
 
「俺...」

 リノは口ごもった。二人の親切心を無駄にしたくなくて、二人に嫌われたくなくて。できない自分に自暴自棄になりそうで、胸が張り裂けそうだった。

「最初はな。できなくてもしょうがないんだ。言ったろ?俺たちがバックアップするって」

 カレルは諭すように言った。

 「そんなに怯えなくても、俺はお前のこと見捨てたりしないよ」

 その言葉が、リノが心の底から本当に欲しかった、赦しと信頼の言葉だと、リノは知った。

(カレル...)

 この時、リノは初めて、誰かのために、自分を助けてくれる彼らのために力を尽くしたいと心から願った。彼らの優しさに応え、恩を返せるよう、二人の隣で強くあると決意した。

 三体の植物のモンスターを討伐した後、三人は街道の脇、鬱蒼とした森の入り口に立っていた。
 そこから漏れる木々の隙間のさらに暗い奥地には、巨大な影がうごめいているように見えた。それは、討伐したモンスターたちの数倍の大きさを持つ、禍々しい親玉の存在を予感させた。

「さて、と」

 カレルが仕切り直すように、両手をパンと叩いた。
 
「リノ、どうする?親玉を狩るか?」

 その問いに、リノは驚いた。まさか、この重要な決定権が自分に委ねられるとは思ってもいなかったからだ。

「え?俺が?」思わず、自分が決めていいのかと聞き返した。

 カレルは真剣な表情でリノを見ていた。その表情からは、いつもの快活な笑顔の裏に隠された、冗談の気配は感じられなかった。

(どうしよう……)

 リノは思考を巡らせた。カレルとレオンは、自分の人生を助けてくれる助っ人だ。しかし、彼らが自分の旅の方向性を決めるわけではない。ギルドに入り、依頼をこなして独り立ちを目指すと決めたのは、他でもない自分自身の意思だった。

(どうしたいかは……俺が……決めなきゃ)

 先ほど、カレルに励まされたことで湧き上がった、彼らに応えたいという強い決意が、リノの背中を押した。

「親玉を、狩る」

 リノは力強く言った。

「親玉は依頼とは違う。報酬は出ないが、それでもやるのか?」

 レオンが冷静に確認した。

 確かに依頼は街道のモンスター討伐であり、親玉の討伐は請け負っていない。だが、このままでは、討伐したばかりの街道にも、またすぐにモンスターが湧き出てくるだろう。

(これが本当に依頼の解決と言えるのか?)

 リノは、行商人の切実な言葉で「倒しても倒してもなんども湧いて出てくる」という話を思い出した。

「親玉を倒そう。このまま放っておいたら、また街道にモンスターが出るよ」

 リノは、自分の言葉に力を込めた。

「そうこなくっちゃ!」

 カレルは嬉しそうにウインクした。リノの決心を聞き、レオンの表情も自然と柔らかくなった。

「だが、まだモンスターの正体が分からない。警戒するように」

 レオンは再び険しい表情に戻り、森へ続く道の先を見据えた。

 三人は森の奥へと足を踏みいれた。森は昼間だというのに生い茂り、陽光がろくに届かず、暗闇に包まれていた。奥へ進むにつれ、街道で見かけたものと同じ、気味の悪い緋色の花が、土を割って不規則に咲き乱れているのが見えた。

「この花……さっきのモンスターが背負っていたのと似てる」

 リノが指摘した。
 
「どうやら、このあたりに居そうだな」

 カレルが刀の柄に手を置きながら言った。

 さらに進むと、少しひらけた空き地に出た。その瞬間、急に辺りの空気がざわつきだした。三人はすぐに背中を合わせ、警戒しながら周囲を見回した。

「上だ!」

 レオンが雷鳴のような声で叫んだ。

 三人は咄嗟にその場を避けた。直後、彼らが立っていた場所に、透明で毒々しい液体が降り注ぎ、着弾した草木はジリジリと音を立てながら溶けていった。

「こいつか……!」

 カレルが低く唸った。

 巨大な食人花のようなモンスターが、口をバクバクさせ、無数の触手をうならせながら、頭上の木々を割って降下してきた。その体躯は、街道で討伐したモンスターたちの比ではない。

「触手が厄介だ。時間をかけずに仕留めるぞ」

 レオンが冷静に指示を出した。
 リノも剣に力を込め、巨大な花に近づこうと、二人に続いて触手を切り刻み始めた。

「っく!触手が多すぎる!」

 カレルが鬱陶しそうに触手を斬り払いながら叫んだ。

「一旦退くぞ!」

 レオンが声を張り上げた。
 リノも後退しよう身を引いたその時だった。数十本の触手が一斉に、カレルの左脚に巻き付いた。
 
「なっ……!」

 触手に巻かれたカレルの身体が宙に浮く。
 
「カレル!」

 リノは叫んだ。

 次の瞬間、ものすごい速さでレオンがカレルに巻き付いていた触手を切り刻んだ。鋼鉄を断つような音と共に触手が地面に落ち、カレルの体が落下する寸前で、レオンがその体をキャッチした。

「サンキュー、相棒」

 カレルがレオンの顔を見てにやりと笑った。
 
「油断するな」

 レオンは呆れたような顔をしてカレルをそっと地面におろした。

 「カレル、大丈夫!?」
 
 リノがカレルに駆け寄った。
 
「はは!ま、こーいうこともあるわな!」

 カレルは両手を腰に当てて、快活に笑った。
 
「ちょっと物理じゃ難しそうだなぁ」

 カレルは顎に手を当てながら考え込んだ。

「アレ、使うか!」

 カレルはレオンに提案した。

「まだ残量はあるのか?」

 レオンはカレルに確認した。

「また無くなったら補充してもらいに行けばいいさ。いつでもおいでって言われてるんだから」

 リノは二人の話が飲み込めなかった。
 カレルは服の袖をまくり、左腕にはめられたブレスレットを表に出した。

 (これ……!)
 
 リノは目を見張った。
 
 カレルがブレスレットに軽く触れると、ブレスレットが眩い光を放ち始めた。その光が、巨大な食人花に集約される。その瞬間、巨大な食人花が、まるで内側から爆発したかのように、紅蓮の炎に包まれて燃え上がった。巨大な花は、苦しげに大きくうめき声を上げる。無数の触手の動きがピタリと止まった。

 レオンもまた、自身の右腕にはめられたブレスレットに軽く触れた。すると、レオンの刀身に、青白い炎が宿った。レオンは青い炎をまとった刀を、巨大な花をめがけて渾身の力で振り下ろした。巨大な花は断末魔と共に炎に焼かれ、一瞬で黒い炭となって地面に崩れ落ちた。

「ふぅ……」

 カレルが汗を拭う仕草をした。

 リノは二人の凄まじい連携プレーに圧倒された。それよりも、彼らが使った力に驚きを隠せない。

「いまのって……」

 リノが聞いた。

「ん?ああ、これ?魔動器ってやつさ」

 カレルは得意げに、レオンと共にブレスレットをリノに見せた。

「カレルもレオンも……天界人じゃないよね?」

 確認するようにリノは尋ねた。

「天界人?あー、そうね。確かにこの魔力は、天界人じゃないと注入できないからね」

 リノの拙い言葉を理解し、カレルは答えた。
 
「これはもらいものだ」

 レオンが続けた。
 
「そそ!偉い先生がくれたんだ。もしかしたらお前も先生に会ったらもらえるかもよ!」

 カレルが笑った。
 リノは自分の服をまさぐり、首元から形見であるネックレスを取り出した。

「あ、あのね!これ……使い方分かる?」

 リノは二人に、ドロテオから母の形見だと言われたペンダントを見せた。

「なんだ、お前も魔動器持ってんじゃん」

 カレルが言った。

「でも、使い方が分からなくて……」

 リノは困っているように言った。

「ふむ……見たところ、どの魔法系統とも見てとれないが……」

 レオンが分析するように、ペンダントを覗き込んだ。

「見ただけで何の魔法か分かるの?」

 リノが尋ねた。

「大体は、攻撃、防御、治癒術……って決まってるもんだけどな。でもこれは……なんだろうな」

 カレルは、皆目見当もつかないという様子だった。

「先生に見せたら分かるかもしれん」

 レオンが言った。

「そうだな!リノも先生に会いに行こうぜ!」

 カレルが屈託のない笑顔で言った。

「う、うん!」

 リノは希望に満ちた返事をした。

 もしかしたら、このネックレスの秘密が分かるかもしれない。リノは、自分に秘められた力を引き出してくれるかもしれない、その「先生」とやらにたまらなく会いたくなった。

 三人は街道に戻り、行商人の元へ報告に戻った。街道のモンスターを討伐したこと、そして森の奥の親玉を倒し、根本的な問題を解決したことを説明した。

「なんと、親玉まで……!」

 行商人は驚きを隠せない様子だった。
 
「ギルドセンターには依頼分の報酬しか預けていません。ですが、親玉を倒してくださったのなら、これはお礼です。割引価格で提供させていただきます~どうもごひいきに」

 行商人はそう言って、リノに低価格でいくつかの道具を売ってくれた。
 ギルドセンターに戻り、完了サイン済みの依頼書をカウンターに提出し、報酬を受け取った。

「どうだ?小金持ちになったか?」

 カレルがにやにやしながら言った。

「うん、それなりに」

 リノは答えた。とはいえ、宿代、武器、道具など、ありとあらゆるものをカレルやレオンに用意してもらった手前、素直に喜ぶ気にはなれなかった。

(いつか、二人に恩返ししたい……もっともっと頑張らないと……)

 リノは、自分の握りこぶしを見つめて決意を新たにした。魔動器の存在を知り、自分にも秘められた力を出せるかもしれないと知った今、彼らと肩を並べられるようになるという目標が、さらに鮮明になった。

第六章 試練(しれん)

 ヴィダルがたどり着いたのは、無機質な白い空間だった。床からそびえる建造物まで、視界に入る全てが白一色に染まっていた。左右には居住区らしき区画が広がっているが、直線的な設計の建物とは異なり、まるで氷の結晶のように不規則に折り重なり、重力を無視しているかのようだった。正面には、煌めく噴水が規則的に並ぶ憩いの場が続き、その視線の先には巨大な白亜のビルがそびえ立っている。おそらくあれが、天界の特務機関なのだろう。

 ヴィダルは噴水の脇にあるベンチに腰を下ろした。

(さて……どうするか……)

 彼は静かに目を閉じ、リノと別れてからのこの一ヶ月の出来事を、頭の中で静かに反芻した。

 *

 一ヶ月前。
 
 セザールでリノが行方不明になった後、ヴィダルは迷わず、一人で天界へ向かうと決めた。

 あの騒動の後、エミールが手配してくれた王都行きの列車に乗り、レネも含めて三人は王都へと向かっていた。だが、列車の中では、三人は一言も言葉を交わさなかった。レネはひどく泣き腫らした顔で、窓の外をぼんやりと見つめていた。

 王都に着き、ヴィダルはエミールとレネに別れを告げた。ヴィダルは列車手配の分の料金をエミールに渡そうとしたが、エミールはそれを受け取ることを拒否した。

「俺からの餞別ってことで。お前の行く末に幸多からんことを」

 エミールは、いつもの調子で軽やかに言った。

 ヴィダルはエミールに礼を言い料金を懐にしまった。レネの方を見たが、彼女は無言のまま俯いている。
 ヴィダルが天界の入り口方面を向こうと踵を返した、その時だった。

「ヴィダル」

 エミールが呼び止めた。ヴィダルが振り向くと、エミールは彼に近づいてきた。

「これを」

 エミールがヴィダルに一通の手紙を差し出した。
 
「偶然会ったのも何かのよしみだ。何か困ったことがあったら俺を頼ってくれ」
「……」

 ヴィダルは無言で差し出された手紙をじっと見ていた。

「俺は、お前が心配なんだよ」

 エミールは続けた。ヴィダルは手紙へ向けた視線を、エミールに移した。エミールは真剣な目をヴィダルに向けていた。それはヴィダルを一人の対等な人間として見ている、優しさの混じった視線だった。

(こいつはこいつで《孤独》と戦ってるんだよな……)

 エミールは、どこか昔の自分と似たヴィダルの姿に、そう思った。

 ヴィダルは差し出された手紙を受け取った。
 
「あんた、おせっかいなんだな」

 そう言い残し、踵を返し、再び天界方面へ歩き出した。

「はあ~……お前、素直に『ありがとう』も言えねえのかよ」

 エミールは呆れたようにヴィダルの背中に向けて言った。それを聞いたヴィダルは、ぴたりと立ち止まり、顔だけエミールの方を向いた。その顔は優しく、フッと笑い、そしてまた天界方面へ歩き出した。

 エミールはヴィダルの姿が小さくなるまで見つめていた。彼には、リノとヴィダルがお互いに意地を張って、心を拗らせているのが分かっていた。

(こいつらはお互いに一旦距離を置いた方がいいな……それが双方のためでもある)

 エミールはレネの元に戻った。相変わらず泣き腫らした顔で俯いている。エミールは軽くため息をついた。

(やれやれ。一応、少年の居場所も探しておくか……)

 レネの肩を優しく抱き、二人は王都の市街地へと歩き出した。

 *

 ヴィダルが天界の入り口で、かつて目にしたチラシの内容を告げると、とある場所へ行くよう促された。その場所は、第三の都市「サルバドル」。セザールのような商業都市とは違い、決闘や乱闘といった力自慢の者たちが集まる野蛮な都市だった。ヴィダルがサルバドルに着くと、都市で一番目立つ円形の建物に、おびただしい数の人だかりができていた。その円形の建物では、巨大なモンスターと人が戦い、人間の戦闘力が試されていた。

(まさか……難関試験というのはこのことなのか?)

 ヴィダルは天界人には高貴なイメージを持っていたが、彼らも野蛮なことを好むのかと、内心で驚きと失望を感じた。

 すると、一人の若い男が近づいてきた。

「あんたも試練に参加するのか?」

 その男は元気よくヴィダルに聞いてきた。
 
「ああ」

 ヴィダルはそっけなく答えた。
 
「まさか、こんなに参加者がいるとは思わなかったって感じだな!」

 どうやらこの男は、勝手に人の気持ちを代弁するのが好きらしい。

「実は、この試練、仲間を募って参加しても良いらしいぜ!」

 なるほど、一人では無理だと分かって、チーム戦で勝ち上がり、美味しいところを狙おうというわけか。

「残念だが俺は誰とも組む気はない」

 ヴィダルはその男を突っぱね、その場を立ち去った。後方で男の憤慨した声が聞こえた。

「くだらない……」

 ヴィダルはつぶやいた。

 ここに居る連中は、己の私利私欲のために天界を目指しているのが見てとれた。

(なにもかも……くだらない……)

 自分は使命のために天界を目指している。彼らとは違う。

(まずは、オスカーという男に会わなければ……)

 ヴィダルは決闘の受付を済ませた。多くの参加者がモンスターと戦った。リタイアするものもいれば、負傷者もいた。巨大なモンスターのため、精鋭ですら倒せる者がいない。やがて、ヴィダルの番が回ってきた。

 ヴィダルは巨大なモンスターを目の前にしても動じることはなかった。走り出した瞬間、彼は双剣を抜き放ち、巨大なモンスターの迫りくる攻撃をまるで踊るようにかわしながら、体を回転させてモンスターの首筋を一閃した。巨大なモンスターは、そのまま地響きを立てて倒れた。観客席からは一斉に歓声が沸き上がった。

(これが……難関試練だと……?くだらない……)

 ヴィダルは無言で決闘場を出た。

 *

 そうして、ようやく天界までたどり着いたものの、オスカーの所在はいまだつかめなかった。

 ヴィダルは懐から一枚の写真を出した。写真には、ドロテオ、リノ、そして自分の三人が映っていた。ドロテオが亡くなる数か月前に、村に訪れた写真家に記念に撮ってもらったものだ。手紙とこの写真を、オスカーに渡すつもりでいた。

 ヴィダルは写真のリノの顔をじっと見つめた。

 何もできない、ただひたすら誰かの後をついていくしかできなかった少年が、自らの意思で自分の元を去るとは、予想外だった。

(もう……使命なんて……必要ないのかもな……)

 ドロテオもヴィダルも、誰のためだかわからない使命を背負って生き続けていた。

(なんの意味があるというんだ……)

 両親がこちら見て笑っている記憶が蘇る。

(俺は……自由になりたい……)

 写真を持つ手に、自然と力が入った。

「ヴィダル?何しているの?」

 長い黒髪を綺麗に切り揃えた美しい女性が、ヴィダルに優しく話しかけてきた。

「ミリア……」

 ヴィダルは女性を見上げた。天界に来てから何かと天界のあれこれを教えてくれたのがミリアだ。

「思い出の写真?ヴィダルの隣にいるのは誰?おじいさんと……弟くん?」ミリアは尋ねた。

 ヴィダルはその問いに答えなかった。

「ミリアー、何してるのー?」

 ネイビー色の髪を綺麗にツインテールに分けた女性が、遠くから明るい声で話しかけてきた。彼女の隣には、赤毛のくせっけでやや釣り目の青年も一緒に、こちらに向かって歩いてきた。

「ビアンカ、スヴェン」

 ミリアはこちらに向かってくる二人に言った。

「ヴィダルが元気なさそうだったから、話しかけてみたの」

 ミリアが説明した。

「何を見てるんだ?」

 スヴェンがヴィダルに話しかけた。
 
「写真?」

 スヴェンの横からビアンカが覗き込んだ。

「生き別れの兄弟かなんかか?」

 スヴェンが尋ねた。
 
「そんなんじゃない……けど、行方不明なのは確かだ」

 ヴィダルは答えた。

 ミリアは気の毒そうな顔をした。

「私で良ければ力になるわ……」

 ミリアは言った。

「いや、いいんだ。多分もう見つからないと思う」

 ヴィダルはそう言った。見つからないというよりは、見つかって欲しくないとさえ、彼は心の奥底で思っていた。
 ビアンカとスヴェンは顔を合わせて、肩をすくめた。

 すると、そこに数人の足音が近づいてきた。皆、真っ白な軍服を着て、こちらに近づいてくる。先頭に居た薄紫色の短い髪をオールバックに整え、眼鏡をかけた人物が、座っているヴィダルを見下ろしながら話しかけてきた。

「君が、ヴィダルか?少し話がある」

 ヴィダルは座ったまま、その人物を見上げた。その人物は笑顔一つ見せず、左手の親指と中指で眼鏡の位置を直した。

「ついてこい」

 そう言って、後ろに控えていた数人と共に踵を返した。ヴィダルはめんどくさそうに溜息をつき、彼らについていった。
 その時、ヴィダルの手元から先ほどの写真が、ひらりと地面に落ちた。ヴィダルはそれに気づかぬまま行ってしまった。

 落ちた写真をスヴェンが拾い上げる。

「行方不明ね。見た感じ天界人……じゃぁなさそうに見えるが?」

 写真を見ながらスヴェンが言った。

「どのあたりでいなくなったのかしらね?」

 ビアンカが写真を覗き込みながら言う。

「確か、ヴィダル、セザールから来たって言ってたわ……」

 ミリアが思い出すように言った。

「セザールか……色んな都市や町にあちこち繋がっているから、どこにでも行けるだろうな……」

 スヴェンが顎に手を当てて考えた。

「何か少しでも手がかりがあれば良いのだけれど……」

 ミリアは不安そうに言った。

「セザールから少し離れたところにギルド街がある。各地の傭兵たちが一気に集結する場所だ。そこで依頼を出せば、あるいは……」

 スヴェンが閃いたように提案した。

「ギルド街に行くの?」

 ビアンカが楽しそうに言った。

「私、ヴィダルの傍に居るわ……」

 ミリアが力なく言った。

「俺とビアンカでギルドに捜索依頼を出してくるよ。元気を出せ、ミリア」

 スヴェンが力強く言った。

「ありがとう」

 元気な二人を見て、ミリアは少し安心した。

 ヴィダルは、真っ白な軍服を着た男たちに連れられ、特務機関の入り口へと導かれた。入り口から中に入ると、外の無機質な世界とは一転、天井が高く広々としたロビーが広がっていた。彼らはロビーを通り抜け、奥にある小さな打ち合わせ室に通された。後ろについていた数人の天界人は、オールバックの男に一礼すると、音もなく去っていった。

「まぁ座りたまえ。私は、パトリックだ。よろしくな」

 パトリックは、立ったまま横柄な態度で言った。ヴィダルは促された椅子に座った。

「エミールから、君のことをよろしく頼むと言われてな」

 パトリックは続けた。

「あんた、エミールの知り合いなのか?」

 ヴィダルは不躾な口調で尋ねた。

「君は……年長者に対して礼儀がないようだな」

 パトリックは眼鏡の奥のからヴィダルを睨んだ。

「あいにく、そういったものは持ち合わせていなくてな」

 ヴィダルは淡々と答えた。
 パトリックの眉がぴくぴくと動き、一瞬、苛立ちを隠せない表情を見せた。

「ふん……まあいい。あの男の知り合いなら、知り合いもさぞかし無礼な人間だろう」パトリックは鼻を鳴らした。

 彼はようやく椅子を引き、テーブルの向かいに腰を下ろした。

「それより、決闘場では巨大なモンスターを一撃で仕留めたとか?」

 パトリックが探るように聞いた。

「あれを難関試練と豪語しているのには驚いた」

 ヴィダルは率直な感想を言った。嘲りを含んだその言葉に、パトリックの顔は一層険しくなる。

「君の無礼は多少目をつぶろう。その優秀な戦力に応じて、少し我々の頼みを聞いてほしいのだが」
「頼み?」

 ヴィダルは訝しんだ。

「そうだ、まあごくごく簡単な『お使い』だ」パトリックは言った。
「お使いなら誰でもできるだろう」
「それが、それなりに戦闘力が必要なのでな……」
「もどかしいな。ハッキリ用件を言ったらどうだ?」

 ヴィダルは苛立ちを露わにした。

「君が受けてくれるなら、話そう」

 パトリックは、なおも優位に立とうと、駆け引きを続けた。
 ヴィダルは唇を噛んだ。このつまらないやり取りに、ヴィダルは心の底から苛立った。

(なんなんだ、こいつは……)

 ヴィダルは深くため息をついた。

「良いだろう。他に何か目的もないしな」

 ヴィダルはどうにでもなれと言った感じで答えた。

「代わりと言ったらなんだが、俺の質問にも答えてくれ」

 今度はヴィダルが威圧的な態度で、一気に主導権を奪い返した。

「なんだね?」

 パトリックは険しい顔でヴィダルを見た。

「オスカー・クレマンという男を知っているか?」ヴィダルが聞いた。

 この質問に、パトリックの表情は完全に凍り付いた。

「何故君がオスカーの名前を……?」

 パトリックはますます顔が険しくなった。
 ヴィダルは鋭い眼光でパトリックを見つめている。
 暫くの重い沈黙が二人の間に流れた。
 やがて、パトリックはゆっくりと口を開いた。彼の声は、それまでの横柄な調子を消し去り、重々しく響いた。

「残念だが、オスカーは死んだよ」

 *

 ギルド街は、静かに冬の装いへと近づいていた。暖かい時期には活発だったモンスターの行動も、動物たちと同じように冬は息を潜める傾向にあるらしい。ギルドセンターの掲示板も、高難度の討伐依頼は姿を消し、代わりに探し物やちょっとした手伝いといった依頼書がまばらに貼られているだけになった。活気づいたギルド街も、この時期ばかりは静まり返り、活気の拠点は酒場へと移った。酒場には、ここを拠点にしている顔なじみの冒険者たちばかりが集まり、薄暗い照明の下、今日も大男たちがテーブルを囲んで酒瓶を片手に、肩を組んで陽気に歌っていた。

 その賑やかな空気を引き裂くように、酒場の木製ドアが勢いよく開き、冷たい外気が一気に流れ込んだ。

 二人の男女が立っていた。彼らは、このギルド街では見かけない、白と緑を基調とした制服姿で、胸に着いた銀色のバッジが、酒場の薄明かりを反射してキラリと光った。テーブルで飲んだくれていた男たちは、一斉に歌うのを止め、その二人組に視線を集中させた。

「なんだぁ?お前ら?」

 酔っているのか、赤ら顔の大男が不機嫌そうに、二人組にいちゃもんを付けてきた。

「ここらじゃ見ねぇなりだな?新ギルドか?」別の男が聞いた。
「俺たちはギルドではない」

 答えたのは、赤毛でくせっ毛の、やや釣り目の青年だった。その声には、この場の騒がしさを一切気にしない、淡々とした冷たさが含まれていた。

「なんなの、このおじさんたち」

 隣にいたネイビー色のツインテールの女性が、赤毛の青年だけに聞こえるように小さく言った。

「おいおい、女連れたぁ良いねぇ!俺も仲間に居れてくれよ!」

 興奮した大男が、勢いよく赤毛の青年に向けて、重い拳を振り上げた。赤毛の青年は身じろぎ一つせず、その拳を、まるで飛んできた小石でも受け止めるように、いとも簡単に掌で受け止めた。そして、肘を少し上げるだけの動作で、その巨体を宙に浮かせ、そのまま床に叩きつけた。

 轟音と共に木製の床がえぐれ、破片が飛び散る。テーブルの上の酒瓶が倒れ、騒ぎを聞きつけた酒場の店主が、驚いて急いでカウンターから赤毛の青年の元に駆け寄った。

「こ、こ、困りますお客様~!他のお客様もいらっしゃいますので……」

 店主は恐る恐る注意したが、声は震えていた。
 赤毛の青年は店主を一瞥した後、テーブルで驚愕し、動けなくなっている他の大男たちを見た。

「我々は争いごとをしに来たのではない」

 赤毛の青年は淡々と答えた。その圧倒的な力量を見せつけられた後では、誰も反論できなかった。ネイビー色のツインテールの女性も無言で頷いた。店主はおずおずとカウンターへ戻り、手が震えながらワイングラスを拭きだした。赤毛の青年は、テーブル席で動けなくなっている大男たちの元へ闊歩し、一枚の写真を見せて聞いた。

「この少年を見たことないか?」
「い、いや……ないねぇ……」

 テーブルに座っていた男たちは、恐怖で目を見開いて首を横に振った。

「ふん……」

 手掛かりなしかと言った感じで赤毛の青年は向き直り、カウンターの隅で静かにウィスキーを傾けていた一人の青年に歩み寄った。

「失礼、この少年に心当たりはあるか?」

 赤毛の青年はカウンターに写真を置き、指で示した。先ほどの騒ぎにも一切動じなかったカウンターの青年は、姿勢を変えずに目線を写真にちらりと向けただけだった。

「さあ、知らないね」

 カウンターの青年はそう言い、目線をグラスに戻し、ウィスキーを一口飲んだ。

「やっぱりギルドセンターに依頼かなぁ?」

 ネイビー色のポニーテールの女性が尋ねた。

「あぁ、その方が手っ取り早そうだ」

 赤毛の青年は頷き、二人は酒場を出て行った。
 静寂が戻った酒場では、テーブルにいた大男たちが、赤毛の青年に打ちのめされた仲間を抱えて長椅子に寝かせ、介抱し始めた。

「なんなんだあいつらは……」

 他の客が震える声で言った。

「ありゃ、天界の特務機関のやつだぜ。あの制服にあのバッジは間違いない。なんでこんなところに……」

 別の客が耳打ちする。

「なんか重要な任務でもあるのかね」

 また別の客が言った。
 カウンターの青年は、グラスの酒をぐびっと飲み干した。

「マスター、ご馳走さん」

 カウンターの青年はそういって、カウンターに置いてあった青い縁のサングラスを頭の上に乗せた。その青年は、横の席の背もたれにかけていた上着を担ぐと、小さく笑って、二階の自室に戻っていった。

 *

 リノは夢を見ていた。

 それは、ヴィダルに崖から突き落とされる、底冷えのする悪夢だった。ヴィダルの顔は冷酷そのもので、リノに向かって「お前は家族じゃない」と吐き捨てた。その言葉とともに、彼は容赦なくリノを暗い闇の中へ突き放した。リノは、落下しながら必死でもがき、誰かに助けを求めようとした。しかし、喉は締まり、声が出ない。足掻き苦しむ中、遥か上に一筋の光が見えた。それは唯一の希望のように輝き、リノはそれを掴もうと手を伸ばした。

 そして――。

「おはよう、リノ」

 人の気配を感じ、リノは重い瞼をそっと開けた。ベッドわきの椅子に座り、ベッドに頬杖をついて笑顔を向けているカレルがいた。リノの顔を覗き込むその姿に、夢の残滓は急速に薄れていく。

「あ……え?カレル……?」

 リノはまどろみからぼんやりと状況を確認しようとした。まさか寝坊したのかと思い、窓の外を見るが、外はまだ深い闇に包まれていた。

「朝……?」

 リノは今何時なのかという確認も含めてカレルを見た。

「夜明け前だ。出発するぞ」

 カレルはそう言い、リノが寝ているベッドをポンポンと軽くたたくと、迷いなく部屋を出て行った。リノは急いで飛び起き、夢の嫌な感覚を振り払うように身支度をした。支度を終えて宿を出ると、路地の影に馬車とレオンの姿があった。夜明け前とあって外は冷え込み、レオンはコートを着ていた。

「レオン、おはよう」

 リノは駆け寄った。

「お前、風邪ひくぞ。これを着ろ」

 レオンは淡々とした口調ながら、持っていた薄手のコートをリノに羽織らせた。

「ありがとう」

 リノはほっこりと暖かくなった。

「こんな早くに出発するの?」

 リノは大きなあくびを噛み殺しながらレオンに聞いた。

「あぁ」

 レオンはそれだけを淡泊に答えた。

「お待たせ!さ、行くぞ!」

 カレルが駆け寄ってきた。彼は袋に詰めた温かいパンと牛乳をリノに手渡した。

「朝メシ!」

 カレルは弾む声でそう言い、先に馬車に乗り込んだ。レオンとリノも馬車に乗り込むと、御者の合図で車輪がきしむ音を立て、馬車は静かに動き出した。

「ふぅ~焼きたてのパンはあったかくてうまいなぁ」

 カレルがパンを頬張りながら言った。

「こんな朝早く出発するなら、昨日言ってくれたらよかったのに……」

 リノは不満げに言った。ヴィダルの時も、いつも行先や計画を何も教えてくれなかったことを思い出して、リノは少し暗くなった。
 すかさずレオンがリノの心境を察したように言った。

「気にするな、また単に思いつきだ。振り回されるこっちの身になって欲しいものだな」

 いつものことだとレオンが呆れるように言うと、カレルは笑いながら答えた。
 
「悪いな!ちょっと気が変わったんだよ」
「それで、これからどこへ行くの?」

 リノがパンに噛りつきながらカレルに聞いた。

「先生のところさ。前に言ったろ?」

 カレルの答えに、リノは「先生……」と呟いた。それは以前、街道に出没したモンスター討伐の時に、カレルとレオンに魔動器を与えたという人物の話だ。

「早めに先生に会っておいた方がいいと思ってな」

 そう言いながらカレルが馬車の窓の外を見た。その横顔は、どことなく急いでいるようにも見えた。何かに追われているような、あるいは、何かを急いで確認したいような、切迫した雰囲気が漂っていた。

 リノは、服の上からペンダントをぎゅっと握った。

(先生ってどんな人なんだろう……)

 期待と不安を胸に、馬車はカタカタと音を立てて、まだ静かな街道を進んでいった。

第七章 再会(さいかい)

 馬車を降りた三人は、峠のふもとで立ち止まった。

「ここからは徒歩だな」カレルが言った。

 この険しい峠を越え、さらに吊り橋を渡り、向かいの峠を下った先に、先生の居住地があるという。

「しばらく遠足気分にはなるが、我慢してくれよ」

 カレルは笑いながらリノの肩を叩いた。

 峠道は確かにきつい道のりではあったが、心なしかリノの心持ちは晴れやかだった。セザールから逃亡して以降、緊張が解けたのか、以前悩まされていた胃痛は自然と治まっていた。一つ目の峠を登り切ったところで、三人は休憩を取ることにした。そこには丸太で作られた長椅子があり、カレルとレオンはそこに腰を下ろした。

「わぁ……だいぶ登ってきたんだね」

 リノは岸壁際まで行き、眼下に広がる景色を見下ろした。嬉しそうに声を上げる。

「なんだよ、遠足も初めてか?」

 カレルが笑った。

「うん……」

 リノはカレルを見ながら頷き、再び景色を眺めた。
 世界は広い。この峠から見る見渡す限りの景色の美しさに、思わずため息が出た。早朝の朝日が差し込み、大地全体が輝いているように見えた。

(もし、ヴィダルと一緒だったら、この景色は見られなかったかもしれない……)

 リノは、この自由で、息をのむような風景を脳裏に焼き付けようとじっくりと見つめた。
 カレルは、そんなリノの様子を横目で眺めながら、不意に険しい顔になった。

「昨晩、何があった?」

 レオンが静かに尋ねた。カレルの表情の変化に気づいたのだろう。

「リノを探している連中がいる」

 カレルは静かに答えた。

「なんだと?あいつお尋ね者だったのか?」

 レオンはリノの背中を見ながら眉をひそめた。

「さぁな……」カレルは否定した。

 カレルはリノの小さな背中を心配そうに見やった。

「リノを探しているのは、天界の特務機関って奴らしい」

 カレルは組んだ手の上に顎を載せ、重い口調で続けた。

「それは……」

 レオンは顔をしかめた。

「ねぇ?そろそろ出発する?」

 いつの間にかリノが二人の前に立っていた。

「あ……ああ!そうだな!」

 カレルは慌てていつもの笑顔を作り、リノに答えた。
 三人は、今にも壊れそうな吊り橋を慎重に渡り、向かいの峠にたどり着いた。

「さ、こっからは下り坂さ」

 カレルがリノに説明した。
 向かいの峠も淡々と下りきると、街道の分かれ道に出た。道なりに沿って行く上り坂の方面には、巨大な軍事要塞のようなものが遠くに見えた。

「あれ……なんだろう?」

 リノが尋ねた。

「王国”シュヴァルツブルク”だ」カレルが言った。

 王国にしては全てが黒く、禍々しい威圧感を放っていた。外壁から城の外装まで黒く塗られ、まるで闇を纏っているかのようだ。

「目的地はそっちではないがな」

 レオンが言った。

「先生の家はこっちさ」

 街道から続く細い脇道、というよりも普通の人には気づかないような獣道をカレルは指差した。三人はその道を進んだ。獣道は上がったり下ったりして、人が通りたがらないような荒れた道だった。

「ほ、本当にこんなところに人が住んでいるの?」

 リノは信じられないという顔で言った。

「おいおい、先生に失礼だろ~」

 カレルは笑いながら言った。
 しばらく獣道を進んでいくと、ちょうど崖っぷちのあたりに、簡素ながら手入れの行き届いた一軒家が見えた。

「先生!」

 カレルは家の扉を叩いた。しかし、反応はない。

「あれ?いないのかなぁ?」

 カレルが腕を組みながら首を傾げた。

「また薬草でも取りに行っているんじゃないか?」

 レオンが冷静に言った。

 リノは一軒家の横にある小さな畑を見た。そこには自給自足用の野菜が植えられており、小さな温室もあった。温室の中ではハーブが種類ごとに綺麗に管理されている。

(一人で暮らしているのかな……)

 畑の様子からは、孤高だが充実した生活を楽しんでいる様子が窺えた。

「おや、あなたたちいたのですか」

 突然、柔らかな声が背後からした。薄紫色の長い綺麗な髪が、日の光を受けて艶やかに光った。その風貌から察するに、この人物も天海人なのだろう。その天界人は、両手いっぱいに薬草を抱え、三人の前に現れた。

「先生!」

 カレルは駆け寄った。

「急用でさ、会ってほしい奴が居て……」
「たったいま戻ったばかりで急かされては困ります」

 天界人は呆れつつも優しい口調で言った。

「おーい、リノ!」

 カレルは叫びながら、畑の脇にいたリノを呼んだ。リノは二人に駆け寄った。天界人はリノの方に目をやった瞬間、目を見開いた。手から力が抜け、両手いっぱいに抱えていた薬草が、はらりと地面に落ちた。リノは自己紹介をした。

「リノです。よろしくお願いします」

 笑顔で挨拶をした瞬間、天界人は信じられないという顔でリノに駆け寄った。

「エリオット……!生きていたのですね!」

 そう言いながら、天界人はリノを強く抱きしめた。

 *
 
 天界人は一軒家の中に三人を招き入れ、リビングのテーブル席に座らせた。彼は落ち着きを取り戻したように、それぞれのティーカップに淹れたてのハーブティーを注ぎ、三人の前に置いた。

「先ほどは失礼しました。私はオスカーと言います」

 オスカーはリノに優しく自己紹介した。

「あ……どうも」

 リノは上目遣いで頭を下げた。抱きしめられた動揺と、自分が「エリオット」と呼ばれたことへの困惑が消えない。

「まずは貴方たちの話から聞きましょう」

 オスカーはカレルとレオンに向き直った。

「結局探し物は見つかったのですか?」

「いや、それが行き詰っちゃって」

 カレルが笑いながら言った。

「しばらくギルド街でうろうろしていた」

 レオンが現状を補足した。

「そうですか……」

 オスカーは残念そうに言った。

「それで……」

 オスカーはちらりとリノに目をやった。不意を突かれ、リノは思わず姿勢を正した。

 「ちょうどギルド街周辺で探索している時に、モンスターに襲われているところを助けたんだ」

 レオンが言った。

「まぁそうだったのですか……」

 オスカーは不憫そうな目でリノを見た。

「エリオット……いえ、リノ……でしたね。あなたは、ずっと一人だったのですか?」

 オスカーが聞いた。

「あ……」

 リノはどう答えるべきか迷った。カレルもレオンもリノを注視している。ドロテオとヴィダルとのこれまでの生活を説明すべきか、それとも黙っておくべきか。

「あの、俺……」

 全然言葉が出てこない。リノは言葉に詰まった。

「ところで先生、その《エリオット》ってなんなの?」

 カレルが間を持たせるように尋ねた。

「それは……」

 今度はオスカーが言葉を詰まらせた。

「公にできない事情でもあるのか?」

 レオンが鋭く聞いた。
 その時、家の戸を叩く音が響いた。

「オスカー様、お迎えに上がりました」

 扉の向こう側から、若く、少し固い女性の声が聞こえた。
 オスカーは立ち上がり扉を開けた。

「あぁ、マヤ。いつもありがとう。これから支度しますね」

 オスカーはマヤを部屋に招き入れた。

「来客中でしたか。では、私は外で待機します」

 そう淡泊に言って、女性はそのまま外に引き返そうとした。

「いえ、中で待っていてください」

 オスカーは言った。

「はあ」

 マヤは、私が居ても良いのかしらという感じで言われるがままに部屋に入った。
 リノはマヤを見てびっくりした。

(あれ……なんだか……ヴィダルに雰囲気が似ている……)

 その女性はアッシュグレーの髪を両サイドに三つ編みにし、残りの毛を後ろに束ねている。赤い瞳。腰に双剣を携えたその風貌は、ヴィダルと似た、近寄りがたい異質な空気を放っていた。リノの視線を感じたマヤは、リノに視線を移した。目があったリノは、思わず目をそらしてしまった。

(あんまりじろじろ見たら悪いよね……)

 リノは内心で反省した。

「さぁ、行きますよ」

 オスカーが促すように大きな声で言った。

「ん?」

 カレルが自分も含まれているのかと確認するような顔でオスカーを見た。

「皆さん、私と一緒にシュヴァルツブルクに来てください」

 オスカーは、異論は認めないという、穏やかながら有無を言わせぬ強い口調で告げた。

 *

 一行はマヤを先頭に、シュヴァルツブルクを目指した。オスカーの家から続く道は、峠からの獣道とは異なり、絶壁に沿ってわずかに切り開かれた細い道だった。

「リノ、足を滑らせて落ちないようにしてくださいね」

 オスカーが穏やかに声をかけた。

「う、うん……」

 リノは高所恐怖症ではないものの、流石に柵も何もない崖っぷちの細道は息をのむ。足元ばかり見つめていたが、カレルやレオンがいることで、心なしか心はワクワクしていた。孤独でいた時間が長かったリノにとって、大人数で移動しているという状況が少し嬉しかった。絶壁を抜け、鬱蒼とした雑木林を抜けると、ようやく整備された街道に出た。

 マヤがそこで初めて振り向き、全員を確認した。

「最近、この辺りの街道もモンスターが頻出しています。警戒してください」
「じゃあ俺たちが殿だな」

 カレルがレオンに目配せをした。一行はマヤを先頭に、リノとオスカーを真ん中に挟むようにして移動した。だいぶ長い道のりを歩き、黒く塗られた巨大なシュヴァルツブルクの城門までたどり着いた。

「こちらで少々お待ちください」

 マヤはそう言い残し、城門に立つ衛兵に駆け寄り、低い声で話をした。

「少し疲れましたね……」

 オスカーが言った。

「先生、少しは運動した方がいいぜ」

 カレルが朗らかに言った。

「これでも天気の良い日は薬草を取りにいってるのですがね……」

 オスカーは反論した。

「それはほぼ自分の庭のようなものではないのか」

 レオンが皮肉めいた口調でツッコミを入れた。

「ふふっ……」

 そんな三人の和やかなやりとりを見て、リノは思わず笑った。オスカーはリノの肩にそっと手を置き、優しい眼差しでリノを見た。リノもオスカーを見つめ返した。オスカーに抱きしめられた時、感じた懐かしさと、呼ばれた名前の謎が心の中にくすぶっていたが、その優しい目を見て、今は不安が和らいだ。

「お待たせしました、こちらへ来てください」

 マヤが戻ってくると同時に、重々しい音を立てて城門が開いた。一行は中に入る。

「モンスターが頻出していることもあり、こちらの城門は普段開門していないのです」

 マヤが説明した。

「マヤ!」

 そこへ一人の青年が慌てて走ってきた。

「兄さん」

 マヤが青年に向かって言った。

「大臣が待ちくたびれちまってさ。オスカー、すまないが急ぎ……」

 青年はそう言いかけて、カレルたち一行がいることに気づいた。

「おっと、他にもお客さんか」

 青年が慌てたように言った。

「マテオ、取り急ぎ王に会いたいのです、取次願いますか?」

 オスカーの顔は急を要するといった様子だった。察知したマテオは「分かった、一旦応接室へ向かってくれ」と言った。

「では、先に」

 オスカーは手に持っていた布袋をマテオに渡した。

「じゃあこれは大臣に渡しておくぜ。マヤ、みんなを応接室に案内してくれ」

 マテオは言った。

「分かった」マヤは頷き、「こちらへ」と一行を促した。
 マテオは布袋を持って走り去った。

「重要な取引かよ、先生」

 カレルが頭の後ろで手を組みながらにやにやと言った。

「いえ、あれは私が作った特製のハーブティーです」

 オスカーは笑った。

 「ご期待に沿えず申し訳ありませんね」
 「ハーブティーごときで隠居人を城まで呼びつけるのか?」

 レオンが呆れたように言った。

「大臣なりに私に気を使っているのですよ。話し相手が欲しいだろうと思ってね」

 オスカーが柔らかく笑った。
 リノは三人の会話を聞きながら、辺りを見渡した。今まで訪れたどの町や都市とも違い、城下町は極めて荘厳だった。建物も全てが威圧しているかのような、それでいて凛々しい黒一色に統一されている。

(凄い……)

 行きかう人々さえ、どこか大きく見えた。城の正面の入口に着くと、その大きさにリノは圧倒された。黒い外壁でできたその城は、どちらかというと物語でいう魔王城のような雰囲気があった。

(魔王が住んでそうな雰囲気……)

 リノは息をのんだ。

「心配しなくて大丈夫ですよ。王はとてもお優しい方です」

 オスカーがリノの不安を察知し、優しく言った。

「う、うん……」

(オスカーは王様とどういう関係なんだろう……俺も色々オスカーに聞きたいことあるんだけど……)

 話したいこと聞きたいことも山ほどあるが、まずは周囲の流れについていこうと思い、差し出がましい行動は控えることにした。マヤが入口の衛兵に話をし、戻ってきた。

「階段が急ですので、お足もとにお気を付けください」

 マヤは一行を気遣いながら城へと促した。
 城の中に入ると、正面ロビーは広く、荘大で神々しい雰囲気を醸し出していた。

「立派な城だなぁ……」

 リノが思っていたことと全く同じ感想をカレルが言った。

「応接室はこちらです」

 マヤが案内した。
 応接室に入ると、長いテーブルに数十個の椅子が並んでいた。おそらく各首脳陣が集まって会議をするような部屋なのだろう。暖炉の上にはこの国を象徴する旗が掲げられていた。真ん中にある椅子だけが豪華な造りで、おそらく王が座る場所なのだろう。

「私は兄の様子を見てきます。王もすぐ来てくださると思いますが」

 マヤはそう言って、応接室を出た。
 残された四人は窓際へ行った。

「おー、こっから街が見れるぜ」

 カレルは窓から外を眺めた。リノもカレルに続いて外を見た。城下町は人々が行き交い、賑わっていた。黒い外観とは裏腹に、平和な街並みだった。

「俺、お城なんて初めて来たよ」

 リノはカレルに言った。

「初めてか!じゃあ良い経験になったな!」

 カレルは笑って言った。

「初めて……」

 後方からオスカーがリノを見つめ、寂しそうに言った。

「?」

 リノはオスカーのその表情に少し疑問を感じた。
 すると扉を叩く音が聞こえた。

「王の入室です!」

 勢いよく衛兵の声が響いた。四人は窓から扉の方に向き直り、かしこまって王の入室を待った。
 扉から入ってきたのは、黒髪で長身の美しい青年だった。

「まぁ適当に座ってくれ。それほどかしこまることもない」

 そう言って青年は四人に促した。後からマヤとマテオも入室し、王から少し離れたところで並んで待機した。

「オスカー、すまないな、毎度のことで」

 王は申し訳なさそうに言った。

「お散歩には丁度良いですから」

 オスカーは微笑んだ。
 恐らく先ほどのハーブティーの件を言っているのだろう。

「それで、そちらは?」

 王はカレルとレオンの方に視線をやった。

「彼らは私の友人です。東洋の大陸”ゲンレイ”から来ています」

 オスカーが説明した。

「ほう……」

 王が目を細めた。

「ゲンレイ皇国ハイドランジア軍所属中佐、レオン=クヌギだ」

 レオンが言った。

「同じく、ゲンレイ皇国ハイドランジア軍所属少尉、カレル=クヌギだ」

 カレルが言った。
 リノはびっくりした。二人は、自分が知らない遠い異国の人間で、しかも軍の所属の偉い人だったなんて。そんな二人が、見ず知らずの自分を手助けしてくれたことに、言いようのない申し訳なさを感じた。リノは、こんな凄い人たちと並んでいる自分を恥じた。

「異国の旅人よ。我がシュヴァルツブルクは歓迎する」

 王は言った。
 
「それで……そちらの少年は?」

 続けて王はオスカーに聞いた。

「リノ、こちらへ」

 オスカーが席を立ち、リノに来るように促した。リノは戸惑いながらもオスカーの元へ歩み寄った。
 オスカーはリノの肩に手を置き、王に向かって言った。

「アラン、エリオットです。彼は生きていました」

 アランは目を見開いてリノを見た。

「まさか……エリオット……生きていたのか……!」

 アランは席を立ち、リノを抱きしめた。

 *
 
 アランは落ち着きを取り戻し、話し始めた。

「十二年前の騒動で、亡くなったものとばかり……。一体どこにいたのだ?」

 アランはリノに聞いた。
 リノはこれまでの暮らしを話した。それはずっと誰かに聞いてほしかった話でもあった。ドロテオとヴィダルと三人でずっと村で過ごしてきたこと。ドロテオが亡くなったために都会に出たこと。ヴィダルが天界を目指していること。ヴィダルと折り合いが悪く耐え切れず一人で逃げ出してしまったこと。そこで出会ったカレルとレオンとギルドで依頼をこなしたこと。
 話しているうちに色々と思い出してしまい、リノは涙が出てしまった。オスカーは優しくリノの肩を抱いた。

「リノ、もう大丈夫ですよ。私たちが居ますからね」

 オスカーが優しく言った。

「まさか遠方の村に居たとは。くまなく探したつもりだったがな……」

 アランは言った。

「師父......最後を見届けられず残念です……」

 マテオが胸に手をあて、悔しそうに言った。マヤもマテオの表情を見て俯いた。

「それで、ヴィダルは今どこに?」

 マテオがリノに聞いた。

「ごめんなさい、離れてからは連絡を取っていないので……」

 申し訳なさそうにリノが言った。ヴィダルと一緒にいるのが無理だと思って逃げ出してしまったため、彼らの期待に応えることができなかった。

「よいよい。ヴィダルは生きているのならそのうち見つけられるだろう」

 アランは言った。

「そうですね、ヴィダルの所在は我々の方で探しておきましょう」

 マヤが言った。

「エリオット、よく戻ってきてくれた」

 アランは再び安堵の表情でリノに言った。

「まずは十二年前の騒動について私から謝罪させてくれ」

「謝罪……でも俺……全然覚えていなくて」

 リノが言った。リノは自分が小さかった時の記憶を残していなかった。

「良いのだ。そもそもあの騒動は王位継承による我々の問題だったからな」

 アランが溜息をついた。

 「本当にすまないことをした……君の母上にも」

 アランが申し訳なさそうに目を伏せた。

(母さん……)

 リノは母親のことを聞くのが怖くなった。

「あの……母さんは……やっぱり……」

 アランに恐る恐る聞いた。

「お前の母上は十二年前の騒動で亡くなっている」

 アランは言った。

(やっぱり母さんはもう亡くなっていたんだ……)

 分かっていたとは言え、改めて現実を突きつけられると悲しいものがあった。

「だが……」

 アランは続けた。

 「我が父が第三王妃として迎え入れた女性だ。すなわち君は私の弟にあたる。エリオット、私たちは家族なのだ」

 リノは顔を上げてアランを見た。

「これからこの城が君の家だ。私を頼ってくれ。エリオット」

 アランは真剣な目をリノに向けた。リノを家族として迎え入れるという、揺るぎない意思を示していた。

「それに……」

 アランは続けた。

「そこの男もずっとエリオットのことを想っていた」

 アランがオスカーを見ながら言った。
 リノがオスカーの方を見ると、オスカーは微笑んだ。

「私は貴方のお母さまの兄です。私からしたら貴方は甥にあたりますね」

 リノはなんだかむずがゆくなった。周りを見ると、みんなが優しくリノを見ている。

(家族……)

 そこにはリノが長い間欲しかった愛情が確かに存在していた。

間章

 遙か高みに存在する世界「天界」では、新たな門出を祝う盛大な結婚式が執り行われていた。

 純白の衣装を纏った花嫁と、こちらもまた純白の背広を着た花婿。大理石の床に敷かれた紅い絨毯の上を、誰もが知る名家の二人は、誇らしげにゆっくりと進む。幾千もの天界人が集い、その幸せな光景を心から祝福していた。光の粒子が舞い、厳かな音楽と、人々の歓声が巨大な円形ドームに響き渡る。

 しかし、その歓喜の喧騒とは全く隔絶された、ある領域が存在した。

 そこは、色彩という概念を捨て去ったかのような、無機質な真っ白い空間。全てが白く、音を吸収してしまうような静寂が支配する。その領域の最も奥。白く長い髪を持ち、凍てつくような金色の瞳を持つ一人の男が、威厳ある純白の王座にゆったりと腰掛けていた。着ているのは、仕立ての良いゆったりとした白い衣服だ。その姿は荘厳でありながら、どこか病的な白さを感じさせた。

 その空間に、パトリックが、深く頭を垂れて入ってきた。

「我が君……」
 
 パトリックは、無機質な王座に座る男へと、一歩一歩、慎重に歩み寄る。
 王座の男は、その近づいてくるパトリックを、忌々しさが込められた冷たい眼差しで見た。
 
「パトリックよ……余はどれほど待てばよいのだ?」
 
 王座の男の声は、静寂の中でさえ、空間を震わせるほどの、絶対的な威圧感を伴っていた。

「も、申し訳ございません……」
 
 パトリックは平伏し、冷や汗を流す。
 
「全国各地駆け巡ってはいるのですが、中々情報が……」
 
 パトリックは王座の男を直視できなかった。

「ふん……」
 
 王座の男は鼻で笑った。
 
「言ったはずだぞ。見つからなければ、天界の連中全員を人柱にするとな?」
 
 王座の男の威圧が、パトリックの全身を重く圧し潰す。

「お、お待ちください!実は、つい先日、ようやく手がかりをつかみまして……」
 
 パトリックは怯えながらも、希望を絞り出した。

「なんだ?」
 
 金色の瞳が鋭くパトリックを射抜く。

「実は、神子(みこ)をかくまっていたらしい青年が、この天界に来ておりまして。その青年を辿ったところ……」
 
 パトリックは一呼吸置いた。王座の男は目を細めた。

「どうやら、あの女が!あの女が神子を『攪乱の魔動器』で居場所が分からぬよう守っていたようなんです!」
 
 パトリックは大げさに手を振りながら言った。
 王座の男の顔が、一瞬で憎悪に歪んだ。
 
「イヴリンか……死んでもなお、忌々しい女だ……」
 
 男は呻くように呟いた。
 
「神子はどこに居るのか分かったのか?」
 
 王座の男はパトリックを再び睨みつけた。

「今は、シュヴァルツブルクへ戻っているとの報告が……」
 
 パトリックはやはり王座の男を直視できない。

「またシュヴァルツブルクか……野蛮な連中め......つくづく、縁があるようだな」
 
 男は気だるそうに呟いた。

「あそこは独自の文化を築いており、我々でも中々踏み込めませぬ」
 
 パトリックは弁明するように言った。

「まぁよい、いずれ……」
 
 王座の男は言葉を区切った。

「全力を尽くします、我が君……」
 
 パトリックは頭を下げ続けていた。

「パトリック、分かっておるな?余はもう待てぬ。力が足りないのだ。貴様が用意した《あれら》が、期待したほど使えんのでな」
 
 王座の男は肘掛けを苛立たしげに叩いた。

「はっ!」
 
 パトリックは背筋を伸ばす。
 
「天界人だけでも足らぬ……」
 
 その言葉に、パトリックの顔は青ざめた。

「居場所は分かっております故、必ずや連れ戻してご覧に入れます」
 
 そう言ってパトリックは、早足で真っ白い空間を去っていった。
 王座の男は、パトリックが出ていくと、心底気だるそうに、白い長い髪の毛先を指でいじった。
 
(イヴリン……貴様のせいで、余はこれほどの苦しみを負うことになった。貴様の魂もろとも、食いちぎってやる……)
 
 男は、誰も聞こえぬ声で呟き、そして不気味に、歓喜の笑みを浮かべた。

 場面は再び、光溢れる天界の結婚式に戻る。見知らぬ男女は、降り注ぐライスシャワーの中を、満面の笑みで花道を歩いていく。 大聖堂の激しい鐘の音が鳴り響き、二人の幸せを祝福していた。大いなる福音が、どこか不気味に天界全土に響き渡っていた。

第八章 危惧(きぐ)

「やあ、来たか」

 特務機関の研究室に足を踏み入れると、パトリックがわざとらしい愛想笑いを浮かべて出迎えた。ヴィダルは、その笑顔に反応することなく、無表情のまま部屋の中央へと進んだ。

「相変わらず不愛想な男だな」

 ヴィダルの冷淡な態度に、パトリックは忌々しそうに舌打ちをした。

「さて……」

 パトリックは、わざとらしく眼鏡の位置を指で押し上げ、もったいぶって言葉を続けた。

「今日は君の実力を確認したくてね」

 彼は棚から分厚い資料を取り出し、興味なさそうにパラパラとめくりながら言った。ヴィダルは、その一挙手一投足を冷めた目で見つめたまま、口を開くことはなかった。

「失礼します。室長、準備が整いました」

 静寂を破るように、一人の研究員が慌ただしく入室してきた。

「いま行く」

 パトリックは短く答え、資料を乱雑に机の上に放り投げた。

「ヴィダル、ついてきたまえ」

 パトリックは顎で扉の方をしゃくり、横柄に命じた。ヴィダルは無言のまま、彼の背中を追う。

 二人の足音だけが響く、無機質で長い廊下をしばらく歩いた後、パトリックは一枚の重厚な扉の前で立ち止まった。カードキーをかざすと、電子音と共に扉が滑らかに開いた。

「これから、あるモノと戦ってもらう」

 案内されたのは、広大な訓練場のような部屋だった。

「私は上で見物させてもらうよ」

 パトリックが指差した先には、部屋全体を見渡せるガラス張りの監視室があった。

「ギブアップしたい時は、大声で叫んでくれ。もっとも、声が出る状態ならの話だがね」

 パトリックはにやりと口角を上げ、不敵な笑みを残して部屋を出て行った。

 一人残されたヴィダルは、冷ややかな目で閉ざされた扉を見つめた。

(何を企んでいるのか知らんが、俺は目の前の敵を倒すだけだ……!)

 ヴィダルは静かに闘志を燃やした。そしてふと、ここに至るまでの経緯を脳裏に蘇らせた。

 *

 つい数日前のことだ。天界に来て、ようやく掴んだオスカーの居場所。しかし、そこでパトリックが口にしたのは、「オスカーは死んだ」という絶望的な事実だった。結局、ドロテオから受け継いだ使命は、全て水泡に帰した。何もかもが無駄足だったのだ。リノは行方不明となり、頼みの綱であるオスカーも、もうこの世にはいない。

(俺は一体どうすれば……)

 途方に暮れるヴィダルに、パトリックは探るような視線を向けた。

「なぜ、オスカーの居所を知りたかったんだね?」

 ヴィダルは一瞬、迷った。一族が命を賭して守り抜いてきた、一人の少年のこと。その少年を人目を忍んで匿い続け、オスカーの元へ送り届けるという使命のこと。果たして、この目の前の胡散臭い天界人に、真実を告げて良いものだろうか。

 しかし。

 ヴィダルは、もう限界だった。早く解放されたかったのだ。この全ての元凶ともいえる「使命」という呪縛から。全てがどうでもよかった。何もかも投げ出してしまいたかった。誰かに全てを吐き出して、楽になりたかった。

 ヴィダルは重い口を開き、堰を切ったように全てを話した。

 パトリックは、ヴィダルの告白を一言も聞き漏らすまいとするかのように、真剣な眼差しで聞いていた。その瞳の奥には、異常なまでの執着が見え隠れしていた。

「……すると、君は今、その少年の居場所はわからないのだね?」

 パトリックは確認するように、リノの現在の居場所を尋ねた。

「ああ……。最後に見たのは、セザールの宿屋だ」

 ヴィダルは、まるで他人事のように淡々と答えた。

「ふむ……。その少年については、我々の方でも捜索の手配をしておこう」

 パトリックは親切心を装って申し出たが、ヴィダルは即座に拒絶した。

「それは遠慮しておく。正直、もうあきらめているからな」

 余計な世話だと言わんばかりに、ヴィダルは冷たく言い放った。

「あきらめている?」

 パトリックは意外そうに眉をひそめた。

「ああ、もう見つからなくてもいい」

 ヴィダルは遠くを見つめるように、虚ろな声で呟いた。

「君の家族じゃないのかね?」

「……家族? フッ……」

 ヴィダルは自嘲気味に、乾いた笑いを漏らした。

「俺はもう、あの荷物がいなくなって、せいせいしているんだ」

 自分に言い聞かせるように、ヴィダルは言葉を吐き捨てた。

「これから俺は、自分自身の人生を歩む。余計なことはしないでくれ」

 その言葉には、強い決意と、断ち切れぬ未練への拒絶が込められていた。

 少しの間があり、パトリックは小さく頷いた。

「分かった」

 パトリックは短く答え、話題を変えた。

「話は以上だ。例の『お使い』の件、よろしく頼む。準備ができたらまた招集する」

 パトリックは眼鏡の位置を直し、事務的に告げた。ヴィダルは返事もせず、席を立って部屋を出た。一人残されたパトリックは、テーブルに肘をつき、深い思索に耽っていた。しばらくして、一人の研究員が恭しく応接室に入ってきた。

「お呼びでしょうか?」
「調査依頼だ。セザール近辺で、ある人物を探して欲しい」

 パトリックの眼鏡の奥で、鋭い瞳が怪しく光った。

 *

(そうだ、俺はもう自分の自由を掴むんだ……!)

 ヴィダルは今までの記憶を、感情ごと全て振り払った。

 そう決心した時、部屋の奥にある重厚な扉が重々しい音を立てて開いた。暗闇の中から現れたのは、背中に6本の翼を生やした、純白の甲冑だった。その甲冑は地面を踏むことなく、数センチほど宙に浮いた状態で、音もなくヴィダルの前に滑り出てきた。

(なんなんだ、コイツは……)

 ヴィダルは眉をひそめた。その甲冑から、生物としての気配が全く感じられなかったからだ。得体の知れない不気味な気配に、ヴィダルは自然と身構えた。だが、対峙している時の大人しさは恐らく「人」なのであろう。

 その時、頭上のスピーカーからパトリックの声が響いた。

『そいつを殺せたら、君の勝利だ』

(なん……だと……!?)

 モンスターではなく、いきなり殺人を強要されたことに、ヴィダルは動揺した。

(急所を突いて、行動不能にするしかないな)

 ヴィダルは覚悟を決め、ゆっくりと双剣を抜いた。一気に間合いを詰め、白い甲冑の懐に飛び込もうとした――その瞬間だった。白い甲冑が掻き消えるように移動し、瞬時にヴィダルの背後を取った。

(速い……!)

 振り返る間もなく、甲冑が剣を振るう。ヴィダルは反射的に身を捻り、紙一重でその攻撃を躱した。

(本当に人間なのか……!?)

 ただ速いだけではない。動きに無駄がなく、機械的で正確無比だ。余程の手練れでなければ、こんな動きはできないはずだ。ヴィダルは、自分の攻撃が簡単には通じない相手に、驚きを隠せなかった。

 見上げると、ガラス張りの部屋からパトリックが不敵な笑みを浮かべて見下ろしているのが見えた。

 ヴィダルは冷静さを取り戻そうと、相手の動きを読むことに集中した。牽制のために、軽く連続攻撃を繰り出す。しかし、甲冑はその全てを最小限の動きで躱していく。

(やはり、あの翼か……)

 ヴィダルは、あの不自然な翼が、甲冑の異常な機動力の源であると直感した。

(ならば、翼を断ち切るしかない……!)

 ヴィダルは再び攻勢に出た。怒涛の連続攻撃を浴びせ、相手の意識を正面に向けさせる。そして一瞬の隙を突き、フェイントをかけて背後に回り込んだ。

(いまだ……!)

 ヴィダルの一撃が、甲冑の翼を根元から斬り裂いた。バランスを崩し、甲冑が大きくよろめく。ヴィダルはその好機を見逃さなかった。流れるような動作で甲冑の隙間を狙い、胴体を鋭く貫いた。

(致命傷は避けたつもりだが……失敗していたら、すまんな……)

 心の中で相手に詫びつつ、ヴィダルは剣を引き抜いた。

 支えを失った甲冑が、糸の切れた人形のように崩れ落ちる。ヴィダルは倒れた甲冑に歩み寄り、その正体を確かめるべく、頭部の兜に手を掛けた。どんな面構えをした奴なのか、一目見ておきたかったのだ。ゴロン、と重い音を立てて兜が外れた。

(……!)

 露わになった顔を見て、ヴィダルは息を呑んだ。その人物の顔には生気がなく、肌は土気色に変色していた。まるで、ずっと前から死んでいたかのように。

(どういうことだ!?)

 困惑するヴィダルの背後で、扉が開く音がした。パトリックが、満足げな表情で部屋に入ってきた。

「素晴らしいじゃないか。やはり君は相当の手練れのようだ」

 パトリックはゆっくりと拍手をしながら近づいてきた。

「なんだこれは!?」

 ヴィダルは珍しく声を荒げ、パトリックに詰め寄った。

「驚くのも無理はない。これが我々の研究の成果さ。失敗作にしては、中々上出来だろう?」
「研究の……成果……?」

 ヴィダルはパトリックの言葉の意味が理解できず、呆然と立ち尽くした。

「死んだ人間を生き返らせるというのは、中々難しいのだよ」

 パトリックは何でもないことのように、薄ら笑いを浮かべて言った。

「……」

 ヴィダルは絶句した。言葉が出なかった。

「片付けろ」

 パトリックは背後の研究員たちに、倒れた甲冑を指差して命じた。研究員たちは慣れた手つきで甲冑を台車に乗せ、足早に運び去っていった。ヴィダルは、運ばれていく「それ」を、ただ呆然と見つめていた。自分が足を踏み入れてしまった場所が、想像を絶する狂気に満ちた場所であることを悟り、背筋が凍るような後悔に襲われた。

「フッ……心配しなくていい」

 パトリックはヴィダルの肩に手を置き、宥めるように言った。

「これは高尚なことなのだよ。神の力を使えば、人は死を超越し、再び生を得ることができる」

 パトリックの瞳が、狂気じみた光を帯びる。

「所詮、肉体はただの器に過ぎん。魂さえ呼び戻すことができれば、我々は永遠を手に入れられるのだ」

 パトリックは両手を広げ、恍惚とした表情で天井を仰いだ。ヴィダルには理解できなかった。理解したくもなかった。

(何を言ってるんだ……この男は……)

「君も天界に来たからには……いずれ分かるだろう」

 パトリックはヴィダルに向き直り、不敵に微笑んだ。ヴィダルは、満身創痍の体で立ち尽くし、狂気を孕んだ笑顔を向けるパトリックを、ただ無言で見つめ返すことしかできなかった。

 *
 
 ヴィダルは重い足取りで特務機関のゲートを潜り抜けると、ミリアが駆け寄ってきた。

「ヴィダル……大丈夫? とても顔色が悪いわ」

 ミリアはヴィダルの蒼白な顔を見て、心底心配そうに言った。

「ああ……」

 ヴィダルは力なく答えるのが精一杯だった。

(彼女は……このことを知っているんだろうか?)

 ヴィダルは目の前の純粋そうな女性を見つめた。特務機関に所属する研究員になるために選ばれた、いわゆる「候補生」。天界人以外の一般の人間でこの地に来ることを許された者は、相当な戦闘能力を持つ精鋭のみのはずだ。彼らは、この狂気じみた研究の片棒を担ぐことに疑問を持っていないのか?

 死者を蘇らせるという冒涜的な倫理観を、ヴィダルはどうしても理解できなかった。もし仮に、本当にそんな力が存在するのだとしたら――。

(父上……母上……師父……)

 これまで亡くなった大切な人々の顔が、次々と思い浮かんでしまう。ヴィダルは頭を振り、その甘美で残酷な想像を打ち消した。

「ヴィダル……もう休みましょ。私が家まで送っていくわ」

 ミリアが気遣わしげに、優しく言った。

「ヴィダル」

 そこへ、スヴェンが後ろから声をかけてきた。

「ん?大丈夫か?ずいぶんと具合が悪そうだが」

 スヴェンもまた、ヴィダルの様子を怪しんだ。

「ああ、問題ない」

 ヴィダルは努めて平静を装い、短く返した。

「そうか。……ああ、そうだ。つい渡しそびれていたんだが、これを」

 スヴェンは懐から一枚の写真を取り出し、ヴィダルに見せた。

「この前、お前が落としていったものだ」

 それは、オスカーに手紙と一緒に渡そうと思っていた、ドロテオとリノ、そして自分の三人が写った集合写真だった。

「失くしたものとばかり……」

 ヴィダルはスヴェンから写真を受け取った。写真の中の三人は、どこかぎこちなくも、確かに家族としてそこに在った。しかし、今のヴィダルにとって、それは過去の呪縛であり、捨て去るべきゴミ同然のものだった。それでも、折角届けてくれたのだからと、ヴィダルはスヴェンに形式的な礼を言った。

 ヴィダルは持っていた写真を、隣にいたミリアに押し付けるように渡した。今のヴィダルは、何も考えたくなかった。感情の全てを遮断したかった。

「俺にはもう、必要ないものだ」

 自分自身に言い聞かせるように、ヴィダルは吐き捨てた。

「えっ……待って、私も行くわ」

 ミリアは驚き、大事そうに写真を胸に抱えながらヴィダルについて行こうとした。

「すまない、今は一人になりたいんだ」

 ヴィダルは手でミリアを制し、拒絶を示した。そして、逃げるように一人で足早に歩き出した。
 ミリアは、遠ざかるヴィダルの背中を悲しそうな表情で見送った。

「ミリア……」

 スヴェンは気の毒そうな顔でミリアを見た。

「最近、特務機関にあれこれこき使われているようだからな。相当疲れているんだろう」

 スヴェンは慰めるように言った。

「そうよね……」

 ミリアも自分自身にそう言い聞かせ、手元の写真に写る、かつてのヴィダルの姿を見つめた。

「その少年だがな。ギルド街へ探しに行ったが、残念だが、見かけなかった。ただ……」
「ただ?」

 ミリアが顔を上げて聞き返した。

「少年らしき人物を、シュヴァルツブルク方面へ向かう街道へ送ったらしい御者がいた」
「じゃあ……!」

 ミリアの顔に、ぱっと明るい色が差した。

「俺たちは実際見てないから、確証は持てないけどな」

 スヴェンが慎重に付け加えた。

「ほう……」

 突然、背後から低い声が響いた。いつから話を盗み聞きしていたのか、パトリックが二人の背後に立っていた。眼鏡の奥の瞳が、爬虫類のように冷たく光っている。

「室長」

 スヴェンが驚いて振り返り、姿勢を正した。

「興味深い話だ、スヴェン、ミリア。私にもその話、詳しく聞かせてくれないか?」

 パトリックは口元を歪め、笑みの形を作った。

「はぁ?構いませんが……」

 スヴェンは戸惑いながらも頷いた。
 パトリックに促され、スヴェンとミリアは特務機関の入り口へと吸い込まれていった。

第九章 懐古(かいこ)

 シュヴァルツブルクの空は、どこまでも高く、澄み渡っていた。

 リノは城内の日当たりの良い庭園にあるベンチに腰掛け、ぼんやりとその青を見上げていた。頬を撫でる風は穏やかで、ここが「黒い王国」と呼ばれる場所であることを忘れさせるほどだ。

 12年間の鬱屈した村での生活から一変し、この短期間でリノの身にはあまりにも多くのことが起こりすぎた。
 祖父ドロテオの死。レネとの出会いと、ヴィダルからの逃亡。カレルとレオンとのギルド生活。そして、自身がこの国の「王子」であるという衝撃的な事実。

 怒涛の日々が過ぎ去り、ようやく訪れた悠々自適な生活。しかし、張り詰めていた糸が切れたのか、身体の奥底には鉛のような疲労感が沈殿していた。

(まさか自分が王子だったなんて……)

 リノは溜息交じりに呟くと、懐から母の形見であるネックレスを取り出した。服の袖で宝石の曇りを丁寧に拭う。すると、宝石の中心がリノの視線に応えるかのように、一瞬だけ力強く輝いた気がした。それはまるで、亡き母が息子の想いを受け止め、優しく微笑みかけてくれたようだった。

(母さん……)

 リノはネックレスを胸に抱きしめ、数日前の出来事を思い出していた。

 *

 シュヴァルツブルクに到着した直後、王であるアランは公務に忙殺されており、しばらく顔を合わせることはなかった。
 その代わりにと用意されたのは、かつて第三王妃イヴリン――つまりリノの母親が使っていた部屋だった。主を失って久しいはずのその部屋は、塵一つなく整えられており、誰かがずっと大切に管理していたことが窺えた。

「何か分からないことがあれば、遠慮なく使用人に聞いてくれ」

 アランは多忙な合間を縫って、リノにそう伝言を寄越した。
 
「オスカーも城の出入りは自由だ。彼は城内をよく知っているから頼りにするといい。マテオとマヤも今は城で暮らしている」

 兄としての不器用な気遣いが、リノには温かかった。

 カレルとレオンにも、賓客として豪華な客室が用意された。
 二人は当初、「俺たちはただの旅人だ。城下町の宿屋で十分だ」と固辞していたが、アランが「弟の命の恩人を粗末にはできない。どうかエリオットの傍にいてやって欲しい」と頭を下げる勢いで懇願したため、渋々ながら承諾したのだった。

「どうも小綺麗な装飾がある部屋だと落ち着かないんだよなー」

 案内された部屋で、カレルはふかふかの絨毯を踏みしめながら、落ち着きなくあたりを見回していた。

「だが、宿代が浮くんだ。感謝しよう」

 レオンは冷静に答えつつも、その表情はどこか居心地が悪そうだった。
 カレルはリノに向き直り、にやりと悪戯っぽく笑った。
 
「しかしまさか、リノが王子様だったとはなー! これからは『リノ殿下』って呼ばなきゃダメか?」
「や、やめてよ……俺もびっくりしてるんだから……」

 リノは顔を赤くして俯いた。

「ははっ、冗談だよ。俺たちは異国の人間だから、この国のしきたりとかは詳しくないけどな。ともあれ、無事家に帰れたんだ。良かったじゃないか」

 カレルは快活に笑い、リノの背中をバンと叩いた。リノの心がじんわりと温まった。自分が王家の人間であることが判明しても、二人は変わらずギルドの仲間として、対等に接してくれている。そのことが、何よりも嬉しかった。

 *

 回想から戻り、リノは再び庭園の緑に目を落とした。

(これからどうなるんだろう……)

 一時は、ヴィダルの元を離れ、自分一人で何でもできるようになりたいと息巻いていた。しかし、王家の人間という立場が発覚した今、その自由は制限されることになるのではないかという不安が頭をよぎる。

(王子ってことは……今までのように好き勝手に出歩けないってことだよね……)

 城壁の向こうに広がる城下町を眺める。そこには、活気ある人々の生活がある。

(王子って……具体的に何をするんだろう……)

「リノ、こちらにいたのですね」

 柔らかな声に振り返ると、オスカーが立っていた。

「オスカー」

 オスカーはリノの隣に歩み寄ると、彼の手にあるネックレスを見て、懐かしそうに目を細めた。

「イヴリンの魔動器……あなたが持っていたのですね」
「うん、じいちゃんから母さんの形見だって言われて……ずっと持ってたんだ」

 リノはネックレスをぎゅっと握りしめた。そして、以前からの疑問を口にした。

「ねぇ、オスカー。俺もこの魔動器を使いたいんだ。どうやったら、カレルやレオンみたいに魔法が出せるの?」

 オスカーは少し困ったように微笑んだ。

「リノ……残念ですが、この魔動器はあなたを守るための『お守り』のようなものです。攻撃魔法を放つ機能はありません」
「そうなんだ……」

 リノはがっくりと肩を落とした。自分も魔法が使えるようになれば、誰かの役に立てるかもしれないと期待していたからだ。

「ふふ。リノは魔法が使いたかったのですね。……わかりました。私が新しい魔動器を拵(こしら)えましょう」
「本当!?」

 リノの表情がぱっと明るくなった。

「カレルとレオンが使っていたブレスレット型は、元はお遊びで作った試作品だったのですが、思いの外二人が気に入ってくれましてね。ああいうので良ければ、すぐに用意しますよ」
「ありがとう、オスカー!」

 リノがオスカーの手を取って喜んでいると、城の使用人が庭園に駆け寄ってきた。

「失礼いたします。エリオット様、オスカー様、王がお呼びでございます。広間にお集まりくださいますよう」

 リノとオスカーは顔を見合わせ、使用人の後に続いて広間へと向かった。

 広間には既にカレルとレオン、そしてマテオとマヤが待機していた。
 しばらく雑談をしていると、「王がお見えです」という衛兵の野太い声が響き渡った。

「待たせたな」

 アランが堂々とした足取りで現れ、王座にゆっくりと腰を下ろした。その顔には、隠しきれない疲労の色が滲んでいる。

「ここのところ公務が立て込んでいてな。各地でモンスターが頻出するようになり、それの対応で手一杯なのだ」

 アランは深く溜息をついた。

「どうやら『魔界』の活性化が起因しているようで……。現在は調査隊を送り込んだりしていますが、根本的な解決には至っておりません」

 アランの隣に控えていた小太りの大臣、ターキンが補足説明をした。

「魔界……?」

 リノは聞き慣れない単語に首をかしげた。

「ああ、お前は知らないのだったな。この国のはるか北の方に、赤土が蔓延る『焦土大陸』と呼ばれる土地がある。そこのことだ」

 アランが簡単に説明した。

「モンスターという生物は、魔界の魔素の恩恵を受けて生きております故、魔界で何らかの異変が起こっているのでしょう」

 ターキンが続ける。

「モンスターは、普段は縄張りを守るだけの比較的おとなしい生物ですが、ここ最近はまるで気が狂ったかのように凶暴化しており……何やら不穏な動きでございます」

「だったら、その元凶の魔界とやらを叩いちまえばいいんじゃないのか?」

 カレルが腕を組み、単純明快な案を出した。

「実は、魔界にも住人がいるのだ。我々の領土でもないし、そう簡単に攻め入るわけにもいかんのでな」

 アランは苦笑した。

「そんな危ないところに人が住んでるの?」

 リノは目を丸くした。モンスターがうようよいる場所に人が住んでいるなんて信じられなかった。

「はっはっは! そうだな、魔界だの焦土大陸だの呼ばれているが、あそこも立派な独自の文化が築き上げられた都市だ」

 アランは豪快に笑い、マテオとマヤの方を見た。

「そこにいるマテオとマヤも、焦土大陸出身だ」

「ええっ!?」

 リノは驚いて二人を見た。

「俺たちが居たのは、辺境の簡素な村だけどな」マテオが肩をすくめる。

「確かにモンスターが当たり前に闊歩している土地ですので、常に死と隣り合わせではありますね」マヤが涼しい顔で付け加えた。

「ドロテオやヴィダルの傍に居たのだ、彼らの常人離れした身体能力には気づいていたのではないか?」

 アランの言葉に、リノはハッとした。確かにヴィダルの動きは、人間業とは思えないほど速く、鋭かった。彼らもまた、過酷な環境が生んだ戦士なのだと合点がいった。

「魔界の異変については、統治している魔王に聞いてみないと分からん。今頃どこをほっつき歩いているのやら……」

 アランは呆れたように天井を仰いだ。

「統治というか放置というか……」マテオも難しい顔で唸る。

「魔王って、話を聞いてくれるものなの?」

 リノにとって魔王とは、おとぎ話に出てくる討伐対象でしかなかった。

「ああ、あそこにいる魔王は話の分かる奴だ。もっとも、極上の酒の要求があるがね」

「お陰様で、王宮の酒蔵が空になりそうです」

 ターキンが悲痛な面持ちで首を振った。

 場の空気が少し和らいだところで、アランが表情を引き締めた。

「さて」

 アランはリノに向き直った。

「エリオット、12年前、何があったかをお前に伝えておきたくてな。母親のこと、自分の出自と、さぞかし驚いたことだろう」

 アランの真剣な眼差しに、リノは居住まいを正した。

「う、うん……」

 リノは緊張で喉が鳴った。自分がなぜドロテオやヴィダルと暮らさなくてはならなかったのか。なぜ母は死ななければならなかったのか。それは、リノが最も知りたかった真実だった。

 アランは静かに、12年前の出来事を語り始めた。

 *

 12年前。
 
 当時のシュヴァルツブルク王、つまりアランの父は病に臥せっていた。回復の見込みはなく、城内は次期後継者を巡って水面下で揺れ動いていた。順当にいけば第一王子であるアランが王位を継承するはずだった。しかし、それを良しとしない勢力が存在した。第二王妃とその派閥である。第二王妃は、自身の息子こそが王の寵愛を受けていると主張し、王位継承権を要求した。第三王妃であったイヴリンは、連れ子であるエリオットの存在もあり、最初から王位継承戦線からは身を引いていた。アランの戴冠式を見届けた後は、静かに城を去るつもりでいたのだ。

 張り詰めた空気が城内を支配していた、ある嵐の夜のことだった。

「奥様!」

 イヴリンの部屋に、メイドが血相を変えて飛び込んできた。

「まあ、ノックもせずに一体何ごとなの?」

 ベッドで幼い息子に絵本を読み聞かせていたイヴリンは、驚きつつも穏やかにたしなめた。

「奥様!今すぐお逃げください! ……クーデターです!」

 丸っこい体つきをしたメイドが、悲鳴に近い声で告げた。
 イヴリンは弾かれたようにベッドから降り、窓の外を見た。中庭を、松明を持った衛兵たちが慌ただしく走り回っている。その殺気は、明らかにこちらに向けられていた。

 イヴリンは咄嗟にクローゼットを開け、厚手のコートを取り出すと、寝巻の上から羽織った。そして、眠気眼で目をこするリノを優しく抱き起こし、柔らかい毛布ですっぽりと包んだ。

「私の可愛い坊や、上着がなくてごめんね。これで我慢してね」

「奥様、こちらを」

 のっぽのメイドが、最低限の必需品を詰め込んだ小さなトランクをイヴリンに手渡した。

「あなたたちはどうするの?」

 イヴリンは長い髪を手早く束ねながら、メイドたちに尋ねた。

「あたくしたちは後から向かいます! 外に例の者たちがお待ちしております!」

 背の低いメイドが、震える声で、しかし気丈に言った。「例の者たち」――それは、イヴリンが天界を追われて以来、影ながら彼女を護衛していた一族のことだった。

「分かったわ。必ず生きて会いましょう」

 イヴリンは壁の絵画をいくつかずらした。すると、仕掛けが作動し、大きな肖像画が音もなく回転して、地下へと続く暗い階段が口を開けた。

「母さま……? どこにいくの?」

 暗い穴の底のような階段を見て、少年が不安げに聞いた。

「エリオット、私についてらっしゃい。大丈夫よ、母さまが一緒だからね」

 イヴリンは燭台を握り、息子を安心させるように努めて明るい声で言った。

(恐らくは、王位継承戦……アラン様と第一王妃様が不在の今を狙ったのね)

 王もろとも、自分たち邪魔者を排除する気なのだ。金に物を言わせ、城内の騎士団を買収したのだろう。第二王妃の実家は大富豪であり、王妃の座も巨額の金で手に入れたという噂があった。

「母さま……」

 エリオットが泣きそうな声でイヴリンのコートの裾を握った。

「エリオット……」

 イヴリンの胸が締め付けられた。この幼い息子に、こんな過酷な運命を背負わせてしまった申し訳なさで、涙が溢れそうになる。
 イヴリンは階段に燭台を置くと、息子を強く抱きしめ、額に口づけをした。そして、自分の首にかけていたネックレスを外し、息子の首にかけた。

「これはお守りよ。あなたをきっと守ってくれる」

 エリオットは、母の温もりが残るネックレスをギュッと握りしめた。

 螺旋状の階段を降りきると、裏口のような場所に出た。長い間使われていなかった扉は錆びつき、固く閉ざされている。イヴリンは足元に転がっていた石を掴み、蝶番の隙間を激しく叩いた。詰まっていた泥や錆が崩れ落ちるのを確認し、渾身の力で扉を蹴り飛ばした。

 扉が開くと同時に、嵐のような雨風が吹き込んできた。

「いらっしゃい……」

 イヴリンは息子の手を引き、外へと踏み出した。

「奥様!」

 雨音に混じって、微かに女性の声が聞こえた。味方だ。イヴリンは声のする方向へ走った。

 その時だった。ヒュッ、と風を切る鋭い音と共に、闇の中から無数の矢が飛来した。

 エリオットは驚き、母に駆け寄ろうとして、濡れた石畳に足を滑らせた。
 ドサッ、と鈍い音がして、エリオットが倒れ込む。

「あぁ……っ!」

 イヴリンは悲鳴を上げ、慌てて息子を抱き寄せると、草むらの陰に身を隠した。

「くそ! 視界が悪くて当たらん!」

 城壁の上から、衛兵の舌打ちが聞こえた。

「下に降りて探すぞ! 逃がすな!」

 衛兵たちの声が一旦遠ざかる。

「エリオット……!?」

 頭を撫でた瞬間、生温かい液体の感触があった。
 腕の中の息子は、頭から血を流しているようだ。呼びかけに応じない。

「そんな……嘘でしょう……」

 イヴリンの顔から血の気が引いた。震える手で脈を確認する。鼓動はある。気絶しているだけかもしれない。
 イヴリンは迷わず魔力を練り上げ、治癒魔法を発動させた。

「お願い……あなただけでも生き延びて……」

 祈るような想いで、持てる限りの魔力を息子に注ぎ込む。

 そこへ、先ほど声をかけてきた人物が現れた。黒い装束に身を包んだ、細身の影だ。

「奥様! どうしました!?」

「息子が……怪我をしたの」

 さらに、屈強な影も駆けつけてきた。

「私が王子を担ぎましょう」

 屈強な影が申し出た。

「我々の仲間と合流します。奥様、走れますか?」

 細身の影が問う。

「ええ、私は問題ありません」

 イヴリンは気丈に答えた。屈強な影は、エリオットの状態を確かめ、壊れ物を扱うように大事に抱え上げた。

「南の城門付近まで走ります」

 一行は闇に紛れて走り出した。激しい雨風が幸いし、衛兵たちの視界と足音を遮ってくれた。
 しかし、南の城門まであと少しというところで、巡回中の衛兵に見つかってしまった。

「いたぞ! そこだ!」

 鐘が打ち鳴らされ、複数の衛兵が殺到する。屈強な影はエリオットを抱えているため、戦うことができない。細身の影が双剣を抜き、前に出る。

「先に行ってください!」

 細身の影がそう叫び、イヴリンは駆け出した。
 一人の衛兵の剣が、隙をついてイヴリンの背中を貫いた。

「がはっ……」

「奥様ー!!」

 細身の影が絶叫し、鬼神の如き強さで周囲の衛兵を薙ぎ払った。崩れ落ちるイヴリンに駆け寄る。

「息子を……エリオットをお願い……」

 イヴリンは、震える手で細身の影の手を握りしめ、最期の言葉を遺した。その瞳から光が失われ、身体から力が抜ける。雨水に混じった鮮血が、石畳を赤く染めていった。

「くっ……!」

 細身の影は悔しさに唇を噛み切り、屈強な影を見た。

「このまま全力で走るぞ!奥様の想いを無駄にするな!」

 屈強な影はエリオットを抱え直し、涙を堪えて走り出した。細身の影もまた、血涙を流しながらその後に続いた。

 *

 城門を抜けた先の森の入り口で、数人の影が待機していた。

「兄上!」

 大柄な影が、闇の中から現れた屈強な影の姿を認めて叫んだ。
 その大柄な影――マテオとマヤの父である男の傍らには、一族の長である老齢の影――ドロテオが待っていた。そして、まだ幼いマヤとマテオ、さらにはヴィダルの姿もあった。

「奥様は?」

 ドロテオが、二人の背後を確かめるように尋ねた。

「申し訳ありません……」

 屈強な影――ヴィダルの父が、絞り出すように力なく答えた。その一言で全てを悟ったドロテオは、深く項垂れた。

「しかし、王子は無事です」

 ヴィダルの母である細身の影が、自らを奮い立たせるように、意識を切り替えて報告した。屈強な影の腕の中で、エリオットは安らかな寝息を立てていた。

「ここからは二手に分かれよう」

 屈強な影が決断を下し、弟である大柄な影に向かって言った。

「俺たちは用意していたボートでこの土地を離れる。お前たちは、駐屯地に居る騎士団に謀反の話を伝えよ。話によると第一王妃側の騎士団のはずだ……」

「あい、分かった」

 大柄な影が力強く頷いた。

「落ち合う場所は分かっているな」

 屈強な影が念を押す。

「承知」

 大柄な影が短く答えた。

 そこで影の集団は二手に分かれた。
 屈強な影と細身の影、そしてドロテオは、ヴィダルとエリオットを連れて、暗い森の奥にあるボート乗り場の方面へと消えていった。

 残された大柄な影は、兄たちの一行の背中が見えなくなるまで見届けた。

「俺たちは駐屯地に向かうぞ」

 大柄な影が家族に向かって言った。

「駐屯地の騎士団が本当に味方かも分からない。注意せよ」

 傍らにいた厳格な影――マテオとマヤの母が、鋭い眼差しでマテオとマヤに言い聞かせた。
 四人は頷き合い、兄たちが消えた暗い森とは少しそれた、荒涼とした荒野の方角へと走り出した。
 それが、一族の運命を分けた夜の真実だった。

 *

 荒涼とした荒野を、大柄な影はただひたすらに駆けた。夜の帳は嵐の気配を纏い、砂塵が容赦なく顔を叩く。背後には、厳格な影である妻と、息を切らしながらも必死に食らいついてくる幼いマテオとマヤの姿があった。彼らの目的地――駐屯地の門前へ、ついにたどり着いた。

「止まれ! 何者だ!」

 見張り台の衛兵が、夜の闇を裂くような鋭い声で威嚇し、弓を構えた。

「怪しい者ではない! 城内で起きた異変を知らせに来た!」

 大柄な影は両手を天に掲げ、全身で無抵抗の意思を示した。妻と子供たちも、その影に倣い、静かに立つ。

「異変だと?」

 衛兵が訝しんでいると、騒ぎを聞きつけた駐屯地の団長が、足音も荒々しく姿を現した。彼は白髪混じりの髭を蓄え、その全身から歴戦の猛者の風格を漂わせる男だった。

「何事だ」

「団長、この者たちがいきなり……」

 衛兵が説明しかけた。「団長」――その呼称を、大柄な影は決して聞き逃さなかった。この部隊が、自分たちの味方、つまりは治安部隊である可能性が高い。

「団長殿! 城内にて第二王妃によるクーデターが発生しました!」

 大柄な影は、もはや躊躇することなく、叫ぶように訴えた。

「何……?」

 団長の顔色が一変した。長年王家に仕えてきた彼にとって、「謀反」という二文字は、重すぎる響きを持っていた。

「証拠はあるのか?」

 団長は厳しい声で問うた。

「証拠は……」

 大柄な影が戸惑いを覚えた、その時だった。カチャカチャと甲冑を鳴らす硬い音と共に、荒野の闇の中から、数人の騎士が姿を現した。彼らは城内の衛兵騎士団の所属を示す紋章を付けていた。

「これはこれは……駐屯兵殿。ご機嫌麗しゅう」

 彼らは駐屯地の団長に向かって、にやにやと、わざとらしいほど慇懃な礼を取った。その態度は、辺境の駐屯地を見下しているようにも見えた。

「城内の衛兵が、このような辺境地まで何の用で?」

 駐屯地の団長は眉をひそめて訝しんだ。

「城内に蛮族が入り込んだと知らせがありましてね。ここまで追ってきたのですよ」

 先頭の騎士は、門前に立つ黒い影たちを嘲笑うように一瞥した。

「ほう……」

 駐屯地の団長も黒い影たちへ視線を落とした。

「私には、単なる家族連れにしか見えないがな」

 団長は鼻で笑い、騎士たちを一瞥するように言い放った。

「まさか、こんな夜中に、ましてや嵐の中、家族旅行でもあるまいし!」

 数人の騎士たちは、下品に嘲笑うかのように声を揃えて笑った。

「とにかく!」

 ひとしきり笑い終えてから、先頭の騎士が今度は歯軋りをするような険しい顔つきで駐屯地の団長に詰め寄った。

「そいつらを引き渡してもらおう。王の命令なんでね、逆賊を討てと」

「王の……命令?」

 駐屯地の団長は、ますます深く眉根を寄せた。

「そんな命令は、我々には届いていないが?」

「そりゃそうでしょう!こんな!何もない!辺境地にいたら届きませんもの!」

 騎士たちはまた嘲笑の声を上げた。その時、状況は一変した。

「伝令!」

 荒野から一騎の伝令兵が、馬を鞭打ち駆け込んできた。

「城内にて第二王妃の謀反あり!王の安否不明!小隊が応戦中です!急ぎ救援せよと!」

 その言葉は、団長にとって疑いを晴らす決定的な雷鳴となった。彼はこれまでになく激しい怒りを露わにし、目の前にいる騎士数人を鬼の形相で睨みつけた。

「全隊、迎撃せよ!逆賊を討て!これより城内に向かう!」

 団長の号令一下、駐屯地の騎士たちが一斉に抜刀し、目の前の衛兵騎士団は瞬く間に一掃された。実戦経験に裏打ちされた治安部隊の動きは、あまりにも迅速かつ苛烈だった。

「して、おぬしたちは何者だ?」

 団長は、大柄な影に改めて問うた。

「第三王妃イヴリンの護衛のものです」

 大柄な影は、真っ直ぐな、燃えるような赤い瞳で答えた。

「ふむ……」

 団長はその瞳の光を見て、彼の言葉に偽りがないと納得したようだった。

「おぬしたちも我々について来い!」

 大柄な影にそう言い残すと、団長は部下が連れてきた自身の馬に飛び乗り、一団の先頭となって城へ急いだ。駐屯地の騎士たちも、騎兵、歩兵と隊列を組み、団長に続いた。大柄な影は、妻と子供たちに力強く頷き返し、四人で後続の部隊に加わり、城を目指した。

 嵐が通り過ぎたばかりの夜、駐屯地の軍勢は荒野を駆けた。団長はさらに、近辺の他の駐屯地に駐在している部隊にも召集するよう、幾つもの伝令を急派した。

 荒野から臨むシュヴァルツブルク城は、不気味なほどいつもと変わらぬ姿に見えた。

 *

 城門に到達し、団長は門を開けるよう促した。

「ここは誰も通すなと、上の者に厳命されております!」門番が震えながら叫んだ。

「我々は騎士団だぞ!そんな馬鹿な話があるか!」駐屯地の団長は怒号を飛ばした。

「し、しかし……」門番は戸惑う。

「貴様の上司は誰だ!その喉掻き切ってやる!」

 団長は更に怒号を重ね、門を叩いた。その威圧感に耐えきれず、門番は悲鳴を上げながら急ぎ門を開けた。そこへ、早くも近辺の駐屯地から駆けつけた別部隊が合流した。開門と同時に、騎士団は雪崩のように城内へと流れ込んだ。

 城に到達すると、不気味なほどひっそりとしていた。城の入り口には、先行した小隊が戦った後のように、鎧を纏った騎士の死体があちこちに転がっていた。駐屯地の団長は、一人ひとりの状態を確認するように見たが、息をしている者は誰もいなかった。

 城内に入ったと思いきや、シュヴァルツブルク城の入り口の中門は、再び固く閉ざされたままだった。

「おい! 扉をあけろ!」駐屯地の団長は構わず怒鳴るが、城内からの反応はない。部隊は立ち往生した。

「っく……この扉さえ開けば」団長は歯噛みした。

「我々なら内側から開けることができます。しかし……」

 大柄な影は、それが正規の手順ではなく、侵入という形になる、とは言い出せなかった。

「責任なら、儂が取る!」駐屯地の団長は即座に決断を下した。

「は!」

 大柄な影は素早く城の壁を駆け上がり、正面の扉より更に上方のステンドグラスを突き破り、城内へと侵入した。

 ロビーには誰もおらず、扉は内側から固く施錠されていた。大柄な影は急ぎ扉の閂を動かし、入り口を開放した。

「伏兵がいるかもしれん」

 駐屯地の団長は、周囲を警戒しながら言った。

「儂は王の間へ行く。各地を警戒しつつ、城内を制圧しろ。時期に援軍も届くであろう」

 まずは最初に突入した部隊で、城内の様子を伺うようだ。

「お前らも、変なことをされては敵わんからな、儂についてこい」

 団長は、大柄な影とその家族にそう命じた。大柄な影は頷き、団長と数人の精鋭騎士たちと共に、王の間を目指した。

 王の間を目指して廊下を進んでいると、第二王妃派の衛兵が近づいてきた。

「逆賊め!」

 衛兵は叫び、剣を振り上げて攻撃してきたが、団長や数人の騎士たちは、彼らをあっという間に切り伏せた。実戦経験の差は歴然としていた。

 栄華に溺れ、実戦から遠ざかっていた城内騎士団は、歴戦の治安部隊の前になす術もなく崩れ去った。治安部隊として日頃からモンスター討伐で鍛え上げられた彼らの実力は高く、城内の警備を主とする第二王妃派の騎士団を圧倒した。

 一行はついに王の間に到達し、扉を蹴り開けてなだれ込んだ。

 豪奢な王室のベッドには、既に冷たくなった王が横たわっていた。その傍らで、窓の外の白み始めた空を眺めるように、第二王妃が立っていた。彼女は血塗れの剣を手にしながら、振り返りもせず、狂気を孕んだ声で呟いた。

「わたくしに……手に入らないものなんて、ありませんでしたのに……」

 彼女は高らかに、そして虚しく笑った。その笑い声は、王室の冷たい空気に反響し、聞く者の背筋を凍らせた。
 部屋の隅では、まだ幼い第二王子が恐怖に震え、うずくまっていた。母の狂気と、目の前の惨劇に心を壊されたかのように。

「なんてことを……」

 団長は呆れたように、そして憐れむように呟いた。

「この者を反逆罪で捕らえよ」

 団長は目をつむり、ついてきた数人の騎士に第二王妃を捕らえるよう静かに命じた。騎士たちが第二王妃を取り押さえる。彼女は抵抗することなく、ただ空虚な笑い声を上げ続けていた。

 動乱が静まり返る頃、東の空から朝日が昇り、シュヴァルツブルクの黒い城壁を照らし出した。

 夜明けとともに、第一王妃とアランも城内に到着した。変わり果てた夫の姿を見て第一王妃は泣き叫んだ。アランも王室のベッドで冷たくなった父を見て、静かに涙を流した。それは、新たな時代の幕開けを告げる光であると同時に、あまりにも多くの犠牲の上に成り立つ、悲しみの光でもあった。

 城外では、黒い影の遺体を運ぼうとしていた第二王妃側の騎士が捕らえられた。
 大柄な影は、その黒い影の遺体、すなわち囮となって散った屈強な影と細身の影を認め、その場で膝から崩れ落ちた。

「兄上……」

 やりきれない思いだった。村で一番強く、時に優しく、家族思いだった兄。
 その遺体には、幸いドロテオとヴィダル、第三王子は含まれていなかった。

 こうして、第二王妃は王殺しの大逆罪を問われ、処刑された。第二王子については、情状酌量の余地ありとして極刑は免れたものの、第二王妃の実家へと送られ、一族郎党もろとも国外追放の処分となった。シュヴァルツブルクは平穏を取り戻した。しかし、その陰で失われた多くの命と、引き裂かれた家族の絆は、二度と戻ることはなかった。

 *

「……以上が、12年前にこの城で起こったいきさつだ」

 アランは、深く、疲れた声で話を締めくくった。彼の瞳は憔悴しきっていたが、その奥には、亡き父と、失われた者たちへの強い哀悼の念が宿っていた。

「そして、父の死を受けて、そのまま私が王位を引き継ぐことになった」

 彼は静かに、新たな王としての決意を口にした。

「エリオット。本当にすまないことをした」

 アランは再び深く頭を下げた。その謝罪は、王としてではなく、ただ一人の兄としての純粋な後悔だった。

 リノは、謝られてもどう答えるべきか分からなかった。ただ、無力な感情が胸を占める。実際、この場にいる当事者たち、アランも、そして自分も、あの動乱の時はまだ幼い子供だった。王位継承を巡る陰謀と暴力が渦巻く中で、彼らが個人として何かできたはずもなく、12年前の出来事はあまりにも不運としか言いようがない。ただ、巻き込まれた悲劇と、失われた母の命だけが、現実として残っている。

 しかし、その中で一つの疑問が、リノの胸に深く刺さった。

「アラン……何故、母さんはこの国に来たの?」

 天界人の母が、なぜこの「黒い王国」の王宮に、幼い自分を連れて現れたのか。そして、なぜ第三王妃という、いかにも危うい立場を選んだのか。

「それなんだが……実は私もよく知らないのだ」

 アランは困惑したように首を振った。

「突然、父がイヴリンを連れてきて、第三王妃として発表した。だが父は、イヴリンの出自や、彼女が天界から来た経緯に関する情報を、ほとんどしゃべらなかったのでね」

 アランはそう言って、広間の片隅に控えていたオスカーの方へ視線を向けた。リノもその視線を追う。
 オスカーは沈黙したままだ。彼の表情はいつものように穏やかだったが、その深い青い瞳の奥に、何かを隠しているかのような揺らぎがあった。

「それから……」

 アランは、オスカーの反応には触れずに話を続けた。

「イヴリンの墓は、庭園の近くにある王家の墓地にある。是非、見に行ってやってくれ」

 母の遺体が、粗末に扱われることなく、王家の者として丁寧に埋葬されていたことに、リノは静かな感謝を覚えた。

 12年前の出来事の全貌を知った今、母イヴリンの行動は、さらに大きな謎を呼んだ。彼女の目的は何だったのか。

(オスカーは知っているのだろうか?)

 先ほどの無言の反応が、リノの胸に疑問符を投げかける。また、イヴリンと、マテオやマヤの一族との間に、どんな深いつながりがあったのかも気になった。彼らは、リノと母を守るために命を賭して戦ったのだ。

 それに、もう一つ。

(……俺の父親は)

 これまでの流れで、一切話題にされなかった人物。自分の実の父が誰なのか。天界人なのか、それともこの国の人間なのか。

「私が話せることはこのくらいだ」

 アランは一区切りつけるように言った。

「あと、エリオットを正式に《王弟》として発表したいのだが、異論はないな?」

 リノは思考の渦中にいたため、反応が一瞬遅れた。

(王弟……そうか、今はアランが王様で、俺は弟だから……)

 新たな、あまりにも重い立場をぼんやりと考えていると、すかさずオスカーが口を挟んだ。

「その発表は、もう少し後にしませんか?」

 アランは険しい表情をオスカーに向けた。

「何故だ? 何か都合でも悪いのか?」

「いえ、まだ着いて間もないですし。リノ...いえ、エリオットが少し城の環境に慣れてからでも良いのかと」

 オスカーはリノの方を向き、いつものように優しく微笑んだ。その配慮は、リノの動揺を和らげるようにも見えた。

「ふむ……」

 アランは少し不満そうに考えた。

「まぁ急ぐ話でもないからな。着る物もまだ仕立て中と聞いている。またおいおい話そう」

 アランは、何か自分の中で納得したようにそう言って、王弟の発表を保留にした。

 リノは安堵した。王家の人間になることへの不安は、先ほど庭園で感じていた通りだった。自由を掴むためにヴィダルの元を離れたはずなのに、今度は「王弟」という、より大きな、逃れられない枷がかけられようとしている。彼は窓の外に広がる、朝の光に満ちた城下町を見つめた。あの自由な世界へ、自分はもう戻れないのだろうか。その不安が、彼の心を支配していた。

第十章 哀歓(あいかん)

 衝撃的な真実を知らされてから、数週間が経過していた。

 シュヴァルツブルクの城下町を一望できる庭園のベンチに、リノは泥のように深く腰掛けていた。見上げる空はどこまでも青く澄んでいるというのに、彼が吐き出す息は鉛のように重かった。

 ここ最近の生活は、これまでの人生とは比にならないほど過酷なものだった。
 大臣のターキンによる、王族としての振る舞いや歴史の講義。城下町の視察という名の行脚。さらには慣れない乗馬の訓練……。分刻みのスケジュールで脳と体に叩き込まれる新しい知識と作法に、リノは悲鳴を上げていた。

(王家の人間って、こんなに大変なんだ……!)

 城内を行き交う人々が、みな涼しい顔でそれぞれの職務を全うしているのを見ると、全員が超人のように思えてくる。12年間、森の村でのんびりと過ごしてきたリノにとって、この環境の急激な変化は、まるで水のない陸に打ち上げられた魚のような息苦しさを伴っていた。

(自由に過ごしてる方が楽だった……かな)

 ふと、そんな弱音が頭をよぎる。
 確かに、ここには飢えも寒さもない。お金の心配をすることもなく、命がけでモンスターと戦う必要もない。恵まれているのは痛いほど分かっている。
 だが……。

(お金なんてなくても、ギルドに居た時の方が楽しかったよ……)

 城に来てからというもの、ギルド活動は事実上の停止状態にあった。リノ自身が忙殺されていたせいもあるが、賓客として部屋を用意されているはずのカレルとレオンの姿を、城内で全く見かけなくなっていたのだ。
 広い城の中で、また一人ぼっちになってしまったような寂しさが、じわじわと胸を締め付ける。

(俺のこと……忘れちゃったのかな……)

 急に心細くなり、視界が滲みそうになる。少しは顔を見せてくれてもいいのに、と身勝手な不満さえ湧いてくる。彼らには彼らの生活があるとは分かっていても、孤独感は理屈では拭えなかった。

(俺から……誘いに行ったらダメかな……)

 そんなことをぼんやりと考えていた時だった。ふと視線を落とした先の墓地に、見慣れた人影を見つけた。
 そこは王家の墓地とは一段区画を分けた、功労者や要人のための墓地だった。そこに、マヤの姿があった。

 リノは少し迷ったが、マヤと二人きりでまともに話したことがなかったことを思い出した。彼女の背中が、どこか自分と同じ寂しさを纏っているように見え、自然と足がそちらへ向いていた。

 *

 マヤは一つの墓石をじっと見つめていた。その手には、白い花束が握られている。彼女は静かに膝をつき、その花束を墓前に供えた。

「マヤ!」

 リノが声をかけると、マヤは驚いたように肩を揺らし、振り返った。

「リノ様……。こちらに何かご用ですか?」

 いつものように凛とした、しかし柔らかな口調でマヤは答えた。

「あ、っと、その……何してるのかなって思って……」

 特に用事があったわけではないリノは、しどろもどろになった。マヤはリノの様子を察したようにふわりと笑った。

「母の墓参りをしておりました」

「お母さんの……」

 リノもつい先日、母イヴリンの墓を訪れたばかりだった。王家の墓地にあるその墓は壮大で美しく、アランがどれほど母を尊重していたかが伝わってきた。

「12年前、我々家族は無事でした。あの時、ヴィダルのお父上の判断で二手に分かれたことが、我々の命運を決めたのでしょうね」

 マヤは懐かしむように遠くを見つめた。

「あの後、我々は一旦故郷に帰ろうとも考えました。しかし、駐屯地の団長にその戦力を買われ、引き留められまして。そのまま騎士団という扱いで、城の警備を任されることになったのです」

「そうなんだ……」

「故郷って、焦土大陸? だよね?」

「ええ。もっとも、もう村自体は……存在しないのです。我々の家族と、ヴィダルの家族が、最後の一族でしたから」

 マヤは一族の衰退を淡々と語った。過酷な環境とモンスターの脅威により、彼らの一族は長い時間をかけて数を減らしていったのだという。

「私も、モンスターが荒れ狂う土地で暮らすより、ここの平穏な暮らしの方が好きですから」

 マヤはにっこりと微笑んだ。その笑顔には、過去を受け入れ、今を生きる強さがあった。

「父も母も、数年前に病で亡くなりました。手厚く弔っていただいたことに、アラン様には感謝しかありません」

 マヤの視線の先には、両親の墓が並んでいた。

「我が父は死ぬ直前まで、師父とヴィダルのことを、片時も忘れませんでした」

 その言葉に、リノは胸が詰まった。ドロテオもまた、遠い地でマヤの家族のことを想っていたのだろうか。

「すみません、暗い話をしてしまって……」マヤが申し訳なさそうに眉を下げた。

「ううん、俺、マヤの話が聞けて嬉しいよ」リノは首を横に振った。

「リノ様……」

 リノの素直な優しさに触れ、マヤの表情が和らいだ。

「マヤは……ヴィダルのこと、気になる?」

 リノは思い切って聞いてみた。

「ヴィダル……ですか。小さい頃に一緒に修行したりはしておりましたが。一応は従兄ですからね」

 マヤは少し困ったように笑った。

「とはいえ、私も幼かったもので、ヴィダル個人の記憶はあまり鮮明ではないのです」

「そう……」

 自分から切り出したものの、リノ自身、ヴィダルに対して複雑な感情を抱いているため、言葉が続かなかった。

「安心してください。ヴィダルについては、我々の方でも今、総力を挙げて居場所を探しております」

 マヤは、リノがヴィダルを心配して言葉を詰まらせたのだと解釈したようだ。

「あ、うん。ありがとう……」

 (見つかって欲しいような、欲しくないような……)
 
 複雑な心境を隠し、リノは礼を言った。

「ヴィダルの……お父さんとお母さんのお墓って……」

「ああ、こちらです」

 マヤは自身の両親の墓より、さらに奥まった場所へと案内した。そこには、少しばかり苔生した、12年の歳月を感じさせる二つの墓石が並んでいた。

「……」

 リノは無言でその墓を見つめた。母と自分を守るために囮となり、命を散らした戦士たち。アランから話を聞いた時、確信したのだ。ヴィダルがリノに向けていた冷たい眼光、その深淵にあるのが「憎しみ」であることを。
 両親を奪った元凶である自分を、育てなければならなかったヴィダルの苦悩。それは、想像を絶するものだったろう。

「マヤも……」

 リノは墓石から目を離さずに、絞り出すように聞いた。

「?」

「マヤも、俺のこと恨んでる?」

 振り返ったリノの顔は、今にも泣き出しそうに歪んでいた。

「……」

 マヤは即答しなかった。ヴィダルの両親の墓を前にして、リノが抱えている罪悪感と、ヴィダルとの歪な関係性を察してしまったからだ。マヤは一度ヴィダルの両親の墓を深く見つめ、それから、もう一度リノに向き直った。その赤い瞳には、一点の曇りもなかった。

「いいえ、私は恨んでなどいません」

 きっぱりとした口調だった。

「こうしてリノ様が生きて戻ってきてくれた。それだけで、我々一族の犠牲は報われたのです」

 マヤは聖母のように微笑んだ。

「私の両親も、生きていたらさぞ喜んだでしょう。『よくぞご無事で』と」

 その言葉に嘘偽りはないと、リノの本能が告げていた。リノはマヤを疑ってしまった自分を恥じた。しかし、マヤはそれすらも包み込むように優しくリノを見守っていた。

 柔らかい風が吹き抜け、墓地の木々を揺らした。

「そういえば……俺の母さんとマヤの一族って、どういう繋がりなんだろう?」

 少し空気を変えようと、リノはずっと疑問に思っていたことを尋ねた。

「それについては……私も分からず、申し訳ありません」

 マヤは本当に心苦しそうに首を振った。

「私も兄も、当時は両親に従うので精一杯でして。大人の事情を気に留める余裕がなかったのです」

 確かに、子供だった彼女たちが知る由もない。

「オスカー様なら……あるいは何かご存じかもしれません」

(オスカー……)

 やはり、鍵を握っているのは彼なのだろうか。オスカーは何かを知っていて、それを隠している。薄々気づいてはいた。だが、優しく接してくれる彼を疑いたくなくて、目を逸らしてきた。

(やっぱり、ちゃんとオスカーに母さんと……父さんのこと、訊かなきゃ)

 リノは決心した。

「ありがとう、マヤ」

「あまりお力になれず申し訳ありません。もしお困りのことがありましたら、これからもなんなりと仰ってください」

 マヤは深く一礼した。彼女はヴィダルと似た雰囲気を持ちながらも、その物腰は柔らかく、リノを一人の人間として対等に扱ってくれた。
 リノはマヤに改めて礼を言い、オスカーを探すために墓地を後にした。

 *

 使用人に聞き回り、リノはオスカーが応接室にいることを突き止めた。
 急いで向かうと、日当たりの良い窓際にオスカー、そしてカレルとレオンの姿があった。三人は何か話し込んでいるようだった。

「オスカー」

 リノが声をかけると、三人が一斉に振り返った。

「リノ、どうしました?」オスカーが穏やかに微笑む。

「おう、リノ! 久しぶりだなぁ! 元気にしてたかー?」

 カレルがいつもの太陽のような笑顔で手を振った。

「随分忙しい毎日を過ごしているようだな」レオンも微かに口元を緩める。

 二人の変わらない態度に、リノの心が一気に温かくなる。忘れられていなかった。その安堵感が胸を満たした。

「三人で何話してたの?」リノは努めて明るく会話に加わった。

「お二人の今後の話ですよ」

 オスカーの言葉に、リノの心臓が跳ねた。

「そろそろ、ギルド街に戻ろうと思ってな」カレルがあっけらかんと言った。

「俺たちも、いつまでもここに厄介になっているわけにもいかないからな」レオンが続く。

 リノの頭が真っ白になった。別れ。それがこんなに早く来るとは思っていなかった。

「そう……なんだ……」

 リノはあからさまに肩を落とし、俯いた。その様子を見て、カレルが慌てたように明るく言った。

「まだ先の話さ!そうだ、お前も来るか?」

「えっ!」リノが顔を上げる。

「カレル、余計なことを言っては困ります。彼は王弟殿下ですよ」

 オスカーが鋭く釘を刺した。

「あっはっは!冗談だよ、冗談」

 カレルは笑って誤魔化したが、リノの心には重い鉛が戻ってきた。

(やっぱり俺は、この城から出られないんだ……)

 王族という鳥籠。現実を突きつけられ、リノは再び沈み込んだ。

「それよりリノ。私に何か用があったのではありませんか?」

「あ、うん……」

 オスカーに訊きたいことは山ほどあった。母のこと、父のこと。だが、二人との別れ話にショックを受け、今はそんな込み入った話をする気力が湧かなかった。

「また、今度にするよ」

 リノが力なく答えると、カレルが何かを思いついたように手を叩いた。

「なぁリノ、たまには俺と散歩しようぜ!」

「散歩?」

「ずっと城に籠りっきりじゃ息が詰まるだろ?外に出ようぜ、外に!」

「良いのか?王弟がほっつき歩いて」レオンが呆れたように指摘する。

「外って言っても、隣町まで少し歩くだけだよ」口を尖らせながらカレルが言った。

「困りますね、カレル。そんな簡単に王家の人間をたぶらかしては」オスカーが眉をひそめる。

「リノだって、少しは外の空気吸いたいだろ?」

 カレルがリノにウインクした。その瞳は、「連れ出してやる」と語っていた。

「うん……俺も、たまには外に出たい」

 リノは縋るような上目遣いでオスカーを見た。

「はぁ……。まあ、少しだけなら……」

 リノの視線に負け、オスカーが折れた。

「はは!やったね~!じゃあ支度しようぜ!」

 カレルはリノの背中を押し、強引に出口へと向かわせた。レオンもやれやれと後に続く。

「ああ、そうだ。城の外へ行かれるのでしたら、ついでに私の家から取ってきてもらいたいものがあるのですが」

 オスカーが思い出したように言った。

「OK、OK!任せとけ!」

 カレルが元気よく手を差し出したが、オスカーはその手を華麗にスルーし、家の鍵をレオンに渡した。

「あなたは失くしそうなので。頼みましたよ、レオン」

「了解した」

 オスカーのにっこりとした笑顔と、カレルの不満そうな顔。そのやり取りを見て、リノは久しぶりに声を上げて笑った。

 *

 三人は旅支度を済ませ、城門をくぐった。
 道中、三人はここ数週間の出来事を語り合った。リノのスパルタ教育の愚痴、カレルとレオンが見た城下町の催し物の話。他愛のない会話が、ギルド時代の空気を思い出させ、リノの心を軽くしていく。

 しばらく歩くと、街道の分岐点に差し掛かった。

「ここを曲がれば町だ」カレルが指差す。

「俺はこのまま先生の家へ荷物を取りに行ってくる」

 レオンが言った。

「荷物を回収したらそのまま城に戻るからな。お前たちも日が暮れないうちに帰ってくるんだぞ」

 レオンはそう言い残し、一人で街道を直進していった。

「へーい!」カレルは気の抜けた返事をし、リノの肩を抱いた。「さ、行こうぜ!」

 町へ向かう途中、リノはずっと気になっていたことを尋ねた。

「ねぇ、カレルとレオンがいた『ゲンレイ』って、どんなところなの?」

「ゲンレイか……サクラが綺麗なところさ」

 カレルは誇らしげに目を細めた。

「サクラ?」

「ああ。ごつごつした太い幹に、美しいピンク色の小さな花を、それこそ視界を埋め尽くすほど咲かせるんだ。春の絶景だよ」

 カレルは身振り手振りを交えて語った。

「へぇ~……!」

 想像するだけで美しい光景だ。

「いつか……行ってみたいな……」

 リノはぽつりと呟いた。今は無理でも、いつか自由に歩き回れるようになったら。
 ……自由。そんな日が本当に来るのだろうか。リノの顔がまた曇る。

 カレルはそんなリノの横顔を見て、胸を痛めた。
 独り立ちしたいともがいていた少年の気持ちは痛いほど分かる。だが、彼はまだ若い。そして急に背負わされた運命はあまりに重い。王弟という立場は、彼を守る盾であると同時に、自由を奪う鎖でもある。

(出会って浅いが……情が湧いちまったな)

 カレルは苦笑し、リノの名前を呼んだ。

「リノ」

 リノが顔を上げる。

「ギルド活動は終わりじゃないからな。お前がまた外出できるようになったら……またその時一緒にやろうぜ!」

 カレルの笑顔は、太陽のように明るかった。

「うん……!」

 リノの胸に温かいものが込み上げた。そうだ、まだ終わりじゃない。未来はあるんだ。

 たどり着いた町は、想像よりもこぢんまりとしていた。木造の簡素な家々が立ち並び、静かな時間が流れている。
 カレルが町の入り口にあった看板を指差した。そこには掠れた文字で【願いの叶う滝・奥地遺跡】と書かれている。

「ほら見ろ、願いが叶うんだとさ。お祈りするといいことがあるらしいぜ」

「本当かなぁ?」

 リノは眉をひそめて看板を見上げた。看板自体が今にも倒れそうで、とてもご利益があるようには見えない。

「はは!お前も信仰心がないねぇ~」

 カレルは豪快に笑い飛ばした。

「ま、百聞は一見に如かずだ。ちょっと行ってみようぜ」

 カレルに促され、二人は町の目抜き通りを抜け、裏手へと続く細い道へと足を踏み入れた。
 遺跡へと続くその道は、町中ののどかな雰囲気とは一変し、鬱蒼とした木々に覆われた薄暗い獣道のようだった。頭上を覆う枝葉が太陽の光を遮り、ひんやりとした空気が肌を撫でる。歩けども歩けども、すれ違う人は誰一人いない。聞こえるのは、自分たちの足音と、風に揺れる木々のざわめきだけだ。

「な、なんか全然人がいないけど……大丈夫かな?」

 あまりの静けさと人気のなさに、リノは急に心細くなった。思わず隣を歩くカレルの上着の裾をきゅっと握る。

「モンスターでも出るのかな?確かに、町一番の売りにしては寂れてるね」

 カレルは周囲をきょろきょろと見回したが、特に警戒する様子もなく、人気のなさなど気にも留めていないようだった。その堂々とした態度に、リノは少しだけ安堵する。

 しばらく薄暗い道を歩き続けると、不意に視界が開けた。

「……あ」

 リノが声を漏らした。
 そこは、木々が切り開かれた円形の広場になっていた。その奥には、古びた石造りの祭壇のようなものが鎮座している。
 しかし、その光景は「神秘的」という言葉からは程遠かった。

 石畳はひび割れ、隙間からは雑草が背丈ほどに伸び放題になっている。祭壇の一部は崩れ落ち、苔に覆われていた。そして何より、看板にあった「小さな滝」が見当たらない。崖の上からは、ただ乾いた岩肌が露出しているだけだった。

「うーん……こりゃ願いは叶えてくれそうにないね」

 カレルが苦笑いしながら頭をかいた。

「水、枯れちゃってるね……。がっかりしちゃうな」

 リノも肩を落とした。滝つぼだったであろう場所は、ただの乾いた窪みになっていた。
 近づいて覗き込むと、そこにはかつて訪れた人々が投げ入れたのであろう、無数のお祈り用の木札が散乱していた。しかし、そのどれもが風雨に晒され、文字も読めないほどに朽ち果て、泥にまみれている。

「管理が行き届かないと、こういうこともあるさ。神様も、参拝客が来なけりゃ商売あがったりで逃げ出したのかもな」

 カレルは地面に転がる木札を爪先で軽くつつきながら、冗談めかして言った。

「ま、折角ここまで歩いて来たんだ。気を取り直して、町に戻って美味いもんでも食おうぜ!」

 カレルがパンと手を叩き、明るい声で提案した。

「うん!」

 リノも元気よく答えた。願いは叶わなくても、カレルと一緒にこうして歩けるだけで十分楽しかったからだ。

 二人が遺跡を後にしようとした、その時だった。
 空気を切り裂く鋭い音が響き、何かが二人を襲った。
 カレルが瞬時に反応し、リノを抱えて横へ跳んだ。

「誰だ!?」

 カレルが凄まじい殺気を放った。普段の陽気な彼からは想像もつかない、鋭利な刃物のような気配に、リノはたじろいだ。
 二人が先ほどまで立っていた地面は、何かに抉られたように激しく破壊されていた。

「おいおいおい、本当にいたぜ?」

 木々の影から、ドスンと重い音を立てて巨漢が降り立った。
 白と緑を基調とした奇妙な軍服。薄い水色の短髪に金色の瞳を輝かせ、その巨漢は、獰猛な笑みを浮かべていた。

 カレルはリノを背に庇い、男を睨みつけたまま動かない。
 リノも剣を抜こうと柄に手をかけた。

「リノ、剣は抜くな。……もう囲まれている」

 カレルが低く、冷静に告げた。
 リノがハッとして周囲を見渡すと、いつの間にか廃墟の陰や木々の上に、同じような白い軍服を着た集団が無数に展開し、二人を完全包囲していた。

 *

「小僧、一緒に来てもらうぜ」

 頭を短く切りそろえ、全身の筋肉が鎧のように隆起した巨体は、一歩も動かずにリノを鋭く見据えながら言った。その声は、地を這うような重低音で、薄暗い遺跡の空間に響き渡った。

(やはりリノが狙いか...)

 カレルは一瞬で状況を理解し、思考を極限まで研ぎ澄ませた。冷たい石の床の上で、彼は愛刀の柄に手をかけ、低い姿勢で巨体と対峙している。その瞳の奥には、燃えるような警戒心と、獲物を狙う獣のような静かな殺気が宿っていた。

(俺一人でここを切り抜けられるか?)

 カレルは目の前の巨体を主たる脅威として意識を集中させながらも、視界の端で周囲の状況を把握した。戦闘態勢で配置された白い軍服の集団が、遺跡の柱の陰や崩れた壁の隙間に、隙間なく十数名いることを瞬時に数え上げた。

(厄介なのは目の前のコイツだけだな...)

 目の前の巨体は、カレルの評価をあざ笑うかのように、獰猛な笑みを浮かべた。その瞬間、彼の巨体が爆発したかのような速度で、瞬時にカレルに肉薄した。地を踏み砕くような爆音と共に、巨体が手に持つ野太い長剣が、カレルの頭上目掛けて叩きつけられる。

 カレルは間髪入れずに抜刀し、その凄まじい質量と速度を持つ攻撃を、刀の腹で紙一重に受け流し続けた。彼の刀は長剣の攻撃を直接受け止めるのではなく、角度をずらして威力を逃がすという神業のような剣術で捌ききる。剣と刀の凄まじい攻防が巻き起こり、激しい金属音と共に、鮮烈な火花が散った。

 リノは息をのんだ。これまでギルドで依頼をこなした時には一切見られなかった動きだった。まるで舞うように軽やかでありながら、鋼鉄の壁のように堅固な防御。これが、本来のカレルの実力なのか...。

 その時、リノの近く、死角になっていた遺跡の柱の陰から、一人の白い軍服が音もなくゆらりと近づいた。
 リノは咄嗟に剣を抜いて抵抗しようとしたが、その兵士はリノの動きより速かった。

「リノ!」

 カレルは巨体の長剣による、袈裟懸けの一撃を間一髪で躱すと、その勢いを殺さず、自身の体をコマのようにひねりながら強烈な勢いをつけた。腰の入ったその蹴りは、巨体の腹部にめり込み、鉄板がへこむような鈍い音を立てて、その体躯を後方へ数メートル吹き飛ばした。カレルは巨体の体勢が崩れた一瞬の隙に、リノに迫る白い軍服目掛けて刀を振り、威嚇するようにけん制した。

「カレル...」リノは不安を隠せない。

(くそ!...)カレルは心の中で苛立ちに舌打ちした。

「リノ、突破口を開く、町まで逃げるぞ」カレルはリノに決断を告げた。

「お前は全力で走れ。連中の攻撃は全部俺が受け止める」カレルの言葉に迷いはなかった。

「分かった」

 リノはカレルを信じた。そして、彼の負担を少しでも減らすため、自分も全力で走ると心に強く誓った。

「行くぞ!」

 二人が走り出そうとした瞬間、白い集団が一斉に二人に襲いかかり、逃走を阻もうとした。
 カレルは刀を素早く振るい、次々と現れる敵を斬り倒していった。

 しかし、走っていたリノの前に、先ほどカレルに吹き飛ばされた巨体が、上空から再び舞い降りてきた。

「あっ...」リノは巨体に圧倒され、足が止まる。

「お前、俺と来てくれるよなぁ?」

 巨体は口の端を吊り上げ、粘着質でいやらしい笑顔をリノに向けた。その瞳は、獲物を見つけた猛禽類のようにギラついていた。瞬間、空間を切り裂くような凄まじい銀色の閃光と共に、カレルが巨体の脇腹目掛けて斬りこんだ。巨体は片手でその一撃を受け止め、またしても激しい攻防が続いた。

 リノが後ろを見ると、カレルに斬られた先ほどの白い集団が数名、血だまりの中に無残に転がっていた。しかし、草むらからはまた別の数名の白い軍服の集団が、泥の中から湧き出るように現れた。どうやら、彼らは最初からこの遺跡の周囲に潜伏していたようだ。

(キリがない...)

 リノは、増え続ける敵に焦りを感じた。

 今度は巨体が、その圧倒的な力に物を言わせ、カレルを刀ごと押し返した。カレルの足が地面を深くえぐり、砂埃が舞い上がる。カレルは既に額から頬にかけて、玉のような汗を流していた。

「流石にこの人数を一人で相手っつうのは骨が折れるんじゃねぇのか?」巨体は息一つ乱さず、カレルにいびつでいやらしい笑顔を向けた。

「はぁ、はぁ...」

 カレルの呼吸は荒く、疲労の色が濃くなっている。

(っく...俺一人じゃ無理だ...)

 心の中で、カレルは己の限界を認めた。

(このデカブツ、動きが尋常じゃない...本当に人間か?)

 カレルは戦いの中で、目の前の人物が何らかの特別な力を持っていることを肌で感じていた。

(こんなとき、レオンがいてくれたら...)

 カレルは、つい先ほど分かれたばかりの、いつもそばにいてくれた相棒の姿を無意識に思い返した。巨体がまた、轟音と共にカレル目掛けて全身で飛んできた。カレルはその素早い攻撃を躱すので精一杯で、反撃の糸口すら見つけられない。

「どうした!どうしたぁ!はははははは!」

 巨体はまるでおもちゃを乱暴に扱うかのように、哄笑を上げながら長剣を乱暴に振り回す。

(レオン...俺は...)

 カレルは次々と繰り出される攻撃を躱しながらも、意識の一部で相棒の姿を思い浮かべてしまう。

(こんなところで...やられるわけには...)

 次から次へと繰り出される長剣の猛攻。カレルは疲労と焦燥で、ついに一瞬の判断を誤った。

「!」

 その時だった。巨体の長剣が、カレルの左脇腹を貫いた。肉を引き裂く不快な音が響き渡り、カレルの顔が苦痛に歪む。

「よそ見はよくないねぇ、ちゃんと俺を見てもらわないと」

 巨体は、カレルの肩越しに、満足そうに耳元で囁きながら、いやらしい笑みを向けた。

 カレルは瞬時にしまったと思った。それと同時に、握っていた愛刀が、力を失って地面に音を立てて落ちた。

「カレルーーーーーーー!!!!!」

 リノが絶叫した。その声は悲痛で、遺跡全体に響き渡った。
 巨体は、カレルの体から剣を乱暴に引き抜いた。カレルは膝から崩れ落ち、そのまま意識を失い、冷たい地面に倒れた。地面には、カレルの体から流れた生々しい鮮血が、みるみるうちに広がっていく。

「うわああああああ!!!!!」

 リノは我を忘れ、カレルに駆け寄った。血で汚れるのも構わず、彼の力のない体を抱き寄せた。

「カレル!カレル!しっかりして!」

 カレルの意識は既になかった。彼の頬は白く、荒い息遣いすらなかった。

「なんで!なんで!」

 リノはパニックに陥った。目の前の優しかった青年が、まさか、自分を守るために...。

「あーっはっは!小僧、残念だけど。もう死んでるよ」

 巨体は、リノの悲しみを楽しむかのように、にたにた笑いながら言った。

「そんな...うぐっ...どうして...」

 リノは声を詰まらせ、とめどなく涙を流し泣きじゃくった。

「諦めて俺と来るんだ」巨体は、その巨体を揺らしながら、ゆっくりとリノに近づいた。

「いやだ...死なないでカレル...」

 そうリノが、カレルの冷たい顔を見つめて言った瞬間だった。
 リノの体から、まばゆい、白銀の輝きを放つ無数の菌糸のような光の筋が、脈動するようにゆらめき始めた。それはまるで、彼の体から命そのものが溢れ出しているかのようだった。その光の菌糸は、倒れたカレルを瞬く間に優しく包み込んだ。

「...え...?」

 リノは泣き腫らした顔で、自分自身に何が起こっているのか、完全に理解できなかった。ただ、内側から熱い何かが溢れ出すのを感じた。

 そして。

 刹那だった。

 光に包まれたカレルが、驚異的な速度で起き上がり、巨体を再び吹き飛ばしていた。しかし、この致命的な出血量では到底立ち上がることすらできないはずだ。カレルは巨体を吹き飛ばすと同時に、まるで糸が切れた人形のように、またその場に力尽きて倒れた。

「カレル!」

 リノは、その一瞬の奇跡のような反撃に目を見張りながら、倒れたカレルを再び強く抱き寄せた。

 そこへ、遺跡に拍手が鳴り響いた。白い軍服の集団を率いる、髪をオールバックにし眼鏡をかけた天界人であろう男が、静かにリノを見おろした。彼の顔には一切の感情がなく、その冷徹な視線はリノの抱きしめるカレルではなく、リノ自身に向けられていた。

「まことに素晴らしいじゃないか。探していたよ、《神子》よ」

 その天界人は、静かに眼鏡の位置を整え、冷たい微笑を浮かべた。
 リノは泣き腫らした顔で、その異様な雰囲気を持つ天界人を呆然と見た。

「連れていけ。撤収するぞ!」

 天界人は、周囲に居た白い集団に、有無を言わせぬ声で命令した。
 白い集団は、リノに駆け寄り、カレルから無理やり引き剥がした。

「やめて!放して!」

 リノは暴れ、抵抗したが、数人の白い集団たちに押さえつけられた。
 カレルもまた、簡単な担架に乗せられ運ばれていく。

「カレル!カレル!」

 リノは、喉が張り裂けんばかりに叫んだ。

「黙らせろ」

 天界人は白い集団に冷酷に命令した。白い集団は、薬を染み込ませた布をリノの顔に当て、リノの口を荒々しく塞いだ。リノはそのまま意識を失い倒れこみ、白い集団に力なく運ばれていった。

「いってーなぁ、おい!」

 先ほどカレルに吹き飛ばされた巨体が、不機嫌そうな顔で戻ってきた。彼は腹部を抑え、カレルの蹴りの威力を不満げに示している。

「本来、神の力とはああいう風に使うものだ」

 天界人は、巨体を忌々しそうに見ながら言った。

「だから?」巨体は天界人を敵意に満ちた目で睨み返した。

「フンッ...野蛮人め」

 天界人は、鼻で笑うように吐き捨てると、白い集団の後に続いた。
 巨体もまた、苛立ちを隠せない様子でその天界人に続いた。
 遺跡は凄まじい戦いの痕を残し、静寂に包まれた。

 *

 夕闇が迫り、空が茜色から群青色へと変わろうとしていた。

「遅いな」

 城の食堂で、レオンは窓の外を見つめながら呟いた。

「小さな町への散歩ですから、もう戻ってきても良い頃なのですがね」

 オスカーも不安げに外を見た。

「日が暮れないうちに帰れと言ったのに……」

 いつもなら呆れて済ますところだが、レオンの胸には得体の知れないざわつきが広がっていた。カレルは時間にルーズだが、こういう約束を破る奴ではない。

 そこへ、廊下を走る慌ただしい足音が聞こえ、マヤが食堂に飛び込んできた。

「オスカー様!」

「マヤ、どうしたのです?」

「近くの町で、何かしらの戦闘があったと……街の住人から急報がありました」

「!」

 レオンが弾かれたように立ち上がった。

「モンスターですか?」オスカーは詳細を訊いた。

「いえ……人間同士の争いだったようで。真っ白い服を着た奇妙な集団が、何十人もいたとか……」

 マヤの報告を聞いた瞬間、オスカーの顔から血の気が引いた。

「まさか……」

 オスカーは脱兎のごとく食堂を飛び出した。

「オスカー様!?」マヤはオスカーの行動に驚いた。

 レオンもまた、ただ事ではないと察し、全速力でオスカーの後を追った。

「何かあったのか?」

 後から入ってきたマテオが、マヤに尋ねた。

「兄さん、護衛の準備を!」

 マヤも武装を整え、マテオと共に二人の後を追った。

 マヤとマテオは数人の護衛部隊を引き連れ、町に到着した時には、既にオスカーとレオンの姿はそこにはなかった。
 住民の話によれば、奥の遺跡で激しい衝突があったという。

 一行は警戒しながら遺跡への細道を進んだ。
 やがて視界が開け、遺跡の広場に出た。

「これは……!」

 マヤは息を呑んだ。
 地面は抉れ、木々はなぎ倒されている。明らかに、常軌を逸した激しい戦闘が行われた跡だった。

「一体何が……」マテオが呻く。

 広場の中央に、オスカーとレオンがいた。
 オスカーは呆然と立ち尽くし、レオンは地面に膝をついていた。
 レオンの目の前には、おびただしい量の血痕が広がっていた。

「カレル!」

 レオンが叫んだ。悲痛な声が遺跡に木霊する。

「カレル!居たら返事をしてくれ!」

 レオンは必死に相棒の名を呼び続けた。しかし、返ってくるのは風の音だけだった。どこを探しても、カレルの姿も、リノの姿もなかった。

 マヤは、震える足でオスカーの元へ歩み寄った。

「オスカー様……」

「私としたことが……みすみす……」

 オスカーは深く項垂れ、悔恨に身を震わせた。
 不気味な静寂に包まれた遺跡。
 かつて人々の願いを叶えた聖地は今、神の怒りと、残された者たちの絶望を孕んでいた。

第十一章 断罪(だんざい)

 深遠なる白。

 無限に広がる、境界も輪郭もない、すべてを溶かし込むような純白の空間に、一人の女性が立っていた。

 彼女は、光に透過しそうなほど薄い薄紫色の長い髪を、ゆったりとした虚空の風になびかせている。そして、その表情はいつも同じだ。切なく、悲しみに満ち、どこか遠い場所を見つめているような眼差しで、こちらを見つめている。

(母さん、なの……?)

 リノは、夢の中のこの女性の正体をずっと知りたかった。過去に何度もこの場所に来て、言葉を交わそうとして、触れようとして、何も叶わなかった。彼女は、リノの心に深く根を張る、赦されない過去の象徴のように存在し続けていた。

「エリオット……ごめんなさい……」

 その声は、かつて聞こえなかったはずだ。それはささくれだった霧のようにつかみどころがなく、ただ音の波として存在するだけで、意味を持たなかった。しかし今、その悲痛な響きが、現実の言葉としてリノの耳に突き刺さった。

(どういうこと……?)

 リノは、その謝罪の意味を測りかねた。なぜ、この女性は謝罪するのだろう。それは、リノが今抱えている苦しみ、あるいは、十二年前にすべてを奪ったあの出来事のことだろうか?

(あれは、母さんのせいじゃないよ……)

 そう叫びたかった。あの惨劇は、誰のせいでもない。ただ、運命という名の巨大な歯車が、最悪のタイミングで回り始めた、それだけのことに過ぎない。不可抗力だった。そう、運が悪かった、としか言いようがなかった。

 リノがその言葉を呑み込もうとするより早く、女性は再び口を開いた。その瞳から、大粒の、しかし驚くほど静かな涙が零れ落ちる。

「いいえ、違うの……」

 透明な涙が白い空間に吸い込まれていく。

「あなたを……この世に産んでしまったことを……」

 その言葉は、リノの脳裏で爆発した。

「!」

 リノは、冷たい現実の感触と共に目覚めた。

 目を開くと、視界を覆ったのは、小さな白い部屋の無機質な天井だった。体温のない、病院の一室のような静けさと、消毒液のような微かな匂いが鼻腔をくすぐる。

(ここは……)

 彼は、自分が寝ていた硬いベッドからゆっくりと体を起こした。頭の中に濃霧がかかったように、記憶が錯綜し、重い倦怠感が全身を支配している。

 部屋は簡素を極めていた。ベッドの他に、プラスチック製の小さな机と椅子、そして隅に置かれた簡易式のトイレがあるのみ。出入口は、外側からしか開閉できない頑丈な金属製のドアで、小さなガラス窓が嵌め込まれている。その窓越しに、外の様子を伺う人間がいることが、リノには容易に想像できた。そして、部屋の隅、天井近くには、無機質な監視カメラの赤いランプが、冷たく点滅していた。

 リノの身に纏わされていたのは、白い病衣のようなものだ。自分の衣服、愛用していた短剣、そして何よりも大切にしていた母の形見のネックレス。それらは、すべて徹底的に取り上げられたようだった。

(どこだ?)

 錯綜した記憶の中で、最も鮮明で、最も悍ましい映像が蘇る。

 町へ出た日の、突如として始まった戦闘。そして――。

 カレルの、最期の瞬間。

(カレル……)

 リノは、今いるこの現状も、先ほどの夢の続きではないか、すべてが悪夢ではないかと、現実から目を背けようとした。しかし、握りしめた手のひらの冷たさだけが、すべてが現実であることを訴えていた。

 彼は重い体を引きずり、再びベッドに座り込んだ。その時、ドアが鋭い電子音と共に開いた。

「やっと目覚めたかね?薬が効きすぎてしまってな、すまなかったね」

 入ってきたのは、薄紫色の髪をオールバックに撫でつけ、銀縁の眼鏡をかけた一人の男だった。白衣のようなコートを着用し、その表情には、油断ならない薄い笑みが浮かんでいた。

 リノは何も答えなかった。感情が凍り付き、言葉を紡ぐ力が失せていた。

「君に色々と聞きたいこともあるのだが……まずは、体調はどうだね?」眼鏡の男は、一歩近づいて尋ねた。

 リノは、依然として口を開かない。

 眼鏡の男は、リノの沈黙を気にする様子もなく、むしろそれを予測していたかのように言葉を続けた。

 「お腹が空いてるんじゃないかと思ってね。暫くしたら食事を用意しよう」

 気遣うような、しかしどこか見透かしているような口調で言った。

 その「気遣い」の言葉が、凍り付いたリノの心に、わずかな亀裂を入れた。

「カレルは?」

 リノは、うなだれたままの姿勢で、男を見ることもなく、低い声で尋ねた。

「カレルに会わせて」

 沈黙の後、リノは続けた。その声には、懇願と、微かな希望が混じっていた。

「今は無理だ」

 眼鏡の男の返答は、あまりにもあっさりとしていた。

 リノは頭を上げ、男をまっすぐに見つめた。

 「なんで!?」

 叫びにも似た声が、無機質な部屋に反響した。

「会ったところで、何をするつもりだね?彼は……死んだ」

 眼鏡の男は、顔色一つ変えず、にこりともせずに言った。その言葉には、一切の感情の揺れがなく、ただの事実として淡々と述べられた。

《彼は死んだ》――その絶対的な事実が、リノの心臓を、全身を、粉々に砕いた。今まで見ていた悪夢も、現在のこの監禁生活も、すべて現実ではないと抵抗していた最後の砦が、この言葉によって崩壊した。

「カレルに……会いたい……」

 リノは再び俯いた。薄い水色の髪が影を作り、その顔から、止めどなく涙が零れ落ちる。それは、悲しみというよりも、行き場のない絶望と、自身への責苦だった。彼の傍に居たかった。ただ、それだけだった。

「ふむ……まぁ、代わりと言ってはなんだが……」眼鏡の男は、わずかに首を傾け、言葉を続けた。

 そこへ、眼鏡の男の後ろから、一人の研究員が「室長」と呼びかけながら近づいてきた。その研究員の後ろには、白い軍服を整然と着こなした、一人の青年が立っていた。

「おぉ、ちょうど良かった」眼鏡の男は研究員に向かって言った。

「君に会わせたい人がいてね」眼鏡の男は、横目でリノに向かって言い、青年を招き入れた。

「入りたまえ。私は部屋の外で待機している」

 そう言って、眼鏡の男は研究員と共に部屋を出ると、外の電子機器を操作し、リノの部屋の様子を冷静に観察し始めた。

 眼鏡の男と入れ替わりに、青年がリノの部屋へ入る。

 リノは、未だに俯いたままで、顔を上げようとしなかった。

「リノ」

 その声は、どこか懐かしい響きを持っていたが、同時に鋭く、凍てつくような棘が混じっていた。その刺すような声に、リノの体がピクリと反応した。

「久しぶりだな。今までどこをほっつき歩いてたんだ」

 凍てつくような冷淡な声が、リノの耳を駆け抜けた。

 長い沈黙が、二人を包み込んだ。部屋の空気は、重く、密度の高い、痛みを伴うものへと変わる。

「久しぶりに会って……言う台詞が、それなの?」

 俯いたまま、リノは言った。声は涙で掠れていたが、確かな怒気が含まれていた。

「普通はさ、元気だったか?とか、大丈夫だったか?とか、心配するんじゃないの?」

 リノは続けた。それは、相手に期待しているというよりも、ただ事実を指摘しているだけだった。

「心配……だと?」青年の眉が、ピクリと不快そうに動いた。

「俺が、お前の?」青年は、何を言っているんだとでも言いたげに、冷淡に答えた。

「逃げ出したのは、お前自身だ」

 その言葉には、「お前の責任だ」という断罪の響きが込められていた。青年は、リノの逃亡を、許すことのできない裏切りとして受け止めているようだった。

 再び、重苦しい沈黙が流れた。

 先に口を開いたのは、青年の方だった。

「俺は今、天界で暮らしている。俺自身の自由のためにな」青年は、その白い軍服の襟元に触れながら言った。

「お前はどうだ?自由を手に入れられたのか?」青年は、嘲るような冷淡さで尋ねた。

 リノは何も答えない。ただ、握りしめた両手の握りこぶしが、小刻みに震えているのが見て取れた。

 青年は、その震えを無視し、さらに追い打ちをかけるように続けた。

「十二年前、お前を守るために、俺の両親は死んだ。お前の母も死んだ」

 リノの指の関節が、白く変色するほど強く握り締められる。

「そしてまた、お前を守るために、仲間が死んだんだ」

 その「仲間」という言葉は、青年の口から発せられると、まるでナイフのようにリノの胸に突き刺さった。

「お前が自由を手に入れるなんて、傲慢なんだよ!一人じゃ何もできないくせに!お前がみんなを殺したんだ!」

 青年は、声を荒げて叫んだ。その怒りは、純粋な憎悪と、過去への執着に満ちていた。

「黙れよ!」

 リノは、俯いたまま、絞り出すような声で叫んだ。

 再び、静寂が訪れる。

 青年は、リノを軽蔑するような、感情のない目でじっと見つめた。

「リノ。俺は、お前がずっとずっと昔から大嫌いだった」青年は、一つ一つの言葉に重みを込めて言った。

「お前がいなくなってくれて、本当に良かったよ」

 青年は、自身の赤い瞳をリノの俯いた頭上から見下ろすように注いだ。

 その言葉を聞き、リノは突然、「ふふ……」と微かに笑い出した。

「何がおかしい?」青年は眉をひそめ、不快感を露わにした。

「やっと……面と向かって言ってくれたね」

 リノは、俯いたままの状態で、まるで長年の荷を下ろしたかのように言った。
 そして、その笑みは、深い蔑みへと変わる。

「俺もだよ」リノは、はっきりと、冷酷に言い放った。

「なんだと?」青年は、リノを睨みつけた。

「俺も……お前のこと……ずっとずっと大っ嫌いだったよ」

 それまで感情を押し殺し、俯いていたリノが、ついに顔を上げた。その金色の瞳は、これまでにないほどの強い光を帯び、青年を真っ直ぐに、そして容赦なく蔑むような眼差しで睨みつけた。それは、リノが十二年間、誰にも見せることなく、心の奥底で耐え忍び、押し殺してきた、ありのままの感情だった。

 青年は、その表情と眼差しを見た瞬間、長年の感情の蓄積が爆発した。彼は考える間もなく、固く握りしめた拳で、思い切りリノの顔面を殴りつけた。ベッドに座っていたリノは、その勢いでベッドから床へと叩きつけられた。

 リノが、ベッドに手をかけ、朦朧としながらも立ち上がろうとした。青年の冷徹な瞳が、容赦なくリノの脇腹を捉えた。すかさず、彼は全身の魔力を乗せたかのような力強い一撃で、リノの脇腹を蹴りつけた。

「ぐっ……!」

 リノは、激しい痛みに耐えかね、床に倒れ込んだ。青年は、倒れこんだリノの体を、何度も何度も執拗に、まるでゴミを扱うかのように踏みつけた。リノはうずくまり、ただ痛みに耐えるうめき声を上げるしかなかった。青年の顔には、リノを痛めつけた反動で、わずかな高揚と満足感が浮かんでいた。

 青年は、満足したようにうずくまっているリノをしばらく見つめた後、無言で部屋を出て行った。

 部屋の外では、電子端末でリノの様子を伺っていた眼鏡の男が、彼に注意を促した。

「困るな、大事な神子を痛めつけてもらっては」

「知るか」

 青年はそう言って、パトリックの注意を無視し、白い長い廊下を、足音も立てずに歩いて行った。
 パトリックは、床でうずくまっているリノをしばらく眺め、静かに研究員に指示を出した。

「治療室へ運んでやれ」

 天界――特務機関の施設内部では、人類の未来を変えるための細かい研究が日夜行われていた。

 厳重な警備体制が敷かれた研究フロアを、一団が歩いていた。一行の中心には、白い王国ヴァイスブルクの国王ジョゼフの姿があった。その傍らには、彼の娘である王女リリアンヌも同行していた。

「十数年前までは日用品程度のものでしたが、今では巨大なエンジンまで作れるようになりました」

 案内役の研究員が、熱心にジョゼフに説明していた。彼の声は、自信と誇りに満ち溢れていた。

「今後は、リゾート地の開拓なども視野にいれております」

 研究員は、壁一面の巨大なスクリーンに映し出された、美しいリゾート地の完成予想図を指し示した。

「海岸に近い焦土大陸を整地し、海の浄化を行えば、モンスターの活性化も静まり、より人々の暮らしが豊かになると踏んでいます」

「ほぉ……これは素晴らしい!」ジョゼフは目を輝かせ、スクリーンに見入った。彼の表情は、王国の未来に対する希望に満ちていた。

 隣に居たリリアンヌは、父とは対照的に、展示されている最先端の技術や、熱のこもった説明に、あまり興味を示していなかった。

「それで、ここに建てる施設はどんなものか決まっているのかね?」

 ジョゼフは、研究員から渡された紙のパンフレットをめくりながら尋ねた。

「それはですね……」研究員は、また得意げに、長々と計画の詳細を説明し始めた。

 リリアンヌは、父の興味が尽きない様子に内心ため息をつき、その場を離れた。

 天界は、下界の古風な街並みとは異なり、まさに近未来都市だった。ありとあらゆるものが電子化され、天界人の魔力と電子工学を組み合わせた、高度な研究が進められていた。その大義名分は、「一般の人間でも魔法を効率よく使えるように」「人々の暮らしを豊かに」という、耳障りの良いものだった。

 しかし、この天界に住む天界人たちの多くは、内心で下界の人間を見下していた。それは、リリアンヌがこの地で過ごす中で、同じ天界人との会話の節々に感じ取れる、隠しようのない傲慢さだった。

(ここは居心地が悪いわ……)

 リリアンヌは、特務機関の冷たく無機質な空気に、強い違和感を覚えていた。
 特務機関の建物の真ん中には、巨大な円柱状の吹き抜けの中庭があった。建物のどの階からでも、その吹き抜けを見下ろすことができる構造になっていた。

 階層の構造は、一階が会議室や応接室、二階が食堂、三階から六階が研究員用のトレーニングルームやリラクゼーション施設、七階から十五階が研究室および会議室、そして十五階から二十階が研究員の寮となっていた。

 リリアンヌが立っていたのは、十階あたりの研究室フロアだった。

 リリアンヌは、ガラス越しにずっと下にある中庭を見下ろした。その中央付近、空中に、六本の羽根の生えた異様な甲冑が静かに浮いていた。その甲冑は、まるで何かの儀式のように、均等な間隔で配置されていた。

(なんですの……あれ……。気味が悪いわ……)

 リリアンヌは、咄嗟にそう感じた。それは、人類の生活を豊かにするという大義名分とは裏腹に、どこか不気味で、背筋が寒くなるような光景だった。

「リリアンヌ!」

 ジョゼフが、遠方から大きく娘の名を呼んだ。

「儂は、この者たちと移動する。次の研究室へ向かうぞ」

「お父様、わたくし、少し疲れましたわ……」

 リリアンヌは、正直に疲労を口にした。

「おぉ、そうだろう。少し休んでおくと良い。しばらくしたら、ここにまた戻ってくる」

 そう言って、ジョゼフは研究員に連れられ、別の研究室へと向かった。

 リリアンヌは、再びガラス張りの吹き抜けに近づいた。今度は、下ではなく、上の方を見た。

 上層階の天井から差し込む太陽の光が、中庭をキラキラと輝かせていた。

(そういえば……)

 リリアンヌは、ふと一人の青年のことを思い出した。

(彼は……元気かしら?)

 それは、いつだったか、天界に行くと頑として聞かなかった、あの傲慢で、しかしどこか影のある青年のことだった。

(エミールから、天界にはたどり着いた話は聞いたけれど、それっきりですわ……)

 リリアンヌは、物憂げに中庭を見つめた。

 すると、通路の奥から、カラカラとキャスターを引く音が聞こえてきた。リリアンヌは音のする方を振り返ると、二人の研究員が、一人の人物をストレッチャーに乗せて運んでいるところだった。そのストレッチャーは、リリアンヌの傍を通り過ぎようとしていた。

「!」

 リリアンヌは、驚きのあまり息を呑んだ。ストレッチャーに乗せられている人物を見て、心臓が激しく脈打った。

(リノ……!?)

 まさか、と思った。見間違いだろうかと思い、リリアンヌは、そのストレッチャーの行く末を注視した。
 ストレッチャーは、少し先の角を曲がり、壁際で止まった。
 リリアンヌは、好奇心と不安に駆られ、その曲がり角に近づいた。壁を背に、そっと物陰から様子を伺う。

「あれ?おっかしいなー?カードキーが反応しない?」
「なんだ?俺がやってみよう。……うん?」

 どうやら、彼らが部屋に入ろうとしているカードキー認証端末に不調があるらしかった。

「どうする?先に医師を呼んでくるか?」一人の研究員が言った。
「そうするか」

 そう言って、二人の研究員は、ストレッチャーをそこに残し、リリアンヌのいる方面へと戻ってきた。
 リリアンヌは、見つからないように咄嗟に傍にあった大きな観葉植物の影に身を隠した。
 二人の研究員が、遠ざかったのを確認し、リリアンヌはすぐにストレッチャーに近づいた。
 そして、ストレッチャーに乗せられている人物の顔を見て、ハッとした。

「リノ……」リリアンヌは、か細い声でその名を呼んだ。

 リノの左頬は、誰かに殴られたように痛々しく大きく腫れていた。腕も内出血で少し腫れているようにも見えた。リリアンヌは恐る恐る、リノの病衣の裾を少しだけめくった。脇腹にも、明らかに誰かに強く蹴られたような、大きな痣が見えた。

(酷い……)

 それは、事故や病気の跡ではなく、明確な暴力、誰かに意図的に痛めつけられた跡だった。
 その時。

「うっ……」

 リノが、小さくうめき声を上げ、薄く目を開けた。

「リノ……!」

 リリアンヌは思わず声をかけた。リノは、その声に反応したのか、無理やり体を起こそうとした。

「あぁ!ダメですわ!」

 リリアンヌの静止を聞かずに、リノはストレッチャーから降りようとし、勢い余ってバランスを崩した。その反動で、大きな音を立ててストレッチャーが壁に激突した。キャスターにロックがかかっていなかったため、勢いよく動いたのだ。

 リノは、這いずるように床を移動し、傍にあったベンチにしがみついた。

「リノ……わたくしが分かりますか?」リリアンヌは、優しくリノに訊いた。

 リノは、ようやくの思いでベンチに座ると、まるで光が消えてしまったかのような虚ろな瞳で、リリアンヌを見た。

「レ……ネ……?」

 その呼び方で、リリアンヌは確信した。それは、彼女が初めてリノに出会った時、偽名として使った名前だったからだ。

「そうですわ。良かった、会えて。ずっと心配しておりました」

 リリアンヌは、溢れ出る涙を堪えきれず、そっとリノに優しく抱きついた。そして、腫れ上がったリノの左頬に、恐る恐る触れた。

「一体、何が……」

 リノは、相変わらず虚ろな表情でリリアンヌを見ていた。かつて見せていた、あの屈託のない快活な笑顔は、もはや思い出せないほどに失われていた。リリアンヌは、すぐに治癒魔法を唱え、リノの痛みを少しでも軽減させた。

「どうかしら……少しは痛みが引くとよいのですが……」

 リリアンヌは、リノの手を取り、優しく包み込んだ。

「……」

 リノからの返答はなかった。何かを答えようとする様子もなく、どこか思考がぼんやりしているようだった。彼の心と体は、深い絶望の淵に沈んでいるように見えた。

「リノ……」リリアンヌは、強い懸念を覚えた。一体、誰が、彼にこんな残酷な仕打ちをしたのか。

 すぐにでも、彼を助け出し、王国へ連れて帰らなければ。リリアンヌがそう決意した、その時だった。

「何をしている!」

 先ほどの研究員たちが、医師を連れて戻ってきていた。

「これは……王女さま。困ります。ここは関係者以外立ち入り禁止です」研究員は、リリアンヌを咎めるように注意した。

「ごめんなさい、この方が具合が悪そうにしていたので、治癒魔法を……」リリアンヌは、申し訳なさそうに、しかし毅然と答えた。

「取り敢えず、フロアにお戻りください」

 そう言って、研究員たちは、ベンチに座っていたリノの腕を掴み乱暴に立ち上がらせると、医師を伴い、別の場所へと移動してしまった。

(また、助けられなかった……)

 リリアンヌは、またしても何もできなかった自分の無力さに、深い自己嫌悪に陥った。
 仕方なくジョゼフのところへ戻ろうと、通路を曲がった、その瞬間。

 思い切り、誰かにぶつかった。

「きゃっ!」

 リリアンヌは、その衝撃でしりもちをついた。
 そこには、薄紫色の髪をオールバックに撫でつけ、銀縁の眼鏡をかけた、白衣のようなコートを着た天界人が立っていた。

「失礼」

 その天界人は、リリアンヌを起こすこともなく、頭の上からその一言を投げかけ、そのまま去っていった。

(本当に失礼な人だわ……!)

 淑女を起こすという最低限の礼儀もない態度に、リリアンヌは半ば憤慨しながら立ち上がろうとした。その時、足元の床に、何かが落ちているのに目が留まった。

(何かしら、これ……)

 手に取ってみると、それはこの施設の研究員のカードキーのようだった。

(さっきの人の落とし物だわ……)

 リリアンヌは、先ほどぶつかった天界人が向かった方を見た。しかし、既に天界人の姿は、長い廊下の向こうに消えていた。
 リリアンヌは、そのカードキーを見た。カードキーには、【特務機関 研究室 室長 パトリック・ボリエ】と、はっきりと書かれていた。

 リリアンヌは、周囲を伺った。近くに、他の研究員は誰もいない。

 そして、リリアンヌはそっと、そのカードキーを内側のポケットへ、大事そうにしまった。それは、この冷たい場所からリノを救い出すための、唯一の手がかりになるかもしれない。リリアンヌの瞳に、再び強い光が灯った。

第十二章 不撓(ふとう)

「面白い話が聞けて良かった」

 特務機関の眩い光に満ちた入口で、ジョゼフは満足げな笑みを浮かべ、振り返ってそう言った。その声は、重厚な石造りの建材に反響し、威厳を帯びた。

 彼の目の前には、白衣を纏った研究員たちが文字通りずらりと整列し、最前列には研究室の室長であるパトリックが立っていた。パトリックは背筋を伸ばし、一分の隙もない立ち姿で恭しく頭を下げた。

「陛下におかれましては、多大なるお時間をいただき、誠に光栄に存じます。殿下にも、お疲れのところお付き合いいただき、心よりお礼申し上げます」

 その儀礼的な言葉に、ジョゼフは小さく頷いた。
 リリアンヌは、その場に留まることなく、既に特務機関の入口に背を向け、静かに歩み出していた。彼女の心は、最新の研究報告やパトリックの過剰な丁重さとは無関係な、遥か別の場所に囚われていた。

「それでは向かうとしよう」

 ジョゼフは城の衛兵たちを従え、リリアンヌの後を追って特務機関の入り口の階段をゆっくりと下り始めた。衛兵たちの鎧が微かに鳴り、緊張感を伴う足音が響く。

 父と並んで歩きながら、リリアンヌは意を決したように訊ねた。

「お父様、ご満足されました?」

 ジョゼフは、娘の方へ顔を向けると、屈託なくニコニコと微笑んだ。彼の瞳は純粋な好奇心に満ちている。

「あぁ、もちろんさ!本当に面白かった。最先端の研究というのは、いつ聞いても心が躍る。久しぶりに訪れて良かったよ」

 ジョゼフは、古き良き伝統を重んじる王族でありながら、その実、新しいものが心から好きだった。研究員たちが熱心に語る未来の可能性や、まだ解明されていない謎についての話を聞くのは、彼にとって何より楽しい娯楽だったのだろう。

 しかし、リリアンヌの関心は、常にリノの安否という一点に向けられていた。特務機関の巨大なビルが、どれほど未来的な研究を進めていようとも、そこで行われている陰鬱な真実を、彼女は肌で感じ取っていた。

 しばらく歩いていると、ジョゼフは娘の表情がどこか暗いことに気が付いた。天界の眩しい太陽の下にもかかわらず、リリアンヌの顔には影が落ちていた。

「リリアンヌ、だいぶ疲れておるな?すこし具合が悪そうだ。帰ったら、王城でゆっくり休むといい」

 父の優しく、心からの気遣いが、鉛のように重かったリリアンヌの心に静かに染み渡る。

「お父様...」

 リリアンヌは立ち止まり、父を真っ直ぐに見つめた。その眼差しは、いつもの天真爛漫な王女のものではなく、重大な決意を秘めた女性のものだった。

「お父様、もし……もしもの話です」

 リリアンヌは、喉の奥から絞り出すように重い口を開いた。

「もし、我が家に、新しい家族が増えたとしたらどうされますか?」

 周囲を歩いていた衛兵たちまでが、ピタリと足を止めた。ジョゼフの顔から笑顔が消え、丸い瞳をさらに大きく見開いた。

「な、ななななんだって!?」

 王族と衛兵、全員が驚愕に息を呑んだ。ジョゼフは口元を震わせ、しどろもどろになる。

「それは、どういう……具体的な話なのかね?」

 ジョゼフの頭の中は、瞬時に大混乱に陥った。まさか自分が想像していたよりも早く、娘が「知らない男」と「そんな展開」になっていたとは。一体どこの誰が、愛する娘の心を射止めたのか。ひょっとして、この前の下界への旅で、何か決定的な出来事があったのではないか。ジョゼフの思考が暴走し、顔が赤くなったり青くなったりするのを見て、リリアンヌは小さく息を吐いた。

「まだ仮定の話ですわ。ですから、ご心配なく」

 そう言って、リリアンヌは再び歩き出した。その足取りは、先ほどよりもいくらか軽やかになっていた。

(リノ...もしあなたさえ良ければ...王都で、安全に暮らすことも可能ですわ...)

 リリアンヌは、リノをどうにかして助けたいと強く考えていた。特務機関が隠しているであろう非人道的な行い。少なくとも、この天界という場所で、何か良くないことが継続的に行われていることは理解できた。そして、リノがもしかしたら今も、非常に危険な状況に巻き込まれているのかもしれないという、拭い切れない不安が彼女を突き動かしていた。

(そのためには、リノに会いにもう一度、天界にくる必要があるわ...)

 リリアンヌは急に足を止め、背後を振り返った。遥か遠くにそびえ立つ、特務機関のガラス張りの巨大なビルディングが、太陽の光を反射してキラキラと輝いている。しかし、その輝きは、彼女の目には巨大で、抗い難い敵の姿のように感じられた。

 彼女は、依然として混乱の渦中にいるジョゼフを背後に残し、さっさと大通りを歩き始めた。

 天界から下界へと降りる高速エレベーターの付近は、俗世の空気を帯びた賑わいを見せていた。白い大理石の床には、いくつもの小さな店舗が軒を連ねている。色鮮やかな雑貨屋、宝石のような輝きを放つアクセサリーショップ、そして甘い香りを漂わせる美味しそうなスイーツの店々。

 可愛いもの好きなリリアンヌの興味は、すぐにその一つに引かれた。

「まぁ...!」

 彼女の目線の先にあったのは、小さなアイスクリーム屋だった。そして、そこでアイスパフェを買っている、見覚えのある四人の候補生たち。

(あれは...)

 リリアンヌは、その候補生の一団の中に、先ほど特務機関の視察中に一瞬だけ脳裏によぎった、あの青年の姿を見つけた。

「お父様、わたくしは少々用事ができましたので、先に下界へ降りていてくださいまし」

 リリアンヌはそう言い残すと、躊躇なくそちらへ向かって歩き出した。

「リリアンヌ、またか...」ジョゼフは、困り果てたように頭を抱えた。「まったく、好奇心が旺盛で困りおる」

 ジョゼフは、娘の安全を考慮して、衛兵の一人をリリアンヌを見張るように残し、他の衛兵とともに、高速エレベーターで下界へと降りて行った。

 リリアンヌは、アイスの看板を真剣に見つめているヴィダルの背中に、静かに歩み寄った。他の候補生である三人は、既に買い物を終えて、近くのテーブル席に座って待っているようだった。

「ご無沙汰しておりますわ」

 リリアンヌの、鈴が鳴るような涼やかな声に、ヴィダルは驚いて振り向いた。

「あんたは...」

 ヴィダルは、僅かに目を見開き、すぐに周囲の状況を察した。テーブル席にいる他の候補生三人が、既に好奇の目を向けてこちらを見ていることに気付き、彼はリリアンヌに小声で促した。

「悪い、少し場所を移動しよう」

 二人は、周囲の喧騒から少し離れた植え込みのそばまで歩いた。

「今日は何しにここへ?」ヴィダルは尋ねた。

「公務ですわ」リリアンヌは、深く説明する気もなく、簡潔に答えた。

 ヴィダルは、リリアンヌのきらびやかな衣装と、下界のエレベーターに待ち構えている衛兵の存在から、ある確信を得たように口を開いた。

「あんた、やっぱり王女だったんだな」

 驚いた様子もなく、最初から知っていたかのような口調だった。

「貴方がお元気そうで良かったですわ」

 リリアンヌの言葉には、一切の打算も嘘もなかった。彼女の本心だった。
 ヴィダルも、リリアンヌの真っ直ぐな青い瞳を見て、その言葉に偽りがないことを受け取った。

「まぁな」

 彼の返答は短いが、どこか安心しているようにも聞こえた。
 リリアンヌも、他の候補生たちがずっとこちらを見ながら、ひそひそ話していることに気づき、居心地の悪さを感じ始めた。ここは、長話をする場所ではない。

(リノのこと...彼に伝えた方が良いのかしら...)

 リリアンヌは葛藤した。もしかしたら、ヴィダルは既にリノの現状を知っているのかもしれない。あの壮絶な暴行の原因についても。彼がリノをどう思っているのか、尋ねるべきか。しかし、この場で、その重すぎる真実を口にするのは、あまりにも無神経に思えた。

「あの...」

 リリアンヌは切り出そうとした。しかし、口から出たのは全く違う内容だった。

「天界の居心地はよろしくて?」

「まぁな」

 ヴィダルは、先ほどと全く同じ、素っ気ない返答をした。

「そう...」

 沈黙が訪れた、その時。

「ヴィダルー!」

 テーブルに座っていた、ネイビー色のツインテールが特徴的な女性、ビアンカが痺れを切らしたように甲高い声でヴィダルを呼んだ。

 リリアンヌは、これ以上引き止めるのは得策ではないと悟った。

「ごめんなさい、お取込み中邪魔してしまって。お仕事、頑張ってくださいまし」

 リリアンヌはそうヴィダルを労い、可憐に微笑みかけると、植え込みを回り込んで、下界のエレベーター前で待機していた衛兵の元へと、早足で戻った。そして、そのまま衛兵とともに高速エレベーターに乗り込み、下界へと降りて行った。

 ヴィダルは、アイスパフェを買うことも忘れ、テーブル席に戻った。

「今のって~、王女さまでしょ?ヴィダル知り合いだったの?」

 ビアンカが、覗き込むように目を輝かせながら尋ねた。

「まぁな」

 ヴィダルは、この日三度目となる「まぁな」を口にした。

「おいおい、一般人が王女と知り合いだなんてどういうルートだ?」

 スヴェンが、驚きを隠せない様子で言った。

 「随分、親しそうだったわ...」
 
 ミリアは、俯き加減で、静かに言った。彼女の表情は暗く、寂しさが滲んでいた。
 ヴィダルは、一瞬、説明しようか迷った。しかし、彼女との出会いの経緯を話せば、必然的にリノのことを思い出してしまう。

 ヴィダルは、リノのことを忘れようとしていた。先ほど、この手で、この体で、憎しみと怒りを込めて思いっきり殴り飛ばし、感情の澱を吐き出し、ようやくすっきりさせたつもりだったのだ。もう、あの忌々しい少年について考えるのは御免だった。

「親しくなんてない。多分、もう会うこともない」

 ヴィダルは、自分の心に言い聞かせるように、きっぱりと言い切った。
 その時のヴィダルの表情は、先ほどまでの明るさを失い、ひどく暗く沈んでいたため、ミリアは悲しくなった。

「まぁ、この話はこれで終わりにしようぜ」

 空気を察したのか、スヴェンが割って入った。

「てかヴィダルはアイス食べないのー?」ビアンカが話題を変えた。
「あぁ...」
「私、買ってくるわ!ヴィダル何が食べたい?」

 ミリアは、努めて明るく振る舞い、席を立った。

「じゃぁ...チョコミント」ヴィダルが、少し恥ずかしそうに、小さな声で言った。

「ふふ。分かったわ」

 ミリアは、その思わぬ可愛らしいリクエストに微笑んだ。

(チョコミント...好きなんだ)

 ミリアは、そんなヴィダルの新しい一面を少し可愛いと思い、店頭へ歩くときも、自然と笑みをこぼしていた。

 *

「困りましたね...」

 特務機関の研究施設、奥まった一室。数名の研究員が、苛立ちを隠せない様子で、室長のパトリックに報告していた。

「あまりにも食事を摂ろうとしないので、このままでは餓死するのではないかと。これ以上、我々の実験に支障をきたされては困ります」

 研究員は、今後のリノへの対応について、パトリックに判断を仰いだ。

「ふむ...」

 パトリックは、腕を組み、冷たい目でしばらく考え込んだ。

 リノは、ずっとベッドに横たわったまま、無抵抗だった。どの研究員が部屋に来ても、何を尋ねられても、一切返事をしなかった。ヴィダルに激しく痛めつけられた傷は治療されたが、それ以降、用意される食事を頑なに拒否していた。

 カレルの死。母が夢で語った真実。ヴィダルからの予想だにしない暴行。そして、自由を求める彼を、どこまでも追い詰める救いのない世界。自由を想い求め、希望の光を信じていた少年の心は、既にボロボロに砕け散っていた。彼の瞳は虚ろな光を宿し、ただの屍のように横たわるだけだった。

(もう、どうでもいい...)

 既に体は衰弱し、力が入らない。生きるために何かをしようとする気力も、一欠片も残されていなかった。リノは、このまま静かに死を待ち続けようとしていた。

 その時、重厚な電子音が鳴り、ドアが開いた。パトリックが、冷たい表情で部屋に入ってくる。

「このまま死んでもらっては、我々としても困るのだがね」

 パトリックは、リノに投げつけるように言った。リノは、横たわったまま、返事をしなかった。

 一人の研究員が部屋に入り、机の上に置かれていた食事のトレイを片付けた。その机には、朝食として用意されたものが、手を付けられず冷たくなってずっと残っていた。別の研究員が部屋に入り、熱々の新しい食事を机に置いた。

「まったく、扱いが難しい被験体だ」パトリックは、忌々しそうに吐き捨てた。

「あとは好きにやってくれ」

 パトリックは、自分の背後に控えていた、一人の青年にそう命令した。

 パトリックと食事を用意した研究員は、リノを一瞥することもなく、そのまま去って行った。

「リノ」

 部屋に残された青年は、横たわるリノの名を、静かに呼んだ。
 リノの体が、わずかにその声に反応した。彼の虚ろな意識が、微かに覚醒する。

「俺だ」

 その声。わずかな意識の中で、その声の主を思い出す。それは…いつか、共に旅をした、下界の異国の地で、一番近しい存在だった。
 リノは、激しく痛めつけられた体を、どうにか力なくゆっくりと起こし、青年の方へ向き直った。

 彼はそこに居た。

 紛れもない、カレルだ。

「カ…レル?」

 リノは、喉が渇ききったような、力のない細い声で、その名前を呼んだ。
 まさか。そんなはずは、絶対にない。だって彼は、自分の目の前で……。これは、夢かもしれない。
 カレルは、ゆっくりとリノのベッドサイドに腰掛けた。

「ちゃんと飯食えよ。こんなに細くなっちまって」
「なんで...?どうして...」

 リノは、夢なのか現実なのか、混乱の中で震えた。
 カレルは、そっとリノの背中に手を回し、彼を支えると、ゆっくりと上半身を起こしてベッドに座らせた。その手の温かさが、リノの体の冷たさと対照的だった。

 カレルは、机にある食事のトレイをベッドまで運び、自分の膝の上に静かに乗せた。

「取り敢えず、スープからかなぁ?」

 大きめのスプーンに、暖かそうなスープをすくい、リノの口元まで、ゆっくりと運んだ。
 リノは、まるで生まれたての赤子のように、されるがままにスープを飲んだ。暖かいスープが、乾いた喉から胃へと伝わるのが、はっきりと感じられた。生気が、体の奥底に、微かに戻ってくるようだった。

 カレルは、またスープをすくい、リノの口元に運んだ。リノは、それをそのまま飲んだ。次に、カレルはパンを小さくちぎり、リノの口元に運んだ。リノはパンを食べた。口の中でもごもごさせていたら、急に、視界が滲み始めた。そして、抑え込んでいた全ての感情が崩壊し、熱い涙が、とめどなくあふれ出した。

「うぅ...うぐ...う...」

 リノは、堪えきれずに嗚咽をもらした。
 夢でも良い。幻でも良い。どうしても彼に伝えたかった言葉。

「ひっく...う...ごめんなさい。カレル、ごめんなさい...」

 カレルは、食事のトレイを一旦机に戻した。
 再びベッドに座り直すと、彼は泣きじゃくるリノを、力強く抱き寄せた。

「すまない。お前を守ってやれなくて」

 カレルは、リノの背中を、優しく、しかし確かな力で抱きしめながら、そう言った。

「うわあああ...」

 リノは、カレルにしがみつき、今まで溜め込んでいた全ての悲しみと絶望を乗せて、声を上げて泣いた。彼の泣き声は、無機質な部屋の中に、唯一の、そして生々しい生命の響きとして、静かに響き渡った。

 *
 カレルは、リノが落ち着いた後、泣き疲れて消耗しきっているリノに、改めて食事を促した。あれほど激しく泣いたのだから、さぞ体力を消耗しているはずだ。そして、数日にわたる絶食状態が続いていたことが、カレルの胸に重い不安を投げかけていた。

 リノはカレルに促されるまま、無言でスプーンを口に運んだ。空腹が満たされ、泣き疲れた心身の緊張が緩んだのだろう。リノはカレルに寄りかかるようにして、そのまま静かな眠りに落ちた。

 カレルは静かにリノを冷えきった薄いベッドに優しく横たえた。貧相な布団をそっとかけ直し、ベッドサイドに腰を下ろす。彼はそっとリノの左頬に触れた。誰かに殴られたのだろうか。治りかけの、しかし確かな痕がそこにあった。

 ふと、カレルは布団をめくり、リノの病衣に包まれた身体を見た。華奢な腕にも、青紫の痣がいくつも浮いている。

 カレルは意を決し、病衣の裾をめくりあげた。リノの腹部や脇腹にも、打撲によるものと思しき痕が点々と残されていた。

(一体、誰がこんな……)

 カレルはリノの病衣を元通りに整え、布団を直した。そして、痛むような優しさで、その柔らかな頭を撫でる。

 やがて、カレルは立ち上がった。空になった食事のトレイを手に取り、部屋を出る。

 長い廊下を進み、たどり着いたのは、広大な研究室だった。そこでは、数十人の研究員たちが、モニターを凝視し、資料を繰り、せわしなく動いている。

 カレルは一直線に、奥のデスクで資料を読んでいたパトリックの元へと歩み寄った。彼は椅子に座り、片手にはコーヒーカップを携えている。カレルはパトリックを射抜くような眼差しで見下ろしながら、持っていた食事のトレイを、投げつけるかのように乱暴に机の上に置いた。食器がぶつかり合い、甲高い音が響き渡る。

「ほう、やっと口にしたか」

 パトリックは空の食器を一瞥し、感情のない声で言った。

「体中に痣があった。虐待なんてしてねぇよな?」

 カレルは座っているパトリックを、射るような眼光で見下ろした。

「フッ……。我々が、これほど手厚く保護しているというのに。まさか」

 パトリックは冷たい笑みを浮かべ、再び資料に目を落とした。

「じゃあ、誰が」

 カレルは食い下がった。パトリックはカレルの目をしばらく見つめた後、視線を逸らし、答えなかった。

 その時だった。

「おい、呼んだか?」

 カレルの背後から、乱暴で耳障りな声が聞こえた。それは、かつて小さな町の遺跡で対峙した、あの巨体の男の声だった。
 カレルはその巨体を睨みつけた。カレルの敵意に気づいたのか、巨体はにやにやと下卑た笑みを浮かべ、カレルを見たが、何も言葉を発しなかった。

「ローマン、これからしばらくはカレルと一緒の部屋になってもらう」

 二人に目を合わせることなく、パトリックは資料を見ながら淡々と告げた。

「!」

 カレルは、冗談だろうとでも言いたげな顔でパトリックを見た。

「俺は構わないぜ〜。ちーっと散らかってるがな」

 ローマンは相変わらずいやらしい目つきで、にたにたと笑いながらカレルを見やった。

「これも実験の一つだ」

 パトリックは冷淡に言い放つ。

(……実験)

 カレルは眉根を寄せた。

「ハッ! 俺も神子として頑張らなきゃなぁ〜。くくく」

 神子。カレルがこの研究所で目覚めてから、何度も耳にした言葉だ。「神の力の使い手」。天界人とはまた異なり、神から授かった特別な力を行使できる人間がいるらしい。リノもその一人であり、カレルが死してなお、こうして動いていられるのも、神子であるリノの力によるものだった。

 そして、どうやらこの巨体もまた、神の力の使い手らしい。遺跡での戦闘で見せたあの尋常ならざる力は、神の力によるものだったのだろう。

「リノとは……」

 カレルが口を開きかけると、パトリックはすかさず遮った。

「今の彼では無理だ。まずはまともに動けるようになってからだ」

 確かに、先ほどの衰弱ぶりでは、自力で行動できるようになるまでには時間がかかるだろう。

「安心したまえ。面会はさせてやる」

 パトリックは横柄な態度で告げた。

 ちょうどその時、研究員がパトリックのもとにやってきて、カードキーを渡した。

「新しいマスターカードキーです」

「ああ、再発行すまないな」

 パトリックはそう言って、カードキーを首からかけた。

「そういうわけだ、ローマン。お前の自慢の部屋に案内してやってくれ」

 パトリックは、もう話は終わったと言わんばかりに他の研究員を呼び寄せ、ミーティングを始めた。

「くくく。じゃあ、案内しようじゃないか、カレル」

 ローマンは、ねっとりとした笑みを浮かべながらカレルを見た。

 カレルは大きくため息をつき、ローマンの後についていった。

 *

 ローマンに連れられ、長い廊下をしばらく歩くと、他の部屋とは明らかに構造の異なる一角に辿り着いた。
 ローマンは自動ドアを開け部屋に入ると、カレルの方へ振り向いた。

「ここが俺の部屋だぜ」

 その部屋は、リノがいた簡素な病室とは違い、信じられないほど広かった。リビングルーム、ダイニングまで備え、四人家族でも広々と暮らせそうな空間だ。

 しかし。

 そんな立派な部屋も、住人の雑な性格のせいか、あちこちに物やゴミが散乱し、台無しになっていた。

(汚い……)

 カレルは思わず顔をしかめた。

「寝床はこっちだぜ」

 ローマンが促す方へ、カレルは渋々向かった。寝室と言われた場所は円形の造りになっており、その奥には、巨体の住人には不釣り合いな、天蓋付きの大きなベッドが置かれていた。薄暗い間接照明に照らされている。

 この部屋もまた、所構わず物が散乱していた。

「お前の汚い寝床を見せられても困る」

 カレルはなんとか自分の寝る場所を確保しようとした。最悪、他の部屋が物置になっていたとしても、リビングのソファで凌げるはずだ。カレルが寝室から出ようとした、その時。ローマンが、出口を塞ぐように立ちはだかった。

 ローマンはカレルを思い切り突き飛ばし、ベッドに押し倒した。

「なにをす……」

 カレルが言い終わる前に、ローマンがその巨体をカレルに覆いかぶせた。

「なっ……」

「カレル。俺は知ってるぜ。お前、《両性》なんだろ?」

 ローマンはカレルの耳元で、濡れたような声で囁いた。

「!」

 カレルの動悸が激しくなる。カレルはローマンを振り払おうとしたが、ローマンはカレルをベッドに力ずくで押さえつけた。

 ローマンは、自身の厚い唇でカレルの唇を塞ぎ、無理やり舌をねじり込んだ。ローマンの舌がカレルの舌に絡みつく。カレルは身体をよじり、この巨体をどうにかどかそうともがいた。

 ローマンは、自身の股間をカレルの身体に押し付けながら、カレルの下半身の衣服を荒々しく引き下ろした。

「ぷは……」

 ようやく解放されたカレルは、荒い呼吸を繰り返した。
 ローマンは、上着を荒々しく脱ぎ捨てた。再びカレルに覆いかぶさると、その分厚い唇で、カレルの首筋を執拗に吸い始めた。

「んふっ……」

 我慢していたはずなのに、くすぐったさで思わず声が漏れてしまう。
 ローマンはそれを好機と捉え、何度も、しつこく首筋を攻め立てた。

「やめ……ろ……」

 カレルの小さな抵抗は、かえってローマンを興奮させた。
 下の衣服を脱がされて露わになったカレルの太ももを撫でまわした。
 そこからローマンの右手が、カレルの秘部を探り、探り当てた後、その太い中指を押し込んだ。

「!」

 カレルの身体が、ぞくりと反応する。
 首筋を吸いながら、ローマンは中指を秘部の内側を撫でるように動かした。
 溢れ出る愛液の卑猥な音が響く。

「はっ……」

 くすぐったさと羞恥で、カレルの声が漏れ続けた。カレルは相手の思惑通りになるまいと、身体を捩る。
 ローマンは、カレルが捩れたのを好機と捉え、今度はカレルをうつぶせにさせ、再び覆いかぶさった。
 
「お前のナカ、吸い付いてくるようで、いやらしい身体してるな」
 
 ローマンが耳元でささやいた。
 ローマンは自分の下着を脱ぎ捨て、そそり立つ太く硬い肉棒を、カレルの秘部に押し込んだ。

「あぁっ……!」

 カレルは、抑えきれない悲鳴を上げた。

「はぁ……良いね」

 ローマンは満足そうに、カレルの耳元で囁く。ローマンはカレルの腰をわずかに浮かせ、前後に動かし始めた。
 肉と肉が激しくぶつかり合う音と、それに混じって、愛液の溢れる卑猥な音が部屋に響き渡る。カレルはベッドのシーツを力いっぱい握りしめ、この猛烈な攻めに耐えるのが精一杯だった。

「はぁ……奥が締まってて気持ちいいな」

 ローマンがねっとりとした口調で言う。

「うっ……はぁ……」

 最奥を何度も突かれ、カレルはうめき声に近い、苦しげな声を漏らした。
 ふと、脳裏にレオンの顔が浮かんだ。今までずっと傍にいてくれた、相棒。もう二度と戻ることのできない、日常を思い返す。

「レ……オン……」

 相棒の名前が、カレルの口から漏れ出た。

「なンだよ、男の名前か? 嫉妬するな」

 ローマンは、更に最奥を突き上げる。

「はぁ……ん……レオ……ン、レオ……ン」

(助けて……)

 カレルはシーツを強く握り、相棒の名前を呼び続けた。
 ローマンにとってこの行為は、愛のない、ただの性欲処理そのものだった。しかし、誰かの所有物を自分が支配したという優越感が、ローマンをむしろ激しく興奮させた。

「オラァ!」

 獰猛な叫びを上げ、ローマンは激しくカレルの奥を突き、滾る精液をカレルの中に注ぎ込んだ。

「はう……」

 カレルもまた、ローマンの精液で自分の中が満たされていくのを感じた。自身の愛液とローマンの精液が溢れ出すのを感じながら、カレルはそのまま、暗い闇へと意識を失った。

 *

 その日、シュヴァルツブルクの町には、静かな雨が降っていた。

 小さな町で突如行方不明となったリノとカレルの捜索は、懸命に行われていた。しかし、オスカーにはわかっていた。彼らが連れていかれた先が、容易に手出しできない場所であることを。

 大広間には、大臣や使者、騎士団長などが集められ、重苦しい空気が満ちていた。

「それで、天界への入国は?」

 アランが肘掛けに肘をつきながら訊ねた。

「それが、入国不可の一点張りでして……。『そういった人物の入国はさせていない』と、相手側は主張しております」

 遣わした使者がアランに報告する。

「人攫いが、ふざけおって……」

 アランは忌々しげに呟いた。

「現在、ヴァイスブルクにてパスポートを申請中ですが、審査が通るかは依然不明です」

 使者は困ったように首を横に振った。

「その件ですが、どうやらヴァイスブルク国王が認可を出しても、天界側が不認可を出しているようです」

 使者とともにヴァイスブルクへ向かった騎士団の一人が報告を続けた。

「空に浮かんでいるだけあって、大層我々を見下しているようだな」

 アランは大きくため息をついた。大広間には、重い沈黙が流れた。

「こんなことをしていては、時間の無駄だ」

 沈黙を破るかのように、レオンは言い放った。

「俺は一人で天界に向かう」

「どうやって?」

 アランが肘掛けに肘をつきながら言った。

「阻むものを、全員斬り捨てるだけだ」

 レオンは冷淡に言った。その表情には、この世のすべてが敵だという、強い意志が感じ取れた。

「レオン、待ってください。そんな強行突破は……」

 オスカーがレオンを咎めた。

「俺はもう待てない」

 そう言って、レオンはコートを翻し荒々しく大広間を出ていった。

 オスカーが慌てて追いかける。

「レオン!」

 オスカーは叫んだ。早足のレオンに追いつこうと、オスカーは走った。

「待ってください、レオン。私の話を聞いてください」

 レオンは振り向きこそしなかったが、立ち止まった。

「オスカー。俺はアイツの助けを求める声が聞こえるんだ」

 オスカーに背を向けたまま、レオンは言った。そこには、いつもなら敬愛を込めて使うはずの「先生」という敬称すら無かった。

「あなたの気持ちは、良く分かります。それは、私たちもリノを想う気持ちと同じです」

 オスカーもまた、リノの身を案じていた。

「早まるのは待ってください。私に……アテがあるんです。少しだけ、時間をください」

 オスカーは懇願した。
 レオンは握りこぶしに力を入れた。何もできない悔しさでいっぱいだった。

「でも、こうしているうちにも……」

 レオンが振り返り、オスカーに苛立ちを見せた。

「分かりました。取り敢えず、私と一緒にヴァイスブルクへ向かいましょう」

 オスカーは宥めるように提案した。オスカーの表情は、いつもに増して真剣だった。
 レオンはオスカーの目を真っ直ぐに見つめた。

 シュヴァルツブルクの静かな雨は、やがて大雨に変わり、ついには雷雨となった。
 荒々しい天気が、これからの試練を予兆しているかのように。

第十三章 感情(かんじょう)

 ヴァイスブルクの城下町は、澄み渡る蒼穹に包まれていた。 雲ひとつない快晴。太陽の光が石畳の街並みを鮮やかに照らし出し、行き交う人々の表情もどこか晴れやかだ。

 リリアンヌは今、城下町で最も格式高い仕立て屋にいた。 店内は上流階級の婦人や着飾った紳士たちで混雑していたが、王女である彼女の姿を認めると、店主は恭しく最奥のVIPルームへと案内した。

「こちらでございます、リリアンヌ様」

 重厚なベルベットのカーテンで仕切られた個室に入ると、女店主は柔和な笑みを浮かべた。

「昨日、ご依頼の品が仕上がりました」

 店主は奥のクローゼットを開き、一着の衣服を丁寧に取り出した。それを部屋の中央にある長いマホガニーの机の上に広げる。 それは、白と緑を基調とした鋭利なデザインの軍服――天界の特務機関候補生が着用する制服のレプリカだった。 生地の光沢、縫製の細やかさ、そして徽章の位置に至るまで、本物と見紛うほどの精巧な出来栄えだ。リリアンヌはその服を指先でなぞりながら、じっくりと細部を確認した。

「試着してもよろしいかしら?」
「もちろんですとも」

 案内された試着室で、リリアンヌは絹のドレスを脱ぎ捨て、硬質な軍服へと袖を通した。身体のラインに吸い付くようなフィット感。鏡の前に立ち、襟元を正して女店主を呼んだ。

「どうかしら?」

 カーテンを開けると、女店主は両手を合わせて感嘆の声を上げた。

「まぁ! なんて凛々しい……。サイズもぴったりですね! 大変よくお似合いですわ!」

 恐らくいつもながらの営業トークなのであろう。しかし、そう分かっていても褒められるとやはり嬉しいものがあった。
 
「ふふ、ありがとう」

 リリアンヌは満足げに頷くと、再び私服に着替え、丁寧に畳まれた軍服をまるで聖遺物のように大事に受け取った。

「それにしても、リリアンヌ様もだいぶ物好きでいらっしゃいますね。天界の軍服をご所望だなんて……舞踏会の仮装にでもなさるのですか?」

 女店主は悪気なく笑いながら尋ねた。

「ええ、この前天界に行った時に見かけて、デザインが気になっていたの。ただの趣味ですわ」

 リリアンヌは屈託のない笑顔で答えた。その笑顔の裏にある決意を、店主が知る由もなかった。

 城の自室に戻ったリリアンヌは、すぐに準備に取り掛かった。 クローゼットの奥から、以前使っていた白い小さなリュックサックを取り出す。 ベッドの上に、先ほど受け取った候補生の軍服、白い厚底のブーツ、リュックサック、そして天界で拾ったパトリックのカードキーを一列に並べた。 それから、古ぼけた革のトランクを引っ張り出し、ベッドの上の品々を隙間なく詰め込んでいく。

 最後に、彼女は机の上に置かれた一冊のパンフレットを手に取った。それは以前、父のジョゼフが天界へ視察に行った際に持ち帰ってきた観光案内のようなものだ。リリアンヌは後半のページをパラパラとめくり、あるページで手を止めた。 そこには天界の主要施設の見取り図が記されている。彼女はペーパーナイフを取り出し、そのページを丁寧に切り取ると、小さく折りたたんだ。

 その紙切れをトランクのポケットに忍ばせ、鍵を閉めた瞬間だった。
 コンコン、と控えめなノックの音が響いた。

「どうぞ」

 その独特のリズムで、誰が来たのかはすぐに分かった。リリアンヌはドアの方を振り向きもせず、トランクの留め金を指で弾いた。

「お嬢、少し話が……」

 入ってきたのはエミールだった。彼は部屋に入るなり、ベッドの上に鎮座する大きなトランクに視線を走らせ、眉をひそめた。

「あの……また出かけるつもりじゃないでしょうね?」

 エミールはリリアンヌの背中に向かって、呆れたような、それでいて探るような声をかけた。

「何かお話があるのでは?」

 リリアンヌは彼の問いを無視し、背を向けたまま問い返した。鏡越しに見えるエミールは、軽くため息をつき、無造作に頭をかいている。

「これからちょいと恩師に会う予定なんで、暫く暇をいただきます」
「わかりました」

 リリアンヌは素っ気なく、特に問題ないといった風情で答えた。 しかし、背後の気配は消えない。エミールはまだそこに立っていた。

「まだ何か?」
「……俺がいない間は、無茶しないで欲しいんですがねぇ……」

 エミールの視線は、再びトランクへと注がれていた。 彼には分かっているのだ。自分がいない隙を狙って、彼女が何か危険な行動に出ようとしていることを。自分がそばにいれば、どんなトラブルからも守ってやれる。だが、不在の間に彼女が暴走すれば、取り返しのつかないことになるかもしれない。

 そこで初めて、リリアンヌはゆっくりと振り返った。

「天界へ行くだけですから、大丈夫ですわ」

 彼女は、これまでにないほど華やかで、一点の曇りもない満面の笑みを浮かべた。

「天界……?」
「ええ。先日天界に行った時に、素敵な雑貨屋さんがありましたの。そこに行くだけですわ」

 リリアンヌは歌うように続けた。 エミールは胡乱(うろん)な目で彼女を見た。
 
 (ふぅ……まぁ、モンスターが徘徊する下界を旅するよりはマシ……か)

  おそらく、彼女は嘘はついていないのだろう。「雑貨屋に行く」こと自体は。

 (だが、あんなデカいトランクが必要かね……?)

 エミールの表情には、依然として納得していない色が浮かんでいた。その鋭い勘を誤魔化すように、リリアンヌは一歩踏み出した。

「もう、よろしいかしら? 」
「……」

 あまり王女のご機嫌を損ねるのも得策ではない。エミールは渋々といった様子で肩をすくめた。

「また、戻りましたらお伺いします」

 そう一礼して、エミールは部屋を出て行った。 足音が遠ざかるのを確認すると、リリアンヌは顔に貼り付けていた笑みをスッと消した。そこにあるのは、冷たいほどの決意に満ちた戦士の表情だった。 彼女はトランクを持ち上げ、机の上にあった天界へのパスポートをポケットにねじ込み、部屋を後にした。

 リリアンヌが一人で天界へ行くことは、当然ながら許されなかった。 以前、護衛なしで街を出歩いたことをジョゼフに厳しく咎められていたからだ。今回は、二人の屈強な衛兵がお付きとして同行することになった。

 天界行きのエレベーター乗り場は、相変わらず独特の緊張感と熱気に包まれていた。 資材調達の業者、物珍しそうな旅行客、そして無機質な顔をした特務機関の研究員たち。入国を許された選ばれし天界人たちが列をなしている。 リリアンヌと衛兵もその列に加わった。

 巨大なガラス張りのエレベーターは10基ほど稼働しており、それぞれが10人ほどの人々を飲み込んでは、遥か上空へと吐き出していく。 リリアンヌの番になり、パスポートを提示する。係員は事務的に処理しようとしたが、その名前に気づくと弾かれたように顔を上げた。王女の存在に気づき、それまで雑に人々を捌いていた態度が一変し、揉み手をするほどの恭しい対応を見せた。

 エレベーターが上昇するにつれ、地上の景色がミニチュアのように小さくなっていく。リリアンヌはその光景を見下ろしながら、己の鼓動が高鳴るのを感じていた。

 天界に到着し、入国ゲートを抜けて商業エリアへ向かう途中だった。

「ごめんなさい、少しお手洗いに……」

 リリアンヌは立ち止まり、お付きの衛兵に申し訳なさそうに言った。

「分かりました」

 衛兵は商業施設が密集している一角にある、公衆トイレの前までついてきた。入り口で直立不動の姿勢を取る彼らに、リリアンヌは顔をしかめてみせた。

「あなたたち……こんな近くまでついてきて待っているなんて、乙女の恥じらいをなんだと思っているの? 恥ずかしいわ」
「も、申し訳ございません!」

 王女の叱責に、二人の衛兵は狼狽し、慌てて少し離れた花壇の植え込みの方へと下がった。

 リリアンヌは彼らが遠くで待つことを確認し、トイレに入るとすかさず個室に滑り込んだ。 鍵をかけると同時に、彼女の手は早まった。 トランクを開き、軍服を取り出す。ドレスを脱ぎ捨て、手早く着替える。白いブーツを履き、白いリュックサックを背負う。カードキーと見取り図の切れ端は、軍服の内ポケットへと移した。 脱ぎ捨てた私服はトランクに押し込み、そのまま個室の隅に放置した。このトランクも、王女としての衣装も、今の彼女にはもう必要のない抜け殻だった。

 鏡に向かい、優雅に結い上げていたお団子髪をほどく。波打つ髪を手早く分け、両サイドできつめの三つ編みに編み込んだ。 最後に、用意していた丸い伊達眼鏡をかける。

 鏡の中にいたのは、王女リリアンヌではなかった。 そこにいるのは、どこにでもいる生真面目そうな特務機関の候補生の一人だった。

「よし……」

 小さく呟き、彼女はトイレを出た。 花壇の方へ目をやると、衛兵たちは背を向けて何か雑談に興じているようだった。 彼らの視界の端を、軍服姿の少女が通り過ぎる。だが、それがまさか自分たちが守るべき王女だとは、夢にも思っていないようだった。

 リリアンヌは心臓が早鐘を打つのを抑え、あくまで平然を装って歩いた。そして角を曲がると、特務機関が拠点を構える高層ビルの方角へ、鋭い視線のまま足早に向かった。

 *

 その日、リノは研究員たちが利用している無機質な食堂で、味気ない朝食を摂っていた。 カレルに食事を与えられたあの日以来、リノの身体には少しずつ活力が戻り始めていた。生存本能が働くのか、その後は自然と食事を受け入れ、自力で歩けるまでには回復していた。

 しかし、あの日以降、カレルには一度も会えていない。 研究員たちは業務上の指示以外、誰とも会話をさせてくれなかった。言葉を発する機会があまりに少なく、時折、声の出し方を忘れそうになるほどだった。孤独が、冷たい泥のようにリノの心を沈殿させていく。

 ちょうど朝食を食べ終え、食器を片付けようとした時だった。 コツ、コツ、と硬質な靴音が近づき、パトリックがリノのテーブルの前に立った。

「気分はどうだ?」

 パトリックは神経質そうに眼鏡の位置を直しながら言った。

「普通です」

 リノは顔も上げずに答えた。

「普通とは? 良いのかね? 悪いのかね?」

 曖昧な言葉尻を捉え、執拗に食い下がってくる。リノは半ばうんざりしながら、投げやりに答えた。

「良くも悪くもありません」
「フンッ……。まあいい。そろそろ、君も神子としての仕事をしてもらわなければならん」

 その言葉に、リノの心の中で燻っていた憤りが再燃した。 こんな場所に拉致監禁し、自由を奪っておきながら、さらに労働を強いるというのか。人の尊厳を何だと思っている。

「嫌です」

 リノはきっぱりと拒絶した。 パトリックの目が冷ややかに細められた。

「『嫌』とは? 君に断る権利などない」

 選択肢など最初から存在しないと言わんばかりの傲慢さだった。

「カレルに会わせて」

 リノは空になった食器を睨みつけながら言った。

「ふぅ……またカレルか」

 パトリックは大仰にため息をつき、呆れたように首を振った。

「君が仕事をちゃんとこなしたら、考えてやってもいい」

 パトリックも一歩も引かなかった。 リノは唇を噛み締めた。この研究所から出られないのなら、せめてカレルに会うための交渉カードとして使うしかない。 リノは静かに立ち上がった。

「ついてこい」

 パトリックの指示に従い、他の屈強な研究員たちに挟まれる形で、リノは無言のまま連行された。 長い廊下を進み、幾重ものセキュリティゲートをくぐる。たどり着いたのは、他の研究室とは明らかに異なる、氷のような冷気が漂う区画だった。

 通されたのは、天井が高く、だだっ広い空間だった。 そこには、20台ほどのストレッチャーが規則正しく並べられ、それぞれに白いシーツが被せられている。異様な静けさと、鼻をつく消毒液の匂い。

「これを……」
 
 パトリックは手前にあるストレッチャーに近づき、無造作にシーツをめくった。

「うっ……」

 リノは咄嗟に口元を手で押さえた。 そこには、青白く変色した、見ず知らずの人間の遺体が横たわっていた。虚ろに開かれた目、生気のない肌。

「さぁ、この者を生き返らせてくれ」

 パトリックは何でもないことのように言った。まるで壊れたラジオを直せとでも言うような口ぶりで、リノに神子の力の発揮を求めた。

「無理……です……」

 まさか、ここに並べられているのは全部……。リノは激しい吐き気に襲われた。ここは遺体安置所か、それとも実験場か。

「これではダメか? それなら……」

 パトリックはストレッチャーにかけられたクリップボードのデータを確認すると、リノの腕を掴み、強引に別のストレッチャーの元へ引きずっていった。

「これはどうだ?」

 バサリ、とシーツがめくられる。今度は事故死したような損壊のある遺体だった。

「できません……っ」

 リノはその凄惨な光景から目を背けた。

「できないのではない、やるのだ!」

 パトリックの怒号が飛んだ。彼はリノを睨みつけ、逃げ場を塞ぐように立ちはだかる。

(この人たちは一体、何をしようとしているの……?)

 恐怖で身体が震え出した。

「カレルの時と同じようにすればいいだけだ。あの時できたことが、なぜ今できない」

 パトリックは苛立ちを隠そうともしなかった。 リノは震える手で、恐る恐るその遺体の腕に触れた。 冷たい。あまりにも冷たく、硬い。生気というものが完全に欠落した、物質としての皮膚の感触に、背筋が凍りついた。

「うぅ……」

 念じてみる。カレルの時のように、熱い何かが流れ込む感覚を探す。 しかし、何も起こらない。 広い部屋に、空調の低い音だけが虚しく響く。

(無理だよ……)

 カレルの時でさえ、自分に何が起こったのか分からなかった。ただ必死だっただけで、あれを再現しろと言われても、方法など分からない。ましてや、何の繋がりもない冷たい骸(むくろ)に対して、命の火を灯すことなど。

 パトリックの苛立ちが頂点に達した。

「貴様、私を馬鹿にしているのか!?」

 パトリックはいきなりリノの胸倉を掴み上げた。

「やれ!」
「できないよ!」

 リノは涙声で叫び返した。

 パンッ!

 乾いた破裂音が部屋に響き渡った。 リノの顔が弾かれたように横を向く。遅れて、左頬にじんじんとした熱い痛みが走った。

「貴様も所詮、出来損ないか。……もういい」

 パトリックは吐き捨てるように言うと、リノを突き放した。

「片付けろ」

 研究員たちに冷淡に命じ、パトリックは足早に部屋を出て行った。 リノは叩かれた頬を押さえ、涙で滲む視界の中、ただ呆然とその場に立ち尽くしていた。

 *

 リノは再び、あの小さく暗い部屋に戻された。 ベッドの上、壁の隅に膝を抱えてうずくまる。恐怖と無力感、そして頬の痛みが、彼を再び深い孤独へと突き落としていた。

 その時。 電子ロックが解除される音が鳴り、ドアが開いた。

「リノ」

 聞き覚えのある声。リノの身体が弾かれたように反応する。

「大丈夫か?」

 カレルだった。彼はうずくまっているリノのそばに歩み寄り、ベッドに膝をついて視線の高さを合わせた。 リノはおそるおそる顔を上げ、カレルを見た。 カレルの顔が、すぐ目の前にあった。心配そうに眉を寄せ、自分を覗き込んでいる。

「どうしたんだ?」

 カレルの優しい声色が、張り詰めていたリノの心の糸をぷつりと切った。

「カレル……っ」

 リノはカレルに抱きついた。 温かい。生きている人間の体温。硬い筋肉の感触。

(カレルと居ると安心する……)

 リノは無言でカレルの背中に腕を回し、シャツをギュッと掴んだ。カレルもまた、リノの背中に手を回し、あやすように優しく頭を撫でた。

 カレルはリノを落ち着かせると、ベッドサイドに並んで座らせた。 カレルは、リノの顔色が良くなり、体力が回復していることに安堵の言葉をかけた。リノは、先ほど連れて行かれた部屋での出来事、遺体への蘇生を強要されたこと、そしてパトリックに叩かれたことを、ぽつりぽつりと話した。

 カレルは相槌を打ちながら、真剣な眼差しでリノの話を聞いていた。 一通り話が終わると、カレルはそっと手を伸ばした。 先ほどパトリックに叩かれたリノの左頬を、人差し指で優しく撫でる。

「っ……」

 リノの身体がピクリと反応した。

「あ、すまん。痛かったか?」

 カレルは悪気なさそうに、申し訳なさそうな顔をした。

「ううん……」

 違う。痛みではない。 撫でられた頬から、じわりとした熱気が身体の奥底へと伝播していくような感覚。 リノは潤んだ瞳でカレルを見た。

「カレル……」
「ん?」

 カレルもリノを見返す。 カレルの表情は、どこか少し疲れているように見えた。目の下の薄い隈、少し乱れた髪。 そのやつれた姿が、なぜだろうか、ひどく色っぽく見えた。 無防備で、人間臭くて、そして自分だけに見せる優しさ。

 リノの心臓が、早鐘を打ち始めた。 もっと触れていたい。この温もりを、もっと深く感じたい。衝動が理性を凌駕した。
 リノは吸い寄せられるように顔を近づけ、そのままカレルの唇に口づけをした。
 数秒、部屋の時が止まったような静寂。 カレルは目を見開き、驚いた表情で固まっていた。

「カレル……ごめん……」

 リノは震える声でそう言うと、カレルの肩を押し、ベッドに押し倒した。 抵抗はなかった。リノはカレルの腰の上に跨り、馬乗りになった。上から見下ろすカレルの顔は、困惑と驚きに満ちているが、拒絶の色はなかった。

 リノは今にも泣き出しそうな、それでいて熱を孕んだ瞳でカレルを見つめた。

「リノ……」

 カレルはリノのその必死な表情を見て、不憫に思った。この少年は、極限のストレスの中で、温もりと繋がりを求めているのだ。

 リノは震える手でカレルのワイシャツのボタンを一つ、また一つと外し、露わになった胸板に手を這わせた。かつて遺跡の攻防で致命傷を負った部分は塞がっていた。リノはその傷を指でそっと撫でた。そして、そのそのまま跨った状態で、カレルの首筋に顔を埋めるように抱きついた。

「はぁ……カレル……」

 熱い吐息が首筋にかかる。そして、下腹部に当たる硬い感触。 カレルはリノの股間が大きく昂っていることに気づき、一瞬うろたえた。

「リノ……お前」

 リノが自分に対して欲情している。 カレルはどうするのが正解なのか、瞬時に思考を巡らせた。力ずくでリノをどけることは容易だ。戦闘訓練を受けた自分と、ただの少年。力の差は歴然としている。 しかし、震えるリノの背中を感じると、どうしても突き放すことができなかった。

「ん……カレル……ふ……」

 リノは衝動を抑えきれず、自身の股間をカレルの腹部に押し付け、腰を擦り付けた。

「ごめんな……さい……カレル」

 謝罪の言葉とは裏腹に、腰の動きは止まらない。むしろ、謝るたびに動きは切実さを増していく。

 カレルはため息を一つ吐くと、リノの頭に手を置き、わしゃわしゃと撫でた。 リノが顔を上げると、カレルは困ったように、しかし優しく微笑んでいた。 そして、カレルは無言で自らのベルトに手をかけ、衣服を緩めた。露わになった肌と、そこにある屹立した雄々しい肉棒。

 リノはその姿を見て、頭の中が真っ白になるほど感情が高ぶった。リノも急いで自分の衣服を脱ぎ捨てた。若々しく脈打つ肉棒が空気に触れる。

「ど、どうするの?」

 リノのあまりに無知で素直な問いに、カレルは思わず吹き出した。

「はは! お前、どうするつもりだったんだよ」

 カレルの笑い声が、張り詰めた空気を少しだけ和らげた。 リノは顔を真っ赤にした。この先のことは何も考えていなかった。ただ、この行き場のない熱をどうにかしたかっただけで、具体的にどうするのかなんて、知識になかったのだ。

「だって……」

 カレルはリノの手首を掴むと、その細い指を自分の秘部へと誘導し、そっと当てた。

「ここに入れて」

 甘い声での誘い。 触れた熱い粘膜の感触に、リノは衝動のまま、力任せに指を突き入れた。

「ッ!」

 カレルの身体がビクリと跳ねた。苦悶の表情が浮かぶ。

「お前、そんないきなり思いっきり入れる奴があるか」

 カレルが叱った。

「ご、ごめんなさい!」

 リノは慌てて指を止め、縮こまった。

「いきなり入れたら、痛いだろ」

 カレルはリノの手首を再び掴み、今度はゆっくりと、内壁を広げるように動かさせた。

「もっと優しく...少しずつ……やる……んだ」

 カレルの吐息が熱くなる。リノの指の周りに、だんだんとカレルの愛液がまとわりついてくる。熱く、濡れた感触。

「ん……は……」

 カレルの喉から漏れる甘い声。 愛液が溢れ、指がスムーズに動くようになる。

「リノ……もういいよ……」

 カレルが潤んだ瞳で見上げた。 その合図に、リノは指を抜き、代わりに自分の震える肉棒をあてがった。

「ん……」

 カレルの身体にぐっと力が入る。 リノは意を決し、そのまま腰を沈めた。熱く、狭い肉の回廊がリノを受け入れる。カレルの中が、リノの肉棒をきつく締め上げた。

「カレル……気持ちい……」

 リノはあまりの快感に、脳が痺れるような感覚を覚えた。声が勝手に漏れる。カレルは顔を背け、枕に顔を埋めた。年下の少年に貫かれ、こんな醜態を晒している自分が恥ずかしかった。だが、その背徳感がさらに感覚を鋭敏にさせた。

 リノは本能のままに腰を動かし始めた。最初は恐る恐る、ゆっくりと。しかし次第に、抑えきれない欲望が爆発し、激しく打ち付けるようになった。二人の動きに呼応するように簡易的なパイプベッドの軋む音が、静かな部屋に響き渡る。

「はぁ……はぁ……」

 リノは獣のように、全ての欲望をカレルにぶつけた。 カレルは枕を両手で強く握りしめ、リノの激しい突き上げを受け止めていた。

「ん……はぁ……ッ」

 リノはカレルを見下ろした。ギルドで親切にしてくれた物知りな青年。遺跡で圧倒的な戦闘力を見せつけた軍人。自分などが敵うはずもない強者が、今、自分の下で無防備な姿を晒し、自分の欲望に従順に喘いでいる。 その事実は、リノにかつてないほどの優越感と支配欲をもたらした。

(ごめん……カレル……犯したい)

 もっと、この人をめちゃくちゃにしたい。自分のものだという証を刻みつけたい。
 リノはカレルの揺れる肉棒を握りしめ、自分の腰の動きと連動させるように扱いた。

「ん……あ……リ……ノ……ッ!」

 内側と外側、同時に攻め立てられ、カレルの身体が弓なりにのけぞる。 リノはカレルの足を大きく開かせ、最奥を激しく突いた。

「ごめんカレル、俺……っ!」

 限界が来た。 リノは叫び声を上げながら、熱い精液をカレルの中に勢いよく注ぎ込んだ。同時に、リノが握りしめていたカレルの肉棒からも、白濁した液が溢れ出した。

 リノは力が抜けたように、カレルの上に覆いかぶさった。 最後に、カレルに優しい口づけを落とす。 全力疾走した後のような激しい脱力感が二人を襲い、しばらくの間、荒い呼吸音だけが部屋に満ちていた。

 カレルもぐったりと目を閉じていた。 ようやく呼吸が整い始めた頃、リノはゆっくりと身体を起こし、カレルの中から肉棒を引き抜いた。 カレルの秘部からは、自身の愛液とリノの精液が混ざり合い、とろりと垂れ落ちていた。

(すっごい……えっちだ……)

 その光景の妖艶さに、リノは再び下腹部が熱くなるのを感じた。 だが、同時に冷静さも戻ってきた。

 リノは部屋にあったタオルを手に取り、カレルの身体を丁寧に拭いた。 そして、襲うような形で行為に及んでしまった罪悪感が押し寄せた。嫌われたのではないか、軽蔑されたのではないか。

「カレル……ごめんなさい」

 リノは消え入りそうな声で謝った。
 カレルは身支度を整えると、ベッドサイドに座った。そして、不安げなリノの顔を覗き込んだ。

「お前も、男だもんな」

 カレルはそう言って、さっぱりとした笑みを浮かべ、リノの肩をポンポンと叩いた。

「じゃあな」

 そう言い残し、カレルは部屋を出て行った。 残されたリノは、呆然とドアを見つめていた。
 ショックだった。 自分はカレルに対し、愛情を持って接したつもりだった。けれど、対するカレルは「性欲処理をしただけ」とでも言うような、あっさりとした反応。

(俺、もしかして軽くあしらわれたのかな……)

 子供扱いされたような、あるいはただの生理現象として処理されたような虚無感。
 しかし、身体の芯には確かな満足感が残っていた。

(気持ちよかったな……)

 リノはベッドに倒れ込み、先ほどの行為の余韻に浸った。カレルの体温、声、感触を反芻する。
 その一部始終を、部屋の隅にある監視カメラのレンズが、無機質に捉え続けていた。

 *

 カレルは、リノの残した熱をその身に纏ったまま、無機質な長い廊下を歩いていた。先ほどの情事の生々しい余韻がまとわりついていた。身を清めたい。汗と共に、胸の奥に澱のように溜まった複雑な感情も洗い流してしまいたかった。 足早に歩を進めていた、その時だった。

 世界が、ぐらりと傾いた。

「っ……?」

 突如として、脳髄を直接鷲掴みにされたような強烈な眩暈がカレルを襲った。視界がノイズ混じりの映像のように明滅し、平衡感覚が消失する。 カレルは咄嗟に壁に手を突いたが、身体を支えきれず、その場に片膝をついた。冷たい床の感触が膝頭に伝わる。

(なんだ……これは……)

 空間そのものが歪んでいるような、奇妙な感覚だった。 自分の輪郭が曖昧になり、肉体という器から魂がずり落ちていくような不快感。指先が自分のものではないように冷たく、遠い。 まるで、操り人形の糸が突然断ち切られたかのように、力が入らなかった。

「うっ……」

 脂汗が額を伝う。立ち上がろうと足に力を込めるが、筋肉が命令を拒絶している。 視界の端が黒く塗りつぶされ、意識が混濁し始めたその時。歪む空間の狭間から、一人の人影が音もなく現れた。そして、冷え切ったカレルの肩に、そっと手を置いた。

 その瞬間、青年の手から、金色の菌糸のような光の束が溢れ出した。 それは生き物のようにうごめきながら、カレルの皮膚の下へと滑り込み、血管を伝って全身へと駆け巡った。

 熱い奔流が体内を駆け抜ける。それは不快な熱さではなく、乾ききった大地に水が染み渡るような、根源的な充足感だった。ノイズ交じりだった視界が、急速にクリアになっていく。ずり落ちそうだった魂が、再び肉体にしっかりと縫い付けられたような感覚。

 カレルは深く息を吸い込み、乱れた呼吸を整えた。顔を上げると、そこには見知らぬ青年が立っていた。

「すまん、助かった」

 カレルは壁に手をつきながら身体を起こし、礼を言った。 目の前の青年は、薄水色の髪を綺麗に切り揃えている。金色の瞳が、カレルをじっと見下ろしていた。

「《天使》は本来、《神の力》の定期的な供給がなければ維持できない」

 青年は、さも当たり前のことのように言った。

「……天使?」
「そう。君は《天使》だろう?《主》から与えられていないのか?」

 青年は不思議そうに首を傾げた。
 カレルは眉をひそめた。何を言っているのか、全く理解が追いつかない。

「何を言っているのかさっぱり分からないな」

 カレルがめんどくさそうに言うと、 青年は独り言のように続けた。

「ローマンは一番神に近い存在だが、あいつは自分以外の人間に神の力を使えない」

 青年はカレルに視線を戻すと、その金色の瞳を細めた。そこには、歪んだ自負と、悲痛なほどの承認欲求が見え隠れしていた。

「僕なら、君に力を与えることができる。見ての通りね」

 青年は自分の手のひらを見つめ、握りしめた。

「僕は……出来損ないなんかじゃない」

 誰に対する言い訳なのか、あるいは自分自身への鼓舞なのか。青年は低い声でそう呟くと、カレルに背を向けた。

「待て、お前は……」

 カレルが呼び止める間もなく、青年は足音もなく廊下の角を曲がり、姿を消した。

(なんだ? あいつ……)

 先ほどまでの不調が嘘のように、身体が軽い。力が漲っている。

(神の力……か)

 カレルは自分の掌を見つめた。人を生き返らせたり、肉体を強化したり、あるいは今のように他者の活力を補填したり。 この研究所の人間たちが、その神秘的な力に躍起になるのも無理はないのかもしれない。それはまさしく、人知を超えた奇跡の御業だ。

 しかし。

(ここの連中は、そうまでしてなぜ《神の力》にこだわるんだ?)

 カレルの中で、疑問がどす黒く渦巻いていた。パトリックの狂気を孕んだ目や、ローマンのような怪物の存在を見ていると、もっと根源的で、おぞましい目的があるように思えてならない。カレルは再び長い廊下を歩き出した。

 *

 窓から差し込む陽光が、白いテーブルクロスを眩いほどに照らしていた。 特務機関の食堂は、研究所の重苦しい空気とは裏腹に、皮肉なほど開放的で明るかった。午前中の過酷な座学研修を終えた候補生たちが、三々五々、昼食を求めて集まってきていた。 ヴィダル、ミリア、ビアンカ、そしてスヴェンの四人も、席を探していた。

「ねね! 今日はここにしよ!」

 ビアンカが窓際の一際日当たりの良い丸テーブルを指差し、小走りで確保した。

「そうね、気持ちよさそう」

 ミリアもにっこりと微笑み、ビアンカの向かいに座った。

「今日は何を食べようか……ここのシチューは意外と悪くないんだが」

 スヴェンがメニュー表を見ながら真剣に悩み始めた。 ヴィダルもまた、何を食べようかぼんやりと考えていた。

 その時だった。 ガシャンッ、と激しい音が食堂に響き渡った。食器がひっくり返り、トレーが床に叩きつけられる音だ。 食堂中の視線が一点に集中する。

「もういっぺん言ってみろ!」

 怒声が飛んだ。 声の主は、薄水色の髪を綺麗に切り揃えた、華奢な青年だった。彼は全身をわななかせ、目の前に立つ大柄な候補生に激しい剣幕で食って掛かっていた。

 ヴィダルは目を細めた。

「出来損ないだと言ったんだよ。聞こえなかったか?」

 対峙している候補生は、周りにいる取り巻きたちと一緒に、下卑た嘲笑を浮かべていた。

「……ッ!」
「なんだその目は。悔しいなら、その自慢の力を使って俺を殴り飛ばしてみろよ」

 候補生は両手を広げ、挑発するように青年に近づいた。周りの見物人たちからも、クスクスという笑い声が漏れる。

「殺してやる……!」

 青年は叫び、右の拳を振り上げた。しかし。

「おっと」

 候補生は呆れるほど簡単にその拳をかわした。青年の動きは素人そのものだった。 候補生は流れるような動作で、がら空きになった青年の腹部に強烈な前蹴りを叩き込んだ。

「ぐぅッ……!」

 鈍い音が響き、青年は床に崩れ落ちた。腹を抱えてうずくまり、苦痛に呻く。 金色の瞳が見開かれ、床のタイルを睨みつける。

「あっははは! なんだよそれ!」

 周りがどっと沸いた。嘲笑の嵐が青年を打ち打つ。

「おいおい、候補生以下だなお前。神の力が泣いてるぜ?」

 蹴った候補生は、ゴミを見るような目で見下ろし、捨て台詞を吐いた。

「くそ……くそッ!」

 青年は悪態をつきながら、よろよろと立ち上がった。屈辱に顔を歪め、逃げるようにその場を去っていく。その背中はあまりに小さく、惨めだった。

「やぁねぇ、相変わらず。騒々しいわ」

 ビアンカが頬杖をつきながら、その一部始終を冷めた白い目で見送った。彼女にとっては、メニュー選びの邪魔をされたことの方が重大事のようだ。

「候補生……ではなさそうだったが」

 ヴィダルが呟くと、スヴェンが水を一口飲んでから答えた。

「《神子》さ。この研究所には、神の力の使い手が二人いる。ローマンと、フィンだ」

「二人……」

 ヴィダルの心臓がドクリと跳ねた。 公式には二人。

(そうか……まだリノの話は降りてきていないんだな……)

 恐らくリノは、機密扱いになっているのだろう。 そこでヴィダルはハッとした。まただ。忘れよう、関わるまいとしているのに、リノの存在が影のように纏わりついてくる。どこまでも鬱陶しい、あの少年の面影。ヴィダルは頭を振り、雑念を払拭しようと努めた。

「ヴィダル?」

 その微かな動揺を見逃さず、ミリアが心配そうに覗き込んできた。

「あ……あぁ、なんでもない」

 ヴィダルは平然を取り繕い、詳細を訊こうとスヴェンに向き直った。

「ところで、そのローマンとフィンというのは?」

「ああ。さっきのがフィンだ。神子と言っても、奴は肝心の神の力をまともに扱えないと聞いている」

 スヴェンは声を潜めて説明した。

「それから、以前研修室で見たかもしれないが、かなりの巨体をした男が居るだろう。あれがローマンだ。奴は神の力を使って自分の肉体を異常なまでに強化できるらしい。戦闘力だけで言えば、化け物クラスだ」

 そういえばそんな巨体をどこかで見たかもしれなかったと、ヴィダルは思い返した。
 
「神の力……そんなに重要なものなのか?」

 ヴィダルの問いに、スヴェンは真顔で答えた。

「重要さ。人を蘇らせることができるんだから」

 その言葉は、食堂の喧騒の中で、そこだけ音が消えたかのように重く響いた。

(やはり、候補生たちも研究所で行われている死者蘇生の実験を知っていたのか……)

 ヴィダルは以前、実験室で戦わされた白い甲冑のことを思い出した。

「人を蘇らせて……どうするんだ」

 ヴィダルはぽつりと呟いた。

「肉体は滅ぶかもしれないが、器さえ取り換えれば、人は生き続けることができる」

 スヴェンは遠くを見るような目をした。

「永遠に、ね」

 ヴィダルの脳裏に、実験室で放ったパトリックの言葉が蘇る。『神の力を使えば、人は死を超越し、再び生を得ることができる』。 だが、あの時見たものは、明らかに魂なき骸が動いているに過ぎなかった。あれを「生きている」と呼べるのか。

「魂を……」

 それまで黙って聞いていたミリアが、静かに口を開いた。

「魂を器に呼び戻せるのは、完全な神子だけなの。室長が行っている今の実験は、死体を無理やり動かしているようなもの。ロボットを動かしていることと、本質的には変わらないわ」

 ミリアの言葉は鋭く、そして正確に核心を突いていた。彼女の聡明さが、この時ばかりは冷酷な事実に輪をかけていた。

「まぁ、その魂を呼び戻せる奴が現状居ないってことなんだけどね~」

 ビアンカが軽い調子で言った。彼女なりの、重苦しい空気を払拭する気遣いなのかもしれない。

「ミリア、ごはんとってこよ~? お腹空いて死んじゃう!」

 ビアンカに手を引かれ、ミリアは席を立った。二人の背中を見送りながら、スヴェンは独り言のように続けた。

「昔は、神子を量産しようと、神の遺伝子を使い、天界人の女性を使って無理やり孕ませていたらしいがな」

 スヴェンは淡々と言った。おぞましい歴史を語る。

「神子は本当に稀有な存在だ。適合せず、母体ごと死ぬケースが大半。運良く生まれても、力が発現しない『失敗作』として、闇に葬られたり、堕胎させられた者も数知れないらしい」

 吐き気が込み上げてくる。 この美しい白亜の研究所の地下には、どれほどの屍が埋まっているというのか。

「つまり、ローマンもフィンも、そうやって作られた存在ってことだよ」

 スヴェンは言った。

「だから神の力を持ってるってだけでも、例え不完全でも今後に期待され、重宝されるのさ」

(まさかリノは……)

 ヴィダルは考えたくなかった。リノもまた、そうした狂気の実験の果てに生まれた存在なのか。

「だが、もし本当に魂を操り、完全な蘇生を行える神子がいるのだとしたら……」

 スヴェンはニヤリと笑った。それは好奇心と、微かな畏怖が入り混じった笑みだった。

「そいつこそが、本物の《神》だな」

 ヴィダルはふと、窓際に置かれた観葉植物に目をやった。 たっぷりと陽光を浴び、その葉は青々と茂り、表面はワックスを塗ったようにキラキラと輝いている。美しい、生命の象徴のような姿。光り輝く天界の理想。その裏側で蠢く、醜悪な欲望と実験。
 澄み渡る青空が、今はただ、嘘くさく見えた。

第十四章 禍神(かしん)

 ヴァイスブルク駅は、この都市の終着点を示すように、閑散とした空気を纏っていた。冷えた石畳のホームに、重々しい列車の鉄輪の音が響き、やがて轟音と共に、煤けた車体が滑り込んできた。

 プラットフォームに降り立つ人々が、旅の疲れを滲ませながらぞろぞろと改札へと向かう中、エミールは一人、人波に逆らうように目を凝らしていた。終点の静寂とは裏腹に、彼の胸中には一抹の予感があった。

 やがて、人々の頭上を越えて、一人の男性と目が合った。エミールはその懐かしい顔立ちに小さく片手を挙げ、彼の元へと歩み寄った。

「ご無沙汰してます、オスカー」

 エミールは、かつての恩師に、まるで仕官時代の訓練を思い出すかのように丁寧な一礼をした。

「エミール。随分久しぶりですね」

 オスカーは、穏やかながらも、どこか俗世の喧騒から離れていた隠遁生活を懐かしむような、深みのある挨拶を返した。

「まさかあなたがシュヴァルツブルク近郊にいるとは思いませんでしたよ」

 エミールは恩師への軽い呆れと驚きを込めて言った。

「えぇ、しばらく俗世から離れたいと思っておりましたのでね。静かな場所で思索を巡らせるのも悪くはない」

 オスカーは、これまでの日々を振り返るように静かに目を閉じた。

 その時、エミールはオスカーの背後にずらりと並んだ一行を見て、思わず目を丸くした。黒を基調とした騎士の甲冑、民族的な装束、そして武人然とした男女。

「……だいぶ、大人数ですね」

 エミールは苦笑いを浮かべた。その数ゆえに、通行人が避けながら通り過ぎていく。オスカーはそれに気づき、場所を移動するよう提案した。エミールは一行を城下町で一番大きな酒場へ案内した。昼下がりの喧騒を避けるため、奥の一室を貸し切りにした。

「それで、改めて、こちらの方々は?」

 オスカーは頷き、簡潔に一行を紹介し始めた。

「シュヴァルツブルク騎士団、副団長ハイラムです」副団長とそのお付きの二人の騎士が、一糸乱れぬ動きで礼をした。

「そして、こちらがマテオとマヤ。私の護衛です」

 黒い装束を纏ったマテオとマヤは、鋭い眼差しの中に騎士とは異なる規律を感じさせた。

「そして彼は、東洋大陸ゲンレイの軍人のレオンです」

 そのあまりにも妙な、多国籍で異質な組み合わせに、エミールの頭は一時的に混乱した。

「オスカー……だいぶ顔が広いんすね……」

「それで、エミール。本題に入りましょう。取り急ぎ、我々を天界へ取次願いたいのです」

 オスカーの言葉は、その場にいる重役たちが押しかけてきた理由として、エミールの予想通りではあった。
 しかし、その願いは容易には叶えられない。

「オスカー、無理です。ご存知の通り、俺も今や出禁になってるんです」

 エミールは疲れたように言った。

「ですが、パトリックと連絡くらいはつくでしょう?」

 オスカーは懇願するように言った。

「うーん……」エミールは唸った。連絡と言えるほど直接的なやりとりはしていない。全て、人を介する伝言に過ぎない。

「天界に行く理由とは?」話の繋ぎとして、エミールが訊いた。

「シュヴァルツブルクの王弟が、特務機関に攫われました」オスカーは、その事実をきっぱりと言い放った。

「それは本当なんですか?」エミールは問い返した。最近、そんな大きな騒ぎが彼の耳に入ってこなかったことを不審に思ったからだ。

「シュヴァルツブルク近辺の町で行方不明になったのですが、住人の目撃証言があります」マヤが口を開いた。「騒動があった際、10人近くの白い服を着た集団がいたと」

 服装を聞く限りでは、確かに特務機関と関係があるようにも思えた。

「それが本当だとして。アイツが本当のことを言いますかね?」エミールは、権力欲にまみれたパトリックの胡散臭い顔を思い出しながら、懐疑的な視線を向けた。

「だから我々が直接行って確かめるのです」オスカーは、その決断に絶対的な自信を滲ませた。

「うーん……」エミールはまたしても深く唸り、部屋には重い沈黙が流れた。

 その沈黙を打ち破ったのは、苛立ちを募らせていたレオンだった。

「どうにもならないなら、やはり俺は罪を犯してでも行く」

 その殺気立った言葉に、オスカーはぎょっとし、エミールも「こいつは何を言い出すんだ」とレオンを見た。

「レオン、落ち着いてください」オスカーは静かに宥めた。

「えっと……そちらさんは?」エミールはオスカーに、レオンがそこまで激高する理由を尋ねた。

「エミール、実は連れ去られたのは王弟だけではないのです。彼の友人も」

 エミールはそれを聞いて合点がいった。レオンは見るからに戦闘に長けた軍人だ。もし彼の友人もまた戦闘に長けた人物なのだとしたら、軍人までが行方不明となるには、特務機関が何か良からぬ行いをしていることは間違いない。

「分かりました。取り敢えず、パスポートがすぐに発行できるか、一緒に行ってみましょう。って言っても、最近は中々あちらさんの認可が下りなくてね」エミールは事情を説明した。

「一応、パトリックに伝言も頼んでみるよ。反応があるか分からないけど。シュヴァルツブルクの王弟の名前は?」

 オスカーは少し考えた後、「リノです」と言った。

 エミールはその名前に覚えがあった。

「そういや、つい最近、同じ名前のやつを今捜索中だったな」
「おや、偶然ですね?迷子ですか?」

「あぁ。薄い水色の髪がボサついててな。金色の綺麗な瞳を持ってるんだ。それで、そいつの兄貴分?っていうのが丁度そこにいる兄ちゃんと姉ちゃんのような……」エミールはマテオとマヤの方を見やった。

(あれ……?そういえば、こいつら、ヴィダルに……似てる?)

「失礼だが、あんたたち、もしかして生き別れの兄弟とかいるかい?ヴィダルってやつなんだが……」

 エミールは咄嗟にマテオとマヤに訊いた。

「貴殿、ヴィダルを知っているのか?」マテオが強い口調で言った。

「おいおい、待ってくれよ、俺が探してるリノってまさか……」エミールは驚きで言葉を失った。

「あなたリノに会ったことがあるのですか?」オスカーが捲し立てるように尋ねた。

「前にリノとヴィダルっていう若い二人にセザールで会ったことがあるんだ。その時、リノが行方不明になっちまってな。俺はずっと探している」

 オスカーは、リノがヴィダルとの折り合いが悪く、耐え切れずに逃げ出してしまったという話を思い出し、顔を曇らせた。

「それで、何故あなたがリノを探しているんです?」

「あ、いや~やっぱりヴィダルの家族みたいなもんだし?的な?」エミールは口ごもった。ヴァイスブルクの王女がリノの心配をしていることまでは、今は言わない方が得策だと思ったのだ。

「じゃぁヴィダルはやはり天界に……?」マヤがエミールに訊いた。

「そう!」エミールは大きく頷いた。

「ヴィダルはオスカーを探しに天界に行ったんだぜ」エミールはオスカーを見ながら言った。

「私……ですか?」オスカーは怪訝な表情をした。

「俺もオスカーの所在は今まで分からなかったからな。恐らく天界にオスカーがいると見て、行ったんだと思うけど」

 ヴィダルがリノを連れてオスカーを探していた、という事実は、その場に重い沈黙をもたらした。

「師父はもしかしたらヴィダルに対し、リノをオスカーに送り届けるよう使命を託したのかもしれません……」マテオが静かに言った。

 オスカーは頭を抱えた。

「なんてことでしょう……私たちは色々とすれ違っていたのですね……」オスカーは申し訳なさそうに言った。

「うーん?なんだかよくわからんが、でも結局リノはオスカーと会えたってことで良いんじゃないのか?」エミールが単純に考えた。

「えぇ、そして今はまた行方不明ですがね」オスカーはぴしゃりと現実を突きつけた。

 再び沈黙が流れる。

「オスカー様のいらっしゃらない天界で、ヴィダルは何をしているのですか?」マヤがエミールに訊いた。

「ああ、アイツは今、天界の候補生さ」エミールが答えた。

 マヤとマテオは候補生とは何だろう、というように顔を見合わせた。

「正式な研究員になるための下積み時代のようなものです」オスカーが二人に説明した。

「あなた、止めなかったのですね」オスカーはエミールを咎めるように言った。

「おいおい、俺に止める権利なんて……」エミールはそこで言葉を辞めた。

「オスカー、ヴィダルってやつも、また孤独だったんだ。分かってやってくれ」

 エミールは、ヴィダルの気持ちも考えて欲しいとオスカーに訴えた。
 オスカーは、確かにヴィダルの気持ちは考えていなかったと深く反省した。

「オスカー、もし天界に行ったら、俺たちがヴィダルに直接話を聞いてみるよ」マテオが明るく言った。マヤも深く頷いた。

「そうですね、ヴィダルについてはあなたたちに任せましょう」オスカーは安心したように言った。

「話は済んだか?」レオンは、しびれを切らしたように、低い声で言った。

「俺は待てない」その殺気立った雰囲気に、一室の空気が張り詰めた。

「すまんな、さっそくパスポートを申請しに行こう」エミールはレオンの焦燥を気遣うよう、手早く解散を促した。

 パスポートの申請所へと向かう道中、エミールは考えた。

(まさかあの時の少年がシュヴァルツブルクの王弟だったとはね……)

 そして、オスカーがシュヴァルツブルクの王弟と繋がっている理由を考えた。特務機関に攫われた少年。

「オスカー、もしやリノってイヴリンの……」エミールがオスカーにそう言いかけた、その時だった。

「エミール殿!」

 天界へ続くエレベーター方面から、二人の衛兵が慌てて走ってくるのが見えた。彼らは切羽詰まった様子でエミールの元まで駆け寄った。

「エミール殿!大変です!」

「おいおい、俺、今休暇中なんだけど……」エミールが呆れたように言った。

「王女様が……!リリアンヌ様が行方不明になりました!」

 エミールは、開いた口が塞がらなかった。

 *

 天界の特務機関ビル内部。レネは、候補生に紛れてはいたものの、迂闊には行動できなかった。候補生たちの動く範囲はごくごく限定的だったからだ。

(どうしましょう……)

 レネはポケットから、パンフレットを切り抜いた見取り図を取り出した。記載されていない空白の階が二つ。

(なんとなくだけど……ここの二階層が気になるわ……)

 彼女は意を決し、パトリックのマスターカードキーをかざしてエレベーターに乗った。目的の階は、他と違って誰も寄せ付けないような、異様な雰囲気を醸し出していた。

 レネは確信した。この階に何か秘密が隠されている。研究員が行き交う様子もなく、随分とひっそりしていた。
 彼女は周囲を捜索しようと、暫くあちこちの部屋を注意深く見回った。そして、先ほどと同じところを見たなと思い、引き返そうとした。

 振り向きざまに、誰かにぶつかった。
 レネは尻もちをついた。しまった、見つかった、と思った。

「あの……大丈夫?」

 手を差し伸べられていることに気づいたレネは、その手を取った。

「申し訳ありません、迷ってしまって……」言い訳をしながら顔をあげたレネは、驚きに目を見開いた。

 ぶつかったのは、探していたリノだった。
 リノは共用のシャワールームから帰ってきたのだろう。首にタオルをかけ、シャンプーの良い匂いを漂わせ、少し髪が濡れていた。
 リノはレネの手を取って立たせると、金色に輝く瞳で心配そうに見た。だが、目の前の人物がレネだとは気づいていない。
 レネは思いっきりリノの腕を引っ張り、人影のない物陰に隠れた。

「リノ!見つけましたわ」

「え?」リノは驚いていた。

「わたくしですわ」

 レネは眼鏡をはずした。その一瞬、リノの脳裏に、セザールで出会った時の顔を思い出す。

「レネ!」
「しーっ!」レネは静かにと、人差し指を立てた。

「あなたを助けに来ましたの」レネは眼鏡をかけ直しながら言った。

「ひ、一人で?」

 リノは信じられないといった様子だった。少女が一人で危険な場所にいることが、何よりも彼を不安にさせた。

「レネ、ここは危ないよ」リノが心配そうに言った。

「リノ、私はあなたを助けたいのです」レネは切実に、強い眼差しで訴えた。

「今すぐここから出ましょう」レネはリノの腕を引っ張り、エレベーターに乗り込もうとした。

 リノはその手を振りほどいた。

「ごめん……」リノは申し訳なさそうにいった。

「どうしましたの?」レネはとても残念そうな顔をした。

「カレルを置いてはいけない」リノは言った。

「カレルとは?」レネは訊いた。

「ここに一緒に連れてこられた人なんだ」

「まぁ……」レネは同情する顔を見せた。

「それで、その方はいまどちらに……」

「それが……どこにいるか分からなくて」リノが困ったように言った。

「わたくしが探してまいりますわ!」レネがやる気を見せた。

「えぇ!あ、危ないよ」リノは彼女の恐ろしいほどの行動力に驚きながらも、流石に止めた。

「大丈夫ですわ!かならずカレルを連れてまいります!」

(レネは相変わらず怖いもの知らずだ……)

 セザールで一緒に行動した時も、ヴィダルの威嚇にも一切動じなかった彼女の姿を思い出した。

「カレルの特徴を教えてくださいませ」レネは言った。

「髪の毛はアッシュブロンドで、青い瞳で……」

「分かりましたわ」この研究員はほぼ天界人なので、異質な人が紛れていればすぐわかるとレネは言った。

「レネ、俺のこと心配してくれてありがとう。でもレネが危険を冒してまですることじゃないと思うんだ」リノは本音を口にした。

 レネはリノの手を取った。

「リノ。わたくしはあなたを助けたいのです」レネは優しい微笑みを向けて言った。

 リノは、その言葉に胸の奥が熱くなるのを感じた。

 (レネはどうして、こんなに俺に優しくしてくれるの……?)

 その時、研究員の話し声が近くから聞こえてきた。

 レネは「また来ます」とだけ伝え、エレベーターで上の階へ上がった。

 *

 上の階についたレネは、アッシュブロンドの青年を探した。
 行きかう人々はほぼ白衣を着た天界人で、忙しそうにしており、レネを気に留める者はいなかった。
 あちこちを探していると、廊下の奥から怒号のような声が聞こえてきた。

「いいから、いい加減返せよ、俺の服を!刀も!」

 アッシュブロンドの青年が、今にも爆発しそうな怒りを込めて叫んでいた。

(……もしかして……)

 見るからに天界人ではないその青年に、レネはハッとし、物陰から様子を伺った。
 そこには、レネが拾ったカードキーの持ち主であるパトリックもいた。

 カレルと思わしき青年の横には、巨体のローマンがにやつきながらカレルの腰に手を回していた。

「そうだな、そろそろ返してやってもいいだろう」

 眼鏡の位置を直しながら、パトリックは横柄に、感情のない声で答えた。

「んだと、てめぇ何様だよ、リノの服も返せよちゃんと!」

 今にも掴みかかりそうな勢いで、カレルは憤っていた。

 レネは青年の口から出た「リノ」という名前に反応した。

 (彼で間違いありませんわ……)

 レネが周囲を警戒する中、パトリックは近くに居た研究員を呼びつけた。

 「彼らの所持品を持ってきてくれ」研究員は足早に広い部屋に入っていった。

 カレルの横にいるローマンは、腰に回していた右手をカレルのワイシャツの裾からするすると入れて、カレルの体をまさぐっていた。

「つーかてめぇはさっきからなんなんだよ!鬱陶しいなぁ!」カレルはローマンの巨体を左手肘でどついた。

「なんだぁ、カレル。やけにイライラしてるじゃねーか」

 ローマンはカレルの耳元でねっとりと囁くように言った。

「あとで可愛がってやるから怒るなって」

 耳元での囁きの後、ローマンはまさぐっていた右手でカレルの乳頭を摘まんだ。

「んっ……」カレルの体がピクリと反応した。パトリックが目の前にいるにも関わらず反応してしまったという羞恥心で、カレルの顔は赤くなった。

「てんめぇ……」カレルはローマンを睨みつけた。

「随分敏感になっちまったな」ローマンは下卑た笑いをカレルに向けた。

 パトリックは、目の前の二人のやりとりを無言で見つめながら、ただ淡々と眼鏡を正した。

「カレル……君は……先ほどリノとも激しい情事を交わしていたのではないのかね?」

 パトリックは感情の機微を一切感じさせない声で、淡々と言った。

「へぇ?俺以外の男ともヤッてんのかよ、ビッチだねぇ~」ローマンはいやらしい笑みをカレルに向けた。

「監視カメラで覗いてんじゃねーぞ悪趣味が!ぶっ殺すぞ!」カレルはパトリックにこれまでにないくらい悪態をついた。

 そこへ研究員が戻ってきた。

「室長、こちらです」研究員はカレルとリノの所持品をパトリックに渡し、持ち場に戻っていった。

 パトリックがカレルに渡そうとすると、カレルは半ば奪うようにして所持品を受け取った。

「ローマン、お前にはまだ用事がある」パトリックが言った。

「へいへい。カレル、俺が戻るまでにちゃーんと体綺麗にしておけよ」ローマンは再び下卑た笑いをカレルに向けた。

 カレルはそれを無視し、振り返ることなく足早に廊下を歩いた。

(来たわ……)

 様子を伺っていたレネは、目の前に来たカレルの腕を引っ張った。

「!」

 カレルは驚き、レネの方を見た。

「なっ……」

「こちらへ」レネの真剣な表情を見て、カレルは咄嗟に彼女に近づいた。

「何か用か?」カレルが囁くような声で聴いた。

「わたくしはレネと申しますわ。リノとカレルを助けに参りました」

 カレルは驚愕した。この少女が?まさか一人で?

「あんた……どういう?」カレルは彼女の正体を探ろうとしたが、今はそんな余裕はないと判断した。

「ここまでどうやってきた?」

 レネがちらりとパトリックのマスターカードキーを見せると、カレルはそれ以上は訊かなかった。

「先ほど下の階の廊下でリノにも会いました。リノの部屋へ行きましょう」

 カレルは周囲を確認し、頷くと、急ぎレネと一緒にエレベーターで下の階に降りた。
 カレルはレネと共にリノの部屋に来た。自分のカードキーでリノの部屋を開ける。

「リノ!」カレルが叫んだ。

「カレル?」リノはベッドで少し横になっていた。

「着替えろ」カレルはベッドにリノの所持品を投げつけた。「時間がない!早くしろ!」

「う、うん」

 カレルもいつもの軍服に服装に着替えた。頭に青い縁のサングラスをかけ、愛刀を携刀した。監視カメラに記録されていると思うと、もたもたしている時間はなかった。リノも着替え、首から母の形見のネックレスをかけ、懐にしまった。

「行きましょう!」レネが合図した。

「レネ、カレルを連れてきてくれたんだ……ありがとう」

「もちろんですわ」レネは笑顔で答えた。

 三人がエレベーターで一階まで降りている時だった。

「館内緊急警報、館内緊急警報」

 甲高い警報が鳴り響いた。

「もうバレたか!」

「正面入り口を出て大通りをまっすぐに行けば下界に通じるエレベーターがあります」レネが的確に指示した。

「りょーかい」レネの言葉を聞きながら、カレルは愛刀の刀身を確認した。刃こぼれはあるが、まだ戦えると踏んだ。

「カレル……」リノが心配そうな表情でカレルを見た。

「安心しろ、俺がお前ら二人を守ってやるよ」カレルは自信満々に答えた。

(……そうだ、俺はこんなところで朽ちたりしない。レオン、お前に会うまでな……)

 エレベーターが地下一階に到着した。
 警備員たちが一斉に三人を捕えようと襲いかかったが、カレルは刀を抜き、その警備員たちを一瞬にして圧し、突破口を開いた。
 三人は正面玄関からビルを飛び出した。

「待ってくれ!」

 混乱に乗じて、フィンも入り口から走ってきた。

「なんでお前まで付いてくるんだよ」カレルが呆れるように言った。

「カレルの知り合い?」リノが訊いた。

「んなわけ……」

 その時、凄まじい鐘の鳴り響く音が、天界にとどろいた。まるで地割れでもするかのような、魂を揺さぶる響きだった。

「な、なんなの……!?」リノは驚愕に叫んだ。

 すると、周囲にいた天界人たちが、次々と頭を抱え、その場に倒れていく。

「う……」カレルも突然頭を抱え、膝をついた。

「カレル!」リノはカレルに駆け寄った。

「あ、頭が……割れるようだ……」カレルはその場で倒れ伏した。

「カレル!」

 ガランゴーンと鐘の鳴り響く音は、鳴りやまない。リノとレネ、そしてフィンは、なぜか平然としていた。

「これは……」フィンが周囲を見回した。

「神の怒り……」フィンが呟いた、その時。

 特務機関のビルを覆うように、巨大な白い翼が上空に現れた。

 三人は見上げた。

 そこから、神々しい”何か”がゆっくりと降下し、三人の頭上で停止した。”何か”の長い髪が、風もないのにゆらゆらと動いている。

「神子よ」”何か”は口を開いた。

 声は、数多の音が混ざり合ったような、不気味な響きを持っていた。

「神子よ。お前の楽園はここにある。何故運命に抗おうとする?」”何か”はリノに向かって言った。

(なんなの……これ……)

 リノはゾッとした。一見すれば神々しく見えるが、その奥に得体のしれない憎悪と不気味さを感じた。

 すると突然、フィンが大きく叫んだ。
 
「神よ!」

「神よ!我が父よ!」フィンが泣き叫ぶ。

「何故!どうして!僕にも力があるのに!認められないのですか!」

 フィンが叫び続ける。

「貴様は」

 ”何か”がゆっくりと動き、そして。

「無価値」

 刹那、無数の光の刃がフィンの体を貫いた。

「!」レネとリノは絶句した。

 無数の刃がフィンの体から勢いよく引き抜かれ、フィンの体から鮮血が舞う。フィンは呻き声も上げられず、その場に倒れた。白い床が、あっという間に鮮血で紅く染まる。

「神子よ」

「お前は価値ある者であろうな?」

 リノの動悸が激しくなる。

「あなたは……一体……”何者”なの?」リノが絞り出すように言った。

 ”何か”は眉をひそめた。

「余が分からぬか?神を知らぬ我が子よ」

「貴様も」

「無価値」

 今度は無数の光の刃がリノを襲う。レネは咄嗟に防御障壁を張った。しかし、光の刃のあまりにも強い衝撃で、レネは吹き飛ばされた。

「レネ!」リノはレネに駆け寄り、倒れた体を抱き起こした。

「邪魔をするな下僕め」”何か”は言った。

 咄嗟に自分を守ってくれたレネ。レネはぐったりしていた。

 (許せない……よくも……)

 リノは、その得体のしれない”何か”を、全身の怒りを込めて睨みつけた。

 *
 
 ヴァイスブルクの天界行きのエレベーター乗り場では、一行は係員によって行く手を阻まれていた。

「まったく頑固ですねぇ……」オスカーは呆れて言った。

 エミールが王女が行方不明だ緊急事態だと、あれやこれやと必死に説得したが、どれも係員に突っぱねられていた。

 その時だった。

 ガランゴーンと凄まじい鐘の音が、上空から聞こえた。その場にいた全員が、上空に浮かぶ天界を見上げた。

 「なんだぁ?」周りの人間が口々に言う。

 その時だった。

 全員が上空に気を取られているうちに、レオンが素早く動いた。彼は係員を一瞬のうちになぎ倒し、エレベーターに向かった。

「レオン!?待ちなさい!」オスカーもレオンの後についていった。マテオとマヤ、そして騎士団も続いた。

「おいおいおい、マジかよ」エミールも慌てて続いた。

 追いかけてきた衛兵の静止も聞かずにドアを閉め、一行はエレベーターで天界に向かった。

 *
 
「何故運命に抗おうとする?」

 ”何か”の声は、もはや問いかけではなかった。
 
「お前の楽園はここにある」

 その言葉は、まるでリノの魂を鎖で繋ぎ止めようとするかのように重く、逃げ場のない真実として降り注ぐ。

「俺の楽園はここじゃない!」

 リノは、喉が張り裂けるほどの叫びを上げた。それは、恐怖や絶望ではなく、奪われた自由、目の前で失われた命に対する純粋な怒りだった。

「何故?」

 ”何か”は、リノの抵抗を理解しようともせず、ただ感情のない反復を続ける。それはもう、対話の形を成していなかった。

「我が子よ。失望した。」

 絶対的な断言。リノの胸の奥で、何かが沸騰した。ここは……天界は間違っている。自分を道具と見なす傲慢さ。人の死を弄ぶその冷酷さ。すべてが、目の前の”何か”に収束していく。

「無価値」

 その瞬間、”何か”から放たれた無数の光の刃が、星々の流星群のようにリノを目掛けて殺到した。回避不能な、圧倒的な光の暴力。

「やめろおおおおおおおおお!!!!」

 リノが両の瞳を見開き、全身の力を振り絞った、その刹那。
 彼の身体が、白銀の炎に包まれたかのように、眩い輝きを放った。それは太陽よりも強く、神々しい光。
 リノの体から迸ったエネルギーは、襲い来る無数の光の刃を、触れる端から粉々に打ち砕き、天空へと弾き飛ばした。

 そして、その強大な光の奔流の中心から、一人の光り輝く女性の姿が、幻影のように具現化した。その存在は、リノの魂の奥底から呼び覚まされた、根源的な力そのものの顕現だった。

「お前は」

 ”何か”は初めて、明確な感情――動揺と畏怖――をその声に滲ませた。
 その女性の顔、その威容が持つ意味を、本能的に理解したのだ。

 しかし、”何か”がその正体を認識するより早く、光の女性は、虚空から現れた神聖な槍を構えた。一切の逡巡なく、その輝きを増した刃を、”何か”の胴体目掛けて、渾身の力で深く貫いた。

「おのれえええええええええええ!!!!」

 貫かれた”何か”は、天界の白亜の床をも揺るがす、激しい憎悪に満ちた咆哮を上げた。その叫びは、まるで魂を焼き尽くす断末魔のようで、空間そのものを震わせ、鼓膜を打ち破らんばかりだった。

 ”何か”は、最後に残った醜悪なまでの憎悪の表情をリノに残し、急速に光の粒子となって霧散していった。

 静寂が訪れる。リノは、力を使い果たし、レネを抱えながら、覚醒した力の余波に打ちのめされていた。

 その時、エレベーターの扉が開き、地上の喧騒を振り払ってきた一行が、ようやくその劇的な現場に辿り着いた。

「リノ!」オスカーがリノに駆け寄った。

「大丈夫ですか?」

「オスカー……」リノはレネの体を抱えたまま、その場に倒れた。

「お嬢!しっかりしてください!」エミールはレネの体を優しく抱き上げ、状態を確認した。

 気を失っているらしいことに、安堵の息を漏らした。

「カレル!」レオンも倒れているカレルを抱き上げた。

 カレルはぐったりしていた。呼吸はありそうだが、虫の息のようにも思われた。レオンはカレルを強く抱きしめた。

 マテオとマヤは、傍に倒れていたフィンの状態を確認した。マテオは首を横に振った。
 フィンは既に息絶えているようだった。

「もしかしたら追手がくるかもしれない」マテオが白亜の巨大なビルディングの方を見ながら言った。

「急ぎシュヴァルツブルクへ戻りましょう。恐らく天界がこんな状態では……」

 オスカーは周囲を厳しく見渡した。
 先ほどの”何か”の激しい咆哮の余波は凄まじく、辺りは戦場の後のような惨状を呈していた。ガラス張りの建物の壁は粉砕され、庭園の噴水は歪み、優美な花壇は土が抉れて荒れ果てている。周囲には、意識を失った天界人たちが、まるで糸の切れた人形のように倒れ伏していた。

 これ以上、この狂気の地帯に留まる時間はなかった。
 一行は、傷ついた仲間と、決して忘れられない凄惨な光景を背に、その場を後にした。

 *
 
 深遠なる白。

 それは無限に広がる、境界も輪郭もない、すべてを溶かし込むような純白の空間だった。その静寂の中、一人の女性が立っていた。優しさと悲哀を湛えたその横顔は、リノにとって、いつも夢の中でしか会えない、愛しい母の面影だった。

「母さん」

 リノは名を呼び、その女性の元へ歩み寄った。女性は真っすぐリノを見つめ返した。

「エリオット…」女性は、リノを呼んだ。

「母さん、前に言ったよね、俺を産んでしまってごめんって」

 リノの心に深く刺さった、過去の言葉。
 女性は何も言わなかった。

「母さんは俺のこと愛してなかったの?」

「いいえ」

 女性の声は、白の空間に響き渡るほど澄み切っていた。

「私は、あなたを愛してるわ。だからこそ……」

 暫く、言葉にならない沈黙が流れた。

「エリオット……《神》を殺してください」

 その言葉は、まるで空間を凍らせるように、リノの鼓膜を打った。

「繰り返される輪廻を断ち切れるのはあなただけなのです」

「私の可愛い息子。私は、ずっとあなたの味方よ。ずっと」

 女性の声が優しく、そして切実な願いとなって反芻し、リノは意識を引き戻された。

「リノ……目が覚めましたか」

 温かい声に、リノはゆっくりと目を開けた。ふかふかのベッドに寝かせられていることに気づく。

「ここは……?」

「シュヴァルツブルクです」オスカーが、窓際に立ったまま言った。

 窓の外から差し込む暖かい光、柔らかい風、鳥のさえずり。あまりに穏やかなその現実は、まるで長く続いた悪夢から覚めたような感覚だった。リノはゆっくりと体を起こした。

「レネは?」リノは、自分を庇ってくれた少女の名を口にした。

「レネはエミールが引き取り、ヴァイスブルクへ帰還しました。魔力を一気に放出したため、疲労はありましたが、心配はいりません」

 リノは、レネが命懸けで防御障壁を張ってくれた、あの熱い衝撃を思い出した。

「カレルは?」

「カレルは別の部屋にいます」オスカーは言った。

「カレルに会いたい」リノがオスカーに訴えた。

「……」オスカーは答えず、リノに背を向け、窓の外の柔らかな光景を見つめた。

「私は、カレルの状態を見ました」オスカーの静かな声が、リノの胸に重くのしかかる。

「リノ……《彼は一度死んで生き返った》。合っていますね?」オスカーは、確認を求めるように尋ねた。

 リノは俯いたまま、布団のシーツを固く握りしめた。

「うん……町の遺跡で戦闘があったときにはもう……」

「そうですか……」

 窓の外で柔らかい風が木々を揺らす音が聞こえる。その音は、これからオスカーが語るであろう、残酷な事実の前の静寂のようだった。

「神の力で生き返ったものは《天使》と呼ばれ、《神の力》の定期的な供給がなければその生命を維持できません……」

 リノは、布団を両手でぎゅっと掴んだ。

「俺……」

「分かっています。貴方が神の力を自在に操れないことは」

 もうカレルはこれ以上生き延びることができない。

 長い沈黙が続く。

「あなたのせいではありません」オスカーが、静かに言った。

 オスカーは窓から視線を外し、リノに向き直った。

「私がもっと早く、皆に伝えるべきでした。貴方が神子であることを」

「オスカーはやっぱり俺が生まれた時のこと知ってたんだね」リノは確信していたように言った。

「えぇ。私とあなたの母、イヴリンは天界の研究員でした」オスカーは話し出した。

「私もイヴリンも、当時は神の力を妄信していました」

「イヴリンが研究の末、神の遺伝子と自身の体を使って産み落としたのが貴方だったのです」

 分かってはいたが、オスカーから淡々と、第三者の事実として語られることに、リノは改めてショックを受けた。

「生まれた時から神の力を持っていた貴方を、周囲の者たちはみな称賛しました」

 しかし、オスカーは顔を曇らせた。

「ですが……私が信じていたアレは《神》ではありませんでした」

「どういうこと?」

「あなたも見たはずです。アレを」

 天界で最後に見た、神々しくもおぞましい、あの巨大な光の存在。

「アレもまた……人間が作った存在。ただの《偶像》に過ぎません」

 オスカーは、天界の闇を暴くように言葉を続けた。

「恐らく、単に作られた存在なので力が衰えてきたのでしょう。アレは貴方の力を欲していました」

「私たち天界人はアレのために、何度も何度も子供を産んでは殺していたのです」

 リノは全身に寒気が走った。あの美しく、白い研究施設で繰り広げられていた、おぞましい実験の全てが繋がった気がした。

「イヴリンは、どうしても我が子を手放すことはできず、貴方を抱いて天界を去ろうとしました」

「しかし、仲間の研究員がそれを許しませんでした。彼らの襲撃に遭い、それならばと我が子と共に命を絶つことを考え、天界から落ちたのです」

 母は、最初は自分と心中することを選んでいたのか……。リノは、母の最後の決断の重さを感じた。

「落ちた先は焦土大陸でした。赤子を抱いた天界人が空から落ちてくるのを拾ったのが魔王です」

「魔界は瘴気に満ち溢れていて、人が住めるところではなかったので、魔王はイヴリンを近くの村に預けました。そこが、マテオやマヤの住む村でした」

「シュヴァルツブルクの王……アランのお父様ですね。魔王と懇意にしていましたので、事情を聞き、村を訪れた際にそのままイヴリンを引き取ったと聞いています」

「そう……だったんだ……」リノは、長い間の疑問が一気に解消され、ようやく全ての真実が繋がった気がした。

「私もイヴリンの兄としての責任を問われ、天界から追放されました。暫く放浪の末に、イヴリンの所在を掴んだというところですね」

 リノは何とも言えなかった。もし自分さえ生きていなかったら、この悲劇が起こらなかったのだろうか?母、ヴィダルの両親、カレル、天界で会った神子。自分と関わった沢山の命が消えてしまった……。

「リノ」オスカーが立ち上がり、リノとまっすぐ向き直った。

「失ったものは戻っては来ません。ですが」

 オスカーの目に、深い涙が滲んでいた。

「イヴリンは間違いなく、貴方を愛していました」

「だから、私は貴方に生きて欲しいのです」オスカーは涙を流した。

「オスカー……」

 リノは、母イヴリンとオスカーが、自分に対してそれぞれ異なる結末を思い描いていることを悟った。

(俺自身が決めなきゃ……)

 リノは、自らの運命と未来に対し、激しく葛藤した。

 *

 来賓用の部屋の、柔らかなベッドにカレルは静かに寝かされていた。
 焦点の合わない、活力のない瞳が、ただ天井を見つめている。
 ベッドの傍にある椅子にはレオンが座り、深く項垂れていた。彼の拳は強く握り締められている。

「あの時、俺も一緒についていくべきだった……」

 レオンは、後悔を噛み殺すように口にした。

「どうしてこんなことに……」

「俺は……でも、最後にお前に会えてよかったよ……」

 カレルの掠れた声が、静かな部屋に響いた。カレルは、わずかな力でレオンを見た。レオンもまた、涙で滲む視線でカレルを見つめ返した。

「レオンがずっと助けにきてくれるって信じてた……」

「きっとこれは《神様》がくれたチャンスだから」

 カレルは、もうほとんど動かない力を振り絞り、レオンへ手を伸ばした。

「カレル……」レオンは、その冷たくなりかけた手を両手で包み込んだ。

「いつも……どんな時も……傍にいてくれて……ありがとう……な……」

 カレルの指先から、生命の最後の火が消えるように、ゆっくりと力が抜けた。
 レオンは目を見開いたまま、その事実を受け止めきれず、声を押し殺して泣いた。
 もう二度と帰らぬ、かけがえのない相棒を前にして。

間章

「やっ!はっ!」

 道場に響き渡る、鋭い剣と剣がぶつかり合う音。

「見違えるような剣捌きになりましたな、リノ殿!」

 道着の肩を濡らす汗をタオルで拭い、水を一気に飲み干すリノは、称賛の言葉をかけてきた騎士を見た。

「ありがとう、修行の成果が表れて、俺も嬉しいよ」

 天界の騒動から、三ヶ月ほどの月日が流れていた。この期間で、リノは以前とは見違えるように逞しい体つきになっていた。髪の毛も邪魔にならないよう短く整えられ、その眼差しには、もう迷いや怯えはない。シュヴァルツブルク騎士団の人間と変わらない、引き締まった風貌になっていた。彼は、誰にも頼らず一人で戦える力を求めて、ひたすらに修行を申し出ていたのだ。

 *
 
 天界の騒動の後、カレルの亡骸と共に、レオンは東洋大陸のゲンレイへと帰還した。

 リノは、カレルを救えなかった自分を責め、レオンに何度も謝ろうとした。だが、レオンはリノの顔を一切見ようとせず、まるで空気のように無視し、一言も交わさずにシュヴァルツブルクを発ってしまった。

 それは、リノの胸に一つの大きな気がかりとして深く突き刺さっていた。

 しかし、リノはレオンの気持ちが痛いほど分かっていた。自分のせいで大切な人が亡くなってしまったという、どうしようもない自責の念。それは、かつてヴィダルが両親を亡くした時に抱いたであろう憎悪と、よく似た感情だったに違いない。リノは、カレルを救えなかった無力さを、ひたすら自分自身を責めることで受け止めるしかなかった。

 *
 
 リノは、アランの王弟の発表を辞退した。
 アランは、何度も何度もリノを説得した。しかし、リノは首を縦に振らなかった。

「何故なのだ、エリオット」アランは疲弊したように尋ねた。

「俺には必要ないからです」

 アランは大きくため息をつき、その言葉を受け入れるしかなかった。

「兄さん」リノは、アランの真摯な眼差しを見つめて言った。

 その呼び方に、アランはハッとした。正式な王弟の肩書ではなく、血の繋がった弟としての、親愛の情を込めた呼びかけだったからだ。

「王弟という地位は俺には必要ありません。でも……兄としてあなたを慕っても良いでしょうか?」

 リノは、王弟という役割を捨て、家族としての繋がりを求めた。
 アランは、その言葉を聞き、張り詰めていた表情を和らげ、心からの笑みを見せた。

 「もちろんだとも」

 二人は、言葉はいらないとばかりに、深く抱き合った。

 *

 リノは自室の机に向かい、ペンを走らせていた。
 それは、ヴァイスブルク城にいるリリアンヌ宛の手紙だった。

(まさかレネがヴァイスブルクの王女様だったなんて……)

 貴族のお嬢様然とした雰囲気はあったが、まさか王家の人間だったとは。リノは、彼女の正体を知ったことに、今でもどこか戸惑いを覚えていた。

 天界は、あの騒動のあと、全面封鎖となっていた。それはパスポート所持者でも迂闊に入れる地区ではなくなってしまっていた。検問が敷かれ、特務機関が認めた者のみ入国できるようになっていた。

(きっとヴァイスブルクも大変な状況なんだろうな……)

 便箋には、自分が元気にしていること、剣の修行に励んでいること、そして、努めて明るい言葉を選びながら穏やかな日常をしたためた。
 
 *
 
 リノは、城の敷地内にある王家の墓地に行き、母イヴリンの墓石の前に静かに佇んだ。彼は、丁寧に墓石を拭い、持ってきた柔らかな花を添えた。秋めいた柔らかな風が、彼の髪を静かに揺らした。

 リノには、まだ誰にも言っていないことが一つあった。

(母さん、俺、決めたよ……)

 リノは、静かに右の手のひらを見つめた。

 この三ヶ月の厳しい鍛錬の裏で、彼は《神の力》を次第に操れるようになっていた。修行を始めた頃は、意図せず光が漏れ出すこともあったが、今では完全にその光を制御し、体内に沈めることができる。手のひらを見つめるその瞳の奥には、金色の光が僅かに揺らめいていた。

(俺が、神を殺します)

 その決意を、リノは誰にも聞こえぬよう、心の中で固く誓った。彼は手のひらをぎゅっと握り締め、その力が自らの意思の元にあることを確認した。柔らかな風が、木々を揺らし、やがてその一帯の空気を巻き上げるように強く吹き上がった。

第十五章 韜晦(とうかい)

 その日、シュヴァルツブルクの空は、澄み渡るような群青に染まっていた。重苦しい雲はひとつもなく、穏やかな時間が流れる昼下がり。黒い王国と呼ばれるこの地にしては珍しいほどの快晴だった。

「きゃぁっ!」

 静寂を切り裂くように、短い悲鳴と刃物が床を打つ鋭い音が響いた。騎士団の訓練場として使われている道場でのことだ。木製の床に、一本の短剣が転がっている。

「ごめん、やりすぎた!マヤ、大丈夫?」

 リノは弾かれたように駆け出し、尻餅をついたマヤの元へ手を差し伸べた。

「えぇ、私は大丈夫です」

 マヤはその手を取り、立ち上がろうとした。リノが少し力を込めるだけで、彼女の身体はふわりと宙に浮くように軽々と引き上げられた。その瞬間、マヤは息を呑んだ。以前よりも一回り大きくなった手のひら。そこに宿る確かな力強さと、変わらぬ温もり。間近で見るリノの顔立ちには、かつての幼さは消え失せ、精悍な青年のそれが刻まれていた。マヤの心臓が、不覚にも高鳴った。

「もう俺たちですら手に負えなくなったなぁ、リノ」

 道場の壁際で腕を組んで見ていたマテオが、愉快そうに高笑いした。

「初めてシュヴァルツブルクに来た頃は守られるばかりだったのに、今じゃ俺たちを超える戦力だ」

 からかうような口調だが、その瞳には隠しきれない称賛の色がある。

「ありがとう」

 リノは照れくさそうに笑い、首筋を流れる汗をタオルで拭った。道場の高窓から差し込む陽光が、汗ばんだ彼の肌を照らす。薄水色の髪は短く切り揃えられ、かつての頼りなさげな印象を一新していた。光を反射して輝く金色の瞳は、宝石のように美しく、そしてどこまでも意志が強かった。その眩いばかりの姿に、道場の外がにわかにざわついた。

「お美しいわ……」 「ちょっと、押さないでよ!」 「よく見えないわ、あなたどいて!」

 窓の外には、城下町の女性たちが鈴なりになって道場を覗き込んでいた。彼女たちの熱い視線は、一点に――リノだけに注がれている。 その黄色い歓声を遮るように、マテオの隣にいた初老の騎士団長が、わざとらしく大きな咳払いをした。

「ウォッホン!」

 雷のような咳払いに驚き、女性たちは蜘蛛の子を散らすように一目散に逃げ出した。

「ふぅ……。王弟の発表をしなかったというのに、困ったものですな」

 騎士団長はやれやれと首を振った。リノ自身、決してコソコソと隠れて過ごしていたわけではない。しかし、シュヴァルツブルクの城下町にはいつの間にか、「アラン王に美しい弟がいる」という噂が広まっていた。ここに来た当初のリノは、ボサボサの髪に薄汚れた服、そして何より自信のなさからくる猫背で、お世辞にも目立つ存在ではなかった。だが今は違う。厳しい修練によって培われた逞しい肉体。短く整えられ、清潔感を増した髪。王弟の地位は辞退したものの、その身に纏う気品は紛れもなく王家のそれだった。どこにいても目を引くその存在感は、まさに町の女性たちの憧れの的となっていた。

 マヤもまた、そんなリノの姿をじっと見つめていた。その視線に気づいたマテオが、意地悪くニヤニヤと笑った。

「おい、なんだよマヤ。お前もリノに惚れちまったか?」

 マテオが肘で小突いてくる。マヤは顔を赤らめることもなく、冷ややかな視線で兄を睨みつけると、無言のまま鳩尾(みぞおち)に鋭い正拳突きを叩き込んだ。

「ぐふっ!」

 鈍い音と共にマテオがくの字に折れ曲がり、腹を抱えてうずくまる。

「ふんっ!」

 マヤは鼻を鳴らし、兄のくだらない冗談を一蹴して道場を後にしてしまった。

「リノ様、アラン王がお呼びです」

 入れ替わるように、一人の衛兵が早足で駆け寄ってきた。

「あぁ、うん、わかった。いま行くよ」

 リノはその場で汗ばんだシャツを脱ぎ捨てた。露わになった上半身は、無駄な贅肉が削ぎ落とされ、しなやかな筋肉が鎧のように覆っていた。その変貌ぶりに、復活したマテオも内心舌を巻いた。つい最近まで、風が吹けば飛びそうなほど気弱だった少年が、これほどまでに逞しくなるとは。

 (うーん……こりゃ確かに女の子たちが黙ってないねぇ……)

 マテオは苦笑いを浮かべた。

「リノ、お前身長も少し伸びたな?いつの間にか俺より大きくなってね?」

「あー、そうかも?」

 リノは新しく用意された清潔なシャツに袖を通しながら、あっさりと答えた。

「それじゃ、ちょっと行ってくるよ」

 爽やかに手を振り、リノは道場を出た。その後ろ姿を見送りながら、道場では再び騎士たちの勇ましい稽古の声が響き始めた。

 *

 王座のある広間へ入ると、シュヴァルツブルクの王アランは大臣のターキンと難しい顔で話し込んでいた。しかし、リノの姿を認めると、その表情をふっと和らげた。

「ああ、リノ。すまないな急に呼び出して」

 アランは話を打ち切り、玉座から立ち上がった。その態度は、王弟エリオットに対するものではなく、愛する弟リノに対する、一人の兄としてのものだった。それは、王弟という重責を辞退したリノへの、彼なりの精一杯の気遣いだった。

「兄さん、どうしたの?」
「実は、お前に頼みがあってな」

 アランは少し言い淀んでから、切り出した。

「ようやく、どこかをほっつき歩いていた魔王が魔界に帰ってきたらしいのだ」
「魔王……」

 リノは記憶の糸を手繰り寄せた。そういえば以前、アランたちから魔界や魔王についての話を聞いたことがあった。

「私が直接挨拶に出向いても良いのだが、折角ならお前に行ってもらおうと思ってな」
「俺が行って良いの?」
「ああ、もちろんだ。焦土大陸がどんなところか、その目で見てみると良いだろう」

 これもまた経験だ、とアランは優しく背中を押した。

「モンスターの活性化についても話を伺ってもらえると助かります」

 隣で控えていた小太りの大臣ターキンが、両手を合わせて懇願した。

「魔王への献上のお酒は十分に用意しました。数人の騎士も同行させていただきますので、どうかよしなに」
「焦土大陸の案内はマテオとマヤにさせる。彼らなら土地勘があるだろうし、二人がいればモンスターも大丈夫だろう」

 アランが万全の体制を保証した時、大広間の扉が開き、オスカーが入ってきた。

「それは面白そうですね」

 オスカーは涼しい顔で会話に加わった。

「私も連れて行ってください」
「オスカー殿、これは遊びではありませんぞ」

 ターキンが慌てて諌めようとするが、アランは豪快に笑い飛ばした。

「ははは!良いじゃないか。珍しくオスカーが遠出したいと言ってるんだ、良い良い」
「ありがとうございます」

 オスカーはリノの方を向き、にっこりと微笑んだ。その瞳の奥には、リノへの深い愛情と、一抹の懸念が見え隠れしていた。

「じゃぁ支度してくるよ」

 リノはオスカーと共に一礼し、大広間を後にした。

 *

 遠征の準備を整えた一行は、数台の馬車を連ねて焦土大陸へと向かった。道中、マテオが御者台から遠くの景色を眺めながら呟いた。

「あそこに帰るのも久しぶりだなぁ」
「二人の故郷って、どんなところなの?」

 馬車の中からリノが尋ねると、マテオは肩をすくめた。

「まぁ俺たちが生まれた時から、何もない村さ」
「本当に寂れた場所で……食べるものを探すのも大変でした」

 マヤもまた、遠い目をして同意した。

「なんなら、魔界都市の方が賑わってるよな?」
「魔界都市って?」
「私は小さいころに一度しか行ったことないので、覚えてません……」

 マヤが首を振る横で、マテオが得意げに語り始めた。

「俺、親父と何度か魔界都市に行ってたんだ。魔族やら霊体やらぞろぞろいてさ」
「そんな危ないところに何しに?」

 オスカーが眉をひそめて尋ねた。

「ははは!結局普通の都市と変わらないさ!買い物だよ!連中も商売しないとやっていけないのさ」
「人間と同じってこと?」
「そ!まぁ人間が好むようなものはあまり置いてないけどな」

 マテオは軽快に笑ったが、マヤは冷静に補足した。

「焦土大陸に順応できる人は、余程の物好きか鈍感くらいだと思いますがね」
「なんせ、あそこは空気が悪いからな」

 そうこう談笑しているうちに、一行は国境の橋を渡り、焦土大陸へと足を踏み入れた。その瞬間、世界の色が変わった。先ほどまでの穏やかな青空は消え失せ、空も、山も、大地も、全てが燃えるような赤褐色に染まっていた。吹き付ける風は生暖かく、喉にへばりつくような澱んだ空気が満ちていた。

「うわぁ……」

 リノは初めて見る異様な光景に、素直な感嘆の声を漏らした。

「はは!リノにとっては初めてだから驚いたろう?」

 マテオが慣れた様子で笑う。

「もうすぐ俺たちの村だぜ」

 やがて馬車は、荒れ果てた廃村で止まった。崩れかけた家屋が点在しているが、人の気配は全くない。風が吹き抜ける音だけが寒々と響く。

「まぁこの村の住人は……俺たちで最後、だからな……」

 マテオの声から明るさが消え、マヤもまた、沈痛な面持ちで故郷を見つめた。感傷に浸る間もなく、マテオは荷馬車から手押し車を下ろした。

「すまないな、こっからは手で押してくことになる。魔界都市へはそんなに遠くはないんだが、道がだいぶ狭くなってるからな」

 献上品の酒瓶を手押し車に積み替え、騎士たちがそれを押す。一行は赤い大地の坂道を、黙々と登り始めた。

「このあたり、もしかしたらモンスターが出るかもしれない」
「焦土大陸のモンスターは狂暴です。注意してください」

 二人の警告に、一行の空気が張り詰める。その直後だった。崖の上から、岩石が落ちてきたかのような轟音と共に、巨大なモンスターが一行の前に立ちはだかった。全身が岩のような皮膚で覆われ、凶悪な牙を剥き出しにしている。

 マテオとマヤが瞬時に反応し、双剣を抜いた。リノも一拍遅れず剣を抜き、二人に続く。兄妹の息の合った連携がモンスターを翻弄する。その巨体がバランスを崩した一瞬の隙を見逃さず、リノが疾風のごとく懐へ飛び込んだ。――閃光。

 リノの剣が一閃し、モンスターの急所を深々と斬り裂いた。断末魔すら上げることなく、巨体は崩れ落ち、二つに割れた。

「リノ様……」

 あまりの早業に、マヤが言葉を失う。マテオも驚きを隠せずに目を見開いた。リノは静かに残心し、剣を鞘に納めた。息一つ乱れていない。騎士たちが歓声を上げ、リノを称賛する横で、オスカーだけがリノを不安そうに見つめていた。

 (リノ……)

 彼の目には、リノの力が単なる剣技を超えた何か――神子の力が作用しているように映ったのだ。
 リノは何事もなかったように皆の元へ戻った。

「あとどれくらいかかるの?」

 巨大なモンスターを倒したことなど、路傍の石を退けた程度のことだと言わんばかりの平然とした様子だった。

「あぁ、もうすぐさ……」

 マテオは平静を装って答えたが、内心では冷や汗をかいていた。

(信じられない、特大級のモンスターだぞ?……一人でいとも簡単に……)

 リノの底知れない成長、いや、覚醒しつつある力に、マテオは畏怖にも似た感情を抱いた。チラリと見ると、マヤとオスカーも同じように複雑な表情を浮かべていた。

 やがて、一行は魔界都市の入り口らしき場所に辿り着いた。そこには、おどろおどろしい風景とは不釣り合いな、ポップな書体で【ようこそ!魔界都市へ!大歓迎!】と記された看板が掲げられていた。

「なんとまぁ随分友好的ですね……」
「言ったろ? 連中も必死だって」

 オスカーの呆れた声に、マテオが肩をすくめる。門をくぐると、そこには広大な墓地が広がっていた。立ち並ぶ墓石の間から、農夫のような格好をした男が、スコップを担いでぬらりと現れた。

「ひ!墓荒らし!」

 騎士の一人が悲鳴を上げる。

「逆だよ。墓守だよ」

 男は抑揚のない声で訂正した。

「あんたら観光客?」
「あぁ、まぁそんなところだ」
「ついてきな」

 男はそれ以上興味なさそうに踵を返し、一行を手招きした。言われるがままに、彼についていくと、墓地を抜けた先には、想像以上に賑やかな街並みが広がっていた。遠くには天を突くような黒い城が聳え立ち、通りには多種多様な魔族や異形の者たちが行き交っている。

「親切にありがとう」

 マテオが礼を言うと、男が手を差し出した。

「こりゃご丁寧にどうも」

 マテオはその手を取ろうとした瞬間――バチン!と音を立てて男はマテオの手を叩き落とした。

「ちげーよ!バカヤロウ!」

 男は急に鬼の形相で怒鳴り出した。

「金だよ、金!かーね!」

 どうやら、この墓守は親切心ではなく、ガイド料をふんだくるために待ち構えていたらしい。一行は呆れつつも、揉めるのも面倒なので渋々金を払った。

「まいどあり~」

 男は現金を懐に入れると、途端にご機嫌になって去っていった。

「地獄の沙汰も金次第ってか?」

 魔界も相当世知辛いのだろうなとマテオは一行の方を向いて肩をすくめた。
 
 一行は気を取り直して都市を散策した。軒を連ねる店には、トカゲの干物や怪しげな液体など、人間には用途不明な品々ばかりが並んでいる。騎士たちも重い酒瓶の運搬で疲労困憊の様子だったので、一行は目についた宿屋で休憩することにした。宿屋の一階は酒場になっており、昼間から多くの魔族たちで賑わっていた。異形の客たちが酒を煽り、賭け事に興じている。

「周りが魔族だらけだから、居心地が悪いですね」
「ですが、あまり人間を気にも留めてないようですね」

 オスカーとマヤが小声で話していると、店の入り口から一人の人物が入ってきた。魔族と親しげに言葉を交わしながらカウンターへ向かうその姿は、明らかに「人間」のそれだった。頭にサングラスを乗せ、丈の短いジャケットにスキニージーンズ、そしてエンジニアブーツ。その姿を見た瞬間、リノの心臓が、早鐘を打った。

(えっ……!?)

 見間違うはずがない。リノはその人物を知っていた。何故なら、彼は――。

「カレル!?」

 リノは思わず立ち上がり、叫んでいた。その声に、酒場の喧騒が一瞬にして止んだ。魔族たちが一斉にリノの方を見る。そして、カウンターの人物もゆっくりと振り返った。

 アッシュブロンドの髪。青い瞳。そこにいたのは、紛れもなくカレルだった。

 静寂の中、リノはふらふらと彼に歩み寄った。

「カレル……どうして?」

 視界が滲む。涙がこぼれそうになるのを必死に堪える。まさか……こんなところで。もう二度と会えないと思っていた人が、目の前にいる。

「リノ……なのか?」

 カレルもまた、目を丸くしてリノを見つめ返した。逞しく成長したリノの姿に、一瞬思考が追いつかなかったようだが、すぐにその瞳に懐かしい色が宿った。

 *

「あなた何故こんなところに?」

 一行と同じテーブルについたカレルに、オスカーが尋ねた。カレルはリノの隣に座り、困ったように頭をかいた。

「うーん……俺も実のところよく分からないんだよねー」

 カレルは自身の記憶を辿るが思い出せないようだった。
 
「気づいたらここにいたっていうか?」

 カレルはあっけらかんと笑った。
 リノはテーブルの下で、そっとカレルの手に触れた。そこには確かな質量があった。

「幽霊?でも……実体はあるんだね」
「半分……魔族になりかけているのかもしれません……」

 マヤが静かに推測を口にした。

「魂だけでも魔族になれるのですか?」

 オスカーがそんな話は聞いたことがないと確認した。
 
「霊体でも悪魔と契約すれば魔族になれる話は聞いたことあるがな」

 マテオの言葉に、全員の視線がカレルに集中する。

「お、俺は悪魔と契約なんてしてねーぞ!」

 カレルは慌てて否定した。しかし、リノにとって、カレルが悪魔だろうと何だろうと関係なかった。こうして再び会えたこと、触れられる距離に彼がいること、それだけで十分だった。胸の奥が温かいもので満たされていく。

「それより、みんなはどうしてここに?」

 カレルの問いに、オスカーが事情を説明した。魔王が帰還したこと、モンスターの活性化について調査に来たこと。話を聞いたカレルは、魔王城までの案内を買って出てくれた。一行は酒場を出て、再び黒い城を目指した。

 魔王城への道のりは、直線距離では近く見えたが、実際は迷路のように入り組んでいた。道端には【リゾート建設反対!断固拒否!】と書かれた巨大な看板が無造作に立てかけられており、不穏な空気を漂わせている。

 ようやくたどり着いた魔王城の玉座。そこに座っていたのは、まさに「魔王」と呼ぶにふさわしい威容を誇る人物だった。赤い肌に、床まで届きそうな長い白髪。頭部からは二本の巨大な黒い角が突き出し、耳は鋭く尖っている。だが、その強面とは裏腹に、彼の服装は衝撃的だった。極彩色の大きな花柄Tシャツに、くたびれたハーフパンツ。足元はサンダル履きという、どう見ても南国で余暇を過ごすおじさんの格好だった。

 一行はあまりのギャップに、口をぽかんと開けて固まった。

「なんだ、お前らは」

 魔王は気だるげに頬杖をつきながら、一行を見下ろした。

「シュヴァルツブルクの使者です。」

 マテオが恭しく告げた。

「アラン王の弟のリノです。アラン王より親睦の品の献上に参りました」

 リノが挨拶をし、騎士に前へ出るよう促した。
 
「ほう。俺はこの魔界を治めているアグニだ。待ちわびていたぞ。」
 
 アグニの目がキラリと光った。次の瞬間、風のような速さで一行の目の前に移動していた。
 どうやら彼が待ちわびていたのは、使者ではなく「酒」だったようだ。アグニは一つ酒瓶を手に取り中身をじっくり見た後、即座に手下を呼びつけ、残りの酒瓶が入った手押し車を引き渡した。

「アラン王が心配しておりました。今までどちらにいたのですか?」

 焦土大陸出身のマテオが臆せずに訊いた。
 
「バカンスだ」

 アグニは悪びれもせず答えた。本当にただ遊び回っていただけらしい。

「実は、ここ最近モンスターの活性化が激しくて困っているのです。魔素の影響を下げたいのですがなんとかなりませんか?」
「そんなの、俺も困っている」

 アグニは眉をひそめた。意外な返答に一行は顔を見合わせる。

「モンスターの活性化は魔界が原因ではない。というか、アレだ。俺としてはアレを何とかして欲しい」
「アレ……とは?」

 アグニは尻ポケットからくしゃくしゃになった紙切れを取り出し、一行の目の前に放り投げた。
 マテオがそれを拾い上げて広げる。

「連中め!俺の土地をくだらんリゾート開発地にしようとしておる!俺がいない間に変な装置ばかり建ておって!」

 アグニは既に赤い肌をさらに真っ赤にして憤慨した。

「この装置が魔素に悪影響を及ぼしていることは間違いない!」

 一行がそのパンフレットを覗き込む。

「こ、これは……」

 オスカーが目を見開いた。そこには、天界の特務機関が計画している、焦土大陸のリゾート開発構想が詳細に記されていた。

「このパンフレットをどこで?」

 オスカーがアグニに訊いた。
 
「フンッ!連中が装置を建てた際に落としていったわ」

 アグニは腕を組みパンフレットを見下しながら言った。

 「こいつはなんだい?」

 マテオが初めて見るパンフレットの詳細をオスカーに尋ねた。
 
 「このパンフレットは天界が発行しているものです……。飽きもせず次から次へと思いつきますね、彼らも……」

 オスカーは天界人の底なしの貪欲さに、深いため息をついた。

「装置くらい自分でぶっ壊したらいいんじゃないのか?」

 マテオはアグニならそのくらいの力はあるだろうと思って訊いた。

「そう簡単に行かないから困ってるんだ」

 アグニは忌々しげに言った。

「最初は俺も壊しゃいいと思った。そしたら手下が十匹くらい吹き飛んだわ」
「何?爆弾でもついてるのか?」
「いや……どうやら天界人特有の魔法だな。攻撃した相手に対する反射魔法リフレクトがかかっている」

 アグニの言葉に、マテオがオスカーを見る。

「天界人の魔法なら、オスカー何とかできないのか?」
「実際に見てみないとなんとも……」
「装置はあちこちにある、まぁ好きに見ていくとよい。適当に触って弾け飛ぶなよ?」

 アグニは豪快に笑いながら言った。

 結局、一行は酒を奪われただけで、問題の解決策は見つからないまま城を後にした。
 街外れにある装置の元へやってくると、そこには巨大なフィルター付きの通気口のような機械が鎮座していた。不気味な低音を響かせ、周囲の空気を吸い込んでいる。

「この装置を建てて何をするつもりなんでしょうね?」
「なんとくですが……この辺り一帯を浄化させるような装置にも見えますね」

 オスカーが装置の周囲を観察しながら分析する。実際にはこの装置の所為で浄化とは相反する魔素の影響を強めているらしかった。

「どうする?一旦試しに攻撃してみるか?」

 マテオが双剣を抜こうとする。
 
「あまり迂闊に触ると致命傷になりかねません……」

 オスカーが慎重に警告する横で、リノは何気なく装置に手を伸ばした。指先が冷たい金属に触れた、その瞬間。カッ!と目も眩むような閃光が走り、装置全体を包み込んだ。

「リノ!」

 オスカーが悲鳴のような声を上げた。

「何をしているのですか!?」

 しかし、光が収まると、装置の周囲に漂っていた微かな違和感――魔法障壁が綺麗に消滅していた。

「一体どうやって……」

 オスカーは信じられないものを見る目でリノを見た。

「ご、ごめん、触っただけなんだけど……」

 リノはばつが悪そうに謝った。自分でも何が起きたのかよく分かっていないようだった。

「リノ、気を付けてください。あなたに何かあったら……」

 ここ最近のオスカーはひと際リノに対して過保護だった。
 
「取り敢えず、入れるようになったみたいだけど?」

 カレルが装置の入り口を親指で示した。一行は内部に侵入し、張り巡らされたケーブルの電源を片っ端から落としていった。装置の駆動音が止まり、周囲に静寂が戻る。

「1つは解除できたけど、まだたくさんあるんだろう?」
「暫くは魔界につきっきりになりそうですね」

 マテオとマヤが今後の作業量を思って溜息をついた時だった。

「ッ……」

 オスカーが苦しげに頭を押さえ、その場に膝をついた。

「オスカー!?」
「オスカー様、大丈夫ですか?」

 マテオとマヤが駆け寄る。

「えぇ……急に眩暈が……」
「もしかしたら、瘴気にやられたのかもしれない。一旦、宿に帰ろう」

 マテオの判断で、一行は都市へ引き返すことにした。オスカーは二人に支えられ、足を引きずりながら歩いた。

 都市への帰り道、カレルが不意に足を止めた。

「悪いけど、俺は自分の家に帰るよ」
「え?自分の家って?」

 急に言われて面食らったような顔をしてリノが聞き返した。
 
「あそこさ」

 カレルが指差した先には、今にも崩れそうなボロボロの小屋が建っていた。

「じゃ、またな」

 カレルはひらひらと手を振り、一人で小屋の方へさっさと歩いていってしまった。生前のカレルなら、仲間を思いやってみんなについてくるはずなのだが、魔界のカレルはあまりにもあっさりしていた。どことなく一行と距離を置きたがっているようにも思えた。

(カレルと……全然喋れなかったな……)

 リノは遠ざかるカレルの背中を、名残惜しそうに見つめた。
 宿に戻り、オスカーをベッドに寝かせると、彼の顔色はさらに悪くなっていた。

「天界人には空気が合わなかったのだろうな」

 マテオが心配そうに言った。
 一行は一階の酒場で今後の対策を練ることにした。

「さて、これからどうするか……」
「明日オスカー様の状態を見てから決めても良いのでは?」
「そうだな、装置の破壊も時間がかかりそうだし……それに、反射魔法の解除方法についても気になるしな」

 マテオの視線がリノに向く。リノは居心地悪そうに俯いた。彼自身、なぜ解除できたのか説明できなかったからだ。

「今日はこのまま休みましょう。リノ様も疲れたでしょう、ゆっくりお休みください」

 マヤの優しい言葉に甘え、リノは礼を言って部屋に戻った。

 *

 夜が更け、酒場の喧騒が一層大きくなった頃。リノはベッドの中で、どうしてもカレルのことが頭から離れずにいた。

 (カレルに会いたい……)

 再会した喜びと、まだ話し足りないもどかしさが、彼を突き動かした。リノはこっそりと宿を抜け出し、カレルの家へと向かった。
 闇の中に佇む小屋からは、微かな明かりが漏れていた。リノは迷わず、その粗末な木の扉をノックした。中から足音が近づき、軋んだ音を立てて扉が開く。

「リノ?どうしたんだ?」

 目を丸くするカレルに、リノは何も言わなかった。ただ、すがるような瞳で彼を見つめた。カレルはその視線に何かを感じ取ったのか、小さく息を吐いて扉を大きく開けた。

「取り敢えず、中入れよ、狭いけど」

 招き入れられた部屋は、外観通りの狭さだった。薄暗いランプの明かりの下、二人席用の小さなダイニングテーブルと、必要最低限のキッチン。奥には薄汚れたカーテンでかろうじて仕切られた寝室と、シャワールームらしき扉が見えるだけだ。天井も低く、背が伸びたリノが手を伸ばせば届いてしまいそうだった。こんな場所に一人で住んでいるカレルを思うと、胸が締め付けられるような気がした。

「何か飲むか?って言っても、人間サマが飲める物なんて水しか置いてねーけどな」

 カレルは自虐的に笑いながら、戸棚から古びたコップを取り出した。

「リノ、お前変わったな、雰囲気。最初誰だか分からなかったよ」

 水を注ぎながら、カレルが笑った。
 
「男前になっちゃってさ」
「体つきもだいぶがっしりしちゃって。すげー修行積んだんだろうなって思っ……」

 カレルが言い終わらないうちに、リノは背後からカレルに抱きついた。

「リノ?」

 カレルが少し驚いて声を上げる。リノはカレルの背中に額を押し付け、その体温と匂いを吸い込んだ。そして、抱きしめた腕に力を込め、カレルの耳元で囁いた。
 
「ねぇ……カレル。えっちしたい」

 リノの口から出たあまりにストレートな言葉に、カレルは絶句した。

「は!?」

 あまりにもストレートで、唐突な言い方に、カレルの顔が一気に赤く染まった。返事を待たず、リノの手がカレルの服の裾をめくり上げる。直接肌に触れる熱い手のひらが、カレルの腹部を愛撫した。

「リノ!ちょっと待てって!」
「待てない」

 リノの手が、貪るようにカレルの体をまさぐる。

「わ、分かったから!ここじゃ狭いから……」

 カレルが観念したように言うと、リノはピタリと動きを止めた。そのままカレルの手を引き、素早く奥の寝室へと向かった。ブーツを脱ぎ捨て、小さなベッドに跨ると、リノは両手を前に出してカレルを呼んだ。

「来て」

 カレルは小さなため息をつき、持っていたコップをサイドテーブルに置くと、覚悟を決めたようにベッドへ向かった。カレルもブーツを脱ぎ、リノを背にしてベッドに座る。リノの手が素早く伸び、カレルのベルトを外した。衣服が脱がされ、カレルの下半身の白い肌と、無防備な部分が薄暗い部屋に露わになる。

 リノは両手でカレルの脚を大きく開かせた。あまりに大胆な行動に、カレルは羞恥で顔を背ける。リノはその反応を気にも留めず、カレルの太腿の外側を、そして内側を這うように撫で上げた。そのまま、その手はカレルの秘部へと当てられた。ぴくりとカレルの体が反応する。

「ここ……前にカレルが教えてくれたでしょ?」

 耳元での甘い囁きと共に、リノの中指がカレルの秘部の周りをなぞり、そのままぬるりと奥へ侵入した。

「ん……」
 
 カレルの喉から声が漏れる。リノはその中指を巧みに動かし、肉壁を撫で回した。
 
「あ……」
 
 リノは指を奥へ、さらに奥へと押し込んでいく。一本では足りないとばかりに、人差し指も追加してねじ込んだ。
 リノの巧みな指使いに、カレルの口から甘い吐息が漏れる。次第に部屋には水音が響き始め、熱気が充満していく。

「うぅ……ん」

 カレルの呼吸が荒くなる。次第にカレルの内側が愛液で満たされていき、リノの指に濡れた音がまとわりつく。

「ん……リノ……もういいよ……」

 カレルが懇願するように言うが、リノは止まらない。むしろその行為は激しさを増し、カレルを快楽の波へと溺れさせていく。
 リノは無言のまま、冷徹なまでに指を動かし続けた。

「リノ……はぁ……もういいって……」

 カレルが快楽と苦痛の狭間で身を捩る。

「あぁ……リノ……やめて……」

 リノの指とカレルの秘部の隙間から、溢れ出した愛液がシーツを汚していく。リノはそれでも速度を緩めず、激しく指を動かし続けた。

「リノ……だめ……だって……!」

 カレルの体が大きく脈打ち、弓なりに反った。その瞬間、リノは指を引き抜いた。行き場を失った熱が爆発し、カレルの秘部から愛液が勢いよく噴出する。ベッドに愛液が飛び散り、甘酸っぱい匂いが充満した。

「あぁ……」

 やがてカレルが絶頂を迎え、ベッドに突っ伏した。自身の醜態に呆然とするカレルに、リノは追い打ちをかけるように囁いた。

「カレル……俺の指だけで気持ちよくなっちゃった?」

 リノが耳元で意地悪く囁く。リノは自身の衣服を脱ぎ捨て、カレルの上体を前に倒させた。背後から密着し、硬く勃ち上がった自身の肉棒を、濡れたカレルの秘部にあてがう。そのまま、一気に押し込んだ。

「はう……」

 先ほどの絶頂で敏感になっている身体が、異物の侵入に過敏に反応する。リノは躊躇なく、狭い肉の回廊を奥へ奥へと突き進んだ。
 リノはカレルの腰を掴み、深く、激しく、互いの存在を確かめ合うように身体を揺らした。

「んは……カレルの中、やっぱり気持ちいい……」

 リノが鍛え上げたせいなのか、それとも成長したせいなのか、研究所で初めて体を合わせた時よりも、その肉棒は明らかに太く、厚みを増していた。リノはカレルの腰を強く掴み、自身の腰を前後に打ち付けた。

「あ……あぁ!ん……ん……」

 熱い楔で最奥を突かれ、思わず甲高い声が出てしまう。リノは今度はカレルの上体を起こさせ、後ろから抱きすくめる体勢に変えた。今度は上下に激しく動く。カレルの体重が乗る分、さらに深くまで貫かれる感覚に襲われる。

「は……あぁ!」
「カレルのこっちも気持ちよくしないとね」

 リノの手が前へ回り、カレルの自身を扱いた。前後からの責めに、カレルの肉壁がキュウと収縮し、リノを締め付ける。

「んあぁ!」

 乱れるカレルの淫らな姿に、リノの興奮は頂点に達した。カレルは激しい抵抗も見せず、リノの強引な行為を従順に受け入れている。

「カレル……抵抗しても良いんだよ?」

 リノはまた耳元で試すように囁いた。だが、カレルは何も言わない。自分の方にカレルの顔を向かせ、その唇を塞ぐように深く口づけをした。舌を強引に割り入れ、カレルの舌と絡ませる。口づけで声を封じながら、リノは激しく腰を打ち付け、同時に手でカレルの自身を扱き上げた。小さな木製のベッドが悲鳴のような軋み声を上げ、部屋中に水音と息遣いが満ちる。

 そして。

 リノの肉棒から、熱い精液がカレルの中にどっと注ぎ込まれた。同時に、リノの手の中でカレルもまた、白濁した液を吐き出した。

 リノが口づけを解くと、カレルは糸が切れたようにぐったりとリノの腕の中に倒れこんだ。リノはカレルの体を愛おしげに抱きしめた。カレルの体は、リノの精液と、自身の愛液、そして白濁した液にまみれ、情事の激しさを物語っていた。

「カレル……可愛い。好き」

 リノはカレルの汗ばんだうなじに顔を埋めて囁いた。カレルにはもう、言葉を返す力も残っていなかった。

 (リノって……性欲強いんかな……)

 カレルは朦朧とする意識の中で、そんなことをぼんやりと考えていた。
 
 呼吸が整った頃、小さな木製のベッドで、リノはカレルを後ろから包み込むように抱きしめ、横になっていた。リノはカレルのうなじに顔を埋め、甘えるように言った。

「ねぇ、カレルとここで一緒に暮らしたい」
「えぇ!?」

 カレルは急な提案に、驚きのあまり裏返った声を上げた。

「カレルは嫌?」
「嫌……っていうか、お前、王家の人間だろ?城に帰れよ」
「じゃぁ、王家の人間じゃなかったら居ても良い?」

 食い下がるリノに、カレルは深くため息をついた。リノの方を向くことなく言った。

「リノ……あのなぁ」
「俺はもう『死んで』るんだよ。生きてるお前がここにいちゃダメだろ。お前の居場所はここじゃない」

 その突き放すような言葉は、残酷なまでの正論だった。リノの腕に力がこもる。カレルを放したくないと訴えるように。

「じゃぁ、俺が死んだら?死んだらここに居ても良い?」

 震える声で問うリノに、カレルは驚いて寝返りを打った。

「お前、何言ってるんだよ……」

 カレルはリノの顔を見て、言葉を失った。リノは泣いていた。音もなく涙を流し、濡れた瞳でじっとカレルを見つめていた。その瞳には、深い孤独と、危ういほどの希求が宿っていた。
 
「……この場所は地獄に近い場所だって聞いた。多分……罪を犯した人間が流れてくる場所だと思う」

 カレルは目を伏せ、静かに語りかけた。

「だから……お前は来れないよ」
「どうして?」
「なんとなく……もし、死んだとしてもお前は天国に行くと思う」
「でも、俺だって罪を犯してたらここに来るよね?」
「お前はそういう奴じゃないだろ?リノは優しいからな。俺は知ってるよ」

 カレルはそう言って、リノの頬を伝う涙を指で拭った。その優しさが辛いのか、リノの目からまた大粒の涙が溢れ出した。

「ねぇ、カレル……俺のこと恨んでる?」

 リノはずっと聞きたかった言葉を口にした。遺跡での騒動。リノを守ろうとして、カレルは死んだ。自分のせいで死なせてしまったという責任を、リノが感じているのは痛いほど分かっていた。しかし、あの死はカレル自身の選択であり、自身の弱さの結果でもあった。

「恨んでないよ」

 カレルは即答した。

「リノ、お前のせいじゃないよ」

 カレルはリノの濡れた頬を両手で包み込んだ。出会った頃から、リノはずっと怯えるように誰かの顔色を窺っていた。自分自身に自信がなく、自分の存在を許してもらうように生きてきた。だからこそ、リノが「こうしたい」と意思表示をした時は、それがどんな形であれ受け止めようと思っていた。たとえそれが、愛情不足からくる歪な性愛であったとしても。だが、久しぶりに会ったリノは、どこか生き急いでいるように見えた。今の行為も、まるで自分が生きている実感を確かめようとしているかのようだった。

 (リノ……一体どうしたんだ……?)

 カレルはその問いを飲み込み、リノの背中に腕を回した。今はただ、この震える背中を温めることしかできない。二人は互いの体温を分け合うように抱き合い、魔界の静寂の中で夜を過ごした。

 *

 翌朝。焦土大陸特有の赤い朝焼けが窓から差し込む中、リノとカレルは連れ立って宿屋の食堂へと向かった。扉を開けると、そこには既に武装を整え、朝食を摂っているマテオと衛兵たちの姿があった。

「リノ!お前を起こそうと部屋に行ったら居なかったから驚いたぜ」

 マテオが、呆れたような、しかし鋭い眼光をリノに向けた。

「どこに居たんだ?」

 マテオの顔には、単なる好奇心ではなく、王弟の護衛を任された騎士としての責任感が滲んでいる。その瞳の奥にある「危ないことはしていないだろうな」という無言の圧力を感じ取り、リノは少し身を縮こまらせた。

「ごめんね、カレルの家に泊まってて……」
「カレルの家?」

 マテオは眉を顰め、胡乱(うろん)げな視線をリノの背後にいるカレルへと移した。
 カレルはバツが悪そうに苦笑いを浮かべ、頭をかいた。

「あ、あぁ。ちょっとリノが話したいことあるっていうから……」

 カレルは平静を装って答えたが、内心では冷や汗が止まらなかった。一行はリノの護衛という重大な任務を負っている。いくら旧知の仲とはいえ、「死んだはずの人間」と王弟を二人きりにさせるなど、マテオたちからすれば非常識極まりない行為だろう。

 それに何より――。
 
(いくらリノから誘われたとは言え、あんなことしてたのバレたら本当に消し炭にされそうだな……)

 昨晩の濃厚な情事の記憶がフラッシュバックし、カレルは視線を泳がせた。リノの艶めかしい肌の感触や、熱い吐息を思い出せば出すほど、罪悪感と背徳感が胸を締め付ける。この件に関しては、《墓》まで持っていく覚悟が必要だ。

「ふーん?まぁカレルが一緒なら問題ないとは思うが……何かあったときに助けられないからな。リノもあんまり一人で出歩かないでくれ」
 
 マテオは大きくため息をつき、釘を刺した。以前の遺跡での出来事――リノを守りきれず、結果としてカレルを失った記憶が、マテオの中で未だに燻っているのだ。二度と同じ過ちは犯さないという、護衛としての強固な意志がそこにはあった。
 
「ごめんなさい」

 リノがしょんぼりと俯く。純粋にカレルとの再会を喜びたかっただけなのに、周囲に心配をかけてしまったことへの申し訳なさで、リノの表情が曇る。その様子を見て、カレルは居たたまれない気持ちになった。場の空気を変えるべく、カレルはマテオに声をかけた。

「先生とちょっと話したいんだけど、部屋にいる?」
「あぁ、今マヤが介抱してるところだ。だいぶ参ってるみたいだから、手短にな」
「サンキュー」

 カレルはマテオに感謝を示し、リノに朝食を促すマテオの姿を確認してから、オスカーの部屋へと向かった。

 オスカーの部屋のドアは半開きになっていた。中を覗くと、ベッドに横たわるオスカーへ、マヤが水と薬を差し出しているところだった。

「先生、大丈夫そうか?」
「あ、カレル様」

 マヤはカレルに気づくと、テキパキと片付けを始めた。

「では、私も朝食にいってまいります」

 マヤはグラスとタオルをトレイに乗せ、深々と一礼して部屋を出て行った。彼女もまた、兄と共にリノを守り、一行を支える縁の下の力持ちとして気を張っているのだろう。

「えぇ、マヤありがとうございました」

 扉が閉まるのを見届けてから、オスカーが力なく微笑んだ。

「カレル。魔界の空気が合わなかったようです。一度、城へ帰還しようと思います」
「あぁ、その方が良さそうだな。だいぶ顔色が悪いぜ」

 カレルはベッド脇の椅子に腰掛けた。オスカーの顔は土気色で、呼吸も浅い。研究熱心な彼が帰還を決断するほど、体調は深刻なようだ。

「先生、リノのことなんだけど……」

 一呼吸置いて、カレルは本題を切り出した。
 
「妙に逞しくなってて……最近アイツになんかあった?」
「天界での騒動があったあと、修行に精を出していますけど……しかしあの変わりようには私も驚くばかりです」

 オスカーもリノの変化を気に病んでいたようだった。

「彼なりに思うところがあるのでしょうけれどね。急に遠い所へ行ってしまいそうな気がして……私は心配しているのです」

 それは単に物理的な距離の話ではなかった。親代わりとしての根源的な不安だった。
 
「ここに来る道中、巨大なモンスターがいたのですが、リノはあっさりと一刀両断したのです」
「なんだって?」

 カレルは思わず声を上げた。かつてギルドで依頼を受けていた頃は、小型のモンスター相手に腰を抜かしていた少年が、この短期間で特大級を一撃で仕留めるようになるなんてあり得るのだろうか?

「私は……恐らく、リノは《神の力》を自在に操れているのではないかと思うのです……。ですが、リノは何も言ってくれません……」

 天界の出来事。研究所を脱出した直後のあの惨劇。カレル自身も記憶が曖昧だが、あの時リノの中で何かが壊れ、何かが目覚めたのかもしれない。オスカーは縋るような目でカレルを見た。

「カレル、それとなくリノに神の力が使えるか訊いてみてもらえませんか?あなたになら、リノも話してくれるかもしれません」
「えぇ?」

 カレルは露骨に嫌そうな顔をした。リノに対して、スパイのような真似はしたくない。それに、リノが隠しているなら、それなりの理由があるはずだ。昨晩見せた涙の理由も、そこにあるのかもしれない。

「あまり、気が進まないな……」
「そう……ですよね。失礼しました。この件は私からおいおいリノに伺います」

 オスカーは引き下がった。無理強いはできないと分かっているのだ。そこへ、朝食を終えたマテオが部屋に入ってきた。

「オスカー、そろそろ出発しよう。早いとこ城に帰って休むのが良いだろう」

 三人は部屋を出て、宿の外へ向かった。
 一行は宿屋を出た。外では既に衛兵たちが馬車の準備を整えて待機していた。魔王への献上品がなくなった荷台は空っぽで、帰路は幾分軽やかになるだろう。

「天界の装置も気になるが、まずはアラン王に報告もしないとな」

 マテオが指揮を執り、出発の号令をかけようとした。カレルは腕を組み、それを見送るつもりで壁に寄りかかっていた。しかし、リノは動かなかった。

「リノ?置いてかれるぞ?」
「リノ様?どうされましたか?」

 カレルとマヤの声に、リノは顔を上げることなく、絞り出すように言った。

「俺、帰らない」

 その一言が、朝の空気を凍らせた。

「リノ、何を言い出すのですか?アランに報告が先ですよ」

 オスカーが頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。
 
「ここに残る」
 
 リノの声は小さかったが、そこにはテコでも動かないという頑固な意思が宿っていた。
 
「リノ、あなたをここに一人で置いておけません。一緒に来なさい」
「嫌だ」

 リノは頑として譲らなかった。

「困りましたね……」

 オスカーの体調は限界に近く、これ以上リノを説得する気力も体力も残っていない。マテオも困り果てている。このままでは拉致があかない。見かねたカレルが、ため息交じりに提案した。

「どうせ2,3日したらここに戻ってくるんだろ?それまで俺が面倒見るよ」
「いや、俺かマヤのどちらか残った方が良いだろうな」

 マテオが即座に真剣な目で反論した。護衛としての責任感が、怪しい男に王弟を預けることを拒んでいるのだ。カレルはマテオからの不信感を肌で感じつつも、現実的な問題を突きつけた。

「衛兵と病人の先生を抱えて、一人で戦えるのか?そっちの方が大変だぜ」
 
 カレルの言葉に、マテオが言葉を詰まらせた。 確かに、オスカーを守りながら戦うには、二人分の戦力が欠かせない。

「わかりました。リノはカレルに任せます」

 オスカーが折れた。カレルに対する信頼というよりは、苦渋の決断だった。
 
「リノ、マテオとマヤが再び戻って来るまで、危ないことをしてはいけませんよ」

 まるで小さな子供をあやすように、オスカーは優しく言い聞かせた。しかしリノは、一行に対しそっぽを向いたまま、ついに返事をすることはなかった。

 マテオは大きくため息をつき、心配するマヤの肩に手を置き、帰還を促した。
 やがて一行の姿は見えなくなった。カレルは静寂の中で口を開いた。

「リノ、みんなもう行ったよ」

 リノは俯いたまま、動こうとしなかった。その背中は、わがままを通した罪悪感と、それでもカレルのそばに居られるという安堵感で小さく震えているように見えた。カレルは苦笑し、ポン、とリノの背中を優しく叩いた。

「取り敢えず、二人で装置でも見て回ろうか?」

 カレルが歩き出す。リノは顔を上げ、カレルの背中を見つめた。そして、何かを振り切るように、その背中を追って歩き出した。

第十六章 逡巡(しゅんじゅん)

 一方その頃、天界。

 かつては下界の管理者として君臨していたこの場所も、今やかつての威光は見る影もなかった。下界へと続く道筋は厳重に封鎖され、必要物資の調達や、許可を受けたごく一部の研究員を除き、一切の行き来が禁じられていたからだ。それは、ヴァイスブルクの王族や特権階級であっても例外ではなかった。

 事の発端は、あの研究所での騒動だ。

 天界側は、ヴァイスブルクの王女リリアンヌがマスターキーを不正に使用し、最重要検体である《神子》――リノを逃がしたことを糾弾した。対するヴァイスブルク側も黙ってはいない。特務機関の裏で行われていた非人道的な人体実験や、魔物化の研究について厳しく咎めたのだ。ジョゼフ王にとって、愛娘が勝手な行動をした非はあるものの、彼女を危険な目に遭わせた天界の杜撰な管理体制は看過できるものではなかった。

 両国の関係は冷え切っていたが、その水面下では新たな結びつきも生まれていた。

 オスカーは天界の騒動の直後、すぐさまリノとカレルから得た情報を整理し、ヴァイスブルクのエミールと密に連絡を取り合っていた。さらに、リノとリリアンヌの間でも手紙のやり取りが続き、シュヴァルツブルクとヴァイスブルクの若き次世代同士の親交は、大人たちの思惑を超えて深まっていたのだ。

 天界の中枢、聖域。

 そこでは深刻な問題が発生していた。《神》自身の力が、著しく弱まっていた。神子らが逃走の際、覚醒したリノから受けた攻撃による損傷だ。神が負った傷の修復は遅々として進まない。神にもっとも近い存在である天界人の魔力を注ぎ込むことで延命していたが、それも限界が近かった。

 パトリックは研究室に戻ると革張りの椅子に深く腰掛け、重苦しいため息を吐く。手元の端末を操作し、新しいデータウィンドウを宙に展開させた。そこには天界に住む候補生や、下級市民の個人データが膨大に羅列されていた。

「今すぐ対象者のリストを作成しろ。抽出条件(フィルタリング)は以下の3点だ」

 パトリックは眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、淡々と条件を口にし、研究員たちに冷徹に命じた。
 彼の眉間には深い皺が刻まれていた。
 そこへ、慌ただしい足音と共に一人の研究員が駆け寄ってきた。

「室長!ご報告があります」
「なんだ、騒々しい」

 次から次へと降ってくる厄介事にうんざりするように答えた。

「焦土大陸に設置していた施設の一部が、何者かによって破壊されました。それと……長らく行方不明だった魔王が、魔王城に帰還したとの情報も」
 「ほう?」

 パトリックは眼鏡の位置を直しながら、モニターへと視線を向けた。映し出されたのは、破壊された施設の監視カメラ映像だ。電源が落とされる直前、そこには見覚えのある集団が映っていた。シュヴァルツブルクの紋章を掲げた衛兵たち。そして、その中心にいる人物を見て、パトリックは目を見開いた。

「……オスカー」

 神子であるリノを庇うように立つ、長身の天界人。かつて、妹のイヴリンが天界を追われた際、実兄であるオスカーもまた反逆の嫌疑をかけられ、抹殺命令が下されていたはずだった。

(死んだと思っていたが……生きていたか)

 パトリックの脳裏に、かつて同じ研究室で机を並べ、志を共にしていた頃の記憶が蘇る。優秀で、実直な男だった。イヴリンと同様、シュヴァルツブルクへ亡命し、生き延びていたということか。考えてみれば、リノはイヴリンの息子だ。伯父であるオスカーが彼を匿うのは、道理といえば道理だった。

「パトリック様、施設の破壊について今後の対応は如何いたしましょう?」

 研究員の問いかけに、パトリックは過去の感傷を振り払うように軽く首を振った。

「ちょうどいい。魔王への挨拶がてら、『アレ』を送ろう」

 パトリックは不敵な笑みを浮かべ、キーボードを叩いた。画面に表示されたのは、何千体という膨大な数の「白い甲冑」のデータ。研究の粋を集めた自律型の殺戮兵器だ。その戦闘アルゴリズムは以前よりも遥かに強化され、洗練されている。

「指揮は、ローマンに執らせる」
「ロ、ローマン様にですか?大丈夫なのですか?」

 研究員が不安げに声を震わせた。無理もない。ローマンは制御不能な猛獣のようなものだ。

「問題ない。暴れに暴れてくれれば、それで構わないのだから」

 パトリックは、ローマンに知的な戦術など期待していなかった。ただ単純に、圧倒的な暴力で焦土大陸を蹂躙し、制圧してくれればそれでいい。あの騒動の後、皮肉にもローマンの中に眠っていた《神の力》が開花していた。だが、それはリノのように他者を癒やし、蘇らせる慈愛の力ではない。破壊と自己強化に特化した、歪な神の力だった。

(ヤツも、自分の力を試したくてウズウズしているだろう……)

 今のローマンは、手に負える存在ではない。常に飢えた獣のように、自分の力を解き放つための「餌」を求めている。

(良い機会だ……)

 パトリックの眼鏡の奥で、勝機を確信した瞳が冷たく光った。

 *

 所変わって、天界のとある住宅街。

 広々としたリビングダイニングは、モデルルームのように几帳面に整えられていた。生活に必要なものは揃っているが、無駄な装飾や乱れが一切ない。まるで、いつ誰が訪ねてきても完璧なもてなしができるよう、常に準備されているかのような空間だった。

 キッチンでは、母と娘が仲睦まじくおやつの準備をしていた。甘いクッキーの焼ける匂いが漂っている。

「もうそろそろ来ると思うけど……」

 娘のミリアが、少しの不安と期待を滲ませながら時計を見た。その時、家のチャイムが軽やかに鳴った。

「来たわ!」

 ミリアはパタパタとスリッパを鳴らし、弾むような足取りで玄関へ向かった。ドアを開けると、そこには少し緊張した面持ちのヴィダルが立っていた。

「すまない、少し遅れた」
「大丈夫よ。さ、上がって」

 ミリアは笑顔でヴィダルを招き入れた。玄関から廊下、リビングに至るまで、塵ひとつない清潔な空間に、ヴィダルは恐縮しながら足を踏み入れた。

「今ね、ちょうどクッキーを焼いたところなの!」
「お邪魔します」

 キッチンにミリアの母親がいることに気づき、ヴィダルは背筋を伸ばして軽く会釈をした。母親も優雅に挨拶を返すと、娘に向かって「あとは、頑張るのよ!」と茶目っ気たっぷりにウインクをし、ヴィダルには「ごゆっくり」と品よく微笑んで、二階へと上がっていった。

「ヴィダル、取り敢えず座って」
「あぁ……ミリア、これを」

 ソファに腰を下ろす前、ヴィダルは手に持っていた紙袋を差し出した。

「なぁに?」
「好みが分からなかったから……気に入るか分からないが」
「開けてもいいの?」
「あぁ」

 ミリアはいそいそと、しかし丁寧に包み紙を開封した。中から出てきたのは、ガラス球の中に美しい森の景色と、舞い散る雪が閉じ込められたスノードームだった。

「まぁ……素敵……」

 ミリアはキラキラと輝くその小さな世界を、まじまじと見つめた。

「買う前に……ちゃんと好みを聞いておくべきだったな」

 ヴィダルが照れくさそうに頭をかくと、ミリアは首を振った。

「ううん、とても嬉しいわ!ヴィダル、ありがとう」

 心からの笑顔を見せるミリアに、ヴィダルはホッと胸を撫で下ろした。ミリアはスノードームを、大切そうに写真立てが並ぶ棚の一角に飾ると、「おやつ用意してくるから待ってて」と言い残してキッチンへ向かった。

 一人残されたヴィダルは、何気なくスノードームが置かれた棚へ視線をやった。そこには、ミリアの成長記録とも言える写真がずらりと並んでいた。父と母、そして幼いミリア。学校の入学式、誕生日などの記念日に撮られたであろう写真たち。どの写真からも、彼女がいかに両親から愛され、大切に育てられてきたかが伝わってくる。温かい家庭の象徴のような光景。

 だが、ふと端に置かれた一つの写真立てに目が止まり、ヴィダルは息を呑んだ。
 思わず、その写真立てを手に取る。

 飲み物とクッキーを乗せたトレイを持って戻ってきたミリアが、ヴィダルの手にあるものを見て、申し訳無さそうに言った。

「ごめんなさい……その写真、どうしても捨てきれなくて……」

 写真の中で、ドロテオとリノ、そしてヴィダル自身が、ぎこちなく並んでいた。以前、オスカーに渡そうと思って保管していたものだ。だが、パトリックからオスカーが死んだと聞かされた際、行き場を失いゴミ同然となったそれを、半ば八つ当たりのようにミリアに押し付けたのだった。

「こんなものを飾らなくても……」

 ヴィダルは眉を寄せた。忘れようとしていたリノの存在、そしてあの頃の記憶が鮮明に蘇り、胸の奥に苦々しい澱(おり)が広がる。

「ごめんなさい……少しでもヴィダルの昔のことが知れるものだったから……」

 ミリアは俯き、消え入りそうな声で謝った。

「ヴィダル……あんまり自分のこと話してくれないから。この写真、実は嬉しかったの」

 その言葉に、ヴィダルはハッとした。自分は過去を拒絶するあまり、彼女が自分を知ろうと歩み寄ってくれている優しさまで、突き放そうとしていたのではないか。

「ミリア、良いんだ。俺が悪い……」

 ヴィダルは写真立てを戻し、深く息を吐いた。今まで他人とまともに向き合ってこなかった。だが、ミリアに対してだけは、誠実でありたいと思った。

 二人はソファに並んで座った。しばらくの間、静寂が流れた。沈黙を破ったのは、ミリアだった。

「ヴィダル……あのね、私...家族で下界に降りようと思うの」
「下界に?」
「うん……この前騒動があったじゃない? やっぱり……天界は危ないんじゃないかってお父さんが……」

 ミリアの父は、生まれも育ちも下界の人間だが、その優秀さを買われて特務機関の研究員として働いていると聞いていた。ミリア自身も下界出身だが、父の仕事の都合で天界へ移住してきたのだ。

「そうか。寂しくなるな」

 ヴィダルは率直な感想を漏らした。彼女がいなくなるのは、正直堪える。

「それでね……ヴィダルが良ければ、一緒に下界に来ない?」
「俺も?」

 予想外の提案に、ヴィダルは目を丸くした。ミリアはヴィダルの袖を掴み、涙ぐんだ瞳で訴えた。

「お父さんが言うには、特務機関は危険すぎるっていうの。私……怖くて……。候補生でいるのが……」

 ミリアの目から涙がこぼれ落ちた。

 ヴィダルは、初めてこの天界に来た時のことを思い出した。パトリックと出会い、あの不気味な白い甲冑と戦わされた日々。自由を掴むための試練だと信じていたが、それは裏の事情を知っていたからこそ耐えられたものだ。だが、候補生の多くは違う。善悪の判断もつかないまま、ただ「任務」として危険な仕事をさせられている。自分が悪行の片棒を担がされていることすら知らずに。ミリアのような普通の少女にとって、それがどれほどの重圧と恐怖だったか、ヴィダルは想像して胸が痛んだ。

「……スヴェンとビアンカは?」
「二人には数日前に話したの。うちのお父さん、二人のご両親とも仲が良いから、多分みんな下界に降りると思うわ」

 ミリアは涙を指先で拭いながら答えた。ヴィダルは腕を組み、沈思した。自分に家族はもういない。何を決めるにも、自分次第だ。

(今更、下界に……か)

 12年前、リノを守るために両親が殺された。それからドロテオ、リノとの奇妙な三人での生活。ドロテオの死、リノとの二人旅、そして決別。研究所での再会と、決定的な断絶。今、ヴィダルは自由の身となり、候補生の仲間たちと穏やかな日々を過ごしている。それは間違いなく「幸せ」と呼べるものだった。

 しかし、心のどこかに常にポッカリと空いた穴がある。得体のしれない空虚。どんな選択肢も、可能性も、無限に広がっているはずなのに、自分の意思で「これがしたい」と思えるものが何一つ見つからないのだ。あれだけリノを見下し、自分の道を行くと豪語したのに。手に入れたのは「自由」という立場だけで、そこから一歩も進んでいない自分がいる。

 一族の使命も、パトリックからの命令も、そして今、ミリアからの提案も。何もかも、ただ流れに身を任せているだけではないのか。

「少し、考えさせてくれないか」

 ヴィダルは苦渋の表情で答えた。下界に降りれば、二度と天界には戻れないだろう。本当にここを出ることが、自分にとって最良の選択なのか。答えはすぐには出なかった。

 ミリアはヴィダルの深刻な横顔を見て、しばらく言葉を待っていたが、やがて彼の口から出たのは謝罪だった。

「すまない。時間が欲しい……」

 ミリアの優しさを無下にするようで、申し訳なさで胸が潰れそうだった。

「ううん、良いの。すぐにってわけでもないから」

 ミリアは努めて明るく振る舞ったが、その声には隠しきれない落胆が混じっていた。内心、ヴィダルなら「一緒に行く」と言ってくれると期待していたのだ。また少し、彼との心の距離が遠くなった気がして、ミリアは小さく胸を痛めた。だが、彼女は気を取り直すように話題を変えた。

「ヴィダル、このクッキー食べて。私、頑張ったんだよ?」

 ミリアが焼きたてのクッキーを勧める。ヴィダルは一つ手に取り、口に運んだ。サクッとした食感と共に、優しい甘さが口いっぱいに広がる。

「ふむ……美味いな」
「ふふ、ありがとう」

 日当たりのよいリビングに、穏やかな時間が戻る。
 だが、その平穏の下で、それぞれの運命の歯車は確実に、そして静かに回り始めていた。

第十七章 嚇怒(かくど)

 焦土大陸。
 その名の通り、命の気配を焼き尽くした赤茶けた大地が、地平線の先まで続いていた。高台に立ち、乾いた風に目を細めて見渡せば、あちこちに天界の遺物である装置が不気味な墓標のように鎮座している。リノとカレルは、そのうちのひとつへと歩み寄った。 リノがためらいがちに、しかし吸い寄せられるように装置の表面へ触れる。その瞬間、空間を歪めていた透明な障壁が、網膜を焼くほどの眩い光を放ち、霧散するように消え去った。

「……やっぱりそれ、神の力……なのか?」

 カレルが、静寂を破るようにそれとなく訊ねた。その声には、好奇心よりももっと深い、正体のしれない不安が混じっている。

「……」

 リノは答えなかった。いや、どう答えるべきか迷っていた。肯定すれば、自分がカレルの知る「リノ」ではなくなってしまうような、得体の知れない恐怖が彼の喉を塞いでいた。

「……すまん、忘れてくれ」

 リノの重苦しい沈黙を察し、カレルは謝った。聞くべきではなかった――そんな後悔が二人の間に薄い膜を張る。

 二人は無言のまま装置の中へと入った。内部は、以前破壊したひとつ目の装置と同じ構造だ。無機質に這い回る電源ケーブルを断ち切り、システムの息の根を止める。 駆動音が止まり、死んだ鉄の塊となった装置から出た二人は、そのまま三つ目、四つ目と、淡々と稼働を停止させていった。

「リノ、疲れてないか?」

 カレルが立ち止まり、リノの顔を覗き込んだ。神の力という強大な力を行使することで、リノの身体に過度な負担がかかっているのではないか。彼の瞳には、純粋な気遣いが宿っていた。

「うん、大丈夫」

 リノは短く答えた。カレルのその変わらない優しさが、今はただ、痛いほど嬉しかった。

 (カレルは……いつだって、俺に優しい……)

 夕暮れ時。二人は散歩がてら、焦土大陸を一望できる丘へと足を運んだ。 沈みゆく太陽が、荒れ果てた大地を血のような赤に染め上げている。

「カレルは……ずっとここで暮らすつもりなの?」

 リノは、隣に立つカレルの不確かな将来について訊ねた。霊体とも魔族ともはっきりしない、今の彼の儚い存在を憂いてのことだった。

「うーん……俺もどうしたらいいか分かってないけど」

 カレルは遠くを見つめたまま、言葉を選んだ。

「取り敢えず、なるようにしかならないかと思ってさ」

 存在の在り方だけでなく、彼の考えそのものもフワフワと浮ついているように感じられた。

「もう……人間でもないしな」

 カレルが自嘲気味に笑う。その笑顔が、実体の輪郭を揺らしているように見えて、リノの胸は締め付けられるように苦しくなった。

「……分からないんだ。もう。自分が何をしたいかも」

 赤い大地を見つめるカレルの瞳は、どこまでも寂しげだった。 魂としての生前の記憶は鮮明に残っているのだろう。しかし、今の彼には、未来に対する「欲」というものが決定的に欠落していた。昨日から感じていた違和感の正体は、これだったのかもしれないとリノは思う。

 カレルの優しさは変わらない。しかし、そこには埋めようのない圧倒的な心の距離感があった。生前の彼が持っていた前向きな快活さが失われているのは、彼がただの「記憶の断片」になってしまったからなのだろうか。

 遠くを見つめるカレルの横顔を見るたび、リノの心は張り裂けそうだった。

(俺が……なんとかしてあげたい……)

 生前のカレルに対して、何もできなかった自分。その無力感が、今の彼を助けたいという強烈な衝動へと変わっていく。 昨日、マヤが「半分魔族になりかけている」という話をしていたのを思い出した。

(カレルの存在……もしかしたらアグニなら何か知っているかもしれない)

 リノは、明日アグニに会うことを固く心に決めた。

 翌日。
 リノはアグニに訊きたいことがあると告げ、カレルを伴って魔王城を訪れた。
 城の中では、アグニが魔族の使用人たちとテーブルゲームに興じていた。

「アグニ様、お客様が……」

 メイド服を着た魔族が、次の一手に悩み、うんうん唸っているアグニに声をかける。

「あーん?あー……お前は……」

 アグニはリノの顔をじっと見つめ、数秒間の長い沈黙の後。

「誰だっけ?」

 と、拍子抜けするような回答をした。

「シュヴァルツブルク王の弟、リノです」

「あぁ、それだ!」 アグニは思い出したように手をポンと叩いた。

「イヴリンの息子だろ?」
「母を……覚えているのですか?」
「まぁな」
 
 アグニはゲームの駒を動かしながら、さらりと答えた。
 確か以前、オスカーと話をしたとき、赤子を抱いたイヴリンが天界から落ちた際に魔王が助けたという話しだった。

「それで?今日は何の用だ?」
「少し、聞きたいことがあって……」
「イヴリンの話なら話せることはねぇな。俺は天界から落ちてきた天界人を拾っただけだからな」

 アグニはきっぱりと言い切った。

「いえ、母のことではなく。《魔族》についてなんですけど……」
「ふむ?」

 アグニ、使用人、そしてカレル。全員の視線がリノに集中する。

「その……どうしたら、魔族になれるのかなって……」

 再び、重苦しい沈黙が流れた。

「ぶわっはっはっは! なんだよ、おめー魔族になりてーのかよ!?」

 沈黙を破ったのはアグニの爆笑だった。使用人たちもつられて笑い声を上げる。 しかし、横に立つカレルだけは、笑うこともなく、真剣な眼差しで黙ってリノを見つめていた。

「昨日、仲間に訊いたら、悪魔契約をしたら魔族になれるという話を聞きました」

 リノは臆することなく、真っ直ぐにアグニを見据えて話を続けた。

「ハッ!確かにそうだな。だが、俺が言うのもなんだが、悪魔契約はリスクが伴うからな。やめとけやめとけ」

 アグニは笑うのを止め、今度は真面目な顔で答えた。

「リスク……」
「代償ってやつさ。例えば、誰か大切な人の命を奪うとか、な」

 アグニは、恐ろしい事実を何でもないことのように告げた。

「他に……方法はあるのですか?」
「他に?そうだなぁ……」

 アグニは意味深に、ちらりとカレルへ目をやった。リノはその視線を追い、カレルを見る。カレルは無表情のまま魔王を見つめ返していた。

「あるよ」

 アグニはカレルからリノへと視線を戻し、じっとその瞳の奥にある覚悟を覗き込むように言った。

「俺の……精液を飲むんだ」

 アグニの目は、冗談など一切含んでいない真剣なものだった。リノの瞳孔が驚愕で見開かれる。

「なぁ、カレル?お前は途中で吐き出したから、中途半端な半魔モンになっちまったけどな」

 カレルは相変わらず無表情で、無言のまま魔王を見ていた。

「また飲みたいなら、いつでもお前の口の中に出してやるぜ?」

 得意げに、誘うような笑みを浮かべるアグニ。 カレルが何も反論しない。その事実が、リノに衝撃を与えた。

 (カレルは……魔王との間に、そういう行為があったの……?)

 胸の奥がドロリとしたショックに塗りつぶされる。

「魔界に迷い込んだ霊体は、長い時を過ごすとやがて悪霊になる。悪霊になれば、いくら魔界と言えど野放しにはできねぇからな」

 今度は真面目なトーンで魔王は言った。リノはハッとする。

「どうした? 随分と顔色が悪いみてぇだが?」

 顔面蒼白になったリノを見て、アグニは楽しげにニヤつきながら言った。

「……教えてくれて、ありがとうございました……」

 リノはあまりのショックに、フラフラとした足取りで踵を返した。カレルも無言でリノの後に続く。

「カレル!」

 アグニがカレルを呼び止めた。カレルはアグニに背を向けたまま、立ち止まる。

「俺は最初にお前に忠告したはずだぜ。死人が《生》に執着することは許されない、ってな」

 カレルは返事をしなかった。そのまま再び歩みだし、アグニはその背中を、姿が見えなくなるまでじっと見つめていた。
 魔王城を出てからカレルのボロボロの家に戻るまで、二人は一言も交わさなかった。

 家の中に入った瞬間、リノは耐えきれずカレルの袖を強く掴んだ。 カレルが立ち止まり、二人は向かい合う。カレルは静かに、リノの瞳を見つめ返した。

 リノの手が、カレルのアッシュブロンドの髪に触れる。そのまま頬をなぞり、親指で彼の唇をなぞった。 柔らかい唇。それは、優しさを形にしたような色をしていた。

(この口で……魔王の……)

 カレルはどんな気持ちで魔王のそれを咥えたのだろうか。口淫の想像が膨らむ。想像した瞬間、リノの股間に熱い疼きが走った。ここ最近、抑えきれない性欲の暴走に、リノの理性は常に崩壊の危機に瀕していた。

(うぅ……もう、ダメだ……)

 リノはカレルの両肩を掴み、懇願するように言った。

「カレル……俺のも……舐めてほしい……」

 激しく荒くなった息遣いと共に、堪えきれない欲望を口にする。 カレルは一瞬驚いた表情を見せたが、何も言わなかった。リノは返答を待たず、寝室に向かうと静かに下着を脱ぎ捨て、ベッドサイドに腰を下ろした。

 カレルは無言でリノの前に立ち、ゆっくりと膝をつく。 そして、リノの大きく反り立ち、脈打つ肉棒を優しく握り、舌で丁寧に舐めまわし始めた。 その仕草に、リノの興奮は最高潮に達する。

 (カレルは……いつだって、俺に優しい……だから……)

 どんな身勝手な行動も受け入れてくれるカレル。リノは、その底なしの優しさに甘え、溺れていた。カレルが肉棒の先端を咥え、吸い上げる。

「うっ……!」

 快感に思わず声が漏れる。カレルの舌が先端を這い、優しく揉みながら口の中へと収めていく。

(やばい……もう……出そう……!)

「はっ……!」

 リノはカレルの口の中に、激しく射精した。 カレルは溢れ出す精液を、逃さず飲み込んだ。
 この時、リノの脳裏に魔王の言葉が蘇る――「途中で吐き出した」。

 (俺のは……全部飲み込んでくれた……)

 歪んだ優越感がリノを満たした。それと同時に、彼にこんなことをさせてしまったという罪悪感が押し寄せ、涙が溢れ出した。

「カレル……ごめん……ごめんね……」
「ふふ。お前……いつも謝ってるよな?」

 カレルが柔らかく笑う。その表情を見て、さらに涙がこぼれた。 カレルがリノの隣に座り、その肩を優しく抱く。

「泣くなよ。俺、お前の涙に弱いんだからさ」

 カレルはリノの涙を拭った。
 リノはすがるように、カレルの股間をさする。

「カレルも……する?」

 自分だけ気持ちよくなってしまったことへの、せめてもの償いのつもりだった。

「え……俺は、いいよ……」

 カレルは断った。彼は自分自身のことに関しては、いつも遠慮がちだった。しかし、リノは強引にカレルの腰に手を回し、ベルトを外して衣服を脱ぐように促した。カレルは小さく溜息をつくと、それに従った。

 カレルの肉棒が露わになる。今度はリノが膝をつき、先ほどカレルがしてくれたように、それを掴んで口に咥えた。 勝手が分からないまま、リノは必死に吸い付く。

「あっ……んん……っ」

 思わず漏れた色っぽい声に、カレルが手で自身の口を押さえる。リノは両手で肉棒をしごきながら、貪るように吸い続けた。

「あ……はっ……も、リノ……いいって、やめて……」

 カレルの制止も聞かず、リノは激しくしごき続けた。
 半ば乱暴に吸い続けるためくちゅくちゅと卑猥な音が部屋に響く。

「あう……!」

 カレルが大きく身体を仰け反らせ、リノの口内で射精した。リノは、カレルがしてくれたように、口の中に注がれるそれを全て飲み込んだ。

「うぅ……」

 優しさとは程遠いその強引な行為に、カレルには少しの疲労感が漂っていた。そして、いつの間にかリノの肉棒もまた、脈打つように再び反り上がっていた。 それを見たカレルは、また小さく息を吐く。

「……お前、ちょっとがっつきすぎなんだよ」

 カレルはリノをベッドに仰向けになるよう促した。リノが応じると、カレルがその上に馬乗りになる。カレルがリノの肉棒を自分の秘部へと当て、ゆっくりと沈み込ませた。

「んん……っ」

 ぐっと腰に力を入れ、最奥まで押し込む。

「はぁ……」

 カレルは自らの腰を上下に動かし、リノの肉棒で肉壁を擦った。自分の体重を乗せて深く突く。カレルは気持ちよさそうに目を細め、ゆっくりと腰を動かす。 リノはカレルが自ら動いてくれたことに、深い満足感を覚えた。しかし、それと同時にもっと激しく、もっと深く欲しいという焦燥感が募る。

 リノは我慢できず、カレルの腰を強く掴んだ。

「おい、まだだって……」

 またもカレルの静止を無視し、その上下運動に合わせて自らの腰を激しく突き上げる。

「あっ……あぁ……ん……!」

 自分の身体の上で揺さぶられるカレルを見て、リノの興奮は極致に達した。 そして再び、カレルの中に精液を流し込んだ。カレルの肉棒からも白濁した液が溢れ、リノの腹を伝う。 カレルは力尽きたように前に倒れ込み、リノはその身体を優しく包み込んだ。

「う……お前……もうちょっとさぁ……」

 カレルはそこまで言いかけて、言葉を飲み込んだ。

「カレル……」

 リノがカレルの耳元で、消え入りそうな声で囁く。

「嘘でもいいから……俺のこと、“愛してる”って言って……」

 カレルの背中に回された手に、ぎゅっと力がこもる。その手は微かに震えていた。カレルは、この愛情不足の少年のことを、心から不憫に思った。彼が本当に愛せる人間が現れるまで、この歪な情愛を昇華させるための道具として自分を使えばいいとさえ思った。死んだ自分にはもう欲もなく、何をしたいという気持ちも起きないのだから。せめて、彼が満足するまで。

 カレルはリノの背中に手を回し、優しく呟いた。

「愛してるよ、リノ」

 リノはその言葉を聞いて、カレルを強く抱きしめた。 カレルに口づけをし、舌を絡ませる。上も下も繋がり、まるで一つの身体になったような万能感に包まれる。

「……何をしている?」

 一瞬、時が止まった。
 カレルとリノが、同時にダイニングと寝室を仕切るボロボロのカーテンの方を向く。
 そこには、ブラウンの豊かな髪をポニーテールにしたレオンが立っていた。

 *

「どうして、ここに……」

 カレルはレオンに訊いた。
 三人はベッドサイドに座っていた。カレルを間に挟む形だった。 リノもカレルも、汗ばんだ身体の熱が引くまでは、裸のままでいた。

 レオンの話によれば、シュヴァルツブルクを去った後も、オスカーとは一応手紙のやり取りを続けていたらしい。 今回はゲンレイの国からの使者としてシュヴァルツブルクを訪れた際、ちょうどオスカーとマテオが焦土大陸から帰還したところに居合わせたのだという。

「オスカーからお前が魔界にいると聞いて、来たんだ」

 レオンはカレルをじっと見つめた。

「あー……。もう死んでるんだけどな」

 カレルは気まずそうに視線を逸らす。

「だが、実体はあるじゃないか」

 レオンがカレルの身体に触れる。それに対してカレルは何も答えなかった。

「……いつから、リノとそんな関係になっていたんだ?」

 レオンが恐る恐る口にしたその声には、カレルを咎めるような語気が混じっていた。

「え?いつからって……」
 
「ギルドにいた時も、全然そんな感じじゃなかっただろ?」
「あー、そうだな……」

「シュヴァルツブルクに滞在していた時も、ずっと一緒だったはずだ」
「あー、そうだな……」
 
 毎日顔を合わせていた時間を再確認するように、レオンが詰め寄る。

「天界の研究所にいた時だよ。初めてしたのは」

 リノが淡々と、遠くを見つめるような目で答えた。あまりに正直な回答に、カレルの心臓が跳ね上がる。

「お前!カレルを殺しておいて、死んだ後も……!」

 レオンが立ち上がり、今にもリノに殴りかからんばかりの勢いで激昂した。

「レオン、やめろ!」

 カレルが必死にレオンを制止する。

「お、俺から誘ったんだ……」

 カレルはレオンを落ち着かせるために、そう口にした。レオンは目を見開く。

「本当なのか……?」

 その言葉に、レオンは深いショックを受けたようだった。年下の少年を守るためには、多少の嘘も必要だとカレルは判断したのだ。 レオンは下唇を噛み締めると、いきなりカレルをベッドに思い切り押し倒した。 カレルに跨り、馬乗りになるレオン。

「俺への愛は、なくなったのか……?」
「そうじゃなくて……」

 カレルは弁明しようとした。

「俺は、ちゃんとレオンのことも大切に思ってるよ」

 リノの前で言うのは心苦しかったが、相棒に対する想いははっきりと伝えておかねばならなかった。

「じゃあ、今ここで証明してくれ」

 レオンはカレルに覆いかぶさり、その唇を塞ぐように激しく口づけをした。強引に舌を割り込ませ、カレルの舌を吸い上げる。 その後、レオンはカレルの首筋に吸い付き、乳頭を弄り、その身体を貪るように撫でまわした。

 リノは横で、カレルが感じている姿をじっと見つめていた。 自分に対して見せたことのないような艶めかしい表情を見せるカレルに、リノは激しい嫉妬を覚えた。それは、自分の行為では彼をここまで満足させられなかったという、明白な敗北感でもあった。

 カレルの肉棒が再び脈打ち、反り上がる。 レオンはカレルの白い太ももを持ち上げ、内側を激しく吸った。

「んっ……はぁ……っ」

 身体が甘く反応する。リノはその光景を見て理解した。カレルは、身体を愛撫されることに弱いのだ。カレルの秘部からは、先ほどリノが注ぎ込んだ精液が、少しずつ漏れ出していた。

 レオンは着ていた服を全て脱ぎ捨てると、自らの肉棒をカレルの中へと押し込んだ。 最初は先端だけを焦らすように出し入れする。そのたびにカレルの身体が跳ねた。

「んん……あ……っ」

 レオンはカレルの背中に手を回し、包み込むように抱きしめながら、最奥を深く突いた。

「あ……ん……っ」

 何度も、何度も、最深部を叩く。カレルもまた、レオンの背中に手を回した。それはしがみつくような、縋りつくような仕草だった。 レオンは激しく腰を動かしながら、再びカレルの口を塞いだ。

 ベッドが軋む音。水を含んだ淫らな音。カレルの艶めかしい喘ぎ声。二人の荒い息遣い。それらが寝室の空気を支配した。

「うっ……イキそう……っ!」

 レオンが叫ぶのとほぼ同時に、二人は絶頂に達した。レオンがカレルの内側へ精液を叩き込む。カレルの肉棒からもまた、白濁した液が飛び散った。

 リノは、その光景をただじっと見つめていた。 興奮よりも、大人が激しく、深く愛し合う姿を見せつけられたことで、耐えがたいほどの孤独と寂しさがこみ上げた。

 カレルに対する自分の想いが、一方的な独りよがりの愛であることを自覚させられた気がした。 二人はしばらくの間、抱き合ったまま荒い息を整えていた。 やがて、レオンはカレルに、慈しむような優しい口づけを落とした。

 *
 
 嵐のような情事の後。部屋を支配したのは、重苦しい沈黙という名の澱(よど)みだった。カレルはよほど体力を使い果たしたのだろう。死んだように深い眠りに落ちている。その寝顔は、生前と変わらぬ穏やかさを湛えながらも、どこか触れれば霧散してしまいそうな危うさがあった。

 レオンとリノは、一言も交わすことなく交互に冷えたシャワーを浴び、衣服を身に纏った。肌に残る熱を拭い去るように、布地が擦れる音だけが室内に響く。レオンは、使い古された薄手の毛布をカレルに掛け、慈しむようにその頭を撫でた。そのまま、守護者のようにベッドサイドに腰を下ろす。

 一方のリノは、ベッドサイドを背にして床に座り込み、膝を抱えた。その背中に、レオンの鋭い視線が突き刺さる。

「……どうして、カレルなんだ?」

 レオンはリノを見ようともせず、低く、濁った声で呟いた。

「今のお前なら……選び放題のはずだ。男だろうが、女だろうが。望めば王族としての地位だって盤石にできた。なのに、どうして……よりによって、カレルなんだ……」

 その問いには、純粋な疑問と、それ以上の深い嫌悪が混じっていた。

 リノは膝に顔を埋めたまま、虚空を見つめた。

「……好きになっちゃったんだから、仕方ないじゃん……」

 絞り出した声は、ひどく不貞腐れた子供のように響いた。

「それは勘違いだ」

 レオンは即座に、冷徹にリノがカレルに向けている想いを切り捨てた。

「お前は単に、あいつの優しさに付け込んでいるだけだ。行き場のない性欲の捌け口に、カレルを利用している……。そんなものは、愛じゃない」

 レオンの言葉には、かつてギルドで共に戦った仲間としての情愛など、欠片も残っていなかった。そこにいたのは、己の聖域を汚された一人の男としての、剥き出しの敵意だ。

「……でも、カレルは、抵抗しないもの」

 リノはギュッと自分の腕を掴んだ。指先が食い込むほどに。

「なるほどな。今、ようやく分かったよ。お前のその、果てのない我儘(わがまま)に付き合わされているだけだってことがな」

 レオンがリノを、射殺さんばかりの目で見下ろす。

「俺は、本当にカレルが好きなんだよ!カレルだって、『愛してる』って言ってくれたもん!」

 リノは弾かれたように顔を上げ、レオンに反論した。ここで引けば、自分の存在価値すらも否定することになる。

「ガキが……!調子に乗るなよ!」

 激昂したレオンが立ち上がり、リノの胸倉を乱暴に掴み上げた。

「……もう、やめてくれよ」

 ベッドから、疲れ切った声が響いた。横になったまま、カレルが瞼を薄く開けて二人を見ていた。

「喧嘩するなら、二人とも出て行ってくれ。……ここ、俺の家だからさ」

 レオンは苦い表情でリノを放した。

「カレル、すまない……起こしてしまったな」

 レオンはすぐに謝ると、自力で起き上がろうとするカレルの背を優しく支えた。

「ん……喉が、渇いて……」

 カレルの瞳は、まだ眠気の残る熱に浮かされたようにとろんとしていた。レオンは、立ち尽くすリノを突き飛ばすようにしてダイニングへ向かい、コップに水を汲んだ。

 寝室に戻ると、ぐったりとしたカレルの唇にコップを当てる。カレルは一心不乱にそれを飲み干した。

 「ん……ありがと」

 水を飲み終えたカレルが、レオンに向けてふっと色っぽく微笑む。その不意の仕草に、レオンは不覚にも顔を赤らめた。カレルは、そのまま二人を等しく見つめた。

「二人とも、ありがとうな。……俺もお前らのこと、好きだぜ。でも、もう俺は死人なんだ。一旦、生前の俺のことは……忘れてほしいんだ」

 リノもレオンも、冷水を浴びせられたように無言になった。部屋の中を、冬の夜風のような冷たい沈黙が吹き抜ける。

「……明朝、マテオとマヤもここに来る予定だ。……今日はもう、寝よう」

 レオンは吐き捨てるように言うと、そのまま床に胡坐(あぐら)をかいた。リノもまた、レオンの反対側に回り、極力刺激しないよう床に横たわった。奇妙で歪な夜の静寂の中、カレルは再び深い眠りへと落ちていった。

 翌朝。三人は街の酒場へと向かった。

「……なんか、ギルドの時を思い出すね」

 道中、リノがつい零すように呟いた。ハッとして慌てて口を押さえるが、レオンの凄まじい形相が彼を射抜いた。

「ふっ。……そうだな」

 隣を歩くカレルが柔らかく笑った。その横顔を見て、リノは少しだけ胸を撫で下ろした。
 三人は酒場の扉を静かにくぐった。

「リノ!レオン!」

 酒場のテーブル席から、マテオとマヤが駆け寄ってきた。

「まさかとは思うが……二人とも、カレルの家に泊まったんじゃないだろうな?」

 マテオは訝しげに眉をひそめた。あんなボロボロの小屋に、男三人がどうやって過ごしていたのか、信じられないという顔だ。

「宿屋でリノ様のお部屋を確認したのですが、戻っておられなかったので……驚きました」

 マヤが心配そうにリノの顔を覗き込む。

 マヤがリノの体調を気遣う横で、マテオは周囲を警戒しながら、レオンにだけ聞こえる小声で囁いた。

「レオン、話が違うじゃないか。リノにちゃんと宿に泊まるよう言わなかったのか?」
「……すまない。ちょっと、色々と手違いがあってな」

 レオンはしどろもどろに答え、視線を逸らした。マテオは大きく溜息をついた。

「リノ、少し話がある」
「あ、うん……」

 マテオに促され、リノはマヤと共に、衝立(ついたて)の向こう側のテーブル席へと移動した。リノがちらりと背後を振り返ると、レオンがカレルの腰に親密そうに手を回し、何かを談笑しながら酒場を出ていくのが見えた。かつてギルドで何度も見たはずの光景。だが、二人の関係を知ってしまった今、その親密さはリノの心を鋭く刺し貫いた。

「さてと」

 マテオが椅子に座り、真剣な面持ちで切り出した。

「アラン王もオスカーも、お前のことを心配していた。リノ、体調は……問題ないか?」
「うん、俺はなんともないよ」
「そうか、ならいい」

「城から薬や必要なものは持ってきました。もし少しでも気分が悪くなったら、すぐに言ってくださいね」

 マヤの言葉に、リノは小さく頷いた。しかし、マテオの表情は晴れない。

「リノ。カレルのことなんだが……」

 マテオの声が一段と重くなった。

「もう、アイツとは会わないでほしいんだ」
「どうして?」

「リノ、よく聞いてくれ。この魔界には、《霊体》と呼ばれる魂が迷い込むことがある。通常、魂は死後、行いによって審判を受け、天国か地獄へ送られる。天国へ行くような魂は、そもそもここには来ないんだ」

 マテオは言葉を選びながら続けた。

「魔界は地獄に最も近い場所だ。ここに迷い込むのは、地獄に落ちるべき魂、《生》への強い執着を持つ魂だ。大半が、成し遂げられなかった何かに固執している。……例えば、《復讐》とかな」

「復讐……?」

 リノの脳裏に、カレルの寂しげな横顔が浮かんだ。彼は昨日、「何をしたいか分からない」と言っていたはずだ。あれは、嘘だったのだろうか。

「悪霊というのは非常に危険なんだ。まだ生きたいという渇望が、逆恨みとなって人間に危害を加えることもある」
「カレルはそんなことしないよ……!」

 リノは反射的に反論した。

「悪霊になれば、自我なんて消えちまう。……それに、あいつが半分魔族になりかけているのも気になる」

 リノは、魔王アグニから聞いた不名誉な「魔族化」の話を、喉の奥に押し込んだ。

「お前があいつから離れたくない気持ちは分かる。だが、あの事件はお前の過失じゃないんだ」

 マテオは、リノが「自分がカレルを死なせた」という自責の念から、彼に固執しているのだと考えているようだった。

「俺たちは、お前を守らなきゃならない。これは王の命令だけじゃない。友達として、家族として、そしてこの土地をよく知る者としての老婆心も含めてな。カレルの真意が見えない以上、お前に牙を剥く可能性も否定できない。もし、お前に復讐しようなんて企んでいたら……」

「カレルのこと、悪く言わないで!」

 リノは椅子を蹴るように立ち上がった。マテオの言葉を遮り、逃げるように酒場を飛び出した。
 リノは必死で、カレルとレオンの姿を探した。

(もしかしたら、あそこなら……)

 焦土大陸を一望できる丘。その予感は的中した。丘の上には、案の定、二人が並んで立っていた。
 声を掛けようとしたが、二人の神妙な空気に気圧される。声をかけるタイミングを逸したまま、リノは岩陰で盗み聞きする形になってしまった。

「……それで、結局……奴は中将まで上り詰めた」

 レオンの苦々しい声が響く。

「そうか。……あの時、仕留め損なったばかりに、すべてが狂っちまったな」

 カレルの声は、いつもよりずっと低く、冷ややかだった。

「いや……俺も、お前の汚名を晴らしてやることができず……すまない」
「いいんだ。あの場には、俺と奴らしかいなかった。……俺の死が、結果的に奴らを勢いづかせちまったんだな」
「……」

 リノは、二人が何の話をしているのか分からず、もう少し近づこうとした瞬間――足元の小石を蹴ってしまった。

「誰だ!?」

 レオンが瞬時に反応し、鋭い牽制を飛ばす。

「あっ……ごめん。ここなら、二人がいるかなと思って……」

 リノは申し訳なさそうに姿を現した。

「盗み聞きか?」

 レオンの眼光は相変わらず鋭い。

「……マテオとの話は、終わったのか?」

 カレルがいつもの声音で訊ねた。

「うん……」

 リノが俯きながら答えると、レオンが話題を変えるようにカレルへ問いかけた。

「……天界が作ったっていう装置は、あとどれくらい残っているんだ?」
「うーん、ざっと見た感じ、残り四つかな。今日中には終わりそうだ」

 カレルは頭の後ろで手を組み、気楽な風を装った。

「レオンも、一旦はシュヴァルツブルクに戻るんだろう?」
「ああ。一応オスカーに会ってから帰る予定だ」

 カレルは俯いたリノの正面に歩み寄り、その肩をポンポンと叩いた。

「リノ、お前も城に帰ったほうがいいな」
「安心しろ。俺が縛り付けてでも、こいつを連れて帰るさ」

 レオンが言葉を添える。

「お前のことを大切に思っている連中が、たくさんいるんだ。その人たちの気持ちも、考えてやらなきゃダメだぜ」

 カレルの言葉は優しく、しかしどこか突き放すような響きがあった。

「じゃあ、酒場に戻ってマテオたちと合流しよう。残りの装置を破壊しに……」

 カレルがそう言って丘を下りようとした、その時だった。

「……なんだ、あれは?」

 レオンの掠れた声に、リノは空を仰いだ。赤褐色に染まった空を裂き、まばゆい光の筋がいくつも、地上へと降り注いでいた。その光は明らかに、この魔界を目指して飛来している。

「えっ……隕石……!?」

 カレルが目を見開く。

「馬鹿な……あんな数が同時に……!」

 光は凄まじい速度で近づき、その巨大な輝きが地上を白く染め上げていく。

「おい、まずいぞ……!」

 レオンが叫んだとき、既にカレルは丘の道ではなく、崖を滑り降りるように駆け出していた。

「待って、カレル!」

 リノも反射的に崖へ飛び込む。

「ここから降りるのか……!?」

 レオンも毒づきながら、二人を追って急斜面を滑り降りていった。

 *

 その頃、街の酒場ではマテオがジョッキを片手に、苦い溜息を吐き出していた。

「……やれやれ。リノには困ったもんだな」

 先ほどリノに言い放った冷徹な忠告。それを反省するように、マテオは呆れた顔で天を仰ぐ。

「師父と暮らしていた時もあまり遠出できなかったと聞きますし、やはりお城での生活も……リノ様には窮屈なのでは?」

 傍らに控えるマヤが、リノの心中を察するようにそっと言葉を添えた。

「ただの反抗期だろ?……やっぱり、縁談の話を進めておいた方がいいかなぁ」
「……縁談、ですか」

 マヤの表情が、一瞬で凍りついた。

「ああ。アラン王もオスカーも、あいつが寂しい思いをしてるんじゃないかって気を揉んでてな。俺に候補の調査を頼んできたんだ」

 リノの年齢的にはまだ遊び盛り。そう思ってマテオは保留にしていたが、ここ数日のリノの手に負えない「我儘」を見ていると、そろそろどこかのお貴族様の女性を迎えて腰を落ち着かせた方がいい気がしていた。

「おいおい、マヤ。まさかお前、リノに本気でホの字なんてことは――」
「……また一発、喰らいたいのですか? 兄さん」

 マヤが浮かべたのは、完璧な笑顔。しかし、その背後には逃げ場のない怒りが渦巻いている。マテオは背筋を震わせ、即座に口を閉ざした。

「私は……リノ様にはもう、心に決めた方がいらっしゃるのではないかと思っています」
「なんだ、知ってるのか?」
「いいえ、なんとなくですが……」

 王弟としての地位を放棄した時から、マヤには分かっていた。リノがどれほどまでに「自由」を、そして「一人の少年としての幸福」を渇望しているかを。

「まぁ、ヴァイスブルクの王女様とは頻繁に手紙のやり取りをしてるしな。友好を結ぶ意味でも、その線はありそうだが……」

 マテオの言葉に、マヤは心底がっかりした。兄も、王も、オスカーも、リノの未来を案じているのは嘘ではないだろう。だが、その思惑の中には常に「国」や「血筋」が介在している。

「兄さんは……リノ様の本当の気持ちを、一度でも考えたことがありますか?」
「な、なんだよ、急に」
「いえ……。私は、これからもリノ様の意思を尊重します。……たとえそれが、どんな道であっても」

 マヤが毅然と言い放った直後。酒場の扉が乱暴に蹴破られた。

「大変だ! 天界の野郎どもが攻めてきたぞ! 全員、武器を取れッ!」

 *
 
 リノ、カレル、レオンの三人が異変の起きた場所へ駆けつけた時、そこには既に魔族たちの骸が転がっていた。

 「一体、何が起こっているんだ……」

 レオンがその惨状に呻く。戦闘の音が響く方へ向かうと、そこには六本の翼を羽ばたかせ、無機質な殺意を振りまく「白い甲冑」の群れがいた。

「あれは……!」

 リノとカレルが息を呑む。かつて天界の研究所で見た、あの忌まわしき戦闘兵器。

「なんだ、あれは? 生気を感じないが……」
「天界で作られた戦闘兵器だよ。……人間の死体を核にして動いている」
「死体を……だと!?」

 レオンが非人道的な行為に驚いた。

「何故魔界に...」
「さぁねぇ……。装置を壊したこと、怒ってるのかもね」

 カレルが皮肉げに肩をすくめた瞬間、白い甲冑が三人を標的に定めた。

 激しい乱戦が幕を開ける。かつてのギルド時代。リノは常に二人の背中に隠れ、震えているだけの足手まといだった。だが――今は違う。

(もう、俺は……あの頃の俺じゃない)

 リノが地を蹴る。神の力を宿したその身体は、瞬時に白い甲冑の予測を超えた位置へと転移した。黄金の光を帯びた魔力が爆発し、甲冑の巨体を一瞬で塵へと変える。その圧倒的な火力に、傍らで戦っていたカレルとレオンですら動きを止めた。

(……本当に、あのリノなのか?)

 二人の脳裏に、同じ驚愕が走る。
 三人が次々と甲冑を仕留めていくが、その時だった。破壊された甲冑の隙間から、異様な臭気が立ち上る。

「離れろッ!」

 レオンの叫びと同時に三人は飛び退いた。

「機能が停止した後、毒ガスを漏らす仕草か……」

 あちこちから魔族の悲鳴が聞こえる。

「数が多すぎる。戦争でも始める気かよ」

 カレルが毒づいた直後、空を裂く光の波動が彼を狙い撃った。

「危ない!」

 咄嗟にリノがカレルに飛びかかり、地面を転がって回避する。直後、カレルがいた場所は巨大なクレーターとなって抉り取られていた。

 「……わりぃ、助かった」
 「ううん」

 リノとレオンが攻撃の飛んできた空を見上げる。そこには、ひときわ巨大で豪奢な甲冑を纏い、不気味な笑みを浮かべる巨体が滞空していた。

 「ローマン……」

 カレルがその名を、呪うように口にする。

「なんだ、あいつは……!?」
「あいつが……」

 レオンが驚く傍らで、リノの瞳が、黄金の炎を宿して燃え上がる。

「あいつが、カレルを殺したんだ……!」
「……なんだと?」

 レオンの全身から、冷徹な殺気が溢れ出した。刀を握る手に、血が滲むほど力がこもる。

「久しぶりだな、カレル。会いたかったぜぇ?」
 
 ローマンが舌なめずりをし、いやらしく笑う。

「俺は死んでも会いたくなかったけどな」

 カレルが吐き捨てるように言った。
 
「急にいなくなっちまったから寂しくてよぉ。……迎えに来てやったぜ。今度は、もっとじっくり可愛がってやるからな」

 ローマンが手を振ると、再び白い甲冑が襲いかかる。その隙を突き、ローマン自身がカレルへと肉薄した。

「カレルッ!」

 リノが激昂し、目の前の甲冑を空間ごと削り取るように粉砕する。

(あの時の二の舞は、もう二度と……!)

 だが、リノよりも早く、ローマンの剣を弾き飛ばしたのはレオンだった。

「……チッ!」

 ローマンが一旦距離を取る。その正面に、レオンが立ち塞がった。

「許せん……」

 レオンは、静かに怒っていた。

(こいつが……カレルを……)

 溢れ出すのは、かつてないほどの憎悪。しかしその刀筋は、鏡のように冷たく澄んでいた。

「いいねぇ、その目。お前がカレルの『男』かよ?」

 ローマンはレオンを見下すように見た。
 
「……リノ。カレルを連れて下がれ」
「でも、俺が気を引き付けてる間に二人で――」
「その必要はない」

 レオンはリノの言葉をバッサリと切り捨てた。

「俺が、奴を討つ」

 その言葉には、一切の妥協を許さない決意が込められていた。
 刀に宿るのは、相棒を失った復讐の炎。そして、故郷ゲンレイの仲間たちの無念。レオンは柄に力を込めると、爆発的な踏み込みでローマンへ肉薄した。

 *
 
 一方、魔王城。
 アグニは巨大なスクリーンを前に、どこの国かも分からぬスポーツ観戦に興じていた。

「いけぇー! そこだ、押し込めぇ!」

 ジョッキを片手に、下僕たちとどんちゃん騒ぎ。まるでスポーツバーさながらだった。

「アグニさま~! 大変ですっ!」

 煤まみれの魔族が飛び込んできた。

「なんだよ、今いいところなのに!」
「それどころじゃないっす! 天界の連中が攻めてきたっす!」
「あーん?」

 その時、城を揺るがす巨大な爆発音が響いた。壁から巨大スクリーンが剥がれ落ち、テーブルの酒や料理を無残に押し潰す。
 ……沈黙。

「……おのれ天界ェッ!」

 アグニは激昂し、下僕たちを引き連れて戦場へと飛び出した。

 アグニ一行が荒野に着くと、白い甲冑が魔族を蹂躙していた。アグニはその光景をひと睨みすると、圧倒的な魔圧を放つ。その圧力だけで、甲冑が放つ毒ガスすらも消し飛ばされた。

「なんだぁ?この悪趣味な人形は」
「死んだ人間を使っているらしいです」
「フンッ。清廉潔白を謳いながら、死霊術(ネクロマンシー)かよ」

 アグニはそのまま市街地へ向かい、そこで苦戦していたマテオとマヤを救い出す。
 
「魔王! 助かったぜ……」

 マテオが汗を拭いながら言った。
 
「天界め、ついに強行突破しに来たか」

 アグニが忌々しく言った。

「こいつらは死ぬと毒を吐き出す。市街地で戦うのは得策ではない。荒地へ誘い出すぞ」

 アグニ一行が先頭を走り、マテオとマヤもそれに続いた。

 *
 
 荒野では、レオンとローマンの激しい攻防が続いていた。カレルとリノは、他の甲冑を魔族たちに任せ、いつでも援護できるよう構えていたが、二人の戦いは既に常人の立ち入れる領域ではなかった。

(ローマンは……以前より遥かに強い)

 リノは冷や汗を流す。天界の加護を受けたローマンの力は圧倒的だった。だが、レオンは一歩も引かなかった。カレルへの想いが、その刃を限界以上に研ぎ澄ませている。

 火花が散り、剣と刀が軋む。

 「くくく、悔しいか? お前のカレルは、死んだ後もなぁ、ずっと俺の下で喘いでたんだぜ?」

 ローマンが耳元で下劣な言葉を囁く。

 「レオン、レオンって泣きながら俺を求めてたよ。」

 ローマンが更にレオンを煽る。

「お前にも見せてやりたかったなぁ、あの悦んだカレルの姿をなぁ!」

 その瞬間、レオンの中で「何か」が弾けた。全身から噴き出すのは、美しくも悲しい、青白い炎の闘気。

「……許さん。許さん!お前だけは、万死に値する!」

 レオンが咆哮する。その剣が、ゲンレイに伝わる秘奥の型を描く。

「一つ! 誠実を旨とし、天に恥じぬ生き方をせよ!」

 一閃。ローマンの防御を紙のように切り裂く。

「二つ! 不撓不屈の心で、己を鍛錬せよ!」

 二撃目。ローマンが放とうとした魔法を、その腕ごと封じ込める。

「三つ! 己を信じ、人を信じ……未来を開拓せよッ!!」

 三撃目――渾身の袈裟斬り。
 レオンの刃がローマンの巨体を真っ二つに断ち切り、その急所を確実に貫いた。

「な……馬鹿、な……」

 ローマンが膝から崩れ落ち、物言わぬ骸へと変わる。レオンは美しく残身を決め、刀の血を振り払うと、静かに納刀した。
 リノが隣を見ると、カレルが静かに涙を流していた。悲しみではない。かつての相棒が、自分という魂を救ってくれたことへの、魂の落涙。

 そこへ残った甲冑が襲いかかるが、紅蓮の炎がそれを一瞬で消し飛ばした。アグニの参戦だ。

「リノ様! ご無事でしたか!」

 マヤが駆け寄る。リノは「大丈夫」と頷き、静かに歩み寄る二人を見守った。

 カレルはレオンの元へ行くと、涙を拭わずに微笑んだ。

「レオン。……ありがとうな」

 レオンは何も言わず、その震えるカレルを力強く抱きしめた。

「迎えに来るのが遅くなって……すまなかった」

 *
 
 戦いは終わった。魔界は勝利したが、その傷跡は深い。
 一同は一旦、魔王城に集まった。

「もう天界の野郎は出入り禁止だッ!」

 アグニが子供のように憤慨する横で、マテオは顎に手を当て、深刻な面持ちで唸った。

「……まさか天界が、これほど直接的な軍事行動を仕掛けてくるとはな」

 天界の行動はもはや小競り合いの域を超えている。

「ですが、これではっきりと、シュヴァルツブルクと天界は敵対関係になります」

 マヤの瞳には、避けられない戦乱への予感と、明らかな敵意を向けられたことへの諦念が混じっていた。

「全面戦争でもするか?」

 アグニが不敵な笑みを浮かべて挑発的に問いかける。

「望むところです、魔王様!」「あいつらの鼻をへし折ってやりましょう!」 アグニの言葉に、周囲の使用人や下僕たちが鼻息を荒くして呼応する。彼らの怒りは、既に沸点に達していた。

「待って――」 熱を帯びた空気の中に、リノの静かな声が響いた。

「ヴァイスブルク側の意見もあると思う。だから……少しだけ、待ってほしいんだ。あそこには、俺の大切な友達もいるから……」

  天界の勢力下にあるとはいえ、あそこには共に笑い合った人々がいる。リノの切実な訴えに、アグニがじっとその金色の瞳を見つめた。

「……ふん。まぁ、俺は海よりも寛大な心の持ち主だからな! 少しだけ待ってやろうじゃないか」

 アグニの宣言に、後ろの魔族たちから「ええーっ!?」「甘いっすよ魔王様!」と一斉にブーイングが飛ぶ。

「うるさい! 俺が決めたんだ!」

 アグニが一喝し、その場を強引に収めた。

「とりあえず今日は魔界に泊まって、明日シュヴァルツブルクに戻ろう」
 
 マテオの提案に全員が頷く。
 一同が解散しようとした際、アグニがリノを呼び止めた。
 
「リノ。お前に、少しだけ話がある」

 マテオはリノの肩を掴んで囁いた。

「リノ、終わったらちゃんと『宿屋』に戻るんだぞ? いいな?」

 それは、昨夜のようにカレルの元へ行くことを牽制する、鋭い警告だった。リノは渋々頷いた。
 
 マテオたちが宿へ戻る中、アグニはリノを城の深い地下へと連れて行った。
 そこは、魔界とはまた違う、重苦しい瘴気が渦巻く場所。

「ここは地獄へと繋がる連絡路だ。普段は俺しか使わない。……実はな、カレルの霊体は、ここで倒れていたんだ」
「……!」
「まぁ、見つけたのはたまたまだ。迷子の魂は、魔界のあちこちに不意に現れるからな」
 
「アイツには、死んでも果たしたい復讐がある。だから俺は提案した。霊体のままではいずれ悪霊になる。地獄で禊(みそぎ)を済ませて転生を待つか、それとも――《魔族》になるかだ」
 
「カレルは迷わず魔族になることを選んだ。魔族になる方法は……以前話した通りだな。魔族になるということは、即ち俺の奴隷になるということだ。隷属の枷を嵌めてでも、アイツはその手で果たしたい復讐があるっつーことだ」

 アグニは淡々と言った。カレルがなぜ「何をしたいか分からない」と誤魔化したのか。それは、魂を売ってまで復讐を選んだ自分の醜い姿を、リノに見せたくなかったからかもしれないのだと気づいた。リノは、カレルのどこか冷めた、けれど鋭い瞳の奥にあったものを思い知る。

「魔界を管理する者として、死者の魂の決意を尊重したいからな。だから、お前らのような生ある人間が死者の世界に介入することを好まん」

 それは遠回しにカレルのことは放っておくようにと忠告にも聞こえた。

「もし……もし、俺が死んだらここに来ても良いですか?」

  リノの問いに、アグニは射抜くような視線を返した。その金色の瞳が、微かに揺れる。

「リノ。お前がこれから何をしようと、俺は文句を言うつもりはない。だが、人間として生きているなら、『幸福』を選ぶ選択肢もあるはずだ」

 アグニがリノを見据えた。リノは、アグニには心の内を見透かされているような気がした。

「皮肉なものだな。生きている人間ほど《死》を選びたがり、死んだ人間ほど《生》に執着するとは」

 アグニの独り言のような呟きが、地下の静寂に吸い込まれていく。
 リノは俯かなかった。地獄の淵に立ちながらも、その瞳は《終わりに向かう未来への決意》に満ちていた。

第十八章 繋鎖(れんさ)

 天界のとある極秘研究室。パトリックは、手元にあった資料の束を、目の前のモニターへと全力で叩きつけた。
 何千という戦闘兵器。さらには、神の力を使えるローマンまでもが、あっけなく打ち破られた。それは、パトリックにとって自らの知能、そして能力の限界を、無慈悲に突きつけられた瞬間でもあった。

「なぜだ……!なぜ上手く行かない!」

 パトリックは荒い息を吐きながら、何度も、何度もデスクを激しく叩きつけた。やがて力なく椅子に座り込むと、狂ったように頭を掻きむしる。

「くっ……こうなったら……」

 充血した瞳をギラつかせ、パトリックは側に控える研究員に冷酷な声を絞り出した。

「全ての『候補生』を招集せよ。……一刻も早くだ」

 *
 
 魔界でのカレルとの別れは、胸を締め付けられるほどに名残惜しいものだった。
 白い甲冑との戦闘が終わり、翌朝、リノはマテオとマヤに少しだけ待ってもらい、カレルのボロボロの家を訪ねた。

 さすがに情事を交わす時間などはなかったが、せめて最後にと、リノはカレルと静かに口づけを交わした。すぐ横で、レオンが氷のように冷めた瞳で監視していたため、手早く済ませるしかなかったのだが。

 しかし、その直後。レオンがリノとカレルを強引に引き剥がした。リノに見せつけるようにして、レオンはカレルと濃厚な口づけを交わした。リノは、その露骨な態度に激しい憤りを感じたが、同時にこうも思った。――これが最後になるかもしれないのだから、彼の独占欲も仕方がないのかもしれない、と。

 決して手に入らない愛情。けれど、最後に触れたカレルの優しさは、リノの凍えそうな心を少しだけ温めてくれた。振り返ると、カレルは崩れかけた家の前から、優しい眼差しで二人を見送ってくれていた。

 リノとレオンがマテオたちの待つ酒場に戻ると、マテオが待ちくたびれたように大きなため息を吐いた。

「用事は済んだか? まったく……お前ら、本当にカレルのことが好きだよな」

 マテオは呆れ顔でリノの頭を軽く小突いた。

「リノもいい加減カレル離れしないと、せっかくの可愛い女の子たちまで愛想を尽かせて離れていっちゃうぜ?」
「……? どういうこと?」

 意味がわからず首を傾げるリノ。対照的に、レオンは何かに気づいたように珍しく無言でニヤニヤとしている。その勝ち誇ったような表情に、リノは無性に腹を立てながら、魔界を後にした。

 一行がシュヴァルツブルクへ帰還するなり、オスカーが血相を変えて飛んできた。

「リノ! 無事でしたか!?」

 オスカーはリノを折れそうなほど強く抱きしめた後、怪我がないか、具合が悪くないかと、あちこちを執拗に確認し始めた。

「ただいま、オスカー。……もう、大丈夫だってば」

 リノはオスカーの過保護な行動に少し苛立ちを覚え、強引に引きはがした。
 
「とにかく、広間へ行こうぜ。王への報告もあるからな」

 マテオの言葉に従い、全員が大広間へと向かった。
 そこでリノ、マテオ、レオンの三人は、魔界で起きた出来事を詳細に語った。

「ふむ……。天界が直接魔界を襲ったか。ヴァイスブルク側の様子も聞く必要がありそうだな」

 アラン王の言葉に、リノが即座に反応した。

「俺、直接リリアンヌに聞いてくるよ」
「そうだな。お前は王女と仲が良い。それが一番早そうだ」

「では、私もエミールに話を伺いましょう。今度は魔界ではありませんから、安心してください」

 オスカーも、ようやく落ち着きを取り戻した様子で頷いた。マテオとマヤも、護衛として同行することが決まった。
 一方で、レオンは自国・ゲンレイへ帰ることになった。

「俺は国への報告がある。すまないが、ここからは各々頑張ってくれ」

 レオンはオスカーに視線を向けた。

「ゲンレイは今、シュヴァルツブルクと友好関係にある。何かあれば、必ず助けになれるはずだ」
「ええ、レオン。色々と、お世話になりありがとうございました」

 オスカーがにっこりと微笑む。

「それから……リノ、ちょっと来い」

 レオンに呼び出され、リノは皆から少し離れた場所へ移動した。
 レオンはリノに向き直ると、真っ直ぐにその瞳を見つめた。

「……俺は、まだお前のことを許したわけじゃない。カレルが亡くなったこと。それに……あの、その、『アレ』についてもだ」

 レオンは顔を赤らめ咳ばらいをしつつ、具体的な表現を避けながら言葉を濁した。カレルとリノの情事――それを思い出すだけで、彼のプライドは激しく波打つのだろう。

「だが、それはそれだ。お前たちの国の事情についても、個人的には……頑張ってほしいと思っている」

 それは、レオンなりに心の整理をつけ、かつてギルドの仲間として過ごした日々を尊重しようとする真摯な言葉だった。

「レオン……本当に、ごめんなさい」
 
 リノの目から、不意に涙が溢れた。カレルの遺体が運ばれる時も、ずっと謝れずにいた後悔が、ようやく言葉になった。

「お前だけじゃない。俺も……あの時のことは後悔している」

 レオンもまた、泣き出しそうなのをグッと堪え、リノに背を向けた。

「じゃあな。また会おう」
「レオン、ありがとう」

 その言葉に、レオンは一瞬だけ立ち止まった。返答はなかったが、再び歩き出した彼の背中は、どこか晴れやかだった。

 *
 
 リノ、オスカー、マテオ、マヤの四人は、まずセザールへと向かった。そこはリノにとって、旅の始まりの場所でもある。

 街に到着してふと思い返すと、最近の忙しさのせいで、ヴィダルのことをすっかり忘れていた自分に気づいた。もっとも、思い出したところで良い思い出など一つもないのだが。

(研究所で本音をぶつけ合って決別したのは、正解だったんだろうな……)

 実際、ヴィダルと離れてからは体調が目に見えて良くなっており、それも決別の正しさを裏付けている気がした。
 四人はセザールで一泊し、明朝の列車でヴァイスブルクへ向かうことにした。
 夕食後、部屋に戻ったリノを、オスカーが神妙な面持ちで呼び止めた。

「リノ……そろそろ、私には話してくれても良いのではありませんか?」

 リノは沈黙した。唯一の肉親であるオスカーへの感謝は尽きない。大切に思ってくれていることも、痛いほど伝わってくる。けれど、今ここで、神の力のことや自分の決意を全て話すことはできなかった。話してしまったら、きっとその優しさに甘えて、全てから逃げ出したくなってしまうから。

「……話せることなんて、何もないよ」

 リノの拒絶に、オスカーはあからさまに落胆した。

(俺の運命には、俺が向き合うって決めたんだ。これは俺の意志だ。もう、揺らぎたくない)

 リノは暗闇の中で、静かに拳を握りしめた。

 *
 
 翌朝、列車を降りた一行を、リリアンヌとエミールが出迎えてくれた。

「リノ! ご無沙汰しておりますわ!」

 リリアンヌはそう言って、リノの両手を優しく包み込んだ。

「久しぶり、リリアンヌ! 元気だった?」
「ええ。それにしてもリノ、随分と見違えましたわ。お手紙では伺っていましたが、本当に……」

 リリアンヌは、リノの成長を心から喜んでいるようだった。

「あはは、まあね。だいぶカッコよくなったと思わない?」
「ええ。とても素敵ですわ!」

 にっこりと微笑む彼女に、リノは照れくささと共に、温かな幸福感に包まれた。
 
 しかし、城の大広間で語られた現状は、そんな穏やかな再会を打ち消すほどに深刻なものだった。

「実はあの天界騒動以来、天界とのやり取りが完全に途絶えてしまってな……」

 ヴァイスブルク王のジョゼフが、頭を抱えて呻いた。

「天界へ続くエレベーターも封鎖され、向こうの状況が全く掴めない状態だ」

 エミールの説明によれば、天界は現在、完全な孤立状態にあるという。

「それは、天界側が拒絶の姿勢を見せている、ということですか?」

 オスカーの問いに、エミールが重々しく頷いた。

「それだけじゃない。俺がやり取りしていた天界の連中とも連絡が取れなくなった。……おそらく、天界の住人全体が監禁状態にあるんだろう」

 かつての騒動後、特務機関に愛想を尽かした一部の人間たちが、密かに下界への移住を希望していた。エミールは彼らと秘密裏に接触していたが、その通信がプツリと途絶えたのだという。

「救出を最優先にしたいが、どうやって天界へ行くかが問題だ。空路は整備に時間がかかるしな」エミールが唸る。
「そもそも空路を使わないためのエレベーターでしたからね」とオスカーも同意した。

 その時、リノがふと思い出したように尋ねた。

「そういえば、魔族たちは全面戦争に乗り気だったけど……どうやって行くつもりだったんだろう?」
「ああ、それはだな……奴ら、実は『飛べる』のさ。翼があるんだよ」

 マテオの言葉に、リノは驚愕した。
 普段、地を歩く姿しか見ていなかったから、想像もしていなかった。

「じゃあ、俺たち人間だけが、空を飛べないんだね」
「はっはっは! まったくその通りだな!」

 エミールの笑い声が響いたが、事態の深刻さは変わらない。一行は国賓として城に泊まり、空路の準備を待つことになった。
 
 その夜。
 リノの部屋をリリアンヌが訪れた。

「リノ。少しお話ししてもよろしいでしょうか?」

 リノはリリアンヌを招き入れ、二人はテーブル席に向かい合って座った。ヴァイスブルクの使用人が温かい紅茶を用意してくれた。

「初めて出会った時から、あまりに色んなことが起きて……。正直、びっくりしていますの」
「俺もだよ。まさか、こんなことになるなんて」

 二人は少しだけ昔を懐かしむように、クスクスと笑い合った。

「リノが……セザールで姿を消した時、必死で探しましたのよ」
「そうだったんだ……ごめんね。心配かけて」

 逃げ出してしまったことへの謝罪。けれどリリアンヌは優しく首を振った。

「いいのです。あなたがこうして元気でいてくれるなら」

 リリアンヌはそう言って紅茶をすすった。
 
「……リリアンヌ。ずっと気になってたんだけど。どうしてそんなに、俺に優しくしてくれるの?」

 リノがずっと抱えていた疑問を口にすると、リリアンヌは穏やかな視線を向けた。

「初めてお会いした頃のリノは……どこか、ずっと寂しそうでしたわ。自由になれず、自分の意見も言えず、ただヴィダルに従うだけで。……それは、まるで昔のわたくしを見ているようでしたの」

 リリアンヌも城から一歩も出られず、ただ父である王に従っていただけの時期があった。
 けれど、こっそり抜け出して旅をした時に知った世界の広さ。

「余計なお世話だとは思いましたけれど、手助けしたかったのです。だから、リノ。あなたはもっと我儘に生きて良いと思いますわ。……もっとも、もうわたくしの手助けは必要ないかもしれませんけれど」

 彼女の言葉が、リノの心に深く、優しく染み渡っていく。

「リリアンヌはすごいよ。王女なのに、自分一人で色んなことができるんだから。……俺なんて、ずっと、何もできないままだ」

 リノはこれまでのリリアンヌの行動力には驚くばかりだった。その行動力は羨ましさと憧れがあった。
 
「リノ……」
「俺は王弟の地位まで捨てたのに、あれもダメ、これもダメって……。もう、誰を信じたらいいのかも分からなくなっちゃったんだ」

 リノは、溜め込んでいた疲弊を吐き出すように顔を覆った。

 すると、リリアンヌがリノの手を優しく両手で包み込んだ。彼女の手から、淡い、温かな光が放たれる。

「これって……」
「以前もかけた、『おまじない』ですわ。わたくしには、リノの気持ちが分かりますから」

 その言葉が、リノの心の堰を切った。

「リリアンヌ……ありがとう。俺……」

 溢れ出した涙が止まらない。

「……ごめん。こんなに弱い俺で……。なんか……止まらなくて」
「いいのです、リノ」

「リリアンヌ……研究所で助けてくれて、本当にありがとう。ちゃんとお礼が言えてなくて……」

 謝罪と、感謝と、これからの未来への不安。その全てが、熱い涙となってリノの頬を伝い続ける。
 リリアンヌは何も言わず、リノの大きな体をその細い腕で、ただ優しく、強く抱きしめた。

 *
 
 ヴァイスブルク城の朝は、本来ならば静謐で美しいはずだった。
 一行が食堂に集まり、焼きたてのパンの香りと芳醇なスープの湯気に包まれながら朝食を摂っていた、その時のことだ。

「――ッ!?」

 突如として、世界の終焉を予感させるような凄まじい轟音が響き渡った。震動は地鳴りとなって足元を掬い、テーブルの上の銀食器が激しく音を立てて床に転がる。リノは咄嗟に身を屈めた。窓の外を見る。雲一つない、抜けるような蒼天。雷鳴など響くはずもない澄み切った空だ。

「何事ですの!?」

 リリアンヌが悲鳴に近い声を上げる。城内は一瞬にして静寂を破られ、衛兵たちの怒号と慌ただしい足音が廊下に溢れ出した。何かが起きた。それも、取り返しのつかない何かが。シュヴァルツブルクの一行は、弾かれたように城の外へと飛び出した。

 そこで彼らが目にしたのは、悪夢のような光景だった。魔界の方角、地平の彼方から天を衝くように伸びる、漆黒の巨大な鎖。それが何本も、まるで見えない巨人が投げた槍のように、天界の大地へと突き刺さっていたのだ。先ほどの轟音は、この「鎖の槍」が世界の境界を破壊し、天界の土を穿った音に違いなかった。

「おいおい……我慢しきれなくなっていよいよ全面戦争かよ」

 マテオが引き攣った顔で唸る。その隣で、リノは目の前が暗くなるようなショックを受けていた。

(アグニ……。少しだけ待つって、僕に約束したのに……っ)

 信じていたわけではない。けれど、どこかで期待していた。魔王なりの慈悲があるのではないかと。だが、その期待は見事に裏切られた。心底がっかりしたリノの肩を、マテオが呆れたように軽く叩く。

「……魔王にとっての『少し』は、人間にとっちゃ瞬きみたいなもんだったらしいな」

 そこへ、青い顔をしたエミールが息を切らせて駆け寄ってきた。

「悪いが空路の準備はまだだいぶかかりそうだ」
 
「ヴァイスブルクにいても埒が明かない。魔王のところへ直接乗り込むぞ」

 マテオの決断に、異を唱える者はいなかった。一行は再び、戦雲渦巻く魔界へと引き返すことになった。

 ヴァイスブルクから魔界へは、通常は使われない緊急用の魔導船が出されることになった。リリアンヌとエミール、そして数人の精鋭騎士たちと共に、一行は黒い海を渡った。

 再び降り立った魔界の都市部は、以前訪れた時とは打って変わって血気に逸れていた。魔族たちが武器を研ぎ、せわしなく物資を運んでいる。その殺伐とした熱気に押されるようにして、リノたちは魔王城へと急いだ。

 城の広場では、魔王アグニが傲然と立っていた。数多の使用人や下僕たちを前に、その圧倒的なカリスマを振りまきながら指揮を執っている。

「アグニ!」リノの声に、アグニが「あーん?」と億劫そうに首を回した。

「なんなの、アレは! あの鎖の説明をしてよ!」

 リノの指差す先、空を貫く漆黒の鎖を見上げ、アグニは愉快そうに喉を鳴らした。
 
「あー、あれな! どうだ、壮観だろ? 俺様の手にかかれば、天と地を繋ぐなんて朝飯前よ!」
「そういうことじゃなくて……っ。少し待って欲しいって言ったじゃないか!」

 リノの抗議に、アグニはニヤリと不敵な笑みを浮かべ、一行を横目でなめるように見た。

「だから『少し』待ってやっただろ? 丸一日だぞ、丸一日。俺様にしちゃ、気の遠くなるような長い慈悲だったんだがな」

 この男にとって、一日の猶予は十分すぎる譲歩だったのだ。価値観の違いに眩暈を覚えながらも、リノは食い下がる。だが、アグニは取り合わなかった。

「いいか。俺たちは明日には敵地に乗り込む。お前らも天界に用があるんだろ? ならグズグズしてんじゃねえぞ。しっかり準備しておけよ!」

 豪快に笑い飛ばす魔王を前に、一同は呆気にとられた。魔界全体が勝利を確信し、勢いづいている今の状況では、どんな説得も徒労に終わる。城内の魔族たちの話によれば、あの鎖は根元に巨大な円盤状の装置を設置することで、超高速の昇降機として機能するのだという。翼を持つ魔族でさえ、高度による疲弊を避けるためにそれを利用するのだ。

 事態は一刻を争う。エミールはヴァイスブルク騎士団へ、マテオはシュヴァルツブルク騎士団へ、それぞれ早急な援護を求める伝令を飛ばした。

「今のところ、天界へ行く手段がこれしかないとなると、毒を食らわば皿まで、だな」

 エミールはそう苦々しく吐き捨てると、大きな鞄から特殊な装置を取り出し、オスカーに渡した。

「これは天界人用の救急ボンベです。魔界の空気は天界人の体には毒だ。具合が悪くなったら迷わず使ってください」

 彼の細やかな気遣いに、オスカーは「ありがとうございます」と丁寧に礼を述べた。

「リノ、ずっと移動しっぱなしで疲れたでしょう。今日は早く休みましょう」

 オスカーの言葉には、リノを労わる優しさが溢れていた。一行は、以前泊まった宿とは別の宿に身を寄せることにした。マテオの配慮だ。前の宿は荒くれ者の魔族が溜まり場となっており、王女や騎士たちが同行している今、騒動を避けるために酒場のない静かな場所を選んだのだ。

 各々が部屋に分かれ、静寂が宿を包む。だが、リノの心は少しも休まらなかった。ベッドの上で大の字になり、高い天井を見つめる。再び魔界を訪れたことで、抑えていたカレルへの想いが溢れ出していた。

(あの時、最後だと思っていたけど……。もしかしたら、今ならまた会えるかもしれない。もう一度だけでいい、彼に会いたい……)

 一度芽生えた衝動は、もう止められなかった。リノは音を立てないようにベッドを抜け出すと、他の部屋の様子を伺いながら、夜の街へと駆け出した。

 魔界の夜は、凪いでいた。冷たい月明かりに照らされた岩場の地形が、黒いシルエットとなって不気味に浮かび上がっている。  リノは記憶を頼りに、カレルのあのボロボロの家へと向かった。だが。

「……え?」

 辿り着いたそこは、もぬけの殻だった。カレルの僅かな所持品はすべて消え失せ、風が吹き抜けるだけの廃屋に戻っている。まるで最初から誰も住んでいなかったかのような、冷たい空虚さ。

(カレル……。どこへ行ったの……?)

 胸を締め付けるような不安に駆られ、リノは足が向くままに、以前宿泊したことのある「酒場のある宿屋」へと向かった。そこは、先ほどの静かな宿とは正反対の熱狂に包まれていた。明日からの戦争を控え、魔族たちが戦前夜の宴に耽っているのだ。

 酒場の熱気とアルコールの臭いに眉を顰めながら、リノは奥へと進んだ。すると、大型の衝立の向こう側に、一際目立つ団体が陣取っているのが見えた。リノは心臓の高鳴りを抑え、興味本位を装って隙間から覗き込んだ。

 リーダーらしき、端正だが傲慢な顔立ちの魔族が、ソファの真ん中に不遜に座っている。そして、その右腕に抱かれ、虚ろな目でジョッキを煽っているのは――紛れもなくカレルだった。

 周囲の魔族たちは酔い潰れ、床に寝転んだりテーブルに突っ伏したりしている。散らかった料理と溢れた酒。その猥雑な空気の中で、リノは客を装って近くの席に腰を下ろし、震える拳を隠しながらその様子を注視した。

 宴が深まり、魔族たちが次々と意識を失っていく中、仲間たちにヴィルマーと呼ばれたその魔族がカレルの耳元で何かを囁いた。カレルは抵抗することなく、力なく下の衣服を脱ぎ捨てた。そしてヴィルマーに向き合うようにして、その逞しい膝の上に座り込む。

「……っ!」

 リノは思わず息を呑んだ。ヴィルマーの大きな手がカレルの下半身をまさぐる。背中側から滑り込ませた右手の指が、容赦なくカレルの秘部へと突き入れられた。カレルの体が小さく跳ね、反応する。彼は縋るようにヴィルマーの肩を掴んだ。ヴィルマーは逃がさないよう左手で腰を固定し、右手で乱暴に中をかき回す。

「あ……っ、ぁ……」

 カレルの甘い喘ぎが、リノの元まで届く。周囲の魔族は、それが日常茶飯事であるかのように、目もくれない。ヴィルマーは自らの肉棒を露わにすると、濡れそぼったカレルの秘部へと一気に押し込んだ。両手でカレルの腰を掴み、上下に激しく揺さぶる。

「くっ……ぁ……あぁっ!」

 激しさを増す動きに、カレルがうめき声を上げる。ヴィルマーはさらに速度を上げ、カレルの体を翻弄した。やがて二人は同時に絶頂を迎え、カレルの先からも白濁した液が零れ落ちる。だが、ヴィルマーの欲望はそれだけでは終わらなかった。

 彼はカレルをソファに四つん這いにさせると、今度は背後から覆いかぶさるようにして再び侵入した。肉を打ち付ける生々しい音と、水分を含んだ卑猥な音が酒場に響き渡る。ヴィルマーは傍らにあったフルート型のワイングラスを手に取ると、あろうことか、それをカレルの肉棒に無理やり被せた。

「あぁ……っ! 痛い! や……めてっ!」

 カレルの悲痛な叫びを無視し、ヴィルマーは背後を突きながら、ワイングラスを強引に押し込んでいく。 「イけよ! ほら、全部出しちまえ!」ヴィルマーはその虐待に近い姿を愉しむように笑い、腰を叩きつけた。二度目の絶頂。カレルの精液がワイングラスの中に注がれていく。出し切ったところでグラスが引き抜かれ、カレルは痛みに耐えながら、涙を溢れさせた。

 ヴィルマーは、グラスに溜まった精液を一気に飲み干すと、満足げにソファに寄りかかった。そして、そのまま大きないびきをかいて寝始めた。汗とお互いの液でびっしょりと濡れたカレルは、震える体を抱え、ヴィルマーの横に静かに座った。項垂れながら呼吸を整えていた。

 リノの堪忍袋の緒が切れた。行為をするだけして、カレルを放置する男への激しい憤り。リノは衝立を回り込み、憔悴しきったカレルの元へ駆け寄った。

「カレル」

 呼ぶと、カレルが顔を上げた。その目は驚愕に見開かれる。

「リノ……? なんで……」

 彼はすぐに顔を伏せた。顔を真っ赤に染め、急いで涙を拭う。こんな無様な、汚された姿を見られたくない。恥ずかしそうに衣服の裾を伸ばし、下半身を隠そうとするカレルの姿が、リノの胸を酷く痛めた。

 リノは無言でカレルを抱き上げた。そのまま酒場のさらに奥、人目の付かないブラインドの仕切りがある席へと移動し、ソファにカレルを優しく降ろした。ブラインドを降ろし、二人だけの空間を作る。

「大丈夫?」

 横に座り、覗き込むように尋ねたが、カレルは目を合わせようとしなかった。

「……お前、城に帰ったんじゃなかったのかよ」
「アグニがあんな鎖を天界に刺したから、みんな驚いて戻ってきたんだ。……ねえ、カレル、こっち向いて」

 二人の間に、重苦しい沈黙が流れる。カレルは拒絶するように顔を逸らし、話を切り上げたがっているようだった。リノは、彼の震える体を優しく抱き寄せた。

「やめろ、リノ……俺、今汚いから……」
「そんなの、関係ないよ」

 言葉を遮るように、リノはカレルの肌を愛おしむように撫でた。熱っぽさと汗ばんだ体が、敏感にリノの指に反応する。

「ん……っ」

 やはり、彼は体に触れられると、抗えない悦びを覚えるようだった。リノは安心させるように背中を撫で、彼をソファに仰向けに寝かせた。リノは自らの衣服を脱ぎ捨て、自身のそれを、まだ濡れているカレルの秘部へと滑り込ませた。

「あ……」

 先ほどの魔族の残滓と愛液が潤滑剤となり、リノの熱がするすると最奥まで届く。

「優しくするから」

 リノはカレルの顔を見つめながら、丁寧に、慈しむように腰を動かした。ヴィルマーの暴力的な愛とは違う、温かな繋がり。先ほどまでの行為で極限まで敏感になっていたカレルは、リノの優しい刺激に大きくのけ反り、声を上げた。

「リノ、俺……もう……っ」

 カレルは射精することなく、秘部の奥で震え、そのまま絶頂を迎えた。
 リノはカレルを四つん這いにさせると、今度は背後から深く突き入れた。

「ごめん、カレル……。今度は、俺の方が余裕ないかも」

 カレルの最奥を突き、自分を刻み付けるように動く。

「んあぁ……っ、リノ……っ」
「カレル……好きだよ。大好き」

 ヴィルマーの冷たい行為を、リノの言葉で、熱で、一つずつ上書きしていく。カレルの白い耳が真っ赤に染まっていくのを、リノは満足げに見つめた。抑えきれない情動のままに腰を叩きつけ、リノはカレルの深くへと、己のすべてを注ぎ込んだ。そして、ぐったりとした彼を引き寄せ、優しく口づけを交わした。

 行為の後、リノはタオルを濡らして、カレルの体を丁寧に拭いてあげた。

「ありがと……」

 照れながら、蚊の鳴くような声でお礼を言うカレル。その表情には、先ほどの虚ろさは消えていた。
 
「カレルが照れてるの、珍しいね。可愛いよ」
「はっ倒すぞ、エロガキ……」

 いつもの軽口が戻ったことに安心しながらも、リノは気になっていたことを聞いた。

「さっきの魔族と……仲良いの?」
「ああ……。ヴィルマーか。たまたま飲みに誘われただけだよ」

 たまたま誘われただけであんなことをするのかと、リノは内心納得がいかなかった。だが、カレルが見せた一瞬の、どうしようもなく孤独で寂しそうな表情を見て、それ以上は何も言えなくなった。魔族として生きるための、彼なりの代償なのかもしれない。

「明日、カレルも天界に行くんでしょ? だったら、一緒に行こうよ」

 リノの提案に、カレルは小さく首を振った。
 
「いや……俺は行かない」
「どうして?」
「アグニにお願いして魔王城に住むことにしたんだ。魔王の下僕が全員天界に向かっちまうと、城が手薄になる。お留守番ってやつだな」

 カレルの家が空だった理由に、リノは合点がいった。と同時に、また訪れる離別の予感に胸が痛む。リノは寂しさを堪え、カレルの手を強く握った。カレルは今度は逸らさず、真っ直ぐにリノの金色の瞳を見つめ返した。

「リノ……天界は危険な場所だ。気を付けて行けよ」
「うん。……ありがとう」
 
 二人は、祈るように再び唇を重ねた。

 翌朝。魔界の荒野に、重々しい金属音が響き渡っていた。アグニを中心とした魔族たちが、天界へと続く巨大な「昇降機」の最終確認を行っている。

 リノたち一行も、装備を整えてその場に急いだ。

「準備はいいか! 野郎ども、乗り込めぇッ!」

 アグニの号令と共に、武装した魔族たちが円盤状の装置へと次々に飛び乗っていく。

「本当に……戦うつもりなの? アグニ」

 リノが問いかけると、アグニは牙を剥き出して不敵に笑った。

「ハッ! 戦うかどうかは、上の連中次第だぜ! ま、魔族の姿を見たら、腰を抜かして大人しくなるのがオチだろうがな!」

「そんな単純に済めばいいが……。俺は嫌な予感がしてならないな」

 どことなくお祭り気分のアグニを尻目に、エミールが呆れたように、けれど警戒を解かずに呟いた。

「あれだけの戦闘兵器を壊滅させたんだ。流石に天界側も、もう打つ手はないんじゃないか?」

 マテオはどこか希望的観測を口にする。

「念押ししておきますが、私たちの最優先の目的はSOSのあった天界人の救出ですよ」

 オスカーが凛とした声で告げると、一行はアグニと共に円盤の中央へと陣取った。

 やがて、昇降機が凄まじいエネルギーを帯びて光り出す。漆黒の鎖をガイドにして、円盤が重力を無視し、垂直に空へと上昇を始めた。リノは、小さくなっていく魔界の大地を見つめ、そしてその先にある、自分の運命が待つ空を見上げた。悲しみも、情欲も、決意も、すべてを胸に抱いて。一行を乗せた昇降機は、分厚い雲海を突き抜け、再び「天界」へとその身を投じた。

第十九章 収斂(しゅうれん)

 その頃、天界の巨大な大会議室は、かつてない喧騒と、どろりとした不安に包まれていた。 緊急招集をかけられた候補生たちは、互いの顔を見合わせ、落ち着きなく視線を彷徨わせている。

 「一体、何が始まるっていうの……?」
 「ニュースを見たか? 魔族が攻めてくるって……」

 震える声があちこちで重なる。つい先刻、魔界から伸びた巨大な鎖が天界を貫いた衝撃は、彼らの「自分たちは安全な場所にいる」という選民意識を根本から揺るがしていた。

 天界騒動以降、ヴァイスブルクとの関係は最悪まで冷え込み、下界へと続く唯一の命綱であるエレベーターは封鎖。今の天界は、煌びやかな装飾を施されただけの、逃げ場のない「空中監獄」に等しかった。 住民たちは、迫りくる死の足音に怯えながらも、逃げ出す術を持たず、ただ震えることしかできない。

 「急に魔族が攻めてくるなんて、一体どういうことなんだろう……」

 絶望に染まった沈黙を破るように、誰かが呟いた。
 不安げに肩を寄せるミリアやビアンカの傍らで、ヴィダルは親友のスヴェンと声を潜めていた。

 「……どうやら、天界の方から先に魔界へ攻撃を仕掛けたという事実は、公にされていないようだな」

 スヴェンが冷めた瞳で告げた。その言葉に、ヴィダルは眉をひそめる。

 「スヴェン、お前はそれを知っていたのか?」
 「俺の親父も研究員だからな。……魔界での戦いでは、あのローマンが死んだらしい」
 「馬鹿な……。聖域の『神子』ですら、魔族を抑えられなかったというのか?」

 ヴィダルの背中に冷たい汗が伝う。幼い頃、焦土大陸で見てきた魔族は、確かに恐ろしい存在ではあったが、天界の絶対的な力を持ってすれば蹂躙できる対象だと信じて疑わなかった。自分の認識が、甘い幻想であったことを突きつけられる。

 「分からない。向こうに相当な手練れがいたのか……あるいは、《神の力》とやらが、俺たちが思っているほど絶対的なものではなかったのか」

 スヴェンは淡々と、どこか自嘲気味に答えた。

 「ともかく、今回の侵攻はあからさまな報復攻撃だろうよ」
 「まさか、下界に移り住むなんて話をしていた矢先に、こんなことになるなんてな」

  スヴェンは天を仰ぎ、重いため息を吐いた。
 その時、重厚な扉が開き、パトリックが数人の研究員を従えて入室してきた。

 「諸君、静粛に。すでに聞き及んでいるだろうが、魔族共がこの天界に牙を剥いている」

 パトリックの声には、焦りも同情も一切ない。

 「現在、我が軍の戦闘兵器は調整中で間に合わない。そこでだ。兵器の準備が整うまでの間、君たちに『防波堤』になってもらう」

 会議室が激しくざわめいた。いきり立つ者もいれば、今にも泣き出しそうな顔で震える者もいる。ここにいる候補生のすべてが実力で試練を突破した精鋭ではない。有力者の親のコネで、安全な生活を約束されて天界へやってきた「特権階級の子供」も少なくはなかったのだ。

 「安心したまえ。戦闘に不慣れな者でも、魔族を蹂躙できる『魔動器』を準備した」

  パトリックは歪な微笑を浮かべた。

 「ここから放たれる魔法を、ゲーム感覚で敵に当てさえすればいい。相手は所詮、醜悪な低級モンスターだ。日頃の訓練さえ思い出せば、特筆するような難事ではないよ」

 パトリックの軽薄な物言いは、死への恐怖を抱く候補生たちを、ある種の万能感へと誘っていく。 研究員たちが、不気味な青白い光を放つブレスレット――魔動器を配り始めた。それを装着した途端、先ほどまで怯えていた者たちの瞳に、異常な熱っぽさとやる気が漲り始める。

 ヴィダルが受け取ったブレスレットは、掌の上で禍々しい輝きを放っていた。その不自然な光に本能的な嫌悪感を覚えたヴィダルは、それを手首にはめることなく、静かにポケットへと押し込んだ。

 候補生たちがいくつかの部隊に分けられ、研究員たちの指揮下に置かれる。

 「危険を感じたら、即座にセーフティーゲートへ引き返してくれ。では、健闘を祈る」

  一方的な説明を終え、各々が解散する中、パトリックはヴィダルのもとへ歩み寄った。

 「ヴィダル、君は研究所に残れ。少し話がある。研究室に来い」
 「……」

 ヴィダルは無言を貫いたが、パトリックはそれを同意と見なし、背を向けて去っていった。

 「ヴィダル……」

 ミリアが、今にも消え入りそうな不安げな瞳でヴィダルを見つめた。

 「候補生が、本当に戦う必要があるのだろうか?」

 自問自答するように、ヴィダルが言葉を漏らす。傍らのミリア、スヴェン、そしてビアンカが、重い沈黙に沈んだ。

 「……俺たちは、もう天界と心中するしかないのかもしれないな」

  スヴェンが、乾いた笑みを浮かべて言った。

 「逃げ出す方法はないのか?」
 「両手を挙げて魔族に降伏するか? 聞き分けの良い連中だといいが、賭けにするには分が悪すぎるな」

 スヴェンの冗談めかした言葉に、ヴィダルは一瞬、それも一つの選択肢だと考えていた。そもそも、下界への移住を望んでいた自分たちにとって、この腐敗した天界を守る戦いなど、本来は何の意味も持たないのだから。

 「お父さんが……下界とのやりとりを内密に進めていたのだけれど、それがバレてしまって……」

 ミリアが震える声で告白した。

 「だから、エレベーターの稼働が停止させられたのか……」

 ヴィダルはすべてを納得した。反乱の芽を摘むための封鎖。自分たちは、逃げ道を塞がれた鼠と同じなのだ。

 「つまり、あたしたちは完全に閉じ込められたってことなのね」

 ビアンカが毒づく。

 「ヴァイスブルクからの助けを待つしかないな」

  スヴェンの表情は、半ば諦めに染まっていた。

 (エミールなら、何かしら気づいて動いてくれているのだろうが……)

  ヴィダルも思考を巡らせたが、現状、自分たちにできることはあまりに少なく、他人の慈悲を願うしかない現実がもどかしかった。

 「……俺は、パトリックのところへ行く。少し話をしてみるよ」

  ヴィダルが決意を込めて言った。

 「ヴィダル、無理しないでね」

 ミリアが心配そうに袖を掴む。

 「それは俺の台詞だな。……みんな、気を付けて。危険を感じたら、すぐに逃げろ。俺も、本当は一緒に行きたいところだが……」

 ヴィダルはミリアを真っ直ぐに見つめた。

 「ミリア、無理するなよ」

 かつてないほど穏やかで、優しい微笑みをミリアに向けた。

 「……うんっ!」

 ミリアは、初めて見るヴィダルの優しい顔に、満面の笑みで返した。

 「安心しろ。俺とビアンカはこれでも一応エリートだからな。ミリア、俺たちから離れるなよ」

 スヴェンが笑い飛ばし、緊張を和らげる。スヴェンとビアンカは、親の移住に伴いやってきた下界出身者ではあるが、天界でその実力を認められた戦闘のプロフェッショナルでもあったのだ。

 「ああ、心強いよ」

 三人と別れたヴィダルは、不安がないと言えば嘘になるが、あの三人ならきっと大丈夫だと自分に言い聞かせた。

 研究室へ向かうと、パトリックや他の研究員たちが、まるで蜂の巣を突いたような忙しさで動き回っていた。 ヴィダルを見つけるや否や、パトリックが早足で歩み寄ってくる。

 「ついて来い」

 いつも以上に横柄で、余裕のない口調だった。連れて行かれたのは、研究所の最上階へ向かう専用のエレベーター。 たどり着いたそのフロアは、異様な空気を漂わせていた。他の研究室のような生活感や雑然とした様子は一切なく、視界に入るすべてが白一色の、無機質な領域。 目の前には長く、天へと続くような白い階段があり、その登り切った先に、巨大な扉がそびえ立っていた。

 「……なんだ、ここは?」
 
 ヴィダルの純粋な疑問に、パトリックが背中で答える。
 
 「ここは《聖域》と呼ばれ、神が鎮座する場所だ。あの扉の向こうに……《神》が居る」
 「神、だと……? それで、俺をこんな場所に連れてきて何の用だ?」
 「君には、ここであの扉を死守してもらいたい。ここを訪れた者を全員殺せ」
 「!」

 死守――。その不穏な単語に、ヴィダルは怪訝な表情を隠せなかった。

 「まるで、ここまで魔族が攻め入るような口ぶりだな」

 ヴィダルの中で、パトリックに対する不信感が決定的なものへと変わっていく。

 「ただの保険だよ。外で候補生たちが露払いをしてくれさえすれば、何の問題もない」

 パトリックは吐き捨てるように言った。

 「……道理でおかしいと思っていた。アンタ、候補生を捨て駒にする気か!?」
 「捨て駒? 失敬な。私は『危険を感じたらセーフティーゲートへ引き返せ』と指示したはずだが?」

 確かに、パトリックは候補生たちの退路を保証した。

 「――もっとも、彼らに”意思”が残っていればの話だがね」

 パトリックの冷酷な言葉に、ヴィダルはハッとして、ポケットに隠していた魔動器を取り出した。

 「ほう……。やはり君は”それ”を着けなかったか。賢明な判断だ」

 パトリックが眼鏡の奥で目を細めた。ヴィダルの掌の中で、ブレスレットは相変わらず、人を狂わせるような禍々しい輝きを放ち続けていた。

 *
 
 一方その頃、天界へと上昇する円盤の縁で、リノは広がる景色を眺めるアグニに話しかけていた。

 「アグニ、カレルのこと……お願いね?」

 背の高い魔王を見上げるリノの瞳は、切実な願いに満ちている。

 「ふーん?まぁ...あんなに『熱い夜』を過ごした仲なんだから、心配にもなるわな」

 アグニがニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべた。

 「な、な……なんでそれを……っ!」

 リノの顔が、火を吹いたように赤く染まる。

 「俺と隷属契約を結ぶとな、その奴隷の行動は全部筒抜けなんだよ」

 アグニはリノをからかうようにウインクした。

 「それ……カレルは知ってるの?」

 頬を膨らませて抗議するリノ。

 「いや、知らねぇ。そういや言ってなかったわ!」

 アグニは豪快にゲラゲラと笑った。

 「安心しろ。悪いようにはしねぇよ。俺も、あいつのことは結構気に入ってるしな」

 アグニは腕を組み、ふと表情を和らげた。

 「……それより、俺はお前の方が心配だよ」
 「俺?」
 「今にも、小突いたら崩れちまいそうなんだよ、お前は」

 アグニの瞳が、リノの内面を深く射抜いた。

 「……」

 自分の決意や、その裏にある脆さまで、アグニにはすべて見透かされているような気がした。けれど、彼はそれ以上深くは詮索してこない。その適度な距離感が、今は不思議と嫌ではなかった。 二人の間に、優しい沈黙が流れる。

 「アグニって、面白いよね。最初、魔王って聞いた時は、もっとこう……怖い人かと思ってた」
 「魔界や魔族っつっても、人間と同じ大陸続きの場所に住んでるからな。荒っぽい連中もいるが、感覚は人間に近いかもしれねぇ。……まぁ、本当に地獄にでも行けば、お前が考えてるような『怖い奴』が死ぬほどいるがな」
 「へぇ……怖いもの見たさで、ちょっと気になるね」
 
 リノがくすりと笑う。

 「ふーん? じゃあ、俺が今度連れて行ってやろうか?」

 アグニもリノの反応を面白がるように応じた。 二人の間に和やかな笑い声が漏れる。

 だが、その様子を後方から苦々しい表情で見つめる影があった。オスカーだ。

 「リノ……いつの間にあんなに魔王と仲良くなったのでしょう……」

 オスカーは、リノに悪い虫がつかないよう、その一挙手一投足を心配そうに見守っていた。

 「魔王もそんなに悪い奴じゃないさ。シュヴァルツブルクとの友好関係のためにも、あれくらいの信頼関係は必要だ」

 マテオが、過保護な父親のようなオスカーをなだめる。

 「そう……だと良いのですが……」

 オスカーの胸には、一抹の寂しさが過っていた。唯一の肉親でありながら、ここ最近のリノは、どこかオスカーに対して壁を作っているような気がしていたからだ。

 「反抗期だよ、反抗期!誰もが通る道さ」

 マテオが笑いながら言うが、オスカーの心は晴れない。 出会った頃、あんなに自分を頼ってくれていたリノ。その温かな記憶が、自分の知らないところで成長していくリノの姿をどこか受け入れ難くさせていた。

 「……こうして、親元を離れていくのですね」

 遠くを見つめながら、オスカーはアグニと談笑するリノの背中を、ただじっと見つめ続けていた。

 *
 
 円盤がついに天界の最上層に到達した。 魔族たちが一斉に黒い翼を広げ、天界の大地へ降り立つ。彼らは翼を持たない人間たちのために、すぐさま太い縄梯子を降ろした。 リノたち一行と魔族の軍勢が、静かに、だが力強く天界へと乗り込む。 しかし、たどり着いた天界の居住区は、まるで幽霊都市のように静まり返っていた。 店はすべてシャッターを閉じ、人影一つない広場で、噴水の水の音だけが冷ややかに響いている。

 「これは一体……」

 エミールが顔をしかめ、辺りを見回す。

 「人の気配が、まったくありませんわ」

 リリアンヌも周囲の店舗を覗き込むが、生活の熱量はどこにも感じられない。

 「……もしかしたら奥に避難しているのかもしれない。進もう」

 リノの言葉を合図に、一行は研究所方面を目指して移動を開始した。
 その時だった。 紫色の鋭い魔力の刃が、殺意を帯びてリノの喉元へと飛来した。

 「させねぇ!」

 咄嗟に反応したアグニが、巨大な拳でその刃を粉砕する。 マテオとマヤが即座にリノの前に立ち塞がり、武器を構えた。

 「何だ、ありゃ……!?」

 目の前、そして頭上の回廊や屋根の上から、白と緑の軍服を纏った候補生たちが、次々と姿を現した。 彼らは何かに取り憑かれたような表情で、一番巨躯のアグニを睨みつけている。 そして、候補生たちが一斉に、手首の禍々しいブレスレットを掲げた。

 「ま、待て! 俺たちは敵じゃない! ヴァイスブルクからの使者で――」

 エミールの叫びも虚しく、ブレスレットから放たれた無数の攻撃魔法が一行を襲った。

 「くそっ!」

 各々が辛うじて回避する中、 「ぐわあああ!」 すぐ近くにいた魔族の一人が魔法の直撃を受け、膝を折った。

 「待ってください! 私たちはあなたたちの敵ではありません!」

 リリアンヌが悲痛な声を上げる。

 「私たちは助けに来たのです!」

 オスカーの声も、彼らの耳には届かない。

 痺れを切らした魔族たちが、反撃のために候補生たちへと飛びかかった。

 「ああっ! ダメですわ!」

 リリアンヌが叫ぶが、戦いの火蓋は切って落とされた。仲間を傷つけられた魔族たちの猛攻が続く。

 「おい! 魔王! あいつらを止めろ!」

 エミールが激昂してアグニに詰め寄る。

 「ハッ! 俺に命令するのか? 大した度胸だな」

 アグニはエミールを冷たく射抜いた。

 「魔界はな、今の今まで一度も俺たちから手を出したことはねぇ。だが……あいにく交渉は決裂だ」

 アグニが腕を一振りすると、巨大な突風が候補生たちを吹き飛ばした。

 「アグニ! 傷つけないで……っ」

 リノが必死に懇願する。

 「分かってるって、うるせぇな。言っておくけど、手加減すんのも楽じゃねぇんだぞ」

 アグニがため息を吐くが、吹き飛ばされたはずの候補生たちは、まるでお化けのようにフラフラと立ち上がり、再び機械的な動きでブレスレットを掲げた。

 (……何か、この人たち変だ)

 リノの心に、冷たいざわつきが走った。魔界で戦った戦闘兵器。生気を感じさせない、あの無機質な瞳にそっくりだった。

 「攻撃を止めるんだ! 俺たちは救助要請を受けて来たんだぞ!」

 エミールの必死の咆哮も、放たれる魔法の光にかき消される。

 「くっ! 流石にこの猛攻を耐え続けるのは無理だ! 峰打ちで無力化できないか?」

 マテオの叫びに、オスカーが苦渋の決断を下す。

 「仕方ありません……マテオ、マヤ、頼みます!」

 二人は頷くと、弾丸のような速さで候補生の懐に潜り込み、正確な一撃で彼らの意識を奪っていった。

 「どうしちまったんだよ、こいつらは!」

 エミールもまた、悔しさを滲ませながら、襲いくる候補生を一人ずつ気絶させていく。 劣勢と見たのか、高所にいた候補生たちは一旦奥へと退いていった。

 オスカーが、地に伏した候補生の一人のもとへ駆け寄り、その容態を確認する。 彼らが身に着けているブレスレットを見た瞬間、オスカーの顔が驚愕に染まった。

 「この魔導器は……」

 無理やり外そうとしたが、ブレスレットの内側には無数の微細な針が仕込まれており、それが皮膚深くに食い込んでいたため、容易には剥がせなかった。

 「……なんてことだ」

 その惨状を見たエミールが絶句する。

 「装着した後、自力で外せないように細工されています。それから……」

 オスカーがブレスレットの核(コア)を精査する。

 「この魔導器に込められた魔法は、攻撃タイプのもの。ですが――もう一つ、『洗脳』の魔術も組み込まれています」
 「つまり、こいつらは無理やり狂わされてたってことか?」

 マテオの問いに、オスカーが重く首を縦に振った。

 「パトリック……あいつ、こんなことをしてまで何を守りたいんだ……!」

 エミールが拳を握りしめる。

 「彼に守りたいものなんてありませんよ。ただ、自らのプライドゆえに、誰にも助けを求められず、退くに引けなくなっているだけでしょう」

 オスカーは、かつての同僚の哀れな末路に、悲しげな目を向けた。

 「で? どうするよ。こいつらの手首を切り落とせば、そのおもちゃも止まるんだろ?」

 アグニが面倒そうに言い放つと、魔族たちが一斉に獲物を構えた。

 「ちょっと待ってくれ! 他の方法を考えている!」

 エミールが必死に制止する。

 「だが、時間がない。他の連中がまたいつ襲ってくるか……」

 マテオが焦りを見せた、その時だった。

 リノが、倒れている候補生に近づき、吸い寄せられるようにブレスレットへと手を伸ばした。

 「リノ!」

 オスカーが叫んだ瞬間、リノの手が触れたブレスレットが、まばゆい純白の光に包まれた。

 「あ……ごめんなさい、少し触っただけなんだ……」

 リノがバツの悪そうな顔をして手を引っ込める。駆け寄ったオスカーが、驚愕のあまり声を失った。

 「一体、何が……」
 「俺は……何ともないけど、魔導器が……」

 オスカーが魔導器を確認すると、先ほどまで禍々しく輝いていたコアが、完全に機能を停止して黒くくすんでいた。

 「魔法が……切れている? リノ、お前は魔法を『無効化』できるのか?」

 エミールがリノの行動に驚きを見せた。
 
 「えっ? わ、分かんないよそんなの……ただ、触っただけだし……」

 リノ自身、何が起きたのか把握できていなかった。ただ助けたい、その一心で触れただけだったのだ。

 「……ふぅ。魔界の装置の時と同じですね」

 オスカーは、リノを誇りに思う以上に、どこか悲しそうな瞳でその小さな手を見つめた。 リノはその瞳に耐えられず、顔を背ける。オスカーに何も相談せずに決めた「覚悟」を、見透かされているような気がしたからだ。

 「へぇー! あの障壁を消したのも、お前の仕業だったのかよ! やるじゃねぇか!」

 重苦しい雰囲気を突き破るように、アグニが豪快に笑った。

 「リノ、こっちの連中もお願いできるか?」

 エミールがすかさず頼み込む。

 「エミール! リノに無理をさせては……」

 リリアンヌが制止するが、エミールは頭を横に振った。

 「だが、傷つけずに済む方法は、もうこれしかないんだ」

 リノは頷き、倒れている候補生たちのブレスレットの魔力を、次々と無効化していった。

 「リノ、身体は大丈夫ですか?」

 オスカーが気遣う。魔法の無効化が、リノの体にどんな負担を強いるか分からないからだ。

 「うん、今のところ大丈夫」
 「ですが、候補生がこれだけ多いと、リノ様一人にかかる負担が……」

 マヤが危惧する通り、リノの顔には徐々に疲労の色が滲み始めていた。

 「……もしかしたらパトリックが、何か解決策を知っているかもしれません。彼を探しましょう。研究所にいるはずです」

 一行は、これ以上の犠牲を出さないために、リノの力で候補生を無力化し、無力化した者はヴァイスブルクの護衛や魔族たちに託すことにした。

 「今後、保護する者は増え続けるだろう。順次、下界へ送ってくれ。下で騎士団が待機しているはずだ」 エミールが手際よく指示を出す。 そうして一行は、すべての元凶が潜む、特務機関の最深部へと道を急いだ。

 *
 
 「……ぐっ、あ、あああぁぁぁ……っ!」

 天界の冷たい石床をのたうち回りながら、スヴェンが獣のような呻き声を上げた。その手は、自身の左手首に食い込む魔動器――あの禍々しいブレスレットを必死に引き剥がそうとしていた。 しかし、無理に外そうとすればするほど、内側に仕込まれた無数の細い針が肉を抉り、血管を切り裂く。ブレスレットの隙間から、鮮血がどろりと滴り落ちた。

 「スヴェン、もうやめて! お願いだから!」

 ミリアが喉を枯らして泣き叫ぶ。だが、スヴェンの額からは脂汗が絶え間なく溢れ、苦痛に歪んだ表情が戻ることはなかった。

 「……っ! くそ! ダメだ、外れねぇ……!」
 「うぅ……痛いよぉ……」

 スヴェンの横では、ビアンカが手首を押さえてうずくまっていた。彼女もまた、この呪われた装置を外そうとしたのだろう。制服の白い袖は、赤黒く染まっていた。

 ミリアがこの「狂気」に侵されずに済んだのは、ただ一つの理由だった。ヴィダルがパトリックから魔動器を受け取った際、それを装着せずポケットに仕舞い込むのを、彼女は見ていたのだ。 彼が選ばなかった道なら、自分も選んではいけない。その直感だけが、彼女を救った。まさか、天界から配られた神聖なはずのブレスレットが、これほどまでの毒を孕んでいるとは、夢にも思わなかったのだ。

 「ちくしょう……ちくしょう! 騙されたんだ、俺たちは!」

 スヴェンが壁を背に、力なく座り込んだ。

 「最初から、俺たちを人体実験の材料にするつもりだったんだ……室長も、研究所も……」

  絶望に染まった声が、無機質な廊下に虚しく響く。

 「……研究所から出られない親父たちも、もしかしたらもう……」

  悟ったようなスヴェンの言葉に、ミリアの心臓が凍りついた。パトリックは、戦闘に長けた若い候補生たちを、使い捨ての『最後の砦』として選別したのだ。

 「ミリア、お前だけでも逃げるんだ。そして……このことを、ヴァイスブルクに伝えてくれ……」
 「嫌よ! みんなを置いて行けるわけないわ!」
 「だけど、もう俺もビアンカも……意識が、遠くなるんだ……」

 スヴェンの瞳から光が失われていく。まるで自分の肉体が、得体の知れない何かに乗っ取られていくような、おぞましい感覚。

 「ヴィダルのところに行ってみるわ! 彼はブレスレットをしてなかった。きっと、彼なら……!」
 「……ヴィダルも無事だといいがな。室長に連れていかれたってことは……嫌な予感しかしない」

  スヴェンの力ない呟きに、ミリアは何も言い返せなかった。

 「神に最も近い天界にいるのに……《神》は、俺たちの味方をしてくれなかったんだな」

  涙が止まらないミリアの視界で、スヴェンの瞳がゆっくりと赤く染まり始めた。

 *

 特務機関の正面玄関前。そこはすでに、凄惨な戦場と化していた。 待ち構えていた大勢の候補生たちが、地鳴りのような足音と共に、一斉にリノたちへ襲いかかる。

 「くっ……!」

 リノたちは迫りくる攻撃を紙一重で躱し、反撃に転じる。だが、相手は正気を失った「天界の同胞」なのだ。なるべく手荒な真似をせず、急所を突いて気を失わせるという繊細な芸当は、この乱戦の中では至難の業だった。

 「数が多すぎる!」

 魔族たちが囮となって攻撃を引き受けてくれるものの、次から次へと湧き出る候補生の波に、リノたち一行には確実に疲労の色が見え始めていた。

 「普通にぶちのめすだけなら楽なんだが、加減しろってのはキツいな!」

 エミールが苦笑いを浮かべながら、剣の柄で敵を叩き伏せる。

 リノは、気絶した候補生を見つけては駆け寄り、一人ひとりのブレスレットに触れて無効化を繰り返していた。しかし――。 不意に、視界がぐらりと揺れた。

 「あ……」

 リノは、糸が切れた人形のように、その場に膝をついた。

 「リノ!」

 すぐさまリリアンヌが駆け寄り、祈りを込めた回復術を施す。だが、その柔らかな光はリノの体を素通りし、目に見える効果は現れない。

 「大丈夫……少し、休めば……」

 リノは荒い息をついた。ブレスレットの解除に特別な魔力を使っているつもりはなかった。だが、何かが違う。体力の消耗というよりは、神の力に、内側から支配されそうな……自分という境界線が壊れていくような感覚。

 「力を使っている感覚が、自分でもわからなくて……」

 リリアンヌは痛ましげな表情で、リノの額に滲んだ汗をハンカチで優しく拭った。 マテオ、マヤ、エミール、そしてアグニと魔族たちが、獅子奮迅の勢いで候補生を無力化していく。その光景を見ながら、リノの胸には焦りが募った。

 (これ以上、この不可解な力を使えば……の《決意》も、無駄になってしまうかもしれない……)

 その、刹那だった。 特務機関の入り口脇にあるゲートから、突き刺さるような女性の叫び声が響いた。

 「やめてーーっ!」

 その声と同時に、候補生と対峙していたマテオとマヤに、圧倒的な速度を持つ男女が飛び掛かった。

 「なっ……!?」

 マテオとマヤは瞬時に体をひねって回避したが、その男女――洗脳されたスヴェンとビアンカの追撃は止まらない。

 (別格だ。他の候補生とは、積んでいるエンジンが違う!)

 二人は即座に察知した。マテオとマヤは、迫りくる鋭い剣閃を双剣で必死に薙ぎ払う。

 そこへ、先ほどの叫び声の主が必死の形相で走り込んできた。

 「やめて! 殺さないで!」

 綺麗に切り揃えられた豊かな黒髪を振り乱し、その女性が懇願する。彼女の手首には、魔動器は見当たらなかった。

 「そうは言っても……!」

 マテオとマヤは歯噛みした。単純に命を奪うのであれば容易いが、この苛烈な猛攻を凌ぎつつ、傷つけずに制圧するのは、至難を通り越して不可能に近い。

 その膠着状態を、横から乱入した巨躯が強引にぶち破った。

 「俺が受ける。その隙を狙え」

 短く告げたのは、アグニだった。 マテオとマヤが彼の両脇に構える。スヴェンとビアンカの攻撃が同時に放たれた。アグニはビアンカの剣を豪快に薙ぎ払ったが、その直後、スヴェンの剣がアグニの腹部を深く貫いた。

 「今だ!」

 アグニが剣を肉体で固定したその瞬間、マテオとマヤが左右から同時に男女の項を叩き、意識を奪った。

 「スヴェン! ビアンカ!」

  女性が二人の名前を呼びながら、崩れ落ちた彼らのもとへ駆け寄る。

 「魔王! 大丈夫か!?」

 マテオが焦った声を上げる。アグニは突き刺さった剣を平然と引き抜くと、それを素手でバキリとへし折った。

 「フンッ! 俺様を誰だと思ってやがる。こんなもん、痛くもかゆくもねぇよ」

 ドクドクと血は流れているものの、その声には一切の衰えがない。魔王の生命力は、常識を遥かに凌駕していた。

 「この二人は、相当な手練れだったようですね……」

 マヤが小さく息を吐きながら言った。マテオがミリアに向き直る。

 「ところで、アンタは?」
 「わ、私は候補生のミリアです……。この二人は、私の大切な友達なんです……」
 「ブレスレットを付けていないようだが?」
 「それは……」

 ミリアは言い淀んだ。目の前の者たちは紛れもない敵。魔動器の真実を話していいものか、迷いが過る。しかし、この狂気に染まった天界で、もはや敵も味方もないと思い至った。

 「ヴィダルが……もう一人いる友達が、身に着けなかったから。だから私も……」
 「……ヴィダルだと!?」

 マテオが驚愕の声を上げた。ミリアはその気迫に肩を震わせる。

 「すまない、驚かせたな。ヴィダルは、俺の従弟(いとこ)なんだ」
 「えっ……」

 マテオの言葉に、ミリアの瞳に微かな希望が灯った。 そこへ、リノもふらつきながら近づいてきた。

 「会話ができそうな感じ……?」
 「ああ、どうやら洗脳から逃れていたようだ。ヴィダルの友達だってさ」

 マテオの説明を聞き、リノはミリアをじっと見つめた。

 「ヴィダルの……」

 ミリアはリノと視線が合った瞬間、息を呑んだ。 その青年の風貌は、以前とは少し変わっているかもしれない。けれど、その瞳、その面影は、ヴィダルから受け取ったあの写真の中の少年そのものだった。

 「……それで、ヴィダルはどこに?」

 リノの問いに、ミリアは震える唇を開いた。

 「パトリック室長に連れられて、研究所へ向かいました……」

 ミリアはその場に泣き崩れ懇願した。

 「お願いです……! ヴィダルを、あそこから救い出してください! 助けて……!」

 その悲痛な叫びに、マヤが落ち着かせようと優しく彼女の肩を抱き寄せた。

 「研究所へ向かおう」

 リノは、天を衝く巨大なビルディングを見上げた。 その時、後方から馬蹄の音と共にヴァイスブルクの騎士たちが駆けつけてきた。

 「エミール様! 天界住民の保護、および負傷者の収容に参りました!」

 エミールの的確な指示のもと、騎士や魔族たちが協力し、倒れた候補生たちを次々と運び出していく。

 「ブレスレットの破壊も頼めるか?」
 「腕利きの鍛冶屋を同行させております。時間はかかりますが、必ずや」
 「……頼んだぞ」

 仲間たちを送り出したエミールが、リノの隣に並んだ。

 「俺たちはこのまま研究室へ向かうよ。まだ、やるべきことが残ってるからね」

 リノはそう言って、傍らに立つアグニの瞳を真っ直ぐに見据えた。

 「そうか。結局、最悪の事態になっちまったな」

 アグニもまた、リノの瞳を見返す。そこには、ただ一切の迷いを排した、鋼のような《決意》だけが宿っていた。

 「……こっから先は、俺たちの出番じゃねぇみたいだな」

  アグニはリノの肩を、景気づけるように軽く叩いた。

 「リノ。お前が決めた道だ。最後まで、せいぜい頑張れよ」

  そう言い残すとアグニは翻り、魔族たちを引き連れ、悠然と昇降機の方へと歩き出した。マテオやリリアンヌが、不思議そうにそのやり取りを見つめていた。

 「みんな、待たせてごめん。……行こう!」

 ようやくここまで来た。 遠いようで短かった、過酷な道のり。 すべての事柄が、まるで見えない糸に導かれるようにして、この瞬間に収束していく。 一行は決意を胸に、研究所の入り口へと走り出した。

第二十章 昇華(しょうか)

 白磁の如き無機質な輝きを放つ、巨大なビルディング。
 そのエントランスへ足を踏み入れた一行を待っていたのは、天界が誇る忌まわしき軍勢――純白の甲冑を纏った兵士たちの群れだった。

 「またこいつらか……!」

  マテオが双剣を構える。その甲冑からは、やはり人間らしい生気というものが一切感じられない。魔界での死闘を潜り抜けてきたリノ、マテオ、マヤの三人にとって、もはやこの「人形」たちの戦い方は熟知した範疇だった。鋭い剣閃が走り、一体、また一体と白い残像が沈黙していく。

 ふと、エミールが大剣で叩き伏せた甲冑の一体に歩み寄り、その兜を乱暴に剥ぎ取った。
 
 「……っ!?」

 露わになったのは、焦点の定まらない、虚空を見つめる男の顔。エミールはその顔を見るなり、絶句し、膝をついた。

 「エミール? どうしたのですか?」

 不審に思ったオスカーが尋ねる。エミールは震える手でその亡骸に祈りを捧げ、苦渋に満ちた声を絞り出した。

 「こいつは……俺が連絡を取り合っていた協力者だ。まさか、こんな変わり果てた姿で再会することになるとはな……」
 「……すると、他の生存者たちも」

 オスカーが痛ましげに目を伏せる。

 「この不気味な静けさから察するに……。なんとなく分かってはいたがな」

 エミールはそれ以上、言葉を続けなかった。その沈黙には、かつての戦友を奪われた怒りと、救えなかった悔恨が滲んでいた。

 一行はさらに押し寄せる甲冑たちをなぎ倒し、研究所の深部へと進む。その時、天井のスピーカーから、耳障りなほど落ち着き払った男の声が響き渡った。

 『来たか、神子よ。最上階で待っているぞ』
 「パトリック! 一体何を企んでいるのです! こんな馬鹿な真似はやめなさい!」

 姿の見えない相手に向かって、オスカーが怒鳴りつける。

 『オスカー……貴様が生きていたことには、心底がっかりさせられたよ。……この、裏切り者め』

 冷酷な一言と共に、背後のエレベーターが音もなく開いた。それはまるで、一行を最終決戦の場へと誘う巨大な口のようだった。

 「ご招待ってわけか。乗ってやろうじゃねえか」

 マテオが不敵に笑い、一行はエレベーターに乗り込んだ。パトリックによる遠隔操作だろうか、箱は他の階には目もくれず、一直線に最上階を目指して上昇を開始する。

 階数表示が上がるにつれ、リノの心臓は早鐘を打った。掌にじわりと嫌な汗が滲む。

 「リノ? 大丈夫ですか? 少し顔色が悪いようですが……」
 「……うん、平気だよ。前に……この研究所に来た時のことを思い出してしまって……」

  リノの脳裏に、かつて味わった屈辱と痛みがフラッシュバックする。その震えを止めるように、リリアンヌがそっとリノの手を握った。

 「今は、みんなと一緒ですわ」

 リリアンヌがにっこりと、太陽のような微笑みを向ける。その温かさに、リノの強張っていた心が少しだけ解き放たれた。
 やがてエレベーターが最上階に到着し、扉が開く。 降り立った先で待ち構えていたのは、一人の候補生の軍服を纏った青年だった。
 
 「ヴィダル……!」

 マテオとマヤが同時に叫んだ。二人の声に、青年――ヴィダルは驚いたように肩を揺らした。

 「……随分、久しぶりだな。子供の時以来か? 覚えているか、マテオとマヤだ」

 マヤも無言で頷く。

 「私たちは、ずっと師父とあなたのことを探していました」

  ヴィダルは言葉を失ったように、二人を凝視した。 アッシュグレーの髪、赤い瞳。彼の脳裏に、赤く焼けるような空と大地に包まれた、焦土大陸の簡素な村の記憶が蘇る。幼い頃、共に修行に励み、駆け回ったあの日々。

 「そうか……お前らは、無事だったんだな」

 ヴィダルがふと、懐かしむように目を伏せた。

 「師父のことは、リノから聞いた。……残念だった。俺たちが、もう少し早く見つけていれば……。すまなかったな」

 マテオの謝罪は、亡き両親に代わって甥に送る、心からの言葉だった。 だが、その瞬間にヴィダルの表情は一変した。心の奥底に封じ込めていた憎悪が、猛火となって再び噴き出したのだ。

 「私たちは今、シュヴァルツブルクで暮らしています。ヴィダル、あなたも一緒に……」

 マヤの救いの手を、ヴィダルは冷徹に拒絶した。

 「その必要はない」

 ヴィダルの瞳から、先ほどの懐かしさは消え失せ、底冷えするような殺意が宿る。

 「俺は、ここを訪れた者を全員殺せと命じられている」
 「何を言ってるんだ!? 少なくとも他の候補生たちは確保した。お前が戦う必要なんて、もうどこにもないんだぞ!」
 「馬鹿なことを言ってないで、私たちと一緒に下界へ降りましょう」

  必死に宥めるマテオとマヤを背に、リノがゆっくりと前に出た。

 「俺が戦う理由なら……ここにある」

 ヴィダルがそう言うと同時にリノがヴィダルの目の前で、真っ直ぐに立ち止まる。 ヴィダルは鋭い眼光をリノに突き刺した。だが、成長を遂げたリノにとって、その程度の威圧は何の脅威でもなかった。

 「この先に行きたいんだ。どいてくれないか?」

 リノはヴィダルを射貫くように見据えた。それはかつての自分を捨て、対等の敵として突きつける、事実上の挑戦状だった。 ヴィダルは全身から溢れ出る憎悪をぶつけるように、リノを激しく威圧する。 しかし、リノは微塵も動じない。 もう、あの時の弱い自分ではない。今のリノは、この醜い憎悪すら、正面から受け止める強さを持っていた。

 「ヴィダル。さっきマヤが言った通り、俺たちは今、アラン王の命に従う身だ。これが何を意味するか、お前なら分かるだろう?」

  マテオが牽制し、マヤも戦闘態勢に入る。

 「争うのは得策じゃない。何を怒っているのか知らないが、少し頭を冷やせ」
 「怒っているだと? ……笑わせるな! こんな、何もできないクズ同然の人間を守るために、俺の両親は死んだんだ!」

  ヴィダルの叫びが響き渡る。

 「使命だなんてくだらないことのために! こいつのせいで、落とさなくていい命まで失われたんだ!」
 「……お前の両親のことは、残念だった。幼いお前に過酷な負担を強いたことも、気の毒に思う」

 マテオは言葉を選びながら、静かに続けた。

 「だが、リノが生きていてくれたことで、新しい絆が生まれ、深まったんだ。シュヴァルツブルクだけじゃない、ヴァイスブルクやゲンレイ国、魔界だってそうだ……。みんなが、リノを必要としている。お前は……ちゃんとリノと向き合って、そう思うのか?」
 「向き合うだと? 順序が違う! まずは! コイツが膝をついて、地面に頭を擦りつけて、許しを請うのが先だッ!」

 ヴィダルが激高し、顔を歪ませる。 その姿に、マテオはたじろいだ。長い年月、憎しみだけを糧に生きてきた目の前の青年を、ただただ不憫に思った。今にも斬りかかりそうなヴィダルの状態に、マヤがリノを守るべく身構えたが、リノがそれを制した。

 「話すだけ時間の無駄だよ。……だってそうだろ? お前は今も、これまでも、ずっと俺を《拒絶》し続けてきたんだから」
 「世話をしてやったのに、随分生意気だな。恩を仇で返すつもりか?」

 恩着せがましいその台詞に、リノの中に静かな怒りの火が灯った。

 「恩……? 研究所で俺が意識を失うまで、殴り、蹴り続けたのは誰だよ」

 その言葉に、リリアンヌは息を呑んだ。リノの体に刻まれていたあの痛々しい暴行の跡が、他ならぬヴィダルの仕業だったことを今、初めて知ったからだ。 二人の間の溝は、もはや深海よりも深く、修復不可能なほどに断絶していたのだと理解した。

 「どうやら、今度は本当に殺されたいらしいな……!」

 ヴィダルが双剣を抜く。

 「ヴィダル! やめろ!」
 「リノ様……!」
 「みんな、ごめん。手出しはしないで。俺が……」

 リノが言いかけた瞬間、ヴィダルの双剣が空を裂き、リノに襲いかかった。 ――轟音。 リノは最小限の動きで、その一撃を的確に弾き飛ばした。 ヴィダルは一瞬、戸惑いの表情を浮かべた。急所を狙い澄ました渾身の斬撃が、易々と外されたことに焦燥を感じる。

 (馬鹿な……こいつに、そんな芸当ができるはずが……!)

 マテオとマヤは、一歩引いて静観することに決めた。

 「マヤ、分かっているな。リノが危なくなったら出るぞ」
 「はい」

 マヤは精神を集中させ、いつでも飛び込めるよう構えた。 だが、ヴィダルが全力で殺意を向けてきたことは、ある意味で好都合でもあった。もはや、彼に同情をかける余地はなくなったからだ。

 火花を散らし、激しい金属音が研究所に鳴り響く。 ヴィダルは全力を振り絞って攻撃を繰り出すが、かつての「お荷物」が、自分の剣技をすべて見切っていることに驚愕を隠せなかった。 リノには、ヴィダルの動きがスローモーションのように見えていた。かつては眩いほどに称賛していた彼の姿。だが、今は――。

 鍔迫り合いの最中、リノが冷徹に言い放った。

 「自由を手に入れたんじゃなかったのか? ……お前は今も、誰かの命令という鎖に囚われているじゃないか」

  剣技だけでなく、力そのものでも圧倒されるヴィダル。彼は歯を食いしばり、血走った目でリノを睨みつける。

 「黙れッ!」

 さらに力を込め、リノを押し返そうとするヴィダルだったが、圧倒的な実力差という現実が、情け容赦なく彼を打ちのめしていく。

 (まさか……俺が、こいつに屈するのか……!?)

 「うおおおぉおおお!」

 ヴィダルが野獣のような咆哮を上げ、全力でリノを振り払う。呼吸を激しく乱しながら、なおも追撃を試みるが、リノはその攻撃を淡々と躱し続ける。 もはや、彼に付き合っている時間はない。リノはヴィダルの渾身の一撃を紙一重で躱すと、その手首を打ち、双剣を弾き飛ばした。 無機質な地面に、剣が乾いた音を立てて転がる。

 その一瞬、リノは剣を左手に持ち替え、空いた右の拳に全身の力を込めた。

  「――っ!」

  リノの拳が、ヴィダルの顔面を真っ向から捉えた。 ヴィダルの体は宙を舞い、地面を無様に転がった。静寂の中に、双剣の落ちた音だけが虚しく響く。 リノは剣を鞘に納めると、ゆっくりと倒れたヴィダルに歩み寄った。

 ヴィダルは残った力を振り絞り、這い蹲りながら上体を起こそうとする。 リノは、そんな彼の姿を、どこか悲しげな眼差しで見下ろした。

 「……そんな目で、俺を見るなあああああ!」

  ヴィダルが叫ぶ。感情のままに暴れた代償か、彼にはもう戦う体力は残っていなかった。 かつては冷たい鉄のように超えられない壁だった青年の姿は、今やプライドをズタズタに引き裂かれ、あまりにも惨めで、脆かった。 自分を見下し、悪態をつき、拒絶し続けたその存在は、もはやリノにとって何の脅威でもなくなっていた。

 (ヴィダルは、変わらなかった。……俺は、変わった)

 リノはヴィダルに何も言わずに背を向けると、仲間の元へと戻った。

 「リノ様、お怪我は……!?」

 マヤが駆け寄る。

 「……大丈夫。さあ、聖域に向かおう」
 「聖域……」

 オスカーが呟く。

 「天界がこれまで積み上げてきた偶像とやらを、拝ませてもらおうよ」

 リノの唇から、不敵な笑みがこぼれた。

 「俺は、ここに残るよ」

 エミールが言った。

 「ヴィダルを一人にしておくのも、忍びないからな」

  茫然自失となったヴィダルを、全員が複雑な眼差しで見つめた。

 「では、リリアンヌ様は私がお守りいたします」

 マヤがリリアンヌに微笑みかける。

 「ありがとな」

 エミールはマヤに礼を言うと、ヴィダルの側に腰を下ろした。

 エミールとヴィダルを残し、リノ、オスカー、マテオ、マヤ、リリアンヌの五人は、聖域へと続く階段を上り始めた。 その階段の先に待つのは、救済の天国か、それとも絶望の地獄か――。

 *

 ヴィダルとの決着を付けた一行は、静まり返った研究所の深部、聖域へと続く階段を一段ずつ踏みしめていた。 視界に飛び込んでくるのは、目を焼くような純白の世界。壁も、床も、手すりですらも、一切の汚れを許さない無機質な白銀で統一されている。 この不気味なほどの静寂こそが、天界が誇る「秩序」の正体なのだと言わんばかりの、息の詰まるような圧迫感が一行を包み込んでいた。

 最上段に辿り着いたリノたちの前には、巨大な二枚開きの自動扉がそびえ立っていた。 これまでの実用的な扉とは一線を画す。緻密な幾何学模様の装飾が刻まれ、その中央には、禍々しいほどに純粋な光を放つ魔石が埋め込まれている。 リノたちが立ち止まると、その扉は一行を招き入れるかのように、重厚な轟音を立ててゆっくりと左右に開いた。

 ――聖域。 足を踏み入れたその空間は、まるで壁という概念が存在しないかのように、永遠に続いているのではないかという錯覚を抱かせた。 扉から少し進んだ先、威厳を放つ純白の王座の前。そこには、パトリックが待ち構えていた。 パトリックは無言のまま、冷徹な視線を一行に向ける。その表情は、こうなることのすべてを予見していたかのように、薄く歪んでいた。

 「……ヴィダルでも抑えきれなかったか」

 パトリックの声が、虚空に響く。リノは、感情を排した冷めた目で彼を見据えた。

 「どうだ? 『帰ってきた』気分は。やはり、君にはこの聖域こそが、最も居心地が良いのではないかね?」

 リノはその言葉を、ただ無視した。答える価値すらないと言わんばかりに。

 「ふっ……。やはり私の読みは間違っていなかった。君が生まれたその瞬間から、私はずっと可能性を感じていたのだよ」

 パトリックはもはや一行を見てはいなかった。王座の前を右往左往しながら、恍惚とした様子で一人、ぶつぶつと独り言を繰り返している。

 その王座には、《何か》が、ぐったりと力なく座らされていた。 リノはその姿に、見覚えがあった。以前、研究所に捕らわれ、カレルやリリアンヌと共に決死の脱走を試みた際に出くわした、あの悍ましい存在だ。 かつての威厳は見る影もなく、今や風前の灯火――虫の息といった有様だった。リノは、その《何か》の正体を、痛いほどに理解していた。

 「……あいつ、気でも狂ってるのか?」

 狂気じみたパトリックの様子を目の当たりにし、マテオが眉根を寄せてオスカーに囁いた。

 「どうでしょう……。昔から執着心の強い男ではありましたが、今の姿は異常です……」
 オスカーもまた、かつての同僚の変貌ぶりに、深い嫌悪と不審の色を隠せない。

 「パトリック! まだ生存者はいるのですか!? 候補生たちにあんな無体な仕打ちをして……もうたくさんです!」
 「いい加減、こんな馬鹿げたことはやめなさい。ヴァイスブルクから、あなたに対して正式な処罰が下される手はずになっています!」

  オスカーの叫びが聖域に響き渡ると、パトリックはピタリと動きを止めた。

 「オスカー……貴様は、何も、何一つ分かっていないな」

 パトリックは嘲笑を浮かべ、指先で眼鏡の位置を直した。

 「リノがここ、聖域に来たことの真の意味を……君はまだ知らないのだな」

 オスカーの表情が驚愕に染まる。唯一の肉親である自分ですら、最近のリノが何を考えているのか測りかねていた。それなのに、この男には分かると言うのか。

 「リノよ。さあ、こちらへ来い」

 パトリックが手を差し伸べる。 リノは何も言わず、吸い寄せられるようにパトリックの元へ歩み出そうとした。

 「待ちなさい! 一体何をする気なのです!?」

 反射的にオスカーがリノの腕を掴んだ。甥が何かに取り込まれてしまうのではないかという恐怖が、その手を震わせる。

 「……オスカー、大丈夫だよ」

 リノはオスカーの瞳を真っ直ぐに見つめ返した。だが、オスカーはその腕を離せなかった。

 「嫌です! ダメです! 私があなたのことを、どれだけ心配しているか……っ」

 オスカーの目から、大粒の涙が零れ落ちる。
 それを見たリノは、耐えきれずオスカーを優しく抱きしめた。

 「オスカー……不安にさせて、ごめんなさい。でももう……俺は、大丈夫だから」

  正直に言えば、研究所に捕らわれて以来、何に対しても過保護になってしまったオスカーに対し、鬱陶しさを感じることもあった。 だが、それはオスカーを嫌いになったからではない。彼が仲間たちの前で隠そうともせずにさらけ出す、剥き出しの親心が、少しだけ恥ずかしかったのだ。 リノは叔父の体温をしっかりと受け止めると、静かに腕を解き、再びパトリックの元へと歩き出した。

 「我が君……ようやく、ようやくこの時が……!」

 パトリックが王座の《何か》に語りかける。
 その瞬間、リノは迷いなく剣を抜き放ち、王座の《何か》を深々と貫いた。

 「おおおおおおお……ッ!!」

 聖域に、耳を劈くような咆哮が炸裂した。 その叫び声に含まれたあまりの怨念と重圧に、オスカー、リリアンヌ、マテオ、マヤの四人は、立っていることさえ困難なほどの衝撃を受ける。

 「ようやく……ようやく……《新たな神》が誕生するのですね……!」

 パトリックは歓喜に震え、その場に膝をついた。両手を合わせ、まるで好奇に満ちた目でその光景を拝んでいる。リノは剣の柄を握りしめ、自分の中に渦巻く、持て余すほどの全力を注ぎ込んだ。 王座にいた《何か》は、力を吸い取られ、瞬く間にミイラの如く乾燥し、崩れていく。 リノが剣から手を離すと、自分の両手を見つめた。 得体の知れないエネルギーが内側から膨れ上がり、まるで見えない「何か」が、自分の意思を乗っ取ろうとしている感覚に襲われる。

 「うぅ……っ。やめろ……!」

 リノは頭を抱え、激しい苦痛に膝をついた。

 「受け入れるのだ! リノ! それこそが君の運命だ!」

 パトリックが、焦れたように叫ぶ。

 「リノ!!」

 オスカーとリリアンヌが悲鳴を上げ、リノに駆け寄ろうとした。 だがその瞬間、聖域全体の重力が一変した。空気そのものが鉄板のように重くのしかかり、全員が床に縫い付けられる。

 「なんだ……これは!? 体が、動かねぇ……!」

 マテオの額から、滝のように汗が噴き出す。

 (金縛りか? 拘束魔法か? いや……これは……)
 (……『恐怖』)

 マヤも同じ直感を抱いていた。人知を超えた見えない力に圧倒され、抗うことすら許されない。

 リノの体から、眩いばかりの光が溢れ出した。

 「美しい……!!」

  パトリックが光悦の表情でその光を仰ぎ見る。

 (嫌だ! 嫌だ嫌だ嫌だ! 正気を保て、自分……!)

 内側から侵食してくる「神」という名の概念に、リノは必死に抗った。 光の渦から、金色の糸のようなエネルギーが伸び、リノの全身を繭のように包み込もうとする。リノは、懸命にそれを振り払った。

 「何故だ! 何故拒む!? それこそが選ばれた者の栄光だというのに!」
 「……俺は……《神》になんてなりたくない!!」

 リノの叫びが轟いた。 天界での非道な研究。神の力を持つ『神子』。 それらを人為的に生み出すという狂行は、要するに古い神の器を入れ替える作業に過ぎなかったのだ。 『神』という偶像を継承し、代を重ねる。この負の連鎖が続く限り、邪神は永遠に人々の生命を貪り、喰らい尽くし続ける。

 リノは、拘束されたような感覚を力任せに引き千切り、崩れかけた《何か》に突き刺さったままの剣を引き抜いた。

 「何をする気だ! やめろ!」

 パトリックの制止が耳に届く。

 (俺が……まだ、『人間』でいられるうちに……!)

 リノは、逆手に持った剣を――迷わず、自らの胸へと突き立てた。

 「リノォォォォォォーーッ!!」

 オスカーの絶叫が、聖域に響き渡った。 リノは自ら剣を引き抜くと、鮮血を散らしながら、その場にゆっくりと崩れ落ちた。

 「そ、そんな……嫌ですわ……嘘ですわ……っ」

 リリアンヌはあまりの衝撃に、腰から砕け落ちた。

 核を失い、行き場をなくした巨大な神の力が、リノの体から暴走するように放出された。 まばゆい光の奔流が四方八方へと飛び交い、天界全体を激しい震動が襲う。

 「まずい! 崩れるぞ! ここから脱出するんだ!」

 マテオの叫びと共に、聖域の壁が瓦解を始めた。
 オスカーは涙に顔を濡らし、崩れ落ちたリノへと駆け寄ろうとする。 しかし、その足元の床が無残にひび割れ、虚空へと崩落していく。

 「ダメだ、オスカー! 危険すぎる、戻れ!」

 マテオが力任せにオスカーの襟首を掴み、引き戻す。

 「リノが! リノが!」

 オスカーは狂ったように泣き叫び、手を伸ばすが、直後天井の瓦礫が目の前に落ちてくる。リノの姿は瓦礫の中に消えていく。

 「マヤ! 急いで戻るぞ!」

 マヤもまた、溢れ出る涙を乱暴に拭い、泣き崩れたリリアンヌを無理やり抱え上げた。 必死に聖域を脱出すると、途中でヴィダルを背負ったエミールと鉢合わせた。

 「どうなっている!? この揺れは……っ!」

 エミールもまた、尋常ではない事態に驚愕し、一行を迎えに来たところだった。

 「話はあとだ!」

 一行は間一髪でエレベーターに飛び込み、一階を目指した。

 エミールは、一行の変わり果てた姿を見て、ただならぬ悲劇を察した。 そして、そこにいるはずの、一人の少年の姿がないことに。

 「……何が……あった?」

  下降するエレベーターの中で、エミールが重い沈黙を破り、マテオに問うた。 マテオは顔を伏せ、搾り出すような声で答えた。

 「……リノが、死んだ」

 エミールが目を見開いた。

 一階に到着すると、揺れはさらに激しさを増していた。天界を支える魔導回路が悲鳴を上げている。

 「っく……天界も、これでおしまいか……」

 エミールが苦渋の表情で呟いた、その時。

 「エミール様!」

 ヴァイスブルクの騎士たちが、全速力で駆け寄ってきた。

 「飛行船の準備、整っております! こちらへ! 急いでください!」
 「ありがたい! 助かった!」

 整備班が死に物狂いで間に合わせたのだろう。一行は、逃げるように飛行船へと乗り込んだ。

 全員の搭乗を確認し、飛行船は天界から離脱した。 窓の外を見れば、そこには信じられない光景が広がっていた。 白銀の栄華を誇った天界が、巨大な瓦礫の山となって空から剥がれ落ちていく。 やがて、その壮大な文明の残滓は、遥か眼下の海へと、巨大な水しぶきを上げながら飲み込まれていった。

 *

 薄れゆく意識の中で、リノはこれまでの記憶を反芻していた。
 自分の人生は、果たして不幸だったのだろうか。
 ……そうでもない、とリノは思った。
 胸元で、母イヴリンの魔導器がキラリと優しく光った。

(母さん……俺のこと、生んでくれてありがとう)

 リノは、何とも言えない温かい光に包まれていた。
 まるで、幼い日に戻って母親の膝の上で微睡んでいるような、安らかな感覚。

(エリオット……。私の可愛い息子。……ずっとずっと愛しているわ)

 懐かしい声が聞こえる。
 イヴリンの細い指が、愛おしそうにリノの頭を撫でてくれた。
 この結末を選んだのは、他の誰でもない、自分自身だ。
 それは終わりへの絶望ではない。
 新しい何かが始まるための――始まりの未来への、最初の一歩。

終章

 天界が崩落したあの日から、数カ月が過ぎた。

 かつて巨大な浮島が空を覆っていた場所には、今では遮るもの一つない、吸い込まれるような真っ青な空がどこまでも広がっている。 ヴァイスブルク領からは崩落地に向けて一本の橋が架けられ、その袂には、天界で失われた多くの命を悼むための慰霊碑が静かに建てられていた。

 リリアンヌは、その白亜の石碑の前に立ち、手にした純白の花束をそっと供えた。

 視界の先、海面には今もなお、白亜のビルディングや浮島の一部が残骸となって突き出している。神の力を失ったその姿は、かつての栄華など見る影もない、無残な瓦礫の山に過ぎなかった。

 崩落直後、ヴァイスブルクの指揮のもと、シュヴァルツブルク、さらには魔界の協力まで得て大規模な捜索が行われた。歴史上類を見ない事態ではあったが、残念ながら生存者が確認されることはなかった。 いくつかの遺体は引き上げられたものの、その損壊は激しく、身元が判明しないものも多かった。そして、いくら探しても見つからない者たちもいた。

 リノ、そしてパトリック。 その二人の遺体も、ついに発見されることはなかった。 「あの状況で、生還できる可能性は限りなく低い」というのが有識者たちの一致した見解だった。

 リノの故郷であるシュヴァルツブルクでは、彼のための葬儀がしめやかに行われた。もちろん、リリアンヌもその場に同席した。 けれど、不思議なことに、あの日聖域で泣き崩れた時のような涙は、今の彼女からは溢れてこなかった。 それはきっと、彼の遺体が見つかっていないからだろう。 世界のどこかで実は生きていて、いつかまた、あの少し困ったような笑い声を上げながらひょっこり帰ってくるのではないか……。 リリアンヌは、心のどこかでそんな「希望」を抱き続けていたかった。

 天界から辛うじて生き残った候補生たちには、ヴァイスブルク王によって新しい住まいと仕事が与えられた。 彼らもまた、パトリックという狂気に翻弄された被害者だ。家族を失い、故郷という拠り所を失った若者たちの心の傷が癒えるまでには、まだ相当な時間がかかるだろう。

 ヴィダルもまた、その傷を抱える一人だった。 彼は戦いの後、ミリアやスヴェン、ビアンカといった友人たちと無事に再会することができた。しかし、積み上げてきた研鑽と自らの強さに絶対の矜持を持っていた彼が、成長したリノの前では手も足も出なかったこと。そしてエミールから聞かされた、天界の神の実態とリノの最期。 それらは彼のプライドと精神を粉々に打ち砕き、一時は食事も喉を通らないほどに衰弱していたという。 だが、彼には寄り添ってくれる仲間たちがいる。彼を慕う者たちがいる限り、いつかまた剣を取る日が来るだろうと、リリアンヌは密かに安堵していた。

 ヴァイスブルク政府は、天界の「神子」に関する事実を、歴史の闇に葬り、極秘扱いとすることを決定した。 人為的に作られた偶像崇拝。神の代替わりのために、同胞に神子を産ませ続けてきた残酷なシステム。王座に鎮座していた、神の存在――。彼もまた、かつてはリノと同じ『神子』として生を受け『神』へと仕立て上げられた、犠牲者に過ぎなかったのだ。そして、死してなお利用され続ける、遺体を使った戦闘兵器。 同じ天界人として、住まう場所こそ違えど、同胞たちがこれほどの罪を重ねていた事実は、あまりにも重すぎた。

 リリアンヌは、ふと空を見上げた。 もし、あの時。リノが自分自身の命を投げ出すのではなく、『神』となる選択をしていたら、どうなっていただろうか。 天界は滅びず、リノは永遠の孤独の中で、偽りの平和を支え続けていたのだろうか。 それでも、リリアンヌはリノを責めることはできないと思った。

 リノと出会ってから、別れの日まで。 それは決して長い期間ではなかったはずだ。なのに、思い返せばまるで長い年月を共に過ごしたかのように、その一日はあまりにも濃密で、愛おしい日々だった。

 上空を鳥たちが優雅に泳ぐように通り過ぎていく。 凪いだ海から、柔らかい風が吹き抜け、リリアンヌの髪を揺らした。

「また、会いましょう。……私はここで、ずっと待っていますわ」

 慰霊碑に最後の祈りを捧げ、リリアンヌは前を向いた。 まだ見ぬ明日へと続く道を、彼女はしっかりと、ヴァイスブルク城の方へと歩き出した。

【終焉のアヴェニール ―完―】

あとがき

 ここまでお読みいただきありがとうございます。

 まずは、昨今、テレビに限らず、漫画やアニメ、ゲーム、音楽、映画、Youtubeなど膨大なコンテンツの中から、ド素人の書いた小説を読んでくれた読者の皆様に感謝を申し上げたいと思います。貴重な時間を使って読んでいただき光栄です。

 さて、当物語については、執筆期間は2025年11月~2026年1月と約三か月程度ですが、数人のキャラクターと大まかなストーリーは7年程前から頭の中でずっと温めておりました。『まずは1作品を完結までもっていくこと』を目標にやや急ぎ足ながら書かせていただきました。当初、主人公の成長を書くつもりだったのですが、中盤あたりからなんだか思春期を拗らせてしまったような感じになっています。何はともあれ、無事完結できたことが本当に嬉しいです。

 私は元々一次創作が好きなので、頭の中にあるシナリオをいつか形にしたいとは常々思っており、普段イラストなどは描いたりはしているのですが、「漫画」となるとシーン構成&ネーム→下書き→清書→トーン貼りの工程を考えたら、自分が死ぬまでに完結できなさそうな気がしたため「小説」という形を取りました。小説なんて「魔法のiらんど」が流行ってた時代に書いたっきりです。

 プロットや時系列ガン無視で、頭にある内容をそのままポンポンと出したので、話が前後したり急に飛んだりで読みにくかった部分も多いと思います。読み手のことを考えて書いたわけではないので、そこは申し訳ありません。
 
 今後はスピンオフ作品も書けたらいいなとは思いますが、別の新しい作品も発表したい気持ちもあります。スピンオフ作品なら、オスカーとイヴリンの若き研究員時代とか、アグニとカレルの魔界での後日譚とか、カレルとレオンのゲンレイ国での話とか、書きたいものはたくさんあったりします。

 最後になりますが、改めて読者の皆様には感謝を申し上げます。本当にありがとう!
 今後も妄想と性癖には誠実にお付き合いはしていきたいと思っておりますので、また次回作でお会いしましょう。

 2026年1月 ともゆき

終焉のアヴェニール 【完結】

終焉のアヴェニール 【完結】

優しい祖父ドロテオと、冷淡な兄ヴィダルと暮らす、少年リノ。血の繋がらない彼は、家の中で常に孤独と疎外感を抱え、「独り立ちしたい、誰かを守る存在になりたい」と強く自立を願っていた。温かい家族の光景を外に見ながら、いつしか彼の心は、ドロテオやヴィダルの知らない世界へ飛び出す「自由」を渇望するようになる。そんな中、リノの唯一の理解者だったドロテオの死により、リノの“自由”への願いは、図らずも抗えない旅路へと変わる――。この旅の先に、リノが掴み取る絆と、隠された運命とは。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 冒険
  • 成人向け
  • 強い暴力的表現
  • 強い性的表現
  • 強い反社会的表現
  • 強い言語・思想的表現
更新日
登録日
2026-08-18

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 序章
  2. 第一章 家族(かぞく)
  3. 第二章 邂逅(かいこう)
  4. 第三章 舌禍(ぜっか)
  5. 第四章 自負(じふ)
  6. 第五章 決意(けつい)
  7. 第六章 試練(しれん)
  8. 第七章 再会(さいかい)
  9. 間章
  10. 第八章 危惧(きぐ)
  11. 第九章 懐古(かいこ)
  12. 第十章 哀歓(あいかん)
  13. 第十一章 断罪(だんざい)
  14. 第十二章 不撓(ふとう)
  15. 第十三章 感情(かんじょう)
  16. 第十四章 禍神(かしん)
  17. 間章
  18. 第十五章 韜晦(とうかい)
  19. 第十六章 逡巡(しゅんじゅん)
  20. 第十七章 嚇怒(かくど)
  21. 第十八章 繋鎖(れんさ)
  22. 第十九章 収斂(しゅうれん)
  23. 第二十章 昇華(しょうか)
  24. 終章
  25. あとがき