『血と沈め』
閲覧は自己責任です。本作品には残虐な表現が用いられており、未成年の閲覧を固く禁じています。
⚠持病やショッキングな内容に慣れていない方は閲覧を控えてください。
狂者
喉仏が押し潰されそうだ。何故だろうか。鼻腔を通過した水による痛みより、そちらへ意識が行く。浴槽の底に後頭部が当たる。殺したい。殺されたい。私達の利害関係は一方が達成されたなら終わるものだ。僅かに残っていた空気が口から出ていく。
元から無理強いな話だった。二人で殺し合いたい。最後は一人で殺される構図で終わりたい。これでは終われない。そう考えていた時だ。腸が振動した。排泄物の運搬運動ではない。皮膚の表面からの衝撃だった。私の喉を絞め上げていた指先から力が抜けた。
そして打って変わって優しく後頭部に指先が添えられた。次の瞬間。鼻先が冷たい空気に触れた。御湯から顔だけ出された。嫌だ。見たくない。
だが遅かった。目の前の男が下衆な笑みを浮かべているのが分かる。
「⋯⋯下手糞が」
私は毒蛇であれば唾を吐きかけてやりたかった。そうしたなら、この男から激痛に苛まれる顔が拝めたかもしれない。いや駄目だ。興味が湧かない。やはり辞めておこう。それよりも腹痛を取り除きたい。早く抜いてしまおう。
けれど指先に力が入らない。痺れていた。湯に沈められる前は平気だったというのに、一体何が起きているというのだ。
「駄目ですよ、ちゃんと見てください」
五月蠅い。アドレナリンが切れたらどうするのだ。その文句が口から出ない。思ったより酷い状態のようだ。粘つく液体が胃から口腔内へ逆流してくる。吐きそうだった。
「ほら、お腹の血。綺麗でしょ?」
「巫山戯んな⋯⋯」
口を開いた途端。食道を突破したそれを受け止めて飲み込むのは無理だった。男が背中に腕を回してきた。私は死にたくなかった。反射的に相手のワイシャツの胸元を引っ付かむ。濡れている。爪とシャツの繊維が擦れる音を立てる。男の腕が私の上半身を起こし上げた。
そして吐き出した。男のワイシャツには赤い染みが生まれた。俯いたせいで湯船にも何滴分か垂れた。生憎の話。腹部に刺さるサバイバルナイフの刃周りから漂う赤黒い流れの線には及ばない量だった。
「わあ! 痛々しい! これ抜いたらもっと出そうですね?」
どうする。そう言わんばかりの目線で男が見てくる。私の気持ちを酒の継ぎ足し程度にしか思わない目だった。
「⋯⋯抜けばいい。もうそれでっ、終わりに⋯⋯すれば、いいだろっ」
唇が上手く動かせない。言葉が下手に区切られる。嫌な気分だ。
「ええ? もう終わりにしちゃうんですか? せっかく俺達、こうして出会えたんですよ?」
嘘つき。詐欺師。私は刃物を使わなかった。約束を破ったのは男の方だ。言葉で噛みつく気はある。
しかし喉元で血が泡吹く。
「だって、運命だと思いません? 殺人鬼同士が罪悪感から、心中しようとしてるだなんて。それもお互い殺し合ってるのに? 最後は一人で死にたいだって」
男が私の顔を下から覗き込もうとした。とんだ馬鹿だ。男女二人が密着する浴槽内。何より私の身長がその構図に対応できるわけがない。私は北叟笑んでやった。
「⋯⋯小さい、本当にただの女の子だ」
男の呟きが風呂場に反響する。
「こんなに小さいのに、俺のこと殺そうとしてくれてたんですね」
また馬鹿にされている。確実にされている。私には分かっている。この男の本性は醜い。私と同じ。或いはそれ以上の異常を人肉で覆っている。擬態の上手いことだ。もう少し早く出会えば感心していたかもしれない。
とはいえ横隔膜が痙攣を始めている。それどころではない。
「ああっ⋯⋯っ、く⋯⋯」
気道にまで痙攣が差し掛かっている。このまま死ぬのならば口呼吸をするべきか。私の思考がより早く回る。
「ん? なにしてるんですか?」
男のことは無視だ。絞り出せる力の限りでシャツを握り込んだ。瞬時に空気を口に含み噛み締める。味はしない。そもそもするのだろうか。瞬間の疑問は他所に置く。あとは飲み込むだけだ。
「ああ! もう! ほら、吐き出して。喉詰まって死んじゃいますよ!」
男の言う通りだった。元々それを狙っての行動だった。空気の塊が舌によって喉へ押し込まれる。
とはいっても、閉じ気味の咽が無理に抉じ開けられる圧に耐えられるはずがなかった。胸骨を内側から押し退ける塊がある。痛む。私のせい。体からの悲鳴が止まない。咳き込むしかない。視界が滲んでいく。今はどんな面になっているのだろうか。
「⋯⋯そんなに一人で死にたいんですか?」
当たり前だ。死にたいからここに来た。男と車内で話したことだった。あの時、私は殺すつもりでいた。最初から死ぬつもりがなかった。募ったのはただの自殺志願者だ。殺人鬼が来るなんて想定外だった。
「あんなに誘っておいて、酷い人ですね」
その言葉を男に跳ね返してやりたい。きっと良く跳ねるはずだ。
「俺に殺されたいんでしょ?」
違う。私は男に殺されるのではない。
「もう、返事も面倒くさいですか?」
男が何か喋っている。それを耳鳴りが邪魔をする。
「なら、仕方ないか」
男の顔が近づいてくる。もしやサバイバルナイフを抜く気になったのだろうか。
「御湯、冷めてきちゃいましたね。追い焚きしましょ」
私の顔を過ぎていく指先。その指でサバイバルナイフを抜けるだろう。その願望はほんの前に伝えたはずだろう。パネルのボタンが押される。短い音だ。次に女のアナウンス声が耳骨を震わせた。憎らしいまでに明るく聞こえる声だった。
「さてと」
それに続いて男の声もした。私の視界は膜が薄く張り始めている。不鮮明な赤色。それだけが広がっている。もう時間が無い。サバイバルナイフによる刺突で失血死。望む形ではなかったがそれでも良い。終わりが来るのなら、全て良しとしよう。男の動く気配はしているが、もはや数秒で私の意識を飛ばすのは難しいことだ。仕方がない。妥協してやる。だから死なせろ。私の瞼が緩やかに下りていく。このまま眠りにつこう。後は流れに身を任せるだけで良い。やがて視界が暗転する。
その刹那だった。私の首が圧し折られる勢いで後ろへ傾いた。喉奥が無理矢理に閉塞される。骨から頭皮が僅かに浮いたような気さえした。
「あ! 目、開けてくれたんですか?」
息が出来ない。男の陽気な声だけが聞こえる。まさか。脳裏が車内での出来事で埋め尽くされた。私と男は初対面だった。だから話し合う時間を設けた。自分がどういう人間か。どんな殺し方をしてきたのか。突如として腹の底が冷えていく。
男は私の殺し方を知っている。それに気がついた瞬間。靄の掛かる視界で何かが蠢いた。
「やっぱり、一人で死ぬのって寂しいですもんね?」
這っている。男の指先がサバイバルナイフの刃周りをなぞっている。その感触を間違う理由がない。
「これ、抜きたいんでしたっけ?」
背筋に冷気でも通ったか。私の体が芯から震えた。
「どうします?」
死が目前になった。喜ばしいことじゃないのか。未だ私の脳内で警鐘が止まない。サバイバルナイフを抜いた後、この男がただ見守るなんてことがあるのか。無い。駄目だ。頭が良く回らない。酸素が足りない。口が中途半端に開閉しようと動く。私の意思ではなかった。それに男が笑った。
「その動き、可愛いですね⋯⋯あ、もしかして、誘ってるんですか?」
顔の産毛が瞬時に逆立つ。男の吐息が鼻先を掠めていた。肌の感覚が生きている今、一層に生々しさを覚える。この上ない嫌悪が湧き上がってくる。
「⋯⋯最後、ですもんね?」
全てが歪んで見える。男の輪郭は完全にぼやけていた。下手糞な喉笛のような呼吸もいずれは止まる。男が私を真似る暇はない。
確信を抱いた瞬間。男の姿が不意に視界から消えた。私の心がざわつく。
「でも、一人で死んじゃうのは狡いですよね?」
男が動いたせいか。湯船が揺れていた。小さな波が私の胸元に到達する。途端に腹部から熱を感じた。傷口の内側に湯が染み入った。空いた穴を肉同士が締め付け合う。そこに鋼の硬さを感じられない。私の体からその感触は消えていた。
「ゔぁ⋯⋯ぐ、ぁっ⋯⋯!!」
喉元から潰れた空気が這い出て行った。遅れて鼻腔が反応を示した。乾きかけていた血の匂いにだ。盲点だった。私にはまだ呼吸の通り道が残っている。忌々しい。土壇場で駄目な点にばかり意識が向く。車内での話し合いの時もそうだった。油断して全てが台無しになった。
「あれ? もしかして、まだ喋れる感じですか?」
雑音が耳を塞ぐ。私の心臓が力強い拍動を生み出している。何故、肉体は生きることを諦めないのだ。疼痛と苦渋を押し付けられている。この状況を脳が理解してないと言いたいのか。腹の底から堰き止められないものを感じる。指先の感覚が薄れている中。男のシャツを確かに強く握り締めていた。
「大丈夫ですよ、ちゃんと殺してあげますから」
それは出口を求めて這い上がってくる。小鼻が小刻みに震えた。呼吸がしたい。瀬戸際まで生に縋ろうとする本能が稼働している。駄目だ。生と死の狭間。調和の取れない誘惑に意識が向く。間がなかった。離れていこうとする。肉体と精神が。痛みさえも。掴めない。私は死ぬのだろうか。嫌だ。このような死に方は何一つ合っていない。全部。太腿を割って居座る此奴のせいで。
「全部、吐き出していいんですよ?」
閉塞気味の喉が内側から押し広げられていた。口腔と鼻腔に広がる鉄の風味。反射と言うべきか。勢いを殺さないそれを出す。その目的だけで首を動かそうとした。鉛でも詰め込んだような重たさだった。口端から力が抜ける。
一瞬だった。唇を抉じ開けて入ってくるものがあった。思わぬ衝撃が瞼を押し上げる。濁った視野で膚色らしきものが映った。中咽頭を突破した血液が口内へ広がっていく。味わうかのように。その柔らかな肉塊が私の口内を嘗め回していた。私の舌根が喉奥に押し込められていく。絡まる舌先の痺れ。出口を求め彷徨う血の波。それが男によって返される。真っ先に思い浮かんだ。もう引き剥がせない。着実と血は溜まっていく。私を殺しに掛かっている。冷たい。追い焚きをし忘れたのではないか。怖い。死にたくないのか。離して。下劣な男だ。貴女は死にたがり。殺人鬼。
だから良かった。視界の端が黒波に呑まれる。くぐもった男の声と共に。静かに。私の意識を沈めていく。底から囁く声。俺も人殺しなんですよ。体の痛みが抜けていく。心臓の音も。私も。全てが。やがて光が一筋になる頃。意識が沈み始めた。ゆっくりと。血と共に。
『血と沈め』
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