あなた方の中の「私」

理解という名の独り芝居

「私の原点にある『命の重さ』や『倫理観』を再解釈し――」

 その一文を拝読した時、わたくしはしばらく、その意味を理解することができませんでした。

 わたくしの原点。

 さて、それをいつ、どなたにお話ししたのでございましょう。
 どこにも書いた覚えはございません。
 少なくとも、あの方々に語った記憶など、わたくしには一切ございませんでした。

 にもかかわらず、先方の文章の中には、すでに立派な「わたくしの原点」が用意されていたのでございます。

 命の重さ。
 倫理観。

 まことに結構なお言葉でございました。
 反省文の体裁を整えるには、さぞ使い勝手のよい言葉でもあったことでしょう。
 ただし残念ながら、それはわたくしが語った言葉ではございません。

 先方が、ご自身の都合に合わせてお作りになった言葉でございます。
 先方は、わたくしを理解なさったのではありません。
 ご自身にとって理解しやすく、扱いやすい形へ、わたくしを作り直されたのでございます。

 人は、知らない相手を前にすると、空白を埋めずにはいられないものらしゅうございます。
 何も分からないままではご不安なのでしょう。相手の言動をいくつか拾い、それらを都合よく結び合わせ、もっともらしい人物像を一人、完成させるのでございます。

 この人は命を大切にする人だ。
 この人は強い倫理観を持っている。
 この人の創作の原点は、きっとそこにある。

 そう決めてしまえば、理解した気分にはなれます。

 けれど、それは理解ではございません。
 推測と呼ぶにも値しません。
 本人が何も語っていない空白へ、ご自身の想像を書き込んだだけでございます。

 つまり、創作でございます。

 しかも、本人を勝手に素材へ仕立てた創作でございます。
 名義を使用したことへの反省を述べながら、その文章の中で、今度はわたくしという人間そのものをお作りになっていた。

 わたくしの思想を作り、倫理観を作り、最後には原点までお作りになった。
 そして、そのご自分で作った人形を前に、

「私という人物を理解しました」

 とでもおっしゃりたげなお顔をなさっている。
 まあ、何ひとつ変わっておりませんこと。

 先方がお作りになった「わたくし」は、さぞ扱いやすい人物であったのでしょう。

 命の重さを知る人。
 高い倫理観を持つ人。
 創作に誠実な人。

 ですが、彼らが求めた「わたくし」は、それだけではございませんでした。

 くだらない馬鹿話しか語らないわたくし。
 何を言われても笑いへ変え、深刻なことには触れず、ただ周囲を楽しませ続けるわたくし。
 しかも、その「くだらない馬鹿話」が、どれほどみっともなく、情けなく、馬鹿らしい自分自身をさらけ出しているのかも、何ひとつご存じないままに。

 わたくしが真面目な話をすれば、彼らはそれを「真面目発作」と呼んでお笑いになりました。

 あれは、普段との落差を面白がっただけの言葉ではございません。
 真面目なことを語るわたくしを、例外として片づけるための言葉でございました。
 一時的な発作であり、やがて収まり、また馬鹿話だけをする便利なわたくしへ戻るのだ、と。

 つまり、彼らが欲したのは、「くだらない馬鹿話しか語らないわたくし」でございます。
 笑わせる時だけは歓迎し、真面目なことを語れば「らしくない」と元の場所へ押し戻す。
 彼らにとって都合のよい囲いから、わたくしが一歩でも外へ出ることなど、最初から許されてはいなかったのでございましょう。

 そう定義してしまえば、先方はご自身の失敗を、

「その理念を十分に理解できなかった」

 という、たいそう聞こえのよい物語へ置き換えることができます。

 ですが、本当の問題はそこではございません。
 問題は、先方がわたくしを理解できなかったことではない。
 理解してもいないのに、理解した者の席へ勝手にお座りになったことでございます。

 知らないのであれば、知らないとおっしゃればよかった。
 分からないのであれば、分からないとお認めになればよかった。
 本人が語っていないのであれば、勝手に補わなければよかったのでございます。

 ところが先方は、その空白を空白のまま残しておくことができなかった。
 なぜなら、空白のままでは「反省したご自分」という完成品を仕上げられないからでございます。

 そこで先方は、わたくしの原点をお作りになった。
 ご自身が反省できるように。
 ご自身が学んだと言えるように。
 そして今後も、わたくしの名やキャラクターを扱えるように。

 すべて、先方にとって都合のよい形でございます。

 わたくしの原点が何であるかは、ここでは申し上げません。
 申し上げる必要もないと考えております。
 それは、先方の反省を成立させるために必要な情報ではございません。
 わたくしの過去は、先方が正しい謝罪文を書くための参考資料ではないのでございます。

 わたくしが何を見てきたのか。
 誰を失ったのか。
 何を悔やみ続けているのか。

 それらを説明すれば、先方は次に、こうおっしゃるのでしょう。

「理解しました」
「学びました」
「その経験を踏まえて、今後は――」

 いいえ。
 そういうことではございません。
 理解できるかどうかを問うているのではない。
 理解したふりをなさらないでください、と申し上げているのでございます。

 人は、他人のことを完全に理解することなどできません。
 それ自体は、責められるようなことではございません。
 わたくしとて、他人のすべてが分かるなどとは申しません。

 だからこそ、本人が語っていない部分には線を引くのでございます。

 勝手に意味を与えない。
 勝手に物語を作らない。
 分からないものを、ご自分に分かりやすい言葉へ作り替えない。
 それが最低限の礼儀というものでございましょう。

 ところが先方は、その線を越えられた。
 しかも、ご自身が線を越えたことを反省する文章の中で、もう一度、同じ線を越えられたのでございます。

 名義を使った。
 キャラクターを使った。
 思想を使った。
 そして今度は、原点を使った。

 先方が向き合っているのは、最初からわたくしではございません。
 先方の頭の中にいる、先方にとって都合のよい「わたくし」でございます。

 その人物であれば、理解できる。
 その人物であれば、謝罪できる。
 その人物であれば、再解釈できる。
 本人の意思を確認する必要すらない。
 なぜなら、それは先方ご自身がお作りになった人物だからでございます。

 「原点を再解釈する」

 その言葉には、本人の原点を知っているという前提がございます。

 けれど、先方は何もご存じない。
 知らないものを再解釈することなど、できるはずがございません。

 できるのは、新しく捏造することだけでございます。

 つまり、その一文が示しているものは反省ではございません。
 ご自身がお作りになったわたくしの姿を、これからもご自身の解釈で扱い続けるという、実に丁寧な宣言でございます。

 そこに、わたくしの意思はございません。
 わたくしの言葉もございません。
 あるのは、先方が必要とした「わたくしの姿」だけ。馬鹿話だけを語り、真面目な声を上げれば「発作」として処理できる、たいそう扱いやすいわたくしでございます。

 わたくしは、自分を理解してほしいとお願いした覚えはございません。
 原点を知ってほしいとも申しておりません。
 ただ、知らないことを、知ったようにお語りにならないでくださいと申し上げているのでございます。

 ご自身の想像で、わたくしを補わないでいただきたい。
 ご自身の反省を成立させるために、わたくしを作り直さないでいただきたい。
 わたくしは、あなた方の物語の登場人物ではございません。
 まして、あなた方が反省したことを証明するための装置でもございません。
 その程度のことすらお分かりにならないのであれば、どれほど立派なお言葉を並べても、何の意味もございません。

 命の重さ。
 倫理観。
 原点。
 再解釈。

 どれも、たいへん美しい言葉でございます。
 そして美しい言葉ほど、ご本人の姿を覆い隠すには便利なものでございます。
 言葉の向こうにいる本人を見ず、ご自分でお作りになった人形へ語りかけている限り、先方のお言葉がわたくしへ届くことは、永遠にございません。

 もっとも。

 最初から、わたくしへ届かせるおつもりなどなかったのかもしれません。
 彼らが見ていたのは、笑わせるためのわたくしであり、ご自分たちの理解を証明するためのわたくしでございました。
 先方に必要だったのは、理解することではない。わたくしが、わたくし自身の言葉で語ることでもない。
 必要だったのは、馬鹿話しか語らないわたくしと、「理解したご自分」を完成させることだったのでございましょう。

 まあ。
 ずいぶんと手の込んだ独り芝居でございますこと。

あなた方の中の「私」

あなた方の中の「私」

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-08-03

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