百合の君(120)
目を瞑った珊瑚は、しかし生きていた。目を開いて見ると、守隆の甲冑の後ろ姿があった。守隆自身が斬られる紙一重の所で、天蔵の刃を受けている。その姿を見た時、珊瑚は不覚にも安堵した。侍として己の心を恥じた珊瑚は、叫んだ。
「退け、守隆! 助太刀などいらぬ!」
しかし、一騎打ちで勝ち目のない事は、もはや嫌と言うほど解っていた。声も上ずっていて、雄々しいとか、腹の底からとか、大音声とか、そのような言葉が相応しいものではなかった。珊瑚の鏡である守隆は、当然それを察し、主を傷つけぬよう言った。
「珊瑚様、ここは一度退きましょう」
その声から、守隆も天蔵と渡り合うのは難しいと感じていることを、珊瑚は知った。そして、先程の天蔵の言葉を思い出した。やはり、喜林義郎の後継者に相応しいのは、この男なのだろうか。
ふと、養父、出海浪親の顔が浮かんだ。何度も見た失望の眼差しだ。父上もさぞお怒りであろう、と珊瑚は思った。
「誰だお前はー」
天蔵は相変わらず何を考えているのか分からない。
「お早く!」
守隆の叫びを合図に、川照見の兵たちが天蔵の前に立ちふさがった。顔も知らぬ、身分卑しい者共に負けた姿を晒したことで、珊瑚の誇りが傷ついた。そして、そのような事をあえてする守隆の心を知った。守隆は、体勢を立て直すために退けと言っているのではない。首級を敵に渡さぬために、退けと言っているのだ。
乗っているはずの馬も、重い甲冑も、すべてなくなった。暗い、冷たい穴に落っこちた感覚があった。その感覚を吞み込んだ時、これは、と珊瑚は思った。これは、今までの戦で、幾万の将兵が吞み込んで来たものと全く同じだ。色も、形も、味も、構成だけでなく存在する時間さえも。誰にともなく頷いて、珊瑚は後退した。
百合の君(120)