その棚だけが世界ではない
創作論という小さな王国の外で
その棚だけが世界ではない
「言いたいことはわかります」
そう前置きしてからでないと、たぶん届かない話があります。
物語を書くなら、物語を読むべきです。
映像を作るなら、映像を見るべきです。
娯楽を届けたいなら、娯楽を学ぶべきです。
それ自体は、間違っていません。
たぶん、かなり正しいです。
けれども、そこで一つ問いが残ります。
それは本当に、「小説」や「映画」でなければならないのでしょうか。
人間を書くために読むべきものは、物語だけなのでしょうか。
価値観の衝突を知るために見るべきものは、フィクションだけなのでしょうか。
指揮する者と従う者、勝つ者と負ける者、信じるものが違う者同士の断絶を描くために必要な教材は、「娯楽作品」という棚にしか置かれていないのでしょうか。
ある将軍の回想録には、本人が見た人間がいます。
敵味方の区別だけでは片づかない表情があります。
同じ時代を生きながら、まるで違うものを見ていた者たちの距離があります。
ある災害の記録には、群衆がいます。
正気を失った人間がいます。
恐怖の中で、噂が刃物になる瞬間があります。
誰か一人の悪意ではなく、空気そのものが人を押し流していく様があります。
ある軍制の歴史には、国家と職能の衝突があります。
理屈と激情の衝突があります。
誇りと命令が噛み合わなくなる瞬間があります。
ある鉄道の専門書には、安全があります。
事故があります。
法があります。
「便利」や「感動」の裏側で、どれだけの前提が積み上げられているかが書かれています。
それらは、娯楽作品ではないかもしれません。
けれど、人間を書く材料ではないのでしょうか。
朝早く起きます。
出勤前に書きます。
昼休みに書きます。
帰り道に書きます。
寝る前に書きます。
そうやって小説を書く人がいます。
それは偉いことです。
継続しているのなら、なおさら偉いことです。
けれど、それを見て、少しだけ思います。
――ええ環境やね。
皮肉ではありません。
いや、半分くらいは皮肉かもしれません。
世の中には、勤務時間中に「次の展開」を考えられる仕事もあるのでしょう。
昼休みに原稿を開ける余裕もあるのでしょう。
帰宅後に、ただ机へ向かえる生活もあるのでしょう。
ですが、そうではない人間もいます。
朝、まだ暗いうちに起きます。
ゴミを出します。
洗濯をします。
出勤します。
そして仕事に入れば、そこにあるのは「小説」ではありません。
他人の命を預かる仕事です。
その時間に、物語の続きを考える余裕などありません。
あってはならないことです。
だから、「自分はこうやって書いている」という話まではいいのです。
それはその人の生活であり、その人の工夫であり、その人の戦い方です。
しかし、それをいつの間にか一般論にされると、話は変わります。
「本当に書きたいなら書けます」
「自分が読みたいものを書けばいいのです」
「書きたくない日は一日もありません」
「読書しない小説家の作品を誰が読むのでしょうか」
言葉としては、きれいです。
正論にも見えます。
ですが、その正論は、どこまでの人間を想定しているのでしょうか。
書きたいものがあっても、生活に削られる人間がいます。
読んでいる本が、小説ではない人間がいます。
「読書」と言われて差し出すものが、娯楽小説ではなく、事故史であり、戦史であり、鉄道史であり、法律であり、技術書である人間がいます。
それは読書ではないのでしょうか。
物語を作るために読む本が、必ずしも物語である必要はありません。
人間を書くなら、人間を読みます。
組織を書くなら、組織を読みます。
事故を書くなら、事故の記録を読みます。
安全を書くなら、安全が失われた記録を読みます。
そこにあるのは、娯楽だけではありません。
血の跡であり、判断の失敗であり、責任の所在であり、誰かが戻らなかった後に残された言葉です。
それを読んでいる人間に向かって、
「読書をしない小説家が」
などと簡単に言われても、困ります。
あなたの言う読書とは、何でしょうか。
小説だけでしょうか。
Web小説だけでしょうか。
流行っているジャンルだけでしょうか。
ランキングに乗るための燃料だけでしょうか。
学問は役に立ちます。
政治学も、歴史も、軍事も、鉄道も、法律も、地域の本も、全部どこかで物語の地面になります。
必要になってから慌てて調べることもあります。
けれど、先に読んでいたものが、あとで突然、足場になることもあります。
勝敗だけを見れば、試合は一行で終わります。
勝ちました。
負けました。
ですが、その過程を見れば、そこには采配があります。
迷いがあります。
なぜそこで代えたのでしょうか。
なぜそこで動かなかったのでしょうか。
今、あの人間は何を考えているのでしょうか。
それを考えることもまた、人物を見る訓練ではないのでしょうか。
だから、本当に問うべきなのは、
「小説家は読書をしているか」
ではありません。
「その人間は、何を読んで世界を見ているのか」
です。
そしてもう一つあります。
創作論を語るとき、人はなぜか急に宗派の代表者みたいな顔になります。
「もっと読みましょう」
「もっと見ましょう」
「感性を磨きましょう」
「学ばない者は生き残れません」
「作家とはこうあるべきです」
「読者とはこうあるべきです」
「市場とはこういうものです」
言っていることはわかります。
読めばいいのです。
見ればいいのです。
学べばいいのです。
市場を読むことも、読者を楽しませる努力も、否定する気はありません。
ただし、それを「この棚からでなければならない」と決めた瞬間、創作論は急に痩せます。
人間は、小説の中だけにいるわけではありません。
映画の中だけにいるわけでもありません。
戦場にもいます。
災害の中にもいます。
会議室にもいます。
駅にもいます。
球場にもいます。
法律の条文の隙間にもいます。
事故報告書の行間にもいます。
そこから拾ったものを、物語に変える者もいます。
誰かの蔵書は、誰かの履歴です。
誰かの資料棚は、誰かの傷口です。
誰かの読書傾向は、誰かが世界を見るために拾い集めた測距儀です。
それを見ずに、感性だけを疑えと言うのなら、たぶんその言葉は、相手の感性ではなく、自分の視野の狭さを証明してしまいます。
朝五時に起きて書ける人は、書けばいいのです。
通勤中に書ける人は、書けばいいのです。
自分の作品の第一読者でいられる人は、その幸福を大切にすればいいのです。
ですが、それを旗にして、他人の背中を叩いてはいけません。
書ける時間も、読める本も、抱えている現実も、人によって違います。
その違いを見ないまま語られる創作論は、ただの小さな王国の憲法でしかありません。
その王国の中では正しいのでしょう。
信じる者たちには、美しく響くのでしょう。
ですが、こちらはそこに住んでいません。
こちらにはこちらの棚があります。
こちらにはこちらの勤務があります。
こちらにはこちらの現場があります。
こちらにはこちらの傷があります。
こちらにはこちらの、書かなければならない理由があります。
そして、ここまで講釈を垂れておいて、自分自身の創作動機を語らないのも、少し卑怯かもしれません。
私の創作動機は、たいそう立派なものではありません。
「金がかからない」
まずは、この一点です。
苦笑する人もいるでしょう。
嘲笑する人もいるでしょう。
呆れる人もいるでしょう。
別に構いません。
私が逆の立場なら、同じような顔をしたかもしれません。
けれど、そこで問いたくなるのです。
創作動機の清純さとは、いったい誰が証明してくれるのでしょうか。
役所でしょうか。
上司でしょうか。
隣人でしょうか。
最高裁でしょうか。
それとも、もっと厳密に、原器か時計でも持ち出しますか。
たぶん、誰にも証明できません。
「何かを書きたかった」
「何かを作りたかった」
「ここではないどこかに、自分の言葉を置きたかった」
結局、そこが始まりなのではないでしょうか。
そのあとに、読者のため、市場のため、自分が読みたいもののため、誰かを楽しませるため、という言葉が付け加えられることはあります。
それは否定しません。
大切なことです。
けれど、それを掲げた瞬間に、自分の動機だけが清純になり、他人の動機だけが不純になるのだとしたら、それは創作論ではありません。
ただの自己正当化です。
綺麗事に包まれて、お花畑で踊るような創作もあるのでしょう。
それはそれでいいのです。
そういう場所を必要とする人もいるのでしょう。
ですが、私が書く場所は、たぶんそこではありません。
こちらは塹壕です。
泥があり、傷があり、過去があり、怒りがあります。
笑いながら書く日もあれば、のたうち回りながら書く日もあります。
それでも原稿用紙に向かいます。
それでも製図用鉛筆を持ちます。
それでも、言葉を置きます。
清純な動機か、不純な動機か。
そんなものは、誰にも測れません。
ならば、不純の烙印を押されても、私は書きます。
怒りで書く者もいます。
記録として残すために書く者もいます。
誰にも読まれなくても、書かなければならない者もいます。
市場にないものを書く者もいます。
自分の棚にしか置かれていないものを、どうにか言葉に変えようとする者もいます。
そして、そういう者にとっては、
「読者のため」でも、
「自分が読みたいから」でも、
「流行に乗るため」でもありません。
ただ、見なかったことにされたものを、見なかったことにしないために書きます。
創作論は、宗派論争ではありません。
少なくとも、そうであってほしいです。
その棚だけが世界ではない