百合の君(117)
山の中は暗く、寒かった。足音と武具の擦れる音に混じって、時おり積もった雪が枝葉から落ちるのが、遠い別世界で起こっている事のように聞こえて来た。義郎は焦っていた。このままでは戦が始まってしまう。馬は細く踏み分けられた道を、ゆっくり、崖でも歩くかのように進んでいる。熊笹の葉に乗った雪が時折弱い日の光を反射するのが、今まで殺めた幾万の魂のように眺められた。兵達はみな疲れている。頬はやせ落ち、まるで自分の軍ではなく黄泉からの使者のようだ。
義郎が二人の女と木怒山からの文を受け取ったのは、二日前だった。木怒山は喜林のために出海を討つと言ってきたが、二人の女はその陰謀を暴いた。
義郎は歓喜した。やっと迷わずに済む。出海浪親を倒してから、義郎はずっと迷っていた。それまでは明らかに自分の人生を損ねた人間がいて、その者を倒すという明確な目的があった。
しかし、浪親を斬首し、それでも人生が戻らないことを確認してしまった後では、何をすればいいのか分からなくなった。
生まれ卑しく学もない義郎は、自分には武芸しかないと分かっている。木怒山に向生館で教わったことは、それに尽きると言ってもいい。義郎は、その武力を通じてしか他者と交われない。
しかし、もう喜林に逆らうような敵はいない。珊瑚の出海はもはや義郎の敵ではない。
天下統一を目前にして、木怒山が裏切ってくれるとは!
もしかすると、この時ほど義郎が木怒山を高く評価したことはないかもしれない。義郎はすぐに戦支度をし、国境の山越えを始めた。が、甘かった。正巻地方にはめずらしく何日も降り続く雪は軍の行く手を阻み、兵達はもちろんのこと、超人的な義郎の体力をも奪い始めていた。
また遠くで積もった雪の落ちる音がして、振り返ると、揺れる枝がきらきらと輝く雪を散らしていた。まるで目に見えない大きな鳥が飛び去ったかのようだ。
雪の薄絹の向こう、義郎は我が目を疑った。あの山小屋が、二十六年前のちょうど今頃、出海浪親に穂乃を奪われた、あの山小屋が、あの時のまま建っていた。
平地にぽつんと立っている禽堂矢城は、要塞というよりは見晴台だ。こんな城を与えるなんて、出海浪親が珊瑚を遠ざけていたという噂は本当なのだろう。思えばかわいそうな男だ。ひとりの父には疎まれ、いまもうひと方の父の軍に滅ぼされようとしている。
輝は、幼い自分をかばおうとして死んだ母を思い出した。そういえば、この雪景色はふるさとにそっくりだ。
しかし、追憶は長く続かなかった。元々、輝は感傷的な性格ではないし、目の前の城にいる哀れな子は、ただの子ではない。敵の大将だ。
その哀れな子のおかげで、俺が立派な父になろうとしている。己に言い聞かせるように、わざと言語化して、ほとんど口に出して輝は思った。この戦で手柄を立てれば、あざみも旬も幸せにしてやれる。
その考えは輝にとって、皮肉でもなんでもなかった。世のあらゆるものが有限である以上、他の者から奪わないと子を養えないのは、当然のことだ。乱世はもうじき終わる。殿(木怒山)は、喜林への忠義のために真津太を攻めると仰せであった。天下が治まれば、大きな出世の機会はなくなってしまう。
敵の城は、輝の手の内に収まってしまいそうなほど小さく、雪に覆われ佇んでいる。輝の故郷では、厳しい冬を越すために、子を捨てる親がたくさんいた。
百合の君(117)