百合の君(116)
雪はしんしんと降り続いていた。真綿の帽子をかぶった上嚙島城の厨房は、にわかに忙しくなった。常に米が炊かれ、充満する蒸気はあざみに雪も寒さも忘れさせたが、それが意味することは決して暖かいことではないのをあざみは知っていた。もうじき、戦が始まる。
仕事は山積みだと言うのに、輝を想うと手が止まりがちになった。輝も、出陣するのだろう。夢は、いつまでも醒めずにはいられない。輝との関係に決着をつけなくてはいけない。あざみは、目の前をほうれん草が滑ってゆくのを眺めていた。まるで月に向かう蛾の群れのように、次から次に葉を広げて飛び立ってゆく。
次に逢った時、すべてを打ち明けよう。夫を亡くしているということ、子供がいるということ。若い輝に受け入れられるだろうか。
単調な作業を繰り返すその手のように、あざみの思考も同じところを行きつ戻りつしていた。時々、もう戦が始まっていて、今にも城が焼け落ちるのではないかと思ったが、周囲の緊張は緊張のままで、ゆるみも切れもせずにいるのが、あざみにはよそよそしく感じられた。
昼休憩はなかった。夜になって、あざみは帰り際にこっそり手を引かれた。一瞬驚いたが、すぐに輝と分かった。朝の決心を思い出し、まだ治まっていなかった鼓動が、さらに速く、強くなった。輝に聞こえてしまうのを、あざみは恐れた。どれだけつらくても、これだけは自分で言わなくてはいけない。
あざみは輝の言葉を待った。遠くの篝火が、わずかに輝の若い顔を照らしていた。手がその頬に伸びるのを抑えるために、あざみはそっと深呼吸した。白い息が輝の胸に伸びて、まるで魂が愛しい場所に向かって抜け出てしまったかのようだ。
長い一瞬の後、輝が口を開いた。雪の結晶のように新鮮で誇り高い声が、あざみの暗い耳孔に詰まった。
「明後日出陣する。手柄を立てて、帰って来る」
意味と声が分離してしまって、あざみは輝の目を見つめた。射るように真っ直ぐな視線が、ようやくその発言を翻訳した。
早すぎる、とあざみは思った。そして、夫を失った時を思い出し、またあんな思いをするのかーー思った瞬間、真っ暗になった。体が硬直した。呼吸をしていることが不思議なほど、体のどこも動かなかった。いや、息も止まっていたかもしれない。
あざみの様子を察して、輝が優しく、強く言った。
「絶対に戻って来る」
ほつれてバラバラになってしまいそうなその言葉をつなぎとめるために、あざみには、再会を信じる必要があった。そして、ここで何も言わず別れては、その時に会わせる顔がないと思った。あざみは、ほとんど睨むような勢いで輝の目を見返した。
「話したいことがある」
「なんだ?」
二人の運命を想うと、涙があふれそうになる。いや、二人ではない。自分のだ、自分だけの運命だ。たとえ幸せでなくても、そばにいてほしい。
「私には」あざみは唇を噛んだ。進んで罰を受ける時のような、英雄的な快感があった。「子供がいる」
「不貞ということか!?」
思わぬ誤解にあざみは慌てた。
「違う、夫は死んだ」
時間は真っ平になった。告白を済ませたあざみの心は、妙に澄んでいた。輝のまつ毛を数えることもできそうだが、その下の瞳は小刻みに揺れていた。
「帰ってきたら会わせてくれ」
輝の声は強がっていた。それでもあざみの瞳には涙があふれた。
「嫌か?」
「嫌なわけない」
輝の腕は暖かかった。自分は卑怯者だと思ったが、安心して涙が止まらなかった。その涙を、輝の固い指が掬った。
百合の君(116)