百合の君(113)
しかし戦の足音はまだ八津代までは聞こえていなかった。あざみの耳を、熱い男の息が湿らせていた。興奮が醒めるにしたがって、暗い、冷たい蔵の空気が感じられてくる。もうすぐ現実に帰らなければいけない。それが恐ろしいような気がして、あざみは男の手を強く握った。反応がすぐになかったので不安になったが、やや遅れて握り返してきたので、安心するため目を閉じた。
たしかに輝は、あざみにとって夢だった。夫のいない心細さ、ひとりで子供を育てる大変さを忘れるための夢だった。あざみはそれを自覚しているから、未亡人であることも、旬のことも話していない。
「こうしてると、おっかあのことを思い出すな」
輝の過去を聞いたこともなかった。少しおどろいたが、消えていく夢を手放したくなくて、あざみはそのまま聞くともなく聞いていた。
「俺が生まれたのは、ずっとずっと北の果て、木怒山様はおろか、喜林様も出海様も聞いたことがなかった。冬になると、雪が人の背丈ほども積もるんだ」
そんな世界、あざみは想像すらしたことがなかった。
「人の気性もだいぶこっちとは違ってたけど、でも、結局やることは同じなんだな。戦でおっかあは殺されちまった。村を焼きに来た侍と俺がたまたま目が合っちまって、それに気付いたおっかあが、『この子だけはお助け下さい』って、芝居みてえなこと言って、それが最後に聞いた言葉になっちまった」
嘘ではないか。ぼんやりとあざみはそう思った。侍に親を殺された子が、侍になるなどということがあるのだろうか。いや、あるかもしれない。あざみは久しぶりに穂乃のことを思い出した。
私もあれだけ憎んでいた侍、夫の仇ともいうべき出海の妻の下で働き、尊敬さえした。必死に生きていれば、そういうこともあるのだろう。必死に生きていたから出海を憎み、必死に生きていたから出海の下で働き、愛することになったのだ。生きるということは、変わるということだ。親と子が同じでないように、同じ人間も変わり続ける。それが生命の法則なのかもしれない。
そんな考えが起こるに任せていて、やっと輝が黙っていることに気が付いた。悲しい過去の告白をして、女からの優しい言葉を待っているのかもしれない。
何か言おうとしたがすでに遅すぎる気がしたので、輝の頭を撫でた。汗がひえて、おどろくほど冷たかった。旬のことを打ち明けたい衝動に駆られたが、腕を上げて開いた胸に、輝が吸い付いて来た。
わずかに声をあげた。そして、この手はもう何人も殺しているんだな、という思いを膣内にとろけさせて、流されていった。
百合の君(113)