百合の君(111)
たった一年で真津太の繁栄は終わった。唐国は理由も告げず、交易の中止を申し渡して来た。真津太はもはや他の物をやめ、唐国に売る米だけを作っていた。再び兵を集めていると聞いて、穂乃はすぐに珊瑚と会った。
「再び喜林と戦をしようというのですか?」
まだ新しい畳のにおいと光る床板に守られてでもいるように、珊瑚は平然としていた。
「母上は、父上におとぎ話をお聞かせになったそうですね。猫が鼠を殺して、天の国を追い出されたとかいう」
しかし穂乃には、その新しい調度品がすぐにも失われると思えて仕方がなかった。そして、それが若くして命を散らそうとする息子と重なった。室内は寒かった。痛いほどだった。息子の口から漏れる白い息が、魂のように思える。この目はどこかで見たことがある、と穂乃は思った。
「それがどうかしましたか?」
「猫は、鼠を徒に殺した訳ではないはずです。殺して食べたのです。飢えていたから。このままでは、以前よりひどい混乱が来ます。真津太の民が、その猫になってしまう。喜林を討つのは、父上のご遺志を継ぐことです」
珊瑚の目は、白浜が生まれた時と同じだった。真っ暗だ。それも、夜空のような黒ではない。濃い墨を、紙が破れるくらい幾重にも重ねて、それが乾ききってしまったかのような暗さだ。
「天蔵とまた戦えば、今度こそ殺されてしまいますよ」
「構いません。天蔵と木怒山のいる八津代は、元々出海の領土、それを取り返さないことには、父上に顔向けができない」
「でも浪親様が治めるまでは、夢塔の領土でした」
珊瑚はふんと鼻を鳴らし、懐紙で拭った。
「喜林は父上の仇ではないですか」
「喜林もあなたの父上ですよ」
「それはどういう意味で、ですか?」
穂乃は口をつぐんだが、思わず口をすべらせたからではない。もはや珊瑚と喜林義郎が実の親子だというのは、誰もが知る公然の秘密だ。しかし、母が直接それを語るのは、珊瑚を大きく揺さぶることになるはずだ。
「喜林が私に何をしてくれたと言うのです。私を捨てて養子を取り、真津太を滅ぼそうとしている」
珊瑚の暗い目が、すがるように穂乃を見た。
「甘ったれるんじゃない!」
わざと大声を出したつもりだったが、いざ叫んでみると、一瞬で心の不安が晴れた。
「あっちの親はこれをしてくれた、こっちの親はあれをしてくれた、この大名は兵を出した、この商人は金をくれた、あなたは赤ん坊ですか! 将軍でしょうが! あなた自身、どのような世を望んでいるのですか! 出海の父も、喜林の父も、あなたの年ごろにはとっくに自分の成すべきことを考えていました!」
叫びながら穂乃は、やはり自分にはこういうやり方が合っているのだと思った。喉は意思を必要とせず働いていた。二十五にもなった息子は、子供の頃のように足指を曲げて、じっとそれを見ている。穂乃は少し声を落とした。
「つらくても大事なことだからしっかり聞きなさい。あなたは喜林義郎の子として生を受け、出海浪親によって育てられた子です、どちらか一方だけの子ではありません。そして私の子です。あなたが出海浪親を慕う気持ちは妻として嬉しく思いますが、ありもしない幻想を出海に抱くのはやめなさい。それはただ、自分が見るべき景色から目を逸らしているだけです」
珊瑚はまだうつむいている。少しやりすぎたかもしれない。いくら怒鳴られてもへこたれない浪親様と違い、この子は昔から弱い所があった。それは繊細と言い換えてもいいのかもしれないし、長所にもなり得るのかもしれない。でも、この子が克服すべきものだ。人の個性は認められるべきだが、それは成長しなくていいということを意味しない。
「しかし・・・」
黙っていた珊瑚が、足の親指を掻き始めた。穂乃はそれを言わせないように、言葉をかぶせた。
「ならば私が喜林を説得します。ひと月たっても真津太との関係を改めないようであれば、あなたの好きになさい」
いたたまれなくなって、穂乃は立ち上がった。後ろ髪が引かれるようだったが、振り返らずに縁に出た。雪が降り始めている。浪親様と出会ったのも寒い日だった。穂乃は冬空を見上げた。ついぼんやり見ていると、雪が降っているのか空を舞っているのか、来し方と行く末が薄墨のような空に混じり始めたので、慌てて歩き出した。
百合の君(111)