百合の君(106)

百合の君(106)

 しかし禽堂矢(きんどうや)城も穏やかな春を迎えるという訳にはいかない。石垣では姫蔓(ひめつる)そばがピンク色のぼんぼりで占領を宣言し、焼けた(やぐら)にはよじ登る敵のように葛が絡まっている。木怒山(きぬやま)の作戦により、百合隊も大きなダメージを受けた。炊き出しをしようにも、食材がない。
 かつて大釜が置かれていた庭には、一揆を起こした百姓もそれを鎮圧した兵たちも、分け隔てなく寝かされていた。しかし、薬も包帯もないので、治療はもっぱら彼らの自己治癒力任せ、つまり放っておくしかなかった。
 穂乃(ほの)は救いを求める人たちをなす術なく眺めていた。民を、自分の無力さを見つめることが今の自分の責務と考え、立っていた。
 時間は地面を這う虫よりも遅かった。ようやく日が傾いてきて、穂乃の心は安堵した。穂乃は自分の心が夜になれば城に入れる、けが人たちを見ないで済むと考えていることに気がつき、またその心を痛めた。
 (うつむ)きうめく人たちの中に直立し動く影を見つけて、穂乃の心はそれにすがった。誰の姿を期待していたのかは自分でも分からないが、近づいて来たのはあざみだった。民と同様傷つき打ち捨てられた穂乃の心は、百合隊の長としての形を取り始める。あざみは頭を下げた。
「本日は、お暇乞いにまいりました」
 雨のように、穂乃の心に痛みが沁みわたった。この上仲間まで失うのか、そう思って泣きたくなったが、長としての矜持(きょうじ)がそれをとどめた。
「ここを去って、どちらに行くのです?」
八津代(やつしろ)に」と聞こえた途端、別の動揺が穂乃を襲った。
「なぜです? なぜ八津代に?」
 その剣幕にあざみは驚いたが、ほんの一瞬だった。
「八津代は私たちの故郷です。それに、いまは木怒山様が治めておいでです。あれ程強い大名のご城下なら、安心して(しゅん)を育てることができましょう」
 穂乃は崖から突き落とされたように感じた。そのまま落ちた方が楽なのかもしれないが、それはできなかった。どうにかして現実にしがみつかなくてはいけない。唾を飲み込む。
「あなたは、以前、私の不貞の噂の話をしましたね?」
「ええ」あざみは事もなげに応じた。
「あの噂を捏造したのは、他でもない木怒山由友です。あの男は自分の野心のため、出海(いずみ)喜林(きばやし)の対立を煽っているのです。そのような者の領民になって、幸せになれると思うのですか?」
 あざみの頬に一瞬影が差した。少しためらった様子を見せたが、諦めたように口に出した。
「おそれながら、私達にとっては、一生会うこともないご領主のお人柄など、どうでもいいことなのです。民を守ってくれさえすればいいのです」
 背中の旬が、髪を引っ張っている。あざみは息子のしたいようにさせていたので、話しながら頭が少し傾いた。
「あんな男に、民を守る気持ちなどあるものですか」
「ご本人に守るつもりなどなくとも、力が強く他の大名に睨みが利き、誰も攻めてこないのであれば、それでいいのです」
 穂乃は一瞬言葉に詰まった。
「だからと言ってあなたは、木怒山の下に行くのですか? 真津太(まづだ)は、珊瑚(さんご)殿は、きっとこの状況を立て直します。またすぐに百合隊の仕事もできるようになります」
「その『すぐ』がいつだか分からないようでは、私たち庶民は生活ができないのです」
 あざみの目は、穂乃を憐れんでいるようでさえあった。穂乃はまたショックを受けた。たとえ自分を認めてくれる仲間がいても、国の安全や安定した生活がなければどうにもならないのだ。人はまだやりがいだけで腹がふくれる程には進化していない。
 ねぐらに帰る小鳥の群れが波打つように飛んでいた。言葉はどんなに探しても見つからなかった。見つめるあざみの瞳が伏せられた。
 再び深く頭を下げた後、あざみは去った。あざみの去った後には、うめくけが人だけが残っていた。穂乃の涙がようやく垂れた。それを気にする人がいなかったのは、幸運だった。穂乃は心置きなく涙を流した。
 私のやっていたことは、所詮、道楽なのだ。何が女の自立だ。本当の危機には何の役にも立たないではないか。あざみにとって、私は木怒山にも及ばないのだ・・・。
 涙はとめどなくあふれてきた。今はどうすればいいのか分からない。分からないうちは、泣くしかない。

百合の君(106)

百合の君(106)

あらすじ:ひたすら戦を賛美する義郎を否定した穂乃でしたが、真津太に帰るとつらい現実が待ち受けていました。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-04-25

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