百合の君(101)
襖を開けると、今水流が珊瑚に平伏していた。皆すっかり戦支度が整っているとばかり思っていた守隆は驚いたが、すぐに事情が知れた。
「将軍、お願いでございます。降伏してください」
守隆は今水流に駆け寄った。
「何をおっしゃる、喜林は先代の仇ですぞ」
今水流は守隆に振り返った。皺だらけの、穏やかな瞳だった。
「仇などと申しておられるのは生きているうちだけです。今の出海に喜林と戦う力はない」
「そう思うなら何故最初からおっしゃらなかった」
「喜林を仇と息巻いている将軍に、そのようなこと申し上げられるはずがないではありませんか。そういえば、あなたのお父上も喜林に殺されたのでしたな」
「何が言いたい」
「先代の仇と言いながら、ただご自分の仇討ちがしたいだけではござらぬか?」
守隆は刀を抜いた。今水流は作り物のような瞳でそれを見ていた。守隆は刀を振りかぶったが、思い直し珊瑚に捧げた。
「将軍、この場は将軍御自ら切り開かなくてはなりませぬ」
襖の外では兵達の慌ただしい足音が聞こえる。
「私では、収めきれませぬ」
老若男女の悲鳴、怒声、叫び声が鰊の放精のように幾重にも重なり合い、それに応じて守隆の内部でも瞬間毎に捧げた刀で自害しようとか、特攻しようとか、様々な衝動が沸き起こってくる。珊瑚に自ら今水流を粛正していただこうというのも、そのような馬鹿げた思い付きの一つに過ぎないのかもしれない。
守隆は捧げた刀の先にある、珊瑚の顔を見上げた。その細めた赤い瞳は悲しそうに見えた。狂気とは放たれた矢なのかもしれない、と守隆は思った。動いている敵に矢が当たるかどうかは、腕の良し悪しだけでは分からない。放った者の意思も願いも、もうその矢には届かない。当たった先が狂気なのか勇気なのか、分かるのは事が済んでからだ。
珊瑚は懐から、父の遺髪と一緒に受け取ったお守りを出して眺めた。その黒い炭を手のひらに乗せて見入る姿は、すでに自分が斬った家臣を悼んでいるようだった。細めた赤い瞳が炎のように揺れて、刀を取った。やっと今水流の顔に動揺が走った。
「わ、私を殺せば他の者もついて来ませぬぞ」
「守隆の言う通りだ。私は喜林の前に弱い己と戦わねばならぬ」
珊瑚が刀を構えると、今水流も抜いた。一斉に今水流に向けられる刃を、珊瑚は制した。今水流は主の覚悟を見て、刀を捨てて逃げようとした。そしてその背中を珊瑚は斬った。
守隆は息を飲んだ。返り血を浴びた珊瑚は美しかった。浅葱色の直垂にその瞳と同じ深紅はよく映えた。守隆が幼い頃から見たかった主の姿は、これだったのだ。
珊瑚は頷いた。その意味は了解しかねたが、守隆は頷き返した。珊瑚は庭に降り櫓に登ると、今水流の首を高く掲げた。
「私は喜林珊瑚ではない、出海珊瑚だ。ここは古実鳴ではない、真津太だ。私達は私たちの名を、土地を、家族を守るために戦わねばならぬ!」
珊瑚が出陣すると、城を取り囲んでいた群衆が合流した。それは莟が花開き、再び閉じるような、不思議な動きだった。つい先程まで我先にと逃げていた民が武器を受け取ると、今度は喜林軍の包囲に出たのだ。しかし、喜林軍を撤退に追い込んだのはその陣形の妙ではない。彼らは家臣の首を掲げ、先陣を切って突撃する赤い瞳の将に、自らの主に対するのと同じ怖れを抱いたのだった。
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百合の君(101)