百合の君(95)

百合の君(95)

 喜林(きばやし)からの使者は貧相な体格のくせに態度だけは仰々しく、珊瑚(さんご)は一目で嫌いになった。
「ここに書かれていることは、喜林殿の本当のお心か?」
 蓑原(みのはら)は袖を払って頭を下げた。張りのない肌に浮き出た鎖骨が、雨の日の蹄の跡のように不細工な影を作っていた。
「もちろんでございます。わが主は珊瑚様を跡継ぎにとお考えです」
「父を殺しておきながら父を名乗り、戦わずして降伏せよなど正気の沙汰とは思えんな」
 蓑原は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。歯の隙間から息を吐くと、「あっ、えっ、いや」と続けた。
「わが主は、珊瑚様を跡継ぎにお迎えしたいと・・・」
 その目があちこちに泳ぐのを見て、珊瑚はようやく合点がいった。
「そうか、知らずに参ったか、これは面白い」
 珊瑚は蓑原に文を見せた。まず出海浪親(いずみなみちか)を悪しざまに罵り、そして自分を父として敬い、城と兵を明け渡し煤又原城に来るようにと書かれている。蓑原でさえ、読んでいる途中で反感を持った。
 とっさに蓑原は、義郎(よしろう)に騙されたと思った。目の前の文書を書いたのが喜林義郎本人とは限らないが、そのことには思いも至らなかった。木怒山(きぬやま)が、義郎に子がないのをいいことに、先代の喜林臥人(ねすと)からみて甥にあたる自分の息子に、喜林を継がせようとしているという噂も耳にしたことはあったはずだが、思い出さなかった。
 とにかく何か言わなくてはいけない、蓑原はちらりと珊瑚の様子を盗み見た。なんとか弁明しなくては。しかし、蓑原の頭脳は何の言葉も与えてはくれなかった。それどころか唇が震え、一言も発せそうにない。
 蓑原は己の愚かさを悔やむ代わりに、木怒山を呪った。今度会ったら文句を言ってやる、と思ったが、このままでは「今度」などないし、蓑原の身分で木怒山に「文句を言う」などできるはずもないが、それには気付かなかった。
 珊瑚の立ち上がる気配がして、メダカのように浅い所をうようよしていた蓑原の思考は中断された。頭頂部の毛がすっと立って、魂が抜けたようだった。
「ありがたいことだ、本当にありがたい機会を蓑原殿は与えてくださった」
 ふたたび盗み見た珊瑚は、意外なことに笑っている。真っ白な肌に赤い瞳が細長く切れて、黄檗(きはだ)直垂(ひたたれ)が輝き、狐が化けた唐国の妃のように美しかった。蓑原も迎合して笑った。
「出海の後継者でもある珊瑚様が喜林を継げば、戦わずして天下が一つになります」
「蓑原殿はちょうどいい所に来なさった」珊瑚は重ねて笑った。「私は天下に、いや、誰よりも亡き父上に私の父は出海浪親であると示さねばならぬと考えていた。喜林からの使者の首は、いい旗印となろう」
 珊瑚が振り向くと、側近の川照見(かわてるみ)という若武者が刀を抜いて近づいてきた。蓑原はそこに映った自らの怯える顔を見た。
「申し訳ございませぬ!」
 とっさに蓑原は額を床に叩きつけた。ドンと鈍い音がして、頭が揺れた。そして、木怒山にもらった着物の袖で汗を拭おうとしたが、額が床にくっついているので上手くできなかった。「頭を下げる前にすればよかった」と思い、それから、「とにかく誠意だ。誠意を見せることだ」と思った。というより、それしか考えられなかった。言葉は口から出るに任せることにした。
「私は喜林めに騙されたのでございます、あやつは私に、出海様とは和議が成っているゆえ、お連れするだけでよいと申したのです。あの男は私の首を口実に、出海様と戦をしようとしているのです、あの男がいかにもしそうなことです。あやつは他人が自分と同じ人間だという事も分からない残酷な男です、ケダモノです、昔からそうなのです。道場では同輩の脚を折り、腕を砕き、しまいには殺してしまった者までいるのです」
 珊瑚の瞳は更に輝いた。蓑原は一縷の望みをその光に託した。
「蓑原殿も、喜林に腕を折られなさったか? お可哀想に」そして蓑原の背に回ると、その両肩に手を添えた。「私も養子、というより人質時代、喜林には散々いじめられましたからな、蓑原殿とは気が合いそうだ」珊瑚の手が肩を撫でると、そこから体中がとろけた。見上げる唇は赤く濡れている。
「私は幼い頃、人形遊びが好きでしてな。蓑原殿は痩せていらっしゃる故、簡単に折れそうだ。ここはひとつ、お互いの思い出を語り合うのも一興かもしれませんな」
 川照見が手にした真剣を木刀に換える。振り下ろすのが見えたと思うや否や、耳元で肩の砕ける音がした。出そうになった小便を、蓑原は引きとめなかった。着物が温かく濡れて、少しだけ骨折の痛みを和らげた。

百合の君(95)

百合の君(95)

あらすじ:珊瑚に送ったのは軍ではなく和議の使者だと喜林義郎は穂乃に話しました。しかし、側近である木怒山は、喜林を義郎から奪い取ろうと画策しています。使者の選任をしたのも木怒山、無事に済むはずがありません。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-02-07

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