百合の君(94)

百合の君(94)

 木杭はささくれ、石段は丸くなり、しばらく見ぬ間の年月を感じた。しかし、主の喜林義郎(きばやしよしろう)は髪も黒々として肌にも輝かんばかりのつやがあった。義郎は昼食をとっていた。麦飯に盛られた肉から血が垂れたように見えるが、さすがに気のせいだろう。穂乃(ほの)を認めると、その赤い瞳が怪しく光った。その場にふたりきりであることに、穂乃は気付いた。視線が舐めるように体を這う。穂乃は見せつけるように喪服の袖をぎゅっと掴んだ。
 しかし、何も起こらなかった。義郎が再び器に視線を落とすと、箸の音だけが響いた。
「久しぶりですね」
 義郎は返事をしなかった。黙々と食事を続けている。
出海(いずみ)への、恨みは晴らせましたか?」
 窺うように穂乃は言った。義郎はゆっくり飲み込んだ。
浪親(なみちか)殿を捕まえたのは喜林ではない、百姓だ。それに、私は恨みを晴らすために戦っているのではない」
「では、何のためですか?」
 義郎は眉を上げて穂乃を見た。
「お前は鹿が憎くて食うのか?」
「いいえ」
 そもそも鹿など食べませんと言うのは控えた。自分も昔は食べていたのだ。少し沈黙があった。
「私は十把一絡げの雑兵として初陣を迎えた。兵糧はなく、幾人もの兵が飢えて死んだ。私は悔しかった。戦って死ぬのならまだしも、飢え死になどしても何にもならない。そんな時、目の前に百姓の村を見つけた。私だけではない、みんな競って食い物を奪った。奪うために殺した。それは罪だと思うか? 奪わねばこちらが死んだとしても」
 穂乃は答えに窮した。義郎は赤い瞳をぎらつかせ、にやりと笑った。
「あの時食った米の味は今でも覚えている。凍えた体にぬくもりが戻り、体の隅々まで温かい血が巡った。あんなに美味い物、このような身分になっても口にしたことはない」
 義郎は口に指を突っ込むと、唐突に大きく開けて見せた。意外に白くてきれいな歯に、唾液に濡れた麦や肉がこびりついている。
「この歯は、生き物の体を砕くためについている。腹はそれを消化する。人の体とは、他者から奪うためにできている」
 穂乃が(おのの)いたのは、義郎が語る内容よりも、むしろそれを当然のことのように語る態度だった。穂乃は自分を励ました。
「戦が人の(さが)だからといってそれを放っておけば、この世は地獄になります」
「相変わらずだな。私も浪親殿のように操れると思っているのか?」
 穂乃の心に、木枯らしが吹いた。
「そんなことは・・・」
「やはりお前が吹き込んだのか。私を袋叩きにしたあの野盗が、戦のない世などと言い出した時は戯言かと思ったが」
「前にも言いましたが、浪親様は本気で平和な世を目指しておりました」
「では強き者も弱き者と同じように生きろと申すか? 鷹に鼠のように這って生きろと?」
「鷹だけで戦えばいいでしょう」
「鷹は鼠を食わねば生きられぬのだ。それに、珊瑚(さんご)殿は鼠ではなかろう」義郎は穂乃を睨みつけた。「私はこの力を天下に示したい。もしあの武道大会のあと戦がなかったら、私は向生館を血の海にしていただろう」
「そんなことはありません、蟻螂(ぎろう)は私を優しく抱き上げてくれました」
「いつ頭から逆落としにしたか、知れたものではない」
 この人は私以外の人とは生きられない、最初の直感が正しかったことを穂乃は悟った。火鉢一つない部屋は、寒かった。
「珊瑚殿を養子としていた間、どのような気持ちで接していたのですか?」
 義郎は一瞬目を逸らした。
「お前は私に、家族という言葉を教えてくれたな」
「ええ」
「しかしその家族は、出来上がらぬ前から失われてしまった。珊瑚殿は自分の意思でここを去った。私の敵になることを自ら選んだ」
「あの時珊瑚殿はまだ十一でした。子供のすることです」
「選ぶということは、何かを捨てるということだ。私に残っているのは、自分のこの力だけだ」
 穂乃は人質にだされていた時、捕虜の少年の怯えた瞳をどこかで見たと思ったが、それがどこだったか思い出した。喜林義郎、いや、蟻螂と初めて会った時だ。鬱蒼と茂る林の中に己の心を隠し、この世の全てに怯えている。
 また穂乃の中に言いようのない怒りが湧いた。いい年をした男、しかも将軍を名乗る武士が、まだ孤児の心を抱えているというのか。甘えるにもほどがある。穂乃は兆した残酷な気持ちに言葉を委ねた。
「その力を示すために、家族と戦うと?」
 穂乃はわざと家族という言葉を使った。それに気づいてか、義郎はぎこちない笑顔をつくった。
「早とちりするな、私は珊瑚殿と戦うつもりはない。少なくとも今はな。送ったのは軍ではなく、使者だ。和議のための使者だ」
 穂乃は義郎の真意を測りかねた。
「本当だ、私にも跡継ぎが必要だからな」
「ではまた、珊瑚殿を養子にと?」
「養子、か・・・」義郎が口角を上げたのを見て穂乃は間違いに気付いた。珊瑚は義郎の実子であるし、二人きりのこの場では何もとりつくろうべきものなどない。しかし、義郎はそのまま続けた。
「それを決めるのは私ではない、珊瑚殿だ。ご自分の命、どう使おうが珊瑚殿の勝手だ」
「でも、天下を治めるのであれば、出海の後継者でもある珊瑚殿がふさわしいでしょう」
 義郎は少し考えるような素振りをした。
「私は先ほど、この体は奪うためにできていると言ったが、一つだけ与えるためのものがある」義郎は穂乃を見た。「母乳だ。乳だけは、子供に与えるためのものだ。しかし、それとて命を奪ったものでできている」
「どういうことです? 私の母としての愛が、他人を傷つけると?」
「お前は珊瑚殿に生きていてほしいのか、それとも天下人になってほしいのか」
「私はあの子が生きていてくれれば、他に何も望みません」
「なら、あまり高望みはしないことだ」
 箸を置くと、振り向きもせずに義郎は去った。知らず、穂乃はため息をついた。あまりにあっけない。再び妻にされてでも、と思っていた自分の覚悟が、恥ずかしくなってくる。目の前にはさっきまで義郎が座っていた古い置き畳がひとつ、自分と同じように部屋に取り残されている。

百合の君(94)

百合の君(94)

元夫と息子の戦を避けるため、穂乃は煤又原城に向かいました。そこで出会ったのは、元夫・喜林義郎というより自分だったのかもしれません。 穂乃と義郎と珊瑚の関係が分からないという方は、本日アップした相関図を参照してみてください。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-01-31

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