百合の君(93)

百合の君(93)

 穂乃(ほの)を見た珊瑚(さんご)は、子供の頃にもしなかったのに、走り寄り母の手を取った。
「母上、生きていらしたのですね!」
 最初に気付いたのは、手の甲にある傷だった。深くはない、おそらく木の枝か(とげ)でついたようなものだが、深く珊瑚の心を刺した。そして、袖も破れて汚れているのが目に留まった。思わず見た顔はさすがにきれいにしてあったが、こけた頬は隠しきれない。
 たった十日。上噛島(かみがみしま)城の落城からたったの十日だったが、珊瑚は母親の失ったものの大きさを感じ、涙した。穂乃も珊瑚の肩を抱き寄せた。
「珊瑚殿も、よくご無事で」
 母親の声をこれほど間近で聞くのは、幼少のころ以来だった。このような状況下にあっても、それは心地のよいものだった。恥じることも忘れて、珊瑚は一時目をつむって心を預けた。しかし次に母の放った質問は、珊瑚の心を硬直させた。
「お父上と白浜(しらはま)は、どうしていますか?」
 反射的に肩を離そうとしたが、母の目を見たくなかったので、あえて抱き合ったまま珊瑚は答えた。
「斬首されたとのことです」
 穂乃が息を飲むのが、首のあたりに感じられた。
「二人とも?」
「そう聞いています」
 穂乃はゆっくり、だが深くため息をついた。城が落ちたのだから、覚悟はしていたのだろう。しかしだからといって、すんなり受け止められるはずもない。
「お父上のこと、ごめんなさいね・・・」
 何について謝っているのか珊瑚には分からなかったが、この時、穂乃は珊瑚が養子から帰って来たときのことを思い出していた。あの時すぐに会わせていれば、出海(いずみ)の運命は変わっていたかもしれない。
「なにを謝ることがあるのです」
「私は良い、母親だったでしょうか・・・」
「いいに決まっています!」
 珊瑚もまた涙を流した。しかし、そこに今水流(いまずる)がやって来る。
「将軍、大御台様、大変でございます!」
「どうした?」
 珊瑚が涙を拭って振り向いた。
喜林(きばやし)が、この真津太(まづだ)に兵を向けているとのことです!」
 一瞬曇ったその表情を、珊瑚は無理に明るくした。
「ちょうどいい、弔い合戦だ。すぐに戦支度をせよ」
「それはなりません!」穂乃が叫んだ。「ここであなたまで失ったら、私はどのように生きればいいのです!」
 珊瑚も今水流も、穂乃に振り返ったまま止まっていた。
「すいません、君主の母にふさわしくない言葉でした」穂乃は必死に声を張った。「しかしこの戦、私が防いで見せます」
「どうすると言うのです?」
煤又原(すすまたはら)城に行きます」
「母上、それはいけない!」今度は珊瑚が叫ぶ。「せっかく命からがら逃げてきたのです! みすみす捕まりにいくのですか!」
「大丈夫です」
「何が大丈夫だと言うのです」
蟻螂(ぎろう)が私を殺すことはありません」
 母の気迫に、若い将軍は言葉を失った。穂乃の胸には、しっかりと覚悟ができていた。たとえまた妻にされることになろうとも、珊瑚を守る。たったひとり残った息子のためなら、命も誇りも意地もいらない。

百合の君(93)

百合の君(93)

あらすじ:上噛島城の落城により行方不明になっていた穂乃ですが、ようやく珊瑚と再会できました。しかし、苦難の道は終わりません。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-01-24

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