百合の君(92)

百合の君(92)

 真津太(まづだ)禽堂矢(きんどうや)城へは道も平坦で、この時期にしては珍しく暖かい風が吹き、馬上ではともすると眠気を催してきた。蓑原常義(みのはらつねよし)はかつての剣術師範、木怒山由友(きぬやまよしとも)に招かれた時を思い出した。冬の夜のこととて庭は見ていないが、火鉢には見事な牡丹が描かれ、脇息には螺鈿細工があしらわれていた。木怒山は酒を勧めると、しきりに「久しいのう」と叫んだ。
向生館(こうせいかん)ではよくしごかれました」
 蓑原が応じると、その言葉が出るのを待っていたとばかりに木怒山は続けた。
「向生館といえば、将軍となった喜林(きばやし)様は覚えておろう。将軍もお前のことを、よく覚えておいでだぞ」
 後に喜林を継いだ当時の蟻螂(ぎろう)は、強かったが乱暴で、いい思い出は全くない。蓑原は自分の顔が曇ったのではないかと思ったが、木怒山は構わず続けた。
「最初に私を迎えに来た者は、痩せてはいたが態度が立派で実によい侍だった。あのような者に重大な役を申し付けたい、などと仰せでな」
 それを聞いて蓑原は、自尊心が満足するのを感じたが、とっさに表情に出るのを隠した。
「いやいや私など、向生館にはもっと立派な者がいくらでもおりました」
「お主より立派な者など、どこにいた?」
 老いた木怒山は師範をしていた頃にもしなかったような豪放な笑い方をしたかと思うと、急に声をひそめた。
出海珊瑚(いずみさんご)公がただの養子ではなく、将軍の実のお子だという噂は、お主も知っておろう」
 蓑原もつられて声を出さずに頷いた。
「実はその話はずいぶん進んだ所まで来ておってな、これはお主だから話すが、珊瑚殿を跡取りとして煤又原城にお迎えすることになっておる」
 これには蓑原も驚いた。世間の噂では珊瑚は父の仇、打倒喜林に燃えているという事になっている。
「なんと、それはまことですか」
「ああ、将軍を仇と叫ぶ珊瑚殿と直にお会いになってな。あれは難しいお話だった」
 遠くを見るような木怒山の目に、蓑原は自分も秘密の政治劇を見るような気がした。くわしく聞きたいという好奇心が働いたが、武士としての矜持がそれを抑えた。
「そこで将軍は、珊瑚殿をお迎えする使者に、お主をとお考えだ」
「なんと」蓑原は大きくなった声をひそめた。「いくら何でもそんな大役、それこそ木怒山様に相応しいのではないでしょうか」
「当然わしが引き受けたいくらいだ。珊瑚殿をお連れするだけで城ひとついただけるんだからな」
「城主に?」
「そりゃあそうだろう」と大きくなった声を木怒山もひそめた。「新参者の百鳥(ももとり)殿にも上噛島(かみがみしま)城をくださるようなお方だぞ。珊瑚殿が古実鳴(こみなり)に入られれば天下統一、その最後の仕上げの大仕事だからな。なぜわしにお命じくださらないのか」
 蓑原は思わず笑った。木怒山が恨めしそうに睨むのが心地よかった。
「で、お主は引き受けるのか、嫌ならわしがやるともう一度頼むからいいぞ」
「木怒山様には申し訳ないが、これも将軍のため、お引き受けいたす」
「なーにが将軍のためだ! この野郎!」
 木怒山はまた大笑いをしたが、今度は蓑原も笑った。木怒山の螺鈿細工の脇息が、急に羨ましくなくなった。自分はどんな物を作らせようか。
 真津太の道は平坦で、風は暖かかった。道の両側に広がる田んぼの中で、ぽつんぽつんと働く農夫が、領主を見るように眩しそうに蓑原を見上げていた。着物は、使者に相応しいようにと木怒山からもらった物だ。蓑原は懐の文に手を当てた。布はなめらかに滑って、その下の心臓の鼓動が伝わってきた。

百合の君(92)

百合の君(92)

あらすじ:喜林と出海の戦いは喜林の勝利に終わりましたが、あちこちで様々な波紋が広がっています。今回は、喜林の二人の家臣のエピソードです。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-01-17

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