百合の君(91)

百合の君(91)

 あの時寝返っていればよかった。百鳥望(ももとりのぞむ)は焦燥していた。つむじ風が枯れ葉を巻き上げ、新しく挽いた材木の香りを広げていた。百姓が戦を引っ掻き回した時、あれは最大の好機だったはずだ。あの混乱に乗じて出海(いずみ)に寝返っていれば、(その)と戦わずに済んだのだ。
 望は働く工夫(こうふ)たちを眺めた。晴れた冬空の下流れる汗は、彼とは無関係のように輝いている。単調なのこぎりや金づちの音は、望の思いを過去の悔恨へと導いた。
 あの時動かなかったのは結局、己の弱さのためだ。望は縁に腰掛けたまま頭を抱え、心のうちを振り返った。突然のことだったのですぐに行動できなかったというのもある。百姓達がどちらを攻撃しているのか、最初は分からなかったくらいだ。しかしそれだけではない。
 情けない事に、私は喜林義郎(きばやしよしろう)が恐ろしい。あの赤い目で睨まれると、委縮して従うことしかできなくなる。もし戦ったとして、万に一つも勝ち目はあるまい。
 それに、寝返ったときに家来が付いて来なかったら? 私は裏切り者として首を斬られ、喜林義郎の前に献上されるかもしれない。
 しかし、これらの不安はすべて己の弱さのためと集約できる。君主や家臣への不安に打ち克てれば、どうということはないはずなのだ。
 しかし、あの時寝返らなかったのは、結果としては正解だった。望はやや顔を上げ、みずからに言い訳した。出海浪親(なみちか)は敗れたのだから、あのとき出海についていれば、今頃とっくに殺されている。
 でも、これからなら。この城からこっそり抜け出して出海珊瑚(さんご)に降れば、少なくともすぐに殺されることはない。その後は侍をやめて、どこかで畑を耕して暮らせばいいではないか。
 そう思いながらも、なかなか決心はつかない。望はため息をついた。工夫のふんどしから金玉がはみ出ている。それを見たとき、ふっと決意が固まった。空気中に漂っていた意志が、口や鼻の穴から体内に入って来たようだった。
 悩むのをすっぱりとやめ、具体的な案を練ろうと望は立ち上がろうとした。そのとき、風が材木に酒のにおいを混じらせているのに気付いた。見ると、木怒山(きぬやま)の髭面が近づいてくる。
「この度はおめでとうございます」
 目が合って木怒山は頭をさげたが、望は何を言われているのか分からなかった。木怒山の不審そうな顔を見てやっと、この上嚙島(かみがみしま)城が自分の物になったことを思い出し、笑顔を作った。
「ありがとうございます」
 表情をゆるめた木怒山は、望と対等の立場であることを主張するかのように、隣に腰掛けた。
(あきら)、酒」
 木怒山に似合わない清潔で真面目そうな小姓が、徳利を二人の間に置いた。冷たい乾いた風にもかかわらず、望は招じ入れようとはしなかった。
「そういえば先日、妙な噂を聞きましてな」
 木怒山は望に酌をした。白く濁った酒が、命ある者のように椀の中でとぐろを巻いた。
「百鳥殿のご子息が、出海の兵になっているとか」
 溢れた酒を、望は啜った。
「いずれ戦場で明らかになることでござる」
「ご子息と戦うことになっても、よいので?」
 木怒山の髭が目に刺さりそうに迫って来た。
「親子相争うは武士の習わし、覚悟はできてござる」
 自分でも驚くくらい自然に言葉が出て来た。涼しい顔をした望を見て、木怒山は工夫たちが振り返るほどの大声で笑った。
「これは頼もしい。将軍もご子息と戦われるおつもりらしいですからな」
「戦はまだ、続くのでしょうか?」
「さあ、それは将軍が決める事。我らはそれに従うだけでござる」
 望は沈殿する酒を見つめた。喜林義郎と出海珊瑚の関係については様々な憶測が飛び交っている。その話題を避けて戦がまだ続くかなどと話したのは、いささか不自然だったかもしれない。望は酔ったふりをするため、酒を一気に呷ってげっぷした。
「左様、私は将軍があまねく天下を平定するまで、付き従う所存」
 また風が吹いた。落ち葉がかさかさと鳴って、それが自分の本音を語るようで恐ろしい気がした。木怒山は自らの両腕をさすった。
「来たばかりだというのに、冷えてきましたな。まあ、今日はお祝いに参上したまで、(それがし)はこれで」
 木怒山はあっさり帰った。しかし、望はやはり酔っていたのだろうか、木怒山が輝と呼んだ小姓に見張りを命じていたことまでは、気付かなかった。望は奥に入ると自らが主であるこの城からの脱出計画を練り始めた。

百合の君(91)

百合の君(91)

あらすじ:出海浪親と喜林義郎の戦いは、喜林の勝利に終わりました。しかし、浪親の息子である珊瑚は父の旧臣を吸収し仇討ちを決意。喜林方の武将である百鳥望も、心中には複雑なものを抱えていました。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-01-10

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