百合の君(87)

百合の君(87)

 木怒山(きぬやま)は都を囲んでいた。人々は、都から脱出していた。屋敷のように豪華な貴族の車が右往左往している様は、本陣に定めた山の上から眺めると、都そのものが(うごめ)いているように見えた。木怒山は、大きな時代の変化を予感していたが、それは感情よりもさらに不分明で、先にあるのが平安なのかさらなる戦乱なのかさえ分からなかった。
 そして脱出する人々の中にあって、逆に都に入ろうとする者を兵が捕らえた。連れてこられたのは、美しい女だった。そのとき木怒山の視界には戦に興奮している者か怯えている者しかいなかったので、その意志と希望を宿した宝玉のように光る瞳に、とりわけ興味をそそられた。
「何者だ?」
 木怒山は義務以外の関心も持って尋ねた。
「私は出海(いずみ)からの使者だ。関白殿下のお妃、菜那子(ななこ)さまをお助けに参った」
 そして名をみつと名乗った。やや震えたその声は、かえって捕らえられた恐怖を十分抑制していることを示していた。女でありながらよく訓練され、戦場にも慣れている。百合(ゆり)の君がつくったという女だけの戦闘部隊を木怒山は思い出した。
百合(ひゃくごう)隊・・・と言ったか?」
 女は黙っていた。木怒山は拷問も考えたが、この戦、まだ喜林(きばやし)の勝ちと決まったわけではない。関白家との関係も匂わせるこの女に暴行したら、今後の立場が危うくなるかもしれない。
「そなたは、関白殿下と親しいのか?」
 ようやく女の表情が和らいだ。
「そりゃ、まあ・・・関白様というより、菜那子さまとだが」
 花のように頬を赤らめる女を見て、木怒山は関白がうらやましくなった。こんな女が使いに来るくらいなのだから、正室の菜那子はどれほどだろう。
「菜那子さまは、どのようなお方だ」
「そりゃもう美しいお方だ。もし美の神がおわすなら、お社ではなくあの方の身の内におわすのだろう」
 木怒山は思わずため息をついた。ますます関白がうらやましくなった。そして、かつての門下生であり、山猿と侮っていた義郎(よしろう)の命令でこんな所に来ている自分が馬鹿らしくなった。
 そもそも木怒山には、都に攻め入るつもりはない。いくら敵とはいえ帝に弓を引けば悪逆非道となってしまう。喜林義郎が自ら軍を率いてそれをやるなら構わないが、自分はそんなことをしたくない。
 眼下の都の様子を見れば、すでに政治的な損失は十分与えていることが分かる。もう帰ってもいいのではないか、と木怒山は思った。妃のような女とは言わぬまでも、それなりに見目の良い娘に酌をさせて酒を飲みたい。
 酒、という言葉が頭をよぎったが最後、ますます飲みたくなってきた。そして目の前には、いま自分の手の内にある美しい女がいる。一杯だけならいいのではないかと思ったが、一杯で済むはずがないのは自分が一番よく知っているし、関白も義郎も恐いので思いとどまった。
 もはや木怒山の思考は完全に停止、酒と女以外のことは考えられなくなった。そこに伝令が走ってきた。汚れた男の顔を見て、木怒山は正気に返った。
百鳥(ももとり)殿が、出海本軍と合戦に入りました」
 慌てて振り向く女の顔を見て、やはり出海の使いというのは本当だと確信した。
「ならば、もうこれ以上の陽動は不要だ。古実鳴(こみなり)に戻るぞ」
 木怒山は立ち上がり、そして女に振り向いた。
「そなたは関白殿下のもとに行くがいい。くれぐれも木怒山が快く通したとお伝えするのを忘れるでないぞ」
「あの」
 ここに来てみつは初めて下手に出た。
「退却はもう少し待っていただけませんか?」
「何故だ?」
「あなた方が退却してしまったら、私が関白様のお屋敷に入る理由がなくなってしまいます。あなたのことも、関白様にお伝えできませんよ」
「ではあと半刻待って退却とする」
 木怒山は再びため息をついた。
「ありがとうございます!」
 やっと菜那子さまに逢える! みつは駆けだそうとしたが、木怒山に呼び止められた。
「ちょっと待て」
 木怒山が手渡して来たのは、酒壺だった。
「土産だ。陣中には、こんな物しかないのでな」
 みつは桃色になった菜那子の頬を想像した。唇は濡れ、きっと吐く息にも甘い香りが混じっているだろう。戦の不安と酒で大胆になった心から、そばにいるみつを抱き寄せる・・・なんてこともあるかもしれない。
「何とお礼を言ったらいいか!」
 落ち葉は木に戻り、赤い花になった。都は混乱を極めていたが、みつの足取りは軽かった。

百合の君(87)

重苦しい場面が続いたので、ちょっと息抜き。みつを書いていると楽しくなってしまいます。

百合の君(87)

あらすじ:出海に対し、喜林は八津代と都の二方面作戦に出ています。前回は八津代に侵入した百鳥の話、今回は都に攻め入る木怒山の話です。 ここに出てくるみつは(33)(34)で初登場します。好きなキャラクターなので、観ていただけると嬉しいです。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-12-13

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