百合の君(81)
傷だらけで帰って来た息子に、父は会おうともしなかった。いっそ討たれていれば楽にすべてを終わらせられたのに、と珊瑚は思った。穂乃に会いたかったが、母に泣きつくのは少年の誇りが許さなかった。
「将軍は、狂っております」
とっくに暗くなった室内で、守隆の汗ばんだ顔が灯りに浮き上がって見えた。その頬のまだ真新しい傷口から赤い血が覗いていた。
「この戦はもう、戦をせぬための戦とは申せませぬ。戦のための戦と成り果てました。たとえ出海が勝ったとしても、日の本に平安は訪れぬでしょう」
守隆の熱い瞳が珊瑚を見つめた。その額に流れる汗を、珊瑚は拭ってやった。この者は私の鏡だ。口には出せぬ私の心を、いつも代わりに言ってくれる。
「そんなことはこの珊瑚、生まれた時から承知しておる」
守隆は自らの額を撫で、手のひらをまるで初めて見るものであるかのように見つめていた。
「ならばなぜ、父君に従うのです?」
守隆の視線が再び自分に注がれて、珊瑚は目をそらした。甲冑は泥で汚れていたが、拭おうという気にもならなかった。
「なぜ喜林から戻って来られたのです?」
「出海の家に生まれたのだ、仕方なかろう」
仕方ない。とっさに出た自分の言葉が妙に腑に落ちた。確かにそうだ。何もかもすべて仕方のない事だ。自分の人生には、仕方のないことしか起こらない。
「このままでは珊瑚様は廃嫡され、白浜様に取って代わられましょう。むしろそのために、負けると分かっている戦をさせたのかもしれませぬ」
「だったらどうだと言うのだ」
「出海が負ければいいのです。将軍が討たれれば、もう珊瑚様のお心のままにできます」
「世迷い事を申すな!」珊瑚は初めて声を荒げた。「白浜を殺そうとしたというのは、お前の差し金か?」
「私は珊瑚様のためなら何でもいたします」
守隆の血走った目に飲み込まれそうで、珊瑚は恐ろしくなった。代わりに毒を飲んだのは、守隆の叔母だったはずだ。
「なら何もするな!」
飛び出すと夜風が冷たかった。珊瑚はそのまま少し歩いて、空を見上げた。暗幕に開いた無数の穴のように星々が瞬いている。珊瑚には、それが自分を取り囲む人々のように見えた。あそこまで行って引き裂かねば、自分の人生は開けない。しかし珊瑚にはそのための方途は何もなかった。叫び出したかったが、周囲を憚ってそれすらできなかった。追いかけて来た守隆に気付いたが、振り返りもせず声を殺して泣いていた。
百合の君(81)