
百合の君(79)
四十五歳のその男は、もうすでに老人だった。顔には皺が深く刻まれ、髪はほとんど白くなっていた。節くれだった指は、剣術で鍛えたものではなさそうだ。爪には土が真っ黒く挟まっている。
こんな奴、戦場で使い物にならんではないかと義郎は思った。しかし、それでも追い返さずに話を聞いているのは、男が百鳥望と名乗ったからだ。木怒山によると出海と同じ五明剣の家柄で、ただその男を従えているというだけで、喜林の名に箔がつくのだそうだ。
戦を生業とする侍で、戦場で役に立たぬ者が偉そうにできるというのは間違っている。間違ってはいるが、出海浪親に勝つことの方が大事だ。
義郎は、出海を滅ぼしたとしところで、もう穂乃も珊瑚も取り返せないと悟っていた。二人とも、完全に出海の人間になっている。浪親の家族になっている。だからといって、奪われた憎しみが癒えるわけではなかった。むしろ絶対に取り返すことができないゆえに、その憎悪は倍加されていた。あの荒和二年十二月三日の事件さえなければ、すべて義郎の、いや義郎と名乗る必要もない、蟻螂のものだったはずなのだ。
「して、そちはなぜ喜林に仕えたいなどと申すのだ?」
「息子が、いなくなったからでございます」
まるで義郎の瞳の中に最愛の息子がいるとでも言わんばかりに、望は血走った目で義郎を見た。
義郎は出海にいる珊瑚のことを思い出した。見つけることが幸福とは限らない。珊瑚は、おそらく次の戦には出陣してくるだろう。もしかすると、殺さねばならないかもしれない。
「子に何の関係があるというのだ?」
「息子が人さらいに遭ったのか、戦に巻き込まれたのか分かりませぬが、喜林様なら、本当に平らかな世がつくれるものと信じております」
「それを言っているのは出海だ、私は戦のない世をつくるつもりなどない」
「だからでございます。喜林様はその力で逆らう者すべて滅ぼして来ました。先の別所との戦では、城下に遺体で櫓を築き、湖を血の海に変えたとか。そのようなお方の天下で、誰が逆らおうなどと思うでしょうか。これで出海様を滅ぼせば、戦も人さらいも、すべて日の本からなくなります」
またあの紙芝居か、と義郎は思った。しかし、恐がられることは嫌ではないので、放っておくことにした。
義郎は木怒山に目配せをした。木怒山は深く頷いている。
「しかしそちの田畑はどうする? まさか刀で耕すつもりではあるまい」
「人を雇います。息子がいなくなれば、どうせ継がせる者もいない畑です。息子を見つけるなり仇を討つなりせぬ事には、どうしようもないのです」
人探しのために侍になる。どこかで聞いたような話に義郎は思わず笑った。
「よかろう、次の戦では兵百人を与える。それで手柄を立てれば、正式に喜林の家臣としよう」
「ははっ、きっとご期待に応えてみせます」
望は床に額が付くほど頭を下げて、義郎の前から下がった。木怒山はすぐに追いかけた。
「まさかあの百鳥公の末裔がわれらに力を貸してくださるとは、千人力でござる」
「いやいや、ずっと百姓仕事をしておりましたから、戦場でお役に立てるかどうか」
「そのお名前を聞いただけで、敵は退散しましょう」
「もはや百鳥にそのような神通力はありませぬ。それは自分でよく存じております」
木怒山は頷いた。木怒山とて、野に下りもう何十年にもなる百鳥家にそのような力がないことは分かっている。しかし、名族で民の義憤を味方につけた出海に対抗するには、やはり同じような存在が喜林にも必要だ。
「何か策はおありか? もしなければ、某が献じて進ぜるが」
「それは御無用。わたくしにも考えはありまする」
望が声を張ったのは決して虚勢ではなかった。間もなく古実鳴に侵攻してきた出海軍と、望は向かい合った。足軽よりも粗末な胴丸ひとつ付けただけの望を敵は笑った。なんだあの男は、本当に将なのか? なんでも百鳥とかいう元は出海様にも並ぶ名家だったそうだが、落ちぶれてあの様よ。敵の声は木怒山まで聞こえて来た。
そして、木怒山の心配した通りになった。腹を立てた望は、法螺貝が聞こえぬうちから突撃した。木怒山はあわてて援軍を送ろうとして、思いとどまった。中途半端に助けたところで、被害が大きくなるだけだ。
木怒山は、望をあきらめた。敵は予想通り突撃する望を目がけて雨のように矢を降らせた。望は、尻尾を巻いて退散した。涙と洟が垂れ、敗残者そのものだった。木怒山は呆れた。助けなくてよかった。あのような男では、何の利用価値もない。どうせもう間に合わぬのだから、あのまま死なせておこう、そう思うと同時、別の考えが頭をよぎった。あんな素人を味方に引き入れ無駄に兵を失ったことについて、責任を取らされるかもしれない。木怒山は、最初に助けなかったことを悔やんだ。
しかしもう遅い。追いかける敵は、もはや望に追いつこうとしている。そこに、伏せていた兵が矢を放った。慌てた敵の隙をついて望は反転、攻勢に転じ、あっという間に多くの敵を斃した。残った敵は退散した。
木怒山は安堵すると同時、思わず望の戦に見入った。望は勝ち誇った様子もなく、斃れた敵に近づいた。今度は何を始めるつもりだ、木怒山はその一挙手一投足を見守った。望は急いで敵の甲冑や旗印を奪い、それを自分で身につけると、そのまま逃げる敵を追い始めた。
木怒山から見ても、望の兵と出海軍の見分けがつかなくなった。当然それは敵にとっても同じことだ。出海軍は混乱し、総崩れとなった。
なんて卑怯な男だ、と木怒山は思った。落ちぶれたとはいえ五明剣の一角がこのような戦い方をするとは夢にも思わなかった。しかし、侮蔑している暇はなかった。このままではあの卑怯者に後れを取り、それはそれで叱責される。一万の木怒山軍が、津波の如く出海に襲い掛かった。
百合の君(79)