可否茶屋へようこそ
可否茶館、時をこえて
蝉の声がけたたましく響く真夏の午後、
朝霧こはるは、いつものように商店街の古本屋で時間を潰していた。
夏休みなのに特に予定もなく、誰かと遊ぶ気分でもなくて、
ふらっと入った古本屋の奥の奥、埃っぽい木の棚に、それはあった。
茶色い革の装丁に、金色の文字でこう書かれている。
「可否茶館日誌」
──読み方も、意味もよくわからない。でもなぜか、手が伸びた。
ページを開いた瞬間、
ふわっと甘い珈琲の香りが漂って、こはるは「あれ?」と目をしばたいた。
一瞬、視界がかすんだと思ったら……
次の瞬間、こはるの身体は、重力を失ったかのようにふわりと浮かびあがった。
「ちょ、なにこれ!?うわぁぁぁぁぁぁ!!」
足元がぐにゃりと歪み、世界が反転する。
光と影が交錯する中で、何かが耳元でささやいた気がした。
──ようこそ、こはるさん。お帰りなさい。
⸻
気づけば、こはるは見知らぬ石畳の路地に立っていた。
空はやわらかな夕焼け色。セミの声はなく、代わりに下駄の音がカランコロンと響いている。
「え、ええ?ここ、どこ……?!」
あたりを見回すと、そこには今どき見かけないような木造の建物が並び、
道行く人たちは着物姿。ガス灯が、ぼんやりと灯っている。
現代じゃない。
──ていうか、どう見ても歴史の教科書で見た世界だ。
「うそでしょ、これ、夢……?」
そう呟いたとき、ふと、すぐ近くの建物に目が留まった。
レトロな洋風の看板が掲げられている。
『可否茶館』
金色の文字、見覚えがある。そうだ、本の表紙と同じ──。
思わず扉に手をかけたその瞬間、カラン……と優しい鈴の音が鳴った。
「あら、お客様かい?」
中から現れたのは、白いひげを蓄えたやさしげなおじいちゃん。
まるで絵本から飛び出してきたような、柔らかい笑顔だった。
「……へ? えっと……」
「ああ、迷子さんかのう?まぁまぁ、まずは中へお入りなさい。
こっちはクーラーなんぞないが、冷たい麦茶くらいはあるじゃろうて」
ぽかんとするこはるの手を、おじいちゃんはやさしく引いてくれた。
こうして、
朝霧こはるの“時を越えた夏”は、静かに始まったのだった──。
こはる、混乱中。
椅子に腰かけ、出された麦茶を両手で抱えたまま、こはるは完全にフリーズしていた。
「……うそ、うそ……絶対うそでしょ……」
喫茶店の中は、木の温もりに満ちた不思議な空間だった。
ステンドグラスの光が壁を彩り、棚には西洋のティーカップがずらりと並んでいる。
さっきまで私、古本屋にいたんだよね?
おじいちゃん、着物に割烹着って……あれ、テレビの時代劇でしか見たことない格好なんですけど!?
「こ、ここって何年ですか……?」
おそるおそる聞いてみると、おじいちゃんはにこにこしながらこう答えた。
「うん?明治三十四年じゃが……?」
「…………はァ!?!?!?!?!?」
麦茶を噴きかけた。
「ま、ままままって、明治ってあの明治!?チョコレートの会社の?じゃなくて年号の!?」
あまりのことに頭が真っ白になる。
「ってことは私、まさか、タイムスリップ!?」
思わず立ち上がって叫ぶこはる。
すると、隣のテーブルにいた紳士風のおじさんが咳払いをして、彼女をチラリと見た。
「ご、ごめんなさいぃぃっ……!」
恥ずかしさで顔を真っ赤にしながらも、混乱は止まらない。
(こんなの漫画の世界じゃん……!いや、あれ?これ、乙女ゲームの導入?てことはこの店にイケメンが通ってて、選択肢次第で恋に落ちて……)
「選択肢、どこ!?どこ押せばいいの!?!?」
周囲の静寂の中、ひとり完全に浮いたテンションで暴走するこはる。
「……ふふ、にぎやかな娘さんじゃの」
おじいちゃんの笑い声が、やさしく響いた。
でもこはるはまだ、自分が現実に「明治時代」にいるという事実を、まったく飲み込めていなかった。
第二章 居場所のない娘と、珈琲の香り
「……で、あんたは一体どこから来たんじゃ?」
おじいちゃんがゆったりとお茶をすする音が、こはるの耳に心地よく響いた。
こはるはというと、あれからずっと喫茶店の椅子に座りっぱなしだった。
正直、足が震えて立てなかったというのが本音だ。
「こっちが聞きたいくらいですよぉ……」
半泣きで机に突っ伏しながら、
こはるはぽつぽつと“今朝まで普通に高校生してたこと”や、
“古本屋で見つけた本に触れたら気づいたらここにいたこと”を話した。
おじいちゃんは驚くこともせず、ただ「ふむふむ」と頷きながら、黙って聞いてくれた。
(やばい、これ完全に明治じゃん……スマホもないし、帰る方法わかんないし……)
こはるが絶望的な気分になっていたそのとき。
おじいちゃんが、ぽつりと言った。
「行くところがないのなら、ここに居ればええよ」
「……え?」
「宿もなければお金もないんじゃろ?それなら、うちで住み込みで働けばいい。食いっぱぐれはないぞい」
「えっ、いや、でも……私、なにもできないし!」
「人手が足りとってな。ちょうど『昼の給仕』が辞めてしもうての。
にぎやかな娘さんなら、きっと店も明るうなるわい」
優しい笑顔と声に、心の底がじんわり温かくなる。
今までの人生で「頼られた」ことなんて、そんなに多くなかった。
(まじで?まじでこの展開って……運命!?)
「……じゃあ!じゃあ!あの……!」
こはるはガバッと顔を上げて、思わず頭を下げた。
「お願いしますっっっ!!!がんばります!昼の!給仕!!」
「ほほ、決まりじゃの。じゃが無理せず、できることからでええんじゃよ」
おじいちゃん──九条椅子に腰かけ、出された麦茶を両手で抱えたまま、こはるは完全にフリーズしていた。
「……うそ、うそ……絶対うそでしょ……」
喫茶店の中は、木の温もりに満ちた不思議な空間だった。
ステンドグラスの光が壁を彩り、棚には西洋のティーカップがずらりと並んでいる。
さっきまで私、古本屋にいたんだよね?
おじいちゃん、着物に割烹着って……あれ、テレビの時代劇でしか見たことない格好なんですけど!?
「こ、ここって何年ですか……?」
おそるおそる聞いてみると、おじいちゃんはにこにこしながらこう答えた。
「うん?明治三十四年じゃが……?」
「…………はァ!?!?!?!?!?」
麦茶を噴きかけた。
「ま、ままままって、明治ってあの明治!?チョコレートの会社の?じゃなくて年号の!?」
あまりのことに頭が真っ白になる。
「ってことは私、まさか、タイムスリップ!?」
思わず立ち上がって叫ぶこはる。
すると、隣のテーブルにいた紳士風のおじさんが咳払いをして、彼女をチラリと見た。
「ご、ごめんなさいぃぃっ……!」
恥ずかしさで顔を真っ赤にしながらも、混乱は止まらない。
(こんなの漫画の世界じゃん……!いや、あれ?これ、乙女ゲームの導入?てことはこの店にイケメンが通ってて、選択肢次第で恋に落ちて……)
「選択肢、どこ!?どこ押せばいいの!?!?」
周囲の静寂の中、ひとり完全に浮いたテンションで暴走するこはる。
「……ふふ、にぎやかな娘さんじゃの」
おじいちゃんの笑い声が、やさしく響いた。
でもこはるはまだ、自分が現実に「明治時代」にいるという事実を、まったく飲み込めていなかった。
第二章 居場所のない娘と、珈琲の香り
「……で、あんたは一体どこから来たんじゃ?」
おじいちゃんがゆったりとお茶をすする音が、こはるの耳に心地よく響いた。
こはるはというと、あれからずっと喫茶店の椅子に座りっぱなしだった。
正直、足が震えて立てなかったというのが本音だ。
「こっちが聞きたいくらいですよぉ……」
半泣きで机に突っ伏しながら、
こはるはぽつぽつと“今朝まで普通に高校生してたこと”や、
“古本屋で見つけた本に触れたら気づいたらここにいたこと”を話した。
おじいちゃんは驚くこともせず、ただ「ふむふむ」と頷きながら、黙って聞いてくれた。
(やばい、これ完全に明治じゃん……スマホもないし、帰る方法わかんないし……)
こはるが絶望的な気分になっていたそのとき。
おじいちゃんが、ぽつりと言った。
「行くところがないのなら、ここに居ればええよ」
「……え?」
「宿もなければお金もないんじゃろ?それなら、うちで住み込みで働けばいい。食いっぱぐれはないぞい」
「えっ、いや、でも……私、なにもできないし!」
「人手が足りとってな。ちょうど『昼の給仕』が辞めてしもうての。
にぎやかな娘さんなら、きっと店も明るうなるわい」
優しい笑顔と声に、心の底がじんわり温かくなる。
今までの人生で「頼られた」ことなんて、そんなに多くなかった。
(まじで?まじでこの展開って……運命!?)
「……じゃあ!じゃあ!あの……!」
こはるはガバッと顔を上げて、思わず頭を下げた。
「お願いしますっっっ!!!がんばります!昼の!給仕!!」
「ほほ、決まりじゃの。じゃが無理せず、できることからでええんじゃよ」
おじいちゃん──九条純義は、まるで孫を迎えるようなやさしい笑みでそう言った。
ウェイトレス友達、発見。
可否茶館に慣れてきたとはいえ、まだまだ緊張の抜けないある午後。
「こはるちゃん、今日の昼は、うちで前から働いてくれてる子も来るんじゃ。とてもいい子じゃよ。」
店主のおじいちゃんが、いつもよりちょっとワクワクした顔で告げてくれた。
「えっ、そうなんですか?!」
私の目がぱっと輝く。誰かと一緒に働けるってだけで、ちょっと嬉しい。しかもいい子ときた。
その数分後、開いた扉から入ってきたのは、すらっとした黒髪の女の子だった。
涼しげな目元に、どこか強さを感じる佇まい。
でもその制服姿は、同じ“可否茶館”のエプロンで、なんだか少し安心する。
「はじめまして。今日から午後のシフトに入ることになった麗奈(れいな)です」
静かにそう言った彼女は、礼儀正しく、でもどこか淡々としている印象だった。
「私、こはるです!よろしくお願いしますっ!」
元気よく挨拶すると、麗奈は一瞬目を丸くして、それからふっと笑った。
「……うん。元気だね。よろしく」
それだけのやりとりだったけど、私のなかで“この人とはきっと仲良くなれる”って、なぜかそんな予感がした。
◇ ◇ ◇
シフトが重なるたび、少しずつ話すようになった。
こはるがミスして落ち込んでいた日、麗奈は一言「ドンマイ。次は気をつければいいよ」と言って、さりげなくフォローしてくれた。
一緒にまかないを食べるときは、こはるがしゃべって、麗奈が笑って。
性格は全然違うのに、不思議と波長が合った。
ある日、こはるが思い切って聞いた。
「麗奈ちゃんって、どうしてここで働こうって思ったの?」
「……落ち着く場所、探してたんだよね」
そう言ってから、少し間をおいて。
「あと、珈琲の香りが、なんとなく安心するから」
ぽつりと漏らしたその声に、彼女なりの過去とか、事情とか、そんなものを勝手に想像した。
だから私は、何も聞かなかった。ただ「そっか」とだけ返した。
そのあと、麗奈は少しだけ微笑んで「……こはる、変なとこ優しいよね」って言った。
なんだかちょっと照れくさかった。
◇ ◇ ◇
それから、ふたりの距離はすぐに縮まった。
お客さんからは「姉妹みたい」と言われることも。
「麗奈ーー!、今日もエプロン似合ってる〜!」
「はいはい、今日も騒がしいこはるちゃんですね」
そんなふたりは、今日も可否茶館のカウンターに並んでいる。
可否茶屋へようこそ