百合の君(64)

百合の君(64)

 別所来沓(べっしょくるとう)は、縁から今は出海(いずみ)のものとなった狩菜湖(かるなこ)を眺めていた。湖畔の城からであれば、山の緑が映り、行き交う漁船や商船が太古に沈んだ森を巡っているかのように望めるはずだが、遠い屋敷からでは見えない。
 来沓は浪親(なみちか)との一騎打ちを思い出した。月と篝火に照らされて立ちはだかった敵の大将。あの緊迫。一瞬の誤りが永遠に名誉を、命を奪うという極限の状況の中で、集中力は限界を超えて高まっていた。浪親の剣の軌跡、打ち寄せる波のように美しい生命の躍動が来沓に何度も迫った。来沓の命も、それをよく受け止めた。鍔迫り合いでにらみ合ったあの目は、決して戦のない世を望んでいる男のものではない。
 しかし出海浪親は、今までの言動と辻褄を合わせるように惣無事令を出した。刀を捨てて武士が生きられるものか、来沓は叫んだ。それを一番よく知っているのは、お前ではないか。お前が侍は徳では生きられぬと私に教えたのだ。別所から刈奈羅(かるなら)を奪ったというのに、奪還の機会は与えぬというのか。来沓が再び叫ぶと、宮路英勝(みやじえいしょう)が駆け寄って来た。
 すぐには声をかけない。来沓が何も言わぬのを見て、ようやく口をきく。
「殿のお気持ち、お察しいたします」
 来沓は初めて英勝に気が付いたというように、視線を向ける。
「うむ、お前だけだ。ここまで付いて来てくれたのは」
「私は、殿と一緒に育ちました。もう死ぬ時まで一緒です」
 来沓は、噛みしめるようにうなづいた。
「恩に着る」
 そして城を睨んだ。初陣では絵筆の先のように柔らかかったあの眉が、今では黒々と太い線を描いている。日に焼けた顔にはいくつもの刀傷があり、確かに畑を耕して満足する男の顔ではない。その涙には、血の赤がある。

 都を出てから十日経って、出海浪親はやっと妻と二人きりの時間を得た。雪柳が未だ衰えを見せぬ桜の足元を明るく照らしている。
「約束通り、将軍になったぞ」
「おめでとうございます」
 穂乃は初々しく頭を下げて、酌をした。浪親も手ずから酒を注いで、二人で一気に飲み干した。庭は夢のように明るかった。喜林から取り返した妻は、別人のように変わっていた。顔が、ではない。声でもない。浪親の穂乃を見る目が変わったのだ。蝶姫が持っていた文は、ずっと懐にある。そこから真っ黒なヘドロのようなものが広がって、浪親の心を覆っていた。穂乃は何も知らぬ顔で見上げる。
「もうすぐですね、猫が鼠を食べる前の世になるのは」
「ああ」浪親はまた一気に飲み干すと、帝の声を思い出した。どんな手をつかっても帝に、天下の全ての武士に、自分の道が正しかったのだと認めさせねばならない。が、その前に、後顧の憂いを断つ必要がある。
「ひとつ、話しておきたいことがあるのだが」
 酒は、期待していたほどの働きをしていなかった。しかし浪親は十分に酔ったふりをして、懐に手を突っ込んだ。雪柳は白い影を落としている。
「なんです?」
 穂乃が身を乗り出してくる。今度は珊瑚(さんご)のことが、浪親の頭をよぎる。あの赤い瞳。喜林義郎(きばやしよしろう)と同じ、赤い瞳。次の将軍は珊瑚にすると約束した。赤い瞳の蛇が、鎌首を上げてこちらを見ている。
 と肝心なところで現れたのは並作だ。「おやぶーん!」と例の調子でやってくる。浪親の心は、そちらに逃げた。
「どうした?」
 並作はやはりよせばいいのに、走りながら叫んだものだから、しばらく口がきけずに肩で息をしていた。浪親は酒を一杯与えようかと思ったが、並作が酔って報告が雑になるのを恐れてやめた。
 穂乃が持ってこさせた水を飲んで、ようやく並作は話し出した。
「謀反です、謀反、別所来沓が謀反を起こしました!」
「なんだと?」
 浪親は目の前の盃を投げつけた。
「帝の信任を得た将軍に逆らうなど、帝に逆らうも同然ではないか!」
 飛び散った酒が、嫌なにおいを発散させる。飛びかかる相手を見つけた蛇を、浪親は甘やかした。
「私は帝のため、親を亡くした子のために戦い、将軍になった! 戦をなくして誰もが平和に過ごせるようにだ! お前たちも見ただろう、あの童を! あの母親を! あいつはまだ足りんと言うのか! この世の情愛がすべて憎しみに変わるまで、戦を続けるつもりなのか!」
 穂乃と並作の怯えた様子を見て、浪親はやっと我に返った。
「すまぬ、いささか飲み過ぎたようだ。しかし、謀反を放っておくわけにはいかない、並作」
「へい」
「すぐに戦の準備だ。命を助けてやった恩を忘れおって・・・」
 まだ不安げな穂乃から逃げるように、浪親は刀を握り立ち上がった。並作は穂乃を、というよりその手に持った酒を名残惜しそうに見ていたが、浪親がすっかりいないのに気付き、慌てて追いかけた。

百合の君(64)

百合の君(64)

あらすじ:今とは違う時間軸の、ここではない日本。山賊・出海浪親は、狩人の蟻螂(喜林義郎)から、その妻・穂乃を奪い去ります。やがて浪親は国をも奪い、穂乃を探し侍となっていた蟻螂も、古実鳴国の主となり、名を喜林義郎と改めます。二人はお互いが因縁の相手と知らぬまま、共通の敵である別所と対抗するため同盟を結び、やがてこれを退け、出海浪親は征夷大将軍となりました。 この世から戦をなくし、かつて穂乃から聞いたおとぎ話を実現しようとする浪親でしたが、穂乃がかつての夫である喜林義郎と不義の密通をしているという讒言が頭から離れません。 そしてそんな浪親に、また新たな戦いの影が忍び寄るのです・・・。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-07-05

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted