
百合の君(63)
都からの帰路、浪親は、自らの軍が蹂躙した村を通った。家は焼け、転がっている死体には、凌辱の跡があった。死体に、いや、まだ生きている者にさえ蝿が産卵し、「殺してください」と呻くその唇を、蛆が食っていた。
それは、別所が侵略したあの長美千尋村と全く同じ光景だった。浪親は、自分があの時と場所に戻ったような気がした。
敵の妊婦の腹を裂いてくれと涙ながらに訴えたあの母親がこの光景を見たら、随喜するだろうか? とてもそうは思えなかった。人間はこのような破壊を望むことはできても、目の当たりにして喜べるようにはできていない。
浪親の精神は、その衝撃と、胃袋の中に手を突っ込んでくるような死臭から逃れるために、自己の内面に逃避した。そして、穂乃の語ったおとぎ話を思い出した。大昔、いきものはみんな天の国にいて、必要なものを分け合って生きていたが、ある日ふとしたはずみから、猫がねずみを殺してしまった。神様は怒って猫を追放したが、猫とねずみを失った天の国は混乱し、すべてのいきものは他者の命を奪わねば生きていけなくなったという。
彼は、猫がねずみを殺す前に戻すと誓った。そのために将軍になると。
穂乃がこのおとぎ話をした時には、すでに喜林と通じていたのだろうか? 浪親の心は、もう穂乃とあの文を切り離して考えることはできなかった。
それは大いにある得る話だ、と彼は思った。喜林義郎は、六尺もある刀を背負い、谷をひと跳びに飛び越えたという。それほどの男であれば、あの村にたどり着き、密かに穂乃を見つけ出していたとしてもおかしくはない。
しかし、なぜその時に穂乃を連れ去らなかったのだ? 復讐のためか? 珊瑚を私に育てさせるため?
私が将軍になれたら、その跡継ぎに喜林の子である珊瑚を据える。もし私が負けて滅びれば、穂乃と珊瑚は喜林に戻ればいい。
なんとなく、その考えはしっくり来た。自分が珊瑚に心許せないのも、穂乃のそういった思惑が影響しているような気もする。
蝶姫の肉体が、生々しくよみがえった。あの匂い、あの汗、あの体を、喜林は毎晩抱いていたのか・・・。
血と欲と憎しみが、互いに加速させ合いながら、浪親の肉体を巡っていた。
しかし、彼の誇りは、そのような劣情が己の中で跋扈するのを許さなかった。いくらなんでも、そんな大きな企み、樵風情に描けるわけがない。帝でさえできないだろう。
帝・・・。浪親は、将軍宣下の日に偶然聞いてしまった帝と関白の会話を思い出した。
「人は自分が正しいと思った時にはすでに誤っているくせに、自分が正しいと思わねば何事もできぬ」
帝の言葉は、すでにこの村を見ているかのようだった。私が血と泥にまみれ、やっとたどり着いたその先を、帝はあの宮殿で花と楽の音に囲まれながら見通していたというのか?
その屈辱に、浪親は、いっそ村を焼き払ってしまいたいような衝動に駆られた。出海は正しかったのだと、あの口から言わせなければならない。そうでなければ、私はなぜこの手を汚して来たというのだ。もう引き返すことはできないのだ。
吐きそうになるのを堪え、浪親は背を伸ばした。
「投降した者をここへ」
引っ張られてきたのは、まだ十代にも見える若い侍だった。負けた悔しさも見せず、ひれ伏している。
「宮路英勝と申します」
「宮路? 別所の側近ではないか」
浪親は若者の目を見た。澄んでいた。主を捨てたその顔は、すがすがしいと言ってもよかった。
「別所は将軍に弓引き、挙句に帝からも見捨てられたような家です。私は出海様のために働きとう存じます」
「あい分かった。存分に励むがよい」
浪親は滅びた村を再び眺めた。うずくまり、痩せこけた顎に無精ひげを生やした老人が、反射的に浪親を見上げ、とっさに目をそらした。自分の村をこんな風にした人間に頭を下げてでも、人は生きねばならぬというのか。
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百合の君(63)