
百合の君(53)
その晩、義郎は城を囲む陣中で浪親と初めて、いや、二度目の面会を果たした。篝火の照らすその顔を見て、すぐに穂乃を奪った男だと気が付いた。並作と呼ばれた男もいる。目が合う前に、とっさに義郎は狼の頭のフードを被った。
「顔に深手を負いましてな、勘弁されよ」
夜闇に浪親の氷柱のような目が親し気に笑っているのが見える。この目があの夜は地べたを這いつくばる私を見下ろしていたのだ、義郎は思った。頬の傷跡が、一層の凶悪さを添えていた。
「我らの求めに応じてくださった上での負傷、感謝の言葉もありませぬ」
まるで風が海面に波を立てるように、その声は義郎の肌を震えさせた。泣く穂乃をさらった男が、いま刀の届く距離にいる。死体に湧く蛆のように、体内に憎しみが増殖している。
「そうおっしゃられると恥ずかしい、ただ不覚を取っただけでござる」
「滅相もない、喜林殿の武勇は聞き及んでおりますぞ」
そうだ、俺はこいつを殺すために武道を習ったのだ。フードを押さえながら義郎は、いま古実鳴の軍に総攻撃を命じたらどうなるか考えた。もしここで奇襲をかければ浪親を殺すことはできようが、穂乃の行方は永久に分からなくなる。義郎は憎しみの蛆を潰すことにした。
「私は回りくどい挨拶は苦手でしてな、早速ですが同盟の条件を取り決めたい」
浪親が視線をこちらに向けたので、義郎は急いで目を逸らした。
「して、それは?」
「なに、よくあること。お互いの妻を人質として交換いたしたい」
想定内のこととはいえ、浪親は戸惑った。領土よりも先に人質の話が出てくるなんて不自然だ。喜林義郎の妻の蝶姫は絶世の美女と聞く。進んで手放したい女子とは思えぬ。浪親も穂乃を手放したくはなかった。
「お断りいたす」
「なんですと」
「その代わり、わが嫡子の珊瑚ではいかがか」
そうだ、浪親は思った。喜林義郎は稀代の猛将だ。谷を飛び越え、敵将を馬ごと真っ二つにしたという噂も聞いたが、何より本人を目の前にしてのこの殺気。腰に佩いた大剣が今にもこの首に突き刺さって来そうだ。珊瑚の将来のためにも、喜林の下で鍛錬を積むのは決して悪い事ではない。いずれ私と天下を治めるのだ。
一方、義郎は浪親が穂乃を妻にしていることを知らない。その珊瑚という子があのお腹の中にいた赤ん坊だということも。
「恥ずかしながら私にはまだ子がありませぬ。子には子を、妻には妻を、そうしなければ対等な同盟にはなりませぬ」
いま義郎が考えているのは、自分がされたように、浪親から妻を奪うことだけだ。義郎の目には、この篝火に照らされて、あの日の穂乃の姿がありありと浮かんでいた。まるで囚人のように後ろ手に縛られ、猿轡をされ、振り返ったその目には涙があふれていた。義郎は、その凍りついたような表情から熱いはずの涙が流れていることに、奇妙な非現実感を味わっていた。口の中には、その時噛みしめた土の味も蘇っている。歯ぎしりをした義郎は、ガリッと砂を噛んだと思ったが、もちろん気のせいだった。
浪親はその声の震えを跡継ぎに恵まれぬ口惜しさと理解した。ちらと並作の横顔を見ると、丸い顔に乗った団子っ鼻が照らされている。浪親は村を襲って返り討ちに遭った晩を思い出した。子分共々滅多打ちにされて山に逃げ、谷を駆けずり回り、ようやく腰を下ろした地面の冷たい感触は、まだ尻に残っている。あの時、並作のボコボコにされた顔を照らしていた月の光。その日の暮らしのために奪わねばならぬ盗賊とも、それから身を守ろうとする百姓とも離れ、ひとり尊しとばかりに輝くその姿。
かつて天の国には、奪う者も奪われる者もなかったと穂乃は言った。与えられた物を等しく分け合い、不自由なく暮らしていたという。
知らず浪親は月を見上げていた。もうすぐだ、と思った。喜林と組みこの戦に勝てば、手が届く。
浪親が口を開こうとしたその時、城門の開く音が響いた。
百合の君(53)