
百合の君(49)
春であればたんぽぽが咲いて、綿毛を吹いたり、バッタを追いかけたりしているところだが、兵隊に踏みつけられた秋の草原は、わずかな花も潰れていた。園はへこんだ腹当とぶかぶかの陣笠、それに半ば錆びたような槍を持って、立っていた。目の前には別所の旗印が一面に広がり、それに対する味方の数はいかにも心細い。
園はショックを受けた。彼は人から尊重されないことに慣れていない。特別扱いを期待して百鳥の名を出した訳ではなかったが、これはあまりに酷すぎると思った。あんなビラを配っていたのだ。出海様の隣に立つことはできずとも、同じ戦場に立つくらいのことはあってもいいはずだ。そして出海様に認められれば、さちだって・・・。
隣の天蔵を見る。縮れ毛が風になびいて目を細めている様は、彼我の戦力差など気にしていないようだ。
「天蔵、お前も死ぬかもしれないな」喉が鳴った。「俺は侍の子だからいいが」
「いやー、おれも園と一緒ならかまわねーぞー」
天蔵の声は普段と変わりなかった。天蔵の乗っている柿の木は、山のように高い。園は奥噛山に登った時を思い出した。天蔵は真っ赤になって、死にかかっている。負けてたまるか。俺は天蔵の子分ではない。汗で滑る槍を、握り直した。
「突撃!」法螺貝が聞こえて走り出した。前から矢が降って来る。園は一瞬目を瞑った。前を走る奴が次々に倒れる。園は味方を踏んづけて飛び上がった。内股が震えて、小便が漏れた。
「あぶねえ!」
声がして前を見ると、槍が振り下ろされて迫る矢を叩き落とした。その槍の主を見ると、天蔵だ。天蔵と目を見交したと思った瞬間、刀が見えて園はすんでのところで避けた。刀が地面にぶつかるどすんという音と振動が、妙に大きく伝わって来る。足元で草が千切れて舞った。とっさに、敵の顔を見た。目が合った。敵は四十手前くらい、園が子供だからか、驚いたような顔をしている。彼の父と変わらないような、普通のおじさんだった。村の畦道で挨拶したり、いたずらして叱られたりしているような普通の大人だった。兵のほとんどは召集された百姓なのだから、当然と言えば当然のことだ。しかし、普段畑で土を耕したり家で子供の世話をしたりしているような人が自分に向かって刀を振り回してくるというのは、園にとって信じがたい事だった。裏切られたと感じた。
父様も普段、俺の見ていない所でこうやって子供を殺しているのか?
敵の二撃目が来る前に、園は後退した。しかしそこにも敵がいて、槍が伸びてくる。園はそれを完全にはよけきれず、脇腹に傷を負った。
このままでは死ぬ。何もできないまま死んでしまう。
もう槍を持っていることも忘れ、いや、どこかで落としてしまったようだ。天蔵を呼ぶが返事はない。いつの間にかはぐれてしまったらしい。いや、はぐれたのではない。自ら天蔵と距離を取るように移動していた。逃げてもばれない。また嫌な血が巡ってきた。
園を見失った天蔵は、必死に戦っていた。向かってくる矢を叩き落とし、刀を捌いていると、なんとも言えない気分になってきた。そのリズム、全身を巡る血液の躍動が頭にかかっている靄を払うようだ。気持ちがいい。天蔵は槍で目の前の男の胸を突いた。新しい世界への鍵穴が開いて、真っ赤な血が流れ出した。
恐い、楽しい、気持ちいい! これだ、と天蔵は思った。これこそが園の言っていた、生きるために生きるという事なのだ。生と死の境にあって、ただ生きるために戦うということ。その他の全てを忘れ、この先何十年の人生を今の一瞬に凝縮させるということ。このためにこそ人は生まれてくるのだ。
百合の君(49)