
百合の君(47)
清道の描いた絵は、園の目にもとまった。村の近くのよく熟れた柿の木に、それは夜露を残して貼りついていた。
「なんだー」
天蔵が引き破ろうとするのを制し、園は少女の絵の下のにじんでかすれた文字を判読した。半分も読み終わらないうちに、道が開けて柿の木を割って真っ直ぐに伸びた。光が差している。
「この間さ、こんなことがあったんだよ」天蔵はいつの間にか木に登り柿を齧っていた。
「戦が始まって米の値段が上がってるのは知ってるだろ? 商人がやってきて、親父に米を売ってくれねえかって相談してたんだよ。親父は首を縦に振らなかった。なんでか分かるか?」
「いやー、わかんねーなー」天蔵の吐いた種は、園の足元から三尺くらい先の地面に落ちて、転がった。
「もっと値上がりしてから売ろうとしてんだよ。五明剣がどうのと言ってた親父が、商人の足元見てんだ、飢えて死んでる民もいるのによ。どう思う?」
「園のとうさまのことだ、悪いことは考えてねーよー」
「悪くはないが俺は恥ずかしい」園がいきなり柿の木を叩いたので、天蔵は驚いて枝を掴んだ。「生きるというのは、ただ生きるために生きるってことじゃない、なんていうのかな、もっと尊いものがあるはずだ」そして木に貼りついた紙をはがして手に取った。「これは出海様が共に戦おうと俺達に訴えてくださっているのだ。命令ではない。俺達の意思でだ。昔一緒に戦を見ただろ? 百姓が兵隊と戦っていた。別所は卑怯にも百姓にまで手を出した、女子供にもだ。そんな奴等は許しちゃおけねえ、それに」
「あー、ベッショは園のじいさまの仇だもんなー」
「おれ、そんな話したか?」
「あー、何度も聞いてるぞ」
園は恥ずかしくなった。自分としては、家や親の財産を鼻にかけるつもりはない筈なのだ。
「まあ、個人的な事情を言えばそうだが、でも俺は戦で手柄を立てて家をまた五明剣だの何だのにしようってんじゃねえんだ、正しいと思うことに命を使いてえんだ」
「そうだなー」
また柿の種を吐き出す天蔵を見て、園は物足りなく感じた。園には、もちろん他にも友はいる。しかし、共に命をかけたいと思えるのは、天蔵だけだった。
何年か前、園と天蔵は仲間達と落とし穴を掘った。いつも通り、さちにいたずらをしようとしてのことだ。
さちが通りそうな時分を見計らって、畦道に五寸くらいの穴を掘る。そして掘り終わると納屋に隠れる。
案の定、程なくしてさちは来た。来たが、さちは向かいからやって来た塩爺という名前の通り胡麻塩頭の爺さんに道を譲ろうとして止まった。予定外の展開に、園たちは目を見合わせた。
「どうする?」
冬彦の声に、園は返事ができなかった。そして見ている間に、塩爺は落とし穴に引っかかって見事に転んだ。
その刹那、天蔵は塩爺に向かって駆けだした。さちがひっかかった時よりも速かった。
「あのバカ」
冬彦の声を、園は無視した。
園から見た天蔵は塩爺を助け起こすと、頭を下げて何事か言った後、下げた頭を思いっきり殴られた。
園の胸はドキドキし、嫌な血が体中を巡った。
今行かなくてはダメだ。生きてるだけの人間になる。
園はすくんでいる足を励まし走った。塩爺は、園のことは殴らなかった。
あら、と聞こえて振り返ると、そこにいたのはさちだった。
さちは美しかった。胸はふくらみ、足は細く長くなった。手ぬぐいからはみ出た髪の毛が、小さい頃からきれいだった産毛を思い出させた。わずかに栗色がかった瞳は活気に満ちていて、もう園たちだけでなく、大人をも振り返らせることがあった。
「なにしてるの?」
さちはわざわざ木を見上げて、天蔵に話しかけた。
「俺達なー」
天蔵が言おうとするのを、園は口に一本指を当てる動作で止めた。
「ただ遊んでいるだけだよ、さち」
さちは園をちらりと見て、また木の上に視線を戻した。
「みんな働いているんだからねー」
おー、天蔵は手に持った柿の実を頭上に挙げた。
「さちも食うかー」
もらおうかしら、とさちが言うと、天蔵は軽く投げてよこした。さちは落っことしそうになりながらも、受け止めた。
「口止め料ってわけね。みんなにはだまっててあげるから、早く帰るのよ」
おー、天蔵が応じると、さちは微笑んで、園には一瞥もくれることなく去って行った。
「今すぐ城に行こう」
出て来た声は思った以上にとげとげしくて、自分でも嫌な気がした。
「わかったー」
しかし天蔵は、気にした様子もない。
園は、天蔵がためらうことを期待していた。天蔵に塩爺が転んだあのときに自分が感じた嫌な血を味合わせてやりたかった。その柿の木の上から降ろし、自分と同じ地面に立たせたかった。しかし天蔵は降りてこない。園は見上げた。天蔵はさもうまそうに柿を齧っている。「どうしたー? すぐ行くんじゃないのかー?」そう言われているようで、園は友を待たずに歩き出した。
百合の君(47)