百合の君(46)

百合の君(46)

 浪親(なみちか)花村清道(はなむらきよみち)を城に呼んだ。八津代国平定の宴で掛け軸を献上したあの絵師だ。清道は自らの作品が城主の背後に飾られているのを認めて、わずかに満足そうな笑みを浮かべた。
 その意匠なのか絵の具が飛び散ったのか、花火のような柄の着物を見て、浪親は床にしみがつくのではないかと恐れたが、手をつき袖が触れても床はつるつると光っていたので安心した。床には外の青空が映っていて、清道の色彩を中心としたその構図は、清らかな泉に浮かべた色紙(いろがみ)のように見えた。
「花村殿は、この童をどう思われる」
 浪親は床に座る子供を目で示した。昨日城下で拾った少女だ。非常にみすぼらしかった筈だが、清道と並ぶと、親子か年の離れた兄妹に見える。
「みなし児で、ございましょうか」
「別所との戦で親を亡くしたにもかかわらず、本人はそれを覚えてもおらぬ様子。この者は親の(かたき)すら知らんのだ」
 浪親は眉間に(しわ)を寄せた。清道は膝の前に手を突き、額を重ねる。
「別所の蛮行は、許すまじきものと心得ます。われら絵師の仕事は、平らかな世あってのもの、どんな世でも秋はもみじが色づきますが、人の心が荒んでは美しいとも思いませぬ」
 清道が話している間に、浪親の顔がみるみる晴れた。
「よくぞ申してくださった、花村殿を呼んで良かった。花村殿には、この童の絵を描いていただきたい。それを刷って城下に配り、別所の蛮行を国中に、いや日の本中にまでも訴えたいのだ」
 そのとき清道は、自分の絵がどのように使われるのか想像できたわけではなかった。ただ少女は貧しいなりのわりに美しく、興が乗ったに過ぎない。
「ははっ、では早速」
 清道は懐から紙と炭を取り出し素描を始めた。浪親は床が汚れることを気にしたが、止めなかった。絵を描き始めたと同時に、清道の世界には少女と紙しかなくなってしまったからだ。静かな室内に炭を走らせる音だけが響いて、浪親は清道を止めるどころか動くことすらできなくなった。
「目線はこちらへ」「手はおろす」「そう」
 少女はモデルの経験などないはずなのに、清道の指示によく従った。この年齢では四半刻じっとしていることも難しいだろうに、もう一刻は過ぎた。浪親も全く退屈しなかった。目の前であの花村清道が全精力を注いで創作しているのだ。

 生家が焼ける少し前、十一歳の時だった。画商が父に屏風を持ってきたことがある。商人が包みを取った瞬間、浪親はその絵に恋をした。絵は、戦で亡くした子を悼む母の画像だった。陶のように滑らかな頬に、俯いた瞳は抱き上げる我が子を見つめている。涙が出ていないのは、泣いていないからではない。その生きとし生けるものすべてに注がれる悲しみの、慈しみの涙は目に見えるものではないからだ。
 それから浪親は、呼ばれてもいないのに父の部屋に参上するようになった。しかし、嫡子の稽古がおろそかになるのを恐れて、ふた月ほどで父は屏風を手放した。浪親は悲しんだが、それでも変わらず父の部屋に通った。絵がなくても通いつめれば、父が考えを改めてくれるのではないかと思ったからだ。しかし、あの作品は戦で焼失したと聞く。
 その絵師がいま、目の前で描いている。浪親は汚らしい少女があの美しい母親に変わっていくのを見るような気がした。
「喉が渇いただろう、殿様、水を」
 なので清道にそう命じられても、腹が立つどころかむしろ喜んでさえいた。浪親は少女によく尽くした。動けぬ彼女に手ずから水を飲ませてやり、髪を整えてやったりした。少女の髪は痛んで全く指が通らなかった。髪を引っ張られた痛みで一瞬こちらに非難の視線を送ったもう片方の眼帯が痛々しく、浪親は抱きしめてやりたい衝動にかられた。
 そして、そのような気持ちは我が子の珊瑚(さんご)にも抱いたことがないと思い至った。最後に珊瑚と言葉を交わしたのは、いつだったろう? もうとっくに喋れるはずなのに、その声を聞いた覚えがない。少女は視線を絵師に戻したので、浪親は彼女の世界から消えた。絵を描く音も消えて、浪親は孤独な感傷にすっぽり包まれてしまった。

百合の君(46)

百合の君(46)

あらすじ:別所に対抗するため、出海浪親は同盟の使者を古実鳴に送りました。使者の帰りを待つあいだ城下を歩いていた彼は、戦で親を亡くし片目を失った少女を見つけます。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-03-01

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