百合の君(32)
牛小屋にくぎ付けになって二日、戸口から窺う外の世界では、紋白蝶が舞うキャベツ畑にあと一人、名も知らぬ兵が斃れている。
今、何人の兵が生き残っているのかさえ来沓には分からない。しかし、もう隊は総崩れだ。生きている者にも、城攻めをするような力は残っておるまい。牛と一緒に糞小便を垂れているうちに、若い来沓の自信と誇りも、すっかり失われてしまった。まだ少年の柔らかい眉には、日に焼けて汗が輝いていた肌には、干し草がこびりつき虱がたかっている。
このまま飢えて死ぬのだろうか、来沓は思った。恐かった。百姓も飢えも恐ろしかった。振り返ると、牛と目が合った。外の死体など無いかのように、そして自分が死ぬこともないかのように、作り物のように真っ黒な無垢な瞳を来沓に向けている。刀を抜く姿が映っている。一撃で仕留めてやる――。
瞳の中の自分が刀を振り上げた時、たくさんの蹄の音と共に「若様!」と呼ぶ声が聞こえた。次いで百姓達の逃げ出す声。援軍が来たんだ、安心した少年はその場で小便を垂れた。
太陽の下で見る自らの姿はみすぼらしかった。汚れているのはいい。蚤や虱もまだ許せる。しかし、自らの糞小便の臭いだけは、涙が出るほど情けなかった。城で自分にかしずいている者たちが、殿上人のように見える。
来沓は礼も言わず、差し出された手ぬぐいで顔を拭った。
「若様、ご無事でしたか」
跡取りを救出した自分の活躍に、宮路英勝は目を輝かせていた。来沓の傳役の孫にあたる英勝は、幼い頃より共に育った仲だ。その家来達でさえ甲冑も表情も輝かせている。
来沓は真っ白な手ぬぐいについた汚れは見ぬようにし、返事もせずに返した。英勝はそれを恭しく受け取ると、眉根を寄せて歯ぎしりをした。
「出海め、百姓のふりをするなど、なんと卑劣な。武士の風上にも置けぬ」
武士―――。久しぶりに聞いたその言葉の響き方が、以前と全く違っていることに来沓は気が付いた。どこがどう変わったのかは分からない。が、ある日突然父が他人のように接してきたら、きっとこんな気持ちだろう。来沓は爺の亡骸を見た。まだ腐ってはいないようなのに、ただ倒れているだけなのに、その異様な雰囲気はすでに来沓を拒絶している。
「じじ様!」
ようやく祖父に気付いた英勝が、駆け寄ってその遺体を抱き起した。来沓の孤独はより深まった。来沓は、主として何か言わねばならぬと感じた。
「一休みした後、進軍を再開する」
しかしそれは自分が聞き取れないくらい微かな声だったので、咳払いを一つしてもう一度言い直さねばならなかった。
百合の君(32)