百合の君(19)

百合の君(19)

 ひとり潜んでいた穂乃(ほの)は、あの時と同じ恐怖を感じていた。
 浪親(なみちか)がみんなを呼んでいるというのは聞いていたが、あんな男の顔など見たくないとこっそり抜け出し小屋に戻った。それでも気にはなるので、戸のすき間から向こうの様子を窺うと、男たちはみな武装して走っていく。彼らはまた、どこかで誰かを傷つけるつもりなのだ。でも、と穂乃は思う。彼らから食べ物を与えられている自分も同罪だ。私が作っているのは、もうしめ縄だけではない。もし蟻螂(ぎろう)が迎えに来てくれても、あの生活にはきっと戻れない。私は蟻螂を探してさえいない。
 その考えは悲しかったが、絶望ではなかった。むしろ氷った小川に泳ぐ魚のような躍動を、穂乃は感じた。いつかその氷は溶けて、新しい春がやってくる。腕の中の赤子、珊瑚(さんご)を見た。すやすやと眠っている。
 穂乃は耳を澄ませた。何か聞こえる。もちろん珊瑚の寝息ではない。外だ。
 小屋の外、おそらく何軒か隣の家で、聞きなれない男の声と物を漁るような音がする。
 村人ではない。
 とっさに山に逃げようと思った。が、珊瑚が起きてしまうかもしない。泣き出したら絶対に見つかる。穂乃は小屋の中を見回した。鍋、甕、灰、火掻き棒、身を隠すところはない。
 穂乃はその場にうずくまった。視界の端から見られている気がするが、立ち上がって隅に行くのも恐ろしかった。震えている膝が見える。その向こうの粗末な壁のすき間から、わずかに外の光が差している。
 ここから風が入っていたのか。ここに水甕を持って来たら、少しは過ごしやすくなるかもしれない。穂乃の恐怖は日常に逃避した。しかし、無情にも男達の声は近づいてくる。心の中で必死に助けを求めながら、自らの力では何もできない自分が悲しくて腹立たしくて、涙が出てきた。せめて珊瑚だけでも守らなくてはいけないのに。
 そして、壁のすき間が暗くなって、目の前まで足音が迫ってきた。髪の毛が浮き上がった。心臓が壁を叩いて居場所を伝えてしまいそうで、穂乃はぎゅっと珊瑚を抱いた。戸が乱暴に開け放たれた。暴力に酔った三人の目。浪親は違った。浪親たちはまだ良かった。

百合の君(19)

百合の君(19)

あらすじ:盗賊の出海浪親にさらわれた穂乃は、彼らの村で生活していた。浪親が出陣している間、留守の穂乃たちに、兵隊が迫ってくる。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-08-31

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