百合の君(5)

百合の君(5)

 松葉相撲で遊んでいた(その)は、蹄の音を聞いて顔を上げた。そしてそのまま音の主たちを見送ると、振り返って叫んだ。
「おいみたかよ、てんぞー!」
 天蔵(てんぞう)(わら)の絡んだくせ毛を振り向かせて叫び返した。
「おー」
「ひとがうまとはしってたぞー、うまおとこだー」
 たまらなくなって園は駆けだした。馬男の去って行った方向には、奥嚙(おくがみ)山を始めとした正巻(まさまき)の山々が、夕日に飲まれようとしていた。それは日が沈んでいるというよりも、山やその上に見える小さな城が夕焼けに沈もうとしているように見えた。園は自分もその中に溶け込ませようと懸命に走った。草鞋履きの足指の間に、砂が溜まってじゃりじゃりした。天蔵も追いかけて来る。二人はきらめく光の中を走っていた。転がる石ころも本来の姿を取り戻し、その一つ一つが無限に宇宙を拡大させた。しかし、時間のないはずのその世界で、園は自らの姿に置いて行かれた。天蔵が転び、その姿がなくなったからだ。
「もー、てんぞー」
 そう言いながらも園の息はすっかり上がっている。天蔵の所までゆっくり戻って、その着物をはたいてやる。そのごわごわした感触は、園には不思議な感じだった。彼の着物は柔らかい。
「ごめん、その」
「いいんだ、それよりはやくおわらせちまえよ」
「おー」
 積み上げた藁に向かって歩き出す天蔵は裸足だ。最近になって、園は自分の家が豊かだということが分かるようになってきた。それは園に優越感を与えはしたが、満足を与えはしなかった。
「なー、てんぞー、いつかおくがみのおやまにのぼってみたいなー」
 もうじき祭りになれば、御薪(おんまき)と呼ばれる火のついた丸太を降らせる山。神が住み、その頂きに三日以上かかっていた雲には宮殿が築かれるという。いくつもの物語の舞台にもなり、神話に彩られたその山は園の憧れだった。
 二人は山を眺めた。先ほどまで夕日に溶けようとしていた山々は紫色の影となって浮かんでいる。たくさんの草や木が生えているはずの山が、紫一色に変わってしまうのはとても不思議だ。いま、あそこに立ったらどのような景色が見られるのだろう? やはり紫一色の世界なのだろうか。紫の葉っぱをつけた紫の木が、紫の土から生えている……。見ると天蔵の横顔は紫には染まっておらず、黒く汚れた顔に藁をくっつけている。天蔵がこの上なく大切な存在であるような気がして何か言いたいと思ったが、園には何と言えばいいのか分からなかった。
 やがて「おうい」と声がして振り向くと、父の(のぞむ)が呼んでいる。
「あっ、父さまだ、また明日な」
 園は再び走り出した。そして今度は戻って来なかった。天蔵は再び藁を積み始めた。光に溶けていた夕焼けは、夜に呑まれた。

百合の君(5)

百合の君(5)

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-06-01

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