雨が降れば街は輝く③

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幕間

 五十二回朝丘高校学校祭、後夜祭を始めます。生徒の皆さんは、校庭にお集まりください。繰り返します。生徒の皆さんは校庭にお集まりください。
 笹木会長のアナウンスがかかると、一斉に全校生徒が動き出したため、土間は大渋滞となった。校内の見回りに行っていた書記の二年生が放送室にやってきて、ゴーサインを出したところで、再び会長がマイクを取った。
 副会長の奥田君より、開会宣言です。
「まあ、しょうがないっちゃあしょうがないけど、花火見たかったっすよね。」
「私はもう二回見てるから、十分よ。」
「俺は見てないっすよ。先輩、忘れてるかもしれないけど、俺一年っすから。
 あーあ、女の子と一緒に見たかったなあ。ずっと放送室にいただけなんて、冴えないなあ。」
 帰りの方向が同じ二人は、電車の中でしゃべっていた。
「いいじゃないの、今年くらい。来年になったら、クラスで一番かわいい子口説き落として、一緒に屋上行っちゃえば?」
「今年の学校祭は、今年しかないんすよ。」
「ブツブツ言わないの。ジンクスなんてどこにでもあるんだから、そんなに好きな子がいるなら別のところで我慢しなさい。」
「どこにでもあるんですか? 先輩、なんかいいところ知ってます?」
「一か所だけ、あるけど。」
「どこっすか」
「私の家のすぐ近く。渡虹橋っていうんだけど、わかるかな。」
「知らないっすね。」
「私が小さいころ、おばあちゃんから聞いたの。ジンクスっていうより、迷信かな。
 昔むかし、さくらという女性がいました。その人は大金持ちの家の娘で、貧乏な男性と、身分違いの恋に落ちてしまいました。さくらはその男性と結婚したいと思っていたけど、お父さんに猛反対されてしまいました。しかも、お父さんは男性に嫌がらせしました。二人は絶望して、川に飛び込んでしまいましたが、村人に見つかって、助かりました。
 二人の熱意に押されて、お父さんはその場でさくらの結婚を認めました。」
「なんだ、ただの昔話じゃないっすか。」
「ここからが大事なの。
 嬉しさのあまり、さくらたちは人目もはばからずイチャイチャしました。二人があつーくキスをした瞬間、川に虹がかかり、それは橋になりました。
 えっと、言い忘れてたけど、二人が飛び込んだ川はよく氾濫したらしいの。それで橋を作っても、すぐに壊れちゃったんだって。
 川の両側がその橋で結ばれて、人々は行き来が楽になって、喜びました。
 その橋こそが、渡虹橋。そして、さくらの話を聞いた人々は、あの橋の上でキスをすると、その二人は結ばれると信じるようになりました。」
「言い伝えか。さくらさん、嬉しかったでしょうね。自分たちのおかげで人々の生活が便利になったんでしょ。」
「そっち? 普通、さくらさん結婚できてよかったね、とかじゃない? さっすが、副会長。来年会長やったら?」
「いや、遠慮しときます。」
 電車は吹上(ふきあげ)駅を通過し、晴嵐が鶴舞線に乗り換えるために下車しなければならない、御器所(ごきそ)駅が近づいてきた。晴嵐は、そっと口を開く。
「せっかくだし、今から行きませんか?」
「え?」
「いや、その、花火が見られなかった分思い出作りたいですし来月になったら任期満了だし先輩はそろそろ本格的に受験勉強しなきゃいけないし、」
「帰りが遅くなっても心配されない?」
「大丈夫っすよ。」
「じゃあ、行こっか。」
 地下鉄が一駅ごとに止まることを、晴嵐はうれしいと思った。何度か生徒会中央委員のメンバーで出かけたことはあるものの、この状況は緊張する。それを悟られないように、彼は細心の注意を払った。
 周りの乗客に、自分たちはどのように見えているのだろうか。由香には、それが気になった。
 ご乗車ありがとうございました。まもなく、終点、終点、渡虹橋です。お忘れ物のないよう、よろしくお願いします。
「ああ、のどかでいいですね。」
「でしょ? この町、気に入ってるの。
 ねえ、ほら、向こうから水の音がするでしょ。」
「そうっすね。川の匂いがする。」
「花火が見れなかったことくらい、別にいいやって思うんじゃない? こんなに素敵な場所に、私と一緒に来れたんだから。」
「まあ、そうなのかな。」
「もし、放送室で仕事なんかしてないで、二人で花火を見たら、ここに来ることはなかったでしょ。悪いことがあったら、次は必ずいいことがあるってことだね。
 雨が降れば街は輝くでしょ。それと一緒なの。」
「雨が降れば街は輝く?」
「そう。雨が降っている最中は、辺りは暗くてジメジメしてて、嫌でしょ。でも止んだら、地面や街路樹についた水滴が、日光、あるいは月光だったり電灯だったり、いろんな光を反射する。すると、いつも通りの風景が、いつもと同じようで違って、輝いて見える。
 前に課題で詩を書くってのがあってね。我ながら気に入ってるの。」
 由香はタタタッと走った。晴嵐より五メートルほど前に出ると、両手を広げて、星空を見上げた。そのまま、橋を渡り始める。木造のそれはミシミシと音を立てた。くるりとその場で回ってみる。
「ねえ、こうするときもちいいのよ。空気を感じるっていうか、水を感じるっていうか、なんかね、世界と一つになる感じがする。」
「先輩、そのまま、そこにいてください。」
「なんで?」
「いいから。橋の真ん中にいてください。」
 晴嵐は、由香に一歩一歩近づいていく。由香には、彼は、地面を、そして木を踏みしめながら、ゆっくりと歩いているように見えた。
 月が二人を照らしている。水面が二人を映し出している。
「橋の上でキスをすれば、二人は結ばれますよね。」
「そうよ。二人は結ばれる。」
 二つの影が、重なった。

第3章 真実

 その病院はひっそりとしていたが、しかし規模は大きかった。太陽は今にも山の稜線に隠れそうになっていて、建物にそのオレンジの後光が差している。冷たいリノリウムまで暖色に染まっていそうだ。
 探偵は病院内まではついてこないつもりらしく、今日は遅くなりそうだからと言って宿を探しに行った。僕は入院している患者たちのいるフロアに上がると、ナースステーションにいる若い看護師に申し出た。
「峯岸奈々子さんの見舞いに来ました。」
「どちら様でしょうか。」
「僕は彼女の姪と友達です。」
「すみませんが、峯岸さんは面会謝絶ですので。申し訳ございません。」
「美和さんに会えればいいんです。彼女に会うだけで帰るのもあれなんで、一応お見舞いもしておこうと思っただけです。最近いつもここにいるはずなんです。」
「お名前を伺ってもよろしいですか。」
 メールするよりも早く、一刻も早く美和さんに会うためにここにやってきた。今応対してくれた看護師のことは無視して、僕はここを離れた。面会できないほど重病の患者は個室で、しかもナースステーションの近くだというのは知っている。自分で探した方が早い。案の定、すぐに見つかった。そのナースたちの仕事場の目の前、予想通りだ。「峯岸奈々子」と書いた紙がドアの横に備え付けられたネームプレートに入っている。僕はその扉を軽く二回叩いた。美和さんが窓を閉めているときのノックも、いつも二回だった。
「はい。」
 扉が開かれた。
「え、」
 中から出てきたのは、君だった。
「美和さん。いや、和凛さんと呼んだ方がいいのかな」
 僕たち二人は黙ってしまった。看護師たちは僕らに話しかけてこなかった。
 彼女は少し痩せたように思った。頬の肉が前より薄くなっている。大きめの黒いシャツと膝丈の紺色のスカートは、腕や脚の細さを強調していた。
 彼女の方からこの沈黙を破った。
「と、とりあえず、ここはまずいから、移動しない? この時間ならもう外来の人は来ないはずだから、一階の診察室の前にある待合席ならいいと思う。」
 エレベーターに二人で乗り、一階に降りた。電気は既に消されていて、西日が差し込む。子供が退屈しないよう棚に絵本が置いてあった。その本棚は可愛らしく折り紙で飾られていた。
 一番後ろの端のソファに美和さんが座り、僕は彼女の左斜め前のソファに腰掛けた。自分の背中越しに、彼女の戸惑いと悲しみが伝わってくるようだ。
「まず、見つかってよかった。すごく心配したんだぞ。」
「何も聞かないの?」
「聞きたいことは山ほどある。昔のこともそうだし、今のことも。」
「聞いてよ。嫌かもしれないけど。」
「何から聞けばいい?」
「一番始めから、全部。私は決めたから。君には話す。ろくに友達いないんだから、あなたくらいしか相手もいないし、まさかここまでされるとは思ってなかったし。嘘は絶対につかない。」
「聞くよ。何時間だって聞く。まずは小学校の時のことからになるのかな。」
「うん。」
 一つ息を吸ってから、彼女は話し始めた。
「私はもともと、美和ちゃんの学校の隣の学区に住んでた。六年生までは峯岸和凛を名乗ってて、普通に私は『あいりちゃん』だった。
 あの時はまでは、まだ友達もいっぱいいたの。三年生の時、お母さんが癌になった。手術をして、なんとか今までどおりに暮らせるように頑張ってたんだけど、駄目だった。もうリンパに転移してるのが分かって、薬と放射線でなんとか命を長くするしかできなかった。
 私はいつも家で、一人になったの。お父さんが遅くなる時には伯母さんのところに行くことになって、花織とよく遊ぶようになった。そしたら美和ちゃんもよく花織の家に来るようになって、三人で遊んだ。その代わり、私は学校の友達と公園に行ったりすることは減って、どんどん疎遠になっちゃった。それで、クラス替えとかもあると、気付いた時にはもうひとりぼっち。
 四年生のクラスは本当に最悪。放課は誰とも話さないで、ただただ本を読んでた。あいりって暗くない?って陰口言われて、もう私は、このままずっと一人なのかなってちょっと思ってた。だけど、私には花織や美和ちゃんがいたから。私は全然平気だったの。学校から帰ったあとは楽しいから。まあ、その後五年生の時はいいクラスだったから、私はなんともないの。普通に友達少ない系の子として、学校には馴染めてたと思う。
 美和ちゃんは大人しかったけど、案外喋ると止まらないタイプだったよ。花織の方には、よく懐いてたな。私より花織のほうが、美和ちゃんは気が合ったんじゃない?
 そうそう、だから曙なんだよ。正直、私は曙ってタイプじゃないんだよね。もっとごつくて男らしい人の方が好きだもん。二人はそうでもない感じだったけどさ。曙ってなんか、かわいらしいとこ、あるじゃん。
 花織は本当に曙好きだったな。すごいたくさん曲とか教えてくれるんだけどさ、ちょっとノリについていくの大変だった。だってさ、ファンの一体感すごくない? ああいうの、私、入っていけないんだよね。花織と美和ちゃんは一緒に楽しそうだったから、合わせてたけど。でもそうは言ってもね、実際のところ、ノリはなんか違ってもやっぱり三人で歌ったり踊ったりするのは最高だった。曙のおかげなのかもしれないね。小学生の頃の楽しい思い出が私にもあるっていうことは。
 その少し後だよ、花織の様子がおかしくなったのは。
 それまでじゃ考えられないくらい陰鬱な子になっちゃった。いじめられてたっていうのは知ってるけど、それだけじゃないのよね。あんまりきちんと教えてもらってないけど、馬場先生て人の愚痴なら耳にタコができるくらい聞いたよ。何でもかんでも花織が悪いことになっちゃって、本当のところはそんなに言う程でもなかったんでしょ。私が悪いんだ、私が最低なんだって泣き笑いで自分を責めてたから、何度も何度も『そんなことない、花織は悪い奴なんかじゃない』って、あの子に言ってた。とりあえずそれで、花織はなんとかメンタルを保ってたの。自分を責め立てて、その後に私と話すことに限らずネットで苦しんでる人のための優しい記事を読んだりしてさ。あと、花織にとっては、曙が一番の心の拠り所だった。四年生が終わっても、それは変わらなかったわ。
 あのくらいの時にはね、美和ちゃんは勉強が本格的に忙しくなってきて、花織の家で三人集まる頻度は少なくなっていったの。天陽中学校を受験するからって。叔父さんは医者で、美和ちゃんはそれを継ぐつもりだったんよね。
 美和ちゃんは本当は勉強が好きじゃなかったのよ。それなのに成績がどうこうとか勉強を頑張って医者になれとか、いつもいつもテキストの提出に追われて、脅迫でもされてるみたいだった。あの子も大変だったんだよ。まだ九歳とか十歳だったはずなのに。
 どんどん憔悴していって、五年生に進級するくらいの頃かな。めちゃめちゃ痩せて、手足とか棒みたいだった。かわいそうだった。
 だから、私が六年生になる頃には、もう二人はボロボロだった。
 美和ちゃんは全然来なくなって、花織の自責もどんどんエスカレートしていって、リストカットとか、ODまでするようになった。そのあとは、もう分かるんじゃない?
 自殺を図ったっていう、あの事件よ。
 花織は学校の友達だった君を誘って(さかえ)に行った。
 ただね、君が見たよりもずっと、あの事件は悲惨だよ。
 君が飲み物を買いに行った隙に飛び降りたんでしょ。そうやって君には伝わってるのよね。形ばかりではあったけど一応捜査員としてあてがわれた警官が教えてくれた。あの時一緒にいた男の子には真実は教えないことにしたって。まだみんな小学生だったんだから。たったの十二歳だもん。うちの方から、うちで起こったことを君には背負わせないで欲しいって頼んだのよ。でも、もう君は知っておいた方がいい。君は花織の大事な友達だったんだから。君にとっても、花織は大事な友達でしょ。
 あの日死のうとしていた子は、本当はいなかったのよ。
 美和ちゃんは毎週土曜日に、朝から栄にある塾の授業を受けてた。最難関中学を受ける子のための講義ね。そんなことは露ほども知らない花織はあの日遊びに行った。私だって、美和ちゃんが土曜日に栄まで行ってたことは知らなかったの。
 私が勧めたのよ。せっかく卒業なんだから、何もかも忘れてはっちゃけて来たらって。学校の友達、一人くらいはいるでしょ。その子とどこかで遊んでおいでよって。その一人が君だよ。花織は君のことを一番の友達だと思ってた。君と遊びに行って、栄で一日楽しもうとしてた。君と花織が出掛けたのは日曜日だったね。その前の日、美和ちゃんは模試が返却されて、絶句してたんだって。毎日毎日夜中まで勉強してたもんだから、その時の模試は散々だったんだってさ。睡眠不足でテストなんか受けたって、点数取れるわけないよね。もちろん、美和ちゃんも例外じゃない。その時返ってきた模試の、前回ので成績下がっちゃったから、今度こそって頑張ってたみたいよ。
 もうその時の成績に絶望して、ただでさえ心理状態めちゃくちゃになってるのに。次の日フラフラと家を出ていって、いつも土曜日の講義に出るときと同じように電車に乗って、最後……
 そこに花織が遭遇したの。やばいところを見てしまったとでも思ったんじゃないかな。君はその時の美和ちゃんのこと知らないから、気付くはずもないよね。
 ここからはその時現場に居合わせた人に警察が聴取して分かったこと。いかにも精神を病んでいそうな子供が一人でたたずんでいたところに一人女の子がやって来て、『美和ちゃん!』って。駆け寄っていった。引き戻そうと必死になってたけど、美和ちゃんも全く動こうとしなかった。花織はなんとかホームの内側に引きずり込まなければならないと思った。ちょうどそこに電車が来たから花織は余計焦っちゃった。渾身の力を込めて美和ちゃんの腕を引っ張ったの。美和ちゃんをホームの内側まで引っ張ってぐっと掴んでさ、引き留めようとしたの。あの子なら、普通ならできたかもしれない。だけど極限状態になるとさ、人間って失敗するんだよ。美和ちゃんは痩せ細ってた。焦りもあるし、ミスしたんじゃないかな。腕を前に思いっきりのばして、手を掴んで、ぐっと力を込めたところまではいいけど、美和ちゃんの体重のわりに力が強すぎた。花織は体のバランスを崩しちゃって、前屈みに倒れた。花織はホームから落ちて、それで、そのまま轢かれた。
 美和ちゃんがその時助かった代わりに、花織が死んだ。花織は腕が取れて、首が変な方向を向いてたらしいよ。私は直接亡骸を見ていない。大人たちが、私には見せてくれなかった。花織の最期の表情は、私は知らない。
 花織は、あの子本人が自殺を図ったわけじゃない。美和ちゃんを助けようとしてた。美和ちゃんは死のうとしているとばかり花織は思った。でもね、後で美和ちゃんにも警察が聴取したらさ。美和ちゃんはホームのギリギリに立って、『ああ、ここから今飛び降りたら楽になれるのかな』ってぼんやりしてただけだった。あの子の意識は花織に引っ張られているときも想像の世界に行ってて、何が起こったのかちゃんと覚えていなかった。あの事件は、もし私が出掛けておいでだなんて言わなかったら、もしたまたま出くわすなんてことにならなかったら、起こらなかった。
 誰も死ななくて済んだの!」
 今後ろにいる君の心は、僕には到底理解できないだろう。
「美和ちゃんは事件のあと、精神病院に入ることになった。ずっと暮らしてた場所から遠く、空気が美味しい場所で、何もかも忘れた方があの子のためだからって。でも入院から一か月も経たないある夜、忽然と姿を消してた。美和ちゃんは、もうそれっきり。どこに行ったのか。生きてるかどうかも分からない。もし生きてたら、今は中三だよ。また受験生になって、来年、春が来たらどこかの高校に入学してるかもしれないね。
 私は一人になっちゃった。
 もう私には、誰もいない。」
 肩が震えるのを抑えようと、全身に力を入れる。君の口調は早口で捲し立てるかのようになり、差し込んでいた西日は完全になくなっていた。真っ暗な夜の病院に二人だけ。
「いなくなってから、磯村の人たちみんなが集まって、話し合いが行われたの。まず美和ちゃんのことをどうするか。叔父さんは大学で教授を目指していたから、ていうか今も目指してるけど、家庭で事件があっただなんてことはあってはならない。そんな訳ありの人間は教授選には勝てないわ。だから美和ちゃんが消えたことに関して、表沙汰にしないことになった。美和ちゃんが将来生きていく場所を残しておくためにも。もしいつか、美和ちゃんがここに帰ってきたら、あなたの居場所はここにあるよって言えるように、あの子の場所を守ろうということになった。
 じゃあどうやってやるの?
 簡単な話だよ。誰かがなりすませばいい。
 その美和役に、私が選ばれたの。
 年齢や美和ちゃんのことをどのくらい知っていたかということを考えると、適役なのは私しかいなかった。でも私は和凛としてお母さんを守らなくちゃならない。見舞いをしたり、忙しいお父さんの代わりに検査の付き添いをしたり。だから、言うなれば私は、一人二役をすることになった。ただ、和凛としても美和としても社会で生きていくにはさすがに無理がある。そこで、お役所に登録する上では、峯岸和凛が失踪中ということにした。世の中ね、失踪するのは認知症のおじいちゃんおばあちゃんばかりじゃなくてね、むしろ十代が多いのよ。もっともらしい理由さえつければ、小六女児が突然消えました、と嘘をついても全然怪しまれない。あれこれ捜査されることもなく、普通に上手くいった。そうして、峯岸和凛は失踪中、磯村美和は今も普通に生きている、という状態が出来上がり。血の繋がった家族の内だけでは、私は和凛として居ても大丈夫。でも、それ以外の場所ではくれぐれも気を付けなくちゃいけない。
 今お母さんはかなり危ない状態なの。いつお迎えが来てもおかしくない。そんな時に、悠長に美和としてごく当たり前の生活をしてられない。朝丘高校の受験の件、許してくれないのは、私にも理由は分かる。あんまりたくさんの人と私が繋がると、美和ちゃんが帰ってきた時に何かと大変。居場所が変われば、それだけ仲良くなる人も増えるでしょ。
 高校受験の模試で駄目だったから、叔父さんの言う条件をクリア出来なかったから、もう私は今のままでいるしかない。私の居場所はここじゃないって今もずっと思ってる。でも、私が美和ちゃんとして生きて、美和ちゃんの場所を守ると決めたなら、あんまり我が儘を言っちゃいけない。だからって、いつ死ぬとも分からない自分の実の母親を放っておくの? そんなこと、出来ない。だったら、受験勉強の必要がないなら、もういっそ勉強なんか捨てて、お母さんのところに行ったっていいでしょ。美和ちゃんだって、それは許してくれると思う。
 学年が一つ下になったって、本当ならもう十六なのに中三でも、そんなことはどうだっていい。家の事情でいろいろあってずっと家にいるって説明して、別人が美和の名を騙ってることは巧く隠した。美和ちゃんが六年生の一年間は、私はとにかく家で勉強して、なんとか天陽中学に入った。一年間他の子達よりも長く勉強できるわけだから、まあ簡単に言っちゃえば中学浪人したみたいなもんなのよね。大学で浪人する人は少なからずいるし、高校浪人てのも稀にあるでしょ。私は小学校の勉強で出来ないものはなかったの。ちょっと自慢だけど、こう見えて勉強はどの科目もできたし、小学校の通知表はほとんどが二重丸だった。始めから私が美和ちゃんとして生まれていたら何もかも違っただろうね。
 私は、美和ちゃんの場所を守ってるの。花織と、美和ちゃんと、私の、思い出を守ってる。」
 震えを堪えるだけで、僕は精一杯だった。
「だいたい、これで全部かな。」
「つまりさ、君は。君は家族が好きなんだよな。」
「そうだね。」
 フフンと笑って、君は言った。
「私はこの家族が好きだよ。美和ちゃんも花織も、大大大好きだよ。正直、一連の秘密のことはもう考えたくないって思ってる。だけどさ、秘密を私が抱えることになっても、もしそうじゃなかったとしても、伯母さんや叔父さんたちは、花織や美和ちゃんのことを一番に考えてたよ。死んだ花織のことが触れてはいけないタブーになったりしてないから。あんな終わり方したから気を遣って何も言わないとか、そんなことは一切ない。美和ちゃんの帰りを待っている。私が美和ちゃんの代役を務めて和凛はいないことになっている。いわば家族は、一時的に、和凛を殺して美和ちゃんを生かした。そうすればいつか美和ちゃんがここに戻ってきたとき、二人とも生きられる。それこそが私たち一家の現実で、私の選択だよ。
 みんな一緒なんだ、私たちは。世間的にはやっちゃいけないことをしたけど、私たち家族にとってはこれが正解なんだ。」
「君は辛くないのか。君が犠牲になってまで家族とは守らなければならないものなのか。」
「私は美和だよ。和凛は失踪中よ。私は私を殺したの。もういないよ。」
 僕は振り返った。立ち上がった。彼女を見下ろす格好になった。彼女は僕の顔を見上げる。
「いや、いる。絶対、君はいる、そこに。自分自身として生きたいと思ってる君は絶対存在するはずだ。いくら家族が大事でも、いくら美和さんのことが大好きでも、君は君だろ? 和凛として生きていた君も真実だし、今美和として君が生きていることも真実だろ? どんな名前でどういう立場であっても、君は君だ。一人の人間だろ? 僕は認めない。過去の君の真実は、絶対殺されてなんかいないって信じる。」
「どうしてそう信じるの? 私は磯村美和。天陽中学三年生で、磯村礼子と磯村正の娘で、峯岸和凛と磯村花織は私の従姉妹!」
「違う、そうじゃない。
 名前や立場なんて、どうでもいいじゃないか。家族が何より大事で、従姉妹ととても仲が良くて、彼女たちのことが大好きで。それが君だ。名前が峯岸和凛だろうが磯村美和だろうが関係ない。どこの学校なのか、どこに住んでいるのか、年齢はいくつか。そんなことは君という人間には全く関係ないんだ。どういうことを想っていて、何が好きで、何を大切に思ってるか。それが君なんだ。君自身は和凛でも美和でも、どちらでもないんだ。どちらでもあってどちらでもない今僕の目の前にいる君という人間こそが、君なんだ!」
 僕が一つ一つ言葉を発するほど、彼女の表情が歪んでいくのが、手に取るようにわかった。
「実はな、さっき加奈子さんに会ってきた。それで、おばさんはこれをくれた。」
 三人の従姉妹の思い出の一曲。それを掲げて見せた。
 彼女は慟哭した。
「今、決めよう。
 僕は今後、君のことをなんて呼べばいい?
 美和さんと言えばいいのか? それとも和凛さんと言えばいい? それか、どちらでもない、別の呼び方がいい?」
 彼女は、返答しなかった。


 病院を出ると、昭和時代の情緒漂う街灯が小さな光で道を照らしていた。探偵に電話を掛ける。
「もしもし。僕です。」
「おう、お前、もう終わったか。今どこにいる?」
「病院を出たところです。」
「そうか、分かった。宿、取れたけど安いところは分かりにくい場所にしかなくてな。もう暗いし、俺が迎えに行くから、今いる場所から動くなよ。」
 道路の縁石に座ってぼんやり星を眺める。名古屋に比べて街灯が少ないから、見える星々の数は多い。まだ月は昇っていなかった。
 ものの数分で探偵は現れた。近くで待っていたのか?
 僕は訝しんだ。
「よ、どうだった?」
「僕は、確かに、隠された事実は見破った。だけど、彼女が抱えていた真実は、そんなものの比じゃなかった。彼女は、あんなに苦しんで、自分自身を押し殺して、ずっと、四年も。僕は、何も知らなかった、わかってなかった。」
 探偵に、声が震えている、と指摘されたが、そんなことはどうでもよかった。
「この世は、残酷。」
 その場に立ち止まった。一歩前を歩いていた探偵も立ち止まって、振り返った。顔を見られないように、僕はそっぽを向いた。
「そうだ。この世は残酷だ。」
 子供をあやすように、探偵は僕の背中をそっと撫でた。声が出るのを抑えきれなかった。肩が小刻みに震える。
 これが何もかも知ってしまった者の気持ちか。
 僕は、手で涙を拭った。探偵はそっと呟く。
「お前も、細いし小さいな。」

 泣いている。病室に戻って窓から外を見下ろすと、君が号泣している姿が見えた。
 ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。
 大切な君を、泣かせてしまった。
 私は下唇を甘噛みすると、こらえきれなかった感情の雫がはらりとこぼれ落ちた。私は君と同じように、手でその雫を拭った。

第4章 追求Ⅱ-曇天-

「何。(せい)ちゃんが請けた案件が十七年前の事件に繋がるかもしれないだと」
 晴嵐はマムールに電話を掛けた。まずは紳士が応対した。
「おい、どういうことだ」
 元検事が叫ぶ声が受話器から聞こえる。
「今その案件について調べているんですけどね、依頼人の友達の名字が前原なんだ。しかも抜群に頭がいい。朝丘高校のテストでぶっちぎりの学年一位だ。文理問わず何でもできるんだよ」
「朝丘でぶっちぎりの学年一位……。その子の年は? 名前は?」
 所長が落ち着いた声色で会話に入ってきた。
「高校一年生、十五歳。名前は司。ジャストだよ。俺たちが今まで追ってきた前原の息子で間違いない。なあ、明日そっちに行くよ。そのときに全部ちゃんと話そう。明日の予定は空けておいてくれ。」
「わかった。明日は全員で集まろう。それにしても、久しぶりだな。五人でってのは。」
「ああ、俺が独立して以来だな。干支が一周した節目に諦めたつもりだったんだけどさ、やっぱり簡単には忘れられない。」
 十年働いて、晴嵐にはわかったことがある。依頼した人はみんな、苦しんでいる。当たり前のことだけど、真相解明という任務を前に、それはどうしても忘れられがちだ。
 四人は長い時間をかけてやっと立派な事務所を持ち、そこそこ名の知れた探偵たちになった。その分たくさんの依頼人が来て、様々な情報は入ってくる。しかし密かなる動きが取りづらい。そこでバイトという身分だった晴嵐が独立して違う立場から事件を見るようになった。あまりにも規模が小さく、残念ながらとても役に立ちそうもないヒントしか得られなかった。
 しかし、そんな弱小であったとしても、独立するからには何らかのポリシーは持っていたい。
 依頼人たちの苦しみを理解し、依頼人に寄り添うことを何より重視する、そんな探偵になった。いつか由香先輩と再会できたとき、誇れるような人間になりたい、それだけを願って。探偵としての究極の形は、依頼人を想う心だと彼は思う。
 約束どおり、翌日はマムールに行った。ボロい雑居ビルから移転して、壁が白いせいで若干の汚れも目立つ雑居ビルの中に、マムールの事務所はあった。
「よっ。久しぶり。」
 今日も応対したのは紳士だ。続いて弁護士、元検事、そして所長が登場した。その雰囲気は、昔と少しも変わっていない。
「こんにちは。みんな元気?」
「元気じゃないよ、何せ依頼がひっきりなしだからね。誰かさんが戻ってきてくれれば楽になるけど。」
 弁護士が言った。
「そっちはそっちで大変なんだろ。俺らのことはいいから、ファイト!」
 立ち話もあれだから、と所長が切り出すと五人は中に入った。応接用の黒いソファに座る。所長はもちろん上座、ではなく紳士が上座で、向かって左側に元検事と晴嵐、その反対側に所長と弁護士が着いた。変わっていない普通とは違う配置を、晴嵐は懐かしく思った。いつの間に助手を雇ったのか、一人の若い女性が全員分の茶と大福を持ってきてくれた。
「じゃあ、まずは俺の方から。電話でも少し話した通り、ある事件の依頼をきっかけにドミノ倒しように色々と分かってきた。こんなことが起こるなんて思ってもみなかったよ。俺が請けたその依頼から順を追って説明していくから、長くなると思うけどよく聞いて欲しい。」
 元検事の目が一段と鋭くなった。反対に弁護士と所長の目は暗くなり、紳士はまったく顔色を変えない。晴嵐以外の者は一言も発しなかった。
「まず、三好晶という朝丘高校の一年生の男の子から依頼があった。それは隣の家に住む磯村美和という子を探して欲しいというものだった。彼女は天陽中学の三年生で、晶とは、去年窓から会話するようになり、そのうちに仲良くなったそうだ。」
 二人の姿と家の写真をテーブルの上に出した。
「隣の家だし二人の部屋は真向かいだから、お互いにお互いのことをよく知ってる。今は、いつものように俺が先に真相解明して、晶自身が自分で探し出せるように準備を整えているところだ。もちろんこっちの事件の協力もしてもらってる。朝丘といえばこの辺りの公立高校で一番優秀だろ。私立も含めたトップの天陽はもうみんなが調べてくれてあったから、もし前原司がいるとしたら朝丘だろうと思った。定期考査の得点と順位のランキングを盗んでこいって晶に頼んだら、見事ビンゴだったよ。それで、前原について晶にもっと詳しく聞いたら、驚いたことに二人は部活の友達だった。パソコン部に所属していて、そこで出会ったんだ。」
 続けて司の写真も鞄から取り出し、皆に見せた。
「司はパソコンの才能もあるらしい。主力部員の先輩たちと同じくらい、いや、彼の方が仕事は早いかもしれないということだ。」
 元検事が言った。
「前原司は手術を受けたということか。」
「ほぼ言い切れる。」
「じゃあ、手術する以前の知能はどのくらいだったか判ってるのか。」
「ああ、調べた。中学の成績までは手に入った。」
 資料を皆に見せた。
「ご覧の通り、二年生から急に上がってる。五段階評価では具体的なことまでは見えづらいから、もちろん注目すべきはテストの点数だ。一年生の学年末の数学は四十二点。しかし二年生の始めのテストでは九十六点。理科は五十三点だったのが八十九点。雲泥の差だろ。文系科目にしても同じだ。国語はその差なんとおよそ六十点。社会に至ってはおよそ七十点。新出語句とかの記憶力にも作用してるんだろうな。」
「犠牲者のほとんどは二〇〇三年に出てるんだったろ。頭に傷のある遺体が見つかったのは、ほとんどがその年だったはずだ。」
「ああ。だからつまり、二〇〇三年から二〇一五年の春までの十二年間に成果が出たってことだ。ただ、十二年という期間はあまりにも長すぎる。もっと詳しく判明しない限りは調べがつかない。そこで、今回の調査も合わせて考えると、面白いことが見えてくる。想像も織り混ぜてはいるが。」
 常に物静かな所長以外はみな、晴嵐の話を聞いて今にも議論を始めそうだ。それを遮るように、一気に説明していく。
「最初は二〇〇一年。由香先輩の弟に異変があった。このプロフィールでわかる通り、先輩は俺より二学年上で、当時大学一年生だった。何か大変なことになっていると確信した先輩は主治医の神楽(かぐら)に相談した。ところが神楽は見てみぬふりをした。こいつは前原と大学のサークルで一緒だった。
 先輩は神楽の信用を失くして、他の病院に弟を転院させることにした。新たな主治医は三崎(みつざき)という人で、この男は頭の傷を詳しく調べた。すると小さな機器が頭蓋内に埋められていることが判った。弟の身体の中を知ると同時に、先輩は姿を消した。三崎はその後も弟をサポートし続けたけど、残念ながら一年後に亡くなった。当時三崎が彼の体内を検査した結果は、俺たちがなんとか手に入れたよな。三崎の奥さんが預かっていた。以上はこの年の七月の話。
 二〇〇三年の段階では、手術の結果亡くなってしまう事例が相次いだ。別荘に来ていた大富豪が、ある場所に土が掘り起こされた形跡があるのを見つけたのがきっかけで、最初の死体が出てきた。警察が捜査すると、あちこちから似た埋め方で遺棄された知的障がい者たちが見つかった。しかもその死体たちはみんな頭に傷がある。ニュースで大きく報道されたから、だいたいの日本国民はこの話を耳にしたはずだ。そのニュースを見て、由香先輩の失踪との関連を疑ったんだ。先輩だって、頭の傷を見て悪事があったのかもしれないと疑ったわけだし。
 最初は先輩を見つけたいだけだったのに、いつしか殺人事件を追うことになっちまって……。」
「晴ちゃん。」
「ああ、ごめんごめん。」
 軽い口調で謝罪した。
「この段階で研究は一旦止まったんだと思う。ここから全く情報が途絶えてるだろ。それにまともな場所もなけりゃ何も出来ない。でもきっときっぱり諦めたわけじゃなかったんだ。既に俺らが掴んでいるとおり、瑞浪の山奧にはそぐわないような建物が造られたのは、二〇〇八年のことだったろ。五年くらい間を空けて、また再開していたのは間違いないと踏んでるな。それで、ここでもまた話が途切れてしまった。研究所を見つけた時はあんなに希望の光を見つけた気でいたのにな。」
 晴嵐の話を所員たちはうなずきながら聞いた。
「そんな研究所に、賢くなりたいという小五の女の子が現れた。この女の子については今回の調査で分かった。その子は磯村美和といって、親は医者。後を継ぐために自分も医者になろうとしていたが、思うようにいかなかった。どんどん疲れ果ててしまった美和はある日、地下鉄の線路を眺めてぼうっとしていた。そこにたまたま通りかかった従姉妹の磯村花織は美和が自殺しようとしていると勘違いした。花織は死ぬのを思い止まらせようとして咄嗟に動いたが、誤って転落して死んだ。この子たちにも、深い事情があったんだ。
 二〇一一年、晶たちが小四の時のことだ。晶と磯村花織、峯岸和凛は同学年で、美和だけ一つ下な。和凛の母である磯村奈々子が癌になった。学校から帰っても家に誰も大人がいないのは心配だから、和凛は花織の家で過ごすようになった。だから従姉妹たちの仲は深まっていった代わりに、学校での立場を失ったんだ。すると、花織はいじめに遭った。この辺の細かいところは晶たち以外にとって特に重要じゃないんだが、まあもし訊きたかったら説明するよ。同時に、美和は天陽中学受験のために勉強が忙しくなったわけだけど、あの子は残念ながらどちらかといえば勉強は苦手だった。いよいよ小五の終わりに疲れ果ててしまった結果、さっき言ったとおりだ。線路でぼうっとしているところを勘違いされて、花織は死んだ。
 事故後、磯村美和は精神病院に入院していた。ところが一ヶ月も経たないうちに失踪してしまい、今も見つからないままだ。入院したばかりの時は、頭が良くなりたいって何かに取り憑かれたかのように言っていたらしい。ちなみにこの病院は、前原がかつて所属していた中部学園大学の系列だ。
 ここで想像力を働かせると、美和は前原の研究の被験者になったんじゃないかと考えられるだろう。前原にとっては、かつて勤めた大学の系列病院に賢くなりたいと言っている十一歳の女の子がいるという状況だ。その子を被験者にしないわけがないだろ。俺が前原なら絶対声をかける。健常者であるという死んだ者たちとの違いはあれど、頭が良くなりたいのは一緒だ。
 小五の女の子が突然いなくなって、慌てたのは家族だ。その後家族たちが美和の消息を掴めたかどうかは分からない。ただ、気になるのは、美和と和凛のおばである磯村加奈子たちが住んでいる場所だ。」
 手書きの家系図もテーブルの上に出した。
 三人の姉弟。上から加奈子、奈々子、正。それぞれ子供がいて、加奈子には流星、瑞穂、既に亡くなった花織。奈々子には和凛。正の娘が美和。
「彼女たちは今瑞浪にいる。奈々子は多治見にある終末期医療の病院に入院してるんだ。臭うだろ。なぜわざわざ加奈子は瑞浪にしたのか。本人には既に一度コンタクトを取ったけど、その時は妹のためだと言っていた。妹のためなら、普通は多治見にするだろ。だから、もしかしたら磯村家の人はみな知っているのではないかと思うんだ。
 死んだ花織と同い年で、奈々子の娘の峯岸和凛は、美和のためを思って、美和に成りすました。いつか仲良しの従姉妹が帰ってきたときに、それまでと変わらない暮らしができるようにするために。」
 軽く四人を見回した。
「一応言っておくけど、証拠はまったく掴めていないぞ。あくまでも想像だ。
 でも、ここまで時系列や状況が綺麗に繋がると、どうしても否定はしきれない。現に前原司は急激に賢くなっているし、先輩の弟も殺された知的障がい者たちも頭に傷を負わされている。美和だって、障がいがあったわけじゃないが、親族がわざわざ瑞浪に引っ越していたり頭が良くなることを強く望んでいたという事実があるんだ。
 美和が失踪したのは、前原の研究室に行ったからなんだ。そこで手術を受けて、現在生きているか死んでいるかは分からないが、美和さんは確かに願いを叶えようとした。
 どうだ。生きていると思うか。」
 問いかけたが、誰も声を上げなかった。
「俺は生きていると思う。そして、磯村家の大人たちは美和が何をしたのか知っていると考えてる。
 普通に考えたら、いくら自分の娘が帰ってくると信じていたって、別の誰かを代役として自分の娘にしようなんて思い付かねえだろ。娘より大学での立場を優先するような父親ならやりかねないか? 確かにそうとも言えるかもしれない。でも俺はそうは思えない。父親は患者のことを第一に考えて日々懸命に働いているんだ。晶が言っていた。いつも帰りは遅いし帰らない日も多いって。自分とは何の関係もない赤の他人のためにそれだけ働ける医者って、どういう性格してるんだろうね。俺は心優しい人だと信じたい。」
「それが今回晴ちゃんが請けた依頼の裏ってことか。」
「そうだ。三好晶が依頼してきたのは、あくまで現在の磯村美和を探し出すことだ。だから彼には何も明かしていない。これは俺たちの事件だ。」
 頭が良くなる技術なんて要らないな、と所長は小さく呟いた。
「晶の事件を調べるために今度瑞浪に行く。その時に俺は別行動して、山奧の病院に行ってみようと思う。」
 あまりに反応が少ないので俺は不安になった。ちゃんと内容が伝わっているのだろうか。
「美和さんが失踪したというのは、いつのことなんだ?」
 弁護士が訊いた。
「ごめん、一番大事なところを言い忘れてたな。二〇一四年だ。」
 弁護士は背筋を伸ばし、そして目を見開いた。
「ああ。」
「気付いた?」
「うん、しっかりこの頭で理解したよ。」
 弁護士は右手の人差し指でトントンと自らの頭を叩いた。
「晶たちは今高一だよな。つまり司が中二の春ってのは、イコール二〇一五年だ。以前所長が例の大学に忍び込んでくれたとき、前原が書いた論文が手に入った。あの全く世に出ていないあれに載っていた。英語だったから、読むのに手間取ったな、懐かしい。」
 論文の内容を簡潔にまとめるとこうだ。
 脳内にマイクロAIを埋め込むことで、その装置が人間の脳活動に自動的に干渉し、結果知能が上がる、というものである。難しい計算だけでなく知能が向上するのは、ただの機械ではなく人口知能を小型化し、それを人間の脳シナプスに侵入させるという発明によるものである。装置を脳内に埋めるためには無論手術が必要で、前原司の頭の傷はその手術の時にできたものだ。
「施術の効果が出るのは、理論上十ヵ月から十二ヵ月後だ。学校で勉強するような基本的なものはすぐに出来るようになるけど、その一歩先に到達するには案外時間がかかるんだ。つまり美和が被験者になって手術を受けた翌年、彼女の事例が成功していたなら高度な効果が出てきているとき、司も父親の手術を受けた。二〇〇三年の連続殺人のあと、何かしら成果が出て、そしてついに成功したんだってこと。殺人事件もお前の先輩も、さらに磯村美和さんも全て、この手術に関わりがあるって訳だ。
 ということは、瑞浪の山奥の病院に行けば、もしかしたら由香先輩の消息をついに掴めるかもしれないし、美和だってそこにいるかもしれない。」
「そうだよ。俺が言いたいのはまさにそれだ。
 もし良ければ、今度瑞浪まで行くとき、ついてきてくれないか。美和が見つかるかもしれないし、先輩も、」
「もちろん、俺らは行く。全員行くだろ、当たり前じゃねえか。
 何のために俺たちも一緒に協力してたと思ってんだよ。同じ目標を持つ者同士グループになればいいだろって話だったじゃないか。」
 元検事は履いている革靴の先を見つめながら言った。
「今の状況で四人みんないなくなったら仕事に影響が出るだろう。無理はしないで欲しい。」
「俺も含めてここにいる全員があの事件には想いがある。行かないわけがない。みんな揃ってスッキリしようぜ、十六年越しに。」
「ああ、自分もだ。お前なら、計画、もう立ててるんだろ。晴ちゃんの先輩もその晶って子の彼女も、みんなのためにってな。」
 右の口角だけが上がり、不自然に晴嵐は微笑んだ。彼の視線は下を見るでもなく四人を見るわけでもなかった。彼が何を見ていたのかは、この時誰にも分からなかった。
「よし、今後の計画を晴ちゃんの話を踏まえて念入りに立てよう。」
 晴嵐は空気を飲み込んだ。
「いつにする? 晶さんの方は今どういう状況なんだ?」
「今度の三連休にしよう。急で申し訳ないが、晶は学祭やらテストやらでこれから忙しくなるんだ。」
「分かった。大丈夫だ。」
「俺が和凛の方を片付けてからにした方がいいと思う。俺は完全に先輩の件に集中できるようにしておきたい。」
「よし、晴ちゃんに合わせよう。もう何年も経つんだ。今になって突然機敏な動きがあるとも思えないし、きちんと準備を整えような。」
「そっちは四人に頼んでもいいかな。」
 一同はうなずいた。


 午前一時。浮気調査の残念な結果を告げると依頼人は取り乱してしまい、遅くなってしまった。手を付けていない菓子を片付け、湯呑みを洗い、ようやく部屋が片付いてきたところで現在の所員四人が集合した。航空写真を見ながら山奥の病院の細かい行き方を調べている。簡単にそれができる手軽さに、彼らは感動した。パソコンを見ながら、思わず話が脱線している。
「これだな、病院。」
「いや、こっちじゃないか。そっちより白くてデカい。」
「花が綺麗に植えられているから、ここには庭もあるんだな。ずいぶんと洒落てるもんだ。」
 森の中の小さな広場のような場所に、その建物はあった。用意しておいた大きな地図に赤ペンで丸を書き込む。
 周辺一帯の確認も忘れずに行うと、曲がりくねった細い道があるようだった。
「当日、どこかでレンタカーを借りよう。うちのワゴンだと傷がつきそうではないか。
 ていうか、電話鳴ってる。こんな時に誰だ。」
 紳士は眠そうに言った。
 プルル、プルルと二回コールがあって、所長は受話器を取った。はい、探偵事務……
「俺だよ、所長。」
「おお、晴ちゃん。どうした?」
「磯村家が隠したものの重要性は高いってことでしょうが、少し怖いですよ。ここまでトントン拍子だと。長い間分からないことだらけだったのに、ここに来て急に順調になった。」
「いよいよだね。もしかして不安か?」
「いえ、大丈夫です。今電話したのは、特に意味はありません。」
「うちらは不安はない。大丈夫だ、僕らなら」
 事務所で会った日から、雨の日と晴れの日が交互に訪れて、そしてついにその日が来た。
 たくさんの雲が浮かんでいて、決して気分のいい天候ではなかった。今にも雨が降り出しそうだ。念のため折りたたみ傘を持っていくことにした。前回使ったあと干しておくのを忘れたので、カビ臭かった。一応日傘としての機能もあるらしいが、そのような使い方をしたことはない。俺は失くしたカバーの替わりに、スーパーで肉を買った時に使用したビニール袋にそれを入れた。
 前原司が全くいつも通りに行動すれば、朝八時と午後二時に瑞浪駅を使うはずだ。以前俺は彼の父を尾行するようマムールに頼んだところ、判明した事実だ。俺はそのうち後者に賭けた。本当なら朝の方に賭けたかったが、晶が来られないのでは仕方ない。俺は晶を、瑞浪駅で司に遭遇させようとしていた。そうしたらきっと気付かせられるはずだ、この案件の深さに。俺は思う。彼に磯村家に深く関わるつもりがあるなら、一番深い場所まで見るべきだ。でも、もし彼の気持ちがそこまで深くないのなら、俺とマムールだけで全て終わらせる。
 探偵をやっているといつも思う。依頼されて俺は調査を行い、その結果は良いことばかりじゃない。ソファに座って話を聞くだけではわからないものだ。書類にどれだけ詳しく記載しようとも、必ず俺というフィルターがかかってしまう。口で伝えるときも同じだ。俺がどんな言葉を選択するかというフィルターがどうしてもかかる。言葉を介してだけでは分からないことがあるんだ。女性の浮気調査ひとつとっても、その女性が依頼者の男性をどう思っているかを書類上に表すのは難しい。気持ちが残っているかも分からないし、もう完全に心変わりしているかもしれない。
 これに対し、俺が考えた対処法は一つだ。依頼者本人が結果を導き出せばいい。
 晶に対しても同じだ。先輩の件が関わっているという普段との違いはあれど、俺はプロだ。俺は動じない。
 晶ならきっと分かる。磯村美和改め峯岸和凛に何が起こっているのか。あいつなら必ず入れ替わりに気が付ける。俺はそう確信していた。
 中央線で瑞浪駅に着くと、ほぼ同じ頃、晶も到着したようだった。もしかしたらあいつは同じ電車の別の車両に乗っていたのかもしれないが、そんなことはどうでもいい。
 前原司はいるか?
 予想通り、いた。二時を回ってごく数分経過したとき、駅の入り口へ向かう前原を発見した。
「あれ、前原?」
 晶は呟いた。
「こんなところで会うなんて、奇遇じゃないか。声かけてきたらどうだ。」
「いや、遠慮しておきます。」
「おい、前原!」
 俺は勝手に前原司に呼び掛けた。
「ちょっと、やめてくださいよ。」
 晶は走って俺のもとから去っていった。どこからどう見ても、二人は普通の男子高校生だ。何を話しているのかは分からないが、二人ともずいぶんと気まずそうに見える。理由は知らないが、こんなところでばったり会ってしまったことが恥ずかしいのだろうか。俺だって伊達に三十余年生きている訳じゃないんだから、このくらいの察しはつく。かわいらしいものだ。
 さあ、まずはこの晶のために、磯村美和と峯岸和凛の入れ替わりについて片をつけよう。由香先輩のことはそれからだ。多少の違和感は大丈夫。
 俺は天空を仰ぎ、酸素を吸収した。青空ではなく、やはり曇天だった。

第5章 追求Ⅱ-奔走-

 目覚めると、探偵はまだ眠っていた。時計を見ると、午前五時を指していた。僕の体は、どうやら五時に起きてしまうらしい。隣にいる探偵を起こさないようにそっと立ち上がり、ジーンズとシャツを着た。上からパーカーを羽織ろうとして、やめた。どうせ走れば暑くなる。スマホだけを尻ポケットに入れると抜き足差し足部屋を出た。客室フロアは静まり返っていた。
 階段でロビーのある一階に降りる。二階には食堂と厨房があり、朝ごはん付きのプランで宿泊している客のためにシェフが腕を振るっているらしかった。
 自動ドアをくぐり、外に出た。ガードレールを越えて道路の真ん中に立つ。この時間帯なら危険じゃない。大きく深呼吸をした。
 あてはなく、適当に走り出す。野良猫は僕を見て逃げて行った。四方八方を緑の山に囲まれ、僕はここが盆地であることを理解した。
 小学生の頃、野外学習で行った中津川を思い出す。二泊三日で集団生活をするのだが、花織と違って僕は楽しみにしていなかった。施設は決して綺麗とは言えないし、なにしろ暑かった。時期が八月だったということもあるだろうが、山にいるとは到底信じられなかった。必ず長袖の服を持ってくるよう先生に言い付けられていたが、全く必要なかった。山に行くというだけで嬉しそうに微笑んでいた彼女の姿が蘇る。
 地図アプリを開き、GPSで方角を確認した。中津川市の方向を見て、今その施設にいる子供たちに頭を下げた。どうか、今そこにいる君たちは、そのイベントを良い思い出にしてください。
 一台のワゴンが僕を追い越していった。
 今日はもういいや。さっさと宿に戻ろう。
 どのように来たのか、もう分からない。検索エンジンに宿の名前を入力して、また走り出した。ついでに時刻も確認したが、まだ十分ほどしか経っていなかった。住宅街ではなく比較的広い道路を通る。最初と同じ自動ドアから入って、今度はエレベーターを使った。部屋にそっと入る。
 探偵がいなかった。思わず「えっ」と声を出した。布団は二枚とも畳まれて、昨日のうちに整理しておいた自分の荷物と備品以外は何もない。探偵はわずかな時間の間にどこかへ消えたようだった。まさか、探偵まで失踪するなんてことはないだろう。上がり框で靴を脱ぎ捨て畳の部屋に上がると、テーブルの上にメモがあるのを見つけた。用紙として使われていたのは、チェックイン時にもらったテレビの番組表だった。
「別の用件で先に出発する。出かけているようだからチェックアウトはまだしないでおいた。料金はもう払っておいたから、鍵だけきちんと受付に返しておくように。」
 そう書いてあった。
 暗く静かな和室に一人で座っているのはなんとも空しい。決して興味があるわけではないが、テレビのスイッチを入れた。日本の自然をただ映し続けるだけの番組が放送されていた。今日のネタは槍ヶ岳だ。誰がこんな番組を見たがるのだろうかと疑問に思った。
 尻の神経が震えを感じた。スマホだ。音は切ってある。確認すると、着信だった。発信者は磯村美和と表示されている。本当は美和ではなく、峯岸和凛だったが。
「はい、もしもし。」
「もしもし。あの、私です。」
「君だよな。大丈夫、名乗らなくても分かる。」
「昨日の今日で、ごめんなさい。さっき伯母さんから連絡があって、晶くんは大丈夫かって、なんか、すごく心配してたから。探偵さんと一緒にこっちまで来たんだよね?
 新聞をポストに取りに行ったらその人が家の前にいたらしくて。」
 一体どういうことなんだ?
「奥田晴嵐て人だよな。」
「そう。男性五人でワゴンにのって山の方に行ったって。北東の方の。」
「別の用件があるって、書き置きはあったけど。」
「ああ、じゃあそれだ。やばいよ、絶対おかしいよ。昔、向こうの方で事件があったんだよ。いっぱい知的障がいの人が殺されちゃったやつ、君も知ってるよね。北東の山は今でも誰も寄り付かないのよ。」
 突然声色が変わり、彼女は焦りだした。
「知的障がい? 殺された?」
「そうよ。見つかった遺体みんなの頭部に傷があって、謎の機械が埋め込まれてたっていう、あの恐ろしいやつ、誰しも聞いたことあるわよ。今でも時々テレビで取り上げられてる。未解決事件の番組とか、見ない?」
 ——岐阜県の方にある施設に入所してた重度知的障がいの人たちが何人も殺された事件知ってるよね。結構話題になったでしょ。うちのお兄はあれについて昔からの仲間と一緒に調べてて……
 ——俺が思うに、その探偵と絡むのは危険だ。瑞浪市知的障がい者連続殺人事件。あの有名な事件に絡んでるし、依頼者にそれの捜査の協力を代金代わりにやらせているそうじゃないか……
 思い出した。君のことで頭がいっぱいで、今まですっかり忘れていた。
 テストの結果を盗んでこいだの前原の頭の写真を撮ってこいだの、あれこれ頼まれた。金の代わりに協力を求めているって。
 眼鏡女子から聞いたあの変なシステムは、まさか……。
「ねえ? ちょっと、何か言ってよ。これでも心配してるんだよ。君が何かまずいことに巻き込まれてたりしないかって。」
「違うんだ。君、今から出てこれる? 僕もその山に行く。今すぐにだ。」
「はあ? 何言ってるの?」
「僕は探偵の心配をしてるんだ。自分のことじゃない。あの人、長いことあの事件に関わってきたって前に言ってたのを、今思い出した。あの事件は終わってないんだって、本当かどうかは分からないけどその探偵の妹から聞いた。」
「何よ、それ。その探偵さんが事件に関わってるってわけでしょ? 絶対行っちゃ駄目よ。危ないじゃない。」
「危険なのは僕だけじゃない。むしろ奥田さんの方だろ。行くしかないじゃないか。」
「それなら私も一緒に行く。」
「駄目だ。ゆうべ、君自身が言ったじゃないか。君が危険を冒すということは、二人の人間を危険に晒すことになるんだぞ。」
「絶対大丈夫よ。それに私がいた方が君にとって得だわ。多少その辺りの土地勘はあるから、北東の山で昔の殺人事件を追うならあそこに行くだろうって見当はつく。」
「なぜそこまでこだわるんだ。やめておけ。これは僕の問題だ。」
「私は花織を失い、そして美和ちゃんの行方は分からない。私の周りで、これ以上行方不明者が出るなんて耐えられない。」
 彼女の想いはよく伝わってきた。そこまで言うなら二人で行こう。絶対に彼女を守り抜くことは、この僕が誓う。
「分かったよ。」
「交渉成立ね。どこに泊まってるの?」
「瑞浪だ。昨日、あのあと移動した。」
「分かった。じゃあ、サンライズっていうカラオケバーで集合ね。スマホで調べたら出てくるから、きっと分かるわ。私は始発でそっち行くから。えっと、六時過ぎくらいになるかな。
 伯母さんから自転車二台借りておいて。伯母さんには私から連絡しておく。」
「了解。じゃあまた後で。」
 僕の方から電話を切った。
 大急ぎで荷物をすべてリュックに詰め込んだ。机の下や洗面所に忘れ物がないか確認できたら、脱ぎ捨てた靴を履き、部屋を開けたままロビーに向かった。
「チェックアウトお願いします。」
 眠そうに応対した仲居さんに危うく代金を請求されそうになった。既に支払いは済んでいると言うと、彼女は目が覚めたのか、急に機敏な動きに切り替わり、頭を下げた。白髪が目についた。
 サンライズの場所は、もう二度も足を運んだので覚えている。昼間と夜では雰囲気が違って分からなくなるということは時折あるが、そんな問題もない。加奈子さんの家がサンライズからどの程度離れているのか分からないが、とにかく先を急ぐべきだとは思った。宿から駅までは、およそ六百メートルであることは、昨日のうちに知っていた。駅からサンライズまではさほど遠くないので、集合時間にはギリギリだろう。
 気が()いているのだろうか、それは自分でも判断できない。しかし僕は走って待ち合わせ場所まで向かった。リュックサックはそれなりの重みがあるので、少々走りにくかった。 
 今ごろ彼女は何をしているだろうか。起きたばかりだったのだろうか。そもそも、彼女はどこから来るのだろうか。疑問点はたくさんある。
 思い返せば、彼女は初めて話したあの日から不思議な人だった。気張っているのにどこか危うくて、生まれたての小鹿のようだ。笑顔で立っている彼女は今にも転びそうで、儚いような切ないような。昨日、彼女の秘密を知ってしまった。でも、今の電話での彼女の声も、どこか不安があったように思う。彼女が、修学旅行で触れ合った奈良の鹿たちのように、悠々と歩けるためには、そもそもあの入れ替わりがあってはならなかったのかもしれない。全ての悲しみを取り除くことなんてできないから。彼女は今も過去に苦しめられているから。
 でも、過ぎ去った日々は変えられない。未来だって分からないし、僕たちができることは、今を享受し、そして生きることだけ。
 でも、それを分かっていたとしても、僕たちは明日が晴れることを願ってしまう。
 考え事をしながら前進しているうちに、サンライズに到着した。やはり僕の頭はまだまだ思案し続けている。
 きっと探偵も同じなんだ。前原の既往歴を告げた時、探偵が見せた潤んだ瞳。人使いが荒くて面倒な人で、そしてきっと、あの人が持つ力は空元気。
 加奈子さんが、流星くんとともに自転車を押しながら、僕よりほんの一分ほど遅れてやって来た。昔よく遊んでくれた花織のお兄さん、流星くん。何年かぶりに会った彼は、あの頃と違って不愛想だった。彼女と僕のためにわざわざ早朝から出てきてもらって、なんだか申し訳ないと思った。加奈子さんが押してきた方は白色で、流星くんは黒色だった。どちらもごく普通のありふれた自転車だった。
「ごめん、おまたせ。」
 君は約束通り六時過ぎに現れた。僕は加奈子さんたちが帰ってから十分ほど待った。慌てて準備したのだろう。彼女は髪を束ねていなかった。服装は白い長袖シャツにクリーム色のカーディガン、下衣はジーンズで、グレーのお洒落な紐靴を履いていた。まさしく動ける服装だと思った。
「どこに行くんだ?」
「山の中腹に大きな建物がある。事件の時に死体が見つかった場所はバラバラだったけど、だいたいその建物から徒歩圏内だわ。あんなところに行く人はめったにいないけど、私は一度行ったことがあって、その時に見つけたの。伯母さんの家に来た時にね、興味本位でこっそり山に行ったんだ。その建物を基点にして、探偵さんたちを追いかけましょう。道はさほど難しくないから、一回しか行ったことないけど、たぶん大丈夫。」
 彼女は髪を一つに結びながら言った。
「分かった。」
「出発よ。」
 彼女は白い自転車に跨り、勢いよく漕ぎ出した。慌てて僕も黒い方に乗る。あの細い脚のどこにそんなパワーが宿っていたのかと思うほど、彼女の動きは力強い。上の方で結わえられた長い髪は、風にたなびいている。僕が彼女に追いつくと、君は口を開いた。
「前原さんっていう科学者、知ってるかな。」
「知らないな。」
「あら、そうなの。息子が朝丘高校に通ってるらしいけど。」
「パソコン部? もしそうなら、友達だけど。」
「さあ、それは知らないね。他に同じ苗字の子がいなければ、その子なんじゃない?」
「全員の名前なんか覚えていないから、分からないよ。」
 彼女は僕の回答に少し不満そうだ。そして、僕は素直に頭に浮かんだ疑問を述べた。
「なんで急に前原のことなんか訊くんだ?」
「別に、なんとなく。ちょっと気になっただけ。」
 それっきり、僕たちは黙ったまま山へ向かって進んでいく。曇天でなければ、そして目的が娯楽だったなら、さぞかし気持ちいいサイクリングだっただろう。
 まず一本の川を渡ると、その川は二股になっていることが分かった。そのもう一方に沿って進む。すぐに山の中に入っていった。家々は途切れ、車が通る道を、細心の注意を払いながら走行していく。少しハンドル操作を誤れば轢かれてしまいそうだ。しかしそんな道もすぐに町に出る。開けた土地があっという間に現れた。
 ソーラーパネルが設置されているところで、左折した。それからはずっと道なりに行く。途中でいくつかの小さな神社を見た。地元住民によって管理されているのだろうか。もう町と言うより集落と言った方がよさそうな場所である。名古屋市内の現代的な住宅とは異なり、茶色く変色した木造住宅ばかりだった。
 当然ながらずっと上り坂で、さすがに自転車の使用に限界を感じ始めた。しかし彼女は止まらない。立ち漕ぎで何とか進んでいる。両側はどちらも木々が揺れて葉が擦れ、その音が不気味でもあった。コンクリートの上にも小石が転がっている。動いていなければ、肌寒い気温であったろうと思った。
「もう少しよ。」
 息を切らしながら、彼女は僕に報告した。
「一応確認しておきたいんだけどさ、あなたは、関係ないのよね?」
「どうした、急に。」
「どうして一度依頼しただけの探偵さんに、ここまでできるの。」
「そうだな。
 君はさっき、僕に前原について訊いたよな。以前、探偵にもあいつについて訊かれたことがあった。前原司の既往歴を知らないかって。その時は、何の違和感もなく、素直に教えた。ちなみに、彼は瑞浪市で起きた殺人事件に、関わっている。
 もう察しはついてる。探偵と前原は、何らかの関わりがあるんだろ。それも、事件を介して。以前、これ以上関わらないほうがいいと前原から言われたことがあったんだ。それも今、理由が分かった。僕を、前原が関わってる事件に絡ませないためだ。
 それより、君はなぜ、ついてくるんだ。
 君も、関わってるんだろ。
 君は従姉妹に成りすました。本物の美和さんは今も行方不明。君は美和さんの居場所を守るために、今こうしていると言った。それは、いつか必ず戻ってくると信じているからだ。
 考えてみろ。例えば、キャンプで迷子になって、そのまま行方知れずになった子供がいるとする。普通、そこで捜索願を出すはずだ。別の子供を自分の子供にする親なんて異常だろ。父親の地位が、その理由の中にあるなんて、なおさらだ。君の一族は、はっきり言っておかしい。でも、それは、説明がつけられる。
 美和さんは必ず戻ってくると確信しているんだろ。確かな根拠付きで。君はまだ、全てを明かしてはいないんだ。君は僕に言ったよな。全部話すと、嘘はつかないと。あの言葉は、嘘だったんだ。
 これが、君の質問への答えだ。
 曲がりなりにも、彼にはお世話になったからな。」
「あーあ、やっぱ朝丘の人って頭良いんだなあ。」
 たぶん、この台詞は独り言のつもりなんだろう。
「大正解よ。
 私が嘘をついたことに対して怒っているのなら、もちろん謝る。でも、君はそんなことで怒るような人じゃないわよね。だって、私や探偵さんのために、こんなに動ける人だもの。」
 突如、右に狭い平地が現れた。
 手前に白い建物がある。人工物であることを主張しているような佇まいだ。柵が設置され、せっかく平らな土地に出たというのに、休めそうにない。これ以上は入ってくるな、という無言の圧を感じた。
 晴れていれば、朝日に照らされて美しいと思えたかもしれない。しかし雲のせいで太陽は顔を出せず、鳥の声だけが響いていた。何という鳥かはわからなかった。
「ねえ、あれ見て。ワゴンが停まっているわ。」
「ここだ。間違いない。」
 道はさらに山奥へと続いている。探偵たちが乗って来たと思しき車は、その山道の脇に停められていた。
 他に人通りはなさそうだ。ある程度のところまでは、僕たちも数台の車を見かけたが、みな民家に入っていった。ここまで来た者は僕たちしかいないだろう。純粋に、この道をもっと奥に進むと何があるのか興味が湧いた。しかし、今はそれどころではない。
 酷使した脚にさらに鞭打ち、走った。彼女は何の躊躇いもなく柵を越えていった。僕も後に続いた。建物の正面玄関と思われる出入口は、一応確認したが、もちろん鍵がかかっていた。裏に回り込み、窓がないか探そうとした。しかし、その必要はすぐになくなった。裏側の一階部分は、一面ガラス張りだったからだ。雨の跡すらなく、手入れが行き届いていた。
 先へ先へと歩を進めていた彼女は立ち止まった。僕は君を追い越し、前に立った。奇怪な場所に来ている自覚はあった。彼女ではなく、男の僕が先導する方が、彼女にとって安全だ。一つ一つのガラス窓を確認し、どれか一か所でも開いている場所がないか、確かめていった。君は僕についてきた。僕は作業に夢中になっていた。
「おい、おい。」
 彼の呼びかけに、僕は気付かない。
「ねえ、誰かいる。ねえ」
 彼女が僕の背中を叩いたので、気付いた。その時、早朝の電話で披露された君の洞察力に、僕は脱帽した。
 そこに探偵はいた。見知らぬ男四人と一緒だった。
 探偵を含めた五人と、男と少女の二人が、ガラスの向こう側で、向かい合っていた。

雨が降れば街は輝く③

④はこちら↓
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雨が降れば街は輝く③

ついに晶は美和と再会を果たし、真実を知る。しかし――

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-03-14

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 幕間
  2. 第3章 真実
  3. 第4章 追求Ⅱ-曇天-
  4. 第5章 追求Ⅱ-奔走-