雨が降れば街は輝く②

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第2章 #1

 男は誰も知らない詩を口ずさんでいた。夜の繁華街で、一人。その姿は、誰が見ても、寂しそうに映った。男にとっては大切な言葉だが、他人から見ればどうでもよい、ただのクサいものにしか思えない。それでも、男はその言葉を十年以上口ずさみつづけてきた。


 ——雨が降れば虹が出る
 雨が降れば街は輝く
 私は私の 感性で
 この街を感じて 生きている

 クリスマスのイルミネーション
 行き交う人は 切なくて
 みんなみんな ひとりぼっち
 家に帰れば 待っている
 君が愛する人々よ

 人の夢は 切なくて
 いつかは消えてしまうけど
 寝ればいつかは 逢えるから

 天の川の沿岸を
 歩く人と走る人
 みんなどこかへ向かってて
 先は誰にも 分からない

 水は光を 乱反射
 人は光を 乱反射
 まるで竜宮城に 来たみたい

 光は君を生かしてて
 君は光を生かしてる
 みんなみんな生きていて
 雨が降れば街は輝く——


 午後十一時三十分。セブンイレブン大曽根店の前に、若い男が座っていた。ああ、あれが奥田晴嵐か。何も知らない人が見れば、ただの暇な奴くらいにしか思わないだろう。しかし、その姿には、暇人にはない緊張感があった。
「おい、そこの君。俺の妹の知り合いか。」
 突然彼は声を上げた。たまたま近くにいたスケボーを操る小柄な少年が、ビクッと肩を震わせた。
「奥田さんですか。」
「おお、そうだ。」
「奥田晴留さんのお兄様の、晴嵐さん?」
「君が女の子を探しているとかいう奴?」
「そうですね。」
「マセガキめ。どうやって口説いた? もう彼女とはヤったか?」
「やめて下さい。付き合ってすらいませんよ。」
「なんだよ。じゃあなんでわざわざこんなとこまで来るんだよ。」
 呆れたような調子で、晴嵐さんは言った。
「それより、早くしてくれませんか。明日も学校あるんですよ。」
「無愛想だな、お前。フラれるぞ。」
「僕が探している人ですが、磯村美和という子です。天陽中学の三年生。住所は名古屋市緑区渡虹橋二〇一八番地の十。携帯の番号は知りません。おそらく、そもそも持ってないと思います。」
 携帯で顔写真を見せた。
「ほう。それで?」
「二週間ほど前、進路のことで両親と揉めたあと、姿を消しました。その時、言い合っているのを聞いてしまったんです。カオリという人物が関わっているらしいということは分かりました。」
「カオリ、だな?」
「そうです。そのことが気になるんです。僕の昔の知り合いに花織という子がいたんですが、その人も苗字は磯村なんです。何か関係しているように感じませんか。」
「まあ、他の情報を聞かなければ何とも言えないが。その昔の知り合いだっていうカオリは、今どうしてるんだ。」
「彼女なら、」
 息をすぅっと吸った。
「死にました。小学校を卒業してすぐの春休みに。」
「なぜ?」
「自殺です。」
「なぜ死を選択した?」
「過去に自分がやったいじめを後悔してたんですよ。荒れた小学校でしたから、そんなのどこのクラスでも横行してました。注意を受けて、反省してやり直そうって時に先生から随分な仕打ちを受けたらしくて。何度も助けを求めてたんですけど、あいにく。」
「そうか。彼女とはどういう仲だった?」
「小一の時に同じクラスで、仲良くなったんですよ。男女関係なく仲良しグループみたいなのが形成されてましたね。家は遠かったですけど、何度も遊びに行きました。」
「死んだ時の状況は?」
「名城線の栄で、線路に飛び降りました。」
「詳しく。」
 僕はもうひとつ、息を大きく吸った。
「彼女に誘われて、遊びに行きました。行き先は内緒だって言われてたんですけど、まあ彼女のことだから、おかしなことにはならないだろうと思って付いていきました。その後、新瑞橋経由で栄に到着して、普通に地上に出ればいいものを、なぜか反対側の名城線のホームへ向かって行ったんです。何をしてるのか疑問に思っていたところ、お茶を買うように頼まれて、金を預けられました。少し離れたところにあった自販機で安い麦茶を購入して、彼女と合流しようとしたちょうどその時に悲鳴が聞こえて、その後はよく分かりません。ちぎれた腕にあった(ほくろ)を見て、猛ダッシュでその場から逃げたことだけは覚えています。」
「なかなかハードだね。大丈夫か?」
「心配してらっしゃるんでしたら、それは無用です。もう昔のことですし。」
 強い視線を僕の目に向けてきた。
「あの、ところで、いなくなった日に、美和は『会いたい人がいる』と言っていました。誰なのかは分かりませんが。」
「ほう。引っ掛かるな。」
「いったい何が起こったんだ、と聞いたら、会いたい人がいるから、と。それだけ言って去って行ったんですよ。」
「磯村美和に関してのヒントはあるけど、何一つとして具体性のあるものはないな。」
「そういうことですね。消えてから二週間ほど経ってますし、その間僕もネットで探しましたが、何も情報は得られませんでした。」
「難しいな。捜索願は出されているのか?」
「出されていないと思います。警察が動いている様子はありません。」
「親は何してるんだ?」
「さあ、知りません。父親は医者をやっててあまり家にいないですし、母親は娘に関して成績にしか興味がない感じでしたよ。美和さん本人が『行き先は分かるでしょ』と言っていたので普通の家出だと思いたいですけど、さすがに長くありませんか。
 彼女、天陽中の生徒でありながら朝丘を受験しようとしていました。今回の揉め事の原因もそれです。両親共に受験を認めていませんでした。彼女は、自分の居場所はここじゃないと言って、何としても受ける気でいましたね。受験したいはずなのに、小さいリュック一つで出ていって、普通じゃないです。彼女も親も何か隠している気がしてならないんです。」
 彼は頭を掻きむしった。髪が何本か抜けて地面に落ちる。
「ここまでをまとめると、依頼の趣旨は磯村美和を探し出すこと。ヒントは謎の女・カオリと、美和の言っていた会いたい人。」
「はい、そうです。」
「他に何か情報はあるか?」
「残念ながら、ないです。」
「一つ聞くが、俺のことはどのように知った?」
「晴留さんから聞きました。学校でたまたま隣の席で、良くしてもらってます。」
「よし、頭金代わりにこちらからの依頼だ。晴留から聞いているなら、俺が依頼を受けるときの条件は知ってるだろ。」
「ええ、聞いています。」
「俺はな、お前みたいな奴を使って金儲けがしたいわけじゃないんだ。でもお前みたいな若くて体力のある奴の労働力は欲しい。
 というわけで、手始めに最も最近の定期考査の順位表を入手してこい。三学年分全て、合計点だけじゃなくて、科目別で点数までしっかり書いてあるやつだぞ。普通に印刷された紙を盗んで来られると後で面倒なことになるから、スマホで写真を撮るんだ。ドラマでよく見るやつを、お前が実践してくれりゃいい。俺はとある事件を調べてて、ああ、隠しても無駄だな。どうせあいつが喋ってるだろ。瑞浪(みずなみ)市重度知的障がい者連続殺人事件のことだ。あれに関わってる重要人物が朝丘と縁があるらしいという情報を掴んでる。卒業アルバムくらいはこちらでなんとかなるから、お前は今言ったことをしっかりやり遂げてこい。」
「これからの連絡はどうしますか? 写真をせっかく撮っても送れないんじゃ、意味ありませんよ。」
「ツイッターにDMを送れ。ちゃんと名乗れよ、お前のアカウント名知らないからな。捜査の出来によってはラインを交換する。俺との連絡は、基本的に電話だ。」
「了解です。ありがとうございます。ところで、一つ伺いたいんですが。」
 僕は彼に関して不思議に思ったことを率直に聞いてみることにした。最重要案件について人に協力してもらうからには、相手の内面をきちんと知らねばなるまい。
「なんだよ。まだあるのか。」
「すいません。今少し気になっただけなんですけど、どうしてこんなボランティア紛いの探偵をやってるんですか? 代金の代わりに他の事件の調査への協力を言い付けてるだけじゃ、経済的には困りますよね。」
「その辺の事情はな、お前の依頼が片付いたら教えてやるよ。喋ったところで、どうせ何がかが変わるわけでもない。」
 不思議なシステムで探偵業をする理由は、わざわざ隠すほどのことでもないはずだ。普通なら、美談を長々と語りたがるところだろう。僕は、この人は頼りになるかもしれないと思った。
 探偵に向かって隠し事をする意味は感じないから聞かれたこと全てに答えたけど、本当は思い出したくないことも多かった。小学校時代の自分なんか、今とは別人だ。クラスメイトと群れていた日々が懐かしい。当時は教室で一人で過ごす放課なんて、滅多になかった。しかし、中学時代はむしろ、友達と放課に話すことの方が、少なかった。花織のことだって、あんな悪夢を語る日が来るとは思ってもみなかった。人に語って聞かせたことなんて、一度たりともなかった。そもそも話す相手がいない。いたとしても、喉まで出かかって、結局そこで詰まってしまうに違いない。
 のろのろとコンビニから移動し、小さなバスターミナルの待合席に座った。悲しいことに、屋根も壁もないただのベンチで、一晩過ごさなければならない。
「持ってけ。」
 背後から手を差し出された。この声は、さっきまで聞いていたのと同じ。
「タクシー代。てめえ、これがなきゃ帰れねえだろ。」
 晴嵐さんは左手の親指と人差し指で輪を作ってみせた。
「あ、ありがとうございます。」
「気を付けて帰れよ。お休み。」
「お休みなさい。」
 奥田晴嵐、彼は不思議な人だ。半分ボランティアで探偵。なぜ探偵? ヤクザっぽい風貌とは裏腹に、やっていることは実に心優しい。見た目と中身がこれほど一致しない人は、僕史上初めてだ。そもそも本職が何か分からない。大学生なのか、はたまた浪人生なのか、もしくは社会人か。眼鏡女子の兄ということだから、それほど年は離れていないはずだ。今回のような用事がなかったら、間違いなく人生で交わることのなかった人種だろうと思う。縁とは不思議なものだ。
 タクシーを捕まえると、渡虹橋まで、とオーダーした。運転手はこんな夜に観光地に行くだなんて、変わった奴だと思ったに違いない。このおじさんの脳内を妄想して楽しんでいると、間もなく通知が鳴った。送信者の欄には、奥田晴留と表示された。
(お兄とはどうだった?)
(頼りになりそう。助かるよ。)
(さっき連絡来てさ、久しぶりに腕が鳴るって。)
(へえ)
(それならよかったんじゃない?)
(うん、そうだね。)

 男は回想する。あの日の先輩の姿。生徒会室で課題をこなしている姿。
「ねえ、テーマを決めて詩を書けって、めんどくさ過ぎるでしょ。三年にもなって、なんでこんなことしなきゃいけないのよ。」
「笹木、お前文系だろ。」
「理系諸君にはわからないかもしれないけど、文系だからって書くのが得意なわけじゃないのよ。
 ねえ、奥田くん。なんかいいアイデアない?」
「テーマですか……。ちょうど今外は雨が降っているから、タイトルは『雨』なんてどうでしょう。」
「いいじゃない。雨ねえ。
 そうだ、雨が降れば街は輝く、なんてどう?いいフレーズ思いついた。」
「雨が降ったら暗くなるだろ、笹木。」
 会計の先輩が言う。
「違うわよ。雨が上がったあとのこと。水滴がきれいに光るじゃない。あれ、好きなのよね。
 私の家ね、川がすぐそばにあってさ、雨あがりの川の景色は格別だよ。」
「ああ、そう。まあ好きにやれよ。」
 若かりし日の男は、そんな先輩の感性を、美しく思った。

#2

 僕の身体は鉛で出来ているらしい。
 布団から出られない。
 どうせ学校をサボったところで親にはバレないから、今日は怠ける日にしよう。昨日は自分で思っている以上に疲れたんだ、たぶん。
 奥田晴嵐にメッセージを送り、また布団を頭まで被った。
(昨夜はありがとうございました。
 美和さんのこと、進展あり次第、このアカウントに連絡をお願いします。)
(早速取り掛かってるぞ。安心しろ。)
 意外にも一瞬で既読がついた。ツイッターのダイレクトメッセージ機能では、送信済みのメッセージの左下にチェックのマークが表示される。それが未読の場合はグレー、既読の場合は水色になるのだ。忙しく仕事をしているに違いないと思っていたため、すぐに返事が来たことを僕は不快に思った。
(ずいぶん返事が早いんですね。暇なんですか。)
(俺は随時メッセージを受け付けている。通知が鳴ったらすぐに確認することは当然だ。)
(美和さん探し、順調ですか。)
(まだお前と会ってから八時間だぞ。俺の睡眠時間も考慮して想像しろ。)
(つまり順調ではないんですね。)
(順調かどうか回答できる段階ですらない。)
 案外仕事が遅い探偵だな、という言葉は心に秘めておこう。
(ところでだ、)
 連投でメッセージが送られて来た。細かく区切られている。
(磯村美和に関する情報は多ければ多いほど進めやすい。)
(お前も何かしらの方法で調査を続けろ。)
(お前だから調べられるようなこともたまにはあるからな。)
(頼んだぞ。)
 確認した、の意を込めてハートで反応しておいた。スマホを片付ける。
 自分のパソコンの電源を入れ、デスクトップを開くとパソコン部らしく大量のソフトが入っている。全て今の状況では必要がないため、フォルダを作って一つにまとめた。とりあえず、現段階では、ツイッターからの怪しい情報がほとんどだが、天陽中学校内での美和の交遊関係くらいは分かった。それもたった一人だけ。
 僕ならもっと出来ると思ってた。今日で消えてから二週間。その間、結局僕は何もできなかった。


「春からうちで働きたいんですか。じゃあいくつか質問するから、答えて下さい。」
 汚い雑居ビルの二階で、バイトの面接が行われた。答えていたのは奥田晴嵐だ。
「なぜ探偵になりたいのですか。」
「はい。私は以前、とても親しくして下さった高校の先輩の行方が分からなくなるという事態に遭遇しました。私は同じような状況におかれた苦しむ人のために働きたいのです。」
「高校の先輩ですか。どのような関係だったのですか。」
「私が生徒会の副会長をやっていたとき、その先輩が会長を務めていました。仕事上で仲良くさせていただきました。」
「ほう、なるほど。では、あなたが言う苦しむ人とは、どのような人ですか。」
「困難に直面して、どうしていいか分からずにいる人です。そういった方に頼っていただけるような、頼りたいと思っていただけるような人間でありたいです。」
「なぜこの事務所を選んだのですか。」
「はい。ここの所員の方々はみなさん、様々な経歴をお持ちで、多角的に依頼を見ることができます。そんな事務所で探偵としてのノウハウを身に付け、いずれは素晴らしい探偵になりたいからです。」
「どのくらい事務所に入れますか。」
「ずっと大丈夫です。こちらでの仕事を本業にさせていただきたいと思っています。」
「わかった。まあ、採用に関する真面目な質問はこのくらいでいいかな。ところで、奥田さんは瑞浪市重度知的障がい者連続殺人事件は知っていますか。」
「はい、もちろんです。」
「マムールはあの事件に深く関わっている。いや、想いがあると言った方がいいな。現段階で既に、あの事件の奥の深さを目にしているところだ。お前も関わろうという気はあるか。間違いなく大変な仕事になる。
 ちなみに、この質問をするってことは、お前は採用ってことだ。久しぶりだよ、こんなにしっかりしてて、しかも頭が良さそうなのは。こんなオンボロ事務所じゃあ、ろくなやつが来ないからね。みんなただの小遣い稼ぎだ。」
 うってかわって、面接官は砕けた調子になった。
「実は、」
 十五年前の日々が、マムールの四人と探偵の頭によみがえる。
「俺もあの事件には思い入れがあります。」
 五人がみんなで協力して調査を始めた事件が、時を超えて動き出すのを実感していた。


 今日、初めて俺がメインで聞き込みを行う。所長は早速俺一人に任せようとしたが、他のメンバーの反対にあい、彼も付き添いで来ることになった。所長の娘が通っていた障がい者施設に、顧問の医師として派遣されていた人物を当たることになった。娘は由香先輩と同じく、失踪中である。また、その医師は中部学園大学附属病院に籍を置いている。今日はその大病院に来ていた。
 でも、それだけではない。検事がもっている情報によれば、件の医者は、ここから少し離れた岐阜県の小さな町で殺人事件があった時、現場付近で目撃されているというのだ。スーツ姿の見慣れない男が、白昼堂々歩いていたのを、地元の主婦が覚えていた。
 検事と呼んではいるが、正しく言うなら「元」検事である。すでに辞めた職場の機密情報を漏らしていいはずはないと思い、俺は詰問した。しかし、まだ高校卒業したばかりとはいえ、探偵を生業にしているにわりに考えが甘すぎる、と注意を受けてしまった。
 殺人事件現場付近での目撃証言がある上に、失踪者と面識がある。短期間で、偶然二つの事件に遭遇するものだろうか。
 臭うな。そう先輩所員たちは言っていた。
 もしかしたら、今日の質問が大きな意味を成すかもしれない。そう考えると、俺はどうしても緊張がとれなかった。
「た、探偵事務所マムールの、奥田晴嵐といいます。前原(まえはら)孝二(こうじ)先生に、お会いしたいのですが、お取り次ぎ願えませんか。」
 インフォメーションと書かれた受付に立っている若い女性に交渉した。
「探偵さんですか。何について調査されているのでしょうか。」
「えっと、それは」
 答えに窮した。どのような場合に調査内容を明かしても良いのか、俺はまだ判断できないからだ。自分の未熟さは、こういう時に一番感じさせられる。
「すみませんが、それは依頼者の情報ですので、言えないんです。申し訳ございません。」
 所長が代わりに答えてくれた。
「少々お待ちください。上に確認してきます。」
 女性はその場を去った。
「所長、依頼者なんていないじゃないですか。」
「細かいことはいいんだ。何でもバカ正直に言わなくていいんだよ。」
「ふうん、そういうもんか。」
 女性はほどなくして戻ってきた。
「お話するぶんには大丈夫ですが、今は手を離せないそうです。もしよろしければ私から伝言でも、」
「いえ、それは遠慮しておきます。直接お話させてください。」
「わかりました。そのように伝えておきます。そこの椅子でお待ちください。」
 薄い緑色の、ボロいソファを勧められたので、遠慮なく座った。中のスポンジは、外見以上に傷んでいるようだ。ソファとは思えないほど尻が痛い。俺ら以外にインフォメーションに用がある者はおらず、手持ち無沙汰な受付嬢は居心地が悪そうだ。案の定、すぐに中へ引き上げてしまった。
 三十分ほどそこで待つと、白衣を着た三十代半ばくらいの男が現れた。先ほどの受付嬢は一向に出てこない。
 目の前の人物こそ前原孝二に違いない。白衣の下はどうやらスーツらしく、背広さえ着れば、いつでも会社員になれそうだと思った。
「こんにちは。突然お邪魔して申し訳ございません。探偵事務所マムールの、奥田晴嵐と申します。」
 名刺を両手で渡した。
「本日は、『はぴねす』に通っていた榎本(えのもと)沙穂(さほ)さんについて伺いたく、参りました。」
「ああ、彼女ですか。確か、現在は行方不明だと。」
「あの施設に医師として派遣されていた前原先生なら、何かご存じではないかと思いまして。」
「私は何も知りません。他をあたってください。」
「そうですか。分かりました。」
「もうよろしいですか。私は暇じゃないんですよ。」
「そうですね。榎本さんに関しては、これ以上訊いても……
 ああ、そういえば、前原孝二先生といえば、以前、瑞浪でお見かけしましたが。」
「何が訊きたいんですか。」
「いえ、しかし大学病院の先生ともあろうお方を、あの山の中の小さな町でお見かけするとは思わなかったものですから。」
「あなた方とは関係ありませんが、それが何か?」
「いえ、結構です。」
「分かりました。じゃあ私はこれで。」
 正面玄関を通って建物を出ると、ラナンキュラスの花が咲いているのが目に入った。なぜその花の名前がわかったかというと、小さな看板が立ててあったからだ。開花時期は三月から四月。少し早めの見ごろのようだ。
 花言葉は幸福。病院だから、患者の回復を祈って植えているのだろう。
「雨が降れば、町は輝く」
 俺は呟いた。
「それ、どういうこと?」
「所長、これは、その、何でもないです。」
「なんだ、そうか。」

#3

 唐突にスマホの通知が鳴り響いた。五通も六通も連続して送り付けられてくる。日曜日の午前十時なんかに、また暇人がいるのか、とうんざりしつつ通知をチェックすると、送り主は奥田晴嵐だった。何事かと焦っていると、今度は電話をかけてきた。
「おい、出かけるぞ。」
「いつですか。」
「今からに決まってるだろ。」
 なんて急なんだ。人使いが荒いのにもほどがある。こんな横暴な人に付き従うなんてまっぴらごめんだ。
 いや、しかし彼女のためだ。探偵に多少イラついたくらいで、僕はめげない。
「だから出かけるっつってんだろ。早く準備整えろ。」
 スマホの向こう側に聞こえるように、僕は大きなため息を一つついた。
「せめて前日までには教えてほしかったですね。僕も暇じゃないんですよ。」
「ああ、そう。じゃあ十分後、お前の家の裏の公園で。」
 言い捨てて、探偵は電話を切った。
 やはり、横暴な奴だ。
 とりあえず箪笥(たんす)にしまわれた服の中から無難なものを選ぶ。暑いが、一応長ズボンだ。緑色のまだヨレていないTシャツとジーンズを身に着け、僕は待ち合わせ場所に向かった。
「お待たせしました。」
「お前さあ、そんな恰好で行くつもりか。せめて制服着て来いよ。」
 制服だと? 探偵は僕をどこへ連れていくつもりなのだろう。たまらず僕は言い返す。
「どこに行くかすら教えてくれないから、適当な服選んだんですよ!」
「いいから早く着替えてこい。」
 しかたなく、閉めたばかりの玄関ドアを開け、もう一度自室に戻る。入学式以来ずっとクローゼットの中で眠っていた学ランは埃をかぶっていた。


 山本幸宏(やまもとゆきひろ)は、大学は教育学部だった。小学校の先生になることを目標に励んでいたが、残念ながら教員採用試験に合格するまでに何年もかかってしまった。友人たちがみな新任の教師としてあちこちの学校に配属され、一同が会したときにはそれぞれが受け持つ子供たちの話をよく聞いた。彼は大学を出たあと何もしないわけにもいかず、とりあえずは塾の先生として働き始めた。毎日働きながら勉強するのは大変だった。しかし、彼の熱意はその過酷さを上回っていた。
 塾で見てきた子供たちの中で一人、今でも鮮明に覚えている生徒がいる。高校生には月に一回、担当の講師が面談を行う。その生徒は、その担当をしていた、とある高校二年生の男子生徒のことだ。彼が二年生の九月から山本は担当を任された。
 彼は地元で有名な進学校である朝丘高校の生徒だった。しかも一年生の前期から半年間生徒会副会長を務めたという。どれほど優秀で真面目な生徒なのだろうかと思っていた。しかし、初めて面談したとき、現れた彼は言った。
 俺は近く塾をやめる。俺は大学にはいかない。将来は探偵になるんだ。
 詳しい理由は教えてもらえなかった。彼は実際に、九月いっぱいで独断で退塾した。
 あの日の宣言通り、十八歳で探偵事務所に就職した彼が、山本を訪ねたことがある。彼は山本に不思議なことをきいた。
 頭がよくなるためにはどうしたらいいか。
 もちろん、山本はこう答えた。たくさん勉強することだ。
 すると、彼は続けてこう言った。
 もし人間の手で人間の脳を作り変えるとしたら、どこまでは技術の領域で、どこからが神の領域なのか。
 それは倫理の先生に聞きなさい、と答えた。
 山本にはこの質問の意図がさっぱりわからなかった。しかしその十一年後、もしやと思う出来事があった。また彼が山本を訪ねてきたのである。彼が山本が現在勤めている小学校に電話をかけてアポイントメントを取ったとき、彼は言った。
 実は、俺は高校時代お世話になった先輩をずっと探している。彼女の弟は二〇〇一年の連続殺人事件の被害者である可能性が高い。
 その連続殺人事件についても説明された。
 あの事件に関連して見つかった死体のすべてに共通して、頭部に手術痕が見つかった。また、身元がわかった死体はすべて知的障がい者だった。さらに、その事件は今なお進行中だ。
 実際にやってきた日、彼は山本の教え子を連れてきていた。そのことは事前に聞かされていたが、話題として触れるな、と言われていた。不思議に思いつつも、山本は彼の言いつけを守った。連れてこられていた教え子は、現在朝丘高校に在学中だ。その子には余計な事を伝えてはならないらしい。大事な子を事件に巻き込む可能性があるからだそうだが、山本は思った。
 探偵業で生計を立てている彼だって、山本にとっては教え子だ。危険なことに巻き込まれてほしくはない。

#4

「よし、準備出来たな。」
「はぁ、はい。」
「今日これからから会うのは山本幸宏、四十三歳。お前たちの小学校六年の時の担任だ。さぞかし有益な情報をくれるだろうな。なんてったって彼女の事件があったときの担任だぜ。いくらあれがもう既に卒業式も終わった後って時だったとはいえ、さすがに詳しいだろうよ。」
「さあ、どうでしょうね。」
「なんだよ、久しぶりに会うんだから懐かしいとか思わねえのか。」
「よく調べましたか、山本先生の評判。まず見た目からして素敵な人には見えませんよ。背丈は人並みだけど体重は平均を大きく下回るでしょうね。爪楊枝みたいな体つきですから。加えて児童に上から目線で無愛想ときている。あれでは誰も言うこと聞きませんよ、実際クラスは荒れてましたし。」
「そうか。俺が調べた限りではいい先生だったみたいだけどな。」
「まさか。」
「いいか。人間は見た目だけじゃないんだぞ。爪楊枝だろうと心はある。本当のいい奴ってのは自分がいいことをしてるとは言わねえし、自分で気付いてすらないことがほとんどだ。無愛想な奴は怖そうだとか何考えてるのか分からないとか散々言われがちだが、つまり静かに見守るタイプだったんだろ。いるよな、そういう先生。小学校も高学年になれば、いろんな奴がいるぜ。」
「説教はよしてくださいよ。」
「まあ、いいじゃないか。彼女ちゃんのためを思えばよ。」
 僕にとっては気詰まりで不快しか感じない時間だが、探偵は全く意に介していないようだ。
 インターホンを鳴らすのは僕の役目だが、話をうまく聞き出すのは探偵の仕事だ。終始メモを取り、部下を装うように言いつけられた。
 学校のインターホンなんて押したことはない。緊張の一瞬。
 ピンポーン
「はい。」
「失礼します。探偵奥田晴嵐とその、まあ子分みたいな者ですが、山本先生はいらっしゃいますか? アポなら取ってあるはずです。」
 探偵に言われた通りの言葉を使うのはなんとしても避けたかったので「名探偵」を「探偵」と変更した。残念ながら彼は気に入らなかったようだ。
「山本先生と会う予定の、奥田様ですね。大丈夫です。今お通しします。」
「お前さ、リハーサル通りやれよ。」
「ほぼリハーサル通りですよ。自分で「名探偵」だなんて言ったら胡散臭いだけです。」
「俺たち、『名』をつけようがつけまいが、どうせ胡散臭いだろ。」
「お待たせ致しました。山本です。」
「今日は俺たちに話をしていただけるんですね。」
「ええ、私に分かることならお話しますよ。さあ、どうぞ入って下さい。」
「失礼します。」
 全然失礼だと思っていなさそうな口調で探偵は言い、中に入っていった。僕もそれに続く。
「それでは早速本題に入っていこうと思いますが、磯村美和さんをご存知ですか。」
「イソムラさんですか。下の名前はミワさん。残念ですが、ピンときませんね。」
「美しいに和風の和と書いて美和です。名字のイソは磯の香りとかで使う磯で、ムラは普通の村ですね。それで磯村美和。」
「はあ、その方は私の知り合いでしょうか。」
「依頼人の話に基づけば、確かに知っているはずなのですが。」
「残念ですが、ちょっと分からないですね。」
「そうですよね。ではもう一つ。磯村花織さん、こちらはご存知ですよね。」
「ええ、私の教え子ですよ。」
「いつですか。」
「忘れもしません。二〇一三年度に、私がこの学校で六年生を受け持ったときの子です。」
「その子が中学生になってからのことは分かりますか。」
「残念ながら中学生になれませんでしたね。そのことを調べてらっしゃるのですか。」
「直接的に調べているわけではありませんが、別の案件の調査しているうちに、こちらの話が必要だということになりましてね。」
「そういうことでしたか。」
「ええ。なにかご存知のことがあれば、全てお話し頂けると喜びます。」
「そうですね。全て話すと長くなってしまいますが、そのことで誰かの役に立つのであればいいでしょう。」
「それはありがたい。お願いします。」
「花織さんは、はっきり言ってしまえば問題のある子でした。彼女は四年生のときにいじめをしていましてね。私自身はこの学校に異動になって最初の年が二〇一三年度でしたから、その頃のことは分かりません。でも、とても賢い子でした。初めは天才かと思いましたよ。いや、天才というと彼女にはふさわしくないな。秀才というのが最も適切でしょう。何と言っても、親戚がとても立派な方なんだとか。教育の賜物だったのかもしれませんね。
 いじめの件についてはですね、クラスの気に入らない子を仲間外れにしたり無視したり、そういうことをやってたみたいです。でも六年生の時点では全然そのような気はありませんでしたね。むしろ静かで真面目、友達は少なかったですし用がなければ喋らない。もしかしたらそのいじめのことが尾を引いていたのかもしれませんが、何とも分かりません。悩みはないか、と定期的な面談で毎回聞いてましたが、いつもどんな質問にも『ない』の一点張りでした。正直言えば、扱いづらい子です。でも小六の女の子なんてだいたい扱いづらいものですからね。お年頃なんです。
 でも、卒業式も終わった三月の春休みのことでしたね。無事に子どもたちを送り出して、一息ついていた時季です。突然学校に電話がかかってきて、花織さんが地下鉄の線路に飛び込んだ、と。その場にいた大人が通報したそうではないですか。その方は、随分としっかりした様子で電話していたらしいです。
 私はすぐに花織さんが運び込まれた病院に行きました。まだその時は脈は微弱ながらあったみたいです。しかし、ICUに入っていて意識はなく、脳を損傷しているのでもはやどうしようもない、と。
 私はあの子は将来有望だと思っていました。コミュニケーションの方に少々傷があっても、そんなのは大したことないです。時が経ち環境が変われば、みんな変わっていきますから。人は変われます。小学生の頃のいじめがなんだって言うんです。実際に見たわけではないですけど、やっぱり子ども同士の諍いだったみたいですよ。当時のいじめられっ子だって、私が赴任した時にはもういじめられっ子には見えませんでした。彼女の四年生の時の先生は、一体どんな指導をしたんでしょうかね。よほどのことがなければ、マイナスの意味でガラリと人柄が変わることはそうそうありませんからね。相当厳しいことを言ったのでしょう。あるいは不公平があったりだとか、感情的になりすぎただとか。いずれにしても問題を感じますね。
 いくら十歳の子供とはいえ、叱るときは理論的でなければ駄目ですよ。納得して反省して欲しいならなおさらです。子供は子供なりの理論を持って行動しますからね。
 すいません、脱線してしまいました。
 とにかく、花織さんは何かに苦しんでいて、中学に上がる直前に、自殺してしまったんです。
 私がその苦しみに気付いてあげられていれば、といつも思い出します。もしかしたら防げたかもしれませんから、あの事件は。」
「そうでしたか。ところで飛び降りた日のことを詳しくお聞かせ願いたいのですが、よろしいでしょうか。」
「ええ、まあ、私に分かる範囲なら。」
「まず、当日花織さんは一人で栄に行き、一人で飛び降りたのですか。」
「いえ、違いますね。その場にへたりこんでいた女の子が一人と、一緒に栄まで行った男の子が一人です。男の子の方は花織さんの幼なじみで、同級生でした。女の子は彼女のいとこらしいです。ただ、私も現場にいたわけではありませんので。」
「そのことは重々承知しています。俺が調べた限りでは、先ほど聞いた磯村美和さんこそ、そのいとこの女の子のはずなのですが。」
「そうだったんですか。知りませんでした。」
「当時警察から聴取を受けたりしましたか。」
「それはもう大変でしたよ。根掘り葉掘り聞いてくるものですから。素人目にはどこからどう見ても自殺だと思うんですが、なぜか家族の話とか友人関係とか、とにかく知っていることを言えと。」
「それはご苦労様でした。その後、磯村家で何かしらの出来事があったとか、そういった話はご存知ないですか。」
「すみませんが、ありませんね。」
 左足を軽く踏まれたので、ここで僕の台詞だ。
「すみません、そろそろ時間かと、」
「おや、もうそんなに経ったか。」
 あらかじめ決めていた台詞を探偵が言うと、山本先生はすぐに反応した。
「私に聞きたいことというのは以上ですか。」
「ええ。ありがとうございます。また何かあったら来たいのですが、よろしいですか。」
「はい、大丈夫です。お役に立てたのなら何よりです。頑張ってくださいね。」
 互いに挨拶を交わした後、探偵と共に僕は母校を後にした。あの山本先生は相変わらずだと思った。平和主義は素晴らしいし思想もしっかりしているが、果たして子供に好かれるタイプには見えない。
「どうだ、初の聞き込みは。」
「まあ、ぼちぼちじゃないですか。仕事をした感覚はないですけど、手下としてそれなりにいい線いってたと思いますよ。それよりも僕が気になることは、ちゃんと制服着てきたのにあの先生は全然僕のことに気付いていませんでしたね。だから言ったんですよ。あれは果たしてい良い教師なのかって。」
 はいはい、とでも言いだしそうな雰囲気で探偵は聞いているように見えたが、どうやら聞いていなかったらしい。
「今から天陽中に行く。次の相手は松井(まつい)千里(ちさと)だ。美和と同級の三年生で、女子バスケ部所属。彼女とは中一の頃からの付き合いらしい。」
 一つ疑問が浮かんだので、僕は探偵に質問する。
「またメモ係として頑張れということですか。それともピンポン係ですか。」
「両方だ。」

#5

 松井千里の元に一通のメールが届いた。
「今、あなたの友達である磯村美和について調べている。彼女は重大な秘密を抱えている。近いうちに天陽中学を訪ねる。男二人で行くから、見つけたら必ず声をかけてくれ。学校で会うのだから、もし変なことをしたら即刻バレる。だから、危険なことはしない。つまりあなたに危害を加えるつもりは全くないから、俺のことを信じてほしい。」
 一度は迷惑メールとしてごみ箱行きにしたが、すぐに復元した。美和ちゃんの秘密? よくいる普通の陰キャのあの子に何が隠されているのか、彼女は気になり、メールの送り主に会うことにした。その予定は、誰にも伝えなかった。
 確かに、千里に会いに来た人物の片方はずいぶん若かったし、もう一方の大人もヤンチャそうではあるが、悪い人には見えなかった。その場では、彼らは身分を明かさなかったが、後でもう一度、同じアドレスからメールが届いた。
「もし俺のことを信用してくれたなら、一つ頼みたいことがある。
 今後、美和さんは過酷な出来事に直面することになる。その時には必ず彼女のそばにいて、彼女の支えになってくれ。
 美和さんには、小学生の頃、二人の大切な人がいた。そのうちの一人はすでに死んだ。もう一方は失踪中だ。俺の調査がうまくいけば、その人物はじきに見つかる。その時が山場だ。美和さんのことをくれぐれも頼んだぞ。」
 千里はこの文面を読んで、この人はもう一生かかわることはないと思った。美和ちゃんのことは、友達である私の方が探偵なんかよりもわかっている。友情を舐めないでほしい、と思った。

 地下鉄に乗って移動する。新瑞橋で名城線に乗り換え、さらに大曽根から名鉄瀬戸線に乗り換えた。ここからは地下鉄ではなく、電車は地上を疾走する。栄で乗り換えればいいものを、わざわざ大曽根からにしたのは探偵の気まぐれなのだろうか。目的地に到着すると、白くて洒落た雰囲気のある建物が塀越しでも見えた。
 昨日、やっと探偵からの依頼を果たした。教職員打ち合わせは生徒に内緒で不定期に行われるらしく、思いの外面倒な仕事だった。ランキングを盗撮する以前に、打ち合わせで皆が会議室にいるタイミングを狙うために、予定表を入手する必要があった。日直の仕事をわざわざ代わってもらって、日誌を担任のところに届ける時に、こっそり担任の机の中を拝見した。都合が良いことに、担任の席は職員室の一番奥にあって、人目につく心配はなかった。
 ランキングなんか手に入れて、何に使うつもりだろう。どうやら僕の仕事ぶりを気に入ったようで、ツイッターだけでなくラインも交換してくれた。しかし、礼を言われただけで何の説明もないのだから、少し気になる。眼鏡女子からも聞いていた事件の話と、何か関係があるのだろうか。まあ、僕としては、美和さんを探し出してもらえればそれで満足だ。このことは、もう忘れようと思う。
 ノースリーブの赤いユニフォームを着た五人の女子生徒が固まって歩いている。服の形から、あの中に松井千里がいることは間違いないだろう。バスケのユニフォームはノースリーブに膝丈のズボン、と相場が決まっている。
 四人は正門の方へ行くようだ。一人だけこちらに近づいてくる。
「あ、あのう」
 近づいてきた子が僕たちに話しかけた。
「おや、松井千里さん。俺が名探偵奥田晴嵐だ。よろしく。」
 探偵は手を差し出したが松井さんは無視した。僕は彼の背後でクスリと笑った。
「美和ちゃんのことですよね。あの子は普通の日常を普通に送ってるだけですよ。いったい何がしたいんですか。」
「そうか、普通か。じゃあわざわざ足をのばしたのは無意味だったかもしれんな。」
「なぜこんなところまで来たんです? こんなところに男二人で来るなんて、体操服泥棒と間違われても知りませんよ。」
「どうしてわざわざこんなところまで来たのかについてはいつかわかることだから、今日は必要事項だけ。泥棒だと間違われそうになったら君が弁解してくれ。
 最近の磯村美和さんの様子が知りたいんだ。何か変わったことはあるかい。」
「変わったことと言われましても、さっきも言ったように普通に学校来てるし、部活には全然行かないって言っても、それはいつも通りだし。あ、でも、とても下らないことだからたぶんお役に立てないとは思うんですが、一つ。」
「いや、ちょっと待ってください。学校、普通に来てるんですか。」
 僕は口を挟んだ。
「ええ、来てますよ。」
「会わせてください! 学校に来てるんですよね⁉ それなら早く僕に会わせてください!」
「無理ですよ、どこの誰かもわからないあなたに。」
 松井は怒った。
「僕は美和さんを心配しているんです。ただ彼女に会いたいだけなんです。」
「それなら、天陽中学校を頼らずに、自分で美和ちゃんの居場所を突き止めてくださいよ。私だって心配してるんです。毎日どこに帰ってるのかわからないんだから。
 あなたが美和ちゃんにここを使って会おうとしたら、全力で私が阻止します。ここは変わっておりませんもの。」
 松井はほとんど息継ぎをせずに話し続ける。
「本当にあなたにとって美和ちゃんが大切なら、私が心配しているのもわかるでしょう?
 決してあなた方を信じるとは言いませんが、既に捜しているという行動は認めます。あなた方の力を、私は利用します、美和ちゃんのために。」
「やってやりますよ。」
「まあ、二人とも、信じるとか信じないとかは後にして、本題の話をしようじゃないか。
 松井さん、それで変わったことというのは何だ。教えてくれ。」
「だから、たぶんお役に立つ話ではないですよ。初めに言っておきますが、期待なさらないでくださいね。
 この間、駅前の本屋に寄ったら、美和ちゃんが雑誌を立ち読みしてたんですよ。女性向けのファッション誌です。あの子があんなに大人っぽい服に興味があるなんて、思いもよりませんでした。ちょっといい家の高校生とか、女子大生とかが着そうな服ばっかり載ってて、私も立ち読みはしたことがあるけど、熱心に読んだりはしません。あんな服、実際着るとなると勇気が要りますよ。それに、その雑誌は買わずに、難しそうなハードカバーの本をレジに持って行ったところは見ました。私がその店に入ったときに読んでるところを見て、その後チラッとレジの方に向かうのが見えただけなので、自信はないですけど。」
「なるほどな。」
「あと、テレビ雑誌を何冊もキープしていましたよ。全部来月からのドラマで主演する、名前なんだったかな。子供っぽい丸顔で毎週ニュースやってる人が表紙のやつでした。そんなに興味あるなら、難しい本なんて読まないで雑誌買っちゃえばいいのに。疎そうなのにファッション誌もテレビ誌もあんなに立ち読みして、そのくせ買わなかったら、さすがに不思議に思うでしょう。
 あ、そうだそうだ。(あけぼの)です。思い出した。」
「あけぼの……」
 どこかで聞いたことがある気がするが、ピンとこなかった。
「まさかお前知らないのか。」
 探偵は心底驚いたようだ。
「全然芸能人を知らないもので。」
「いくらなんでも曙を知らない奴はそう滅多にいないぞ。これを機に勉強した方がいいんじゃないか。」
 探偵はスマホを操作し、僕に見せてきた。年の割には若々しく、輝きをまとった五人の中年の写真だった。
「不思議だと思いますよね。男子とか全く意識してなさそうなのに、まさか芸能人に恋してたなんて。だから服も大人っぽい感じを意識してたのかな。やけに真剣に読んでいたから、美和ちゃんはそんなにファッションに興味があるのかと思って、新たな一面を知った気になりました。でも、てっきりそれを買うものだと思っていたのに買わなかった。小難しい本なんか買っちゃって。結局美和ちゃんは美和ちゃんですね。」
「普段は、美和さんはお洒落な人なのか。」
「いいえ。とてもそうは思えません。ほら、あそこにいる子たちを見てください。みんな靴下の丈は短いでしょう。あれは足をきれいに見せたいから、ちょうどいい丈になるように、靴下を折って長さを調節しているんです。本当なら駄目なんですけど、みんなやってます。でも、美和ちゃんだけはしない。」
「やってることがちぐはぐだ。」
「あの、もういいですか。時間はあまりかからないと聞いていたから、友達を待たせてまして。今からハンバーガーを食べに行く約束をしてるんです。」
「ああ、全く構わないよ。今日はありがとう。」
「いえいえ、何のお役にも立てませんで。」
 松井千里が去ると、探偵は早速僕に問いかけた。
「探偵助手一日目、どうだった?」
「感想なんて一つしかないですよ。ただただ疲れました。」
 これは心の底から言える本音だ。
「曙くらい、知っとけよ。」
「分かりましたよ。覚えておけば良いんでしょう。」
「来週も調査だ。宿題は平日に済ませておけ。」
「そうですか、それは大変だな。いや、いいんです。せっかくの週末がなくなることくらいは、彼女のためですから。毎週毎週あなたと行動するのは、なんとも言えない気分ですけどね。」
 言い終わると、スマホを開いた。曙を知らないということで小馬鹿にされた気がして、不愉快だった。覗き見ブロックを設定した上で、「曙」と検索した。その人気を示すかのごとく、ネットニュースがあれやこれやと書き立てていた。


 帰り道、大曽根で探偵と別れ、僕は一人で学校へ向かった。探偵には忘れ物を取りに行くと伝えたが、それは嘘だ。
 ラインで前原から呼び出された。僕が既読無視したせいで「俺を頼れ」の言葉のあとはなにも話していなかったが、突如メッセージが届いたのである。
(明日の夕方、学校の屋上に来い。話したいことがある。)
(本当に来るか来ないかはお前の自由。でも、俺はお前とあれっきりにするのは本望じゃない。)
 僕は前原と会うことにした。
 屋上に到着すると、前原は柵に寄りかかりながらコーラを飲んで待っていた。
「よう。久しぶり。」
「ケンカしてから初めて喋るのに、『よう』かよ。気に入らねえな。」
「お前の彼女のことで、話がしたいんだ。お前が眼鏡女子って呼んでる奥田さん、あの子に話を聞いたよ。ほら、奥田さんのお兄さんはこの学校のOBで、探偵をやってることで有名だろ。それで、詳しくその探偵業について聞いたんだ。」
「だから何?」
「俺が思うに、その探偵と絡むのは危険だ。瑞浪市知的障がい者連続殺人事件。あの有名な事件に絡んでるし、依頼者にそれの捜査の協力を代金代わりにやらせているそうじゃないか。お前も、捜査の協力してるのか。」
「してるさ。職員室に忍び込んで書類を盗んだりしたよ。」
「お前、鈍いな。どう考えてもおかしいぜ、その探偵。
 瑞浪市で起きた昔のあの事件は、未解決だ。まだ終わっていないのかもしれない。探偵と一緒に、なんらかのトラブルに巻き込まれてもおかしくない。」
「今のところ大丈夫だ。
 たださ、僕からも一つ言いたいことがあるんだけど。」
「何だ?」
「彼女、学校には普通に通ってるらしいんだ。でも会わせてもらえなかった。家から出て、どこから学校に通ってるのか突き止めて、会いに行くしかないみたいだ。」
「そうか。お前の決意は固いのか? 探偵と一緒になって彼女の居場所を探すんだな?」
「この先何が待っていようと、僕は彼女を探偵と協力して探す。」
「わかった。その言葉、決意表明として受け止めておくよ。
 一つだけ理解しておいてほしいのは、俺は応援するが、完全にお前のことを理解したわけじゃない。お前が何か危険に巻き込まれるようなことがあれば、お前の決意がどんなに固くても、お前たちの捜査をやめさせるからな。」
「わかった。それでいい。」
「こうして普通に話したの、なんか久しぶりだな。俺は嬉しいよ。」
 僕はフッと笑った。そして彼に背を向け、手を振りながら立ち去った。

#6

 相澤はその昔何度も見合いをした。その相手たちはみな彼女の好みと合致せず、結婚には苦労した。十人以上と食事を共にしてやっと一人、良いと思える男性と出会った。その男こそ何十年と連れ添ってきた夫である。あんまり人間に完璧を求めすぎてはいけない。それは夫と出会えるまでに何度も実感したことだ。高学歴で見た目も良いが性格が合わない、などといったものではない。大雑把なことではなく、細かい物事への捉え方であったりとか、家族観だとか、そういったことである。少しでも自分と違うからといって、その人が自分と合わない人物だというわけではない。合う人物というのは、互いの考え方を認め合える者のことだ。
 ある日、相澤の家に一本の電話がかかってきた。その人物は探偵をやっていると言った。町内会の磯村さんについて調べている、と。特段不審には思わなかったので協力すると答えた。一人で探偵は家にやって来た。そして開口一番彼は言った。
 俺が調べている事件は磯村美和が失踪したという件についてだ。彼女について少しでも違和感を感じた出来事などがあれば教えて欲しい。しかしその案件は俺が知りたいことの末端に過ぎない。前原という人を俺は追っている。そっちが本丸だ。
 相澤は言った。前原は大学時代に、自分の彼氏だった。学食で何度か会ううちに恋に堕ちていた。自分は経済学部、彼は医学部だった。四年間を終えて卒業したとき、彼にはまだ二年間のカリキュラムが残っていた。生活がすれ違い、次第に疎遠になっていってしまい、そして別れた。
 前原は大学を出て脳科学者になった。人間の叡知が記録されたハードディスクは果たしてどのような仕組みで成り立っているのか。それを解明することで、人類はさらに優秀になれると考えていた。
 探偵は相澤に言った。
 前原は事件に関わっている。二〇〇一年に起こった連続殺人事件だ。あの事件の首謀者こそが前原だ。だから協力して欲しい。あなたなら前原についてよく知っているはずだ。
 相澤は承諾した。夫にも話した上で、かつて愛した男性が今何をしているのか、そして探偵が言う人類の叡知とは何なのか、それを知るために行動することにした。危険を感じつつ専ら興味本位で、この話に関わることを決めた。たまにはハラハラしてみたい。長年狭い世界で家と地域を守り続けてきたんだから。


「いらっしゃい。まあ、若いお兄ちゃんたちだこと。」
「お邪魔します。」
 今日の聞き込みは三人。朝イチで町内会長の相澤(あいざわ)雅美(まさみ)、昼前には磯村礼子の母、つまり彼女の祖母である小野(おの)智子(ともこ)、そして夕方には彼女と何らかの関わりがあるらしい女性だ。三番目の人物の正体については、探偵曰く、俺は分かってるから安心しろ、らしい。
 文化祭の準備も佳境に入り、今ごろ学校では実行委員会の面々があくせくしながら働いていることだろう。楽しい行事が待っているのと同時に第二回の定期考査も近づき、朝丘の生徒たちはみな学校や塾に入り浸るころだ。
「磯村さんとこよね。あそこは不思議な家よねえ。うちも困っとったんよ。」
 急須で茶を淹れながら彼女は話す。探偵はこの人から多くの情報を得ることは難しいと思っていたため部屋には上がり込まないつもりだったが、無理矢理入れられてしまった。
「と、いいますと。」
「公園掃除とか来ないし、会合は全部欠席だし、ゴミ捨て場の見回りは雑だし。最近の若い家庭はこんなもんなのかしら。
 しかも娘は私立の中学なんでしょ。しかもえらいええとこの。わざわざお受験なんかせんでもええのにね。普通の公立が近いんだから。あの親子、妙によそよそしいし私立なんかに通ってるし、全く、昭和の頃が懐かしいわ。みんな仲良く地元で暮らして、地域の絆ってものがあったのに。今はなくなっちゃったわねえ。
 そうだ、ご存じかしら。こないだ美容院行ったときにね、週刊誌で読んだのよ。習い事やらなんやらやらせるために、親が子供を子ども会に入れさせない家庭が増えているけど、それは良くないんだって。やっぱり子どもは遊んでるのがいいのよ。年齢に合った過ごし方ってのがあるんやね。」
「あの、今日聞きたいのはそういう話ではなくて。」
「あら、違ったの? てっきりあそこのことで何か困ってるのかと思ったわ。で、何を知りたいん?」
「あの家の娘のことです。例えば、最近様子が変だった、とか。」
「あの子、越してときにもう中学生くらいやなかったっけ。小さいうちならまだしも、そんな大きい子じゃあなあ。付き合いなんてないもんでね。
 ていうか、あんたの方が詳しいやろ。隣の家やし。」
 僕を顎でしゃくった。
「他にも当たってるんですけど、分からなかったんです。相澤さんなら何かご存じかと思いまして。」
「残念だけど、お話することはないわ。
 あらそうだ、エスエヌエスを使ってみればええんやない? 誰かがひとたび書き込みをすると、何でも分かっちゃうらしいじゃない。恐ろしいけど、これが良いんでしょ? うちの孫だって、まだ三年生なのにスマートフォンを持たされて、いつもラインをやっとるわ。まだ習ってない漢字のはずやのに、既読ってのはわかるんやね。」
「俺らは存分に活用しながら頑張ってますよ。インターネットは便利です。」
「既にやってたの。じゃあ私がいろいろ言っても無意味やない。」
 相澤さんは大声で笑った。
「しっかし、あんたらも大変ね。一人の家出少女を捜すために、こんなとこまで話を聞きに来るなんてね。ほら、何でも答えるから、知りたいことがあったらいつでも言うんやよ。」
「ありがたいです。」
「今日はもうええの。」
「はい、ありがとうございます。」
「これお菓子、あげるわ。うちの孫、ピアノを習っとって忙しくてね、なかなか顔見せてくれんから、食べる人がおらんのよ。ほら、好きなだけ持ってき。」
 やたらと文中に「ん」を入れる喋り方を聞いていたら、どっと疲れた気がした。探偵も同じだったらしく、あっという間に切り上げて相澤家を去ることにした。
「やっぱり何も分かりませんでしたね。」
「それにしてもよく喋るおばさんだったな。」
「今日の会話のうち、八割はあの人の台詞でしたよ。
 まあ、そんなことはともかく、何でこの人を訪ねようと思ったんですか。無駄足じゃないですか。」
「まあ、こういう人捜しのときは近所の人はマストで当たるからな。近くに住む住人なら、家庭内のトラブルは見つけやすい。」
「それが探偵のノウハウってやつなんでしょうね。今回は外れたけど、気を取り直していきましょう。次は彼女の祖母でしたね。」
 磯村礼子は夫と大学時代に知り合ったらしい。
 探偵による情報で知った。彼女の夫、つまり美和の父の名は(ただし)といい、彼には五つ上の加奈子(かなこ)と二つ上の奈々子(ななこ)という二人の姉がいる。女性はなぜか例外だが、三姉弟が産まれた家は代々医者として生計を立てていて、もちろん彼らは将来の活躍を期待されていた。
 礼子の母は娘を裕福な家に嫁がせたがっていたらしい。礼子自身も恋に落ちた相手が経済的に余裕のある人物だったので、母子の願いは一致した。正の両親も育ちは決して良い家ではないということは関係なく、彼女自身を気に入ったため、大層スムーズに結婚に至ったというわけだ。
「小野智子、七十八歳。四年前に未亡人になっていて、今は娘が六歳の時に買った一軒家に一人で住んでいる。渡虹橋に住んでいる者からの依頼で話を聞きたいと伝えたら、何を勘違いしているのかわからんが、自分がその素敵な観光地に出向くと言っていた。もしかしたら案内しろと言ってきたり、面倒なことになるかもしれんが、その時はお前の出番だからな。」    
 今度は接待係かと思うとうんざりする。探偵たるもの人を相手にするんだからそのくらい自分でやって欲しい、という本音は秘めておく。美和さんのためならお安いご用だから。

#7

 僕たちは家から程近い喫茶店で小野智子が来るのを待っていた。約束の時刻を五分遅れて、彼女は現れた。
「素敵なところね、ここは。一度来たいと思っていたのよ。」
「こんにちは。先日電話させて頂いた奥田と申します。本日はご協力くださりありがとうございます。」
 妙に恭しい探偵の態度に少々驚きながら、僕も丁寧にお辞儀した。
「それで早速なんですが、お話を伺っても大丈夫ですか。」
「ええ、いいわ。どんなことが知りたいのかしら。」
「あなたの娘さんのことです。礼子さんに子供が産まれたのはいつでしたか。」
「あら、そんなことでいいの。探偵さんならちょっと調べればわかりそうなのにね。美和の生年月日は、二〇〇二年九月十五日。今年十五歳になる歳よ。」
「ええ、存じ上げております。 今のは、一応確認させて頂いたのです。では、花織さんの生年月日もお願いします。あなたとは血の繋がりはないはずですが、娘さんの一族とは懇意になさっていたんですよね。」
「確かに礼子の主人の家とは良くしてもらっているわ。磯村花織、彼女は二〇〇一年十二月二十四日生まれよ。」
「つまり、花織さんは美和さんより一つ年上ということですね。では、加えてお聞きします。峯岸(みねぎし)和凛(あいり)さんを知っていますよね。いや、第二の磯村美和とでもと言った方がいいかもしれない。」
「あなた、ずいぶん若いお兄さんだけど、調査能力は優れてらっしゃるのね。」
 突然「アイリ」なる人物が登場して戸惑っている。僕の知らない人だ。探偵と小野智子がなにやら重要な話をしているらしいというのは分かるが、これでは僕はここにいたところで何も分からない。いつか話についていけなくなるのは明白だ。
「ところで、最近彼女たちはお元気ですか。いや、調べていたところね、どういうわけか、ある時を境に全く情報が途絶えてしまったんですよ。」
「その質問に答えるとしたら、元気ではないと言うのが最も正確かしら。元気か否かを尋ねてらっしゃるものね。」
「聞き方を変えましょう。彼女たちは、今生きていますか。」
「死んでいる者もいます。」
「誰ですか。」
「花織です。彼女は自殺しました。」
 磯村花織は死んだ。あの日のことはもう思い出したくない。
「確かに私が知っている話と一致しますね。ところがどうでしょう。ある人物が現在の磯村家の者の会話を聞いてしまっているんですよね。なかなか興味深い話だった。
『私を美和にしたのはあなたじゃない』現在の美和さんによる発言です。彼女の両親、つまり礼子さんと正さんに向けて放たれた言葉ですよ。」
「何が言いたいのかしら。」
「美和にしたのはあなただ、と両親に言っているのです。この言葉から想像を膨らませると、現在の美和さんは別人ではないですか。こんなことを言い出して、突然何を言い出すんだと思われても仕方ないと思います。繰り返しますが、あくまでも私の想像です。現在の美和さんは、本当は全くの別人で、何らかのきっかけで磯村美和として生きることになった。この考えはどうでしょう。否定なされますか、それとも肯定されるのでしょうか。」
「奥田さん。少しそこの僕と話をさせてもらえないかしら。時間はかからないわ。」
 小野に連れ出され、僕は川原にある砂まみれのベンチに腰掛けた。どこかにひとけのない、しかも座れる場所はないかと尋ねられ、一番に思い付いた場所がここだった。喫茶店からはそう遠くはなかった。
「あなた、いつから探偵の真似事をしているの?」
「つい最近ですし、今後も続けるつもりはありません。一時的に手伝わされているだけです。」
「奥田晴嵐について興信所に頼んで調べたわ。突然探偵を名乗る人物が自分に接触してきたら、当然疑うでしょ。それで、彼に関してだけは特に怪しいところはないっていうのが正直なところ。でもあの人の人間関係の中には、信用出来ない人物だっている。
 あなた、美和のお隣さんよね。そして昔は花織と仲が良かったわよね。」
「なぜ知ってるんですか。」
「交渉が下手ね。高校生だから仕方ないか。」
 誰に聞かせるわけでもないのだろう。小野は小さな声で言った。
「花織の授業参観に行ったときにね、あなたのような顔を見たわ。まだ小学生だったから、今とは少し違うけどね。」
「あなたは彼女について何を知っているんですか。」
「数年前、磯村家で起こったことを知っている。そんなこと言わなくても分かるでしょ。彼らの重大な隠し事を、易々と細かく教えてもらえるとでも思ったの?」
 僕の顔を覗き込むようにして小野は問いかけた。
「いいえ。」
「娘は金持ちに嫁いだ。私が子供の頃育った家は貧乏だった。世の中ね、金が一番なのよ。そして金の次に必要なものは名声。富と名声なんかくだらない、大事なのは心だっておっしゃる方は大勢いるわ。でも、そんな話はただの綺麗事にすぎないの。誰しも必ず、富は欲しい。名声も欲しい。」
「何が言いたいんですか。」
「あなたもいずれ分かる。そして必ず羨ましいと思う。
 和凛さんにはね、その素晴らしいものをプレゼントしたのよ。不憫な子だったから。それの何が悪いの? 娘たちの選択は、私は仕方なかったと思ってるわ。」
「『それ』の全貌をまだ掴めていませんので、答えかねます。
 でも今の話を聞いた限り、僕はあなたの意見に賛同出来ない。」
「将来、必ずわかる時が来るわ。今は磯村美和の失踪に関して首を突っ込まないこと。人の過去を詮索したっていいことはないわよ。誰しも人に知られたくないことだってあるでしょ。
 何もしない。それがあなたにとって最良の選択よ。」
 小野智子はすっくと立ち上がった。エナメル素材でできた、太陽の光を反射して輝くバッグを手に、僕に背中を向けた。その背中はピンと伸びていた。あと二年もしないうちに八十になる女とは思えなかった。
「私はこれから、奥田さんともう少し話をする。あなたはさっきの店に戻らないこと。もしあなたに聞かれるなら、情報を提供するという話は白紙に戻ることになるわ。あなたにだけは聞かせられない。あなたは花織のことを大層大事に思ってらしたでしょ。
 世の中ね、知ってはいけないことっていうのがあるわ。」


「お帰りなさいませ。
 おや、ところで私の助手がいないようですが、あの小僧はどうしましたか。」
「私はこれから、奥田さんに話をするの。」
「小僧には聞かれなくないお話ですか。」
「ええ、もちろん。人払いしたいくらいなのよ。なにせ私は重要なことを知っているものですから。娘たちがやったことは、解釈によれば、どうしようもなくて仕方なくやったとも言える。でも、本当にそうかしら。仕方なかったとあの子に向かって胸を張って言えるのかしら。私は必ずしも賛同しているわけじゃないから、危険を承知であなたにお教えするの。人払い、どうしますか。難しかったら筆談にするわよ。」
「どうか人払いはご勘弁を。他の客を追い出したら、我々が目立ちます。それはあなたも嬉しくないでしょう。いつどこで聞かれているとも分からない。」
「あなた、まさか誰かに追われているの。」
「冗談ですよ。深く受け止めないでください。」
 小野は手帳とボールペンを取り出した。手帳は濃い茶色の毛皮のような材質でできたカバーが取り付けられており、ボールペンの方は小さな金属製の部品が黄金色に輝き、その品物の価格を物語っていた。小野は老眼鏡をかけた。
 小野は手帳のまだ真っ白なページにさらさらと書き付けていった。数十秒ほど何かを書いて奥田に見せる、それを何度か繰り返したとき、奥田は目を見開いた。
「きっと私も辛いし、君も辛いと思う。」
 奥田にとって、まさかとは思っていた事実が明らかになった瞬間であった。
 同時に、奥田は連れてきた依頼人が、今ここにいなくて良かったと思った。あいつはまだ傷が癒えていない。あいつ自身はもう昔のことだと言っていたが、彼はその言葉を信じていなかった。彼は助手にどのように今の話の内容を伝えようか考えていた。
「残念ながら、私が知っているのはここまで。親族だからかなり詳しい方だとは思うけど、当事者じゃないから分からない部分も多いわ。」
「いえ、十分です。これで全然良いのです。本当にありがとうございます。」

#8

 僕は小野が喫茶店に戻った後もなおベンチに座っていた。暇潰しできるようなものを持っていないので、手持ち無沙汰だ。
 花織は六年生が終わってすぐ、三月のまだ肌寒い日に線路に飛び降りた。美和さんが越してきたのは、彼女が中学に上がるタイミングだったから、あの事件の一年後だ。この一年の間は、僕は磯村家について何も知らない。
「そんなこと、言わなくても分かるでしょ。」
 過去の何かを調べているという前提で、小野は話していた。僕は何も言っていないのに。過去を知りたいとは一言も言っていない。あくまでも僕たちの調査の主たる目的は、美和さんを探し出すことだ。それは事前に探偵が伝えたはずである。なぜ協力を依頼したいのか、それをまさか伝えていないとは思えない。しかし、小野は美和の失踪については首を突っ込むなと言っていた。つまり、僕たちの調査の目的が何かはわかっているにも関わらず、その本来の調査目的について知りたがってはいけないと忠告し、さらに小野は僕たちが過去をも知りたがっていると思い込んだ、ということになる。これをうまく説明できる解釈はあるのか。
 簡単なところなら、わかっているはずのことが他の大きな物事によって掻き消されたということ。人間の脳なんてせいぜいそんなものだ。コンピュータのようにはいかない。
 美和さんたち家族の密談。あれはどう繋がるのか。あの日の秘密の話し合いには何が隠されていたのか。彼女が何も言おうとしないのだから、さぞかし重大な秘密なんだろうとは容易に考えられる。あるいは事件とも呼べるだろうか。小野が知っている過去の方も、あれはどう繋がるのか。ただ、結局のところ、事件であろうがなかろうが、磯村家にとっての重大な秘密であることは確かだろう。
 僕は小学生の頃ずっと、花織と仲良しだった。
 一年生になってすぐ、クラスで何人か友達ができた。男女は、六歳の時分にはまだ関係なかった。花織は入学して一番最初の席、つまり出席番号順の席で僕の右隣だった。花織以外には、(あおい)春人(はると)理桜(りお)。僕たち五人を中心に、いつも校庭で鬼ごっこをしていた。ドロケイや氷鬼など、鬼ごっこと一口に言っても様々ある。僕たちは飽きなかった。高学年になると気安く下の名前では呼べなくなってしまったが、友希乃(ゆきの)空良(そら)奈未(なみ)の女子グループとも一緒に。園田(そのだ)望月(もちづき)もよく加わっていた。あの頃の仲間は、今では進学先もバラバラで、そうでなくとも中学では共に行動することはほぼ無かった。しかし、もう十年経った今でも、彼らのことははっきりと覚えている。
 花織は歌が好きだった。音楽の授業の時は、算数とは比べ物にならないくらい、いつも楽しそうだった。四年生で彼女に変化があってもなお、それは変わらなかった。十歳くらいの時は、いつも同じメロディーを口ずさんでいた。今となっては曲名は分からないけど、その旋律はもちろん、歌詞の一節はうっすらと記憶にある。未来へと続いてゆくパズル、そんな感じだったと思う。
 葵は縄跳びが得意で、クラスで一番に二重跳びができるようになった。
 春人は勉強はあまりにできなかったが、親が地域のバスケチームに入れたことで、彼は運動の楽しさを知っていた。小中高と、ずっとバスケ部のはずだ。
 理桜は記憶力が良く、三年生の一年間は漢字テストで百点でなかったことが一度しかない。雨が降って外に出られず、教室でトランプで遊んだ時、神経衰弱は無敵だった。
 花織が変わったのを感じたのは、四年生のいじめの時とそれに対する指導の後、その二回だけだ。事件が小学生の時にあったとすると、花織がそれをおくびにも出さないとは考えにくい。隣の家に住んでいて、毎日顔を合わせていた失踪中の美和さんでも、全く周囲に事件を感じさせないのは難しいだろう。いくらあの子とはいえ、本質はただの女子中学生にすぎない。つまり、秘密は、僕が磯村家と全く関わりのない、僕の知らない一年間にあったということになる。そしてそれは、小野が易々と教えるわけがないとしていたことだ。シチュエーションを鑑みて、あの密談は今回の美和さんの件に深く関わっている。
 美和にしたのはあなただ。最も気になる言葉と失踪について説明をつけるには、どう考えればいいのか。
 秘密の部分は全く明らかになっていない。分からない値は文字で表すという数学のやり方を用いて、とりあえず秘密は秘密のまま処理すればいいだろう。
 では、引っ越した後の磯村家が、近所付き合いを好まなかったことはどう説明する?
 簡単だ。秘密は秘密だから。近所にもばれたら困るというわけだろう。では、美和さんが本屋で立ち読みしていたことについてはどうだ。
 いや、これは分からない。なぜだ? なぜ、芸能人や服に興味がありそうもない美和さんが熱心に立ち読みなんかするんだ? 証言としては薄いが、これはもしかしたら重要かもしれない、と思った。近くにいた友達が違和感を感じたというくらいだから、きっと何かしらの不思議が込められているのだろう。どのような意味があったのだろうか。
 ただ単に気まぐれだったとしたら話は早い。興味はあったが、それを僕を含め周囲に隠していたとしたら、なぜ隠していたのかが分からない。ただし、関心があることが知られると、何かまずいことがあったということも考えられる。その場合、秘密がここにも絡んでくることになる。そもそも興味がなかったとすると、なぜ熱心に立ち読みをするのかが分からない。
 いや、分からないとも言い切れない。誰か別人のために読んでいたとも考えられる。そうだとするなら、彼女自身は全く関心がなくても熱心に読むことがあるかもしれない。では、その別人とは誰なのか。
 少なくとも花織だけは間違いなく違う。生前の花織も洋服に意識の高い方ではなかったし、故人のために本を読むというのも可能性としては薄いだろう。彼女の周囲にいる、服や芸能人に興味関心を持っている、花織以外の人物。簡単に思い付くところなら、家族、友達。家族は違うだろう。何せあの一家だ。では、友達とすると、僕には松井千里くらいしか思い浮かばない。先週の様子から考えると、あくまでも勘でしかないが、違う気がする。そうすると、いないということになってしまうのか。
 いや、いる。もう一人、当てはまる可能性のある人が。もしかしたら。
 アイリだ。
 名前からして女であることはおそらく間違いない。この女が服に意識が高く、芸能ネタにも敏感だったとしたら。僕が知らないこの女が関わっているとすると、辻褄が合うのではないか。
 アイリが服に関心の深い人物だとしよう。
 美和さんの行動全てに説明がつく。アイリのために本を読んで、秘密を隠すために近所付き合いは薄い。あの一年間に、アイリと美和の間で何かしらあったとすると、尋常でない意味合いがあってもおかしくない。美和とアイリとの間に、何かしらの秘密があるのだ。そこに関わるのが、ファッション雑誌とテレビ誌の立ち読み。秘密にアイリが絡んでいる。そうだ、二人は深く繋がっている。
 いや、待て。まだ一つだけ疑問がある。
 松井千里は、美和ちゃんは普通に登校している、と言っていた。なぜだ? 家からは姿を消したのに学校からは消えないというのはどういう意味があるのか?
 学校生活に秘密は関わっていないのか。だとすると、二人が抱える問題は家族について、ということになる。親戚付き合いの問題なのだろうか。磯村という医者の家系はそんなにも複雑なのか。学校生活と家庭生活はそんなにもスパッと切り分けられるものなのだろうか。
 疑問点が多すぎる。秘密、「美和にした」、アイリとは何者か、学校と家の不思議な分立。
 頭に何か栄養が欲しい。これだけの量を考えるにはブドウ糖が必須だ。情報に情報が重なって幾重にもなり、話が複雑化している。これらが一つに結び付くためには、やはり秘密を知らないことにはどうにもならないのだろう。
 僕たちが次にすべきことは、秘密を明らかにすること。磯村家の人々が隠した、秘密。


「そろそろ終わりましたか。」
「とっくに終わってるぞ。どこにいたんだ。」
「小野と話したあと、そのまま川原にいました。さっき考えたんです、僕たちが今するべきことは何なのか。」
「ほう。それで、何をすべきなんだ。」
「磯村家の連中はみな、さっき話に出てきたアイリと、失踪している美和の間に起きた何らかの出来事を隠しているんじゃないかと思いまして。その出来事が、彼女が消えたことにも関係しているのではないか、と。でも彼女は普通に学校には行っている。松井がそう証言していましたよね。このちぐはぐな行動はどんな意味があるのか、と考えました。しかし隠された秘密が分からないことには、点と点をうまく結べません。アイリが何者なのかすらまだ不明なんですから。」
 まばらではあるがゆったりとコーヒーを飲んでいる者や軽食をとっている者など、複数の人がいるので小声で進言した。
「お前は優秀だな。」
「今調べるべきは、過去です。」
「俺もそのつもりだ。次に会う予定だった人にも、その過去についてを重点的に聞くつもりだ。残念ながら、妹の体調がすぐれないから今日はキャンセルにしてほしい、とたった今連絡がきたがな。来週ならたぶん大丈夫だと言っている。たぶん、なんだがな。」
「次の人は、誰なんですか。」
「まだ知る必要はない。」
「なぜです? なぜ誰なのか教えてくれないんですか。」
「お前がそれを知って良いことはない。来週を楽しみにしとけ。」
 探偵からの回答を聞くより先にスマホが鳴った。鬼先輩から電話がかかってきたのである。僕は探偵の言葉を聞き逃してしまった。
「すいません、部活の先輩からです。出ます。」
 先輩からは、単なる業務連絡に過ぎなかったので、会話はものの数十秒で終わった。探偵との会話に戻ると、彼はなにやらにやにやしている。
「相手、女?」
「そうですけど、何か。」
「パソコン部なのに、部長が女なんだ、へえ、いいな。その部長、結構いい子だったりしないのか。」
「まさか。ただおせっかいなだけです。僕の友達は、その先輩から気に入られてるし、仲いいですけど、僕には良さは分かりません。」
「高一と高三だろ。いい年の差だ。うらやましいな。」
「そういえば、奥田さんは何期なんですか? 朝丘出身なんですよね。」
「俺のことなんか、別に知らなくてもいいだろ。」
 探偵の答えは、僕には不満だ。探偵はよほど何かを僕に隠したいのだろうか。それは小野が僕に隠したことと、同じ性質だろうか。そう考えた僕は、自分が探偵らしくなったというべきなのか、疑り深くなったことを自覚した。
 探偵は何を考えているのか。分からないがそれを調べる手立てはない。美和さんの件について、ここはこの人の言うとおりにしておこう、と思った。
 どうせ、探偵と小野の二人だけの密談で僕にも明かせない新事実が浮かんだ、というところだろう。それを今問い詰めたところで、仕方がない。
「お前、このあいだ順位表の撮影を頼んだ時、なかなかいい仕事してくれたよな。それは感謝しているんだ。だから、実はもう一つ頼みたいことがあるんだ。」
「二つ目の仕事も代金の代わりですか? それなら全然大丈夫ですよ。」
 探偵は別の話題を振った。この人のわりには、丁寧な切り出し方だと思った。
 てっきりこのシステムでは一つ何かすればいいと思っていたので、少々驚いたが、これでまた金は安く済むのかもしれない。正直言って、それは助かる。
前原(まえはら)(つかさ)という子が朝丘にいるだろ。テストの成績が一位だった子。」
「ああ、それなら部活の友達ですよ。さっき言った、先輩と仲がいい奴です。彼がどうかしましたか。」
「既往歴は分かるか。友達なら、何か聞いていたりしないか。」
「何の病気かは知りませんけど、中学の頃に頭の手術をしたらしいですよ。以前言っていました。」
「中学の頃? 頭?」
「ええ。中一の春休みから中二の一学期を全部棒に振ったそうです。まだ右耳の後ろあたりに傷があるって言ってました。実際に見たわけではないですけどね。」
「ここは俺が払う。お前はさっさと帰れ。」
「えっ、急ですね。ちょっと待っ……
 あれ、奥田さん? どうしましたか。ちょっと、あの、大丈夫ですか?」
 伝票を持って立ち上がる探偵は俯いていた。僕の横を通って会計をしに行こうとする彼を、僕は見上げていた。彼の瞳は湿っていた。眉は下がり、口をキュッと結んでいる。
 彼は、今にも泣き出しそうに見えた。
 探偵は何も答えなかった。僕は、もう何も発言できなかった。
 しかし、その夜、ラインでたった一言送られてきた。(今日のことは、晴留には言うな)とのことだ。わざわざ理由は訊かず、了解しました、とだけ返信した。

#9

 一日あいて月曜日になり、いつも通り学校に来た。最近は全く遅刻していない。僕が席に着くとまもなく、隣の眼鏡女子もやってきた。
「おはよう。おとといもうちのお(にい)と会ったんでしょ。どうだったの。」
「まあ、進展はある。まだ分からないことだらけだけど、近づいている感触はしている。」
「そっか。そこそこうまくいってるんだね。」
「近いうちに片が着くんじゃないかな。」
「実はお兄ね、ああ見えて苦労人だから。依頼を完遂できるとすごい喜ぶよ。昔が甦るのかも。無事解決できるといいね。」
「あの人、苦労人なのか。」
「そうだよ。自分からやり始めたことだもん、レールに乗っていくだけの人生とは違ってトントン拍子にはいかないよ。」
 あの横暴な人の昔の苦労か。少し気になる。
「探偵事業なんて、自分一人でいきなりできるようになるもんでもないだろうからな。」
「そうそう。元はね、高校出たあとに変な事務所で働いてたんだよ。たった四人だけでね、まず所長さんはものすごい防犯に凝ってて、だいぶ変わった人。あとは育ちだけはとってもよくて、でも推理は人に丸投げしてばっかりな紳士と、顔はかわいいのに目は怖い元検事と、刑事事件しか請けない弁護士さん。どうやったらこんなクセの強い人ばっかり集まるんだろって感じ。」
「変人と紳士、あとは元検事、弁護士? よくそんなところでやってこれたな。キャラが渋滞している。」
「そうそう。そういうところでヤメ検の使い走りとか弁護士のアシストとかやってると、嫌でも能力は身に付くみたいね。なんか分かんないけど、依頼は全部解決してたらしいし、実績あったんだよ、その事務所。お兄がバイトしてた頃から既にある程度の知名度はあったみたい。独自にお兄が今も調査してる連続殺人事件を調べたりもしてるのよ。お兄とまだ繋がりはあるから、うまいこと協力してさ。」
「だからあんな変な奴になったのか。」
「なんか言った?」
「い、いや、何も。」
「まあ、お兄はそういう経歴だからさ、非常識なことするときもあると思うけど、あの人はあの人の信念があるのよ。依頼者の心理を細かく想像してね、どの調査結果をどう伝えたらいいかをいつも考えてる。あと、できるだけ依頼者自身が自分の頭で解決できるように事を運ぶことにしてるんだってさ。自分と依頼者の前で上手にしゃべってくれる証言者を五人見繕って、依頼者自身が頭を使って考えて理解できるようにって。自分の仕事はその手助けをすることなんだってさ。まあ、なんでそこまで依頼人が自分で謎解きするってとこにこだわるのかは分かんないけど、よく手伝ってるから、間近で見てると本当にすごいよ。私が言うとブラコンみたいになっちゃうけど、仕事がとにかく早いの。自分は依頼者に伝えるよりかなり前から全体像を理解しておかないと、うまく話を持っていけないじゃない。」
 信念。探偵のやり方。
「お兄もよくこんな大変なことやるよね。料金をできるだけ安くおさえるためにバイト掛け持ちしてさ。私はちゃんと教えてもらってないけど、お兄はお兄で何か考えがあるんだね。困ってる人の役に立ちたい、とかなのかな。究極の探偵を目指すとは言ってた。変わってるよね。」
 依頼者の心理、究極の探偵、依頼者の心理。僕の場合もそれに当てはまっているのだろうか。
 証言者を見繕ろう? 依頼人が自身で謎を解明する? 事前に全体像を理解している? 奥田探偵の本質、いやあの変人の信念がそれなのか? 妹が言うのだから確かであろう。次回で五人目だ。つまり。
 来週に全てが終わるということか。
 きっと。全て終わる。彼女は見つかる。
 長々と兄の自慢をした眼鏡女子は、いよいよ二週間後に迫った学校祭の実行委員が教壇に立って連絡事項を話し始めると、前を向いて黙った。一年で一番大きな行事を前に、朝丘高校全体が浮かれていた。


 我が校の学校祭は毎年、丸々一週間、言い換えれば平日の五日間と土曜日の合わせて六日間かけて行われる。そのうち「文化祭」は五日目と六日目の二日間だ。六日目に関しては、文化祭終了後の夕方から夜にかけて後夜祭が開催される。有志のファイヤートーチや実行委員会の担当者が打ち上げる花火は感動的で、それを校舎の屋上で共に見た男女の多くはカップルになるという。
 文化祭だけは一般公開される。主には県内各地の中学三年生だが、生徒の友達や親なども多く訪れる。学校祭後わずか一週間で定期試験が待ち構えているが、そんなことはお構い無しだ。どの教室もソワソワとした雰囲気が漂っており、朝七時に門が開けられると同時に登校する家が近い幸運な生徒たちは、熱心にホームルームごとの出し物の準備をする。それは右隣の席のあいつも例外でなかった。我が一年五組の出し物は、体験型の謎解きだ。
 しかし、僕はまだお遊び気分に浸っている場合ではない。いよいよ本日、五人目の証言者に会うのだ。昨日まで五日間みっちり授業と文化祭準備に取り組み、土曜日はその疲れを癒したいが、そんなことをしている場合ではない。今度の月曜日が敬老の日であるおかげで助かった。ゆっくりと、久しぶりにゆっくりと、できるかもしれない。
 探偵から指定された待ち合わせ場所は遠かった。岐阜県瑞浪市のJR瑞浪駅を出てすぐのところにある特大看板の下だ。彼が言うには、その看板は電車を降りずとも百パーセント分かるくらい目立つとのことだった。瑞浪自体はさほど辺鄙な場所ではない。名古屋や大曽根、あるいは金山や千種など、いくつかある地下鉄と接続している駅で中央線に乗ったあとは、快速だと一本で行ける。とはいえ中央線の乗車時間は長いし、乗り換え駅までの所要時間も決して短いとは言えない。始めに指定された集合時刻は早朝だったので、僕もさすがに文句を言った。あまりに早いと前泊しなければならなくなる。僕の財力では宿代を工面できない。結局、昼ご飯まで食べてからにしようということで、待ち合わせは午後二時に変更された。
 指定の場所には十分ほど前に着いた。探偵もほぼ同時刻に到着し、今からある店に向かうらしい。
「今から会うのは、お前の知ってる磯村正の上の姉。場所はサンライズというカラオケバーだ。真っ昼間は営業時間外だから、貸し切りだぞ。磯村加奈子の学生の頃からの知り合いが経営してるらしい。」
「周りを気にしなくて済みますね。」
「お前、緊張してるか。」
「大丈夫です。」
「もうすぐ近くまで来てるから、心の準備をしておけ。」
 眼鏡女子が言っていた通りなら今日全てが分かるはずだ。緊張しないはずがない。
 加奈子さんということは、かつての僕は時々会っていた。花織が死んで、葬儀が行われた日以来のはずだから、四年半ぶりということになる。親族席で真っ黒な服を身にまとい、娘の死を心から悲しんでいた母親。兄、姉、祖父母、母方の叔母、その娘。揃った親戚の大人たちは忙しそうに動き回っていたが、それとは対照的に参列者は子供ばかりで、みな作法はぎこちなかった。
 店は地下にあった。地上に繋がる至って地味な階段を降りると小さい扉があり、そこを開けるとワインレッドを基調とした大人っぽい、しかし鮮やかな装飾が施されていた。

 一歩入ると、向かって左側にカウンターがあり、一列に七つの椅子が並べられている。右側は四人掛けのテーブル三つが壁に沿って均等な間隔で並んでいた。背はやや高く、体重もやや重そうな女性がカウンター席の真ん中の椅子に腰掛け、プラスチックのコップでドリンクを飲んでいた。中身が何かはわからなかった。
 今回ばかりは、探偵ではなく主に僕が彼女と話す。
「お久しぶりです。」
「こんにちは。見ないうちに大きくなったね。今はどう? 学校楽しい?」
「ええ、楽しいです。」
「いろいろ昔話もしたいところだけど、今日はこのあとも仕事があるから。こんな遠くまで来てもらっておいて、ごめんね。」
「いえいえ、全然。」
「美和ちゃんがいなくなったんだって? にしても、あんたやるじゃん。色気付いちゃって。流星(りゅうせい)もさっさと彼女の一人くらい連れてこいってね。」
 流星というのはおばさんにとっての最初の子供で、花織にとっては五歳上の兄だ。その兄の二歳下に瑞穂(みずほ)というお姉さんがいる。春人たちと一緒に花織の家に行くと、二人ともよく一緒に遊んでくれた。久しぶりに聞いた名前に、懐かしさが込み上げてきた。ただ、ここで一つ訂正しておくと、美和さんは彼女ではない。
「美和ちゃんがどういう子なのか知ってるの?」
「なんとなく想像してるくらいで、きちんとは全然分かってなくて。昔アイリさんという人と何かあったのかな、と。」
「そうか。じゃあ事の根本は全然知らないわけか。和凛が誰かってのも含めて。」
 加奈子さんは僕に確認した。
「知ってのとおり美和は正の娘ね。花織はうちの子。それで和凛は奈々子の子供。つまり、和凛と美和と花織の三人は従姉妹ということ。うちは三人子供がいるけど、正のとこと奈々子のところは一人っ子ね。学年は、花織と和凛が同じで美和はその一歳下。花織は明るい子だったし、和凛ちゃんもよく笑う子だった。二人ともかわいいお洋服を着て一緒にケラケラ笑ってた。正の家は家系のこともあって厳しかったから、美和ちゃんはすごく大人しい子だった。二人のことをいつも近くでにこにこしながら見てた。」
 空中に家系図を書きながらおばさんは説明した。アイリというのがどういう字なのかも、今初めて知った。
「奈々子は結婚して名字が峯岸(みねぎし)になったから、和凛(あいり)のフルネームは峯岸和凛ね。私は離婚しちゃったから磯村に戻ったけど、花織が一歳になる前は、私は西浦(にしうら)だったの。まあ、十五年くらいも前の話だから、そんなことはなんだっていいのよ。
 ただ、和凛ちゃんが小学校三年生の時だね。奈々子が病気しちゃったのよ。治療を頑張ってたんだけど、医者は近いうちにお呼ばれすると言ってた。今は多治見(たじみ)市にある終末期医療の病院にいる。多治見は来るとき通ったでしょ。奈々子が今の病院に入院してから私たちも瑞浪に越してきたけど、その前は親戚一同みんな名古屋だったの。この岐阜県は緑がきれいでしょ。」
 今日は名古屋駅で普通列車の多治見行きに乗り、一旦降りたそのホームで中津川(なかつがわ)行きに乗ってここまで来た。多治見駅では線路が何本も並び、そして山々と相まって、地上を風を切りながら走る電車が美しいと思った。多治見も瑞浪も、どれも山間の街だ。中津川市は長野県に隣接する。
「お父さんは忙しい仕事をしてたからあの子は家に一人でいることが多くなった。奈々子たちはそれを心配して、まだ三年生だった和凛ちゃんをよくうちに預けるようになった。流星や瑞穂がいるから、私が仕事中でも多少は安心でしょ。そしたら、二人はいつも一緒に遊んでてずるい、私も一緒に遊びたいって言って、美和ちゃんも来るようになった。」
 さっき飲んでいたドリンクを少し口に含み、さらに続けた。
「花織たちが三年生の頃なんて、一番三人が一緒にいたんじゃなかな。奈々子の家は少し離れたところにあったから二人は学区が違って、うちに和凛ちゃんが泊まった日は必ずお父さんが朝迎えに来てね、うちから学校行ってたんだよ。美和ちゃんの方は小さい女の子が一人で移動するには心配だけど、さほど遠くもなかったから、一人で自転車に乗って来てた。花織は学校で何も言ってなかったの?」
「花織の家によく集まってたのは確かに三年生の夏休みくらいまででした。それよりあとは従姉妹が遊びに来るからといって、花織一人が走って帰る日もありました。何も僕は知らなかった。」
「和凛ちゃん、周りが気を遣うからって、なるべく周囲に奈々子のこと言わないようにしてたって、あの頃のお友達が言ってたわ。花織もそれを知ってて、守ってたのかもしれないね。」
「でも、花織はいじめなんて。」
「あの子にはあの子の正義があったの。原因は、君は知らないんじゃない?」
 僕は首を縦に振った。
「四年生ていうと、そろそろ一部の女の子たちはドロドロしたことやり出すでしょ。あの子がうざい、あの子はその子が嫌い、とか影で言うじゃない。それに、十歳くらいの子って家族と出掛けるのが恥ずかしいことだと思ったりもする。そんな時に従姉妹たちといつも一緒にいたら、そりゃあ花織の立場が悪くなるわよ。
 磯村さんはいつも従姉妹と一緒にいて、友達のことはどうでもいいの?って面と向かって言われたりしたの。それでちょっと言い返したりするとすぐ先生に言われて、やれ喧嘩だ、やれ揉め事だって。いじめなんか、花織はしてない。
 でもね、私は正しいことを堂々としなさいってずっと子供たちに言ってきた。確かに花織はそれに従ってた。私は何も悪いことしてないってはっきり言ってたって、当時の担任の先生が私に報告してきた。馬場(ばば)先生だよ。知ってるでしょ。
 確かに花織も良くないことはしてた。ああだこうだ言う子に仕返ししようとして、掃除の時間に面倒な係を押し付けたり、給食当番でわざとその子たちの分を少なくしたり。嫌な奴に仕返ししたいのはもちろん感情としてあるよね。でも、行動に移しちゃったのがいけなかった。馬場先生がそれを知ったらどう思うって、もちろんあの人の耳に入る話からすれば花織が一番問題児のように聞こえるわよね。相手の子たちの側から見るのと花織の立場から見るのでは全然違うじゃない。
 だいたい君も想像出来てたんじゃない、こういうことは。」
「もちろん、ずいぶん変わったんだなとは思いました。クラスが違ったから、ちゃんと見たことはなかったし、放課後に遊ぶことも少なくなったし。ほら、理桜なんかは中学受験したし。」
「ああ、理桜ちゃんね。今も元気にしてるの?」
「最近は全然話してないですね。でもラインのアイコンが友達と撮ったプリクラだから、エンジョイしてるんじゃないかな。」
「そうか。それならよかった。花織も生きてたら、理桜ちゃんみたいに学校帰りに遊んで帰ってきたりしたのかな。美和ちゃんももしかしたら、花織と一緒にゲーセン行ったりしたかもしれないね。三人仲良かったのに、今はたった一人になっちゃったね。あの子にも申し訳ない。」
 きっと、花織なら楽しい高校生活ができました。そう言いたかったが、言葉にならなかった。
「私のせいなの。私が親なのに気付いてあげられなかったから。
 自分の正義をもって、堂々としてなさいって言ってたから。花織にとっては、悪い奴には仕返しするってのが正義だったのかな。私の教育が悪かったから。母親失格だ。私のせいであの子たちを酷い目に合わせた。こんな奴が親なんて、かわいそうだった。」
「そんなことない。」
「ごめんね。あの時のことを思い出したら悲観的になっちゃう。もう五年近く経つのにね。」
「そんな、人間なんだから。そんなに簡単に、忘れられない。」
「あなたも飲む? これ、ただの水だけど。」
「いただこうかな。」
「注いでくるわね。」
 気持ちを切り替えたかったのか、おばさんはさっと席を外した。すると「こんにちは」と透き通った声がして、かなり若い女が店に入ってきた。黒いセーラー服でクリーム色のリボンを付けている。二本の黒い線が入った襟とスカートはグレー。すらりと伸びた細い脚とまっすぐな黒髪、そして豊富な胸が彼女を年齢にそぐわないほど艶っぽくしていた。
「え、あ、あの、まだオープンしてないんですけど。」
「ええと、磯村さんと、少しお話を」
「ああ、あれって今日でしたか。ごめんなさいね。ごゆっくりどうぞ」
 妖艶な高校生が奥へ入っていくと、お帰りなさい、と挨拶をしながら、入れ替わりにおばさんが出てきた。手には水だけでなく、小さな紙切れとCDを持っていた。
「これ、奈々子がいる病院。和凛もそこにいるから、もしよければ行ってみて。今日はもう無理かもしれないけど、会ってみれば必ず何かの足しになるから。美和ちゃんと和凛ちゃんの間で、過去に何かあったんじゃないかって思ってるんでしょう。だったら一度和凛ちゃん側の話も聞いておいで。美和ちゃんの話だったらたぶんいつでも聞けるよ。せっかくここまで来たんだからさ、ついでに行ってきな。
 それと、これ。あなたにあげる。」
 差し出されたものは、たった今おばさんが奥から持ってきたCDだった。
「あの、花織のこと、できるだけ忘れてくれない? ずっと抱え続けるとつらいでしょう。あんまりずっと引きずってると、なんだかかわいそうに思えちゃって。花織とずっと仲良くしてくれてたこと、本当に嬉しく思ってる。まだ若いんだし、きっと未来には素晴らしい人と出会えるよ。これを機に、あの子のことは忘れてやって。」
「そんなことしたら、」
「花織が不憫だよね。そんなことはないとは言えないし、言いたくない。だからそのCD、持っててあげてよ。花織が好きな映画とか曲とか勧めたら、美和ちゃんがこの曲をすごく気に入ってね。三人でよく歌ってたから、花織はきっと嬉しいよ。」
 僕は無言で受け取った。ありがとうございますとすら言えなかった。そのCDのジャケットは、豪華な部屋で五人が横に並んで立っている写真だ。
「花織ね、和凛ちゃんがうちによく来るようになったくらいの頃だったかな。曙ファンになったのよ。それだって曙の曲。なんか、テレビでちょくちょく見るうちに、好きになっちゃったんだって。でもそんなこと恥ずかしくて誰にも言えないって、笑ってたな。」
 曙、確かに男の僕が見ても素敵だと思った。
「花織が二人にすごい勧めてたんだって。瑞穂がいつも見てたの。ちょうどあの子が四年生のときかな、曙の子がやってたドラマがヒットしたんだよ。」
「お前、曙のこと俺が教えておかなかったら分からねえままだったよな。」
 探偵が突然口を挟んだ。
「いや、それは言わないでくださいよ。調べてからびっくりしたんですもん、そんなに有名なグループだったのかって。」
「やっぱり。曙知らなかったんだね。予想通りだわ。」
 一同は笑った。
 しかし、僕は気付いていた。加奈子さんも僕も、目は笑えていなかったことに。


 駅に戻り、電車を待っていた。もう日は西に傾き、空はオレンジ色だ。
 最後に加奈子さんは言った。美和ちゃんは家を出る時に、君にだけは言えないって言ったみたいだけど、やっぱり自分で何もかも伝えたいって。美和ちゃん本人がそうやってうちに連絡してきたよ。もしかしたら、ある高校生の男の子があれこれ聞きにやって来るかもしれないけど、なるべく全部話すことはしないでって。だから、そのためにも一度和凛ちゃんに会っておいで。美和ちゃんのメアドは私から教えておくけど、出来るなら和凛ちゃんに会ってからの方がいいと思うから。さっき渡したメモに書いてある病院、行っておいで。ごめんね。あっちに行ったりこっちに行ったり大変だよね。
 でも、どうか君があの子のそばにいてあげて。たった一人で苦しいと思うから。
「音楽配信サービス、利用してますか。」
「ああ、スポティファイなら使ってる。」
「ちょっとスマホとイヤホン借りてもいいですか。これ、どんな曲なのか気になって」
 さっき受け取った和凛さんのお気に入りの曲のCDを掲げた。
「ああ、いいよ。」
 何の抵抗もなく、探偵は貸してくれた。仕事のデータとかは大丈夫なんだろうか、と少し思ったけど、どのみちそれは僕に関することだろう。きっと探偵はスマホを僕に見られても困らない。
 アプリを開いてみると、あなたへのおすすめとして、たくさんの洋楽やクラシックが出てきた。ロックミュージックやヘビメタが似合いそうな探偵には、意外だった。
 検索フォームに曲名を入力すると、一番初めにその曲は出てきた。耳にイヤホンを装着し、音量を調節。これでオーケーだ。再生ボタンを押す。
 チチチチチ、とアナログ時計が動く音で始まった。裏拍が多用されている。具体的に何調かは分からないがシャープの多い長調で、リズムも比較的早い。
 メンバーが歌い始める恋。「きみ」のことが大好きな男目線だ。まっすぐな愛情を「きみ」に抱いている。
 両耳に意識を集中させた。
 ある時決断を下し、共に未来への扉を開く。もうすでに、主人公の男の心は決まっていた。フォルテになり、曲は盛り上がっていく。サビだ。
 僕はハッとした。
 この曲は。
 昔、聞いた曲だ。ただし、曙の声で聞いたわけではない。
 花織だ。
 花織が口ずさんでいた曲。それこそがこの曲だ。未来に続くパズル。そうか、そうだった。
 花織が曙を好きだったことは、僕にも気付けたはずだった。
 あ、えっと、ということは? 美和さんは、まさか。加奈子さんの言葉一つ一つが全てを物語っていた。
 もしかして、全部、本来起こらない、いや、起こってはならない形で。
 繋がった?
「あの、僕もう一回サンライズに戻ります。先に多治見の病院行っててください。」
「ああ、そうか。気を付けろよ。」
 駅員に事情を説明して改札をくぐらずに駅を出ると、全力疾走で元来た道を引き返す。友達と遊んで家に帰る途中であろう小学生たちとすれ違った。子供たちはみな平凡だった。
 歩いて十分の距離は、走ると大したものではなかった。何度か道を折れてもなお、ごく普通の建物が並んでいるだけだ。
 勢いよく扉を開けた。
「すみません。おばさん、あともう一つだけ、」
「あら、さっきの。なんかあったの。」
「聞き忘れたことがあって。磯村さんは?」
 カウンターにいたのは、あの美しい女子高生だ。
「加奈子さん、さっきの子また来てるわよ。」
 店の奥に向かって呼び掛けた。返事の声も聞こえる。
「はいはい、今すぐ。」
「おばさん、はっきり教えてください。僕はずっと見逃していたんだ。やっと気付きました。
 曙を好きだったのは花織ですよね。でもその花織は中学に上がる直前に死んだ。とすると、残されたのは美和と和凛さんの二人のはずだ。なぜ美和は『たった一人』なんですか。他にも消えた子がいるっていうことですよね。あの子が線路に飛び降りた時にそばに一人子供がいたこと。以前、美和が曙のメンバーが載ったテレビ雑誌を立ち読みしているところを見た人がいること。失踪中のはずなのに、美和は学校には通っていること。美和の家は近所付き合いが薄いこと。僕が見てきた中学生の美和の人柄と、あなたが言っている美和の人物像が少し違うこと。僕の知っている美和はいつも笑っているんだ。
 もし仮に、死んだのは二人なんだとだとしたら、話が全て綺麗に繋がる。
 おばさんが言う美和ちゃんは、もういないんじゃないですか。」

雨が降れば街は輝く②

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雨が降れば街は輝く②

大切な人が失踪し、親しい高校1年の晶は、彼女を捜すことを決意した。

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-03-14

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 第2章 #1
  2. #2
  3. #3
  4. #4
  5. #5
  6. #6
  7. #7
  8. #8
  9. #9